木谷 忠(きたに ただし、1921年7月15日 - 2006… 木谷 忠(きたに ただし、1921年7月15日 - 2006年4月10日)は、日本の経営者。名古屋テレビ放送社長を務めた。和歌山県出身。 1944年に東京商科大学経済学部を卒業し、1948年に朝日新聞社に入社。1980年6月に取締役に就任し、1981年4月に常務、1983年10月に専務を経て、1985年6月に名古屋テレビ放送副社長に就任し、1988年7月守部政喜社長の急逝により社長昇格。1993年6月に代表取締役相談役に就任し、1995年6月に取締役相談役、1998年6月から相談役を経て、1999年6月に特別顧問に就任。 2006年4月10日肝不全のために死去。84歳没。
松浦 巖(まつうら いわお、1921年4月1日 - 1980… 松浦 巖(まつうら いわお、1921年4月1日 - 1980年2月18日)は、日本の経営者。東京都出身。 1941年に東京商科大学経済学部を卒業し、同年に兼松江商に入社。 1971年11月に取締役に就任し、1974年5月に常務に就任した。1977年に副社長に就任し、1978年6月に社長に昇格した。 1980年2月18日心筋梗塞のために死去。58歳没。 学生時代にはサッカー選手として活躍していた。
辻野 知宜(つじの ともよし、1921年3月2日 - 200… 辻野 知宜(つじの ともよし、1921年3月2日 - 2000年4月17日)は、日本の経営者。同和火災海上保険社長、会長を務めた。広島県出身。 1943年に東京商科大学を卒業し、1949年8月に同和火災海上保険に入社。1973年6月に取締役に就任し、1977年7月に常務を経て、1979年3月に社長に就任。1985年7月荒1986年6月までに会長を務めた。 2000年4月17日呼吸不全のために死去。79歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐々木 誠二(ささき せいじ、1921年〈大正10年〉1月2… 佐々木 誠二(ささき せいじ、1921年〈大正10年〉1月25日 - 2018年〈平成30年〉8月23日)は、日本の実業家。テレビ大阪初代社長を務めた。位階は正五位。 群馬県沼田市出身。旧制沼田中学校から旧制九段中学校へ転校。1941年(昭和16年)に東京商科大学専門部を卒業し、日本経済新聞社の前身である中外商業新報に入社。1942年(昭和17年)高崎の歩兵第15連隊に入隊し、中国・フィリピン・ボルネオ・シンガポールなどを転戦した。 1947年(昭和22年)に復員。その後1968年(昭和43年)労務担当取締役に就任。1972年(昭和47年)から常務大阪本社代表を務め、1980年(昭和55年)から専務に就任。
杉本 悌二郎(すぎもと ていじろう、1921年1月18日 -… 杉本 悌二郎(すぎもと ていじろう、1921年1月18日 - 1988年10月25日)は、日本の実業家。元ノリタケカンパニーリミテド社長・会長。 愛知県生まれ。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し、1942年日本陶器入社。 通算15年の米国生活を経て、副社長就任。1971年には米国ノリタケ社長として、磁器製食卓用品に関する米国関税委員会公聴会で証言する。 1977年日本陶器代表取締役社長就任。積極経営を進め1981年に社名をノリタケカンパニーリミテドに変更。同年脳血栓で倒れ、1982年倉田隆文を後任社長とし社長を退き、代表取締役会長就任。1984年会長を退任し、相談役に就任。これまで務めていた森村グループ企業の日本碍子、日本特殊陶業、東陶機器(現・TOTO)などの役員からも退く。
岡本 則一(おかもと のりかず、1921年 <大正10年> … 岡本 則一(おかもと のりかず、1921年 <大正10年> 1月3日 - 1994年 <平成6年> 6月3日)は、日本の経営者。安田生命保険社長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1943年に東京商科大学を卒業し、1946年に安田生命保険に入社。1965年に財務部長に就任し、1969年5月に取締役、1972年12月に常務、1979年7月に専務を経て、1981年6月に副社長に就任し、1985年7月には社長に昇格。1993年4月には会長に就任。 1988年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1994年6月3日急性心不全のために死去。73歳没。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
村田 倉夫(むらた くらお、1921年(大正10年)1月1日… 村田 倉夫(むらた くらお、1921年(大正10年)1月1日 - 2015年(平成27年)3月21日)は、日本の実業家。京成電鉄第7代社長。 東京府豊多摩郡杉並村(現・東京都杉並区)高円寺に生まれる。 東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)を経て、1940年東京商科大学(現一橋大学)予科へ。 1942年東京商科大学学部を卒業し、日本興業銀行に入行。翌年応召、東部軍経理部から南支方面へ主計将校として派遣される。 1947年に興銀復帰するが、最初の出向として1953年から1956年、旧中島飛行機グループなど5社が出資し、発足した直後の富士重工業へ。 2度目の出向は1964年、大商証券へ取締役として。
大畑 忠義(おおはた ただよし、1920年12月13日 - … 大畑 忠義(おおはた ただよし、1920年12月13日 - 2005年7月20日)は、日本の経営者。時事通信社社長を務めた。 広島県出身。1944年に東京商科大学を卒業。召集され大竹海兵団に入団。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、光海軍工廠に配属。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1946年1月に時事通信社に入社。1972年5月に取締役に就任し、1977年6月に代表取締役を経て、1978年6月に社長に就任。1984年6月に相談役に就任し、1986年6月から顧問を務めた。
今西 晃(いまにし あきら、1920年11月27日 - 20… 今西 晃(いまにし あきら、1920年11月27日 - 2007年3月29日)は、日本の実業家。丸美屋食品工業社長。 岐阜県出身。旧制豊橋中学(のちの愛知県立時習館高等学校)を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業[要出典]。 1962年丸美屋食品工業入社。1966年に資金難に陥り三井物産と国内総代理店契約を締結し資金援助を受け、4年後に完済。ふりかけトップの丸美屋を、1978年にふりかけに参入した永谷園が追い上げてくる中、需要層の9割を占める中学生以下の子供向けに「Dr.スランプふりかけ」、「忍者ハットリくんふりかけ」、「ドラゴンボールふりかけ」のほか、大人向けふりかけ「是はうまい」、学校給食向け「いわしくん」などを販売し、首位攻防戦を展開する。
鈴木 和夫(すずき かずお、1920年9月27日 - 201… 鈴木 和夫(すずき かずお、1920年9月27日 - 2011年1月18日)は、日本の経営者。凸版印刷社長を務めた。 東京都出身。1944年に東京商科大学を卒業し、同年に凸版印刷に入社。1967年1月に取締役に就任し、1969年1月に常務、1971年1月に副社長を経て、1973年12月から1981年3月までに東京書籍社長を務めた。1978年8月に再び凸版印刷副社長に就任し、1981年2月には社長に昇格。1991年6月に会長に就任し、1993年6月に取締役相談役を経て、1998年6月に特別相談役に就任。 1985年4月に藍綬褒章を受章。 2011年1月18日に多臓器不全のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
齋藤 裕(さいとう ひろし、1920年 <大正9年> 9月1… 齋藤 裕(さいとう ひろし、1920年 <大正9年> 9月18日 - 2000年 <平成12年> 10月6日)は、日本の実業家。位階は従三位。 1987年から1993年まで新日本製鐵(新日鉄、現日本製鉄)社長、1993年から1998年まで新日鉄会長、1994年から1998年まで経済団体連合会評議員会議長を務めた。国際鉄鋼協会会長等も歴任した。 東京市日本橋大伝馬町出身。1938年に東京府立第一中学校を卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)に進学した。八幡製鐵に入社。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、1942年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。
森 茂(もり しげる、1920年5月6日 - 2002年5月… 森 茂(もり しげる、1920年5月6日 - 2002年5月10日)は、日本の実業家。京王百貨店代表取締役相談役。東京都出身。 1943年に東京商科大学を卒業と同時に鉄道省に入省。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。第22戦隊3艦視艇隊・同戦隊司令部(横浜市中区山下町)に配属。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に昇進。同年6月、海軍省軍務局第3課に転任し終戦を迎えた。海南島に進出した商社の監督・終戦処理を担当し、1945年10月、予備役に編入され解員(復員)した。 戦後の1945年11月、鉄道省に復帰。
久保田 美文(くぼた よしふみ、1920年4月14日 - 2… 久保田 美文(くぼた よしふみ、1920年4月14日 - 2005年1月24日)は、日本の経営者。ダイセル化学工業(現在のダイセル)社長、会長を務めた。和歌山県出身。 1943年に東京商科大学を卒業。大蔵省理財局での勤務を経て、1951年に大日本セルロイドに入社。1967年1月に取締役に就任し、1971年1月に常務、1974年11月に専務を経て、1977年6月に副社長に就任し、1979年9月には社長に昇格。1988年6月に会長に就任し、1993年6月に取締役相談役を経て、1995年6月には相談役に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2005年1月24日くも膜下出血のために死去。
中村 伊一(なかむら いいち、1920年4月7日 - 200… 中村 伊一(なかむら いいち、1920年4月7日 - 2005年4月14日)は日本の実業家。ワコール創業メンバーで、同社副社長や、社団法人京都経済同友会代表幹事、京都証券取引所理事長を務めた。 滋賀県近江八幡市出身。八幡商業(現滋賀県立八幡商業高等学校)首席卒業を経て、横浜高等商業学校(現横浜国立大学)卒業、1944年東京商科大学(現一橋大学)卒業。 学徒出陣で満州に渡る。シベリア抑留を経て、母校八幡商業で教鞭をとっていたところ、八幡商業の同級生塚本幸一にさそわれ、相学の先生からの託宣もあり、1949年にワコールの前身である和江商事に入社。1963年から1984年まで副社長を務め、同年取締役相談役に退く。
小林 傭佶(こばやし ようきち、1920年(大正9年)1月3… 小林 傭佶(こばやし ようきち、1920年(大正9年)1月31日 - 1993年(平成5年)4月19日)は、日本の実業家・学校経営者。北海道古宇郡神恵内村生まれ。1942年(昭和17年)東京商科大学卒。「小林傭吉」「小林用吉」とも表記される。 三菱重工業勤務を経て、1946年(昭和21年)札幌文科専門学院教授。1949年(昭和24年)明和学園理事( - 1954年(昭和29年))。1950年(昭和25年)札幌短期大学商業科客員教授( - 1967年) 1957年(昭和32年)札幌日交タクシー社長。1959年(昭和34年)小樽日興交通社長。1960年(昭和35年)釧路日興交通社長。1961年(昭和36年)日交興業開発(後の小林企業)社長。
李 廷煥(イ・ジョンファン、朝鮮語: 이정환、1919年11… 李 廷煥(イ・ジョンファン、朝鮮語: 이정환、1919年11月13日 - 2008年8月13日)は、大韓民国の経済学者、銀行家、実業家、政治家。 本貫は星州李氏(朝鮮語版)[要出典]。日本名星山 正雄。延世大学校教授などを経て、韓国銀行総裁や、大韓民国財務部長官、韓国産業銀行総裁、錦湖石油化学会長等を歴任した。金塔産業勲章受章。 慶尚南道東萊郡(のちの釜山広域市)出身。東萊中学校(のちの東萊高等学校(朝鮮語版))を経て、1941年東京商科大学(のちの一橋大学)予科修了。1944年同大学卒業。 釜山大学校教授、延世大学校教授を経て、1961年大韓民国財務部長官顧問。1962年農業協同組合中央会会長。
小関 博(こせき ひろし、1919年〈大正8年〉10月24日… 小関 博(こせき ひろし、1919年〈大正8年〉10月24日 - 2013年〈平成25年〉6月15日)は、日本の実業家。群馬銀行代表取締役頭取。 東京都豊島区巣鴨に生まれる。旧制府立五中を経て、1942年(昭和17年)旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業。同年高等試験行政科に合格し、日本銀行入行。 短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業し、館山海軍航空隊付となる。同年5月、海軍省経理局第三課に転じ国防献金受付に従事。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み、同年6月、第四南遣艦隊付に転じ第1次糧食生産隊長(アンボン)に着任。
田島 敏弘(たじま としひろ、1919年(大正8年)10月9… 田島 敏弘(たじま としひろ、1919年(大正8年)10月9日 - 1995年(平成7年)4月17日)は日本の実業家。日本興業銀行副頭取や、富士重工業の社長や会長を務めた。 1942年に旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し、日本興業銀行入行。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。北浦海軍航空隊に配属。名古屋監督官事務所に転じ、のち造兵監督官に就任し材料関係を担当した。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。戦後、GHQとの渉外に従事。 その後、日本興業銀行に復帰し、融資第三部長、調査本部長、常務、副頭取、顧問を歴任。
河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 … 河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 - 2005年〈平成17年〉9月6日)は、日本の実業家、教育者。河合塾理事長、山一證券副社長。 河合逸治の長男。東京商大を経て日本勧業銀行に入行し、経済安定本部や名古屋造船、山一證券にも出向した。後に実家の河合塾を継ぎ、弟の河合邦人と共に愛知県のローカル予備校から三大予備校の一角にまで育て上げた。1992年、フランス教育功労章オフィシエ受章。 静岡県生まれ。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校、59回卒業)、名古屋高商(現・名古屋大学経済学部)を経て、1941年12月、東京商科大学(現・一橋大学)繰り上げ卒業(井藤半彌ゼミ)。卒業論文は「国際租税論の基本問題」。
村井 勉(むらい つとむ、1918年3月31日 - 2008… 村井 勉(むらい つとむ、1918年3月31日 - 2008年10月31日)は、日本の実業家。アサヒビール代表取締役社長、東洋工業(現:マツダ)代表取締役副社長、住友銀行(現:三井住友銀行)代表取締役副頭取、JR西日本代表取締役会長等を歴任した。1988年勲二等旭日重光章受章。 福岡県小倉市堺町(現:北九州市小倉北区)で円応寺住職の二男として生まれ、その後村井家に養子に出された。旧制小倉中学(現:福岡県立小倉高等学校)を経て、1942年9月、戦時中の半年繰り上げで東京商科大学(現:一橋大学)を卒業。当時の住友グループにおける一括採用試験に合格。内定者面接にて、「銀行に行くのが嫌な人は手を挙げなさい」と言われ挙手したにも関わらず住友銀への配属となるが、出社することなく召集となり10月に小倉歩兵連隊に入隊。
田中 修平(たなか しゅうへい、1918年1月1日 - 19… 田中 修平(たなか しゅうへい、1918年1月1日 - 1992年4月20日)は、日本の経営者。大阪建物(現在のダイビル)社長を務めた。 三重県出身。1948年に東京商科大学を卒業し、同年に住友銀行に入行。1972年5月に大阪建物常務に就任し、1973年6月には社長に昇格。1981年6月に会長を経て、1986年6月から相談役を務めた。 1992年4月20日急性心筋梗塞のために死去。74歳没。
小松原 俊一(こまつばら しゅんいち、1917年10月15日… 小松原 俊一(こまつばら しゅんいち、1917年10月15日 - 2007年3月9日)は、日本の実業家。元三井鉱山(現 日本コークス工業)社長。元三井鉱山会長。元三井鉱山相談役。栃木県出身。 旧制栃木県立栃木中学校(現・栃木県立栃木高等学校)を経て、東京商科大学(現 一橋大学)を卒業。三井鉱山(現・日本コークス工業)社長、同会長および相談役を歴任。 2007年、急性呼吸不全のため89歳で死去。
塩谷 忠男(しおたに ただお、1917年 <大正6年> 9月… 塩谷 忠男(しおたに ただお、1917年 <大正6年> 9月17日 - 2017年 <平成29年> 9月23日)は、日本の経営者。太陽神戸銀行頭取を務めた。位階は従四位。 石川県松任市出身。1939年に高文行政科に合格し、1941年に東京商科大学を卒業し、同年に大蔵省に入省。東海財務局長、大臣官房財務調査官、日本銀行政策委員会代表委員などを歴任。1966年11月に日本相互銀行常務に就任し、1968年12月に普通銀行に転換した太陽銀行(のちの太陽神戸銀行)常務に就任し、1972年11月に取締役に就任し、常務、専務、副頭取を経て、1978年12月に頭取に就任。1983年6月に会長に就任し、1987年6月に取締役相談役を経て、1991年6月にさくら銀行相談役に就任し、1997年10月には名誉顧問に就任。
小島 慶三(こじま けいぞう、1917年(大正6年)3月11… 小島 慶三(こじま けいぞう、1917年(大正6年)3月11日 - 2008年(平成20年)8月30日)は、日本のエコノミスト、思想家、教育者、実業家、官僚、政治家、俳人。参議院議員(1期)。
石井 正巳(いしい まさみ、1917年2月28日 - 199… 石井 正巳(いしい まさみ、1917年2月28日 - 1997年9月12日)は日本の実業家。元三井物産会長。クリスチャン。マレーシアタンスリ受章、スペインイサベル女王勲章上級エンコミエンダ章受章。 兵庫県出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。中尉、大尉として中支、サイゴン等で従軍。サイゴンで八尋俊邦(のちに三井物産社長・会長)との交友を得る。1946年5月に日本に帰国。 三井物産副社長等を経て、1982年三井物産副会長、経済同友会幹事、1984年三井物産会長、三越顧問。1985年三井業際問題研究所運営委員長。 マレーシア経済協議会会長を務め、1994年には日本・マレーシアの友好関係、経済の相互発展に功績があったとして、民間人に授与される最高勲章「タンスリ」をジャファール・アブドル・ラーマン国王から授与された。
佐伯 孝(さえき たかし、1916年9月27日 - 2009… 佐伯 孝(さえき たかし、1916年9月27日 - 2009年12月16日)は、日本の実業家。日清製粉(現日清製粉グループ本社)社長や、同社会長を務めた。藍綬褒章受章。 長崎県佐世保市出身。1941年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業後、日清製粉(現日清製粉グループ本社)入社。 同社入社後は製粉事業部門で営業、生産、秘書、調査、経理などを担当し、1969年取締役に昇格。1978年常務取締役。1981年から社長を務め、五分無償増資などを行った。1983年藍綬褒章受章。1986年会長に就任。 2009年肺炎のため死去。享年93。
長谷川 達海(はせがわ たつみ、1916年〈大正5年〉8月3… 長谷川 達海(はせがわ たつみ、1916年〈大正5年〉8月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。チッソ興産(現:日祥)元代表取締役社長。チッソコーナーカーム コンサルタント元代表取締役社長。孫は元フジテレビアナウンサーの長谷川豊。次男は関西右翼の重鎮として活動してきた政治活動家(一日会主宰)の長谷川潤(中山嶺雄)。 現在の東京都出身。茨城県、長谷川信吉・ナミ夫妻の次男に生まれる。1939年(昭和14年)東京商科大学(現:一橋大学)附属商学専門部(高等商業学校に相当する課程、修業年限3年)を卒業。 同年3月日本窒素肥料(現:チッソ)に入社し、1945年(昭和20年)当時朝鮮半島最大の肥料工場であった興南工場(戦後北朝鮮政府に接収され、現在は興南肥料連合企業所として運営)に勤務。
大井 敏夫(おおい としお、1916年7月21日 - 200… 大井 敏夫(おおい としお、1916年7月21日 - 2006年8月29日)は、日本の実業家。前郁文堂社長。 1916年(大正5年)7月、東京市本郷区森川町に大井久五郎四男に生まれる。1940年(昭和15年)東京商科大学卒。日本郵船入社。旧帝国陸軍中尉。1945年(昭和20年)3月、大井一族の郷里である長野県佐久市岩尾の大井静江と結婚。 1946年(昭和21年)3月、日本郵船を退社し、父久五郎の創業した郁文堂書店を継いだ。1949年(昭和24年)10月、郁文堂出版有限会社社長。『郁文堂 独和辞典』などドイツ語の学習参考書やドイツ文学関連書籍を数多く刊行した。引退後は郷里佐久の大井氏の家系を研究し、岩尾家譜(現代語訳)を出版した。
苫米地 俊博(とまべち としひろ、1916年6月30日 - … 苫米地 俊博(とまべち としひろ、1916年6月30日 - 2010年10月20日)は、日本の実業家。三菱商事副社長、米国三菱商事社長、三菱自動車工業副会長、国際大学理事長、ニューヨーク日本商工会議所会頭などを歴任した。 北海道小樽市出身。1941年東京商科大学(現一橋大学)卒業、三菱商事入社。大学在学中、日米学生会議に参加し、宮澤喜一(のちに内閣総理大臣)、奈良靖彦(のちに駐カナダ大使)、山室勇臣(のちに三菱銀行副頭取)らと交遊を持った。財閥解体後、奈良らとともに、野間省一講談社社長の協力を得て貿易会社・飛鳥(「奈良」から「飛鳥」を連想して命名)を設立し、宮澤の弟宮澤泰(のちに駐西ドイツ大使)なども参画したが、1年で倒産した。
馬淵 辰郎(まぶち たつお、1916年6月20日 - 199… 馬淵 辰郎(まぶち たつお、1916年6月20日 - 1995年9月28日)は、日本の実業家。三菱石油(のちのENEOS)の社長や会長、石油連盟副会長を務めた。勲二等瑞宝章受章。 岐阜県出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。大学では排球部に所属し、のちに東京商科大学排球部監督も務めた。部の後輩に村井勉(元アサヒビール社長)、米倉功(元伊藤忠商事社長)、荒川和夫(元サッポロビール社長)、川勝堅二(元三和銀行頭取)などがいる。 三菱石油では経理畑を歩む。常務を経て、1978年、水島製油所原油流出事故で辞任した渡辺武夫前社長の後任として三菱石油社長に就任。約190億円の累積赤字を一掃したが、健康問題もあり、1983年に社長を退任し会長に就任。
壷井 宗一(つぼい そういち、1916年(大正5年)6月5日… 壷井 宗一(つぼい そういち、1916年(大正5年)6月5日 - 没年不明)は、日本の実業家。国鉄広報部長を経てJR東海の関連会社である中央リネンサプライ社長・会長・顧問となる。岡山県高梁市出身。 1916年(大正5年)岡山県高梁町(現:高梁市)に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同期には、宮原正吾、三宅真助がいた。1934年(昭和9年)同校を卒業して、1936年(昭和11年)に山口県にある旧制山口高等学校へ入学した。1939年(昭和14年)3月、同高校を卒業し、4月に東京商科大学(現:一橋大学)へ入学する。大学の研究室は、米谷ゼミナールに所属した。
小宮山 量平(こみやま りょうへい、1916年5月12日 -… 小宮山 量平(こみやま りょうへい、1916年5月12日 - 2012年4月13日)は、日本の編集者、元理論社社長。 長野県上田市の酒屋に生まれる。2歳で母、10歳で父と死別。父の死後まもなく酒屋は破産し、一家離散となる。小学校5年生のとき、親戚(叔母)を頼り東京に転校。小学校卒業後は、第一銀行で渋沢敬三の給仕をして働きながら大倉商業学校(東京経済大学の前身)の夜間部に通う。在学中、左翼運動サークルを結成。しかし、特別高等警察に勾留され拷問を受けて転向。釈放後、特高警官(給仕時代の先輩の父親)から支援を受け、旧制中学校への編入と卒業資格を得て、東京商科大学(現一橋大学)専門部に進学。在学中から雑誌「統制と経済」の編集を手掛ける。
伊藤 達二(いとう たつじ、1916年(大正5年)2月28日… 伊藤 達二(いとう たつじ、1916年(大正5年)2月28日 - 2000年(平成12年)12月11日)は日本の実業家。元三菱地所社長。 神田生まれ。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、三菱合資会社入社。大学の同期に水上達三(のちに三井物産社長)がいる。1953年三菱地所に転籍し、主に営業畑を歩む。 副社長等を経て、1980年社長就任。従来のオフィスビル事業、住宅事業に加え、新たに大型商業施設事業に参入。また三菱重工業横浜造船所跡地を取得し、横浜みなとみらい21の開発を行った。1987年取締役相談役。 2000年12月11日、神奈川県鎌倉市の病院で死去、享年84。
足立 龍雄(あだち たつお、大正5年(1916年)1月12日… 足立 龍雄(あだち たつお、大正5年(1916年)1月12日 - 2000年(平成12年)3月15日)は日本の実業家。中村屋社長・会長。東京商科大学(現一橋大学)卒業。 王子製紙社長、日本商工会議所会頭などを歴任した足立正の次男である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14… 栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14日 - 2009年〈平成21年〉12月4日)は、日本の経営者。三重銀行頭取を務めた。 群馬県桐生市東久方出身。旧制桐生中学校を経て、1936年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1966年5月に取締役に就任し、1967年10月には三重銀行副頭取に就任し、1968年10月には頭取に昇格。1979年6月に会長に就任し、1989年6月に取締役相談役、1991年6月に相談役、1997年6月に特別顧問を経て、1999年6月には顧問に就任。 1980年四日市商工会議所会頭に就任し、翌1981年から三重県商工会議所連合会長を務めた。
永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 20… 永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 2003年1月21日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。 東京都出身。1944年に東京商科大学を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年に三井船舶に転じ、1968年5月に大阪商船三井船舶取締役に就任し、1971年5月に常務、1973年11月に専務を経て、1976年6月に社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1984年6月には相談役に就任。 1977年7月に運輸大臣表彰を受け、1978年11月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章し、1989年11月に文部大臣表彰を受けた。 2003年1月21日肺炎のために死去。
坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐… 坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐ 1996年〈平成8年〉7月5日)は、日本の実業家。三井不動産の社長や会長を22年間務め、ツーバイフォー工法の導入や東京ディズニーランド開園事業に携わったほか、三井ホーム社長、世界不動産連盟会長、不動産協会理事長、不動産流通経営協会理事長等の公職も務めた。 千葉県市川市生まれ。旧制東京府立第三中學校(のちの都立両国高等学校)を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業。のちに三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成した。
八尋 俊邦(やひろ としくに、1915年2月1日 - 200… 八尋 俊邦(やひろ としくに、1915年2月1日 - 2001年10月27日)は東京都出身の実業家。三井物産の社長や会長を歴任したほか、商社出身者として初めて経済団体連合会副会長を務めた。1987年に勲一等瑞宝章を受章。 東京で生まれたものの、日本製粉勤務の父の仕事の関係でまもなく福岡県久留米市に転居。4年後、父が下関支店長となったため、下関に転居。 養治小学校、旧制豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)、旧制第二神戸中学(現:兵庫県立兵庫高等学校)を経て、1932年旧制麻布中学校卒業。旧制東京商科大学(現:一橋大学)卒業。大学では一橋新聞部、上田辰之助ゼミナールに所属。戸倉勝城(元阪急監督)は小学校、中学校の友人。
横山 宗一(よこやま そういち、1914年(大正3年)11月… 横山 宗一(よこやま そういち、1914年(大正3年)11月30日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、日本の実業家。東京銀行頭取・会長を務めた。東京出身。 1938年旧制東京商科大学(現・一橋大学)卒業。同期に三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、三井不動産社長の坪井東、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、一橋大学学長の小泉明らがおり、同窓会を結成している。 1938年に東京銀行の前身である横浜正金銀行に入行。ハノイ、サイゴンなどインドシナに派遣され、1946年に帰国するまでは生死の境をさまよったこともあるという。
佐川 明(さがわ あきら、旧姓:森本〈もりもと〉、1914年… 佐川 明(さがわ あきら、旧姓:森本〈もりもと〉、1914年〈大正3年〉11月5日 - 2005年〈平成17年〉1月4日)は、日本の実業家。栗田工業社長。 兵庫県出身。森本茂の次男として生まれる。7歳のときに父親が死去、幼い頃から本の行商をさせられるなど、祖母に厳しく育てられる。 1940年(昭和15年)東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。学生時代はラグビー部員。卒業後神戸に戻り、伊藤忠商事大阪本社に入社。その後徴兵されて満洲に渡り、一時帰国の際に神戸の貿易商(佐川商店社長)の佐川与一の長女・登美子と結婚して佐川家に婿入りする。 敗戦後、シベリアに抑留される。そのさなか、長女が産まれて十日で死ぬ。
河村 勝夫(かわむら かつお、1914年 <大正3年> 8月… 河村 勝夫(かわむら かつお、1914年 <大正3年> 8月18日 - 2002年 <平成14年> 9月13日)は、日本の経営者。フジクラ社長、会長を務めた。位階は従四位。 山口県出身。1939年に東京商科大学を卒業し、同年に藤倉電線(のちのフジクラ)に入社。1967年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1973年11月に専務を経て、1976年12月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1991年6月から相談役を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年9月13日肺炎のために死去。88歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 … 庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 - 2004年1月11日)は、日本の実業家。日本鉱業(現ENEOSホールディングス)の社長・会長や日本鉱業協会会長を務めた。勲一等瑞宝章。 新潟県十日町市川原町生まれ。旧制新潟県立十日町中学校(のちの新潟県立十日町高等学校)卒業後、1936年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身。大学予科時代には、文部省による東京商科大学予科および専門部廃止案に反対し籠城闘争を決行(籠城事件)。後藤達郎(のちにホテルオークラ社長)らとともに警察に検挙され勾留されたが、商法の本間喜一教授や民法の常盤敏太教授の尽力で釈放された。 1936年日本鉱業入社、1964年取締役、1971年専務、1973年副社長。
望月 達夫(もちづき たつお、1914年(大正3年)3月9日… 望月 達夫(もちづき たつお、1914年(大正3年)3月9日 - 2002年(平成14年)8月21日)は、日本の実業家、登山家。和光証券(現・みずほ証券)副社長、新和光投信委託(現・アセットマネジメントOne)社長。日本山岳会名誉会員。 東京生まれ。1938年、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し、三井信託銀行(現・三井住友信託銀行)に入社。 1941年から召集を受け、大日本帝国陸軍東部七十八部隊独立野戦高射砲第二十二中隊に配属され、キスカ島で書類作業に従事。1943年のキスカ島撤退作戦で北千島に逃れたものの、ソビエト連邦の捕虜となり、南樺太で通訳やソ連軍将校に英語を教える仕事などに従事した。1947年に復員。
小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月… 小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月16日 - 2000年 <平成12年> 9月15日)は、日本の実業家、政治家。日東製網社長、参議院議員(1期)、福山商工会議所会頭などを歴任した。位階は従四位。孫に衆議院議員の小林史明がいる。 広島県福山町(現・福山市西町)に生まれる。1931年(昭和6年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。 三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、三井不動産社長の坪井東、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成。
今井 道雄(いまい みちお、1914年1月24日 - 199… 今井 道雄(いまい みちお、1914年1月24日 - 1990年9月4日)は、日本の実業家。丸井今井代表取締役社長、札幌商工会議所会頭、札幌証券取引所理事長等を務めた。 北海道札幌市生まれ。1938年東京商科大学(現一橋大学)を卒業(同期に小泉明ら)。大阪の大丸百貨店で修業したのち、家業の丸井今井グループ入りし、1944年から丸井今井の三代目代表取締役社長を務めた。1973年から札幌商工会議所会頭を務め、北海道商工会議所連合会会頭、札幌観光協会会長、北海道百貨店協会会長、札幌証券取引所理事長なども歴任した。1974年北海道経済連合会設立発起人代表。1981年エフエム北海道発起人。1987年北海道立文学館建設期成会会長。
柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> … 柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> 8月19日 - 2000年 <平成12年> 1月16日) は、日本の実業家。六代目秩父鉄道社長。日本民営鉄道協会副会長。位階は正五位。 秩父市で秩父鉄道4代目社長・柿原亀吉の6人兄弟の長男として生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1937年、東京商科大学卒業。謙一自身はこれで学校は終わりだと思っていたが、陸軍経理学校に入学させられた。 大学卒業後、一年半ばかり家業を手伝っていたが、1934年に補充兵で応召。その後9年間兵役に従事。大尉となる。 戦後、秩父鉄道に入社。1947年に取締役経理部長となり常務取締役を経て、1969年に六代目社長に就任。
普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 19… 普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 1995年5月30日)は日本の実業家。元日本信託銀行社長・会長。 神奈川県出身。旧制神奈川県立小田原中学校(神奈川県立小田原高等学校の前身)、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を経て、第百銀行に入行。 三菱銀行で総務部長や常務を務めたのち、1974年に日本信託銀行社長就任。日本列島改造論後の不動産不況で多額の不良債権が生じていた同行のたてなおしにあたった。また労働組合との関係改善も進め、のちの三菱銀行との経営統合の基盤を作った。1981年に社長を退任し、会長に就任。1987年6月、会長を退き、取締役相談役に就任。1988年6月には取締役を退任し相談役に就任。
清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11… 清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11日 - 1999年〈平成11年〉4月13日)は、日本の水泳選手、実業家。愛知県豊橋市出身。オリンピックに2度出場し、1932年ロサンゼルス五輪で100m背泳ぎ金メダリスト、1936年ベルリン五輪でも銅メダルを獲得。第二次世界大戦後は総合商社兼松江商の社長・会長を務める。アマチュアスポーツの振興にも尽力し、日本人として初めて国際オリンピック委員会(IOC)副会長となった。位階は従四位。 豊橋市関屋町出身。旧制愛知第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学)を経て、1936年(昭和11年)東京商科大学(現・一橋大学)卒業。
露木 清(つゆき きよし、1913年1月5日 - 1995年… 露木 清(つゆき きよし、1913年1月5日 - 1995年1月29日)は日本の実業家。元伊勢丹代表取締役会長。 静岡県田方郡函南村(現・函南町)出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。三菱銀行副頭取を経て、1975年伊勢丹取締役、1976年伊勢丹副社長。1978年、三菱銀行出身者として初めて伊勢丹代表取締役会長に就任。1984年に伊勢丹社長に就任した、三菱銀行の部下で創業家4代目の小菅国安とともに、伊勢丹に近代経営を持ちこみ、「ファッションの伊勢丹」を作り上げた。1981年浦和店開店、1984年新潟伊勢丹開店、1987年には伊勢丹アイカードを導入。 1990年伊勢丹取締役相談役。 1995年1月29日、急性心筋梗塞のため東京都世田谷区の病院で死去。
立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 19… 立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 1984年5月13日)は、日本の経営者。トピー工業社長、会長を務めた。岩手県出身。 1936年に東京商科大学を卒業。東芝、八幡製鉄での勤務を経て、1965年10月にトピー工業常任顧問に就任し、同年11月副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1977年6月に会長を経て、1980年7月には相談役に就任。 1977年4月に藍綬褒章を受章。 1984年5月13日前立腺腫瘍のために死去。71歳没。