入矢 義高(いりや よしたか、1910年(明治43年)12月… 入矢 義高(いりや よしたか、1910年(明治43年)12月13日 - 1998年(平成10年)6月30日)は、日本の中国文学者。中国禅を中心とした仏教学者。専門は中国古典文学。学位は、文学博士。名古屋大学名誉教授、京都大学名誉教授。日本学士院会員。正四位勲二等瑞宝章。 1910年、鹿児島県鹿児島市で英語教師・入矢祐雲の長男として生まれた。1928年、福岡県立小倉中学校を卒業。1932年に福岡高等学校を卒業し、京都帝国大学に進学。ドイツ文学を専攻したいと考えていたが、父の意向で中国文学へと転向し、倉石武四郎の指導を受けた。1936年、京都大学文学部文学科を卒業。 卒業後は、広島県立中学(旧制)の教員となり、県立呉第一中学校に勤務。
喜多野 徳俊(きたの のりたか、1910年〈明治43年〉11… 喜多野 徳俊(きたの のりたか、1910年〈明治43年〉11月12日 - 2005年〈平成17年〉7月30日)は、昭和〜平成期に活躍した医師、郷土史家。奈良地方の郷土史を記録する多くの著作や中世地誌の現代語訳を残した。京都府京都市出身。 1910年(明治43年)11月12日、父・竹澤徳蔵、母うめの五男、竹澤徳俊として生まれる。 1935年(昭和10年)、名古屋医科大学を外科学専攻にて卒業し、同年名古屋大学医学部助手としての勤務を始める。同年末、奈良市中筋町で病院を経営する喜多野義夫との養子縁組およびその長女、文子との縁談が持ち込まれる。医学者としての研究継続を望んでいた徳俊は逡巡したが、学位論文完成までは研究を続けること、その後は奈良で喜多野病院を継ぐが、家業の耳鼻咽喉科だけでなく、徳俊の専門であった外科の診療も行うことなどを条件に、縁談は進められることとなった。
高木 健太郎(たかぎ けんたろう、1910年3月17日 - … 高木 健太郎(たかぎ けんたろう、1910年3月17日 - 1990年9月24日)は、日本の医学者で参議院任期中に亡くなった。生理学の世界的権威。名古屋大学名誉教授、名古屋市立大学名誉教授。参議院議員 1980年-1990年 (2期)。
岩月 達夫(いわつき たつお、1909年〈明治42年〉9月2… 岩月 達夫(いわつき たつお、1909年〈明治42年〉9月26日 - 1980年〈昭和55年〉8月25日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 愛知県出身。1930年に名古屋高等商業学校を卒業。 日本火災海上保険、トヨタ自動車工業での勤務を経て、1949年12月に日本電装取締役に就任し、1951年10月に常務、1955年12月に専務、1962年8月に副社長を経て、1967年2月に社長に就任。1973年2月には会長に就任した。 1973年4月に藍綬褒章を受章。 1980年8月25日、肺炎のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15… 巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15日 - 2020年〈令和2年〉4月14日)は、日本の医師、長寿の男性。渡邉智哲が2020年2月23日に死去して以来、男性長寿日本一となっていた。 愛知県岡崎市に生まれる。1939年、名古屋医科大学から医学博士を授与。1953年現在市立岡崎病院副院長であった。その後1968年、第4代市立岡崎病院長に就任。1979年9月に退職、のち名誉院長となっている。 岡崎市の老人ホームで生活し、車が好きで99歳の時まで運転していた。日ごろは車椅子で移動し、施設職員や入所者らとの会話を楽しみ、新聞を読んだりテレビを見たりして過ごしていた。 2020年2月23日、渡邉智哲が死去したことにより国内男性最高齢となったことが、厚生労働省により発表された。
山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986… 山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986年4月26日)は、日本の経済学者・統計学者。学位は、経済学博士(一橋大学・1961年)。1973年一橋大学名誉教授。1975年日本統計学会会長。国民経済計算、産業連関分析など計量経済学分野の研究で知られる。著書に『経済通論』・『産業連関の理論と計測』など、論文多数。訳書にW.J.ボーモル『経済動学序説』(共訳)・J.E.ミード『経済成長の理論』(監訳)など。 名古屋大学の北川一雄教授とともに名古屋高等商業学校が産んだ逸材の双璧とされた。指導学生に山澤逸平(一橋大学名誉教授)、島久代(千葉大学名誉教授)など。
井村 栄三(いむら えいぞう、1909年8月11日 - 19… 井村 栄三(いむら えいぞう、1909年8月11日 - 1996年10月22日)は、日本の経営者。三重県出身。 1930年に名古屋高等商業学校を卒業。 トヨタ自動車工業などでの勤務を経て、1949年に日本電装監査役に就任し、1951年5月に取締役、1955年に常務、1962年に専務を経て、1967年に副社長に就任した。1973年12月に東海理化電機製作所社長に就任。1979年6月には会長に就任した。1979年6月から1983年6月までに光洋精工社長を務めた。 1977年4月に藍綬褒章を受章し、1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1996年10月22日慢性腎不全のために死去。87歳没。
中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月… 中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月16日 - 1978年 <昭和53年> 10月20日)は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 静岡県浜松市出身。1930年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に三十五銀行(のちの静岡銀行)に入行。 1958年10月に取締役に就任し、1961年に常務、1970年4月に専務を経て、1973年11月から1978年6月までに頭取を務めた。 1978年10月20日内臓障害のために死去。69歳没。死没日付をもって正五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。
加藤 進(かとう すすむ、1909年1月10日 - 1996… 加藤 進(かとう すすむ、1909年1月10日 - 1996年3月27日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員、参議院議員を各1期務めた(いずれも日本共産党公認)。日本共産党中央委員会顧問や同党愛知県委員会、日ソ協会愛知県連合会副会長などを歴任した。 愛知県名古屋市千種区出身。1945年、名古屋帝国大学理学部数学科を卒業後、第八高等学校哲学科講師や名古屋大学数学科教官に就任。この間初代愛知県教員組合副委員長を務めたほか、同県労働学校開設にも尽力した。 1963年の第30回衆議院議員総選挙で旧愛知1区から出馬し初当選。その後1971年の第9回参議院議員通常選挙で全国区から出馬し当選。1977年の第11回参議院議員通常選挙で落選した。
北川 一雄(きたがわ かずお、1909年 - 1983年)… 北川 一雄(きたがわ かずお、1909年 - 1983年)は、日本の経済学者。元名古屋大学経済学部長。従三位。 岐阜県生まれ。岐阜商業学校(現岐阜県立岐阜商業高等学校)を経て、1932年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。山田勇一橋大学名誉教授とともに名古屋高商が産んだ逸材の双璧とされた。 1948年名古屋大学法経学部助教授兼名古屋経済専門学校教授、十級五号俸。1950年名古屋大学経済学部教授、文部教官一級。1953年東海船員地方労働委員会委員。1954年神戸大学より経済学博士の学位を取得。1963年名古屋大学経済学部長。 1974年に退官後、名古屋学院大学教授。従六位から、1983年に正四位勲三等旭日中綬章追贈とともに、特旨を以て位一級追陞せられ従三位に叙せられた。
朝比奈 一男(あさひな かずお、1908年(明治41年)12… 朝比奈 一男(あさひな かずお、1908年(明治41年)12月2日 - 1986年(昭和61年)10月23日)は日本の内科医、生理学者。元東邦大学医学部長、生理学第一講座初代教授。東邦大学名誉教授。日本で初めて脳波を記録した。旧名倭男。東京府東京市小石川区白山御殿町(現・東京都文京区白山)出身。 1934年(昭和9年)、名古屋医科大学卒業。第一内科入局(勝沼精蔵)。勝沼とともに訪独。1937年(昭和12年)10月、医学博士を授与される。1938年(昭和13年)6月、哈爾浜医科大学助教授(内科)。1941年(昭和16年)7月、名古屋帝国大学助教授(航空医学研究所・第一航空医学 勝沼精蔵)。1945年(昭和20年)12月(環境医学研究所・第4部門職業性疾患学方面 勝沼精蔵)。
井上 良夫(いのうえ よしお、1908年9月3日 - 194… 井上 良夫(いのうえ よしお、1908年9月3日 - 1945年4月25日)は、日本の探偵小説評論家、翻訳家。1930年代のいわゆる「本格ミステリの黄金時代」の海外作品を、日本に多数紹介した。戦前における最もすぐれた探偵小説評論家といわれる。 1908年(明治41年)9月3日、福岡県若松市(現・北九州市)に生まれる。 1926年(大正15年)、愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業。名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)に進学し、1930年(昭和5年)に卒業。バス会社に入社するが、名古屋市営バスと併合されて解散になったため、1937年(昭和12年)から名古屋市立白鳥尋常高等小学校(現・名古屋市立白鳥小学校)教員、1941年(昭和16年)から名古屋女子商業学校(現・名古屋経済大学市邨中学校・高等学校)教師(英語担当)。
高木 広一(たかぎ ひろいち、1908年〈明治41年〉8月 … 高木 広一(たかぎ ひろいち、1908年〈明治41年〉8月 - 1980年〈昭和55年〉3月10日)は、日本の外交官。初代外務省賠償部長、外務省移住局長、駐デンマーク特命全権大使、駐ギリシャ特命全権大使。 京都出身。大阪の伴野商店店員、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)を経て、1932年に名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)に進学した。1933年に高等試験外交科に合格し、1934年に大学を中退して外務省に入省した。 1949年通商産業省通商局輸入第三課長。1950年通商産業省通商局輸入第二課長。同年通商産業省通商局輸出課長。1952年在ブエノスアイレス日本政府在外事務所所長。
与良 ヱ (よら あいち、旧字体: 與良 ヱ、1908年1月… 与良 ヱ (よら あいち、旧字体: 與良 ヱ、1908年1月1日 – 1968年4月11日)は、日本の実業家。中部日本新聞社社長、共同通信社理事。 愛知県出身。父は名古屋新聞社社長を務めた与良松三郎。一風変わった名前は父・松三郎による命名である。元は出生の地にちなみ「愛知」と名づけようとしたが、画数の多さを感じ「アイチ」となり、更に考えを巡らせていくうちに「ア一」となり、最後には漢字のように見せようと一字に直し「ヱ」と名付けられた。 愛知一中を経て、1928年に名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)を卒業し、名古屋新聞社に入社した。1942年の新愛知新聞社との合併で誕生した中部日本新聞社発足の際には監査役に就任した。
原 信一(はら のぶいち、1907年11月24日 - 199… 原 信一(はら のぶいち、1907年11月24日 - 1993年9月1日)は、日本の経営者。ダイハツ自動車販売社長、会長を務めた。愛知県出身。 1928年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に三和銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1960年に常務、1961年11月に丸善石油専務、1964年6月にダイハツ工業顧問、同年12月に常務、1967年に専務を経て、1969年5月にダイハツ自動車販売副社長に就任し、1971年10月には社長に昇格。1976年9月に取締役相談役に就任し、1978年9月には相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章 1993年9月1日急性心不全のために死去。85歳没。
乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28… 乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28日 - 1993年(平成5年)9月20日)は、日本の実業家。乾家5代目当主、乾汽船社長、広野ゴルフ倶楽部理事長、関西ゴルフ連盟理事長、日本ゴルフ協会(JGA)名誉会長などを務めた。旧姓は高橋。 名古屋の旧家高橋家、高橋彦治郎(後に彦次郎に改名)の七男として生まれる。父彦治郎は、中京財界の大立者といわれた人物で、茶人、美術収集家でもあった。 幼少の頃から父の勧めで書道、能楽、茶道などを習う。愛知一中、名古屋高等商業学校を卒業。 三井物産時代、四代目乾新兵衛こと日本鉄線鋼索の経営者乾新治の一人娘の道子と結婚。乾家に入るが、義父の急死で、33歳で乾汽船の社長に就任し、乾倉庫などの事業を引き継ぎ「関西のうるさ型」と言われ活躍した。
宮川 正澄(みやかわ まさすみ 1906年(明治39年)11… 宮川 正澄(みやかわ まさすみ 1906年(明治39年)11月3日 - 1994年(平成6年)4月17日)は、日本の医学者、病理学者。医学博士。元名古屋大学医学部教授。名古屋大学名誉教授。名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)卒業。日本における実験動物の無菌飼育に新たな道を開いた。石川県出身。 1938年 名古屋大学 医学博士 論文の題は 「白血球の游走速度とグリコーゲンに関する研究」。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1… 真下 信一(ました しんいち、1906年10月24日 - 1985年2月9日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 京都府福知山市生まれ。京都府立一中、第三高等学校から京都帝国大学文学部哲学科に学ぶ。中学の同期には湯川秀樹がいた。三高時代には武田麟太郎と親交を結んだ。大学の同窓には戸坂潤がいた。大学院に進学、1933年の滝川事件のときには院生代表として活動する。院修了後は同志社大学勤務、のち教授。1935年中井正一らと雑誌『世界文化』を創刊、反ファシズムの立場で活動したが、1937年11月、新村猛らとともに治安維持法違反の容疑で検挙された。 戦後は、民主主義科学者協会に所属しながら唯物論哲学の立場で発言、名古屋大学助教授、教授。
塩野谷 九十九(しおのや つくも、1905年10月12日 -… 塩野谷 九十九(しおのや つくも、1905年10月12日 - 1983年6月4日)は、日本の経済学者。名古屋大学名誉教授。 ケインズ経済学研究の権威で、ケインズの著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』の初代翻訳者(1941年)。 愛知県出身。1926年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業、1930年東京商科大学(現一橋大学)卒業(高垣寅次郎門下)。1931年横浜市立横浜商業専門学校(現横浜市立大学)教授。1934年叙正七位。 1943年名古屋高等商業学校教授。1948年名古屋大学法経学部経済原論講座担任教授。1956年金融制度調査会臨時委員。1958年名古屋大学経済学部長。1959年公認会計士審査会試験委員。
新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日… 新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日 - 1992年(平成4年)10月31日)は、日本のフランス文学者・言語学者・国語辞書編纂者。名古屋大学名誉教授。元橘女子大学学長。 新村出の次男。息子新村徹は中国文学者(妻は中井正一の三女)。他に学術編集者の新村恭がいる。 東京府で生まれた。京都第一中学校、第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に入学。すぐに仏文科へ転攻し卒業する。 1935年2月、中井正一や真下信一や武谷三男たちと共に同人誌『世界文化』を創刊、また週刊紙『土曜日』の常連執筆者として反ファシズム運動に関わった。このため、同志社大学予科教授であった1937年11月に真下信一らとともに治安維持法違反で逮捕され、2年間の獄中生活を送る。
山中 散生(やまなか ちるう、1905年5月7日 - 197… 山中 散生(やまなか ちるう、1905年5月7日 - 1977年9月11日)は、昭和期の日本の詩人・フランス文学者。本名・山中利行。 愛知県名古屋市に生まれる。1923年(大正12年)に名古屋高等商業学校に入学。在学中に当時名古屋で刊行されていた象徴派の詩誌『青騎士』に参加している。3年後に卒業するとNHK東海支部に就職する。1929年(昭和4年)、冨士原清一から雑誌『衣裳の太陽』を贈られたことを機にシュルレアリスムに傾倒。同年、雑誌『Ciné』を創刊。1933年(昭和8年)からフランスの詩人ポール・エリュアールとの文通が始まり、その交際はアンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・ユニエ、ルネ・シャール、マン・レイ、サルヴァドール・ダリ、ハンス・ベルメールらに広がっていき、彼らの作品を『詩と詩論』『文藝汎論』『マダム・ブランシュ』『Vou』『Cendre』などの雑誌に発表、紹介を始める。
北根 貞雄(きたね さだお、1905年4月10日 - 198… 北根 貞雄(きたね さだお、1905年4月10日 - 1987年9月19日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1927年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に愛知銀行に入行。 1955年に取締役に就任し、1958年11月に常務、1961年5月に専務を経て、1962年5月に中央信託銀行副社長に就任し、1965年12月には社長に昇格。1970年12月に会長に就任し、1975年12月に取締役相談役を経て、1978年6月に相談役に就任。 1975年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年9月19日呼吸不全のために死去。82歳没。
米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月… 米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月19日 - 1994年(平成6年)3月18日)は、日本のシュルレアリスムの洋画家、詩人。 山梨県甲府市にて甲陽館米倉旅館を営む両親のもとに、次男として生まれる。 1922年、山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を卒業。1923年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学)経済学部に入学し、後に日本にシュルレアリスムの紹介をおこなう詩人、山中散生と親交を結ぶ。1926年、名古屋高等商業学校を卒業する。 1928年、伯母が経営する伊藤学園甲府女子商業学校および甲府湯田高等女学校(現甲斐清和高等学校)の教諭となる。1930年、甲府市において辻葦夫、中村宗久、小柳津経広、田中常太郎、小宮山堅次とともに六人社を結成し、第1回展を開く。
上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 19… 上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 1993年4月26日)は、日本の仏教学者。名古屋大学名誉教授。 岡山県出身。旧制龍野中学(現:兵庫県立龍野高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部印度哲学科卒、1948年「唯識思想研究」で九州大学文学博士。1945年龍谷大学教授、1949年名古屋大学文学部教授となり、文学部長を務め、1968年定年退官、名誉教授。1972年筑紫女学園短期大学学長となり、1986年、同大学退任。1975年勲三等旭日中綬章受勲。
熊沢 正夫(くまざわ まさお、1904年 (明治37年) 5… 熊沢 正夫(くまざわ まさお、1904年 (明治37年) 5月 - 1982年5月7日)は、日本の植物学者。愛知県出身。 息子は地球科学者の熊澤峰夫。妹は熊沢光子。 1904年 (明治37年) 5月に、愛知県名古屋市で生まれた。父親は地方裁判所判事を歴任後弁護士を開業した。東海中学校、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)を卒業後、東京帝国大学(現:東京大学)理学物植物学科に進学。1929年に同大卒。 1933年から旧制第四高等学校(現:金沢大学)に植物学の講師として勤務。翌1934年には同大教授となり、1942年まで勤務した。 その後旧制第八高等学校に勤務。集団遺伝学者の木村資生は、1942年に同校で熊沢の指導を受けた。
翁 孝文(おきな たかふみ、1904年(明治37年)3月2日… 翁 孝文(おきな たかふみ、1904年(明治37年)3月2日 - 1980年(昭和55年)5月9日)は、日本の実業家。倉敷紡績取締役を経て倉敷国際ホテル社長を務めた。広島県神石高原町出身。 広島県神石郡豊松村(現:神石高原町)の社家である翁家に生まれる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に石川達三、金澤覚太郎、日野西義輝がいた。1924年(大正13年)卒業後、名古屋高等商業学校(現:名古屋大学経済学部)へ進学。1927年(昭和2年)同校を23歳で卒業した。 卒業後、同年に倉敷紡績へ入社。総務畑を歩み、1937年(昭和12年)に当時の倉敷紡績の大原孫三郎の社長秘書課長となった。
野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月1… 野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月12日 - 1975年(昭和50年)9月28日)は、日本の実業家。三井東圧化学(現三井化学)社長や、日本化学工業協会会長を務めた。 1924年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業、三井鉱山入社。1931年三池窒素工業入社。1937年東洋高圧工業入社。1946年東洋高圧工業取締役に昇格。1947年東洋高圧工業専務取締役。1957年東洋高圧工業取締役副社長。1963年から東洋高圧工業取締役社長を務め、1968年には三井銀行本店で三井化学工業の石毛郁治取締役社長との間で、合併調印式を行い、合併後の三井東圧化学でも社長を務めた。同年日本化学工業協会会長。
石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 … 石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 - 2001年4月29日)は、元大同特殊鋼社長。同社名誉会長。元日経連副会長。愛知県経営者協会元会長。香川県高松市出身。 1924年(大正13年)第一回選抜高校野球大会において、母校である高松商業の監督を務め優勝に導く。(大同特殊鋼 創業100周年特設サイト 選抜発祥の地) 1926年(大正15年)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業後、大同製鋼(現大同特殊鋼)に入社。モータリゼーション時代の到来を予見し、特殊鋼一貫製造拠点の知多工場を建設。また、巧みな手腕で業界再編成を推進。同社の礎を築き、同社“中興の祖”と称されている。
大内 三郎(おおうち さぶろう、1903年(明治36年)4月… 大内 三郎(おおうち さぶろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1988年(昭和63年)8月27日)は日本の実業家、元四国電力社長・会長。福島県出身。
篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 199… 篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 1993年3月3日)は、日本の電気工学者。第5代名古屋大学総長。第58代電気学会会長。 名古屋市生まれ。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校を経て、1926年九州帝国大学工学部電気工学科卒業、九州帝国大学講師。1927年北海道帝国大学講師。同年北海道帝国大学助教授。1930年照明学会評議員。1935年九州帝国大学工学博士。1940年名古屋帝国大学理工学部教授。1953年名古屋大学工学部長。1958年郵政省電波技術審議会委員。1960年電気通信学会東海支部長。1961年電気学会浅野賞受賞。1963年名古屋大学教養学部長。同年名古屋大学総長、電気学会副会長、第6期日本学術会議会員、文部省大学設置審議会委員。
岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 -… 岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 - 1990年代頃?)は、日本の古生物(化石)研究者、医師。愛知医科大学(名古屋大学の前身)卒。 市井の化石研究家であり、岡村化石研究所を主宰していた。本業は内科医師。病院と研究所は名古屋市にあった。 岩手県大船渡市から出土した石灰岩より、4億年前の1mmに満たないミニ人類、あらゆる種類の動物及び工芸品等の微化石を発見し、独自の進化論に昇華させた。1970年代から1980年代には古生物学会において数度の発表を行うとともに、国内外の多数の大学に論文を寄贈した(B5判の薄い研究論文の冊子。地質学研究室が設置されている大学の研究室・図書館に保存されていることがある)。
神原 富保(かんばら とみやす、1901年3月3日 - 19… 神原 富保(かんばら とみやす、1901年3月3日 - 1985年10月5日)は、日本の経営者。豊田通商社長を務めた。岡山県出身。 1925年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に豊田紡織に入社。豊田製鋼(現在の愛知製鋼)取締役、豊田自動織機製作所取締役、豊田製鋼常務を経て、1948年に日新通商(現在の豊田通商)常務に就任し、1950年に専務を経て、1961年11月に社長に就任した。1968年から相談役を務めた。 1985年10月5日、心筋梗塞のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
酒井 正三郎/正兵衛(さかい しょうざぶろう/しょうべえ、1… 酒井 正三郎/正兵衛(さかい しょうざぶろう/しょうべえ、1901年1月1日 - 1981年4月15日)は、日本の経済学者。名古屋大学名誉教授。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)校長や、初代名古屋大学経済学部長、経済社会学会会長、日本学術会議会員等を歴任した。 1901年、岐阜県岐阜市生まれ。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)、東京商科大学(現一橋大学)予科を経て、1924年に同大本科を卒業。大学では左右田喜一郎に師事した。1942年に学位論文『国民経済ノ構造変動ノ本質並ニ原因ニ関スル研究』を提出して経済学博士号を取得。 1922年より指導教官左右田が主催した横浜社会問題研究所主任研究員。
竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年(明治28年)4月… 竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年(明治28年)4月25日 - 1959年(昭和34年)7月23日)は、大正から昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、愛知県碧海郡刈谷町長、刈谷市長。刈谷市名誉市民。 愛知県碧海郡刈谷町肴町(現刈谷市)で、紺屋業・竹中石松の長男として生まれる。1913年(大正2年)、愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業。1918年(大正7年)愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)を卒業した。同年、愛知県立愛知病院(現名古屋大学医学部附属病院)に勤務し、1921年(大正10年)耳鼻咽喉科病院を開業した。 1932年(昭和7年)刈谷町会議員に選出され、以後、刈谷町長、愛知県町村長会長、愛知県会議員などを務めた。
林 虎雄(はやし とらお、1893年1月18日 - 1970… 林 虎雄(はやし とらお、1893年1月18日 - 1970年9月8日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 愛知県出身。1917年に名古屋高等工業学校を卒業。三井物産、豊田自動織機での勤務を経て、1943年にトヨタ自動車工業取締役に就任し、1949年12月には日本電装社長に就任した。1967年3月には会長に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲三等瑞宝章を受章した。 1970年9月8日脳軟化症のために死去。77歳没。
馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年… 馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年10月5日)は、医師・産児制限運動家。 愛知県出身。愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)卒。旧姓は浜田。通称は僴(かん)。新聞ではドクトル馬島として取り上げられた。賀川豊彦に共鳴して神戸で医療救済活動にあたる。1920年(大正9年)欧米に留学して産児調節を学ぶ。1928年(昭和3年)、太田慶太郎、その妻太田操らとともに、解放運動犠牲者救援会(現在の日本国民救援会)を創設、東京市本所松倉町に労働者診療所を開設、1929年(昭和4年)東京市議。1930年(昭和5年)東京市芝公園5号地に愛児女性協会が設立した産児制限相談所に参画。第二次世界大戦後も産児調節運動を推進した。
渡辺 覚造(わたなべ かくぞう、1891年(明治24年)6月… 渡辺 覚造(わたなべ かくぞう、1891年(明治24年)6月30日 - 1972年(昭和47年)3月1日)は、日本の医師、政治家。貴族院議員多額納税者、水戸市長、医学博士。 茨城県久慈郡世矢村(現・常陸太田市)出身。茨城県立太田中学校卒、1919年(大正8年)旧制愛知医科大学(現・名古屋大学医学部)卒。同大学付属病院に勤務。1929年(昭和4年)に水戸市で病院を開業する。1936年(昭和11年)大洗海岸に結核患者のサナトリウム大貫海岸病院を開設した。 1942年(昭和17年)1月、茨城県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税議員に互選され、同月23日に就任し同成会に所属。同年10月、水戸市会の推薦により水戸市長に就任した。
栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月… 栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉12月1日)は、日本の国史学者。名古屋大学名誉教授。旧制第八高等学校校長。専門は日本近世史。 愛知県愛知郡田代村(現・名古屋市千種区)出身。旧制明倫中(現・愛知県立明和高等学校)、旧制八高を経て、1914年に東京帝国大学文学部国史学科卒。 東京帝大史料編纂官補となり、「大日本史料」の編纂に従事。八高教授、広島高等師範学校教授、1929年に広島文理科大学教授、1946年に第八高等学校校長、1949年に名古屋大学教授。1953年に中日文化賞を受賞。 1955年、在官のまま病死。法名は顕学院釈元晃。桃巌寺に葬られた。
川崎舎 恒三(かわさきや つねぞう、1886年(明治19年)… 川崎舎 恒三(かわさきや つねぞう、1886年(明治19年)9月21日 - 1954年(昭和29年)9月)は、日本の実業家、技術者。 1886年(明治19年)9月21日、香川県高松市で男二人、女一人の3人兄姉の末っ子として生まれた。1899年(明治32年)4月、香川県立高松中学校(現:香川県立高松高等学校)へ入学。1904年(明治37年)、一高へ進学し、柔道部へ入って練習を積み、初段を得た。当時の一高柔道部の師範は講道館の横山作次郎であり、新井源水、山上岩次を擁して黄金時代を築いていた。一高時代には後々までの親友も得たが、中でも学生寮で同室であった勝沼精蔵(内科医、第3代名古屋大学学長)、橘本伝左衛門(京都大学農学部教授)ならびに森秀三(整形外科開業医)の3人とは終生にわたる親交が続いた。
山本 徳三郎(やまもと とくさぶろう、1886年 - 194… 山本 徳三郎(やまもと とくさぶろう、1886年 - 1945年)は砂防・植林技師。父は山本庄司。メダカの研究で知られ、名古屋大学教授も務めた山本時男は甥(兄時宜の子)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 19… 周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 1942年6月20日)は、日本人医師、朝鮮総督府らい療養所小鹿島更生園園長。当時世界最大規模の療養所を作り上げたが、強制隔離政策、患者待遇悪化、植民地支配に対する反感などがあり、患者に刺殺された。 1885年10月8日に滋賀県栗太郡老上村字矢橋(現在の草津市矢橋町)に大神家の3男として出生。医家周防氏の養子となる。滋賀県立第一中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)を経て愛知県立医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)、1909年(明治42年)卒業。県立岡崎病院外科、内務省防疫官補、開業、1916年(大正5年)滋賀県技師衛生主事、1919年(大正8年)愛知県技師学校衛生主事。
田中 養達(たなか ようたつ、1885年(明治18年)6月1… 田中 養達(たなか ようたつ、1885年(明治18年)6月12日 - 1956年(昭和31年)10月3日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟→東方会)、産婦人科医。 滋賀県犬上郡南青柳村(現在の彦根市)の今村家に生まれ、田中貞蔵の養子となった。1907年(明治40年)に愛知医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)を卒業し、さらに京都帝国大学産婦人科教室で研究を重ね、坂田郡米原町(現在の米原市)に産婦人科医院を開業した。坂田郡会議員、滋賀県会議員、同参事会員を歴任。 1926年(大正15年)の衆議院滋賀6区(小選挙区)の補欠選挙で初当選。第20回衆議院議員総選挙に至るまで5回当選を果たした。
助川 喜四郎(すけがわ きしろう、1883年(明治16年)8… 助川 喜四郎(すけがわ きしろう、1883年(明治16年)8月7日) - 1963年(昭和38年)12月11日)は、日本の医師・ウイルス学者。 1915年(大正4年)、神奈川県衛生試験所(現・神奈川県衛生研究所)にはいり、狂犬病を研究。1921年(大正10年)「助川梅野法」とよばれる犬体注射法を完成。天然痘病原体の鶏卵内培養にも成功した。1928年(昭和3年)、土浦市に昭和病院及び助川研究所を設立。 大正4、5年頃、狂犬病流行の兆を呈し、被害が広がる折、梅野信吉より病理学の権威であった草間滋を通じ、助川喜四郎へ狂犬病に関する相談があった。当時、パスツールによる人体に狂犬病予防注射する方法が行われていたが、応用接種しても発病する事があるため、更に進んで犬体に予防接種する研究を行う事となった。
加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 -… 加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 - 1970年12月20日)は、日本の政治家。衆議院議長(第48代)、法務大臣(第4代)。衆議院議員(12期)。 愛知県瀬戸市出身。政界入りする前は医学博士号を持つ医師であり、戦前の帝国議会時代より衆議院議員選挙に通算12回当選。戦時中は政友会系の地方紙で現在の中日新聞社の前身の1紙に当たる新愛知新聞社の顧問を務めていた。 造船疑獄に対する指揮権発動で法務大臣を辞任した犬養健の後任法相となり、さらに警職法改正をめぐる国会審議混乱の責任を取って衆議院議長を辞任した星島二郎の後任議長に就任したことから、医師出身の政治家という自らの経歴とあわせ「後始末の専門のヤブ医者」を自称したことで知られている。
渡辺 釟吉(わたなべ はつきち、1879年〈明治12年〉10… 渡辺 釟吉(わたなべ はつきち、1879年〈明治12年〉10月5日 - 1967年〈昭和42年〉12月4日)は、日本の政治家、医師。愛知県挙母市の初代市長(1期、挙母市は豊田市の旧市名)。その他、挙母町長(2期)、愛知県会議員(2期)、挙母町会議員などを歴任した。 現在の愛知県豊田市常盤町2丁目に、医師で挙母町長を務めた渡辺良策の三男として生まれる。1897年(明治30年)、愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)の予科を卒業。1901年(明治34年)、同校本科を卒業。1905年(明治38年)から自宅で父とともに医師として自宅で開業。 医師会においては、地方の医療体制の確立を念願し、辺地の医師派遣などに力を注いだ。
藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日 - 1… 藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日 - 1945年8月11日)は、日本の医師・教育者。日本留学時代の魯迅の恩師として知られる。
都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明… 都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明治2年11月19日) - 1933年(昭和8年)3月12日)は、明治から昭和前期にかけての軍医、脚気が栄養欠乏でおこり、米糠により予防・治療ができることを動物実験で確認した。愛知県出身。 1869年12月21日((旧暦)明治2年11月19日)、三河碧海郡刈谷藩領(現愛知県刈谷市)の農家、都築甚六・つう夫妻の長男として都築甚之助は誕生した。1883年(明治16年)元刈谷小学校を卒業し郡立高等学校に入学、同校卒業後1885年(明治18年)愛知医学校(現名古屋大学医学部)に入学し、1887年(明治20年)千葉第一高等中学校医学部(現千葉大学医学部)に転じ、1890年(明治23年)4月卒業した。
武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)… 武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)は、明治時代から昭和時代の漢学者、詩人、教育者。諱は潜、字は伯龍。 越後国南蒲原郡中之島村大字長呂(後に新潟県中通村)の名主武石弘六の長男として生まれる。長岡の誠意塾に学び、頭脳明晰で師匠の高橋竹之助の信任厚く、塾頭に選ばれる。ここで堀口九萬一と知り合い親友となり、義兄弟の契を結ぶ。長呂の若宮社には、弟の武石弘三郎が制作した2人の胸像が建つ。 後に故郷に戻り自邸にて漢詩塾および修斉館を開き地域の教育に尽力した。東北日報(新潟日報の前身)の漢詩撰者を務め、同紙の同時期の俳句撰者は会津八一であった。また、水田区画整理事業の「島田他三ケ字耕地整理」に従事、ツツガムシ対策により名古屋大学医学部の林直助を村に招待、信濃川流域の荒地に柳を植樹し行李の生産を勧めるなど地域振興に努め、農業整備や架橋、信用組合創立に取り組んだ。
飯尾 隆義(いいお たかよし)は、日本の生物物理学者。名古屋… 飯尾 隆義(いいお たかよし)は、日本の生物物理学者。名古屋大学大学院理学研究科物理学専攻教授。
岡田 邦彦 は、ハーバード大学研究員。早稲田大学大学院公共経… 岡田 邦彦 は、ハーバード大学研究員。早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授。元松下政経塾塾頭。