西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日… 西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日 - 2010年〈平成22年〉4月6日)は、日本の映画監督。鳥取県出身。 西河が生まれたのは鳥取県東部の土師村 で現在の智頭町。父親の就職で一家が東京へ移るまで、4年余りをこの地で過ごした。小説家志望であったが、次善の途として映画監督を志し、松竹大船撮影所に監督助手として入社。当時は日本映画の第1期黄金時代ともいえる時代だった。 大学を卒業したのが日中戦争真っ只中であったため、松竹入社後1年を経ずして召集(結局2度応召した)されて旧満州やビルマへ出征、捕虜収容所生活も経験した。戦後復員して1946年(昭和21年)復職。原研吉、渋谷実、中村登らの名匠に師事し、1952年(昭和27年)助監督待遇のまま『伊豆の艶歌師』(主演:佐田啓二)を初監督。
染野 義信(そめの よしのぶ、1918年6月26日 - 20… 染野 義信(そめの よしのぶ、1918年6月26日 - 2007年)は、日本の法学者。専門は、民事訴訟法・裁判法。日本大学法文学部卒業。日本大学名誉教授。茨城県出身。 明治期以降の司法制度の研究で知られ、『講座 日本近代法発達史』(有斐閣)に収められた「司法制度」「裁判制度」は珠玉の業績として影響力をもった。染野の近代司法制度に関する研究業績は、東京大学より法学博士の学位が授与されている。また、日本学術会議会員に選出され、同会議第二部(法学・政治学部門)部長の要職も務めた。『民事訴訟法講義』『破産法講義』(ともに勁草書房)などの著作があり、『口語民事訴訟法』(自由国民社)の監修者でもある。 1992年、勲三等旭日中綬章を受章。
松本 美樹(まつもと みき、1918年5月30日 - 200… 松本 美樹(まつもと みき、1918年5月30日 - 2001年)は、日本の元プロデューサー、元作家。宣弘社に所属していた。愛媛県出身。本名は松本 美喜男。長男は、フジテレビで外信部記者、解説委員、ニュースキャスターを務めた松本方哉。 アニメ『サザエさん』の初代プロデューサーなどを務めた。 旧制中学校卒業後に作家を目指し、両親に勘当同然の扱いを受けるも叔父を頼り上京した。日本大学芸術学部卒業後は、作家の横光利一に弟子入りした。 第二次世界大戦時は召集され、シベリアに抑留される。 終戦後は帰国し、大正製薬の宣伝課長に就任した。その後、宣伝で携わった縁から宣弘社に転職した。 宣弘社入社後は東芝の専任部門「東芝分室」を立ち上げ、同社が提供する特撮番組『光速エスパー』やアニメ『忍風カムイ外伝』のプロデューサーを務めた。
安井 鍵太郎(やすい けんたろう、1918年4月10日 - … 安井 鍵太郎(やすい けんたろう、1918年4月10日 - 2015年11月10日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手。
木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 19… 木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 1990年6月13日)は、日本の女優。身長159cm。本名:和田 つま(わだ つま)。 父が税関で山口県下関市彦島福浦町で生まれた。英文学者・随筆家の黒川鍾信は甥。梅光女学院を経て日本大学芸術学部に入学。日本大学芸術学部在学中に田中絹代に見出されて、1938年に松竹に入社。松竹入社当時は高峰三枝子、桑野通子、水戸光子らが幹部であったが1年余りで準幹部から幹部に昇進。 日本人離れしたルックスとスタイルに加え、悩殺的でコケティッシュな色気もあり、純情可憐型が主流の松竹では恋敵役が多かった。 1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚。マスコミの仕事に従事する夫の仕事の関係で夫妻とも満洲に渡った。
大沢 竜雄(大澤 龍雄、おおさわ たつお、1918年(大正7… 大沢 竜雄(大澤 龍雄、おおさわ たつお、1918年(大正7年) - 1944年(昭和19年)9月)は、昭和戦前期の日本の陸上競技選手。現在の栃木県佐野市出身。箱根駅伝で活躍して日本大学の連覇に貢献し、3000m障害で日本記録を更新した。太平洋戦争に出征し戦死。佐野地域で1951年より開催されている「大澤駅伝競走大会」は、郷土の名選手であった大沢を記念した大会である。 1918年(大正7年)、栃木県安蘇郡常盤村(現在の佐野市牧町)生まれ。1931年(昭和6年)に旧制佐野中学校(現在の栃木県立佐野高等学校・附属中学校)に入学し、陸上競技選手としての活躍を見せた。 1936年(昭和11年)、日本大学に進学。
宮崎清隆(みやざき きよたか、1918年 - 2001年5月… 宮崎清隆(みやざき きよたか、1918年 - 2001年5月25日)は、日本の小説家、陸軍軍人。最終階級は陸軍憲兵曹長、作詞家。 新潟県刈羽郡田尻村(現・柏崎市)生まれ。日本大学法学部、経済学部卒。柔道四段、剣道三段。日中戦争では陸軍憲兵曹長として、大陸で転戦し多くの戦傷を負う。戦後は戦争犯罪人として指名され「東洋の魔王」と呼ばれるが連合軍の追跡を逃れ中国を脱出し、6ヵ月の逃避行を行った。1951年日本独立に際し追及を解かれ、後にその体験などを著作としベストセラーとなった。鉄道弘済会本部会長室秘書課勤務。 また、三島由紀夫に惚れられて、15万円のスーツをプレゼントされることや唯一の弟子とも見られていた。
西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年12月25日… 西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年12月25日 - 2002年7月11日)は、昭和時代から平成時代にかけて活躍した洋画家。 神戸市に生まれる。1939年~1941年の京城での従軍中に画家になる決意を固め、帰国後1942年に小磯良平に師事した後、日本大学専門部芸術科に入学する。卒業後、小磯良平に誘われて新制作派協会(後の新制作協会)に参加し、その後の主たる活動の場とした。 作品の主題は一貫して建造物で、作風は初期の叙情的風景画から次第に想像上の空間を組み合わせたシュールレアリズム的風景画へと変化し、さらに1953年に発表した「洞」「空間」が高い評価を受けて以降は抽象化した建物の構造体による多次元的広がりをもつ空間の表現へと移行する。
尹 炳漢(ユン・ビョンハン、朝鮮語: 윤병한/尹炳漢、191… 尹 炳漢(ユン・ビョンハン、朝鮮語: 윤병한/尹炳漢、1917年12月10日 - 2000年4月5日)は、大韓民国の実業家、政治家。第5代韓国国会議員。 本貫は漆原尹氏(朝鮮語版)。号は曙東(ソドン、서동)。 日本統治時代の慶尚南道の巨済島(現・巨済市河清面)出身。日本大学法学部卒。1960年の第5代総選挙では民主党の公認で巨済郡選挙区から立候補し、他の11人の候補者を抑えて初当選した。1992年、75歳の尹は第14代総選挙に同じ選挙区から5回目の出馬をしたが、当選は第5代のたった1回であった。また、長春韓国僑民青年団長、大韓青年団(朝鮮語版)新馬山特別団副団長、産業日報社主幹・副社長、ミョンドク愛育園長、チャンソン青果株式会社社長、イリャン産業株式会社専務、ハニャン商事社長、用達業協会長などを務めた。
福島 茂夫(ふくしま しげお、1917年11月28日 - 2… 福島 茂夫(ふくしま しげお、1917年11月28日 - 2012年7月15日)は、日本の医師、医学博士、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期、自由民主党)。 埼玉県出身。1942年日本大学専門部医学科(現医学部)卒。1944年、埼玉県児玉郡本庄町(現・本庄市)に福島病院(現・本庄福島病院)を開設し院長となる。埼玉県議会議員(自由民主党)を2期務めた後、1977年の第11回参議院議員通常選挙に日本医師会の政治連盟である日本医師連盟の支援を受け、全国区から自民党公認で立候補、127万を超える票を得て3位当選(自民党候補の中ではトップ)。1980年7月から1981年11月まで鈴木内閣において環境政務次官を務めた。
福田 隆(ふくだ たかし、1917年〈大正6年〉10月18日… 福田 隆(ふくだ たかし、1917年〈大正6年〉10月18日 - 1991年〈平成3年〉11月13日)は、岩手県出身の染絵作家、美術教師である。 1917年(大正6年)、岩手県遠野市に生まれ、翌年に家族で盛岡市に移り住んだ。1930年、旧制盛岡中学校に入学し、絵画部に入部。その当時に京都から赴任していた中井汲泉の薫陶を受けた。1939年に日本大学芸術科に進学し油絵を専攻したが、戦争のため繰上げ卒業となり、軍に入隊。満洲で終戦を迎えたのち、ソビエト連邦によりシベリアに抑留され、日本に帰国できたのは1948年であった。盛岡に戻ると実家のある法泉寺(現在の 北山)に居住し、盛岡高等学校の美術科の教員職に就いた。
織田 五二七(おだ いふな、1917年5月27日 - 200… 織田 五二七(おだ いふな、1917年5月27日 - 2009年5月5日)は、日本の医師・作家。 佐賀県生まれ。織田長益の三男・織田俊長の子孫で、鍋島家鹿島藩藩医織田家の13代目。1935年に上京、日本大学医学部卒、1942年海軍軍医中尉に任官、軍艦「常磐」軍医長。のち大尉。1960年医学博士。佐賀県鹿島市に織田病院を設立し、院長、特定医療法人祐愛会織田病院理事長。そのかたわら、評論・小説などを書いた。 2009年5月5日、胆嚢癌のため死去。91歳没。
石川 隆彦(いしかわ たかひこ、1917年〈大正6年〉5月1… 石川 隆彦(いしかわ たかひこ、1917年〈大正6年〉5月15日 - 2008年〈平成20年〉6月9日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 戦前から戦後にかけて昭和天覧試合準優勝、第2回・第3回全日本選手権優勝等の成績を残し、晩年は米国で柔道普及を行った。身長175cm、体重82kg。 柔術無双流の免許皆伝者であり当時講道館柔道3段の石川文八を父として、香川県三豊郡神田村(現・三豊市)に生まれる。父が飛島組の土木技師であったため長野県に転居し、そこで入学した長野県飯山中学の在学中に3段まで取得。日本大学・国士舘専門学校で修業し、国士舘では主将を務めた。5段位で卒業するとすぐに国士舘専門学校の助教授に就任し、1940年の紀元二千六百年奉祝天覧武道大会では事実上の日本一決定戦となる指定選士の部に出場して木村政彦と決勝を争ったが、緊張で固くなった石川は一方的に攻められて完敗を喫した。
市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 198… 市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 1986年11月18日)は、日本の都市計画家、教育者。工学博士。建築行政官、戦後は日本大学教授として、商業地の研究のほか都市計画調査や計画立案基礎づくりにつとめるほか、都市計画分野の人材育成に当たった。 中央建築士審査会試験委員のほか、日本建築学会では関東支部長、評議員、文献委員会委員長、総務理事、副会長、建築学大系編集委員、そのほか日中建築技術交流会常務理事、学校施設基準規格調査会専門委員、日本都市計画学会評議員などを歴任した。
井野 正揮(いの まさき、1917年(大正6年)5月1日 -… 井野 正揮(いの まさき、1917年(大正6年)5月1日 - 1977年(昭和52年)6月7日)は、昭和期の国家公務員(厚生省)、政治家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)、登別開拓農業協同組合長。 広島県出身。牛馬商・井野京一の息子として生まれた。小学校入学直前に北海道上川郡に移住。1931年(昭和6年)美瑛尋常高等小学校卒。20歳で徴兵され野砲兵第7連隊に所属し、衛生兵として満洲、中国を転戦し、陸軍軍曹で終戦を迎えた。 戦後、厚生事務官となり、国立八雲病院勤務、国立登別病院庶務課長、同事務長を歴任。日本社会党に入党し、1951年(昭和26年)北海道議会議員となり4期在任した。 1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙において北海道4区から日本社会党公認で立候補したが落選。
塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30… 塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30日 - 2005年〈平成17年〉9月15日)は、日本の運輸技官、気象学者。理学博士。元日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長、元日本大学生産工学部教授。日本風工学会名誉会員。 新潟県新潟市古町通12番町(現 新潟市中央区)出身。1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1937年(昭和12年)3月に新潟高等学校を卒業、1940年(昭和15年)3月に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 逓信省中央航空研究所技手に就任、1944年(昭和19年)に応召、1945年(昭和20年)に復員、12月に運輸省鉄道技術研究所技師に就任、交通気象研究室に勤務、1949年(昭和24年)から日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室に勤務、1950年(昭和25年)5月に東北大学から理学博士の学位を取得、1954年(昭和29年)10月からアメリカのテキサス農工大学海洋学部で微気象について研究、1955年(昭和30年)11月からアメリカ各地の研究機関を視察、12月に帰国、1958年(昭和33年)5月に日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長に就任。
八匠 衆一(はっしょう しゅういち、1917年3月30日 -… 八匠 衆一(はっしょう しゅういち、1917年3月30日 - 2004年6月21日)は、昭和・平成期の小説家。 北海道旭川市生まれ。本名は松尾一光。北海道庁立旭川商業学校(現・北海道旭川商業高等学校)、日本大学芸術学園卒。講師の伊藤整や東大生だった梅崎春生と知り合う。戦時中は召集により第7師団に入隊。戦後に再上京するが、過度の飲酒とヒロポン中毒のために深夜の路上で刑事事件を起こし、札幌刑務所で服役。そこで女性看守坂東知子と知り合う。仮出所後、上川町の義兄宅に寄宿。1954年、札幌で伝道師となっていた知子と結婚する。 名古屋の同人誌『作家』に「未決囚」を発表、1955年に直木賞候補となる。1958年、再上京し「地宴」で作家賞、1982年、『生命盡きる日』で平林たい子文学賞受賞。
貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19… 貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19日 - 1998年〈平成10年〉7月14日)は日本の作曲家。 東京小石川茗荷谷で生まれる。父親は薩摩琵琶、姉は生田流の箏をよくした家庭であった。東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)在学中、16歳の時に作曲したいという熱望から草川信に和声を学び始め、1934年、日本大学芸術科に入り、理論、作曲を小松耕輔、池内友次郎に、ピアノをジェームス・ダンに学び、1938年卒業。1938年11月、《交響曲の第1楽章》が第7回日本音楽コンクールに第2位入賞。翌年大学より芸術賞を受賞した。卒業後はしばらく療養生活を送り、創作を断ち、この間読書、音楽鑑賞などをしながら音楽観や作曲態度について思考する時間を持った。
中井 幸一(なかい こういち、本名:中井 幸房(なかい ゆき… 中井 幸一(なかい こういち、本名:中井 幸房(なかい ゆきふさ)、1917年(大正6年)2月15日 - 2020年(令和2年)12月28日)は、日本の写真評論家、広告評論家。 京都府出身。日本大学芸術学部卒業。1951年、電通に入社。1973年、電通を退社。 電通に勤務し、アートディレクター制(アート・ディレクター・システム。クライアントとデザイナーの間にアートディレクターを置き、アートディレクターが両者の単なる橋渡し(連絡係的役割)だけではなく、積極的にデザインをまとめ上げる中核的な役割をになうシステム)の導入を積極的に行った。 日本大学芸術学部教授も務めた。1992年に日本大学を定年退職。
小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年… 小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年7月20日[要出典])は、日本の映画監督、テレビディレクター。岡山県川上郡吹屋町(後の高梁市成羽町吹屋)出身。 1935年に香川県立高松商業学校を卒業し、日本大学芸術学部映画学科に進学。在学中、自作の脚本が映画監督の白井戦太郎に認められ、彼に師事するために1938年に大学を中退。大都映画に助監督として入社する。 1940年に東宝映画へ移籍して編集技師になるも、1947年に[要検証 – ノート]再び助監督となり、山本薩夫に師事する。 1955年からは東映京都撮影所で活動。1958年にテレビディレクターに、そして1960年に映画監督になる。
堀川 潭(ほりかわ たん、1917年1月29日 - 1979… 堀川 潭(ほりかわ たん、1917年1月29日 - 1979年2月4日)は、日本の小説家。島根県益田市出身。本名・高橋義樹。 日本大学芸術科卒。1944年海軍報道班員としてサイパン島従軍、グアム島で捕虜となり、ハワイ収容所に送られて1946年帰国。伊藤整の弟子となり、「新文化」「文学生活」などに小説を執筆。短編集「運命の卵」ほか。 「高橋潭」とすることもある。文藝春秋の編集者・高橋一清は甥。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
森田 俊夫(もりた としお、1917年1月3日 - 201… 森田 俊夫(もりた としお、1917年1月3日 - 2010年1月9日)は、日本の経営者。光洋精工(現在のジェイテクト)社長を務めた。 東京都出身。1941年に日本大学工学部機械工学科を卒業し、同年4月にトヨタ自動車工業に入社。1968年7月に取締役に就任し、1975年7月に常務、1978年9月に専務、1981年7月に副社長、1982年9月に相談役を経て、1983年6月には光洋精工社長に就任。1987年6月に会長を経て、1989年6月には相談役に就任。 1983年4月に藍綬褒章を受章し、1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2010年1月9日心不全により、死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
柴原 恒雄(しばはら つねお、1917年(大正6年)1月1日… 柴原 恒雄(しばはら つねお、1917年(大正6年)1月1日 - 1975年(昭和50年)3月30日)とは、日本の男子飛込競技選手。1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1917年1月1日、石川県金沢市に生まれる。日本大学第三中学校を卒業後、日本大学に入学し、東京都目黒区に暮らした。1933年の全日本選手権飛板飛込で139.78点を記録し優勝、翌年の同大会でも飛板飛込で125.68点を記録し優勝した。更に1935年の同大会でも飛板飛込で優勝している。同年に開催された日米対抗試合ではリチャード・デゲナー(英語版)に次いで2位の成績を収めた。デゲナーのコーチであったキングストンは、デゲナーは9点の技を1つしか成功させていないのに対し柴原は2つ成功させているので、柴原はアメリカ合衆国の選手だったとしても国内で2位か3位は取れる実力であろうと評している。
肥田 舜太郎(ひだ しゅんたろう、1917年1月1日 - 2… 肥田 舜太郎(ひだ しゅんたろう、1917年1月1日 - 2017年3月20日)は、日本の医師。広島市への原子爆弾投下により自身が被爆しつつ、直後から被爆者救援・治療にあたった。以来被爆者の診察を続け、被爆の実相を語りつつ核兵器廃絶を訴え続けた。 銀行員の家の長男として広島市で生まれた。中津川肥田氏の肥田帯刀17代目にあたる。早稲田第一高等学院建築科に入学、登山と音楽に夢中であった。あるとき友人から誘われて東京下町の工場街にある託児所を見学、不衛生と貧困のもとにおかれた児童の実情を初めて知り度肝をぬかれたことがきっかけで、医師を志すようになり、日本大学専門部医学科に入学。「小児衛生研究会」を立ち上げ、託児所の健康管理の手伝いを始めたが、2年次のとき文部大臣荒木貞夫から「自由主義的傾向あり」と解散を命じられ、以来軍人嫌いが確固としたものになった。
宇田川 竜男(うだがわ たつお、1917年(大正6年) - … 宇田川 竜男(うだがわ たつお、1917年(大正6年) - 2006年(平成18年))は、日本の鳥類学者、麻布大学名誉教授。別名に宇田川辰男、宇田川龍男、宇田川育男。 1917年(大正6年)、東京に生まれる。1937年(昭和12年)に東京高等獣医学校を卒業。上野恩賜公園動物園勤務を経て、1947年(昭和22年)に農林省林業試験場鳥獣研究室に移る。後に同研究室長。1958年(昭和33年)に北海道大学から理学博士の学位を授与され、1959年(昭和34年)には日本鳥学会学会賞を受賞した。麻生獣医科大学教授。後に同大学名誉教授。鳥獣類の研究、飼育の第一人者として、総理府動物保護審議会委員、財団法人山階鳥類研究所監査役なども歴任。
山本 尚敏(やまもと ひさとし、1916年11月15日 - … 山本 尚敏(やまもと ひさとし、1916年11月15日 - 生死不明 )は、神奈川県出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 関東中学校では、1934年の夏の甲子園に出場。卒業後は日本大学に入学するが、中退して簡易保険局でプレーした。 1936年の大東京軍結成に参加する。1937年は兵役に就いていたが、復帰後の1938年秋になると大友一明に代わって正二塁手に入り、1939年には松岡甲二との併用であったが遊撃手としてチーム最多の61試合に起用され、打率.189ながら規定打席に到達した(リーグ55位)。この年の10月20日の対阪急軍戦では日本プロ野球記録となる同一守備位置(遊撃手)での5失策を犯している。
鶴田 六郎(つるた ろくろう、1916年11月10日 - 1… 鶴田 六郎(つるた ろくろう、1916年11月10日 - 1997年3月30日)は、日本の歌手。山口県大島出身。 沈没した戦艦陸奥の記念館や、作詞家星野哲郎の出身地で有名な山口県大島出身。岩国中学卒業後、日本大学芸術科に進み、同時に声楽を勉強するために東洋音楽学校にも籍を置く。東洋音楽学校在籍時に、渡辺はま子の「忘れちゃいやよ」などのヒット曲でも知られる細田義勝に見初められ、1938年(昭和13年)5月ビクターより「晴れの土俵」でデビュー。8月「カタカナ忠義」発売。この「カタカナ忠義」は国内よりアメリカ在住の日系人たちの間で評判を取り、米国でヒットする。 その後、細田がテイチクに移籍したのに行を共にする。
渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月… 渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月26日 - 1998年(平成10年)9月13日)は、日本の歌手、作曲家。 沖縄県国頭郡恩納村に生まれ、少年期を鹿児島県の奄美大島龍郷町で過ごす。日本大学藝術学部卒業後、1943年(昭和18年)、日本ビクターレコードより貴島正一の名で歌手デビュー。歌手時代は売れず、津村謙の前座を務めていたこともあった。津村は後に渡久地が作曲した『上海帰りのリル』で大ヒットを飛ばすことになる。 1951年(昭和26年)よりキングレコード専属の作曲家に転身(後に古巣のビクターに移籍)。以後、『上海帰りのリル』、『お富さん』、『島のブルース』など数多くのヒット曲を手掛ける。
高田 宗彦(たかだ むねひこ、本名:松本 慈美、1916年(… 高田 宗彦(たかだ むねひこ、本名:松本 慈美、1916年(大正5年)9月15日 - 2004年(平成16年)3月31日)は、長崎県島原市出身の俳優。長女は、女優の松本留美。 母親の姉が勉学のためイギリスに渡り、そこで現地の英国人と付き合い家庭をもった。高田の母も勉強のためにイギリスに渡り、そこでスコットランド人の男性と知り合い結婚、生まれたのが高田である。その日本人離れした容貌から、戦時中は「鬼畜米英」と罵られ、つらい思いをしたという。 日本大学歯学部に入ったが、役者に興味を持ち、芸術学部に転部して演技を学んだ。 戦後、大映の社員俳優として、大映倒産時まで在籍した。外国人役を中心に数多くの作品に出演したが、ほとんどが端役である。
尹 吉重(ユン・ギルジュン、いん きつじゅう、 日本名平沼 … 尹 吉重(ユン・ギルジュン、いん きつじゅう、 日本名平沼 吉重、1916年9月11日〈陰暦8月14日〉 - 2001年10月11日)は、韓国の政治家、弁護士。本貫は坡平尹氏。号は青谷。革新政党・進歩党の幹事長を務めるなど進歩主義勢力で活動した後、全斗煥政権下では与党議員として活動するなど変転の激しい人物として知られる。国会議員を通算で6期(2・5・8・11・12・13代)務めた。 元国会議員の李鉉帥(朝鮮語版)は娘婿。 咸鏡南道北青郡出身。江原道原州郡の文幕普通小学校、京城法政学校を経て日本大学在学中に朝鮮弁護士試験に合格。高等文官試験合格後は朝鮮総督府に勤務し、康津郡守、務安郡守を務めた。1945年2月より朝鮮総督府学務局事務官。
近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 198… 近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 1989年12月14日)は、日本の演出家、音楽評論家、NHKディレクター・プロデューサー、音楽部長。NHKテレビ草創期のディレクターで、『NHK紅白歌合戦』の創設を始め、『今週の明星』、『懐かしのメロディー』など多くの歌謡番組を手掛けた。 広島県出身。1940年日本大学卒業後、当時社団法人だったNHKに入局。 当初から音楽番組の担当で、終戦年の1945年、大晦日に放送するラジオの大型音楽番組の企画を担当。スポーツの対抗戦の形をとり男女が紅白に分かれて戦うという構想で『紅白音楽合戦』を立案した。こうした発想は当時としては非常に斬新なものだった。
牧田 茂(まきた しげる、1916年7月25日 - 2002… 牧田 茂(まきた しげる、1916年7月25日 - 2002年3月22日)は、日本の民俗学者。 京都府京都市出身。別名=茅原茂(チハラ)。1940年國學院大學文学部国文科卒、朝日新聞社に入社。東京社会部次長、「週刊朝日」編集長、東京企画部長などを経て、1971年退社後、社友となる。1976年日本大学講師、1977年白梅学園短期大学教授を務めた。旧制京都二中時代に柳田國男に出した手紙が縁で門下生になる。1940年閑院宮賞。1947年日本民俗学会設立に参加。柳田民俗学の後継者として民俗学を中心に多くの著作がある。
大庭 忠男(おおば ただお、1916年6月24日 -2012… 大庭 忠男(おおば ただお、1916年6月24日 -2012年12月26日 )は、日本の翻訳家。 佐賀県三養基郡北茂安町(現みやき町)生まれ。日本大学高等師範部英語科卒業。極東国際軍事裁判国際検察部翻訳顧問、米国映画字幕翻訳、米国ニュース日本語版監修、英米推理小説翻訳などを行う。エラリー・クイーン、シドニィ・シェルダン、コリン・デクスターなどを多く翻訳。1999年唯一の著書で、ポツダム宣言受諾後も戦争が続いた件について記した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
鈴木 英夫(すずき ひでお、1916年〈大正5年〉5月10日… 鈴木 英夫(すずき ひでお、1916年〈大正5年〉5月10日 - 2002年〈平成14年〉5月2日)は、日本の映画監督。愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)出身。スリラーとサスペンスの名手とされ、最晩年に再評価された。 1916年(大正5年)5月10日、現在の愛知県蒲郡市に生まれる。家業の船舶運送業を継ぐべく進学するが、映画好きが昂じて、1933年(昭和8年)日本大学藝術学部に入学。23歳になる1939年(昭和14年)、卒業と同時に豊田四郎の遠縁を頼って新興キネマ東京撮影所の助監督部に入社。1943年(昭和18年)東宝への移籍を経て、1944年(昭和19年)大映東京撮影所に移籍。 1941年(昭和16年)、助監督の身分で舟橋聖一の原作を脚色した『母代』が、師匠である田中重雄監督の手によって映画化され、評判になる。
結城 信一(ゆうき しんいち、1916年3月6日 - 198… 結城 信一(ゆうき しんいち、1916年3月6日 - 1984年10月26日)は、日本の小説家である。 東京府生まれ。1933年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒。早稲田大学英文科卒。国際学友会の日本語学校の教師を経て、1948年、「秋祭」で作家デビュー。以後、『早稲田文学』ほかの文芸雑誌、年に二作程度の短篇を発表する寡作で地味な作家だったが、1980年、老人と少女の交流を描いた「空の細道」で日本文学大賞受賞。没後の2000年、未知谷より全3巻の『結城信一全集』(串田孫一、郡司勝義、結城信孝責任編集)が刊行された。アンソロジスト、エッセイストの結城信孝は息子。墓所は荒川区西日暮里の本行寺。
金 翼基(キム・イッキ、朝鮮語: 김익기、1916年2月19… 金 翼基(キム・イッキ、朝鮮語: 김익기、1916年2月19日 - 1992年10月1日)は、大韓民国の実業家、政治家。安東邑長、制憲・第2・3・4・6代韓国国会議員。 本貫は新安東金氏。号は一江(イルガン、일강)。元錦湖アシアナグループ会長の朴定求(朝鮮語版)と元ヘテグループ会長の朴健培は娘婿。 日本統治時代の慶尚北道安東郡出身。日本大学専門部法学科卒。安東酒造株式会社専務取締役、安東金融組合長、独促国民会安東支部副委員長、安東邑長、制憲国会憲法および政府組織法起草委員、第2・3・4代国会社会保健分科委員会委員長、国会憲法委員会委員、酒類業組合中央会長、自由党安東乙区党委員長・院内政策委員長、民政党中央委員会副議長・党務委員、民衆党中央常務委員、イランテヘランIPU総会韓国代表、雲岩鉱山社長、憲政同友会副会長を務めた。
酒井 辰雄(さかい たつお、1916年2月13日 - 199… 酒井 辰雄(さかい たつお、1916年2月13日 - 1992年1月8日)は、日本の映画監督。 東京府東京市芝区白金三光町(現・東京都港区)出身。日本大学第三中学校を経て[要出典]、1939年日本大学専門部藝術科(現・日本大学芸術学部)を卒業した。 新劇の演出家・鈴木英輔の紹介で市川猿之助主宰の春秋座演出部に入る予定だったが話が頓挫し[要出典]、1939年新興キネマ東京撮影所監督部に入社する。1940年に退社後、溝口健二に師事して松竹京都撮影所に入り、『浪花女』以来、溝口の助監督を務め、溝口家に寄宿して内弟子生活をする。[要出典]1953年監督に昇進、主に時代劇を監督し、1964年に松竹を退社。
塚原 美村(つかはら よしむら、1916年2月4日- 200… 塚原 美村(つかはら よしむら、1916年2月4日- 2009年)は、歴史家、小説家。 山梨県生まれ。東京府立第七中学校(現東京都立墨田川高等学校)卒、日本大学卒。山梨県立甲府第一高等学校教諭。 京都の部落問題研究所に所属。下層の人間の歴史を研究した。『金印惑伝』では漢委奴国王印の金印を江戸時代の製作と主張した。
井狩 正司(いかり まさし、1916年 - 2011年)は、… 井狩 正司(いかり まさし、1916年 - 2011年)は、日本の国文学者。1934年、旧制・日本大学中学校(現・日本大学第一高等学校)卒業。元日本大学文理学部教授、元隅田川神社宮司。
竹内 良夫(たけうち よしお、1916年 - 1993年)は… 竹内 良夫(たけうち よしお、1916年 - 1993年)は、日本の文芸評論家。東京生まれ。中国哲学者・竹内照夫は兄。日本大学経済科卒業。1946年読売新聞社入社、文芸欄担当を10年ほど務め、71年12月退社。佐藤春夫、檀一雄、田中英光らと交友があり、同人誌『下界』に参加、西村賢太編集『田中英光私研究』第二輯(1994)に追悼特集があり、田中らをモデルにした小説「告別」(1960)もある。
岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - … 岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - 2007年2月12日)は、日本の写真家。写真家の岩合光昭は息子。 北海道釧路市生まれ。日本大学経済学部中退。戦中、戦後は満州(中国東北部)の大連日日新聞の写真部員として働く。帰国後、毎日新聞社などを経て、1961年フリーに。主に動物写真を専門に撮影し、その分野の草分け的存在である。2007年2月、低酸素脳症のため、東京都新宿区で死去。91歳没。
鄭 世煥(チョン・セファン、朝鮮語: 정세환、1915年12… 鄭 世煥(チョン・セファン、朝鮮語: 정세환、1915年12月16日または1916年または1918年 - 1986年10月12日)は、大韓民国の政治家。第3・4代韓国国会議員。本貫は晋州鄭氏(朝鮮語版)。 全羅北道(現・全北特別自治道)高敞郡出身。日本大学政治科卒。高敞中学校財団理事長、大山面(朝鮮語版)金融組合長、中山水利組合長、財団法人政治学院・政治大学理事、国民会全羅北道支部長・道代議員、自由党中央委員、国会財経委員を務めた。 1986年10月12日、高敞郡大山面栗村里の自宅で老衰により死去。享年72。 院内活動は欠席や遅刻がほとんどで、あまり議事堂に姿を見せないため、財務部の正門の前で待てば会えるという噂が広まった。
江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 19… 江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 1996年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(17期)、総務庁長官、自治大臣、防衛庁長官などを歴任した。
李 浩根(イ・ホグン、朝鮮語: 이호근、1915年11月20… 李 浩根(イ・ホグン、朝鮮語: 이호근、1915年11月20日 - 1966年4月24日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員、第8代慶尚北道知事を歴任した。 慶尚北道醴泉郡出身。日本大学専門部文科卒。大韓光復青年団醴泉郡支部長、大韓青年団醴泉郡団団長を務めた。36歳の時は1950年の第2代総選挙で醴泉郡選挙区から大韓青年団の候補として当選したが、1954年の第3代総選挙では自由党の公認をもらったものの落選した。民主党政権時代は第8代慶尚北道知事(1960年10月7日〜1961年5月23日)を務めた。1963年の第6代総選挙では民主党の公認を受けて立候補したが、再び落選した。 1966年4月24日、大邱市中区の自宅にて心臓麻痺により死去。
浅沼 美智雄(あさぬま みちお、1915年11月19日 - … 浅沼 美智雄(あさぬま みちお、1915年11月19日 - 2001年、浅沼 美知雄〈あさぬま みちを〉とも)は、日本の政治活動家、右翼活動家。大日本愛国団体連合・時局対策協議会(時対協)副代表・最高顧問。防共新聞社編集長・主幹。大日本愛国党参与・最高顧問。防共挺身隊隊長・顧問。学生運動純正同盟顧問。全日本愛国者懇親会世話人。大日本愛国団体連合第二代代表。嶽南義塾顧問。言論同志会顧問。皇道民族連盟代表。 東京都八丈島出身。三宅村出身の浅沼稲次郎は遠縁に当たる。日本大学専門部を中退し、読売新聞社記者を経て、戦後、日本社会党に入り杉並区議会議員を1期務める。 1952年、社会党右派から右翼に転向した。
白 亨南(ペク・ヒョンナム、朝鮮語: 백형남、1915年11… 白 亨南(ペク・ヒョンナム、朝鮮語: 백형남、1915年11月3日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮の教員、校長、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。本貫は水原白氏。 全羅北道益山郡黄登面(現・益山市)出身。咸羅公立普通学校(現・咸羅初等学校)、全州新興中学校を卒業後、日本大学文学部に入学した。これについて、3年次に中退したとも、修了したとも言われている。完州郡鳳東面私立永興学校の教員、黄登私立ケドン学校の教員と校長を務めたほか、黄登殉国青年同盟委員長、大韓独立促成国民会黄登支会副委員長、韓国光復青年会全北監察委員長と益山郡委員長、大同青年団益山軍団長、黄登軍団長などを務めた。1948年の初代総選挙に大同青年団の公認で益山郡甲選挙区から当選し、国会議員を1期務めた。
増田 順司(ますだ じゅんじ、1915年10月25日 - 1… 増田 順司(ますだ じゅんじ、1915年10月25日 - 1989年5月25日)は、日本の俳優、声優。本名・吉野 順二(のち増田順二)。東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身。旧芸名・別名は増田 順二。息子は劇団NLTの演出家。 増田家の次男として生まれ、吉田家の養子となる。 四谷第三尋常小学校を経て東京府立農芸学校に入り修了後、32年に第一外国語学校英語科に入り34年卒業。同年シナリオ·ライターをめざして日本大学専門部文科に進み、大演劇ワークショップに加入し北村喜八、青山杉作らに師事。36年に創作座へ入り、翌37年3月に大学中退するも同年春、創作座は解散し、38年末、文学座に入る。 1937年、日本大学専門部芸術科演劇科卒業。
島谷 一美(しまや かずみ、1915年10月12日 - 20… 島谷 一美(しまや かずみ、1915年10月12日 - 2005年2月13日)は、日本の柔道家(講道館9段)、レスリング選手。 北海道歌棄郡種前村(現・寿都町)出身で、小学生であった13歳の時に函館市の本間武勝3段の元で柔道を始めた。以来、三田国衛8段や松代林太郎6段らに師事し、函館商業学校では主将として活躍して北海道中等学校柔道大会の個人戦で優勝を果たす傍ら、同時に商業学校卒業までの7年間は新聞配達を経験して、厳冬下セーターと法被1枚で1日10kmを走り込むなど足腰を中心に身体を鍛えた。 卒業後は強豪で知られた日魯漁業(現・マルハニチロ)ラグビー部に引き抜かれ、センターやスリークォーターバックとし活躍。
加藤 渉(かとう わたる、1915年8月15日 - 1997… 加藤 渉(かとう わたる、1915年8月15日 - 1997年6月12日)は、日本の建築構造学者、海洋建築工学者、構造デザイナー。 東京神田生まれ。大学卒業後満洲国大陸科学院に勤務。小野薫に師事。その後仲間の建築技師らと現地召集により、陸軍造船中隊凌水屯部隊でコンクリート船設計に関与。 戦後は母校日本大学旧工学部、現理工学部で長く教鞭を執り、その後理工学部長を歴任。在任中海洋建築工学科を創設。大学外部では株式会社カトー設計事務所を主宰。シェル構造建築を1951年に「鶴見倉庫」を小野薫と試みる。こうしたシェル構造に関する一連の研究により、日本建築学会賞を受賞。
今井田 勲(いまいだ いさお 1915年8月1日 – 198… 今井田 勲(いまいだ いさお 1915年8月1日 – 1989年6月24日)は鹿児島県出身の編集者。 鹿児島県熊毛郡南種子町(種子島)生まれ。旧制中学校時代、今井田榕舟(ようしゅう)の名で自由律短歌を制作し、雑誌にたびたび入選。 1936年日本大学芸術科卒業。1938年、400倍以上の競争率を突破して主婦之友社(現在の主婦の友社)に入社。初代社長石川武美と『主婦の友』編集長本郷保雄に鍛えられる。『主婦之友花嫁講座』全12巻や『続主婦之友花嫁講座』全8巻、『世界名作家庭文庫』全50巻で成功を収める。 数年後に、主婦の友社・講談社・新潮社などの出資で設立された大東亜出版に出向、内閣情報局が大東亜共栄圏のための青年向けに発行した雑誌『ヒカリ』の編集長となる。