横地 石太郎(よこち / よこじ いしたろう、1860年1月… 横地 石太郎(よこち / よこじ いしたろう、1860年1月28日(万延元年1月6日) - 1944年(昭和19年)5月27日)は、日本の教育者、考古学研究家。山口高等商業学校名誉教授。族籍は石川県士族。 夏目漱石の小説『坊つちやん』に登場する「赤シャツ」のモデルとされることがあるが、異論もある(後述)。 加賀国石川郡金沢(現・石川県金沢市)の与力町にて加賀藩士横地大十郎の長男として生まれる。金沢小学校を経て1874年(明治7年)より金沢英学校、1875年(明治8年)9月より東京の旧藩主前田邸学問所にて学ぶ。1876年(明治9年)9月に東京英語学校に入学し、大学予備門を経て、1881年(明治14年)に東京大学理学部入学。
沢野 忠基(さわの ただもと、1860年1月(安政7年1月)… 沢野 忠基(さわの ただもと、1860年1月(安政7年1月) - 1884年(明治17年)3月20日)は、理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 外国語学校でフランス語を学んだ後、1880年(明治13年)東京大学理学部仏語物理学科を卒業。1881年(明治14年)、東京大学物理学科の同窓生たちとともに東京物理学講習所の創立者の一人となる。東京物理学校開校の翌1884年(明治17年)3月20日に死去。
斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月2… 斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月28日(安政6年12月5日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、日本の植物学者である。 信濃松代藩士の斎田虎尾の長男として生まれる。10代前の斎田仁右衛門が真田信幸に仕えてからの家柄であった。儒学者竹内錫鳴や藩校の文武学校で漢籍や和算を学ぶ。その傍らで家計のために樵夫と共に田野の耕しに携わり、木版彫刻も習得した。明治維新後の1874年(明治7年)に上京し、訓蒙学舎で学んだ後に同人社に入る。その後は東京大学予備門の前身である官立東京英語学校に入学し、1881年(明治14年)に卒業した後に旧制東京大学(後の東京帝国大学)地質学科に入学した。
李家 裕二(りのいえ ゆうじ、1859年10月20日(安政6… 李家 裕二(りのいえ ゆうじ、1859年10月20日(安政6年9月25日)- 1901年(明治34年)4月29日)は、日本の内務官僚。三重県知事(官選第7代)、徳島県知事(官選第15代)、内務省神社局長(初代)。旧名・左馬之助。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で、長州藩士の家に生まれる。 東京英語学校、東京大学予備門を経て、1884年7月、東京大学文学部政治学及理財学科を卒業した。 1884年7月17日、内務省に入省し同省御用掛に就任。1886年3月、内務属となり、県治局郡区課勤務となる。1887年11月、内務書記官に昇格。長野県書記官を経て、1898年7月、三重県知事に就任。1899年2月、徳島県知事に転任。
和田 雄治(わだ ゆうじ、1859年9月29日(安政6年9月… 和田 雄治(わだ ゆうじ、1859年9月29日(安政6年9月4日) - 1918年(大正7年)1月5日)は日本の気象学者、海洋学者。東京大学理科大学物理学科を卒業し中央気象台の前身である内務省地理局測量課気象掛に勤め、気象事業の統轄と気象の調査研究に一生をささげた。暴風警報や天気予報の創始者である。主な業績は1880年の富士山頂での気象観測、日本近海の海流調査、及び研究。また東京物理学講習所(現東京理科大学)の設立者の一人でもある。 1893年農商務省水産調査所の水産調査委員会会員として海流瓶による日本近海の海流調査を提唱し、1893,94,95年に海流瓶を放って親潮、黒潮の状況を調査した。科学的に日本近海の海流が調査されたのは初めての事だった。
木場 貞長(こば さだたけ、1859年9月28日(安政6年9… 木場 貞長(こば さだたけ、1859年9月28日(安政6年9月3日) - 1944年(昭和19年)6月3日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚、法学者。正三位勲一等、法学博士。 文部次官、行政裁判所評定官、貴族院議員を歴任した。 薩摩藩士で、判事や神職を務めた木場清生(きよなり、木場伝内)の子。 東京大学卒。文部省に入り、伊藤博文政府団の一行に留学生として抜擢され、ドイツに留学、大日本帝国憲法作成に貢献する。ドイツではハイデルベルク大学にて、心理学、法学、政治学の博士課程を修了する。帰国後は文部大臣森有礼の下で、文部参事官として、近代国家としての教育制度の確立に尽力。高等教育会議、臨時教育会議の委員も務め、教育行政、学制改革にも携わる。
河本 重次郎(こうもと じゅうじろう、安政6年8月16日(1… 河本 重次郎(こうもと じゅうじろう、安政6年8月16日(1859年9月12日) - 昭和13年(1938年)4月4日)は、日本の医学者、眼科医。帝国大学名誉教授、医学博士。日本近代眼科の父。号は光堂。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)出身。藩校稽古堂で池田草庵に学ぶ。13歳の時、和田垣謙三らと共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京。横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通う。 東京大学医学部入学。首席で卒業。卒業後は同学部外科学教室の助手を務める。 明治18年(1885年)にドイツ・ベルリン大学に留学。明治22年(1889年)東京大学医学部眼科学教室主任教授に着任。明治24年(1891年)、医学博士の学位を初めて眼科で受けた。
坪野 平太郎(つぼの へいたろう、1859年8月31日(安政… 坪野 平太郎(つぼの へいたろう、1859年8月31日(安政6年8月4日)- 1925年(大正14年)5月29日)は、日本の教育者、政治家。第2代神戸市長(在任:1901年5月27日 - 1905年3月17日)。号は南陽(なんよう)。石川県出身。 1859年(安政6年)、石川県に生まれる。1886年(明治19年)に東京帝国大学法科卒業。病気療養のために安房郡北条(現:千葉県館山市)に滞在する。北条滞在中は同地に英語学校を開校し、英語やテニスを教えた他、房州が避暑避寒、海水浴に最適であることを全国に紹介したといわれる。その後は外交官(中国副領事)、逓信省参事官、逓信大臣(後藤象二郎)秘書官、神戸郵便電信局長、日本貿易銀行支配人、兵庫県立商業学校(後の兵庫県立神戸商業高等学校)校長を経て、1901年(明治34年)に第2代神戸市長に就任した。
弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月… 弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月15日) - 1928年(昭和3年)11月27日)は、日本の医師。東京大学小児学教室の初代教授。幼少時の昭和天皇の侍医を務めた。国内で初めて小児科を作った人物であり、国産初のベビーパウダーとなるシッカロールを東京帝国大学薬学科の丹波敬三とともに作った人物でもある。また、日本で最初の小児科学の教科書『児科必携』を出版している。 1859年(安政6年)6月15日、土佐国幡多郡中村町にて、弘田親厚の長男として出生。1871年、13歳で土佐藩の貢進生に選ばれて上京。この貢進生の制度は終わったが、勉強を続け、1880年7月に東京大学医学部を卒業して医学士の学位を得、助手としてユリウス・スクリバ教授のもとで外科を修業した。
榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年7月12日(安政… 榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年7月12日(安政6年6月13日) - 1939年11月16日)は、日本の産婦人科医。 沼津藩蘭方医・榊令輔の次男。兄は榊俶、弟は榊保三郎。1883年東京大学(のち東京帝国大学)医学部別科卒業、ドイツに留学、産科婦人科を研究し、帰国後医学博士。榊産婦人科病院を設立、日本産婆看護学校を設立し校長となる。墓所は染井霊園(1イ-5-5)。妻は陸軍獣医監・桑島景連の娘みの子、息子に医師の榊邦彦、女婿・養子に榊忠三がいる。 1892年に、脚気の原因を白米中に含まれる毒素に求めた。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859… 坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に敷くものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。
青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859… 青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859年6月15日) - 大正6年(1917年)12月23日)は、日本の医学者。専門は内科学。医学博士。1906年、帝国学士院会員・勲三等瑞宝章、1916年、勲一等瑞宝章、1917年12月14日、男爵叙爵。 江戸の麻布広尾の苗木藩下屋敷で藩士・青山景通の三男として生まれ、美濃国恵那郡苗木(現在の岐阜県中津川市苗木)にて育つ。幼名は捨松、助松。 1869年、平田信胤(平田鐵胤の子)の養子となり胤道と改名するが、1871年に養父の信胤が亡くなったため青山家へ戻る。 1882年(明治15年) 東京大学医学部卒業後、東京大学医学部病理学教室助手に就任。
難波 正(なんば まさし、1859年5月14日(安政6年4月… 難波 正(なんば まさし、1859年5月14日(安政6年4月12日) - 1920年(大正9年)12月22日)は、元電気学会会長の工学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。京都の疏水を利用した発電法の考案のほか、蓄電池の研究・開発を行った。 長男の難波幸一は九州帝国大学電気工学科卒、同大学名誉教授、次男の難波勝二は京都帝国大学法学部卒業後、横浜正金銀行を経て東洋大学名誉教授、五男の難波捷吾は国際電気通信技師、次女・春江の夫は住友原子力工業取締役・高州紀雄、三女・環の夫は京福電気鉄道専務・石川敬介(同社会長石川芳次郎長男)。
中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6… 中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6年3月21日)- 1921年(大正10年)11月12日)は、明治から大正期の博物学者、政治家。衆議院議員、九州博物学会終身会長。青年期に一時、板倉久知を名乗る。熊本県近世博物学の開拓者。 岡藩主・中川久昭の二男として生まれる。藩校・由学館で漢籍を学んだ。1871年(明治4年)上京し、丹羽家塾、逢坂学舎、東京英語学校、開成学校で学んだ。1877年(明治10年)東京大学理学部に入学。同年10月13日、旧安中藩主板倉家当主・板倉種子(板倉勝殷四女)の入夫となり家督を相続したため東大を中退。しかし、1880年(明治13年)1月17日に隠居し、同月19日に離縁となり中川家に復籍した。
松本 源太郎(まつもと げんたろう、安政6年3月11日(18… 松本 源太郎(まつもと げんたろう、安政6年3月11日(1859年4月13日) - 大正14年(1925年)10月29日)は、日本の教育者。宮中顧問官。
浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年… 浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年3月8日) - 1940年(昭和15年)9月23日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、通信技術者。 備中国都宇郡茶屋町(現・岡山県倉敷市)に生まれる。浅口郡船穂村の医師浅野意俊の三男。 1881年(明治14年)工部大学校電気工学科(現:東京大学)を卒業し、同年工部大学校教官となる。同校助教授、東京電信学校長兼幹事、逓信省電務局電気試験所(現:電子技術総合研究所)初代所長、逓信技師、電気試験所所長を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)教授となる。その後、早稲田大学教授、早稲田大学工科長を経て1920年(大正9年)早稲田大学理工学部学部長となる。
土方 寧(ひじかた やすし、安政6年2月12日(1859年3… 土方 寧(ひじかた やすし、安政6年2月12日(1859年3月16日)– 昭和14年(1939年)5月18日)は、貴族院勅選議員、法学者。専門は民法学。帝国学士院会員。弟子に石坂音四郎、末延三次など。 土佐国高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に、土佐藩士土方直行の子として生まれる。1873年(明治6年)より、東京英語学校、開成学校、大学予備門で学んだ。1878年(明治11年)、東京大学法学部に入り、1882年(明治15年)に卒業した。 卒業後、文部省御用掛となり、翌年に東京大学法学部(のち東京帝国大学法科大学)助教授に任命された。また英吉利法律学校の創設発起人に名を連ね、講師も務めた。1887年(明治20年)よりイギリスのミドル・テンプルに留学した。
野村 龍太郎(のむら りゅうたろう、1859年2月27日(安… 野村 龍太郎(のむら りゅうたろう、1859年2月27日(安政6年1月25日) - 1943年(昭和18年)9月18日)は、大正・昭和期の土木技術者・鉄道官僚・実業家。 安政6年に大垣藩士野村藤陰の長男として大垣にて出生。明治5年(1872年)に上京し慶應義塾、東京外国語学校・東京英語学校・東京開成学校(これら3校はともに一高の前身)を経て、1881年(明治14年)7月、東京大学理学部土木工学科卒業。同年、東京府勤務となる。1891年(明治24年)、鉄道庁技師に転じる。1899年(明治32年)3月工学博士となる。1913年(大正2年)5月、鉄道院副総裁に就任。1914年(大正3年)4月7日、錦鶏間祗候に任じられる。
吉田 彦六郎(よしだ ひころくろう、安政6年1月23日〈18… 吉田 彦六郎(よしだ ひころくろう、安政6年1月23日〈1859年2月25日〉- 昭和4年〈1929年〉3月3日)は日本の化学者。京都帝国大学理工科大学教授。 安政6年(1859年)、福山藩の家老吉田豊辰の四男として現在の広島県福山市西町に生まれる。 明治4年(1871年)、大学南校に入学し、明治10年(1877年)に東京帝国大学理学部化学科でロバート・ウィリアム・アトキンソンに師事、メントールの研究を行う。 明治11年(1878年)、日本化学会の前身となる化学会の初代会員となった。明治13年(1880年)卒業して農商務省に入り漆の研究を始める。生漆の成分を分画して主成分を漆酸と名付けた。さらに他のたんぱく質成分が含まれていることを突き止め、漆の硬化作用は漆酸が酵素の作用によって空気中の酸素と化合することによるとした。
加藤 恒忠(かとう つねただ、安政6年1月22日(1859年… 加藤 恒忠(かとう つねただ、安政6年1月22日(1859年2月24日) - 大正12年(1923年)3月26日)は、日本の外交官、政治家。旧姓は大原。号は拓川。衆議院議員、貴族院勅選議員、松山市長、錦鶏間祗候。三男忠三郎は阪急電鉄の車掌、阪急百貨店の職員で、俳人正岡子規の妹リツの養子となり正岡家の祭祀を嗣いだ。 伊予国(現・愛媛県松山市)に伊予松山藩の儒者大原観山の三男として生まれる。父の死後、上京し、1876年(明治9年)給費の官吏養成所である司法省法学校(現在の東京大学法学部)に入学、フランス語とフランス法を学んだ。1879年1月廃絶していた縁戚の加藤家を興し加藤家戸主になった。同年2月校長の方針に反対し退学、中江兆民の塾に入る。
中原 貞三郎(なかはら ていざぶろう、1859年2月16日(… 中原 貞三郎(なかはら ていざぶろう、1859年2月16日(安政6年1月14日) - 1927年(昭和2年)12月4日)は、明治から大正時代の土木技術者、農商務技師、内務技師、統監府技師。 中原宗作の三男として周防国玖珂郡岩国領(現・山口県岩国市)にて生まれ、1891年(明治24年)7月、家督を継ぐ。1882年(明治15年)7月、旧東京大学理学部卒業。翌月、陸軍省御用掛となり参謀本部測量課に配属される。陸軍技師・陸軍部測量班長心得を経て、1886年(明治19年)陸軍5等技師に進み、1888年(明治21年)より帝国大学工科大学講師を兼任し、戦前の陸測地図の基礎を固めた。 1891年(明治24年)熊本県4等技師を経て、土木監督署技師となり、1898年(明治31年)1月、内務省第7区(熊本、4月より福岡に移転)土木監督署長を発令される。
中野 初子(なかの はつね、安政6年1月5日(1859年2月… 中野 初子(なかの はつね、安政6年1月5日(1859年2月7日) - 1914年(大正3年)2月16日)は、明治時代の電気工学者。男性。佐賀県出身。 佐賀藩士中野卜斉の二男として肥前小城郡にて生まれる。1873年(明治6年)、工部省電信寮に出仕していた長兄の中野宗宏(後に外信局次長)を頼って上京し、佐賀出身の初代電信頭石丸安世の塾に入った。翌年工部省工部寮小学校に入学する。のち工部大学校(現:東京大学工学部)に進み、イギリスの電気工学者ウィリアム・エドワード・エアトンに師事し、在学中の1878年(明治11年)3月25日、藤岡市助、浅野応輔らと共に中央電信局開局祝宴にて日本初のアーク燈を灯した。
小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月… 小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月4日) - 大正13年(1924年)5月9日)は日本の工学博士。第二高等中学校(現東北大学教養部)教授。旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京大学理学部(土木科)卒。土木学会会員。
杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(185… 杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(1859年1月25日) - 1906年(明治39年)7月31日)は、明治時代の兵庫県神戸市の外科医。県立神戸医学校教諭・神戸病院副院長、私立杉田病院長、神戸市医師組合初代組長。脊髄炎で早世した。号は春嵐。杉田玄白4世孫。 安政5年12月22日(1859年1月25日)江戸浜町山伏井戸(東京都中央区日本橋浜町二丁目)に杉田玄端の四男として生まれた。幼名は英吉/英吉郎。7歳で木村二梅に習字、高須某に漢学を学んだ。 明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い両親・弟杉田盛と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移り、沼津兵学校附属小学校に通いながら、相磯格堂にも漢籍を学んだ。
坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(185… 坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(1859年1月15日) - 1936年1月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。 1859年、摂津国西成郡九条村(現大阪府大阪市西区)に生まれる。 幼少時は僧侶の叔父に教育を受けた。14歳の時に父を失い、以後は親戚に引き取られ、大阪開成所と造幣寮の日進学社で学んだ。17歳の時に東京外国語学校に入学し翌年卒業。東京開成学校を受験し入学する。 1881年、東京大学文学部政治理財学科を卒業。1885年、同理学部応用化学科を卒業し、文学士と理学士という2つの学位を取得した。1886年に東京大学講師となる。その後、文学部と理学部の教員を兼務した後、史学に専念することとなる。
高畑 挺蔵(たかはた ていぞう、1859年1月(安政5年12… 高畑 挺蔵(たかはた ていぞう、1859年1月(安政5年12月) - 1910年(明治43年)8月31日)は、日本の明治期における耳鼻咽喉科医。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科教授、現在の長崎大学医学部耳鼻咽喉科の基礎を築く。伊予国出身。 1859年1月((旧暦)安政5年12月)、伊予喜多郡内子村(現愛媛県大洲市)に大洲藩士の子として生まれ、初め挺助と称した後に挺蔵に改めた。1874年(明治7年)東京外国語学校に入学し、1879年(明治12年)東京大学医学部に入学し、東京大学が東京帝国大学となった1886年(明治19年)度に卒業し、大学同期には伊東重・岡田国太郎・桂秀馬・佐藤恒久・鈴木愛之助・三輪徳寛等がいた。
鷲田 土三郎(わしだ つちさぶろう、1858年11月19日(… 鷲田 土三郎(わしだ つちさぶろう、1858年11月19日(安政5年10月14日)- 1929年(昭和4年)10月27日)は、明治から昭和初期の薬剤師、実業家、政治家。衆議院議員、福井県会議長。 越前国足羽郡福井木田中町(福井県足羽郡福井木田中町、福井市木田中町を経て現:福井市西木田3丁目)で、茶商、薬種業・鷲田杏菀の長男として生まれた。1871年12月2日(明治4年10月20日)に家督を相続した。1881年(明治14年)東京大学医学部製薬学科を卒業した。 1882年(明治15年)福井県医学校教諭に就任。福井市豊(みのり)学区会議員、福井市会議員、同参事会員を務めた。1897年(明治30年)9月、福井県会議員に選出され、1903年(明治36年)9月まで2期在任し、第16代県会議長(1899年10月-1903年9月)も務めた。
隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858… 隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858年11月18日) - 1918年(大正7年)4月7日)は、日本の医学者。土木工学者(工学博士)の原龍太は実兄。 福島藩出身。藩医の原有隣の二男として生まれ、隈川宗悦の養子となった。1883年(明治16年)、東京大学医学部を卒業し、東京大学医学部第一医院当直医・東京大学御用掛となった。1884年(明治17年)から1889年(明治22年)までドイツに留学し、ベルリン大学で学んた。帰国後、駒込病院医長を経て、1891年(明治24年)に東京帝国大学医科大学教授に就任し、医化学講座を担当した。また同年に医学博士の学位を得、1908年(明治41年)に帝国学士院会員にえらばれた。
中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5… 中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5年10月12日〉 - 1925年〈大正14年〉2月17日)は、日本の土木技術者。宮城県仙台市生まれ。東京帝国大学名誉教授。工学博士、日本の近代上水道の父・近代衛生工学の父などと呼ばれる人物。駒沢給水塔(東京都世田谷区弦巻2丁目41番16号)の設計者として知られる。明治31年以降、旧東京市技師長、内務省技師、中央衛生会委員、都市計画調査会委員をつとめる。 箱根宮ノ下御用邸への給水引き込みの設計協力を行い、また東宮御所の水道施設をはじめ日本や満州の多くの近代水道施設を手がける。 1858年(安政5年)10月12日 - 仙台城下支倉通り(現宮城県仙台市青葉区支倉町)に生まれる。
江木 衷(えぎ まこと/ちゅう、1858年10月25日(安政… 江木 衷(えぎ まこと/ちゅう、1858年10月25日(安政5年9月19日) - 1925年(大正14年)4月8日)は、日本の法学者。弁護士。
高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月… 高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月2日) - 1943年(昭和18年)12月23日)は、陸奥国泉藩(福島県)出身の医学者、細菌学者。日本統治時代の台湾で台湾総督府医学校第2代校長、台湾電力(台電)初代社長を務め、ペスト撲滅や電力開発などに貢献。後藤新平による台湾近代化政策のもとで医学教育と医療行政の礎を築いたことから『台湾医学・衛生の父』として知られているほか、戦前台湾の民主化運動(zh:臺灣民主化)を支持し、活動家に転じた門下生にも影響を与えた。 陸奥国菊多郡泉藩松小屋村(現在の福島県いわき市泉地区・渡辺町松小屋)で出生。 東京大学医学部(現・東京大学大学院医学系研究科・医学部)在学時に高木は先輩の北里柴三郎(1853-1931)と交流もあった。
磯野 計(いその はかる、1858年9月〈安政5年8月〉 -… 磯野 計(いその はかる、1858年9月〈安政5年8月〉 - 1897年〈明治30年〉12月14日)は、日本の明治期の実業家。明治屋を創業した。 安政5年8月(1858年9月)、美作国津山(現在の岡山県津山市)で、父の津山藩士・磯野湊と母・常の次男として生まれる。磯野家と母の実家の太田家は、ともに藩内で最上格の御譜代(明治維新時は35家)に含まれていた。幼少期は四書五経を学び、明治元年(1868年)に10歳で神戸に出て、箕作麟祥の塾で英学を学んだ。翌明治2年(1869年)3月に麟祥が上京したため、計は津山に戻っている。 津山で数ヶ月間過ごした後、藩の留学生として上京すると箕作秋坪の三汊学舎に入塾して英語を学び、秋坪の助手的な役割を務めるようになった。
伊藤 悌治(いとう ていじ、1858年8月4日(安政5年6月… 伊藤 悌治(いとう ていじ、1858年8月4日(安政5年6月25日) - 1919年(大正8年)12月18日)は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。位階および勲等は従三位・勲二等。 士族・大矢益彦の二男として越後新発田藩領蒲原郡中高井村(新潟県中蒲原郡中高井村、根岸村、白根町、白根市を経て現新潟市南区)に生まれ、12歳の時北蒲原郡水原町(現在の阿賀野市)の伊藤退蔵の養子となる。。1883年(明治16年)7月、東京大学法学部を卒業し、判事となり、。東京始審裁判所刑事公判および会議局に職を得た。翌年仙台始審裁判所詰めとなる。1886年、東京控訴院評定官を経て、1892年(明治25年)東京控訴院部長なった。
安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5… 安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5年6月19日〉 - 1938年〈昭和13年〉4月2日)は、日本の漢学者。名は朝康、号は朴堂(安井朴堂)。安井息軒の外孫。著作に『日本儒学史』など。 1858年、江戸出身。母親は安井息軒の長女の須磨子。父親は息軒の門人で攘夷志士の中村貞太郎(北有馬太郎)。 1862年、小太郎が幼少の頃、貞太郎が清河八郎をかくまった罪で逮捕され獄死する。貞太郎は逮捕前に家族に罪が及ぶのを避けて離婚したため、小太郎は息軒に引き取られて育つ。とくに9歳から14歳の間、息軒の故郷の日向国宮崎郡(現在の宮崎県)で暮らす。 1871年、宮崎から東京に出て息軒の三計塾に入る。
堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(185… 堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(1858年6月10日) - 大正4年(1915年)12月20日)は、日本の衆議院議員(進歩党→憲政党→憲政本党)。農商務官僚。 信濃国埴科郡松代(現在の長野県長野市)出身。開拓使学校を経て、1881年(明治14年)に東京大学理学部採鉱冶金学科を卒業。1882年(明治15年)、三菱会社に入り、1896年(明治29年)に退社するまで鉱山長、支配人を務めた。1897年(明治30年)、農商務省に入って鉱山技監となり、足尾鉱毒事件に対する予防工事の設計・監督を担当した。その後、製鉄所長官心得、鉱山局長心得を歴任した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙(東京府第10区)で当選。
中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年… 中沢 岩太(なかざわ いわた、1858年5月12日(安政5年3月29日) - 1943年(昭和18年)10月12日)は、明治から大正時代の日本の応用化学者。帝国学士院会員。工学博士。京都帝国大学理工科大学初代学長、京都高等工芸学校初代校長を務めた。大学教授のほか、官庁の役職や民間企業の顧問も務め、官民学で黎明期の日本の無機化学工業(主に酸・アルカリ工業やガラス工業)を指導し、発展に寄与した。また、日本の近代窯業の育ての親であるワグネルのもとで陶芸の染料研究に従事したほか、自らも趣味で日本画を描き美術展の審査員を務めるなど、化学者である一方美術工芸にも深い関わりを持ち、日本の美術工芸の近代化・発展に功績を残した。
北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5… 北条 時敬(ほうじょう ときゆき、1858年5月6日(安政5年3月23日) - 1929年(昭和4年)4月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。号は廓堂。 旧制山口高等学校、旧制第四高等学校、広島高等師範学校校長、東北帝国大学総長、学習院長、貴族院議員を歴任した。 1858年(安政5年)、加賀国金沢(現・石川県金沢市池田町)で金沢藩士の次男として生まれた。幼名は粂次郎(くめじろう)。生家は鎌倉北条氏の末裔を称した。金沢英学校、金沢啓明学校で数学、英語、漢学を学び、県から将来を嘱望されて、給付生として東京へ留学を命じられた。東京帝国大学理学部数学科に入学して学び、1885年(明治18年)に卒業。
相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2… 相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月18日)は、日本の医師。宮中顧問官。 東京府出身。小柴家に生まれ、相磯格堂の養子となった。のち格堂の娘・正子と結婚。1882年(明治15年)、東京大学医学部を卒業し、岐阜県立医学校長・附属病院長ののち、ドイツに留学。1888年(明治21年)に侍医となった。専門は産婦人科。1924年(大正13年)に侍医を辞し、宮中顧問官に就任した。 食品微生物学者の相磯和嘉、永井荷風の側近の相磯凌霜は、義理の甥に当たる。
池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10… 池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1926年(大正15年)4月13日)は、明治から大正時代の医師。宮中顧問官。旧姓は渡邊。子孫に香川京子と池辺晋一郎がいる。 渡邊建節の二男として豊後国(現大分県)に生まれ、1888年(明治21年)5月、池辺田村の養嗣子となり家督を相続する。1871年(明治4年)加藤賢成の門に入り漢学を修め、1873年(明治6年)大分町英学校、豊前中津において英語を研鑽したのち上京しドイツ人・ヒュルゲルマイステルに従いドイツ語を修めた。同年9月、東京外国語学校に進んだのち、翌年3月、帝国大学医学部に入り、1886年(明治19年)10月に卒業し、医学士の称号を得た。
元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日〈安政5年1月… 元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日〈安政5年1月15日〉- 1938年〈昭和13年〉10月1日)は、明治、大正、昭和期の日本の政治家。立憲政友会の長老。号は国東。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣(初代)を歴任した。中央大学創立者18人の内の一人。杵築藩(大分県)の儒学者の養子。 豊後国国東郡来浦(現在の大分県国東市国東町来浦)に医師・猪俣栄造の子として生まれる。杵築藩の藩儒・元田直の養子となる。1880年(明治13年)、東京大学法科を卒業。弁護士となる。第1回衆議院議員総選挙に当選し、以後当選16回、議員生活は40有余年に渡った。当初は大成会・国民協会・帝国党に所属した後に立憲政友会の結成に参加、衆議院副議長に3度選出された他、第1次山本権兵衛内閣の逓信大臣、原内閣の鉄道大臣(初代)として入閣している。
三崎 亀之助(みさき かめのすけ、1858年2月15日(安政… 三崎 亀之助(みさき かめのすけ、1858年2月15日(安政5年1月2日) - 1906年(明治39年)3月16日)は、日本の政治家、官僚、銀行家。衆議院議員、貴族院議員、横浜正金銀行副頭取。 1858年(安政5年1月2日)2月15日、讃岐国丸亀に生まれる。東京大学法科を卒業し、忠愛社に入り、『明治日報』記者となる。1884年(明治17年)に外務省御用掛となり、外務省書記官として米国公使館駐在、さらに公使館書記官としてワシントン駐在、次いで外務省参事官を務める。 その後、京都で『中外電報』で論説を執筆、弁護士業などを経て、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙で香川県から出馬し、衆議院議員に当選する(以後4回連続当選)。
山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (185… 山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (1858年2月6日) - 大正14年(1925年)8月29日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会)、医学者。 長門国阿武郡椿郷東分村(現在の山口県萩市)出身。長州藩の医学館であった好生堂で蘭学を、中学校でドイツ人教師からドイツ語を学んだ。東京大学医学部を卒業し、長崎医学校一等教諭に任じられた。1885年(明治18年)、長崎でコレラが大流行すると、検疫委員として防疫に尽力した。 1887年(明治20年)よりドイツ・オーストリアに留学し、法医学を学んだ。帰国後は、警察医長、医務局長、警視庁第三部長を歴任した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
野呂 景義(のろ かげよし、1858年 - 1923年)は愛… 野呂 景義(のろ かげよし、1858年 - 1923年)は愛知県出身の冶金学者。東京帝国大学の教授として多くの後進を育て、日本近代製鉄の礎を築いた田中製鉄所や八幡製鉄所に技術指導を行う。日本鉄鋼協会の初代会長も務め「日本の冶金学の父」と呼ばれる。 旧尾張藩士、野呂伊三郎の二男。1858年(安政5年)に後の名古屋市橦木町で生まれる。1874年(明治7年)に愛知英語学校へ入り、1877年(明治10年)上京し開成学校予科を経て1882年(明治15年)帝国大学理学部採鉱冶金学科を卒業。卒業後直ちに母校の助教授に任ぜられ、ドイツ人の採鉱冶金教授のクルト・ネットーの下で学生を指導する傍ら冶金学の研究を続けた。
大谷木 備一郎(おおやぎ びいちろう、1858年(安政5年6… 大谷木 備一郎(おおやぎ びいちろう、1858年(安政5年6月)- 1892年(明治25年)2月7日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。 幕臣・大谷木吉之丞(のちに一と称す)、と母の下田氏の子として江戸牛込若宮町(東京府牛込区若宮町、東京市牛込区若宮町を経て現東京都新宿区若宮町)に生まれる。11歳にして聖堂に入り漢学を修める。ついで北門社で英学を学び、外国語学校に入り、大学南校に学び、大学予備門を経て1879年(明治12年)東京大学法律科を卒業した。 代言人となり同期の高橋一勝らと攻法館(専修大学の前身)を設立し、1886年(明治19年)には代言事務所を日本橋区本町(現東京都中央区日本橋本町)に開業した。
尾澤 主一(おざわ しゅいち、1858年 - 1889年6月… 尾澤 主一(おざわ しゅいち、1858年 - 1889年6月21日)は、日本の医師、医学者(小児科学)。学位は医学士(東京大学・1883年)。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で尾沢 主一(おざわ しゅいち)とも表記される。旧姓は陣ノ內(じんのうち)。旧姓の「內」は「内」の旧字体のため、新字体で陣ノ内(じんのうち)とも表記される。 帝国大学医科大学助手などを歴任した。 武蔵国出身の医師である。東京大学医学部で学び、帝国大学医科大学にて小児科を担当した。また、ドイツ国の医学者であるカール・シュローダーの著作の翻訳を手掛けるなど、西洋の進んだ医療を紹介し、大日本帝国の医学の発展に尽力した。ドイツ国に留学したものの病にかかり、帰国途上に清で客死した。
佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4… 佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4年11月15日) - 1943年(昭和18年)6月17日)は明治〜昭和期の外科医、医学博士、貴族院議員。美濃国大垣藩(現岐阜県大垣市)出身。 東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、同じ岐阜県出身の青山胤通とともに、日本近代医学の創生期に活躍した。 佐藤三吉は1857年(安政4年)に大垣藩士佐藤只五郎の三男として生まれた。1870年(明治3年)父が死去し、義兄安藤就高の援助を受け上京し勉学の場を与えられた。 妻の滋子(1871年生)は小崎利準の長女。 実弟に東京興信所所長の佐藤正美、興業主の米山米吉がいる。
白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日(1857… 白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日(1857年12月15日) - 1919年(大正8年)2月17日)は、明治から大正時代の土木技術者、土木工学者、東京帝国大学教授、衆議院議員、実業家。旧姓は久家。 土佐藩儒で漢学者の久家種平(忘斎)、峰の長男として土佐国長岡郡十市村(現・高知県南国市十市)に生まれ、1874年(明治7年)白石栄の養嗣子となる。13歳の時、土佐藩校・致道館に学ぶ。母の弟・中島信行の影響により勤王論に刺激され、長州に走ったこともあったが、維新後上京し後藤象二郎家に寄寓する。 1881年(明治14年)東京帝国大学工科大学土木学科卒業。農商務省を経て、東京府勤務となる。1882年(明治15年)竹内綱の二女・菊と結婚。
清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈18… 清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈1857年11月29日〉 - 明治18年2月26日〈1885年〉)は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。 慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。 明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。
中隈 敬蔵(なかくま けいぞう、安政4年9月29日(1857… 中隈 敬蔵(なかくま けいぞう、安政4年9月29日(1857年11月15日) – 大正13年(1924年)3月21日)は、日本の日本の官僚。会計検査院長。位階および勲等は従二位・勲一等。 安政4年9月29日、佐賀藩士中隈武雅と母乕子の二男として生まれた。1871年に藩の推薦で東京に出た。大学南校を経て、1880年、東京大学理財政治学科を卒業した。 会計検査院に出仕したが、まもなく大蔵省御用掛に転じ、さらに農商務省御用掛、東京山林学校(のち東京農林学校)教授を務めた。1886年、大蔵権少書記官となり、1889年には第一高等学校教授を兼任し、理財学を担当した。その他、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)講師・専修学校(現在の専修大学)講師を務めた。
山下 千代雄(やました ちよお、1857年10月27日〈安政… 山下 千代雄(やました ちよお、1857年10月27日〈安政4年9月10日〉 - 1929年〈昭和4年〉2月4日)は、衆議院議員(自由党→立憲政友会)、弁護士。 出羽国米沢出身。藩校興譲館で学んだ後、司法省法学校(現・東京大学法学部)を卒業。明道館を創立し、自由民権を主張した。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙は大同倶楽部から、1892年(明治25年)の第2回総選挙は立憲自由党から山形県第2区で立候補したが、いずれも落選している。 1894年(明治27年)、第3回総選挙に出馬し、当選。同年9月の第4回総選挙でも再選された。1898年(明治31年)、第1次大隈内閣が成立すると内務省地方局長に任命されたが、内閣の崩壊とともに野に下り弁護士業務に従事した。