きだ みのる(本名・山田吉彦、1895年(明治28年)1月1… きだ みのる(本名・山田吉彦、1895年(明治28年)1月11日 - 1975年(昭和50年)7月25日) は、鹿児島県奄美大島出身の小説家、翻訳者。代表作『気違い部落』シリーズは映画化もされた。
慶應義塾大学:5,407人
きだ みのる(本名・山田吉彦、1895年(明治28年)1月1… きだ みのる(本名・山田吉彦、1895年(明治28年)1月11日 - 1975年(昭和50年)7月25日) は、鹿児島県奄美大島出身の小説家、翻訳者。代表作『気違い部落』シリーズは映画化もされた。
松本 淳三(まつもと じゅんぞう、1895年(明治28年)1… 松本 淳三(まつもと じゅんぞう、1895年(明治28年)1月1日 - 1950年(昭和25年)10月9日)は、日本のプロレタリア詩人、無政府主義者、政治家。衆議院議員。本名・淳造。 島根県美濃郡高城村神田(現益田市)で、山口唯美、松本カノ夫妻の長男として生まれ、祖父養軒に養育された。1914年、島根県立浜田中学校を卒業し、慶應義塾大学部理財科に進んだが1916年に中退し、その後、西日本各地や東京などを放浪した。 1918年、久原鉱業佐賀関製錬所に作業員として就職。1920年、堺利彦の推薦で雑誌『中外』の記者となり、日本社会主義同盟に加盟。1921年、自由人連盟の演説会で右翼に刺された。同年9月、再刊された『種蒔く人』の同人となる。
加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 199… 加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 1993年4月12日)は、日本の教育史学者。 愛知県宝飯郡豊川町(現豊川市)出身。東京高等師範学校卒。1944年「伊藤仁斎の学問と教育 古義堂即ち堀川塾の教育史的研究」で、文学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を兼ねるが、1947年公職追放。のち関東学院大学教授となる。1978年退職。 東京高師で嘉納治五郎に学ぶ。江戸時代の教育思想が専門だが、二宮尊徳の報徳思想を広めることに努め、これが戦時中の戦争イデオロギーとなったため戦後公職追放を受けた。
伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10… 伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10月1日 - 1979年 <昭和54年> 4月30日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1924年に慶應義塾大学法学部を卒業。第九十八国立銀行支配人、千葉銀行取締役、常務、千葉興業銀行専務、副頭取を経て、1963年5月には頭取に就任。1969年4月には会長に就任。 1965年に黄綬褒章を受章し、1968年に勲四等瑞宝章を受章。 1979年4月30日に急性肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9… 日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9月30日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。廣島證券商事社長。斎藤商店取締役。 広島県賀茂郡三津町(現・東広島市安芸津町三津)出身。酒造業・日下賛三の二男。広島県立広島第一中学校卒業。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。広島産業銀行員となる。1925年、家督を相続した。農業を営んだ。三津酒造専務取締役に就任した。 1930年、加奈陀サン生命保険に入り、広島支部長を務めた。廣島證券商事取締役、同社長を務めた。住友生命保険会社に勤務した。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。処世の信条は協力一致。趣味はスポーツ、読書、運動。
岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 -… 岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 - 1963年3月22日)は、日本の経営者。三越社長を務めた。 神奈川県出身。1918年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。 1938年に東京電燈常務に就任し、1942年に関東配電理事を経て、1943年6月に三越社長に就任。 1963年3月22日、死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)… 奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)9月12日 - 1976年(昭和51年)11月22日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。 京都府出身。政治家・奥繁三郎の長男として生まれる。1919年(大正8年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。同年、三井銀行に入行した。 以後、京都倉庫社長、京都瓦斯副社長、愛宕山鉄道監査役、渡良瀬水電監査役、帝国瓦斯協会(現日本ガス協会)参事、丸物百貨店取締役、山城八幡銀行取締役、安田火災海上保険(現損害保険ジャパン)取締役、大日本政治会京都支部幹事長などを務めた。 1942年(昭和17年)京都府多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月19日に就任し、交友倶楽部に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3… 町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1975年〈昭和50年〉9月30日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。渋川市長(2期)。 群馬県渋川市出身。父は米穀商で渋川町長もつとめた町田久三郎。1913年(大正2年)慶應義塾商工学校卒。翌年慶應義塾大学中退。 1920年(大正9年)から太平洋戦争中まで丸久組製糸所を経営した。1933年(昭和8年)渋川町会議員となり、1936年(昭和11年)から渋川町長を務めた。 生糸製造業に従事し、上毛精機、渋川製作所各(株)を創立し、社長となり、太平工業、吉野組製糸所、町田織物、東京建鉄各(株)の社長となる。群馬商工経済会理事も務める。
上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 … 上野 三郎(うえの さぶろう、1894年〈明治27年〉9月 - ?)は、日本の実業家。 栃木県宇都宮市生まれ。肥料商、栃木県多額納税者・上野松次郎の三男。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。 藤本ビルブローカー本店東京支店各勤務。下野製紙取締役東京支店長、三和製紙、旭土地各取締役をつとめる。 五代上野松次郎の三男、六代上野松次郎の弟である。1928年、分家した。趣味は洋画、登山、書道。宗教は曹洞宗。東京府在籍で、住所は東京市本郷区駒込上富士前町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
7代 野田 六左衛門(のだ ろくざえもん、1894年(明治2… 7代 野田 六左衛門(のだ ろくざえもん、1894年(明治27年)8月 - 1989年(平成元年)8月17日)は、明治から昭和時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。前名は文二。 滋賀県出身。先代六左衛門の二男。1902年に先代六左衛門が買収した今津酒造を子供ながら事業承継。1915年(大正4年)滋賀県立八幡商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)卒業、のち慶應義塾大学に進んだ。 1924年(大正13年)以降、野田酒造代表取締役、滋賀県地方木材社長、日野町耕地整理組合長、日野町会議員、同学務委員などを歴任した。 1939年(昭和14年)滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで務めた。
佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7… 佐藤 洋之助(さとう ようのすけ、1894年(明治27年)7月9日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、日本の政治家、実業家。所属政党は戦前は立憲政友会→政友会革新同盟→日本進歩党、公職追放解除後は自由党→自由民主党。衆議院議員を通算10期務めた。 茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)の旧家・佐藤長之助の長男として生まれる。慶応義塾大学中退。古河町会議員、茨城県会議員、同副議長を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙で茨城県3区(当時)から政友会公認で立候補して初当選。1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新派に参加。1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
金 度演(キム・ドヨン、朝鮮語: 김도연、1894年6月16… 金 度演(キム・ドヨン、朝鮮語: 김도연、1894年6月16日 - 1967年7月19日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。二・八独立宣言、朝鮮語学会事件で検挙された。本貫は永川金氏、号は常山(サンサン、상산)。 京畿道陽川郡の陽東面(金浦郡を経て現・ソウル特別市江西区)にて誕生。父は金鍾遠、母は草渓鄭氏。次男として誕生。7歳の頃から漢字を学習。太極学校で初等教育を受け、普成中学校に進学。 1913年に日本に留学し、錦城学校尋常中学校3年生に編入学。「半島中学会」という組織を作って活動。卒業後は慶應義塾大学部理財科に入学。朝鮮系留学生による組織『朝鮮留学生学友会』で総務として各種活動を主導。
水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月1… 水木 京太(みずき きょうた、1894年(明治27年)6月16日 - 1948年(昭和23年)7月1日)は、日本の劇作家、演劇評論家である。水木京太は筆名で、本名は七尾 嘉太郎(ななお かたろう)。声優の草分けである女優の七尾伶子は実娘である。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)大町中丁の旧家に、町会議員を何度も務めた七尾重兵衛の長男として生まれる。慶応義塾大学に入学後文学を専攻し、在学中に小山内薫に師事した。盲腸による腹膜炎で一年休学。大正8年(1919年)卒業。 資生堂の嘱託となり、大正9年(1920年)から同14年(1925年)まで『三田文学』の編集に携わりつつ、慶応義塾大学講師として劇文学を担当。
吉見 信一(よしみ のぶかず、1894年(明治27年)5月2… 吉見 信一(よしみ のぶかず、1894年(明治27年)5月22日 - 1988年(昭和63年)5月18日)は、日本海軍の軍人として太平洋戦争を戦った海軍少将。戦後は慶應義塾大学医学部を卒業し、医師として活躍した。娘の夫は後宮虎郎。 海軍中将・吉見乾海の長男として江田島に生まれる。弟の吉見博之は後に主計大尉となった。祖父の吉見雲台は越後長岡藩医で戊辰戦争で戦死している。小田原中学、広島一中を経て海軍兵学校入校。1915年(大正4年)12月同校卒業(第43期)。同期生に矢野志加三、中澤佑、高木惣吉らがいる。 海軍砲術学校高等科学生を卒業し、「帆風」砲術長、「霧島」分隊長、「対馬」砲術長、「陸奥」分隊長等を経て海軍少佐に進級。
片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月… 片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月2日 - 1944年(昭和19年)12月25日)は、日本の大正・昭和前期における小説家。「鉄平」と表記されることもある。 岡山県苫田郡芳野村(現・鏡野町)に生まれる。 津山中学の同級生に矢野峰人、中山巍らがいる。中学校卒業後、第六高等学校受験に失敗、自殺を企てた。上京し、慶應義塾大学仏文科に進学したが、出席日数が不足したため中退、一時帰郷。様々な職を転々としながら小説を書き始め、各雑誌・出版社に投稿を行う。1921年『舌』などを書いて文壇に出る。山陽新報、大阪朝日新聞社、大阪時事新報の記者を務める。 1924年(大正13年)、横光利一や川端康成らと文学雑誌「文芸時代」を創刊し、創作活動のみならず評論活動や翻訳活動にも手を付けた。
小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1… 小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1月31日 - 1994年(平成6年)3月24日)は、日本の小説家、随筆家、俳人。俳号は燕子楼。 東京府東京市下谷区に生まれ育った。生家は呉服商「柳河屋」。 京華中学を経て、慶應義塾大学部文学科在学中に、『三田文学』主幹で西洋美術史家の澤木四方吉から教えを受け、『三田文学』で作品を発表し始める。1916年に先輩作家の文章について批評した『オオソグラフィ』は森鴎外から認められるなど、学生時代から慶應義塾関係者内において、その名は知れ渡る。卒業後は鈴木三重吉が主宰していた児童雑誌『赤い鳥』の編纂に携わる。1919年に慶應義塾大学部文学科講師となり、最終的には文学部教授へ昇格し、1931年まで勤め、また1920年には『三田文学』編集委員となった。
西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27… 西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27年〉1月20日 - 1982年〈昭和57年〉6月5日)は、日本の詩人(近代詩)、英文学者、文学博士。第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物。また、生涯に多くの水彩画並びに油彩等の絵画作品を残した。出生地である新潟県小千谷市の名誉市民。位階は正四位。生前、ノーベル文学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 1922年、渡英して西欧の超現実主義的感覚を身につけた。帰国後、日本の超現実主義運動に参加して、詩集『Ambarvalia』(1933年)を刊行。ほかに『旅人かへらず』(1947年)、『近代の寓話』(1953年)など。
児玉誠(こだま まこと、1894年(明治27年)1月7日 -… 児玉誠(こだま まこと、1894年(明治27年)1月7日 - 1937年(昭和12年)2月22日)は、日本の病理学者。満鉄衛生研究所病理部部長。児玉博士邸事件の当事者の一人。 長野県小県郡和村(現東御市東上田)に生まれる。実家は大地主で、小県郡有数の資産家。旧制上田中学、千葉医学専門学校を卒業後、北里研究所の病理部に入り、草間滋に師事、草間の慶應義塾大学教授就任に伴い、助手として慶應に転勤。1923年よりドイツに留学し、フライブルク大学、ミュンヘン大学で学び、1926年に帰国し、慶應義塾大学医学部の病理学講師を経て、大連の満鉄衛生研究所病理部部長に就任。満州チフスに関する研究を行ない、1933年には児玉一門による「満州熱および発疹チフスに関する実験的研究」に対して日本細菌学会より浅川賞が授与されたが、同年、妻の異性関係がもとで起こった「児玉博士邸事件」に関与したことにより、同所を辞職し、妻と離婚し、ベルリンの国立衛生研究所に留学した。
中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> … 中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> - 1968年 <昭和43年> 2月19日)は、日本の政治家。三重県会議員を2期務めた後、初代鳥羽市長に就任し、鳥羽市の発展の基礎を築いた。位階は従五位。 慶應義塾大学教授で政治学者の中村菊男の父である。 1894年(明治27年)、三重県志摩郡答志村大字答志(答志島、現・鳥羽市答志町)に生まれる。父・与助は初代の答志村長や三重県会議員(2期)を務めた政治家であった。 鳥羽町会議員に当選したのを皮切りに政界入りし、1939年(昭和14年)11月に三重県会議員選挙の志摩郡選挙区で石原円吉とともに当選した。1943年(昭和18年)11月の改選は任期延長のため実施されず、1947年(昭和22年)4月の選挙まで県会議員を務めた。
大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1… 大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1970年1月30日)は、日本の経営者。東横百貨店(現在の東急百貨店)社長を務めた。 三重県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。1939年に取締役に就任し、1941年に常務を経て、戦後の三井銀行改め帝国銀行常務在任時の1946年、公職追放の発表に先立って帝銀万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)、戦前三井財閥のリーダー池田成彬らと共に、池田の子飼とみなされ、かつ万代の後継リーダーと目されていた大矢知も退任した。1948年5月に東横百貨店社長に就任し、1963年9月に相談役に退いた。 1970年1月30日脳血栓のために死去。
4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26… 4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26年〉11月4日 - 1967年〈昭和42年〉11月21日)は、日本の資産家、実業家、政治家(貴族院多額納税者議員)。「弥右衛門」の名前は代々襲名されており、本記事に記載するのは4代目である。 岩手県稗貫郡花巻町出身。出生名は周蔵。花巻町でも有数の豪農である瀬川家に、3代弥右衛門の子として生まれ、父の死去に伴い1922年(大正11年)1月に家督を相続し弥右衛門を襲名した。 慶應義塾大学経済学部を卒業。父が没した1922年の時点では瀬川家は県下一の多額納税者であった。この時期には農家から貸金業に中心は移っていたとみられている。豊富な資金を岩手軽便鉄道・花巻電気などに投資し、その役員となった。
松本 芳夫(まつもと よしお、1893年8月25日 - 19… 松本 芳夫(まつもと よしお、1893年8月25日 - 1982年12月8日)は、日本の歴史学者。慶應義塾大学名誉教授。別名南国天[要出典]。 和歌山県東牟婁郡下里村(現・那智勝浦町)出身。1914年郁文館中学校卒業。1919年慶應義塾大学文学部史学科卒業、1950年「古代日本人の政治思想」で慶大文学博士。1919年慶應義塾商工学校教員、1923年慶應義塾大学予科教員兼高等部教員、1927年に文学部講師、1931年助教授を経て、1933年教授。1953年文学部長。1959年、義塾賞受賞。1960年斯道文庫長、1961年名誉教授。
前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31… 前田 善治(まえだ ぜんじ、1893年(明治26年)5月31日 - 1970年(昭和45年)6月2日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県名草郡安原村字吉原(現・和歌山市)で前田和一の長男として生まれ、1910年、前田勝之助の養子となる。北海道庁立上川中学校を経て、慶應義塾大学部理財科で学んだ。北海道に戻り農業を営む。 旭川信用組合監事、北日本無尽 (株) 監査役、下村育英財団理事、前田和一商店社長、旭川小型モータース社長、旭川信用金庫理事、旭川瓦斯 (株) 常任監査役、人事調停委員などを務めた。 政界では、旭川市会議員、同議長、北海道会議員、同参事会員を歴任。この間、旭川市長候補者に推薦されたが承諾しなかった。
塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月2… 塩川 政巳(しおかわ まさみ、1893年〈明治26年〉3月29日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。佐久銀行頭取。浅間山観光、塩久各社長。長野県会議員。曹洞宗玄江院総代会長。 長野県・塩川幸太の長男。塩川三四郎の甥。1917年、慶應義塾大学部政治学科を卒業。第一銀行に入行。1923年、佐久銀行に転じる。1936年、家督を相続する。 佐久銀行常務を経て頭取に就任。長野貯蓄銀行、千曲自動車各監査役、東京美術館取締役、浅間山観光、塩久各社長、県選管委員長などをつとめる。 宗教は曹洞宗、禅宗。趣味はスポーツ、美術品愛好、運動、俳諧。長野県小諸市在籍で、住所は長野県北佐久郡三岡村森山(現・小諸市森山)、東京宅は赤坂区丹後町。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、18… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、1893年〈明治26年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉7月10日)は、日本の政治家、実業家、群馬県多額納税者。位階は正三位。衆議院議員(8期)、参議院議員(2期)、運輸大臣。伊香保温泉の旅館業、木暮旅館主。群馬県観光協会、日本温泉協会各会長。群馬銀行取締役会長、関東いすゞ自動車販売社長、群馬バス社長。25代目武太夫。 群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)出身。先代・木暮武太夫(元衆議院議員)の長男。 1912年(明治45年)、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。1917年(大正6年)、慶應義塾大学理財科を卒業。はじめ三井銀行に勤めたが、退社して家業の旅館業に従事した。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年〈明治26年〉 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。 1893年(明治26年)、香川県高松市に生まれた。本名は良助。小学校時代、竹内流腰廻を竹内緑に、無相流柔術を松井三蔵に、直心影流剣術を井上正広に学ぶ。中学校時代には、柔道を岡野好太郎に、竹内流を竹内兵衛に、剣道を上原宗九郎、植田平太郎(天真正伝神道流)らに学んだ。 1913年(大正2年)、慶應義塾大学部理財科に入学。剣道部に入り、真貝忠篤(窪田派田宮流)に学ぶ。また中山博道の道場・有信館に入門して神道無念流剣術を修行した。
邦枝 完二(くにえだ かんじ、1892年12月28日 - 1… 邦枝 完二(くにえだ かんじ、1892年12月28日 - 1956年8月2日)は、日本の小説家。本名は邦枝 莞爾。雅号は双竹亭竹水。戸籍上の誕生日は1893年1月1日。 1892年(明治25年)12月28日東京市麹町区(現・千代田区)東京麹町生れ。祖父は300石取りの幕臣、父は馬術に長じていたという。母方の叔父が浮世絵収集や江戸戯作者を好む通人であったところから、少年時代からその影響を受ける。 麹町小学校を経て商工中学校卒業後、慶應義塾大学予科、東京外国語学校に籍を置いたことになっているが、学生とは名ばかりで、創作に熱心であった。在学中から永井荷風に私淑し、荷風の推薦で処女作『廓の子』が雑誌「三田文学」に掲載された。
阿部 時一 (あべ ときいち、1892年(明治25年)12月… 阿部 時一 (あべ ときいち、1892年(明治25年)12月4日 -1957年(昭和32年)10月17日)は、日本の地方政治家。初代岩手県一関市長。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)生まれ。1921年慶應義塾大学部理財科卒。卒業後は第三銀行に就職したが、間もなく退職した。帰郷し、1929年一関町会議員。その傍ら『磐井毎夕新聞』を発行。同紙は後に合併により『岩手日日新聞』となる。1938年保証責任西磐井郡北部販売組合連合会専務理事となるが、翌年退任。その後は一関町助役となる。 1947年一関町長に当選。翌1948年市制施行により一関市長に就任する。一関市は市制施行の年を挟みカスリン台風、アイオン台風の被害を大きく受け、多数の死者、行方不明者を出した。
日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - … 日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - 1945年4月25日)は、日本の彫刻家。大分県臼杵市出身。 八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことでも知られる。 5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学部理財科に進学したものの程なく中退。その翌年1913年(大正2年)、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。 学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年(大正8年)には作品「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年(大正14年)に作品の方向性の違いから独立することを選び、斎藤素巌と共に構造社を結成。
南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年(明治25年)… 南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年(明治25年)10月12日 - 1936年(昭和11年)6月22日)は、日本の小説家。
田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日… 田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日 - 1965年 <昭和40年> 9月2日)は、日本の商人(米穀並びに酒類商)、実業家、政治家。位階は従六位。 神奈川県三浦郡田浦町(現横須賀市)出身。田川平三郎の二男。1916年3月、慶應義塾大学部理財科卒業。米穀並びに酒類商を営む。神奈川県会議員に当選し、2期つとめた。 横須賀酒類商業組合理事長、横須賀タクシー会長、湘南商事、神奈川県容器各社長、田浦土地建物、神奈川無尽、神奈川県油工業、神奈川県食糧工業各取締役、神奈川県食糧営団専務理事などをつとめた。1965年死去。死没日付をもって従六位に叙された。 自由主義者で、福沢諭吉の「独立自尊」を信奉しており、子供には干渉しなかった。
三宅 周太郎(みやけ しゅうたろう、1892年(明治25年)… 三宅 周太郎(みやけ しゅうたろう、1892年(明治25年)7月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、演劇評論家。媚びぬ劇評に徹し、また、文楽の興隆に尽くした。 兵庫県加古川市寺家町の造酒屋に生まれた。6歳のとき父が建てた芝居小屋に、入りびたって育った。同志社中学校、慶應義塾大学予科、本科文学部と進んだ学生時代にも、歌舞伎や文楽を見続けた。 1917年(大正6年)(25歳)、三田文学に『新聞劇評家に質す』を寄せ、三木竹二、杉贋阿弥、岡鬼太郎らを称揚し、饗庭篁村、伊原青々園、七代目松本幸四郎らを批判して、劇壇・文壇に反響を呼び、小山内薫らに認められた。『演藝画報』誌にも書くようになった。
坂東 舜一(ばんどう しゅんいち、明治25年(1892年)6… 坂東 舜一(ばんどう しゅんいち、明治25年(1892年)6月30日 - 昭和52年(1977年)11月3日)は、日本の航空実業家。日本航空株式会社創立者。 兵庫県津名郡五色町(現・洲本市)生まれ。大正5年(1916年)慶應義塾大学部理財科を卒業したのち、日本郵船に入社。大正7年(1918年)同社を退社し、中島飛行機の前身である合資会社日本飛行機製作所の創設に関わり、事務長に就任。大正9年(1920年)から川西機械製作所飛行機部支配人を務めた後、大正12年(1923年)には日本航空株式会社を創立し、取締役支配人となる。 以後、昭和3年(1928年)川西航空機械株式会社取締役常務、昭和12年(1937年)日本航空工業株式会社専務取締役などを歴任。
東屋 三郎(あずまや さぶろう、1892年5月15日 - 1… 東屋 三郎(あずまや さぶろう、1892年5月15日 - 1935年7月3日)は、日本の俳優である。本名は油屋 三三郎(あぶらや さんざぶろう)。 1892年(明治25年)5月15日、東京市神田区駿河台南甲賀町(現在の東京都千代田区神田駿河台三丁目)に「油屋 三三郎」として生まれる。父親は代議士の光妙寺三郎、母親は柳橋の芸者・お六。1893年の父の死後は、父の親友であった西園寺公望が引き取って養育した。 慶應義塾大学に入学、在学中に青山杉作らと出会い、1917年(大正6年)2月17日、新劇の劇団「踏路社」を結成する。『画家とその弟子』で初舞台を踏む。 1920年代には、舞台協会に参加し、1923年(大正11年)、舞台協会が日活向島撮影所と出演提携を結び、サイレント映画に出演する。
佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日… 佐藤 春夫(さとう はるお、1892年〈明治25年〉4月9日 - 1964年〈昭和39年〉5月6日)は、近代日本の詩人・小説家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・評伝作品・童話・戯曲・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和中期まで旺盛に活動した。筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称した。初代新宮市名誉市民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 生家は医家。中学時代から文学好きで、文芸誌「スバル」に詩歌を投稿した。永井荷風を慕い慶應義塾に入学。生田長江に師事。与謝野鉄幹・晶子の東京新詩社に入った。 『西班牙犬の家』(1917年)などで認められ、『田園の憂鬱』(1917年)や『都会の憂鬱』(1922年)で作家的地位を確立。
宮寺 敏雄(みやでら としお、1892年(明治25年)3月3… 宮寺 敏雄(みやでら としお、1892年(明治25年)3月31日 - 1968年(昭和43年)8月1日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。大同電力取締役、揖斐川電気工業(現・イビデン)社長などを務めた。静岡県出身。 宮寺敏雄は1892年(明治25年)3月31日、宮寺昇作の次男として生まれた。出身は静岡県沼津市。沼津中学校を経て慶應義塾大学部理財科に進み、1915年(大正4年)卒業。親戚に銀行家が多かったため周囲から三井銀行への就職を勧められたがこれを断り、日本陶器に入るため名古屋市へ赴く。しかし同社への入社が叶わなかったため、福澤桃介に面会して彼が経営する電力会社名古屋電灯株式会社に入社することとなった。
野坂 参三(のさか さんぞう、1892年〈明治25年〉3月3… 野坂 参三(のさか さんぞう、1892年〈明治25年〉3月30日 - 1993年〈平成5年〉11月14日)は、日本の政治家、共産主義者。衆議院議員(3期)、参議院議員(4期)。コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党の第一書記、議長、名誉議長などを務めたが、大粛清時代に同志の山本懸蔵らをNKVDに讒言密告して死刑に追いやっていたことが最晩年になって発覚し、日本共産党から除名された。初名は小野 参弎(おの さんぞう)。中国では岡野 進や林 哲とも称した。ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄など。 山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。
石原 舟月(いしはら しゅうげつ、1892年3月7日 - 1… 石原 舟月(いしはら しゅうげつ、1892年3月7日 - 1984年10月13日)は、大正・昭和期の俳人。現在の山梨県笛吹市御坂町生まれ。本名は起之郎。慶應義塾大学部理財科卒業。 1921年「雲母」入会、飯田蛇笏に師事。のち「雲母」同人。1926年、小川鴻翔・西島麦南と「雲母東京支社」を創設した。1932年、東京電柱広告社を創業し、後に東広会長。戦後は一時期東京の自宅に「雲母」発行所を移し、復刊・継続に貢献した(1946年-1951年)。1967年、第3回山廬賞受賞。1976年、勲五等瑞宝章受章。1980年、俳人協会名誉会員。1981年、『雨情』により第15回蛇笏賞を受賞。 「雲母」一筋の俳人で、実業に携わりながら自然と生活を深い詩情をもって詠んだ。
川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2… 川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2月20日 - 1955年(昭和30年)1月24日)は、日本の実業家。阪神財閥系譜・川西財閥2代目総帥。位階勲等は従五位勲六等。大日本帝国海軍用航空機開発者、川西航空機・川西機械製作所社長、新明和工業創業者を務めたため、戦後は公職追放指定を受けた。 兵庫県神戸市須磨生まれ。川西清兵衛の次男で、川西清司の弟。 旧制姫路中学校(姫中)を経て上京し、慶應義塾大学部理財科を卒業。合資会社日本飛行機製作所(後の中島飛行機)で勤務し、飛行機の設計・製作を学ぶ。慶應義塾大学時代の学友に、坂東舜一が居る。1920年(大正9年)に父が神戸に創業した川西倉庫に川西機械製造所を設立すると、29歳で所長に就任。
関矢 孫一(關矢、せきや まごいち、1892年2月13日 -… 関矢 孫一(關矢、せきや まごいち、1892年2月13日 - 1942年5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 新潟県北魚沼郡下条村(広瀬村、広神村を経て現魚沼市)で、素封家・関矢橘太郎、チエの二男として生まれた。慶応義塾大学に学ぶ。農業を営み、広瀬村信用組合監事、同理事、同村議、新潟県議、同議長、北魚沼郡青年団長、小出銀行取締役会長、堀ノ内銀行取締役、小出尾製糸(株)社長、北越殖民(株)監査役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において新潟10区から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙には不出馬。1930年の第17回衆議院議員総選挙では新潟3区から立憲民政党公認で立候補して復帰した。
村田 三郎 (むらた さぶろう、1892年〈明治25年〉2月… 村田 三郎 (むらた さぶろう、1892年〈明治25年〉2月8日 - 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の政治家。新潟県新潟市長(3期、第17代~第19代)。 1892年(明治25年)長岡市の生まれ。1915年(大正4年)慶應義塾大学を卒業。自宅は湊二町通二ノ町26-9。戦後まもなく新潟商工会議所会頭を務めたあと、1947年(昭和22年)初の公選新潟市長に当選、1959年(昭和34年)まで3期12年間在職。この間、戦後の混乱した市民生活の建て直しや、新潟大火の災害復旧、在日朝鮮人の帰国業務などに尽力。その後、新潟信用金庫理事長、県社会福祉協議会会長など、幅広い活動を行った。 1981年(昭和56年)9月16日、脳梗塞のため、入院先の済生会新潟病院で死去。
堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892… 堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年〈明治25年〉1月8日 - 1981年〈昭和56年〉3月15日)は、明治から昭和にかけての日本の詩人・歌人・フランス文学者。訳詩書は300点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 欧米生活を経て、フランス近代詩の訳詩集『月下の一群』(1925年)を発表し反響を呼んだ。象徴派の詩に知性と官能美を加えた優雅な創作詩でも後進に影響を与えた。作品に『月光とピエロ』(1919年)、『砂の枕』(1926年)など。 1892年(明治25年)、帝国大学法科大学在学中であった堀口九萬一(のち外交官)の長男として、東京市本郷区森川町(現:東京都文京区本郷或いは西片辺り)に生まれる。
福原 路草(ふくはら ろそう、1892年 - 1946年9月… 福原 路草(ふくはら ろそう、1892年 - 1946年9月29日)は、第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した日本の写真家で本名は「信辰」。おおむね作品は、芸術写真(ピクトリアリスム)に分類され、人物写真よりも風景写真を得意とした。 父・福原有信は資生堂創業者、兄・福原信三(三男)は初代社長で写真家。なお甥・福原義春(五男・信義の長男)は後年社長・会長となり、退任後は東京都写真美術館館長に就いた(のち名誉館長、2023年8月末に没)。 東京市京橋区(現・東京都中央区)銀座生まれで。1917年、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。1921年には、東京で、福原信三、大田黒元雄、掛札功、石田喜一郎らと「寫眞藝術社」を結成し、機関紙として月刊「寫眞藝術」を創刊した(1921年6月号から1923年9月号。
槇 智雄(まき ともお、1891年(明治24年)12月12日… 槇 智雄(まき ともお、1891年(明治24年)12月12日 - 1968年(昭和43年)10月3日)は、日本の政治学者。専門は、イギリス憲法史・政治制度史。防衛大学校名誉教授。保安大学校長・初代防衛大学校長、白梅学園短期大学学長を歴任。登山家の槇有恒は実弟。 宮城県仙台市出身。父は新潟県士族・槇武。父の仙台赴任中に生まれた。 1965年叙勲二等授瑞宝章。1968年賜銀盃一個、叙従三位。
平野 繁太郎(ひらの しげたろう、1891年 <明治24年>… 平野 繁太郎(ひらの しげたろう、1891年 <明治24年> 11月27日 - 1993年 <平成5年> 2月23日 )は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。位階は正四位。 静岡県出身。1915年に慶應義塾理財科を卒業し、1917年6月に西遠銀行に入行し、1920年1月には遠江銀行常務に就任。1943年3月には静岡銀行専務に就任し、1949年6月には頭取に昇格した。1970年4月から1975年5月までには会長を務めた。1958年7月から1969年5月までに全国地方銀行協会会長を務めた。1957年に黄綬褒章と紺綬褒章を受章し、1972年11月には勲二等瑞宝章を受章。 1993年2月23日、肺炎のために死去。
庭田 重行(にわた しげつら、1891年8月15日 - 19… 庭田 重行(にわた しげつら、1891年8月15日 - 1952年9月28日)は、明治時代から昭和時代の華族(伯爵)で、陸軍軍人や宮内省職員を務めた。位階および勲等は従三位・勲四等。 庭田重直伯爵と母長子(綾小路有良子爵の長女、1868年(明治元年)1月生)の長男として1891年(明治24年)に生まれる。1898年に家督を相続し、襲爵する。学習院高等科を経て慶應義塾大学を卒業。のちに陸軍に入り、陸軍歩兵少尉に進んだ。1915年から歌会始講師となり、1924年に掌典に任ぜられた。
浅野 八郎(あさの はちろう、1891年(明治24年)8月 … 浅野 八郎(あさの はちろう、1891年(明治24年)8月 - 1966年(昭和41年)1月8日)は、日本の実業家。浅野財閥の創始者・浅野総一郎の三男で、同財閥の多数の系列会社重役を同時に務めた。 慶應義塾普通部を経て1917年(大正6年)に慶應義塾大学部理財科を卒業し、浅野造船所に勤務した。1923年(大正12年)に造船業・製鉄業視察で欧米を訪れた。1926年 (昭和元年) には電力事業視察で欧米を訪問した。 浅野カーリット(日本カーリット)社長、関東水力電気(佐久発電所)副社長、関東証券代表取締役、浅野セメント(太平洋セメント)常務取締役、浅野物産(丸紅)・鶴見製鉄造船(JFE、ジャパンマリンユナイテッド)・関東運輸(日の出興業)・日之出汽船(NYKバルク・プロジェクト)・鶴見木工・庄川水力電気(小牧ダム)・五日市鉄道(JR五日市線)・小倉築港(小倉興産)・上毛電力の取締役、浅野石材工業・日本ヒューム管(日本ヒューム)・信越木材・日本鋳造・南武鉄道(JR南武線)・小倉製鋼(日本製鉄)の監査役を務めた。
千金良 宗三郎(ちぎら そうざぶろう、1891年7月27日 … 千金良 宗三郎(ちぎら そうざぶろう、1891年7月27日 - 1985年5月19日)は、昭和期の銀行家。三菱銀行頭取、東京銀行頭取、千代田銀行頭取、全国銀行協会連合会会長(2期)、日本銀行政策委員等を歴任。
水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 199… 水野 智彦(みずの ともひこ、1891年2月5日 - 1997年12月11日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長、会長を務めた。東京都出身。 1915年に慶應義塾大学部理財科を卒業し、同年に森村組に入社。1956年に取締役に就任し、1934年に日本陶器取締役にも就任し、1944年には日本特殊陶業専務に就任し、1949年に取締役、1961年に監査役、1963年に顧問を経て、1971年に社長に就任。1973年に会長に就任。 1972年に勲三等瑞宝章を受章。 1997年12月11日、呼吸不全のために死去。106歳没。
福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月… 福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1945年〈昭和20年〉3月18日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家である。 「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介の長男で、福澤諭吉の孫にあたる。父の電気事業に参加し矢作水力社長などを務めたほか、化学工業を起して東亞合成化学工業(現・東亞合成)初代社長となった。 福澤駒吉は1891年(明治24年)1月5日、福澤桃介(旧姓・岩崎、福澤家に婿入り)の長男として生まれた。母は福澤諭吉次女の房(ふさ)。当時桃介は北海道で炭鉱と鉄道を経営する北海道炭礦鉄道(北炭、後の北海道炭礦汽船)に勤めており、房を連れて札幌へと赴任していたが、出産にあたって東京に帰ったため、駒吉は東京三田の諭吉邸で生まれた。