大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月… 大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月25日 - 1974年〈昭和49年〉2月27日)は、日本の医学者(内科)、教育者。号は「春郊」。 福岡県出身。深町俊太郎の三男として生まれたが、大里広次郎の養子となる。1914年に東京帝国大学医科大学を卒業する。1921年に医学博士号を取得した。 その後金沢医科大学と東北帝国大学で教授を務めた。医学者としては癌の化学療法に関する研究を手がけた。 1950年に福島県立医科大学が開学すると、初代学長に就任した。11年あまり務め、1961年4月末をもって退任。 学長退任後は秋田県立中央病院を経て、1965年から出身地である福岡県にある飯塚学園の理事長兼校長を務めた。
原 龍三郎(はら りゅうざぶろう、1888年7月15日 - … 原 龍三郎(はら りゅうざぶろう、1888年7月15日 - 1968年12月30日)は、日本の応用化学者。工学博士。東北帝国大学工学部名誉教授。文化功労者、日本学士院会員。日本化学会名誉会員。 先祖は金沢の士族、父が飯田の中学校長在任中に生れた。一高を経て1913年東京帝国大学応用化学科卒。九州帝国大学講師、1914年助教授、1917年新設の東北帝国大学工学部に転じ、1922年教授。1925年東北大学工学博士 「青化水素及其ノ「ナトリウム」塩ニ関スル研究」 。 1947年健康上の理由から定年に2年先立って退官。 初期における研究の中心は窒素固定に関連する。青化物に関するもの、とくに青化水素の物理化学的性質についての精緻を極めた研究は特筆に値する。
山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日… 山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉7月30日)は、日本の弁護士、法学博士、医学博士、医史学者、医事法制学創始者。日本弁護士連合会会長、日本医史学会理事長、公安審査委員会委員長などを歴任した。 1888年(明治21年)、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年(明治42年)に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した。 1913年(大正2年)7月に医事法制の志を立て、東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年(大正3年)春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。
物部 長穂(もののべ ながほ、1888年6月19日 - 19… 物部 長穂(もののべ ながほ、1888年6月19日 - 1941年9月9日)は日本の土木学者。工学博士。日本の水理学、土木耐震学の第一人者。 秋田県仙北郡(現在の大仙市域)出身。出羽物部氏の家系である唐松神社の生まれで、弟に帝国陸軍中将の物部長鉾がいる。 大正時代から昭和初期に掛けて土木工学の第一人者として当時の日本に多大な影響を与えたが、特に影響を与えたのは河川工学・ダム工学である。ダムの耐震構造に関する基礎を形成し(これを初めて採用したのが庄川水系の小牧ダム)、バットレスダムや重力式コンクリートダムの工法理論を構築した。そして最も影響を与えたのは河川開発であり、彼の発案した「河水統制計画」論は以後の河川開発に革命をもたらし、河川総合開発事業とその根幹である多目的ダムは彼の案より実現された。
那須 皓(なす しろし、1888年6月11日 - 1984年… 那須 皓(なす しろし、1888年6月11日 - 1984年3月29日)は、大正・昭和期の農学者(農学博士)。専攻は農業経済学及び農政研究。 1888年、東京市本郷区(のち東京都文京区)生まれ。府立四中、一高を経て、1911年に東京帝国大学農科大学(のち東京大学農学部)を卒業後、1917年に助教授、1922年には教授となる。「日本農業経済学会」を結成して農業経済学の日本における普及を図る一方、農林省の石黒忠篤と親交が深く、頻発する小作争議や農村の貧困問題の解決などの研究を行い、後に農林大臣となり「農政の神様」と称されるようになった石黒の側近・ブレーンとして活躍した。また、軍部の台頭に危惧を抱いて、アジア太平洋地域との平和的な交流に尽力した。
岩垂 亨(いわだれ とおる、1888年 <明治21年> 6月… 岩垂 亨(いわだれ とおる、1888年 <明治21年> 6月3日 - 1974年 <昭和49年> 6月16日)は日本の化学者、実業家。梅毒治療薬サルバルサンの国内製造を行い、また万有製薬を創設し初代社長を務めた。位階は正五位。 1888年(明治21年)、宇田作太郎の次男として三重県宇治山田町(現在の伊勢市二俣町)で誕生。愛知県立第一中学校に入学するも中退し、神戸病院などで働いたのち、東京に住む叔父の勧めで東京に移転し再び勉学に取り組むことになった。 1906年(明治39年)、東京高等師範学校に入学。1910年(明治43年)3月には本科数物化学部を卒業し物理および化学の教員免状を得た。私立名古屋中学校に就職するが、ほどなく退職し同年10月には東京帝国大学理科大学化学科に入学。
吉井義次(よしい よしじ、1888年5月28日 - 1977… 吉井義次(よしい よしじ、1888年5月28日 - 1977年2月4日)は、日本の植物学者。 1888年(明治21年)5月28日、生まれる。東京帝国大学卒。1911年(明治44年)、井上禧之助らと共に帝国議会貴族院に「史蹟及天然記念物保存ニ関スル建議」を提出、採択された。 1919年(大正8年)、内務省史蹟名勝天然記念物考査員になる。 1922年(大正11年)、東京帝国大学の講師になり、1926年(大正15年)、欧米へ留学する。 1928年(昭和3年)、東北帝国大学教授になるも、1950年(昭和25年)退官。教授としての活動中、野外実験所の設置や、八甲田山高山植物実験所の設置を行った。他、機関紙「生態学研究」の発行にも携わる。
恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1… 恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1972年4月18日)は、日本の植物学者。旧姓は小山。 長野県北佐久郡大井村(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に通い、島崎藤村から国語を学ぶ。1906年(明治39年)、恩田重信の養子となる。第一高等学校を経て1916年東京帝国大学理学部植物学科卒業、同大学院中途退学。在学中は三好学の指導を受けた。水産講習所(現・東京海洋大学)非常勤講師を経て、1923年(大正12年)明治薬学専門学校教授となり、第一高等学校講師を経て明治薬科大学の初代学長となる。牧野富太郎に師事し、木本植物を研究した。
九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 19… 九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 1941年5月6日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授。文学博士。 1888年、東京府東京市で生まれた。父は文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼水軍を率いた戦国武将の九鬼嘉隆。 1904年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校独法科に進むも、文科に転じた。東京帝国大学文科大学に進学し、哲学科ではラファエル・フォン・ケーベルに師事した。卒業後は、同大学大学院に進学。 大学院中退後、妻・九鬼縫子とともに1921年よりヨーロッパ諸国へ足かけ8年間留学。初めドイツに渡り、新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事するが、それでは満たされず、のちフランスに渡り、アンリ・ベルクソンと面識を得るなどし、その哲学の強い影響を受けた。
山崎 匡輔(やまざき きょうすけ、1888年〈明治21年〉2… 山崎 匡輔(やまざき きょうすけ、1888年〈明治21年〉2月9日 - 1963年〈昭和38年〉8月8日)は、日本の官僚、土木工学者、教育行政家。鉄道院技師、東京帝国大学教授、日本学術振興会理事長、文部次官、東京都教育委員長、日本放送協会常務理事、東海大学第2代学長、成城大学学長。工学博士。土木学会名誉会員。第12回(昭和35年度)NHK放送文化賞受賞。 群馬県桐生市に、吾妻郡長をつとめた山崎金四郎の長男として生まれる。旧制前橋中学校、旧制第一高等学校理科を経て、1915年東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。鉄道院技師をつとめたのち、1920年東京帝国大学助教授を経て1939年同教授となる。 1945年文部省科学教育局長となり、1946年文部次官に就任。
白井 成允(しらい しげのぶ、1888年〈明治21年〉2月6… 白井 成允(しらい しげのぶ、1888年〈明治21年〉2月6日 - 1973年〈昭和48年〉8月25日)は、日本の倫理学者。 岩手県盛岡市出身、盛岡中学卒業。1913年東京帝国大学文学部哲学科卒業。愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)教授、(旧制)第二高等学校教授、京城帝国大学教授を経て広島文理科大学教授。1957年「三経義疏の倫理学的管窺」で広島文理科大学文学博士。1952年龍谷大学教授。睦学園短期大学長、武庫川女子大学教授。 次男は白井成道(哲学者、大阪府立大学名誉教授)、三男は小田嶋成和(病理学者)、四男は白井成雄(フランス文学者、名古屋大学名誉教授)。
鈴木 文助(すずき ぶんすけ、1888年〈明治21年〉1月1… 鈴木 文助(すずき ぶんすけ、1888年〈明治21年〉1月10日 - 1949年〈昭和24年〉11月8日)は、日本の生物学者(生化学・農芸化学)。旧姓は「荒木」(あらき)。京都帝国大学農学部教授、農学部教授。 1888年(明治21年)1月、福島県に生まれた。上京して東京帝国大学の農科大学に進学し、農芸化学科にて学んだ。このとき鈴木梅太郎に師事し、のちに梅太郎の娘婿となった。1912年(明治45年)、東京帝国大学の農科大学を卒業。なお、後年に博士論文「『ビオス』ニ関スル研究」を執筆し、1925年(大正14年)に東京帝国大学より農学博士の学位が授与された。 大学卒業後は生物学者として研鑽を重ね、1923年(大正12年)に京都帝国大学教授に就任。
阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 … 阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 - 1945年〈昭和20年〉4月15日)は日本の物理学者、新聞社社長。 阿部宇之八の長男として北海道札幌区に生まれる。北海道庁立札幌中学校から第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。1913年(大正2年)4月から8月までシーメンス・シュッケルト社(現・シーメンス)技師、1916年(大正5年)4月から早稲田大学高等師範部講師、1920年(大正9年)4月から早稲田大学高等学院教授となり、科学哲学と科学史の研究に精励する。1923年(大正11年)10月辞職。父の死去に伴い、1925年(大正14年)に北海タイムス社理事、1927年(昭和2年)に同社社長となる。
大橋 良一(おおはし りょういち、1888年1月2日 - 1… 大橋 良一(おおはし りょういち、1888年1月2日 - 1983年6月29日)は、日本の地球科学者。専門は地質学・鉱床学など。東京市生まれ。 私立開成中学校を経て、1911年東京帝国大学理科大学地質学科専科を修了。1912年、創立2年目の秋田鉱山専門学校に講師として赴任。1956年に停年退職するまで、44年間の長きにわたり秋田鉱専・秋田大学鉱山学部で教育・研究に励む。 研究対象は地質・鉱物・鉱床・火山・温泉・地震などと広範囲にわたり、多くの分野で業績を残したが、特に男鹿半島の新第三紀層の研究は、その後のグリーンタフ研究の先駆として高く評価されている。また、特筆に値するのは黒鉱鉱床の成因についての見解で、1920年前後の早い時期から海底爆裂口温泉沈殿説を打ち出し、数十年にわたり四面楚歌の状態で学界から無視され続けたが、1970年前後に至って、初めてその正当性が評価された。
下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月… 下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月2日)は、日本の大蔵官僚、建築家、工学者(建築学)。 日本建築学会副会長、戦災復興院技監、戦災復興院営繕部部長、工学院大学工学部教授などを歴任した。 大蔵省(のちの財務省)に所属する技師として、総理大臣官邸(のちに総理大臣公邸に転用)をはじめとする多数の官公庁を設計した。退官後は、下元設計事務所の代表として活動すると同時に、工学院大学工学部の教授として後進を育成した。 1888年、福岡県小倉市(のちの福岡県北九州市)にて生まれた。大志を抱いて上京し、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に入学し建築学を学んだ。1914年、東京帝国大学工科大学の建築学科(のちの東京大学工学部建築学科)を卒業し、学士号を得た。
緒方 章(おがた あきら、1887年10月26日 - 197… 緒方 章(おがた あきら、1887年10月26日 - 1978年8月22日)は、日本の薬学者、東京大学名誉教授。薬学博士。日本の内分泌科学の創始者で、国内の薬学、薬業の発展に貢献した。幕末の蘭方医・緒方洪庵の孫。 中央薬事審議会会長、日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長、内分泌学会会長などを歴任した。 甲状腺ホルモンの研究を行い、特に兄の緒方知三郎と共にウシの耳下腺から唾液腺ホルモン、パロチンを単離・製品化することに寄与した。 1919年にはメタンフェタミン(ヒロポン)の結晶化に成功している。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
黒上 泰治(くろかみ たいじ、旧姓:三木、1887年〈明治2… 黒上 泰治(くろかみ たいじ、旧姓:三木、1887年〈明治20年〉10月20日 - 1974年〈昭和49年〉12月2日)は、日本の農学者。徳島県松茂町出身。東京帝国大学(現・東京大学)卒業。 大阪府や神奈川県の農事試験場長などを歴任し、1929年(昭和4年)に千葉高等園芸学校(現・千葉大学)教授に就任。 第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)に宇都宮高等農林学校校長に就任。1947年(昭和22年)9月4日、昭和天皇の戦後巡幸があり、天皇に学校の概況を奏上した。1948年(昭和23年)に旧制香川県立農業専門学校の校長に就任。その後、香川大学農学部の初代学部長となる。1953年(昭和28年)に香川園芸研究協議会の初代会長に就任。
増井 清(ますい きよし、1887年〈明治20年〉9月14日… 増井 清(ますい きよし、1887年〈明治20年〉9月14日 - 1981年〈昭和56年〉8月6日)は、日本の獣医学者、畜産学者。世界で初めてひよこの雄雌の鑑別法を発見した。獣医学博士。東京大学名誉教授。名古屋大学名誉教授。位階は従三位。 静岡県立静岡中学校卒業。第二高等学校 (旧制)を経て、1915年、東京帝国大学農科大学獣医医学科を卒業。1921年、獣医学博士、1922年、助教授(解剖学)。1924年に『雄鶏ニ於ケル退化交尾器官並ニ初生雛ノ雌雄鑑別ニツイテ』(農林省畜産試験場橋本重郎、大野勇両技官と共著)発表。1927年ドイツに留学、カイザー・ウィルヘルム生物学研究所(現、マックス・プランク研究所)においてリチャード・ゴールドシュミットのもとで「性の決定」に関する研究を行った。
杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949… 杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949年8月29日)は、日本の医学者、精神科医。 1887年、東京府生まれ。第一高等学校に入学し、高校在学時代の友人に谷崎潤一郎がいた。その後東京帝国大学に進学し卒業する。欧米に留学。帰国後に東京帝国大学助教授となり、松沢病院副院長。1931年名古屋医科大学教授、戦後名古屋大学教授となるがほどなく死去した。 妹の息子に小田切秀雄、小田切進がいる。
井口 鹿象(いぐち しかぞう、1887年7月8日 - 195… 井口 鹿象(いぐち しかぞう、1887年7月8日 - 1956年3月13日)は日本の工学者、官僚。工学博士(東京帝国大学)。室蘭工業大学初代学長。北海道大学・室蘭工業大学名誉教授。専門は、水工学・河川工学。 静岡県出身。1915年東京帝國大學工学部土木工学科を卒業し、内務省に入省。同内務部土木課長。1930年北海道帝國大學工学部教授(水工学・河川工学講座を担当)。1931年より2年間独・伊・米に留学。1942年同工学部長。1948年北海道大学退官。同名誉教授。室蘭工業専門学校校長に就任。1949年室蘭工業大学初代学長に就任。1956年に同学長在職中に逝去。同名誉教授。 性格は几帳面で責任感が強かったといい、それがもとで亡くなったという。
増田 胤次(ますだ たねじ、1887年6月29日 - 196… 増田 胤次(ますだ たねじ、1887年6月29日 - 1964年6月5日)は、日本の医学者。東京帝国大学医学部耳鼻咽喉科の教授。埼玉県出身。 1887年(明治20年)6月29日生まれ。東京帝国大学医科大学卒業。スイスに留学し、陸軍軍医学校教官を経て、1924年(大正13年)母校である東京帝国大学の教授となる。同年、医学博士を取得。1942年(昭和17年)、東京帝国大学附属病院長に就任。1952年(昭和27年)東京大学名誉教授。 1964年(昭和39年)6月5日死去。76歳。墓地は奥多摩にある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松本 彦七郎(まつもと ひこしちろう、1887年6月9日 -… 松本 彦七郎(まつもと ひこしちろう、1887年6月9日 - 1975年9月1日)は、日本の動物学者、地質学者、古生物学者、人類学者、考古学者、博物学者。 大正時代に、仙台湾周辺の貝塚において層位学的な発掘調査を行い、科学的・実証的な発掘調査法と編年学の基礎をつくった。戦後、花泉遺跡の調査を行い、ハナイズミモリウシ(Lephobison hanaizumiensis)の命名者としても著名である。日本哺乳動物学会名誉会員。 動物分類学を出発点に、初めて詳細な土器の型式分類を試み、その紋様構成の系統について進化論的な新しい見方を示したほか、地質学における分層発掘の方法を取り入れ、堆積層によって土器の紋様・厚さ・器種の構成比が異なってくることを見出し、日本最初の層位学的な研究を実施、考古学における層位論研究の開祖となった。
高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5… 高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5月11日 - 1967年(昭和42年)6月11日)は、日本の法学者。専門は英米法。位階は正三位。東京大学名誉教授。成蹊大学名誉教授。貴族院勅選議員。大正・昭和期の代表的英米法学者として知られる。弟子に末延三次、田中和夫、守屋善輝など。 埼玉県熊谷市に生まれる。正則英語学校、府立四中、一高を経て、1912年東京帝国大学法科大学卒業。 1913年東京帝国大学大学院(旧制)中退し、東京帝国大学法科大学助教授。1921年東京帝国大学法学部教授(後に附属図書館館長兼務)を歴任した。イギリス法研究が主流であった時代に、1915年~1920年ハーバード大学ロースクールなどに留学し、違憲立法審査権などアメリカ法研究に本格的に取組んだ。
久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4… 久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4月19日)は、日本の鉱山技術者(工学博士)、経営者。撫順炭鉱など満洲における鉱物資源採掘、経営に携わった。中華民国(国民政府)によって平頂山事件の責任を問われ銃殺刑に処されたが、日本では冤罪と考えられている。 1887年(明治20年)5月5日、父・義道と母・久米の長男として高知県土佐郡大川筋で生まれた。幼名は東洋士。1905年(明治38年)に高知県立第一中学校を卒業、第三高等学校を経て東京帝国大学に進学。1912年(明治45年)7月に同大学工科大学採鉱冶金学科を卒業すると、すぐに南満洲鉄道に就職、撫順炭鉱の鉱務課に勤務した。 順調に昇進を続け、1932年(昭和7年)には撫順炭鉱長に着任。
工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月… 工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月26日 - 1932年(昭和7年)1月8日)は、日本の植物学者。現在の秋田県平鹿郡増田町(現横手市)縫殿生まれ。植物分類学の泰斗として知られる。 父祐哲は浄土真宗の寺院通覚寺の19世住職であり、祐舜は長男であったが、のちに弟祐信を養子として寺を継がせている。 1901年(明治34年)秋田県立第三中学校(現秋田県立横手高等学校)に入学、植物好きの教師宮沢運治に傾倒し、宮沢もまた工藤を殊の外かわいがって植物採集に連れまわし、あたかも助手のような扱いであったという。中学時代、すでに海外の植物園や博物館などと標本交換をおこない、学名不明の植物を札幌農学校の宮部金吾に送ったことで2人の文通が始まった。
赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24… 赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24日 - 1972年(昭和47年)9月24日)は、日本の農学博士・政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。文化勲章受章者。 日本において砂防の重要さをいち早く説いた人物で「砂防の父」や「砂防の神様」と称される。 兄は中筋村(現豊岡市)村長の赤木一雄、甥に画家の赤木蘇夫二(そぶじ)、政治学者の赤木須留喜(するき)、子供は1男4女、三女(玲子)の岳父はドイツ語学者の武内大造、四女(淑子)の夫は生物学者の太田次郎。 兵庫県城崎郡中筋村(現豊岡市)引野に生まれる。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たる。
戸田 貞三(とだ ていぞう、1887年3月6日 - 1955… 戸田 貞三(とだ ていぞう、1887年3月6日 - 1955年7月31日)は、日本の社会学者、東京帝国大学名誉教授。家族社会学専門。 1887年、兵庫県朝来市(兵庫県朝来郡中川村立脇)で生まれた。1909年、東京帝国大学文科大学哲学科社会学専攻に入学。建部遯吾に師事しながらも外山正一に影響を受けて、卒業論文の題目は「日本に於ける家の制度発達の研究」であった。1912年に卒業。 1920年、母校である東京帝国大学文学部講師に着任し、同年より欧米に留学し、シカゴ大学などで在外研究に従事。シカゴ大学ではロバート・E・パークの講義を受けて、その影響を受けた。1922年10月に帰国。東京帝国大学文学部助教授に昇進。
曾禰 武(曽祢 武、そね たけ、1887年(明治20年)3月… 曾禰 武(曽祢 武、そね たけ、1887年(明治20年)3月1日 - 1988年(昭和63年)9月23日)は、日本の物理学者。東京生まれ。最初の弟子として本多光太郎に師事し、日本の黎明期における近代的な実験物理学に功績を残す。曾禰は胸の疾患により研究が困難になったため後世で忘れ去られていたが、第17代東京大学総長茅誠司が幾度も言及したことにより彼の業績が注目されるに至った。立教大学で教授を務め、理学部の礎を築き、開成中学校・高等学校では校長を務めた。父は建築家・曽禰達蔵、弟は政治家・曾禰益。母は高橋是清の義理の妹。 開成中学を経て、1904年に一高へ入学。1907年4月21日、一高の最終学年3学期にキリスト教へ入信。
松本 良一 (まつもと りょういち、1887年3月 - 没年… 松本 良一 (まつもと りょういち、1887年3月 - 没年不詳)は、日本の船舶工学者。 東京帝国大学第二工学部教授。東京大学工学部教授。 修猷館教諭を務めた松本豊太郎の長男として、福岡市に生まれる。1905年福岡県立中学修猷館、1910年7月第七高等学校造士館工科を経て、1913年7月東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。 1913年三菱重工業に入社。1919年英国に留学し、神戸造船所参事、造船設計課長、造船設計部長を経て、1940年3月神戸造船所副長に就任。 1942年4月東京帝国大学に、第二次世界大戦が激化する当時の情勢下において、軍事産業を支える工学者や技術者を養成するために、第二工学部が設置されると、その教授に招聘され就任する。
土田 誠一(つちだ せいいち、1887年〈明治20年〉2月2… 土田 誠一(つちだ せいいち、1887年〈明治20年〉2月21日 - 1945年〈昭和20年〉10月2日)は、日本の論理学者、古神道学者、郷土史家。東京帝国大学助教授、神宮皇学館教授、旧制成蹊高等学校校長。 1887年(明治20年)、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市矢島町)に生まれる。秋田師範学校では田村徳治・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた。1907年(明治40年)、同校を卒業し、東京高等師範学校英語科を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業した。井上哲次郎の門下生であった。東京帝国大学大学院へと進み、1919年(大正8年)、東京帝国大学文科大学助教授となる。
緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 197… 緒方 規雄(おがた のりお、1887年1月28日 - 1970年2月6日)は、日本の医学者、細菌学者。 東京府出身。父は衛生学者、細菌学者である緒方正規。1916年に東京帝国大学医科大学を卒業。その後、父のもとで細菌学を学び、東大副手、助手を務め、1919年に千葉医学専門学校の教授となった。1922年にドイツに留学した。帰国後の1924年に千葉医科大学の教授となった。その後は、帝国女子医学専門学校教授、東邦大学医学部教授、日本歯科大学教授を歴任した。 1927年にウサギの睾丸にツツガムシ病患者の血液を接種し、睾丸から睾丸へ継代することにより、ツツガムシ病の病原を患者から研究室に確実に持ち込むことに初めて成功した。
笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - … 笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - 1978年12月19日)は、日本の植物学者。東京帝国大学在学中から桜の研究を始め、特にサトザクラ、ヤマザクラなどの日本古来種の保護育成に尽力し、「桜博士」といわれた。 1887年1月15日、大阪市北区堂島船大工町に生まれる。西天満小学校、盈進高等小学校、堂島中学校(現北野高校)、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。在学中より独学で桜の研究に打ち込む。卒業後は犬養毅の秘書をした後、兵庫県宝塚市切畑長尾山の麓(現在のJR西日本福知山線武田尾駅近辺)に桜の研修を行う演習林「亦楽山荘」を造園。品種保存などを研究した。没後は荒れて雑木林となったが、親族より跡地を寄贈された宝塚市が1999年に里山公園「桜の園」として再整備。
武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 19… 武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 1965年1月7日)は、日本の心理学者。 岡山県出身。1921年東京高等師範学校卒、27年東京帝国大学文学部心理学科卒。大学院在籍、29年東京文理科大学助教授、教授。31-33年ドイツ・ロストック大学に学ぶ。1942年「学習心理の研究」で東京文理科大学より文学博士の学位を取得。神奈川大学教授、大妻女子大学教授、講談社児童相談所長。
小宮 悦造(こみや えつぞう、1886年(明治9年)12月1… 小宮 悦造(こみや えつぞう、1886年(明治9年)12月1日 - 1973年(昭和48年)1月21日)は、日本の内科学者である。 山梨県大月市に生まれ、東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)に入学する。1914年(大正3年)に卒業後は入沢達吉が院長を務めた東京帝大附属の内科に医師として活動し、副手を経て助手として勤務した。1922年(大正11年)に医学博士を取得し、1924年(大正13年)には熊本医科大学(現在の熊本大学医学部)の教授となる。その後は同大学で教鞭を執る傍ら翌1925年(大正14年)には留学のため離日し、欧米の津々浦々で血球の神経性調節に関する研究に携わった。
高橋 里美(たかはし さとみ、1886年(明治19年)11月… 高橋 里美(たかはし さとみ、1886年(明治19年)11月28日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は、日本の哲学者。男性。元東北大学総長。文化功労者。 1886年、山形県東置賜郡上郷村(現米沢市)で生まれた。13歳の時に父を失い、米沢にあった母の実家本間家で育った。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学文科大学に入学。哲学科で学び、1910年(明治43年)に卒業。同大学大学院へ進み、修了した。大学院在学時の26歳の時に処女論文「意識現象の事実と其意味」(1912年5・6月号『哲学雑誌』)を発表して西田幾多郎『善の研究』を批判し、西田と論争を展開して注目された。
草野 豹一郎(くさの ひょういちろう 1886年10月7日 … 草野 豹一郎(くさの ひょういちろう 1886年10月7日 - 1951年9月12日)は、日本の裁判官、法学者、弁護士。
徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19… 徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19年)10月5日 - 1976年(昭和51年)9月6日)は、日本の政治家、植物学者、狩猟家。尾張徳川家第19代当主。位階・勲等・爵位は従二位勲二等侯爵。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから、虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に『最後の殿様』がある。 父は越前松平家・松平慶永(春嶽)で、1908年に尾張徳川家の婿養子となり、家督を相続した。同家の東京移転に際し、愛知県下の土地等の財産の処分を指揮し、1931年に財団法人徳川黎明会を設立して、同家伝来の什宝・書籍を同財団付属の徳川美術館・蓬左文庫で保存・公開した。
土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979… 土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979年11月26日)は、日本の英文学者、古典学者。 1886年(明治19年)、高知県長岡郡十市村(現・南国市)生まれ。第三高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学英文科卒業。イギリス、フランス、イタリアに留学。 立正大学教員、東京女子大学教授、東京高等師範学校教授を経て、1924年(大正13年)に東北帝国大学教授となった。1948年(昭和23年)、東北大学を退職。その後は津田塾大学教授をつとめた。日本英文学会会長。1949年(昭和24年)に日本学士院会員に選出された。 1962年(昭和37年)1月8日、皇居での講書始の儀で「英国詩人ラーフ・ホジソンの鳥の詩について」の題で進講を行った。
勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年(明治19年)8月… 勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年(明治19年)8月28日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、兵庫県神戸市生まれの医学者。専門は血液学、神経病学。医学博士。名古屋帝国大学医学部教授、第三代名古屋大学総長、第三代国立名古屋病院院長を務めた。 1926年(大正15年) に学士院賞を受賞、1954年(昭和29年)に文化勲章を受章した。1953年(昭和28年)にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がったが受賞を逸している。 父・五郎は日本郵船の船長であったが澎湖諸島沖で海難死し、母・顕子の実家の静岡県へ移住した。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1911年(明治44年) 、東京帝国大学医学部卒業。
颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24… 颯田 琴次(さった ことじ、1886年(明治19年)7月24日 - 1975年(昭和50年)10月2日)は、耳鼻咽喉科学者、音声学者。 ヴァイオリン演奏では専門家の域に達しており、しばしばプロの交響楽団に加わって演奏したり、声楽家の診断から発声指導まで幅広く行なった。 東京出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部・薬学部卒、東京音楽学校(現・東京芸術大学)卒。1920年東大耳鼻咽喉科教室および生理学教室で研究。1931年「音響刺激に因る耳殻反射運動」で医学博士。1936年小幡重一、石本巳四雄、田口三郎らと日本音響学会を設立。1943年東京帝大医学部教授、1952年東京藝術大学教授、1953年NHK放送文化賞受賞。
米倉 昌達(よねくら まさよし / まさたつ、1886年(明… 米倉 昌達(よねくら まさよし / まさたつ、1886年(明治19年)7月15日 - 1937年(昭和12年)2月17日)は、大正から昭和期の薬学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・山口、旧名・重士。 子爵・山口弘達の三男として生まれ、1913年(大正2年)子爵・米倉昌臧の養子となり、同年3月、昌達と改名。養父の死去に伴い、1916年(大正5年)12月20日、子爵を襲爵した。 1911年(明治44年)東京帝国大学医科大学薬学科を卒業。さらに1916年、同大学医学科を卒業した。 1917年(大正6年)東京帝国大学伝染病研究所技手に就任。以後、同大学医科大学化学教室副手、同附属医院分院薬局長、日本医学専門学校教授兼学生監、千葉医科大学講師、京都薬学専門学校校長、昭和女子薬学専門学校校長、日本医科大学教授、同校学生監兼予科主任などを務めた。
内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月… 内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月12日 - 1970年〈昭和45年〉8月25日)は、日本の構造家・建築構造技術者・建築構造学者・一級建築士(登録番号第17200号)、建築家。「耐震構造の父」と称されている。名古屋テレビ塔や東京タワーなど、鉄塔の設計を多く手がけ、「塔博士」とも呼ばれている。日本建築学会長、日本地震工学振興会会長などを歴任。 山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)出身。旧制甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)入学。最初は造船学を専攻していたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向。佐野利器に師事した。
西 久光(にし ひさみつ、1886年(明治19年)6月9日 … 西 久光(にし ひさみつ、1886年(明治19年)6月9日 - 1970年(昭和45年)7月3日)は、大正から昭和時代の日本の物理学者。 西豊吉郎の三男として石川県に生まれる。1910年(明治43年)東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)実験物理学科卒業。 1914年(大正3年)第五高等学校(現・熊本大学の前身)教授、1919年(大正8年)九州帝国大学助教授、同年から1922年(大正11年)まで欧米留学を経て、同大工学部教授となった。1933年(昭和8年)理学博士。1939年(昭和14年)同大理学部教授、翌年理学部長を経て、1946年(昭和21年)定年退官、名誉教授となる。ほか、1949年(昭和24年)新設の佐賀大学長、のち名誉教授。
石橋 智信(いしばし とものぶ、1886年5月15日 - 1… 石橋 智信(いしばし とものぶ、1886年5月15日 - 1947年12月21日)は、日本の宗教学者。
金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉… 金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉3月17日 - 1959年〈昭和34年〉6月16日)は、日本の大蔵・法制官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。 愛知県名古屋市生まれ。愛知一中、旧制一高を経て、1912年(明治45年)東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験行政科試験に合格し大蔵省に入省、税務監督局属兼大蔵属。 1914年(大正3年)法制局に移り、法制局参事官、第一部長を歴任。この間、大学で法学、憲法学を講じ、『帝国憲法要説』等を著わした。1934年(昭和9年)岡田啓介内閣の法制局長官に就任するが、在任中に法制局長官就任以前の著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的であるという理由で右翼勢力から攻撃を受け、1936年(昭和11年)辞任に追い込まれた。
丸井 清泰(まるい きよやす、1886年(明治19年)3月1… 丸井 清泰(まるい きよやす、1886年(明治19年)3月10日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、精神科学者。専門は精神分析学。元東北帝国大学医学部精神病学講座教授。弘前大学初代学長。医学博士。理学博士。東北大学名誉教授。 日本における精神分析学黎明期に活躍した人物である。アメリカでアドルフ・マイヤー教授に師事し、日本にひろく精神分析を紹介した。帰国後東北帝国大学にて精神分析学講義を始めた。またその精神分析的研究発表を巡っては森田正馬、下田光造らと激しい論争を繰り広げた。弟子に古沢平作、山村道雄、懸田克躬らがいる。 兵庫県人・丸井清太郎の7男として神戸市に生まれる。第四高等学校を経て、1913年、東京帝国大学医科大学を卒業し、青山胤通の東大青山内科に入った。
関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 19… 関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 1951年8月10日)は、日本の天文学者、気象学者、東京帝国大学名誉教授。関口隆吉の四男。新村出(言語学者)は実兄。朝永振一郎の義父。 静岡県出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理科大学星学科卒業。朝鮮総督府観測所、神戸海洋気象台、中央気象台技師などを経て、1936年東京帝大教授兼東京天文台長。1946年定年退官、1949年まで帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学)校長。戦前の一時期、文部省専門学務局長として科学行政に携わり、科学研究費の導入に尽力した。
宮地 直一(みやじ なおかず、1886年(明治19年)1月2… 宮地 直一(みやじ なおかず、1886年(明治19年)1月24日 - 1949年(昭和24年)5月16日)は、日本の内務官僚、神道学者。内務省神社局考証課長、東京帝国大学教授。近代実証神道史学の確立者。 1886年、高知県高知市で生まれた。東京帝国大学文科大学史学科で学び、1908年に卒業。 1909年、内務省入省。神社局考証官、同考証課長などを務め、戦前の日本における神社・神道行政に大きな役割を果たした。内務省に勤務する一方で、大学でも教鞭を取った。1918年より、東京帝国大学文科大学講師として神祇史を担当。1922年からは國學院大學教授として同じく神祇史を担当した。 1938年、内務省を退官して東京帝国大学教授に就任。
東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17… 東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17日 - 1979年(昭和54年)7月18日)は、日本の法学者。旧姓乾(いぬい)。商法の権威として知られた。佐佐木信綱門下の歌人でもある。 奈良県十津川村出身。親類東武(衆議院議員、出版事業家)の養子となり、東姓を名乗る。1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、同年11月、一家で北海道新十津川村に移住。村の小学校を卒業した後、上京して旧制開成中学に入学。同校を卒業後、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業し、陸軍経理学校の教授に就任。 1922年(大正11年)、文部省留学生として渡欧し、英・独・仏で民法を研究。1924年(大正13年)に帰国し、九州帝国大学法文学部教授に就任。
瀬尾 貞信(せお さだのぶ、1886年1月8日 - 1946… 瀬尾 貞信(せお さだのぶ、1886年1月8日 - 1946年10月5日)は、日本の外科医、外科医学者。食道外科の大家。 新潟県中頸城郡板倉町(現・上越市板倉区)出身。旧姓は島田。東京帝国大学医科大学を1911年(明治44年)に卒業、外科入局。 1920年(大正9年)千葉県立千葉病院副部長、同年千葉医学専門学校教授、1922年(大正11年)同校付属医院外科医長、1923年(大正12年)千葉医科大学教授兼同大専門部教授。1924年(大正13年)医学博士を取得、1944年(昭和19年)「動脈注射療法の研究」で朝日賞を受賞。 教え子に中山恒明らがいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。