裏松 友光(うらまつ ともみつ、1885年(明治18年)11… 裏松 友光(うらまつ ともみつ、1885年(明治18年)11月7日 - 1949年(昭和24年)11月24日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 陸軍将校、子爵・裏松良光の二男として生まれる。父の死去に伴い、1915年(大正4年)10月30日、子爵を襲爵した。 1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、内閣調査局参与、商工省参与、土木会議議員、大蔵省委員、大東亜省委員、南方開発金庫監事、南鮮合同電気監査役、朝鮮電力監査役などを務めた。 1924年(大正13年)9月27日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)3月26日まで四期在任した。
石川 一郎(いしかわ いちろう、1885年(明治18年)11… 石川 一郎(いしかわ いちろう、1885年(明治18年)11月5日 - 1970年(昭和45年)1月20日)は、日本の財界人、経営者。位階は正三位。 東京帝国大学助教授、日産化学工業社長を経て、旧経済団体連合会(現日本経済団体連合会)初代会長(在任1948年(昭和23年)~1956年(昭和31年))。日産化学工業元社長、元会長。昭和電工元社長、元会長。 1885年(明治18年)11月5日、東京に生まれる。関東酸曹常務・卯一郎の長男。父・卯一郎は大坂の出身で、石川家は江戸時代、「宇田屋」という屋号の商家であった。父は関東酸曹というカセイソーダ製造の化学会社を経営した。 旧制京華中学を出て、1903年(明治36年)旧制第一高等学校工科(二部)に入学。
手塚 敏雄(てづか としお、1885年10月11日 - 19… 手塚 敏雄(てづか としお、1885年10月11日 - 1969年7月30日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。 栃木県河内郡河内町出身。1916年に東京帝国大学法学部を卒業し、翌年に川崎造船所に入社した。取締役を経て、1950年8月に川崎重工業社長に就任し、1961年7月に会長に就任した。1954年1月からは川崎航空機社長も兼任し、1961年11月からは同社会長を務めた。 関西テレビ放送取締役、ラジオ関西取締役なども歴任した。1965年に勲三等瑞宝章を受章した。 1969年7月30日急性肺炎のために死去。83歳没。
長谷部 鋭吉(はせべ えいきち、1885年10月7日 - 1… 長谷部 鋭吉(はせべ えいきち、1885年10月7日 - 1960年10月24日)は日本の建築家、実業家。住友銀行本店などを手掛ける。 東京都出身(北海道生まれ)。住友総本店出身で、日建設計の母体の長谷部竹腰建築事務所の竹腰健造と共に創業者の1人である。大阪市北浜の住友ビルディング(旧住友銀行本店・現三井住友銀行大阪本店)や千代田区の日本神学校(現東京ルーテルセンター教会)などが代表作として知られている。
大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年)9月5日 … 大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年)9月5日 - 昭和45年(1970年)8月18日)は、日本の実業家。元住友化学工業社長。
清水 収吉(しみず しゅうきち、1885年(明治18年)8月… 清水 収吉(しみず しゅうきち、1885年(明治18年)8月 - 1967年(昭和42年)8月5日)は、明治末期から昭和にかけて活動した日本の官僚、実業家。逓信官僚から実業界に転じて東邦電力副社長や四国配電社長を務めた。岐阜県出身。 清水収吉は、1885年(明治18年)8月、岐阜県の田中清兵衛の次男として生まれた。1906年(明治39年)7月東京の第一高等学校第一部英法科を卒業。次いで1910年(明治43年)7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。その後清水やすの養子となり、清水家を相続する。 大学卒業後はただちに逓信省へ入省した。同年の文官高等試験に合格し、翌1911年(明治44年)12月高等官に叙され逓信管理局事務官補に任ぜられる。
田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日… 田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日 - 1968年(昭和43年)12月2日)は、日本の実業家、銀行家、教育家。
島崎 直幹(しまざき なおみき、1885年〈明治18年〉7月… 島崎 直幹(しまざき なおみき、1885年〈明治18年〉7月 - 没年不明)は、日本の実業家。渋澤倉庫常務取締役。国際商事取締役。 高知県安芸郡田野村(現・田野町)、島崎直敬の長男。1913年、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。逓信省、鈴木商店各勤務の後浪華倉庫会社に入り、庶務課長、支配人、専務取締役等を経て1933年、澁澤倉庫に合併と共に取締役兼大阪支店長となり1938年、常務取締役に就任。 趣味は釣り、俳句、水泳、柔道、剣道。宗教は神道。高知県在籍で、住所は東京市大森区馬込町東1丁目。 祖先は岡林權之亟といい、1761年に郷士となり、土生の岡の下を開墾し、和食を合せて領地高29石8斗3升6合、物成11石9斗5升。
成瀬 達(なるせ たつ、1885年6月28日 - 1951年… 成瀬 達(なるせ たつ、1885年6月28日 - 1951年8月16日)は、日本の官僚・実業家。成瀬隆蔵の長男。貴族院書記官長を経て第4代の日本生命社長となった。 1909年に東京帝国大学政治科を卒業して農商務省に入る。その後、1926年7月23日から1931年12月5日まで貴族院書記官長を務めた。翌1932年、日本生命の常務取締役に迎えられるが、1936年3月に創業家出身の第3代社長の弘世助太郎社長が急逝したため社長代行に就任、1937年には会長の山口吉郎兵衛も辞任したため、同年2月の株主総会・取締役会によって佐々木駒之助新会長と共に新社長に選任された。以降、戦時下を通じて社長の地位にあり、生命保険協会理事長会長などを歴任したが、太平洋戦争終結後の1946年12月に戦時中への国策協力を理由に公職追放令の適用に先立って社長と生命保険協会理事長会長を退任、翌1947年8月に正式に公職追放処分を受けた。
古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月… 古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月25日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、明治から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京で工学者・古市公威の長男として生まれた。父の死去に伴い、1934年(昭和9年)3月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科を卒業。同年、住友総本店に入社。以後、別子鉱業所採鉱課主任、住友合資技師長、住友本社技師長、住友鉱業取締役、昭和鉱業取締役、帝国鉱業開発副社長、同社長、東北亜鉛鉱業社長、藤田組会長、日本鉱業会会長などを務めた。 1942年(昭和17年)1月17日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月… 神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月 - 1969年〈昭和44年〉2月27日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚、実業家。官選鳥取県知事。 山口県出身。神田柳助の長男として生まれる。第六高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。朝鮮総督府に入府し内務部試補となる。 以後、朝鮮総督府事務官、同書記官、長崎県理事官、陸軍省航空局書記官、関東庁内務局長、大連民政署長などを歴任。 1930年8月26日、鳥取県知事に就任。県財政の健全化のため緊縮政策を推進した。1931年12月18日、知事を休職。1932年1月29日、依願免本官となり退官した。
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年… 正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日)は、日本の警察官・内務官僚、実業家、政治家。読売新聞社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。 読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、読売中興の祖として大正力(だいしょうりき)と呼ばれている。 読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したためにプロ野球の父と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したためにテレビ放送の父と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために原子力の父とも呼ばれる。
川上 嘉市(かわかみ かいち、1885年(明治18年)3月1… 川上 嘉市(かわかみ かいち、1885年(明治18年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月6日)は、大正・昭和期の日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員(1期)、参議院議員(1期)。 静岡県浜松市浜北区内野小島出身。1909年(明治42年)東京帝国大学工科大学を首席で卒業。 東京瓦斯へ入社後、1910年(明治43年)に住友電線製造所(現在の住友電工)に転職。1914年(大正3年)にオーストリア・グラーツにゴム化学の研究の為に留学。同年7月に第一次世界大戦が開戦したことからベルリン経由でイギリスに脱出した。1925年(大正14年)から住友電線取締役を務めた。1927年(昭和2年)に労働争議で経営不振となった日本楽器製造(現在のヤマハ)の社長に就任。
倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28… 倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28日 - 1977年〈昭和52年〉4月5日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。位階は従四位。 司法官僚・倉富勇三郎の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1936年(昭和11年)6月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1928年(昭和3年)朝鮮銀行秘書課長兼国庫課長に就任。その後、同検査役、産業組合中央金庫参事・貸付課長、同理事、農地開発営団理事などを務めた。 1941年(昭和16年)9月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月1… 結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月17日 - 1977年(昭和52年)3月4日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。参議院議員。 結城萬蔵の二男、結城堅の弟として茨城県取手町(現取手市)に生まれる。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、三井物産に入り、本店、上海、大阪各支店にて勤務する。1924年(大正13年)清浦内閣の時、逓信大臣秘書官に任ぜられた。実業界では早川電力、東京電力、大井川鐵道などの重役、自動車鋳物、大井川電力各社長、三河水力電気、伊豆水力電気、上毛電力、東京湾電気、寸又川水力電気各取締役などを歴任した。
小杉 繁安(こすぎ しげやす、1884年(明治17年)10月… 小杉 繁安(こすぎ しげやす、1884年(明治17年)10月7日 - 1963年(昭和38年)4月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山形県東村山郡天童町(現天童市)で小杉繁治の長男として生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 日本鉱業開発取締役、沢藤電機取締役、東北振興精密機械専務取締役、北日本産業社長、日生鉱業社長、東北農機社長、協栄興業社長、大船産業監査役などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に山形県地方区から無所属で出馬して当選し、自由党に所属して参議院議員に1期在任した。その間、参議院両院法規委員長などを務めた。
宮地 茂秋(みやじ しげあき、1884年(明治17年)9月2… 宮地 茂秋(みやじ しげあき、1884年(明治17年)9月28日 - 1977年(昭和52年))は、明治・大正・昭和の実業家。日本セメント株式会社常務取締役、京阪電気鉄道株式会社監査役、呉軍港土地株式会社取締役、セメント連合会会長。自由民権活動家・宮地茂春の長男。坂本龍馬・板垣退助両家の血統を引く人物。妻は福岡孝弟の孫娘。 明治17年(1884年)9月28日、自由民権活動家・宮地茂春の長男として高知県土佐郡潮江村(現・高知市)に生まれる。母は、板垣退助の二女・軍子。 宮地家は、土佐藩白札郷士の家柄で、宮地茂秋は、板垣退助の孫であり、また坂本龍馬の曾祖父・山本伴蔵信敬の血縁子孫にあたる。祖父・宮地茂樹(甚蔵・自然)は、北越戦争に従軍して功を上げた。
石橋 正彦(いしばし まさひこ、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 正彦(いしばし まさひこ、1884年〈明治17年〉9月22日 - 没年不明)は、日本の政治家、会社役員、島根県多額納税者。島根県簸川郡平田町長。島根県会議員。 島根県楯縫郡平田町(のちの簸川郡平田町、平田市、現・出雲市)の人・石橋孫八の四男。1907年、第五高等学校第一部英法科を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農業を営み、会社重役である。 1914年、農会長に推される。1915年、家督を相続する。1919年、簸川郡会議員に当選する。1921年、平田町会議員となる。1922年、島根県会議員に当選する。一畑電気鉄道監査役、産業組合中央会島根県支部長、島根県農会副会長をつとめる。
大倉 直介(おおくら なおすけ、1884年(明治17年)9月… 大倉 直介(おおくら なおすけ、1884年(明治17年)9月4日 - 1953年(昭和28年)[要出典])は、明治末から昭和期の建築技術者、実業家。大倉火災海上保険社長などを務めた。 東京府麻布区麻布市兵衛町(現東京都港区)で、旧新発田藩主・溝口直正の次男として生まれた。1910年7月、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、陸軍技師となる。1914年3月に退官した。 1914年、同郷の実業家・大倉喜八郎の妹みちの養子となり大倉に改姓。1915年、大倉組に入り会計部で勤務。1919年、大倉組ロンドン支店に異動。1922年、大倉商事保険部長に就任し、1926年、同監査役、1928年、大倉火災海上保険常務取締役を経て、1935年、同社長となり1943年頃まで在任。
飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6… 飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6月26日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の実業家。髙島屋社長を務めた。 3代飯田新七の長男として京都府に生まれる。 京一中、第四高等学校、東京帝国大学法科経済学科卒業後、1909年12月、髙島屋飯田合名会社に入社。 1919年8月、髙島屋呉服店(髙島屋の前身)が創設されると取締役に就任し、海外貿易事業に従事。1926年に専務に就任してからは、大阪・なんば、東京・日本橋の両店を開店して、百貨店の基礎を築き、髙島屋を百貨店として成長させた。1942年3月、4代飯田新七が健康上の理由から社長を辞任したため、第3代社長に就任した。
瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月… 瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月1日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の実業家、政治家、資産家、地主。瀬田不動産合資会社代表社員。鍋屋合資会社代表社員。板橋町大山出身。 東京市板橋区板橋町九丁目、瀬田吉兵衛の息子。東大林学科卒業。農業を営む。1915年に板橋町会議員に当選、以来1919年に至る1期間板橋町政に参画し、町利民福の為に大いに尽瘁したが、1919年に至って考える所があり政界を断念し、土地管理等の家業に努力する。 傍ら事業界に進出し、東洋計器会社、斎藤レンズ製作所、浦和商業銀行等に投資する。1926年、成子内親王に神代雛(上田直次作木彫)一対を献上する。
三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961… 三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961年11月19日)は、日本の経営者。阿波商業銀行(現在の阿波銀行)頭取を務めた。 徳島県出身。1909年に東京帝国大学政治学科を卒業。藤本ビルブローカー証券での勤務を経て、1934年に阿波商業銀行常務、1940年に専務、1948年に副頭取を経て、1949年10月には頭取に就任。 1961年11月19日、急性心不全のために在任時に死去。77歳没。
西尾 忠方(にしお ただみち、1884年(明治17年)5月1… 西尾 忠方(にしお ただみち、1884年(明治17年)5月14日 - 1958年(昭和33年)6月17日)は、大正から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・加藤、旧名・泰吉。 旧大洲藩主・加藤泰秋の四男として生まれ、1909年(明治42年)12月、子爵・西尾忠篤の養子となり、同年同月、忠方と改名。養父の死去に伴い、1910年(明治43年)11月29日、子爵を襲爵した。 1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業。馬政調査会委員、軍用保護馬鍛錬中央会副会頭、日本競馬会評議員、十五銀行監査役、蓬莱殖産監査役などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
田辺 加多丸(たなべ かたまる、1884年5月2日 - 19… 田辺 加多丸(たなべ かたまる、1884年5月2日 - 1951年3月13日)は、日本の経営者。東宝社長を務めた。 山梨県出身。1911年に東京帝国大学独法科を卒業し、日本勧業銀行に入行。1939年6月に理事、1941年に東京宝塚劇場(のちの東宝)取締役を経て、1947年に社長に就任し、1949年から1950年までに会長を務めた。 1951年3月13日、肝臓癌のために死去。66歳没。
得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3… 得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3日 - 1964年(昭和39年)6月19日)は、日本の内務官僚、実業家。官選岩手県知事。 富山県出身。得能通孝の六男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、岡山県試補、警視庁警視、山形県警察部長、滋賀県警察部長、台湾総督府警視兼同府警察官及び司獄官練習所長、拓殖局書記官、内務書記官、北海道庁書記官・内務部長などを歴任。 1925年9月、岩手県知事に就任。公平無私な県政運営を行う。和賀妻堰・中央耕地の整備、公会堂建築、農学校移転などに尽力。
松山 常次郎(まつやま つねじろう、1884年(明治17年)… 松山 常次郎(まつやま つねじろう、1884年(明治17年)3月22日 - 1961年(昭和36年)6月15日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員。 1884年(明治17年)3月22日、和歌山県伊都郡九度山村(現:九度山町)に松山常治・さわの長男として生まれる。奈良県立五条中学校、第三高等学校を経て、1905年(明治38年)、東京帝国大学土木工学科入学。在学中に日本組合基督教会霊南坂教会で洗礼を受けクリスチャンとなる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学土木工学科を卒業後に渡米し、橋梁設計などを学ぶ。日本に帰国したのち、1915年(大正4年)朝鮮に渡り、干拓・開墾事業に従事。南海拓殖株式会社や鮮満拓殖株式会社などを設立し、水田開拓事業で成功を収めた。
小山 倉之助(おやま くらのすけ、1884年(明治17年)3… 小山 倉之助(おやま くらのすけ、1884年(明治17年)3月21日 - 1956年(昭和31年)8月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。 宮城県本吉郡気仙沼本郷(後の気仙沼町、現気仙沼市)で、小山長兵衛の二男として生まれる。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 その後、九州林業取締役、樺太合同産業取締役、日本セメント取締役、帝国地方行政学会取締役、日本エタニットパイプ取締役、(株)行政学会印刷所社長などを務めた。 1928年2月、第16回衆議院議員総選挙で宮城県第二区から出馬して当選。以後、第17回、第19回、第20回総選挙で当選。1942年4月の第21回総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。
有川 小三(ありかわ こうぞう、1884年1月13日 - 1… 有川 小三(ありかわ こうぞう、1884年1月13日 - 1973年4月14日)は、鹿児島銀行役員、実業家、弁護士。 8歳にして父を亡くし、有川矢九郎(貞実)宅にて寄食しながら島津奨学資金等の援助により、大正2年7月10日東京帝国大学法科大学(英法)を卒業。 大正2年8月14日、東京青山高樹町住み海軍少将縦四位勲三等功四級、有川貞白の三女愛子と結婚する。 株式会社泰昌銀行(東京)、 古河合名会社(東京)、 株式会社第百四十七銀行 (現、鹿児島銀行)大阪副支店長、 大島支店長、 沖縄支店長、昭和8年8月本店支配人営業部長を歴任。 昭和14年1月、監査役に就任後、銀行合併により職を辞する。 沖縄電気株式会社監査役に選任される。
鷲尾 勇平(わしお ゆうへい、別名:鷲尾 雅史、1883年〈… 鷲尾 勇平(わしお ゆうへい、別名:鷲尾 雅史、1883年〈明治16年〉12月10日 - 1952年〈昭和27年〉9月10日)は、日本の紡績技術者、実業家。日清紡績第3代社長。 新潟県新潟市本町通14番町(現 新潟市中央区本町通14番町)の鷲尾甚平の長男として出生。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に第一高等学校を卒業、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。 1908年(明治41年)9月に日清紡績に技師として入社、見習生、主任を経て、1915年(大正4年)12月に高岡工場長に就任、1917年(大正6年)2月から東京紡績の創立とともに工務部長として工場建設に従事。
宮長 平作(みやなが へいさく、1883年〈明治16年〉12… 宮長 平作(みやなが へいさく、1883年〈明治16年〉12月 - 1956年〈昭和31年〉4月24日)は、日本の土木技術者、実業家である。 1883年(明治13年)12月、富山県射水郡水口村の豪農として名を馳せた父・宮長平六の次男として誕生。第四高等学校(後の金沢大学)を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学土木工学科を卒業。同月、久原鉱業所に入社し日立鉱山にて技師として従事、当時高さ世界一を誇る煙突の建設に関わるなどした。 1924年(大正13年)2月24日、個人名義で屋号を久原工事部となし土木建築請負業を開設。同社が1930年(昭和5年)9月に日本産業株式会社の直系子会社、中央土木(後の日産土木、日産建設、現・RN建設)株式会社として改組・発足の運びとなってはその専務取締役に就任、1939年(昭和14年)6月より同社取締役社長。
須之内 品吉(すのうち しなきち、1883年(明治16年)1… 須之内 品吉(すのうち しなきち、1883年(明治16年)11月24日 - 1965年(昭和40年)11月20日)は、日本の法学者、教育者、衆議院議員(立憲政友会)、実業家。立教大学経済学部教授・学監。弁護士。立教大学では20年以上に渡り商法の講義を講じたほか、学監や立教学院常務理事などの要職を務め、長く発展に寄与した。 愛媛県和気郡和気村(現在の松山市)出身。 1907年(明治40年)3月、旧制立教中学校卒業。1910年(明治43年)7月、旧制第五高等学校卒業。 1914年(大正3年)7月に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年7月、東京市にて弁護士を開業。 1918年(大正7年)7月、東京帝国大学大学院で2カ年商法専攻を修了。
伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月… 伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月29日 - 1969年(昭和44年)11月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府で海軍中将・伊東祐麿の二男として生まれた。父の死去に伴い、1906年(明治39年)3月14日、子爵を襲爵した。 学習院高等学科を経て、1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1912年、日本製鋼所に入社し室蘭に転居。その後、イギリスに2年間留学し、帰国後、高砂商工銀行取締役に就任。電気化学工業取締役なども務めた。 水野直子爵の導きで政界を志し、東京帝大在学中に尚友会に入会。1923年(大正12年)8月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属。
矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明… 矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明治16年)7月23日 - 1950年(昭和25年)12月27日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。旧幕臣・陸軍中将、矢吹秀一の三男として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。父の死去に伴い1910年(明治43年)1月19日、男爵を襲爵。 横浜正金銀行書記、富士生命保険 (株) 取締役、東京タクシー自動車 (株) 取締役、東京貿易 (株) 社長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され公正会に属して活動した。
渡辺 忍(わたなべ しのぶ、1883年〈明治16年〉5月29… 渡辺 忍(わたなべ しのぶ、1883年〈明治16年〉5月29日 - 1955年〈昭和30年〉1月28日)は、朝鮮総督府官僚、実業家。朝鮮農地開発営団理事長。 新潟県岩船郡関谷村(現在の関川村)出身。渡辺善俊の長男。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同日高郡長、福井県理事官、神奈川県事務官を務めた。 1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清北道内務部長、黄海道内務部長、平安南道内務部長、全羅北道知事、京畿道知事を歴任。1931年(昭和6年)、殖産局長兼山林部長となり、翌年に農林局長に転じた。 1935年(昭和10年)に退官し、東洋拓殖理事、日魯漁業(現在のマルハニチロ)取締役、南洋興発監査役、海外興業監査役、朝鮮農地営団理事長、朝鮮食糧営団理事長などを務めた。
中井 連(なかい れん、旧姓・大町、1883年〈明治16年〉… 中井 連(なかい れん、旧姓・大町、1883年〈明治16年〉5月6日 - 没年不明)は、日本の政治家(神戸市会議員、西灘村会議員)、内外科医師、実業家。摩耶山社長。 岡山県勝田郡勝田村(のち勝田町、現美作市)出身。大町助太郎の四男。1905年、大阪慈恵病院医学校卒業。任陸軍三等軍医。1907年、中井淳の養子となり、1922年、家督を相続した。 東京帝国大学医学部選科を修業あるいは卒業、開業した。医師であり、中井病院を経営した。兵庫県衛生防疫官、摩耶山社長などを務めた。 大政翼賛会市支部協力会議員である。宗教は真宗。趣味は謡曲。兵庫県在籍で、住所は神戸市灘区稗田町、同区灘北。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
伊藤 勘助(いとう かんすけ、1883年(明治16年)4月2… 伊藤 勘助(いとう かんすけ、1883年(明治16年)4月23日 - 1966年(昭和41年)2月12日)は、明治から昭和時代前期の官僚、政治家、実業家。仙台鉄道局長、宇部市長、山陽急行バス社長、山口県公安委員長。 山口県大島郡久賀町(現・周防大島町久賀)出身。伊藤祥助の弟として生まれ、1921年(大正10年)分家する。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、鉄道院に出仕。1911年(明治44年)同院副参事、ついで参事書記官を経て、1927年(昭和2年)仙台鉄道局長に就任。 1931年(昭和6年)7月に官界を去り、民間に転じ、精養軒社長、宮城電燈顧問などを歴任する。1938年(昭和13年)7月30日、推挙され、第7代山口県宇部市長に就任し、続いて第8代市長を1946年(昭和21年)1月21日まで務めた。
種田 虎雄(おいた とらお、1883年(明治17年)4月15… 種田 虎雄(おいた とらお、1883年(明治17年)4月15日~1948年(昭和23年)9月5日)は、日本の官僚、実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の初代社長を務めた。
金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9… 金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の実業家。結婚によって浅野総一郎の親戚になり、浅野財閥の多数の企業の重役を務めた。 1883年(明治16年)3月に、高知県の金子虎太郎の長男として生まれた。東京高等師範学校(筑波大学)の物理化学科を1907年(明治40年)に卒業した。 或いは数学科を卒業した。 教師として数年間働いてから、東京帝国大学(東京大学)に入学して、穂積八束博士宅に寄寓して、昼は学生、夜は教師をして苦学しながら、法科 または政治科を大正4年に卒業した。 卒業後に最初は三菱合資に就職したが、 穂積八束博士の娘であり穂積重威の妹でもある女性と結婚して、浅野総一郎の親戚となり、大正6年に浅野セメント(太平洋セメント)に転職した。
牛島 省三(うしじま しょうぞう、せいぞう、1883年(明治… 牛島 省三(うしじま しょうぞう、せいぞう、1883年(明治16年)3月 - 1940年(昭和15年)10月14日)は、日本の内務・警察・朝鮮総督府官僚、実業家。官選茨城県知事。 陸軍大将の牛島満は弟。 鹿児島県鹿屋市出身。薩摩藩士牛島実満の二男。父は明治維新後、東京に住し、陸軍中尉として近衛連隊に勤務していたが、弟の満が生まれる半年前に死去。5歳の時に母に連れられて鹿児島に転居[要出典]。 第七高等学校造士館を卒業後、1910年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し兵庫県試補となる。 以後、兵庫県警視、同県美嚢郡長、鳥取県理事官、山口県警察部長、熊本県警察部長、兵庫県警察部長、石川県書記官・内務部長、長野県書記官・内務部長、大阪府書記官・内務部長、警視庁警務部長などを歴任。
真野 正雄(まの まさお、1883年〈明治16年〉3月 - … 真野 正雄(まの まさお、1883年〈明治16年〉3月 - 1939年〈昭和14年〉2月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけての日本の電気技術者・実業家である。逓信省の技師を経て中部電力(岡崎)常務取締役を務めた。父は機械工学者の真野文二。 真野正雄は、1883年(明治16年)3月、当時工部大学校助教授であった真野文二(のち東京帝国大学教授・貴族院勅選議員)の長男として生まれた。1906年(明治39年)7月、岡山市の第六高等学校工科を卒業し、次いで1910年(明治43年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学卒業後は一旦三井物産に入社するが1911年(明治44年)5月退社して逓信省へ入り、8月逓信技手に任ぜられる。
栂野 明二郎(明次郎)とがの めいじろう、明治15年(188… 栂野 明二郎(明次郎)とがの めいじろう、明治15年(1882年)12月6日 - 昭和15年(1940年)10月20日)は、日本の発明家、実業家。新潟県立長岡高等学校卒業生名簿では「栂野明次郎」と記載されている。 新潟県長岡市出身。明治35年(1902年)に新潟県立長岡中学校を卒業する。日露戦争時に補充兵として半月の軍隊生活を送る。明治42年(1909年)に帝国大学農科大学農芸化学科(現・東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)を卒業した。その後、日本醤油株式会社に入社するが明治43年(1910年)に辞め、樺太庁の依嘱を受けて木屑酒精製造調査のために北米に差遣された。明治44年(1911年)に大蔵省醸造試験所技師に任官した。
細川 玖琅(ほそかわ くろう、1882年〈明治15年〉11月… 細川 玖琅(ほそかわ くろう、1882年〈明治15年〉11月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。朝鮮企業社長。富士見銀行頭取。若宮八幡宮司。長野県諏訪郡富士見村長。族籍は長野県士族。 長野県士族・細川直行の長男。1901年、東京高等師範学校附属中学校を卒業。1908年、第二高等学校第二部農科を卒業。1911年、家督を相続し、同年東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業する。 銀行会社の重役で、推されて長野県会議員である。長野県参事会員に挙げられる。神職、富士見村長、富士見村農会長である。住所は長野県諏訪郡富士見村字若宮(現・富士見町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年… 関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年〉11月21日 - 没年不詳)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省の技官を経て実業界入りし、大阪電灯技師長や大同電力常務取締役、日本揮発油(現・日揮ホールディングス)初代専務取締役などを務めた。 関口寿は1882年(明治15年)11月21日、東京府関口慶吉の長男として生まれた。1901年(明治34年)7月東京の第一高等学校第二部工科を卒業、次いで1904年(明治37年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業する。卒業後は逓信省に入り通信技手となる。翌年時点の職員録には逓信省通信局所属の通信技手とある。
郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13… 郷古 潔(ごうこ きよし、1882年(明治15年)11月13日 - 1961年(昭和36年)4月28日)は、日本の実業家。三菱重工業社長、太平洋戦争時の東條内閣顧問。戦後はA級戦犯として逮捕され、公職追放された。 地域の教育者であった郷古玉三郎、ゆうの長男として岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現・奥州市)不断町にて生まれた。先祖は仙台藩伊達氏の一門である留守家に仕えた藩医。盛岡中学校(及川古志郎、野村胡堂らと同級)、第一高等学校(東京大学教養学部)、東京帝国大学法科大学法律科を経て、1908年8月、三菱合資会社に入社。入社後すぐに九州の炭鉱へ転勤を命じられた。後には三菱造船、神戸造船、三菱重工、日本航空会社と三菱財閥の各社で勤務。
上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月… 上野 精一(うえの せいいち、1882年(明治15年)10月28日 - 1970年(昭和45年)4月19日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社主。 1882年、朝日新聞社社主・上野理一の長男として大阪市東区平野町に生まれる。北野中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒。大学院在籍のまま日本勧業銀行に入行するが、1910年に朝日新聞社に入社。営業部長、副社長を歴任。妻は九鬼隆義の娘の梅子(琴の奏者として知られる。戒名は慈徳院殿仁讓琴室梅箏大姉) 村山龍平社長のもとに専務取締役、取締役会長を経て1933年に社長就任。廃止されていた主筆制を復活させる。1946年、全国中等学校野球連盟(現日本高等学校野球連盟(高野連))設立、初代会長に就任。
若尾 謹之助(わかお きんのすけ、1882年〈明治15年〉1… 若尾 謹之助(わかお きんのすけ、1882年〈明治15年〉10月24日 - 1933年〈昭和8年〉1月25日)は、明治末から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 山梨県出身。若尾民造の三男として生まれる。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し実業界に入る。 1917年(大正6年)父の死去に伴い三男であったが二人の兄が早逝していたため家督を相続した。若尾銀行頭取、若尾保全社長、常盤生命代表取締役、若尾貯蓄銀行代表取締役、日本電化代表取締役、日本電気炉工業取締役、日本電球取締役、東京電燈取締役、東京瓦斯取締役、日本機械製造監査役、甲府商業会議所常議員、甲府市商業学校商議員などを務めた。
濱崎 秀(はまざき ひで、1882年(明治10年)9月 - … 濱崎 秀(はまざき ひで、1882年(明治10年)9月 - 没年不明)は、日本の実業家。 共同酒造、江田醸造研究所各株式会社常務取締役、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役。 青森県士族、青木庄睛の六男として生まれる。1896年(明治29年)、濱崎芳雄の養子となり、1907年(明治40年)家督を相続する。同年東京帝国大学農科大農芸化学科を卒業後、大蔵省醸造試験所の技官・鹿又親氏の斡旋で、当時醸造業の近代化を目指していた大倉酒造11代目の当主・大倉恒吉が設立した大倉酒造研究所に入所。伏見醸友会の初代会長を勤める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
加勢 清雄(かせい きよお / かせ きよお、1882年〈明… 加勢 清雄(かせい きよお / かせ きよお、1882年〈明治15年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉11月24日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事。 現在の山形県米沢市出身。加勢清隆の二男、あるいは三男。第一高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し秋田県警視となる。 以後、秋田県事務官、新潟県事務官、埼玉県警察部長、新潟県警察部長、愛知県内務部長、福岡県書記官・内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1926年9月、宮崎県知事に就任。日向カボチャの宣伝を行った。1927年5月、高知県知事に転任。
久村 種樹(ひさむら たねき、1882年4月16日 - 19… 久村 種樹(ひさむら たねき、1882年4月16日 - 1967年4月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。陸軍科学研究所長、陸軍技術本部長を歴任。戦後、東洋高圧工業(現・三井化学)社長。 滋賀県出身。近江西大路藩(蒲生郡日野町)出身の教育家久村静弥の長男として生れる。陸軍幼年学校(13期)を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校14期卒業(砲兵科)。翌年6月、砲兵少尉に任官し東京湾要塞砲兵連隊付となる。1908年(明治41年)12月、陸軍砲工学校高等科(14期)を優等で卒業。1909年(明治42年)9月、砲工学校員外学生となり東京帝国大学工学部火薬学科に入学。1912年(明治45年)7月、東京帝国大学を卒業し大阪火薬工廠宇治火薬製造所付となる。
山岡 国利(やまおか くにとし、1882年〈明治15年〉2月… 山岡 国利(やまおか くにとし、1882年〈明治15年〉2月 - 1945年〈昭和20年〉3月25日)は、日本の内務・農商務官僚、実業家。官選県知事。旧姓・奥、旧名・堅次。 鹿児島県川内市(薩摩川内市)出身。奥斎之助の二男として生まれた。1900年(明治33年)、山岡国吉の養子となり、1930年(昭和5年)、名を国利と改名。 第一高等学校を首席で卒業。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し山形県属となる。 以後、警視庁方面監察官、農商務大臣秘書官兼農商務省参事官、同省山林局書記官、同事務官、三重県警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長、内務省土木局河川課長などを歴任。