西田 太一郎(にしだ たいちろう、1910年(明治43年) … 西田 太一郎(にしだ たいちろう、1910年(明治43年) - 1982年(昭和57年)2月3日)は、日本の中国哲学者、法制史家。法学博士。京都大学名誉教授。第三高等学校、京都外国語大学教授。角川書店『新字源』編者の一人。 1910年、大阪府大阪市生まれ。1935年(昭和10年)、京都帝国大学文学部哲学科を卒業。大学では中国社会思想史および中国法制史を専攻した。 大学卒業後は、第三高等学校、京都大学に勤務。1962年(昭和37年)に「中国刑法史研究」を京都大学に提出して法学博士号を取得。1974年に定年退官し、名誉教授となった。その後も京都外国語大学教授として教鞭をとった。 中国思想史、中国法制史を専攻、『世界古典文学全集』『日本思想大系』等の訳注を担当した。
山本 清幸(やまもと きよゆき、1910年 - 1991年9… 山本 清幸(やまもと きよゆき、1910年 - 1991年9月20日)は、日本の哲学者。 山形県出身。1935年京都帝国大学文学部哲学科卒。1955年九州大学文学部助教授、のち教授。1974年定年退官、名誉教授となる。1959年「シェリング「自由論」の研究」で九大文学博士。シェリングが専門だがのち道元に関心を持った。
青木 英五郎(あおき えいごろう、1909年12月9日 - … 青木 英五郎(あおき えいごろう、1909年12月9日 - 1981年1月3日)は、神奈川県横須賀市出身の日本の裁判官。弁護士。
白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年11月24… 白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年11月24日 - 1961年6月15日)は、日本の経済学者。経済学史やマルクス経済学の研究者として知られる。 京都府与謝郡市場村(現・与謝野町)出身。1928年に京都師範学校(現・京都教育大学)本科第2部に入学し、翌年卒業。続けて京都帝国大学経済学部に入学(当初選科、1930年より本科)し、1931年に大学院に進学。石川興二に師事し、1934年に京都帝大経済学部講師に就任した。1940年に助教授に昇格するが、太平洋戦争終結後に経済学部で起きた「戦争責任の自己批判」論に伴い、1946年に京都帝大を退職する。1947年、彦根経済専門学校(1949年より滋賀大学経済学部)の教授となる。
近藤 豊(こんどう ゆたか、1909年(明治42年)11月8… 近藤 豊(こんどう ゆたか、1909年(明治42年)11月8日 - 1994年(平成6年)5月24日)は、日本の建築学者。京都市生まれ。 古建築の研究者で、古建築の細部の意匠や文様を分類した。 中学生の時より京都帝大教授の天沼俊一に師事し、天沼とともに日本・朝鮮の古建築の多数の写真を撮影した。 1940年に京都大学大学院を卒業。京都大学工学部建築学教室嘱託を経て、滋賀県立短期大学建築科教授、大阪教育大学家政学部教授、摂南大学工学部建築科主任教授などを歴任。 一心寺本堂(大阪府大阪市)、明王院多宝塔(岡山県浅口市)など多数の建築の再建における設計監督も務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
吉富 重夫(よしとみ しげお、1909年11月5日 - 19… 吉富 重夫(よしとみ しげお、1909年11月5日 - 1976年5月9日)は、日本の行政学者・政治学者・弁護士。法学博士(京都大学)。大阪市立大学名誉教授。辻清明 (政治学者)と並ぶ行政学第2世代の一人。 1909年、長崎県佐世保市に生まれる。1930年佐賀高等学校文科甲類卒業。1934年京都帝国大学法学部政治科卒業。同年、立命館大学研究生。1935年立命館大学助教授に就任。1942年立命館大学教授に就任。1947年立命館大学を退職。1948年京都弁護士会で弁護士登録。1952年大阪市立大学法学部教授に就任(~1973年)。1962年大阪市立大学法学部長(~1964年)、1967年大阪市立大学教養部長(~1969年)、1973年大阪市立大学停年退官。
上野 淳一(うえの じゅんいち、1909年11月1日 - 1… 上野 淳一(うえの じゅんいち、1909年11月1日 - 1997年10月19日)は、朝日新聞社の元社主。 朝日新聞社第3代社主・上野精一の息子であり、初代社主・上野理一の孫。岳父は三井財閥幹部の福井菊三郎。岳母の父は麻布中学校を創立した江原素六。息子は第4代社主の上野尚一。 北野中学校、広島高等学校 (旧制)、1934年京都帝国大学経済学部卒業。1937年に朝日新聞社に入社。戦後の1945年に戦争責任を明らかにするために退社。神戸商科大学事務局長、田中耕太郎最高裁判所長官の秘書官を務めた後、1952年に朝日新聞社に復帰した。1970年から社主となった。京都国立博物館評議員、仏教美術研究上野記念財団理事。
三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 198… 三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 1989年7月17日)は、日本の科学史家。神戸大学名誉教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
三田村 泰助(みたむら たいすけ、1909年(明治42年)1… 三田村 泰助(みたむら たいすけ、1909年(明治42年)10月9日 - 1989年(平成元年)9月23日)は、日本の歴史家(東洋史・中国史)。 1909年、福井県南条郡武生町(現越前市)生まれ。山口高校から京都帝国大学東洋史学科に進んだ。東洋史学科では、内藤湖南、羽田亨に師事した。卒業後は、1949年から80年まで立命館大学教授。定年退職後に名誉教授。1989年9月に死去。
平野 順次(ひらの じゅんじ、1909年10月2日 - 19… 平野 順次(ひらの じゅんじ、1909年10月2日 - 1990年9月13日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。 和歌山県出身。1933年に京都帝国大学哲学科を卒業し、1939年に栗本鐵工所に入社。1961年5月に取締役に就任し、1966年11月に専務を経て、1967年10月には社長に就任。1981年6月から1985年6月までに会長を務めた。 1990年9月13日、肺炎のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没… 中村 貞一(なかむら さだいち、1909年9月24日 - 没年不明)は、日本の林学者、造園学者。 京都大学、島根県立島根農科大学(現在の島根大学生物資源科学部)、信州大学、名城大学などで長く教育と研究にあたる。専門は防火樹に関する実験的研究であるが、別に観光レクリエーションと日本庭園史を手がけた。 1929年、第八高等学校文科乙類を卒業する。東京帝国大学法学部法律学科に進学するが、結核にかかり1935年に中途退学した。療養後の1942年9月から京都帝国大学に入学し、1945年、京都帝国大学農学部林学科を卒業した。同年より京都大学農学部助手(演習林、造園学教室)を経て1953年に京都大学講師となる。
本野 亨一(もとの こういち、1909年9月19日 - 19… 本野 亨一(もとの こういち、1909年9月19日 - 1993年5月28日)は、日本のドイツ文学者である 東京出身。1934年京都帝国大学文学部独文科卒。立命館大学教授を退職後は、1976年から1980年まで甲南女子大学教授。フランツ・カフカを専攻し、最初に作品を訳・刊行した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大西 芳雄(おおにし よしお、1909年(明治42年)8月2… 大西 芳雄(おおにし よしお、1909年(明治42年)8月28日 - 1975年(昭和50年)3月4日)は、日本の憲法学者。京都帝国大学法学部教授・立命館大学教授を経て、立命館大学名誉教授。妻は藤井行徳の娘。 京大憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事。1940年から1947年まで京都大学の憲法学講座を担当した(40年から43年までは黒田覚と分担。帝国憲法第一章、同第二章を黒田覚が担当。大西芳雄の担当は第三章以下。)。戦後、同僚の教授が大西の著作を地方軍政部に投書したことが端緒となり、戦中の著作である『国家と法律学』の記述内容を問題視され、国家主義者として佐伯千仭と共に教職追放処分を受ける。
小野川 秀美(おのがわ ひでみ、1909年8月21日 - 1… 小野川 秀美(おのがわ ひでみ、1909年8月21日 - 1980年7月20日)は、日本の東洋史学者。学位は、文学博士(論文博士・1961年)(学位論文「清末政治思想研究」)。京都大学名誉教授。 高知県安芸郡生まれ。高知県立高知城北中学校、高知高等学校文科乙類を経て、1933年京都帝国大学文学部史学科(東洋史学専攻)卒業。 東方文化研究所嘱託員を経て、1940年(昭和15年)、東方文化研究所(現:京都大学人文科学研究所)助手就任。1951年(昭和26年)に京都大学人文科学研究所助教授。1961年(昭和36年)学位論文「清末政治思想研究」で文学博士の学位を取得。1965年(昭和40年)に同教授に就任する。
山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2… 山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2008年12月31日)は、日本の実業家。元関西テレビ放送代表取締役社長、元阪急電鉄副社長、元新阪急ホテル監査役、元京都大学蹴球部OBクラブ会長。 1909年、兵庫県神戸市に生まれる。1927年、甲陽中学校(現在の甲陽学院、6回卒)を卒業。その後、旧制山口高等学校を経て京都大学法学部を卒業。同大学では蹴球部に所属し、後にOBクラブ会長を務めた。 関西テレビ放送代表取締役社長、阪急電鉄副社長、新阪急ホテル監査役、阪急ブレーブスオーナー代行などを歴任した。
祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13… 祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13日 - 1973年(昭和48年)8月23日)は、日本の国文学者、浄瑠璃・歌舞伎研究者。 1909年(明治42年)、大阪府大阪市東区北久宝寺町で生まれた。1928年(昭和3年)に大阪府立今宮中学校を卒業し、第三高等学校文科乙類へ入学。1932年、同校を卒業後、京都帝国大学文学部文学科国語学国文科専攻に進んだ。1936年に卒業し、同大学大学院に進学。 京都大学に在籍のまま、1938年に天理図書館嘱託となる。これに合わせて、この頃天理市に居を移した。翌1939年2月に天理図書館司書を退職。1941年3月に京都帝国大学大学院を修了し、1942年4月から天理中学校嘱託に就職した。
原 光雄(はら みつお、1909年8月5日 - 1996年1… 原 光雄(はら みつお、1909年8月5日 - 1996年10月20日)は、日本の科学論・科学史研究者。 山梨県出身。京都帝国大学理学部卒。1938年川崎重工業に入社。1956年大阪市立大学教授。1972年定年退官、名誉教授、阪南大学教授、1981年退職。 1937年寺田寅彦の物理学研究に対する態度を批判。近代化学史研究を通じて科学の方法論を「自然弁証法の研究」としてまとめた。田辺振太郎とも論争を行った。
前田 憲一(まえだ けんいち、1909年8月1日 - 199… 前田 憲一(まえだ けんいち、1909年8月1日 - 1995年10月14日)は、日本の電波工学者。学位は工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授、元京都産業大学教授。 大阪府大阪市出身。 主に、電離層における電波の反射についての基礎研究を行った。なお、この研究成果は携帯電話に利用されている。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
加藤 充(かとう みつる、1909年7月13日 - 2009… 加藤 充(かとう みつる、1909年7月13日 - 2009年6月28日)は日本の弁護士、政治家、社会運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。 栃木県出身。京都帝国大学法学部を卒業後、大阪にて弁護士を開業し、全国水平社および全農にて顧問弁護士となる。昭和恐慌による繭価暴落に伴い、徳島県麻植郡西尾村で発生した西尾小作争議では、桑園小作料減免を求める農民への支援を行った。1933年には井藤与志雄や垣見周瑞と3人で大阪無産者法律相談所を立ち上げるも、労農党弁護士事件で全員検挙されたため、閉所を余儀なくされる。また、これ以後も治安維持法違反により度々検挙。 戦後日本共産党へ入党、1949年の第24回衆議院議員総選挙で旧大阪4区から同党公認で出馬し初当選を果たす。
大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 19… 大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 1995年6月20日)は、日本の編集者。講談社の編集者として戦前〜戦後へと活躍した。主な編集誌に幼年クラブ、少年倶楽部などがある。のらくろの作者である、田河水泡と交流があった。 孫に大杉正人(オーストラリアシドニー在住)がいる。 本来大杉家は、地元の大地主であり大きな山林を所有していたが、大正恐慌のあおりを受け没落する。久雄は父より大杉家再興の為医者になることを命じられ、京都大学の受験の為の旅費を渡されるが、幼いころからの夢である文学への思いが立ちきれず京都へ向かう汽車で京都では下車せずそのまま東京へ向かう。 久雄は早稲田大学第一文学部への入学を決めるが、父は立腹しその年の正月の餅を久雄に送らなかったというエピソードが残されている。
田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月2… 田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月20日 - 1989年 <平成元年> 11月13日)は、日本の経営学者。京都大学名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章。 長野県木曽郡楢川村(現塩尻市)出身。旧制京都府立第一中学、旧制第三高等学校を経て、1932年京都帝国大学経済学部卒業。1938年京都帝国大学助手、1939年講師、1946年助教授、1949年京都大学経済学部教授。1958年経済学部長、1972年定年退官、名誉教授。同年より京都学園大学教授を務め、1981年同大学学長に就任。1983年からは開学に尽力した京都文化短期大学学長も兼ねた。1987年「下請制工業論 經濟發展過程における中小工業」で、経済学博士(京都大学)。
八幡 次郎(やわた じろう、1909年6月1日 - 1993… 八幡 次郎(やわた じろう、1909年6月1日 - 1993年12月15日)は、日本の実業家。九州朝日放送の社長を務めた。 岩手県出身(一部の文献では東京都出身との記載有り)。1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社し、政治部長、論説委員副主幹、西部本社編集局長、大阪本社編集局長を歴任した。 1971年5月に九州朝日放送に転じ、専務に就任し、1973年5月には社長に昇格。1981年6月には会長に就任。1978年から1980年までは日本民間放送連盟副会長も務めた。 1982年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年12月15日、脳梗塞により死去。84歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
栗原 俊夫(くりはら/くりばら としお、1909年〈明治42… 栗原 俊夫(くりはら/くりばら としお、1909年〈明治42年〉5月8日 - 1989年〈平成元年〉1月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、群馬県議会議員(2期)、群馬県多野郡小野村長。日本社会党所属。囲碁4段、将棋3段、柔道3段。妻は1932年のロサンゼルスオリンピックに陸上競技80メートルハードルで出場した中西みち。 1909年(明治42年)、群馬県多野郡小野村(現・藤岡市)の農家に、栗原徳次郎・タカの長男として生まれる。群馬県立藤岡中学校、旧制藤岡高等学校を経て1932年(昭和7年)京都帝国大学(京都大学)法学部を卒業。 一時天龍・大ノ里の新興力士団に勤め、その後大阪時事新報社に入社し経済記者として活動した。
高岡 周夫(たかおか かねお、1909年5月2日 - 200… 高岡 周夫(たかおか かねお、1909年5月2日 - 2005年1月31日)は、日本の統計学者・経済学者。経済学博士(北海道大学)。元北海学園大学学長代理・北海学園大学名誉教授。 この他、経済統計学会全国運営委員や北海道経済学会理事でもあった。 経営学を小島昌太郎に師事し、統計学を蜷川虎三に師事する。 父は第三代北海道帝国大学総長の高岡熊雄であり、叔父に高岡直吉がいる。夫人は世界的外科医であり九州大学医学部教授を務めた三宅速の娘。兄弟に北海道大学名誉教授の高岡道夫・北星学園大学名誉教授の高岡英夫がいる。
甘露寺 忠長(かんろじ ただなが、1909年〈明治42年〉4… 甘露寺 忠長(かんろじ ただなが、1909年〈明治42年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉3月24日)は、明治時代から昭和時代にかけての華族。伯爵甘露寺受長の嗣子。位階は従五位。 1909年(明治42年)4月29日、甘露寺受長の長男として誕生する。母は北白川宮能久親王第一王女の満子女王。姉に績子、壽子がいる。 1929年(昭和4年)5月15日、20歳で従五位に叙爵された。 1930年(昭和5年)3月28日、旧制学習院高等科文科丙類を卒業した。同年4月3日、京都帝国大学経済学部に入学した。 1933年(昭和8年)3月30日、学士試験に合格したことにより京都帝国大学を卒業した。 1937年(昭和12年)3月24日、卒去した。
富永 次郎(とみなが じろう 1909年4月23日 - 19… 富永 次郎(とみなが じろう 1909年4月23日 - 1969年7月14日)は、日本の美術評論家。 東京本郷に生まれる。富永太郎は兄、富永三郎は弟。1925年(大正14年)12月旧制成城第二中学校4年のとき、兄太郎死去。1927年(昭和2年)富永太郎詩集を没後出版。旧制成城高等学校で大岡昇平や古谷綱武と知り合い、1929年(昭和4年)4月、同人雑誌『白痴群』創刊時に、同人として参加。同誌は、編輯人を河上徹太郎が務め、村井康男とその門下生たち、中原中也が創作や翻訳を寄せるものであった。京都帝国大学文学部美学科卒業。1940年(昭和15年)小説『黄昏暦』を出版。そのほかに美術書、こども向けの美術案内書の著作がある。
南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年… 南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年不明 )は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1934年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に阪神電気鉄道に入社。1957年4月に阪神百貨店常務に就任し、専務を経て、1963年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1990年6月には相談役に就任。1985年12月には大阪商工会議所副会頭に就任。 1981年11月に勲四等旭日小綬章を受章。
本林 譲(もとばやし ゆずる、1909年3月31日 - 19… 本林 譲(もとばやし ゆずる、1909年3月31日 - 1992年4月17日)は最高裁判所判事。弁護士。東京府出身。 松本高等学校文科乙類、京都帝国大学法学部卒業。1933年、父と同じ弁護士になった後、司法官試補として仙台地裁で勤務するも、1年後に父親が死去したことで再び弁護士に。 戦後、「食えないため」明大の講師をしたこともある。日弁連事務総長や法制審議会国際私法部会委員などを務めた。 1975年8月に最高裁判事に就任。就任時には「36年間、庶民の相談相手として養った感覚については、いささかの自負をもっています」「弁護士出身の裁判官として責任を感じます」と挨拶。 1979年3月に定年退官。 長男も弁護士で三代続く法曹一家。
村上 浩三(むらかみ こうぞう、1909年2月28日 - 没… 村上 浩三(むらかみ こうぞう、1909年2月28日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者。大阪工業大学名誉教授、工学博士(京都大学)。大阪工業大学機械工学科同窓会第2代会長。 専門は、機械動力学(特に歯付ベルト・振動ドリル・ワインダー)、精密工学・繊維機械。 京都帝国大学工学部機械工学科卒業。のちに、工学博士(京都大学)。1951年大阪工業大学工学部機械工学科教授、機械工学教室を担当。同大学機械工学科研究室で多数の研究室生を輩出し、その研究室卒業生により「かつら会」が1969年に結成される(2019年同会発足50周年を迎えた)。その後、1973年大阪工業大学名誉教授。 20年以上の長きに渡り大阪工業大学機械工学科にて教鞭を執り、大学初期の機械動力学・精密工学・繊維機械の研究の発展・育成に貢献した。
土橋 寛(つちはし ゆたか、1909年2月27日 - 199… 土橋 寛(つちはし ゆたか、1909年2月27日 - 1998年6月11日)は、日本の国文学者、万葉学者、同志社大学名誉教授。『万葉集』や記紀歌謡など、古代和歌を専門とした。 長崎県生まれ。京都帝国大学文学部文学科国文学専攻卒業、立命館大学予科教授、立命館短期大学教授、奈良学芸大学教授を経て、1962年に同志社大学教授。1978年に『万葉開眼』で毎日出版文化賞受賞。1979年に定年退職、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
伊藤 義教(いとう ぎきょう、1909年2月23日 - 19… 伊藤 義教(いとう ぎきょう、1909年2月23日 - 1996年10月23日)は日本のイラン学者。京都大学名誉教授。 1909年、山口県大津郡三隅町で生まれた。旧制福井中学校、旧制姫路高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進むと、梵語梵文学を専攻し榊保三郎、足利惇氏に師事。1935年に卒業した。 1940年、京都帝国大学大学文学部副手に採用された。翌1941年に同講師昇格。1947年からは新制大学発足に伴い、京都大学文学部講師。1953年、学位論文『マーヌシュチフル書翰集の解読』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1968年、文学部教授に昇格。1972年に京都大学を定年退官し、1974年名誉教授となった。
小野木常(おのぎ つね/じょう、1909年2月21日 - 1… 小野木常(おのぎ つね/じょう、1909年2月21日 - 1991年2月19日)は、日本の法学者。専門は破産法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1947年)。大阪大学名誉教授。山田正三門下。弟子に中野貞一郎など。 大阪市出身。1932年京都帝国大学法学部卒、1947年 法学博士の学位を取得。広島地方裁判所検事局検事、京都大学法学部助教授、京都大学法学部教授、大阪大学法学部教授兼任(のち大阪大学専任)、1971年大学紛争により退職、名誉教授。
住友 友成(すみとも ともなり、1909年(明治42年)2月… 住友 友成(すみとも ともなり、1909年(明治42年)2月20日 - 1993年(平成5年)6月14日)は、住友家16代当主で、最後の住友本社社長。アララギ派の歌人でもあり、斎藤茂吉、川田順(住友本社の重役)とも交流があった。歌人の雅号は「泉幸吉」。幼名は厚。男爵。 1926年(大正15年)3月2日、父友純が没する。同年3月9日に厚を改め住友吉左衛門を襲名し、5月1日、男爵となる。住友合資社長に就任。以降、住友銀行や住友信託、住友生命、住友倉庫などの取締役に就任する。 1931年(昭和6年)、大阪城天守閣復興(総額150万円)のうち25万円を寄付する。 1933年(昭和8年)、京都帝国大学文学部史学科を卒業。
井上 宗次(いのうえ そうじ、1909年2月11日 - 19… 井上 宗次(いのうえ そうじ、1909年2月11日 - 1997年10月9日)は、日本の英文学者、翻訳家。大阪府立大学名誉教授。 京都帝国大学文学部英文学科卒業、京都帝国大学大学院文学研究科英文学専攻博士課程修了。和歌山大学教授を経て大阪府立大学教授、定年により名誉教授、神戸学院大学教授。ユージン・オニールなどを訳した。 1997年、急性心筋梗塞のため死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
山岡 亮一(やまおか りょういち、1909年2月10日 - … 山岡 亮一(やまおか りょういち、1909年2月10日 - 1991年9月21日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授、高知大学名誉教授。専門は農業経済学。経済学博士(京都大学・1962年)。京都府生まれ。 子に山岡亮平(動物生態学者、京都工芸繊維大学名誉教授)、山岡耕作(魚類学者、高知大学名誉教授)など
鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 200… 鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 2005年5月12日)は、日本の教育学者。京都大学名誉教授。 鹿児島県加世田市(南さつま市)出身。教育者小原國芳の長兄の次男として誕生し、叔父國芳の養子となる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、國芳が校長を務めた旧制成城高等学校を卒業した。1932年京都帝国大学文学部教育学科卒業。その後國芳の娘と結婚し、國芳が養子に入っていた鰺坂家を代わって相続した。静岡県視学官、東京農業教育専門学校教授、鹿児島大学教授を経て、1959年京都大学教育学部教授。1972年に定年退官、名誉教授となる。その後、甲南女子大学学長、文部省教育職員養成審議会会長を務めた。
出口 勇蔵(でぐち ゆうぞう、1909年1月23日 - 20… 出口 勇蔵(でぐち ゆうぞう、1909年1月23日 - 2003年4月2日)は、日本の経済学者。経済学博士(京都大学)。京都大学名誉教授。 京都市出身。1933年京都帝国大学経済学部卒。1938年京都大学経済学部助手、講師、助教授、1948年京都大学教授。1952年「経済学と歴史意識」で、経済学博士(京都大学)の学位を取得。1968年経済学史学会代表幹事。1972年定年退官、名誉教授、京都薬科大学教授、1984年名城大学教授。経済哲学・経済思想史を専攻した。
高橋 亘(たかはし わたる、1909年1月4日 - 2005… 高橋 亘(たかはし わたる、1909年1月4日 - 2005年8月19日)は、日本の哲学・宗教学者。 東京出身。1923年京都帝国大学文学部独文科入学、転じて1934年哲学科卒。のち静岡大学教授を務め、1972年定年退官、名誉教授。
濱 一衛(はま かずえ、1909年 – 1984年)は、日本… 濱 一衛(はま かずえ、1909年 – 1984年)は、日本の中国文学者。専門は中国演劇。 1909年、大阪府に生まれる。1930年、旧制浪速高等学校(現在の大阪大学)卒業、1933年、京都帝国大学卒業(中国文学専攻)。1934年、外務省文化事業部第三種補給生として北京に留学し、周作人宅に寄宿する。以来、周作人と親交を続けた。帰国後、松山高等商業学校(現在の松山大学)を経て、1949年、九州大学教養部に着任。1973年、定年退官。1984年、逝去。 死後、中国戯劇関係の和古書やパンフレットは濱文庫として、九州大学図書館に収められた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 19… 別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 1997年4月17日)は、日本の地理学者。 陸軍少将・別技嘉助の長男として東京に生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)卒。1928年静岡高等学校文科甲類卒業。1932年京都帝国大学文学部史学科卒。1938年大阪商科大学予科教授、戦時中地理調査のためジャワ派遣軍に所属、南方文化研究室長。1946年帰国。1949年大阪商科大学を退職し、福井大学教授となり、1952年からは神戸商科大学教授を兼任。1954年立教大学教授、74年定年退任、名誉教授。 1962年「東南アジア諸島の居住と開発史」により京都大学から文学博士の学位を授与される。
園原 太郎(そのはら たろう、1908年11月26日 - 1… 園原 太郎(そのはら たろう、1908年11月26日 - 1982年3月14日)は、日本の心理学者。京都大学名誉教授。 長野県木曽郡山口村(現・岐阜県中津川市)生まれ、大阪府大阪市育ち。大阪市天王寺第五尋常小学校、旧制大阪府立今宮中学校、旧制大阪高等学校理科甲類を経て、1931年に京都帝国大学文学部哲学科心理学専攻を卒業。同大学講師、1938年助教授、1953年京都大学文学部教授、1972年定年退官、名誉教授、佛教大学教授。1980年勲三等旭日中綬章を受章。
大森 忠夫(おおもり ただお、1908年11月24日 - 1… 大森 忠夫(おおもり ただお、1908年11月24日 - 1972年12月3日)は、日本の法学者。専門は商法・保険法。学位は法学博士(京都大学・1953年)。京都大学名誉教授。竹田省門下。弟子に岩本慧、村田治美など。 兵庫県出身。1932年(昭和7年)京都帝国大学助手となるが、翌年の滝川事件で辞職。立命館大学助教授となる。1935年(同10年)京大に復帰して助教授、1943年(同18年)教授。保険法の権威として知られ、著作に「保険契約の法的構造」、「保険契約法の研究」、「保険法」などがある。 上柳克郎編『商法・保険法の諸問題:大森先生還暦記念』(有斐閣、1972)
ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986… ねず まさし(禰津正志、1908年11月18日 - 1986年4月1日)は、日本の歴史学者、考古学者、著述家、翻訳家。専門は天皇史と昭和史。 本名の「禰津正志」、および「ねづ まさし」の名義でも著述活動を行った。 東京出身。1932年京都帝国大学文学部史学科国史専攻卒業。卒業論文は「文久元年露艦の對馬占據に關する外交史的研究」。同大学院考古学科修了。1936年文部省維新史料編纂局に入る一方で、1935年京都で創刊された雑誌『世界文化』の同人となり、その姉妹紙である週刊紙『土曜日』にも執筆するなど反ファシズム市民文化運動に関与したが、1937年、人民戦線事件で治安維持法違反として検挙された。戦後は天皇制、日本史、フランス革命に関する著述、翻訳を行う。
勝田 守一(かつた しゅいち、1908年11月10日 - 1… 勝田 守一(かつた しゅいち、1908年11月10日 - 1969年7月30日)は、日本の教育学者。 東京市に生まれる。ロシア研究者・横浜国立大学教授の勝田昌二(1911年生[要検証 – ノート])は弟。 1926年、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。(宗像誠也とは同級生) 一高を経て、1932年京都帝国大学文学部哲学科卒業。 京大卒業後、松本高等学校 (旧制)教諭、学習院大学教授などを経て、1951年から東京大学教授。日本教職員組合教研集会の講師を、その発足当初から長く務め、教育科学研究会(略称:教科研)の中心メンバーとして活躍、その機関誌『教育』の編集長の任にもあたった。
岡本 耕造(おかもと こうぞう、1908年11月10日 - … 岡本 耕造(おかもと こうぞう、1908年11月10日 - 1993年2月24日)は、病理学者。京都大学名誉教授、近畿大学名誉教授。 富山県出身。第四高等学校 (旧制)を経て、1931年京都帝国大学医学部医学科卒業。清野謙次の弟子として京大病理学教室に入った。1935年2月1日付で、歩兵第7連隊幹部候補生として応召、同年12月復職。1938年3月3日、ドイツ語論文「組織鉄に関する研究」で医学博士号取得。 京大講師在任中の1938年春、清野と医学部長戸田正三の説得でやむなく関東軍防疫給水部本部(731部隊)に参加。第一部第六課岡本班で病理研究に従事した。極東国際軍事裁判で戦犯として訴追された。 戦後、兵庫県立神戸医科大学教授、東北大学教授を歴任。
小嶋 潤(おじま じゅん、1908年11月6日 - 1997… 小嶋 潤(おじま じゅん、1908年11月6日 - 1997年9月1日)は、日本のキリスト教神学者、立教大学名誉教授。本名、小嶋 次男(おじま つぎお)。姓は「小島」との表記もある。 兵庫県生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科卒。1962年「マルコ伝研究」で京都大学文学博士。東京女子大学教授、立教大学教授、茨城キリスト教大学教授、静岡英和女学院短期大学学長を歴任。 1997年9月1日、純赤芽球ろうのため死去。
土倉 冨士雄(どくら ふじお、1908年(明治41年)11月… 土倉 冨士雄(どくら ふじお、1908年(明治41年)11月1日 - 1983年(昭和58年)7月31日)は、日本の実業家。カルピス食品工業元社長・会長。 1908年11月1日、奈良県に生まれる。父は日本統治下の台湾で林業・電力事業等に足跡を残した土倉龍治郎(カーネーションの父とも称される)。 祖父は明治期の林業家で、自由民権運動や大学設立等の教育他、幅広い分野に大きな影響を与えた土倉庄三郎。 成城高等学校を経て(級友に大岡昇平など)、1932年、京都帝国大学経済学部卒業。 1956年、招聘を受けカルピス食品工業入社、調査部長(東亞合成化学工業退社)。1957年、取締役経理部長。1959年、常務。
森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 … 森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 - 1977年〈昭和52年〉10月23日)は、群馬県桐生市出身の農学者(農学博士)。森式純粋培養菌種駒製造法の発明者で、現在の原木シイタケ栽培技術を確立した。森産業株式会社創業者。歴史学者の羽仁五郎は叔父。 1908年(明治41年)、群馬県桐生市の素封家・森家の次男として生まれる。桐生中学校、宇都宮高等農林学校を経て1935年(昭和10年)京都帝国大学農学部を卒業。 大学在学中に大分県を訪れた際、シイタケの発茸を祈る農夫の姿を見てシイタケ栽培の研究を決意(後述)、大学卒業の翌年に森食用菌蕈研究所を設立して研究を開始した。1942年(昭和17年)森式純粋培養菌種駒製造法を開発し、翌1943年(昭和18年)に特許を取得した。
松下 久道(まつした ひさみち、1908年9月30日 - 1… 松下 久道(まつした ひさみち、1908年9月30日 - 1980年9月3日)は、日本の地球科学者。専門は石炭地質学。福岡県福岡市生まれ。 1934年に京都帝国大学理学部地質学鉱物学科を卒業。同学部大学院に進学して、中村新太郎のもとで炭田地質学の研究を始める。同年山根新次の招きで九州帝国大学工学部採鉱学教室副手に採用となり、翌年助手に昇任。1939年、九州帝国大学に理学部が新設されると同時に、同学部地質学教室の助教授になり、渡辺久吉・杉健一・吉村豊文を助けて、松本達郎とともに地質学教室の基礎づくりに尽力。1949年に同教室に国内ではじめて石炭地質学講座が開設され、初代担当教授に就任した。同年、「九州北部に於ける古第三紀層の層序学的研究」により、京都大学より理学博士の学位を取得。
大炊御門 経輝(おおいのみかど つねてる、旧字体: 大炊御門… 大炊御門 経輝(おおいのみかど つねてる、旧字体: 大炊御門 經輝、1908年〈明治41年〉9月24日 - 没年不詳)は、日本の華族(侯爵)。貴族院侯爵議員、理学博士。 侯爵・大炊御門幾麿と保木江んの息子(庶子)として生まれる。父の死去に伴い、1919年11月21日に侯爵を襲爵。1933年、京都帝国大学理学部を卒業し、さらに同大学院を修了。のちに理学博士号を授与された。1938年9月23日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1935年以降、東京科学博物館嘱託、海軍省軍需局嘱託、帝国石油社員などを務めた。 宗教は仏教。住所は東京豊島区池袋。