甲木 保(かつき たもつ、1902年(明治35年)11月1日… 甲木 保(かつき たもつ、1902年(明治35年)11月1日 - 1975年(昭和50年)11月30日)は、昭和期の文部官僚、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県三潴郡蒲池村(現柳川市)で、甲木鹿松の二男として生まれる。福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)を経て、1926年(大正15年)日本大学専門部法律科を卒業した。 文部省に入省し、同省嘱託、文部属兼厚生属、文部理事官などを歴任。1942年(昭和17年)大政翼賛会に転じ、錬成部副部長に就任。1944年(昭和19年)翼賛会を退職し、三笠製薬研究所を設立。戦後に株式会社に改組し三笠製薬社長に就任。三笠物産社長も務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福岡県第3区から民主自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月… 金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月15日または1909年2月15日または1910年2月25日 - 1977年8月26日〈陰暦7月12日〉または9月26日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、実業家、政治家。慶南体育会会長、国際新報(現・国際新聞)社長、第5代韓国国会議員(参議員)、東海生命保険(現・KDB生命保険(朝鮮語版))社長を歴任した。 本貫は金寧金氏(朝鮮語版)。字は泰寛、号は一耕(イルギョン、일경)。筆名は九徳山人。元国家安全企画部長・国会議員・統一院長官・副総理の金悳(朝鮮語版)は娘婿。 慶尚南道固城郡出身。日本大学専門部中退または卒業。
金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月… 金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月25日 - 1962年2月22日)は、大韓民国の医師、教員、政治家、実業家、社会事業家。麗水郡郡守、麗川郡郡守、第3代韓国国会議員、湖南新聞社長を歴任した。 全羅南道麗川郡(現・麗水市)出身。ソウル中東中学校、日本大学師範科卒。莞島中学校教員、光州農業実習学校長を歴任した後に全羅南道の医師試験に合格した。その後は韓国キリスト教青年会(朝鮮語版)総務、麗水郡・麗川郡郡守を経て、全羅南道三日保健診療所長を務めた。麗水華井医院を開業したほか、麗水愛養園長を務めた。1954年の第3代総選挙では麗川郡選挙区から無所属で出馬し当選し、その後は自由党に入党した。
李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8… 李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8月7日 - 1968年12月9日または12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の計理士、弁理士、教育者、政治家、実業家。朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、制憲・第2代韓国国会議員。本貫は徳山李氏(朝鮮語版)。 咸鏡南道利原郡出身。北青公立普通学校、京城オソン中学校、日本大学専門部工科専修科、同大商科経済学科卒。京都帝国大学(現・京都大学)経済学・社会学修了。世和堂製薬株式会社代表取締役、世和産業・世和商事・世和土建株式会社代表取締役、朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、韓国民族代表者大会代議員、総選挙対策委員会委員、財団法人世和学院理事長、ソウル薬学大学理事長、朝鮮雄弁会副会長、国会文教厚生・産業労働分科委員、独立政治経済問題研究所代表者、李儁先生記念事業協会理事、大韓労農党党員、大韓国民党党員、大韓労総委員長、自由党幹部、東洋水産株式会社代表、咸南人会総務部長を務めた。
弘中 伝二(ひろなか でんじ、1900年1月15日 - 19… 弘中 伝二(ひろなか でんじ、1900年1月15日 - 1962年11月29日)は、日本の経営者。西日本新聞社社長を務めた。山口県出身。 1921年に日本大学専門部政治科を中退し、1922年に福岡日日新聞社に入社した。 1943年に西日本新聞社に転じ、1947年に常務に就任し、1950年に監査役、1951年に取締役、1955年に副社長を経て、1957年11月には社長に就任。 共同通信社理事会会長も務めた。 1962年11月29日肺気腫のために死去。62歳没。 12008年3月で終刊。 2資本・友好関係のあるテレビ局・ラジオ局。 32007年から暫くの間、共催社として参加。 4過去に資本・友好関係のあったラジオ局。
金 声浩(キム・ソンホ、朝鮮語: 김성호/金聲浩、1899年… 金 声浩(キム・ソンホ、朝鮮語: 김성호/金聲浩、1899年9月5日または1900年 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の検察官、裁判官、弁護士、実業家、政治家。初代全羅南道議会(朝鮮語版)議員、第3代韓国国会議員を歴任した。 全羅南道康津郡出身。日本大学専門部法科卒。朝鮮弁護士試験・高試司法科合格。光州地方法院木浦支庁上席検事・首席判事、光州地検木浦支庁長、東光学校校長、大韓国民党木浦市党委員長、初代全羅南道議会議員、韓国金属工業会長、国民会木浦支部支部長、自由党全羅南道党副委員長、朝鮮建国青年会全南委員長、木浦体育会会長、第3代国会金融界不正事件および農林部疑惑事件国政監査特別委員会委員長を務めた。
金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年また… 金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年または1900年10月12日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字表記は金鍾先とも。日本名は金田 国本(かねだ くにもと)。 現在のソウル特別市鐘路区または全羅南道求礼郡出身。求礼公立普通学校、東京正則英語学校中等科、日本大学政経科卒。1926年に新設の朝鮮殖産信託会社副社長となり、1930年代には現金80万ウォン以上を持つ資産家かつ全羅道の大地主であり、咸鏡南道の安辺郡に鉱山も所有していた。教育にも積極的に関与し、1927年から京城の往十里に旺新青年会で経営する旺新学院を支援し、1929年に私立旺新学院の院長を務め、大金を寄付して校舎を新築した。
飯塚 定輔(いいづか さだすけ、1897年(明治30年)10… 飯塚 定輔(いいづか さだすけ、1897年(明治30年)10月14日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。 秋田県雄勝郡、のちの羽後町出身。1927年(昭和2年)日本大学法文学部法律学科を卒業した。 協調会嘱託、国務大臣秘書官、立憲民政党政務調査会専門調査員、末広汽船社長、菊谷工業取締役会長などを務めた。1945年(昭和20年)2月14日、従六位に叙される。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で旧秋田県第2区から民主党公認で立候補して次点で落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党公認で立候補して初当選。
金 七星(キム・チルソン、朝鮮語: 김칠성、1897年6月2… 金 七星(キム・チルソン、朝鮮語: 김칠성、1897年6月22日または6月24日 - 1984年5月21日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は清道金氏(朝鮮語版)。 慶尚南道釜山(現・釜山広域市)出身。日本大学経済学部卒。1950年の第2代総選挙に釜山市丙選挙区から無所属で立候補して当選し、国会議員を1期務めた。そのほか、経済研究所長、ハンソン株式会社経営者、米軍政期の慶尚南道顧問などを務め、大韓独立促成全国労働総同盟にも関係があった。1950年9月19日正午ごろ、ソウルにいた際に北朝鮮に拉致された。1956年7月から在北平和統一促進協議会の常務委員を務め、その後の詳細は不明だが、87歳で死去したとされる。
金 雨東(キム・ウドン、朝鮮語: 김우동、1897年2月22… 金 雨東(キム・ウドン、朝鮮語: 김우동、1897年2月22日または2月23日 - 1966年11月29日)は、日本統治時代の朝鮮の銀行員、大韓民国の実業家、教育者、政治家。慶尚北道議会議員、第3・4代韓国国会議員。 慶尚北道善山郡(現・亀尾市)出身。大邱協成商高、日本大学法科卒。大邱銀行(朝鮮語版)銀行員、慶尚北道議会議員、善山中学校・高等学校理事長、善山中高等学校財団理事長、慶北糧榖市場重役、国会財経委員を務めた。 1966年11月29日、前日の夜にソウル市太平路で発生した交通事故により治療中に死去。69歳没。 典型的な慶尚道気質に剛直な性格を持つ。理論家というよりも実践力の強い人物であった。
清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治… 清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治28年)11月5日 - 1983年(昭和58年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、狭山市名誉市民。入間川ゴム創業者。 1895年(明治28年)、長野県小県郡上田町(現:上田市)で生まれた。日本大学専門部法律科で学んだ。 東北銀行倉庫部支配人、大和ゴム製作所第二工場長、日本工業工場長、入間川ゴム取締役社長、新潟ゴム取締役社長、同会長、扶桑商事取締役会長、日本東部ゴム工業組合理事、日本ゴム工業組合連合会医療用品部長、東京鑑識化学研究所顧問、全国商工会連合会副会長などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区に民主自由党所属で出馬して当選。
山元 亀次郎(やまもと かめじろう、1894年〈明治27年〉… 山元 亀次郎(やまもと かめじろう、1894年〈明治27年〉5月12日 - 1962年〈昭和37年〉3月27日)は、大正から昭和期の政治家・実業家。衆議院議員。通称「山亀」と称された革新の闘士。 鹿児島県大島郡西古見村(焼内村、西方村を経て現瀬戸内町西古見)で、鰹漁業網元・山元十太郎の息子として生まれた。1909年(明治42年)大島郡古仁屋高等小学校を修了。熊本、長崎で船員として務め学費を貯めて、1915年(大正4年)大阪市の桃山中学校(現桃山学院中学校・高等学校)を卒業した。2年間の兵役を経て日本大学専門部法科に入学したが1918年(大正9年)に中退した。 1919年(大正10年)4月、全国学生同盟会、同年12月、日本労働党、1921年12月、対外青年革新協会などをそれぞれ結成して、学生運動、普選運動に尽力した。
尾崎 末吉(おざき すえきち、1894年〈明治27年〉4月5… 尾崎 末吉(おざき すえきち、1894年〈明治27年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉8月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根町、阿久根市)出身。旧制鹿児島県立出水中学校(現:鹿児島県立出水高等学校)を経て、日本大学専門部法律科を1914年に中退。 その後、東京相愛女学校長、東京土地埋立常務取締役、大森乗合自動車社長、昭和鋼業専務取締役、朝日航空工業取締役、東光興業取締役、日本瓦斯開発社長などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて鹿児島県第2区で民主党から出馬して当選し、第26回総選挙まで連続四回の当選を果たした。この間、衆議院予算委員長、民主自由党政調会副会長を務めた。
内藤 隆(ないとう たかし、1893年(明治26年)11月1… 内藤 隆(ないとう たかし、1893年(明治26年)11月10日 - 1979年(昭和54年)7月22日)は、日本の実業家、政治家。位階は従三位。衆議院議員(6期)。 富山県出身。早稲田大学政治経済科、日本大学法学部で学ぶ。北陸タイムス編集局長兼主筆、日本電力嘱託、大同電力嘱託、庄川電力嘱託などを務めた。 日本自由党富山県支部幹事長を経て、1949年1月、第24回衆議院議員総選挙に富山県第1区から民主自由党所属で出馬し当選。その後、第25回、第28回から第31回総選挙で5回当選し、衆議院議員を通算六期務めた。この間、自由党人事部長、自由民主党富山県連政調会長、同党議員総会副会長、富山県緑化推進委員会委員長、衆議院行政監察特別委員長、同逓信委員長、同運輸委員長、吉田内閣国務大臣・緒方竹虎秘書官、第2次岸内閣・厚生政務次官などを歴任した。
4代 千葉 伝蔵(傳藏、ちば でんぞう、1890年(明治23… 4代 千葉 伝蔵(傳藏、ちば でんぞう、1890年(明治23年)3月 - 1962年(昭和37年)12月29日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。青森県青森市長。青森県多額納税者。前名は覚郎。 白鳥鴻彰の三男として青森県東津軽郡荒川村(現青森市)に生まれる。1909年(明治42年)青森中学校を卒業し日本大学、大原簿記学校、津田英文簿記学校に学んだ後、帰郷する。青森市役所に奉職したのち1910年(明治43年)魚問屋・千葉家の養子となり、1919年(大正8年)前名を改め4代伝蔵を襲名した。1920年(大正9年)青森製氷の創立に当たって出資し取締役に就任、1922年(大正11年)東京共同水産取締役となり東京隅田運送の取締役も務めた。
海野 数馬(うんの かずま、1889年(明治22年)6月22… 海野 数馬(うんの かずま、1889年(明治22年)6月22日 - 1971年(昭和46年)1月4日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 静岡市に生まれる。大井善吉の三男として生まれ、のち先代平作の養子となり1916年(大正5年)家督を相続し前名勇吉を改める。静岡県立静岡中学校退学。1911年(明治44年)日本大学法律科を卒業する。請負業を営む傍ら、静岡県農会議員、静岡県会議員を務めた。ほか財界では、昭和工業、昭和木材各社長を歴任した。 1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では静岡県第1区から立憲民政党所属で出馬し当選。つづく第17回、第18回総選挙でも当選し衆議院議員を3期務めた。
山上 昶(やまがみ とおる、1888年〈明治21年〉3月20… 山上 昶(やまがみ とおる、1888年〈明治21年〉3月20日 - 1961年〈昭和36年〉7月4日)は、日本の会社役員、日本大学国際研究所顧問。 鳥取県会見郡尾高村(のち西伯郡大高村尾高、伯仙町尾高、現・米子市尾高)出身。山上泰蔵の次男。鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)を卒業。1912年、日本大学法科を卒業。萬朝報の政治記者となる。 日本大学より行政法並びに市制研究のため3年間欧米各国に留学を命ぜられる。帰国後日本大学講師並びに教授となり自治行政及び都市政策を担当する。水野錬太郎の文相、内相の秘書、衆議院議長秘書、厚生大臣秘書官(従五位)。1924年、第15回衆議院議員総選挙に政友本党から立候補するが落選。
堀 三也(ほり さんや、1888年〈明治21年〉3月19日 … 堀 三也(ほり さんや、1888年〈明治21年〉3月19日 - 1959年〈昭和34年〉9月1日 、旧姓・阿部)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍砲兵大佐。軍需国策会社昭和通商社長。 兄は『三太郎の日記』等で知られる哲学者・美学者の阿部次郎。弟に動物学者の阿部余四男、日本史学者の竹岡勝也らがいる。動物生態学者の阿部襄は甥。 本籍山形県。阿部富太郎・ゆき(旧姓・竹岡)夫妻の三男。後に母ゆきの実弟の医師・堀礼治の婿養子となり堀姓となる。妻の九重は、兄・次郎の婚約者であったが破談となっていた。 東京市小石川区の旧制豊山中学(現日本大学豊山高校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。
勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 -… 勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 - 1967年11月16日)は、日本の経営者。産業経済新聞社社長、信越放送社長を務めた。 長野県長野市出身。1913年に日本大学法学部を卒業。 京城日報社、新愛知新聞社、中部日本新聞社などを経て、1950年1月に信濃毎日新聞社副社長に就任し、1951年に信越放送社長に就任。1955年2月に産業経済新聞東京本社社長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1967年11月16日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
浅井 一郎(淺井、あさい いちろう、1883年(明治16年)… 浅井 一郎(淺井、あさい いちろう、1883年(明治16年)1月 - 1968年(昭和43年)6月20日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員、千葉県君津郡大貫町長。 千葉県天羽郡、のちの大貫村(君津郡大貫町、大佐和町、富津町を経て現富津市)で生まれる。日本法律学校(現日本大学)を修了。アメリカに留学し、コロンビア大学で法律学を学んだ。 インターナショナル活動会社副社長、ヴァキュームオイル・レファイニング会社重役を歴任。帰国後、大貫町長に就任。その他、千葉新聞社顧問、新千葉新聞社顧問、日本製塩顧問、日本国民食糧顧問、木更津自動車顧問、木更津ホテル顧問、木更津合同タクシー顧問、木更津木工顧問、木更津印刷顧問などを務めた。
藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月2… 藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月22日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、日本の実業家。アイザワ証券グループ創業者。 新潟県生まれ。1905年(明治38年)日本法律学校(現在の日本大学)卒業。出版会社・金港堂などを経て、1908年(明治41年)に証券業の港屋商店代表者となる。 1933年(昭和8年)10月に藍澤商店(のちの藍澤證券)を設立。1940年(昭和15年)に株価対策の国策を担うため、日本証券投資を設立し社長に就任する。 1947年(昭和22年)7月に日本証券取引所の解散を受け、証券会社の出資で平和不動産を設立されると初代社長に就き、1957年から61年まで東京証券取引所理事長を務める。
大山 斐瑳麿(おおやま ひさまろ、1878年(明治11年)9… 大山 斐瑳麿(おおやま ひさまろ、1878年(明治11年)9月1日 - 1950年(昭和25年)2月8日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。平沼騏一郎、黒田英雄とともに津山出身の「出世三羽ガラス」と称された。 岡山県東南条郡上之町(津山東町、苫田郡津山町を経て現津山市上之町)で、浄土真宗本願寺派浄圓寺・大山達聞、竹の二男として生まれる。兄が夭死したため寺の跡取りとなるが、それを嫌って上京し、苦学して日本法律学校(現日本大学)で学んだ。1903年(明治36年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1904年(明治37年)日本法律学校を卒業し、大蔵省に入省し専売局に配属され、大蔵書記兼専売局属、煙草専売局事務官、函館煙草販売所長を歴任し、在省2年で退官した。
利光 丈平(としみつ じょうへい、1871年(明治4年)8月… 利光 丈平(としみつ じょうへい、1871年(明治4年)8月 - 1934年(昭和9年)12月24日)は、日本の実業家。京王電気軌道社長。京成電気軌道常務取締役。渡良瀬水電取締役。 大分県大分郡稙田村(現・大分市)出身。利光綾太郎の二男。日本大学を経て1893年、明治法律学校(現・明治大学)卒業。1899年、米国に航し、南加州大学に入り、国際公法を専攻した。 1907年、帰国。東京市役所に奉職し、勧業課主事を務めたが1910年、これを辞し京王電気会社の創立に尽瘁し、その社長に推された。 日本大学推薦校友である。 兄・吉郎方より分かれて一家を創立した。 宗教は真宗。趣味は俳句、小鳥、囲碁。東京府在籍で、住所は東京市四谷区坂町、千葉県東葛飾郡市川町字真間。
楢崎 平太郎(ならさき へいたろう、1871年 - 1931… 楢崎 平太郎(ならさき へいたろう、1871年 - 1931年)は広島県出身の実業家。北海道の室蘭を拠点に事業を起こし、北海道鉱業鉄道や後のナラサキ産業を創業した。 広島県平民、楢崎九郎と妻リンの長男として1871年(明治4年5月5日)に同県芦品郡駅家村大字中島で生まれる。生家は庄屋を務める傍ら農業を営んでおり、1880年(明治13年)に区町村会法が制定されると父は村長に推選された。平太郎はその後上京し、菊池武夫の事務所で働きながら日本法律学校で学ぶ。1894年(明治27年)7月に同校を卒業。一時期は郷里で教職に就いていたが、1898年(明治31年)に北海道へ渡ると北海道炭礦鉄道に入社して室蘭売炭所で働いた。
吉田 重貞(よしだ しげさだ、1868年(明治元年)11月 … 吉田 重貞(よしだ しげさだ、1868年(明治元年)11月 - 没年不明)は、日本の実業家。札幌毎日新聞社社長。衆議院議員・立憲民主党代表の泉健太は曽孫。 吉田亀次郎の長男として千葉県山武郡豊成村に生まれる。1898年(明治31年)家督を相続し、1921年(大正10年)前名・辰蔵を重貞に改名する。 日本法律学校(現・日本大学)を卒業後、1902年(明治35年)「北政日報」を札幌に創刊し、続いて1916年(大正5年)3月、旬刊「北海時報」を同地に創刊。1925年(大正14年)2月28日には「北海時報」を「北海道毎日新聞」と改め、日刊とした。 1934年(昭和9年)10月16日、株式会社に組織を改め、1936年(昭和11年)11月、再び吉田の個人経営となった。
明石 哲生(あかし てつお)は、日本の事業家、アダルトビデオ… 明石 哲生(あかし てつお)は、日本の事業家、アダルトビデオメーカー社長、作家。 実弟の明石賢生(あかし けんせい)は自販機本出版社「エルシー企画」およびビニ本出版社「群雄社」の代表取締役社長。 大分県出身。大学卒業後、通信社記者を経て会社経営に参画。AVレーベル("VIP","アトラス21")、出版社("群雄社出版","サクセス出版販売")、アトラス21などを設立。 アジア圏(香港、台湾、韓国、シンガポールなど)でのコンテンツ配信業務。日本、中国の映像コンテンツなどのコーディネート。
大江 芳弘(おおえ よしひろ)は、日本の実業家、バレーボール… 大江 芳弘(おおえ よしひろ)は、日本の実業家、バレーボール指導者・大会主催者。日本エレパーツ株式会社取締役部長を務める一方、特定非営利活動法人日本混合バレーボール連盟(JMVA)および特定非営利活動法人マグナムカップの設立者・理事長として、混合バレーボール(3&3 Mixed Volleyball)の普及と国際大会の開催に携わっている。
川原 秀仁(かわはらひでひと)は、日本の実業家(一級建築士、… 川原 秀仁(かわはらひでひと)は、日本の実業家(一級建築士、認定CMr、認定FMr)。経済同友会会員。株式会社ALFA PMC代表取締役社長。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
波 和二 は、日本の元実業家。健康食品販売会社エル・アンド・… 波 和二 は、日本の元実業家。健康食品販売会社エル・アンド・ジー代表取締役会長。高齢者を狙った被害総額1,280億円の詐欺事件「円天事件」を起こし、世間を騒がせた。
高橋道映(たかはし みちえい、1943年 - )は、新潟日報… 高橋道映(たかはし みちえい、1943年 - )は、新潟日報社の元代表取締役社長。新潟市出身。日本大学法学部卒業。
石田 恭一郎(いしだ きょういちろう)は、日本の実業家。株式… 石田 恭一郎(いしだ きょういちろう)は、日本の実業家。株式会社竜製作所代表取締役(4代目)。 岐阜県大垣市出身。母方の祖父は大垣藩300石の士族であり、祖母は矢道村(現:大垣市矢道町)の庄屋であった。 1992年、日本大学生物資源科学部森林資源学科を卒業。在学中の1987年に、小田急六野駅(現在の日大前駅)で、ホームから転落した男性を救助したとして、当時の日本大学新聞で取り上げられた。また、1990年から1年間、カリフォルニア州立大学イーストベイ校へ留学。当時は湾岸戦争時の最中ということもあり、日本大学での専攻とは異なるメディア学を専攻した。 大学卒業後、前田建設工業株式会社へ入社。中国支店、本店営業部、関西支店で勤務を経て、退社。
奥村 徹(おくむら とおる)は、日本の建築家、実業家。 東京… 奥村 徹(おくむら とおる)は、日本の建築家、実業家。 東京都建築士事務所協会大田支部、株式会社オクテムデザインを主宰。 1988年、日本大学工学部建築学科卒業後、株式会社坂倉建築研究所に勤務。1997年、株式会社奥村三男建築設計事務所に勤務。2005年、株式会社オクテムデザイン代表取締役社長所長就任。 この他に文化財修繕に旧古河庭園洋館、清澄庭園大正記念館・涼亭・四阿及び傘亭、横網町復興記念館、日比谷公会堂、旧前田家本邸 洋館・和館など。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
小出 真朱(こいで まみ)は、日本の漫画家、ライター、実業家… 小出 真朱(こいで まみ)は、日本の漫画家、ライター、実業家。「ねぞうアート」の創始者であり、ねぞうアートブームの火付け役でもあった 。本名、角南真朱 。 神奈川県出身、日本大学芸術学部放送学科を卒業。フジテレビ「少年隊夢」やニッポン放送「夜のドラマハウス」等の放送作家を経て、1996年に小学館の少女漫画誌「別冊少女コミック」で漫画家デビュー。宇宙田かいの別名義もある。 2012年、家にあるタオルなどを使い、構図を工夫して赤ちゃん写真を撮る「ねぞうアート」を始め、ねぞうアートの制作方法や撮り方を指南した書籍「ねぞうアートの本 寝ている間にHAPPY赤ちゃん写真」をぶんか社から発行。株式会社ハハノマドを設立、東京都世田谷区でねぞうアートをコンセプトにしたキッズスペース「ねぞうアートらんど」を運営した。
関口 哲司(せきぐち てつじ)は、日本の実業家、メディアプロ… 関口 哲司(せきぐち てつじ)は、日本の実業家、メディアプロデューサー、物理学者(理学博士)。メディアバンク株式会社代表取締役、IT系ニュースサイト「ITライフハック」代表兼編集長。 日本大学大学院理工学研究科後期博士課程を修了し、理学博士の学位を取得。専門は物理学。 博士号取得後は、科学的知見とIT技術を融合させたメディア事業を展開。2011年にメディアバンク株式会社を設立し、ITニュースサイト「ITライフハック」の代表・編集長として、最新テクノロジーやガジェット情報、ビジネス動向などの発信を行っている。 科学の社会実装や地域活性化にも注力しており、2022年7月には、株式会社科学の未来の「チーフ物理オフィサー (Chief Physics Officer)」に就任。
高桑 昌彦(たかくわ まさひこ、一時的マスコミ用に:高桑 雅… 高桑 昌彦(たかくわ まさひこ、一時的マスコミ用に:高桑 雅彦)は、日本の実業家。 中華デリバリー、テイクアウトチェーン店のチャイナクイック創業者。都内駅前にビル、一棟レジデンスを所有、開発を行う、株式会社タカクワアンセスター、株式会社タカクワキャッスル代表取締役会長。 東京都出身。横浜の山手学院中学校・高等学校に入学し、卒業後は日本大学芸術学部へ進学した。 三菱信託銀行本店の不動産部に勤務するも、同社を退職すると、CQエンターテイメントの前身となる有限会社ロイヤルフーズ(後の株式会社チャイナクイックインキュベイト)を設立し、中華デリバリー・テイクアウトチェーン店のチャイナクイックを展開。都内に直営店50店舗以上を運営する急成長を遂げた。
森 光太郎(もり こうたろう)は、日本の実業家。株式会社リト… 森 光太郎(もり こうたろう)は、日本の実業家。株式会社リトル・ママの代表取締役CEO。 子育てママ向けWebサービス、フリーペーパーの出版を行っている。 福岡県出身。2代続く医師の家に生まれるが、小学6年生の頃に両親が別居、母に引き取られ、最終的に離婚した。福岡県立修猷館高等学校を卒業後、2浪ののち医師になることを断念して日本大学生産工学部に進学。大学時代はサークル活動やコンパが中心で勉強はほとんどしなかったという。 卒業時は就職氷河期で、ジュエリー会社に入社して営業職についたが、1年で退職を余儀なくされる。退職金で広告デザイン専門学校に進み、居酒屋でアルバイトする苦学生活を送る。専門学校卒業後に就職した企業を2か月で解雇され(予定していた事業がなくなったという理由)、福岡に戻り広告代理店に入社する。
森 辰雄(もり たつお)は ロサンゼルスにある出版社Week… 森 辰雄(もり たつお)は ロサンゼルスにある出版社Weekly LALALA社創立者及経営者。 『Weekly LALALA』はアメリカ合衆国在住の日本人向けフリーペーパーでは最大規模の毎週5万部を発行している。 1994年、日本大学国際関係学部卒業後、佐川急便にて運転手として2年間勤務。 1997年に渡米。フリーペーパーを発行する「BRIDGE USA」に営業職として入社。 2003年8月に同社を退社し、Weekly LALALLA社を設立。同年11月に第一号を創刊した。 2007年にはアメリカ人向けの日本情報発信フリーペーパー『Japan Up』を創刊。