朴 瓚鉉(パク・チャニョン、朝鮮語: 박찬현、1917年9月… 朴 瓚鉉(パク・チャニョン、朝鮮語: 박찬현、1917年9月23日 - 1991年9月24日)は、大韓民国の法学者、警察官僚、政治家、実業家、外交官。保健社会部次官、第12代交通部長官、第23代文教部長官、制憲・第4・5・9代韓国国会議員を歴任した。 本貫は密陽朴氏。号は霞庭。 釜山出身。釜山第二公立商業学校を経て、1941年明治大学法学部卒。同大法律特別研究室での国際司法研究を経て、1955年ミズーリ州立大学大学院政治科修了。満洲国奉天省での農場経営を経て、光復後は釜山水上警察署長、大学講師、第7管区警察庁・慶尚南道警察局公安課長、釜山東亜大学政治科副教授・教授(1951年、国際司法を担当)、国際新報社長、釜山日報社長(1951年)、釜山女子大学長、第4代国会財経委員、保健社会部政務次官、第12代交通部長官(1961年5月3日~1961年5月18日)、国民の党幹事長(1963年)、京郷新聞社長(1966年)、駐トルコ大使(サウジアラビア・ヨルダン兼任)、駐インド大使(アフガニスタン・バングラデシュ兼任)、韓インド協会長、第23代文教部長官(1977年12月20日~1979年12月13日)、韓国外国語大学校大学院教授(1981年)、世宗大学校財団理事長(1990年)を歴任した。
金 鎮元(キム・ジヌォン、朝鮮語: 김진원、1917年3月1… 金 鎮元(キム・ジヌォン、朝鮮語: 김진원、1917年3月18日 - 2001年3月26日)は、大韓民国の政治家。茂朱面(現・茂朱邑(朝鮮語版))副面長・面長、茂朱郡郡守、第4代韓国国会議員。 日本統治時代の全羅北道(現・全北特別自治道)茂朱郡出身。広島県立世羅中学校(現・広島県立世羅高等学校)、明治大学専門部・法科卒。朝鮮放送協会での3年間の勤務を経て、茂朱面(現・茂朱邑(朝鮮語版))副面長(1949年時点)・面長、第7代茂朱郡守(1954年5月18日~1957年11月25日)、茂朱水利組合長、国民会茂朱郡支部長、自由党茂朱郡党委員長・中央委員、第4代国会内務委員会委員を務めた。 2001年3月26日、富川の病院で持病により死去。
上林 繁次郎(かんばやし しげじろう、1917年〈大正6年〉… 上林 繁次郎(かんばやし しげじろう、1917年〈大正6年〉1月13日 - 2002年〈平成14年〉2月8日)は、日本のプロ野球選手、政治家。 日大三中から明治大学へ進学。卒業後に満洲電電へ進み、1947年に中部日本ドラゴンズへ入団。 1949年に東急フライヤーズへ移籍。この年は93試合に出場し、翌年も73試合に出場した。東急時代にバッテリーを組んでいた白木義一郎(池田大作の妻・香峯子の従兄弟)に折伏されて創価学会に入信。 1952年に毎日オリオンズへ移籍し、1953年に現役引退。1954年から2年間、高橋ユニオンズでコーチを務めた。 1955年のシーズン中に創価学会を支持母体として船橋市市議会議員選挙に立候補して当選。
藤尾 正行(ふじお まさゆき、1917年〈大正6年〉1月1日… 藤尾 正行(ふじお まさゆき、1917年〈大正6年〉1月1日 - 2006年〈平成18年〉10月22日)は、日本の政治家。位階勲等は正三位勲一等。 衆議院議員(11期)、文部大臣(第109代)、労働大臣(第43代)、自由民主党政務調査会長(第31代)を歴任した。 東京生まれ。関東大震災で家が焼失したことから、移住先の神戸で少年時代を過ごす。教員への暴力事件で旧制神戸第一中学校を放校処分になった後、明治大学予科に進むが、ここでも教員への暴力により中退。応召し、2年間の兵役に従事して病気除隊後、上智大学文学部新聞学科卒業。 読売新聞社記者を経て、河野一郎に見出され1963年の第30回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧栃木2区から出馬し、初当選した(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫らがいる)。
曺 逸煥(チョ・イルァン、朝鮮語: 조일환/曺逸煥、1916… 曺 逸煥(チョ・イルァン、朝鮮語: 조일환/曺逸煥、1916年3月13日 - 1980年1月28日)は、大韓民国の政治家。第4・5・7・8代韓国国会議員。本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)。24保安法波動の時に負傷し病院に搬送された野党議員の1人であった。 日本統治時代の大邱府出身。明治大学法学部卒。大邱大学(現・嶺南大学校)講師、民主党中央党政策委員・中央常務委員・大邱戊区党委員長、新民党慶尚北道第4地区党委員長・全党大会副議長・中央党指導委員、国会財政経済委員会幹事、国会大邱西門市場(朝鮮語版)火災事件救護調査特別委員会委員長を務めた。 1980年1月28日、持病により大邱市内の自宅で死去。享年64。
李 敏雨(イ・ミヌ、1915年9月5日 - 2004年12月… 李 敏雨(イ・ミヌ、1915年9月5日 - 2004年12月9日)は、大韓民国における政治家。1958年に行われた第4代総選挙で初当選(民主党)した後、国会議員を通算6期務めた。その間、国会副議長(1976年3月12日~79年3月11日)や第五共和国時代(1980年 - 1988年)における最大野党であった新韓民主党の総裁を務めるなど、権威主義時代の韓国における代表的な野党政治家として活躍した。 1915年9月15日、忠清南道論山で生まれる。本貫は慶州李氏。日本の明治大学法学部を中退後(1941年)、朝鮮に帰国。解放後の1946年に忠北新報の総務局長兼営業局長となり、48年に清州市議会副議長となった。
松山 千恵子(松山 千惠子、まつやま ちえこ、1914年〈大… 松山 千恵子(松山 千惠子、まつやま ちえこ、1914年〈大正3年〉3月11日 - 2015年〈平成27年〉2月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(自民党)。衆議院議長や文部大臣などを歴任した松永東の長女。 1914年、東京府(現・東京都)に出生。長崎県人・松永東の長女。生母は、うたである。 京華高等女学校を卒業。1934年、明治大学専門部女子部法科を卒業。1937年、長崎県諌早市出身の弁護士・松山義雄と結婚する。 1960年、埼玉県第2区より、衆議院選挙に立候補し当選、埼玉県初の女性代議士となった(当選3回)。厚生政務次官、郵政政務次官などを歴任した。 1984年4月の春の叙勲で勲三等に叙され、宝冠章を受章する。
松本 善壽(まつもと よしじ、1914年3月1日 - 200… 松本 善壽(まつもと よしじ、1914年3月1日 - 2000年1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。計理士。税理士。行政書士。社会保険労務士。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
原 忠實(忠実、はら ただみ、1913年(大正2年)12月3… 原 忠實(忠実、はら ただみ、1913年(大正2年)12月30日 - 1990年(平成2年)2月13日)は、昭和時代の政治家。佐賀県鳥栖市長。鳥栖市名誉市民。 佐賀県三養基郡鳥栖町(現鳥栖市)出身。1936年(昭和11年)明治大学専門部政治経済学科を卒業する。鳥栖町商工課長、1950年(昭和25年)鳥栖町収入役、1965年(昭和40年)鳥栖市助役を経て、1970年(昭和45年)1月、鳥栖市長に就任した。1973年(昭和48年)「みどりの産業都市」を理想像とした鳥栖市総合計画および1981年(昭和56年)「みどりと若さあふれ心ゆたかな鳥栖をめざして」を基本理念とした第2次鳥栖市総合計画を策定し、市政に尽くした。
李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月1… 李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月18日 - 2000年11月2日)は、大韓民国の政治家、裁判官、弁護士、公証人。第12代法務部長官、第4・5代韓国国会議員。 本貫は真城李氏(朝鮮語版)。号は暁汀、日本名は李家炳夏。 日本統治時代の慶尚北道聞慶郡出身。地元で普通学校を卒業後、1928年に京城に上京し雑貨店の店員を務めたが、1931年9月に内地に密航し、同年11月に大阪の日刊新聞の従業員に就職した。1933年4月には甲種中学校である大阪北洋商業学校の夜間部3年に編入し、1935年3月に卒業。同年4月に明治大学専門部法科夜間部に入学し、1938年に卒業した。卒業後はしばらく京城の三中井百貨店で経理・人事管理・商品購入担当職員を務め、1940年には三中井百貨店の東京支社に転職した。
岡西 明貞(おかにし あきさだ、1913年(大正2年)9月1… 岡西 明貞(おかにし あきさだ、1913年(大正2年)9月19日 - 2003年(平成15年)7月16日)は、昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(2期)。 長崎県西彼杵郡、現在の時津町出身。1939年(昭和14年)明治大学商学部を卒業した。 福岡日日新聞記者となる。長崎県物価統制協力会議事務局長、長崎県価格査定委員会事務局長、長崎民友新聞社取締役などを務めた。 1948年(昭和23年)11月に実施された、今村等の公職追放、本田英作の死去に伴う第23回総選挙の長崎県第1区補欠選挙に民主自由党公認で出馬して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 … 洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産業組合幹部、教育者、政治家。第4代韓国国会議員。 本貫は南陽洪氏。実業家・社会運動家で親日派の洪鍾轍(朝鮮語版)は父、元国会議員の洪永杓(朝鮮語版)は甥(弟の息子)。 日本統治時代の全羅北道(現・全北特別自治道)高敞郡出身。明治大学法科卒。高敞産業組合常務理事、高敞面協議会議員、高敞郡学校評議会員、高敞東中学校理事、高敞女子中学校理事、高敞産業組合長、全北人事処長署理、民主党高敞乙区党委員長・政策委員・中央委員を務めた。1958年の第4代総選挙で民主党の候補として国会議員に当選し、対自由党闘争の闘士として活動したが、在任中に自由党に移籍したため非難を受けた。
朴 良載(パク・ヤンジェ、朝鮮語: 박양재、1913年6月3… 朴 良載(パク・ヤンジェ、朝鮮語: 박양재、1913年6月3日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 全北完州出身。明治大学法学科卒。金融組合理事を務めた。1950年の第2代総選挙に完州郡甲選挙区から無所属で出馬し当選した。その後は自由党に入党した。 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日… 瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日 - 2006年(平成18年)6月11日)は、日本の政治家。都城市長を2期歴任した。 福岡県浮羽郡、のちの浮羽町(現うきは市)で生まれた。1934年(昭和9年)福岡師範学校を卒業。さらに1943年(昭和18年)明治大学法科を卒業。 1944年(昭和19年)1月、都城市役所に入所した。同市職組合長、資材課長、厚生課長、庶務課長、総務課長を歴任。1953年(昭和28年)都城市議会議員に選出され2期在任。1976年(昭和51年)都城市長に選出され2期在任した。 1976年、前市長の堀之内久男が衆議院議員総選挙出馬に無所属で出馬を表明したために、後任の市長を選出するための選挙を行う。
平井 義一(ひらい ぎいち、1913年(大正2年)3月15日… 平井 義一(ひらい ぎいち、1913年(大正2年)3月15日 - 2007年(平成19年)9月6日[要出典])は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 福岡県築上郡八屋町(現・豊前市)出身。1939年(昭和14年)明治大学法学部卒。東京地方専売局に勤務した後、計理士となり、麹町区議、東京市会議長秘書を歴任する。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で福岡4区から日本自由党公認で立候補して初当選。以来5期務める。炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている。第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任する。1955年(昭和30年)の保守合同により自由民主党衆議院議員となる。
大野 元美(おおの もとよし、1912年〈大正元年〉11月1… 大野 元美(おおの もとよし、1912年〈大正元年〉11月17日 - 1982年〈昭和57年〉4月19日)は、日本の政治家、実業家。埼玉県川口市長(第8・9・10・11・13・14代)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 長男はライオンズクラブ国際理事やゼネラル・サービス代表取締役社長を務めた大野元昭。孫は第61代埼玉県知事の大野元裕。 埼玉県北足立郡川口町(現・川口市)出身。父は元川口市会議員の大野元次郎。1933年(昭和8年)3月、明治大学専門部商科を卒業。大野電機鋳造所社長に就任。 埼玉県水泳連盟会長、県教育委員、川口市議会議員などの公職を経て、1957年(昭和32年)2月から1972年(昭和47年)4月までの4期、1976年(昭和51年)5月から1981年(昭和56年)4月までの2期、通算6期22年の長きにわたり川口市長を務めた。
朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月1… 朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月14日 - 1999年1月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教育者、公務員、政治家、実業家。朝鮮大学校の共同設立者で第1・4・7代総長、第2・4・5代韓国国会議員(第5代は参議員)。 本貫は密陽朴氏、族譜名は玟洙。漢字表記は朴喆雄とも。父は朝鮮末期の農民戦争に参加した農民軍の朴学俊。実業家の朴誠燮、コラムニストの朴誠賢(朝鮮語版)ら4男3女がいる。 全南高興出身。全州新興学校在学中光州学生運動に参加して全州刑務所に29日間収監された。1941年明治大学政経学部政治科卒。1943年日本高等科法制経済教員免許取得。全羅南道運輸課長、光州夜間大学院設立者、朝鮮大学園設立者・総長、朝鮮大学附属中学院・中学校設立者・校長・理事長、初代・第4・7代朝鮮大学校総長(1948年5月26日~1960年5月26日、1963年11月6日~1980年8月6日、1986年12月2日~1987年12月25日)、光州新報社長、無所属および自由党所属の民議員、無所属の参議員、国際連合韓国協会全南支部長・韓国首席代表、誠実工高技術学校設立者、木浦工業技術校設立者、木浦護国工高校設立者、全羅南道8郡農工技術校設立者、高麗セメント会長を務めた。
権 五勲(クォン・オフン、朝鮮語: 권오훈/權五勳、1911… 権 五勲(クォン・オフン、朝鮮語: 권오훈/權五勳、1911年5月15日または1912年1月26日 - 1951年2月2日)は、朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。朝鮮戦争中に大邱に駐屯した米軍の銃撃により殺害された。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)、号は木園(モグォン、목원)、カトリック教徒。 慶北大邱出身。養正高等普通学校、明治大学法学部、同校大学院卒。1931年より中国国民党の藍衣社で活動し、臨時政府と光復軍を支援した。1948年に護国軍106連隊副連隊長となり、その後は大韓独立促成国民会忠清南道支部副委員長を務めた。1950年の第2代総選挙では達城郡選挙区から当選した。 朝鮮戦争中の1951年1月26日、大邱南山派出所付近の住宅街で米軍2名が女性にセクハラしようとすると、大邱南区青年団団長のキム・ヨンドゥクと一緒に米軍を阻止しようとしたが、米軍が撃った銃によって左脇腹貫通傷を負った。
藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月2… 藤本 熊雄(ふじもと くまお、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1984年〈昭和59年〉10月25日)は、日本の政治家。元大分県東国東郡姫島村長。 旧制国東中学、明治大学を卒業。1934年(昭和9年)に満州に渡り満州国官吏となった。終戦後、故郷姫島に引き揚げ、1951年(昭和26年)に村議会議員に初当選し、議長に就任した。 村では1955年(昭和30年)の村長選挙が島を2分する激しい争いとなり村内にしこりを残したため、2年後の1957年(昭和32年)に村長辞任に伴って行われた選挙以来、2016年(平成28年)まで村長選挙での無投票が続いた。藤本は、村議会議長を務めていた1960年(昭和35年)に行われた村長選挙に立候補し、無投票当選して以来、1984年(昭和59年)に急死するまで、すべて無投票で7期にわたって姫島村長を務めた。
山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 200… 山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 2001年10月)は、日本の政治家・元地方公務員。北海道江別市長(1971年 - 1983年)。北海道網走郡美幌町出身。明治大学専門部商科(後の明治大学商学部)卒業。 美幌町の造材屋に生まれるが、早くに父を亡くす。小学校は網走で終えた。 自治講習所で学んだあと、小清水村役場にて4年間勤務する。 それから、東京で新聞販売店を経営していた兄を頼って上京し、1938年(昭和13年)に明治大学商科専門部を卒業した。 芝浦マツダ製作所(後の東芝)の経理として就職し、神戸の子会社に出向するなどしたが、1945年(昭和20年)に故郷近くの湧別町に疎開。太平洋戦争終結後は、湧別定温倉庫の支配人を務めた。
三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 200… 三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 2001年3月7日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章(1986年4月)。 衆議院議員(8期)、文部大臣、防衛庁長官、総理府総務長官を歴任した。福原学園元理事。長男は元北九州市議会議員の三原征彦、次男は元衆議院議員の三原朝彦。陸軍軍人の山縣初男は岳父にあたる。 福岡県にて三原幸太郎の次男として生まれる。生家は貧しい農家だった。1927年に旧制東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)卒業後、上京して明治大学専門部法科に入学する。明大在学中に愛国学生連盟を組織して学生運動を展開する傍ら、当時の著名人を訪問し教えを請うた。この頃から「貧乏からの解放」を終生の政治理念とし、この理念を共有する学生運動関係者、二・二六事件の青年将校、右翼関係者と最後まで付き合いがあった(三原は「右翼・保守思想とは、一言でいえば“優しさと度量”」と考えていた)。
森 鉐太郎(もり せきたろう、1909年(明治42年)7月8… 森 鉐太郎(もり せきたろう、1909年(明治42年)7月8日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の政治家。元愛知県一宮市長(5期)。愛知県市長会会長、東海市長会会長、全国市長会副会長などの要職を歴任した。 愛知県出身。明治大学に在学中、病気の後遺症で右足を悪くする。1934年(昭和9年)3月に同大学商学部を卒業するも、1年間自宅療養した。1936年(昭和11年)4月、臨時職員として一宮市役所に入庁。日給1円10銭のうち、1円は往復の人力車代に使ったという。そのため戦時中は片足でも乗れる自転車を作った。1950年(昭和25年)に経済部長、1954年(昭和29年)1月に企画長に就任。 1963年(昭和38年)、退職して4月の一宮市長選挙に立候補することを考えたが結局見送った。
川上 嘉(かわかみ よしみ、1909年(明治42年)5月 -… 川上 嘉(かわかみ よしみ、1909年(明治42年)5月 - 1994年(平成6年)8月2日)は、日本の政治家、参議院議員。鹿児島県大島郡龍郷町戸口出身。龍郷町名誉町民。 鹿児島県立大島中学校 (旧制)および明治大学専門部法科を卒業。中央大学の税務高等経理講習と東京大学の公開講座を修了。 大島支庁に勤務した後、1935年から東京財務局管内の各税務署に勤務。1946年結成の全国財務労働組合(全財、国公関連労働組合連合会の前身の一つ)に参加し、1947年東京財務職員組合委員長に就任。 1947年の第1回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補して、初当選(任期3年)。1948年、税務会計事務所を開設。
金 意俊(キム・イジュン、キム・ウィジュン、朝鮮語: 김의준… 金 意俊(キム・イジュン、キム・ウィジュン、朝鮮語: 김의준、1909年4月28日または1916年2月19日 - 1985年2月14日)は、大韓民国の裁判官、検察官、弁護士、政治家。第2・3・4代韓国国会議員。本貫は延安金氏(朝鮮語版)。 京畿道驪州郡出身。京城第一高普、明治大学法科卒、高等考試司法科合格。検察庁春川支院検事、ソウル地方法院判事、ソウル高等法院判事、驪州支院長を経て政界入りし、国会議員3期、国会法制司法委員長、高等考試委員、国連総会オブザーバー韓国代表、自由党中央党宣伝部長・党務委員を務めた。 5・16軍事クーデター以降は政界を引退し弁護士として活動したが、脳卒中が発病してからは子供たちがいるアメリカに移住した。
土橋 一吉(どばし かずよし、1908年5月1日 - 198… 土橋 一吉(どばし かずよし、1908年5月1日 - 1982年12月17日)は日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を通算3期務めた。日本共産党中央委員会顧問。 島根県簸川郡多伎町(現・出雲市)出身。1931年に明治大学法学部を卒業し、1934年に東京中央郵便局へ入る。戦後は全逓信労働組合(全逓、現・日本郵政公社労働組合)結成に関わり、初代委員長に就任。全日本産業別労働組合会議(産別会議)副議長として1947年の二・一ゼネストを主導した。翌年、1947年12月16日付全逓信従業員組合声明書及び同年12月29日付全逓新聞第79号記事に関する件に関し、衆議院逓信委員会に証人喚問された。
高田 一郎(たかだ いちろう、1908年(明治41年)3月4… 高田 一郎(たかだ いちろう、1908年(明治41年)3月4日 - 1992年(平成4年)2月11日)は、昭和期の政治家。刈谷市長(1959年7月20日~1967年7月19日)。 1908年(明治41年)3月4日、愛知県一宮市に生まれた。父親は公務員。1930年(昭和5年)に明治大学政治経済学科を卒業し、愛知県庁に就職した。土木課、農林課、経済課、食糧課を経て、海部地方事務所長、渥美地方事務所長、中島地方事務所長などを歴任した。 愛知県額田地方事務所長を務めていた1956年(昭和31年)12月、1955年(昭和30年)から刈谷市長を務めていた竹中七郎によって刈谷市助役に起用された。刈谷市と愛知県のパイプ役を期待された人選である。
鄭 商熙(チョン・サンヒ、朝鮮語: 정상희、1907年8月7… 鄭 商熙(チョン・サンヒ、朝鮮語: 정상희、1907年8月7日 - 1981年3月7日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。サムスングループ重役、第4・5代韓国国会議員。 本貫は温陽鄭氏(朝鮮語版)。新世界グループの実業家の鄭在恩(朝鮮語版)は息子、李秉喆の末娘の李明熙(朝鮮語版)はその妻。実業家の鄭溶鎮(女優コ・ヒョンジョンの元夫)は孫、鄭有慶(朝鮮語版)は孫娘。 忠清北道中原郡(現・忠州市)出身。ソウル養正高等普通学校(現・養正高等学校(朝鮮語版))を経て、1930年に上海交通大学1年修了、1935年に明治大学法学部卒。明治大学名誉博士(1974年)。1939年より協信産業商社代表を務め、解放後は1948年に大韓体育会理事長、大韓陸上競技連盟理事長、大韓オリンピック委員会常任委員、1949年に三護紡績・三護貿易副社長、1954年に第2回アジア競技大会韓国選手団総監督、1956年に同和通信副社長、1956年メルボルンオリンピック韓国選手団総監督、1957年に第一火災海上保険株式会社社長、大韓体育会理事長、1958年に第3回アジア競技大会韓国選手団総監督、自由党中原郡党委員長を務めた。
李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - … 李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - 没年不詳)は、大韓民国の校長、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字は不明だがイ・インチュル(이인출)という名もある。 本籍地の慶尚北道迎日郡神光面(現・浦項市)に生まれた。徽文高等普通学校(現・徽文高等学校)、明治大学法学部卒。新聞社と雑誌社を経営していた。1948年の初代総選挙では慶州乙選挙区より大韓独立促成国民会の公認で立候補して当選した。このほか、安康中学校の校長を務めていたが、朝鮮戦争の際に北朝鮮により拉致され、以後消息不明。
荻原 麟次郎(おぎわら りんじろう、1907年(明治40年)… 荻原 麟次郎(おぎわら りんじろう、1907年(明治40年)3月15日 - 1997年(平成9年)4月4日)は、日本の政治家。第14代秋田市長。勲五等双光旭日章。 秋田県秋田市泉三嶽根出身。明治大学専門部卒。秋田県庁に入り、経済部長、出納長、会社社長、秋田県議会議員(4期、自民党)などを経て、1971年(昭和46年)、秋田市長選挙に保守系から立候補し、現職の革新系の川口大助を破って当選した。市長在職中は市民広場の夜間照明の設置、大型市町村圏(秋田、男鹿、南秋田、河辺)促進連絡会議の発足、点字による市の広報の発行などの施策を実行した。しかし、翌1972年(昭和47年)、市長選挙で現職の川口市長のスキャンダルを週刊誌に売り飛ばし、選挙妨害をしたとして解職請求が出され、同年12月の投票の結果、賛成が反対を上回り、荻原は市長を失職となった。
荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40… 荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40年)3月9日 - 1980年(昭和55年)11月25日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。運輸大臣(第33代)、行政管理庁長官(第40・42代)、衆議院副議長(第49代)。衆議院議員(13期)。東映フライヤーズのプロ野球選手(1970年 - 1972年)、埼玉県議会議員(1期、1979年4月 - 1983年3月)であった荒舩洋資は甥であり後に養子となる。 埼玉県秩父郡高篠村(現秩父市)出身。先代・清十郎の長男。埼玉県立工業学校卒業、明治大学専門部中退。織物製造業を経営。 「清十郎」は先祖代々の襲名で、本人は16代目にあたる(以後は襲名者は出ていない)。
飛嶋 繁(とびしま しげし、1907年1月10日 - 198… 飛嶋 繁(とびしま しげし、1907年1月10日 - 1986年2月1日)は、日本の政治家および実業家。衆議院議員、藤沢市長および飛島組社長を務めた。父親は、飛島組の実質創業者である貴族院議員の飛嶋文吉。
梅林 時雄(うめばやし ときお、1906年(明治39年)11… 梅林 時雄(うめばやし ときお、1906年(明治39年)11月15日 - 1956年(昭和31年)5月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県築上郡東吉富村(現吉富町)で、梅林宇十郎の長男として生まれる。1929年、明治大学政治経済学科卒。梅林組に入る。東洋産業開発、東洋商事、東洋加工各(株)取締役社長、大分液体燃料、西日本工業、梅林土木各(株)会長、大分県土木建築、同石材採掘各工業組合理事長などを歴任した。 1947年の第23回衆議院議員総選挙において大分1区から民主党公認で立候補して当選。1949年の第24回衆議院議員総選挙で落選した。
藤井 正男(ふじい まさお、1906年(明治39年)3月19… 藤井 正男(ふじい まさお、1906年(明治39年)3月19日 - 1995年(平成7年)6月12日)は、日本の政治家。第6代福山市長(2期)、衆議院議員(1期)。位階は従五位。 1931年、明治大学法学部卒業。福山市会議員を務めた後、1946年4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙に立候補。落選するも、当選者の渡辺忠雄が公職追放を受け6月22日に辞職。7月4日に繰上補充で衆議院議員となった。 1947年3月19日、公職追放により小林和一福山市長が辞職。かくして、新しく公布される地方自治法に準拠して初代公選市長の選挙が4月5日に行われることとなった。市長選は、市当局の立案した都市計画に反対する藤井と、都市計画遂行を主張する弁護士の徳永豊との一騎打ちとなった。
木村 公平(きむら こうへい、1905年(明治38年)7月3… 木村 公平(きむら こうへい、1905年(明治38年)7月31日 - 1976年(昭和51年)9月27日)は、日本の政治家。 岐阜県、現在の大垣市出身。1929年(昭和4年)に明治大学卒業。1937年(昭和12年)に大垣市会議員に当選して政界入り。同市会副議長を経て、岐阜県会議員選挙に立候補して同県会議員。1946年(昭和21年)衆議院議員当選。以降5選。衆院内閣委員長、第4次吉田内閣の運輸政務次官、内閣総理大臣秘書官を歴任。党務では、日本自由党幹事、民主自由党総務、副幹事長などを務めた。1948年(昭和23年)に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。実業に於いては、岐阜県西部紙工、山陽織物の社長などを務めた。
平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17… 平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1973年〈昭和48年〉12月4日)は、日本の政治家、実業家。四国新聞社、西日本放送社長、参議院議員(4期連続当選)を務めた。 玉藻座社長を務めた平井実の長男として、香川県木田郡田中村(現・三木町)に生まれる。 1928年(昭和3年)明治大学専門部商科卒業後、高松市会議員に当選し玉藻組(のちの玉藻建設)の社長となる。 1937年(昭和12年)8月から約1年間、陸軍主計少尉として応召、除隊後、玉藻組など実業界で活躍しているうち、終戦を迎える。 1946年(昭和21年)高松商工会議所会頭、1948年香川県経営者協議会会長、1950年香川県商工会議所連合会会長、1951年四国電力監査役に選ばれる。
任 哲鎬(イム・チョロ、朝鮮語: 임철호、1905年6月12… 任 哲鎬(イム・チョロ、朝鮮語: 임철호、1905年6月12日または1908年 - 1990年8月19日または1999年8月19日)は、大韓民国の弁護士、政治家。第11代農林部長官、第4代韓国国会議員を歴任した。 忠清南道扶余郡出身。明治大学法学部卒。高等試験司法科合格。弁護士、中央女子中高等学校財団理事、豊文女子中高等学校財団理事、大韓民国考試行政法・憲法担当委員、李承晩大統領法律秘書官、農林部次官、韓日会談代表(1951年)、自由党ソウル市副委員長・中央党組織部長・中央委員会副議長(1952年)、第11代農林部長官(1955年)、大韓蚕糸会長、国会議員・副議長などを歴任した。1950年代後半は李起鵬の側近で、李の後任の国会議長に取り沙汰されたが、副議長在任中に発生した4・19革命以降は不正選挙関連の反革命勢力として糾弾され、5・16軍事クーデター以降は革命裁判によって拘束・投獄された。
熊谷 義雄(くまがい よしお、1905年5月20日 - 19… 熊谷 義雄(くまがい よしお、1905年5月20日 - 1994年1月4日)は、日本の政治家、自由民主党衆議院議員(5期)。三木派。デーリー東北新聞社取締役。親族に八戸市長の熊谷雄一がいる。 1905年、岩手県下閉伊郡普代村に生まれる。1917年、普代村立堀内小学校を卒業する。1929年、明治大学を卒業。卒業後は八戸魚市場専務を経て、戦後は大洋水産を創立し、社長となり、大洋石油、大洋水産工業、八戸製函、八戸ガス各社長、八戸商工会議所会頭に就任する。ほか、中央魚類、丸美屋、八戸通運、八戸臨海倉庫、青森県製釘、青森放送各取締役、八戸市総合振興対策審議会長を歴任した。 1963年、第30回衆議院議員総選挙において青森1区から自由民主党公認で立候補して初当選する。
吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1… 吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1978年6月20日)は農業協同組合運動の推進者、衆議院議員。 長野県上伊那郡飯島村生まれ。赤穂村立公民実業学校(長野県赤穂高等学校)を経て、1932年に明治大学法学部英法学科卒業。同年農林省(現・農林水産省)に入省し大臣官房吏員、興農合作社中央会科長、中央農業会課長、戦時農業団秘書役などを歴任した。戦時中は満洲に5年間派遣された。 1947年の第23回衆議院議員総選挙を皮切りに長野県第3区から出馬し、断続的に計8回当選した。 衆議院では農林政務次官(第2次鳩山一郎内閣)、農林水産・決算・地方行政の各常任委員長などを歴任し、農業基本法・農業管理法の制定、農協共済制度・農林年金制度の確立などに功績があった。
師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年… 師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年〉2月26日 - 1991年〈平成3年〉2月28日)は、日本の実業家、無産運動家、政治家。衆議院議員。 埼玉県入間郡飯能町(現飯能市)で生まれる。1926年(大正15年)、明治大学専門部法律科を卒業。武州産業代表取締役に就任し、木工業大栄商会を設立した。 大学卒業後、無産運動に加わり、日本労農党中央委員、全国農労大衆党中央執行委員、社会大衆党西多摩支部長を務めた。 戦後の1945年(昭和20年)に日本社会党に入り、1948年(昭和23年)、同埼玉連合会長に就任。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で埼玉県第2区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月2… 曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月27日 - 1994年10月3日)は、大韓民国の政治家。昌原郡亀山面長、制憲韓国国会議員などを歴任した。 本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)。漢字表記は曺圭甲とも。独立運動家の曺正煥は父、曺誠煥は叔父。 慶尚南道金海郡菉山面(現・釜山広域市江西区美音洞)出身。同郡進礼面の講習所での漢文修学を経て、明治大学政経科卒、早稲田大学卒業または中退、北京大学聴講・東洋哲学科中退。営農を経て、亀山面長、慶尚南道政治工作隊隊長、鎮海中学校父兄会長、鎮海漁業組合長、鎮海金融組合長、大韓独立促成国民会鎮海支部長・昌原郡支部長、昌原郡農会評議員、無所属の制憲国会議員、反民族行為特別調査委員会調査委員などを務めた。
瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1… 瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1997年6月23日)は、日本の政治家。位階は正三位。 元衆議院議員(当選11回)。都城市長・建設大臣・法務大臣・文部大臣を歴任。 熊本県天草郡下津浦村(現・天草市)に、村の収入役を務めた河内寿松の三男として生まれる。熊本通信生養成所を卒業後、天草の郵便局での電信技術者、下津浦村書記を経て、向学心に燃え上京。苦学しながら開成中学校夜間部(のちの昌平高校)、さらに明治大学法学部に進み、1932年卒業。司法省に入り、岡山・山口等の各地裁判事を歴任する。1933年宮崎県都城市の金物商瀬戸山徳蔵の一人娘香代と結婚したが、後に瀬戸山家の血筋が絶えたため、1942年瀬戸山家の婿養子となる。
中 助松(なか すけまつ、1903年(明治36年)10月25… 中 助松(なか すけまつ、1903年(明治36年)10月25日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の衆議院議員(自由党→分党派自由党→自由党)、内務参与官。 富山県下新川郡浦山村(現在の黒部市)出身。1927年(昭和2年)、明治大学政治経済科を卒業し、農林省大臣官房や山林局に勤務した。1932年(昭和7年)より神奈川県会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙において神奈川1区(当時)から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し、当選。幣原内閣で内務参与官を務めた。その後、公職追放となった。追放中の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
肥田 広司(ひだ ひろし、1903年(明治36年)6月16日… 肥田 広司(ひだ ひろし、1903年(明治36年)6月16日 - 1987年(昭和62年)6月4日)は、日本の政治家。広島県議会議員、広島県海田市町長。日米民間外交の第一人者で、広島から始まった親善運動は全国へ広まり、アメリカ本国でも報道された。父・肥田辰之助は広島県議会議長、兄・肥田琢司は衆議院運輸委員長。豊臣四天王として知られる木村重成一族の末裔。 1929年(昭和4年)、明治大学法学部卒業。1931年(昭和6年)から衆議院議長秘書を務め、1933年(昭和8年)に広島県議会議員として初当選後、1935年(昭和10年)と1939年(昭和14年)に連続当選。辰之助及び琢司らと共に父子兄弟連携して政治活動を行い、広島県政で望月派と肥田派の二大派閥として台頭していた。
松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日… 松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日 - 1988年(昭和63年)6月16日)は、日本の政治家。元岐阜市長。父は元岐阜市長で貴族院議員であった松尾国松。
金 奉斗(キム・ボンドゥ、朝鮮語: 김봉두、1903年または… 金 奉斗(キム・ボンドゥ、朝鮮語: 김봉두、1903年または1906年4月8日 - 1972年7月22日または9月22日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 全北長水またはソウル出身。明治大学法学部卒。長水郡で輸出糧穀の搗精業と肥料販売業を営んだほか、株式会社三重社重役、大韓土建株式会社・大地産業株式会社・大地土建株式会社社長、韓国民主党中央常務委員、無所属の制憲国会議員を務めた。1954年の第3代総選挙、1958年の第4代総選挙と1960年の第5代総選挙(参議員)にも出馬し、政界引退後は貞陵山荘を開墾して農業を営んだ。 1972年7月22日、長水郡渓内面の自宅で持病により死去。享年67。
木村 武雄(きむら たけお、1902年8月30日 - 198… 木村 武雄(きむら たけお、1902年8月30日 - 1983年11月26日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。 衆議院議員選挙に12回当選し、建設大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、国家公安委員会委員長なども務めた。ニックネームは木村元帥、放言居士。 山形県会議員を務めた木村忠三の次男として、山形県米沢市に生まれる。 1926年に明治大学法学部法律学科卒業後、同大学政治経済学部に学士入学し、1928年に卒業。米沢市議会議員、山形県議会議員を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に当時最年少の32歳で初当選。当初中立倶楽部に所属していたが、その後中野正剛率いる東方会に入党。
疋田 敏男(ひきた としお、1902年(明治35年)5月27… 疋田 敏男(ひきた としお、1902年(明治35年)5月27日 - 1989年(平成元年)6月2日)は、日本の政治家。 山口県下関市出身。明治大学専門部法律科卒業。実業界に進み、親和興産社長を務めた。また、政治家として、1946年4月の戦後1回目の総選挙(第22回衆議院議員総選挙)に山口県から立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。早川崇(国家公安委員会委員長、労働大臣等)らと青壮クラブを発足させ、新政同志会と合流するなど、諸派・無所属議員を中心とした国民党の結成に参画し、党執行部役員(中央常任委員)などを務めた。
寺田 栄吉(てらだ えいきち、1902年(明治35年)3月2… 寺田 栄吉(てらだ えいきち、1902年(明治35年)3月29日 - 1993年(平成5年)8月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、大阪府泉北郡高石町長。号・青胡。 1902年(明治35年)大阪府で寺田財閥創業者寺田甚与茂の四男として生まれる。1929年(昭和4年)明治大学商科卒業。 1940年(昭和15年)兄(寺田甚吉)の後を継ぎ、岸和田紡の社長となり、戦争時の要請により、岸和田紡績を大日本紡績(現ユニチカ)に合併した後はその専務まで務めた他、寺田財閥系企業などの経営に関与した(オーツタイヤ社長、 朝日火災海上保険常務など)。 また、大日本紡績常務のときに、経済同友会が発足し、幹事に就任した。
山縣 勝見(やまがた かつみ、1902年(明治35年)2月1… 山縣 勝見(やまがた かつみ、1902年(明治35年)2月18日 - 1976年(昭和51年)10月29日)は、日本の実業家、政治家。辰馬財閥の大番頭。
佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1… 佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1月20日 - 1983年(昭和58年)3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期) 、清水市長(3期) 。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 静岡県出身。明治大学中退。沼津市議に二回当選し、副議長などを務めた。1946年(昭和21年)から1963年(昭和38年)まで衆議院議員を5期務めた (自民党)。 1965年(昭和40年)から清水市長を3期を務め、この間静岡県柑橘振興会長なども歴任。実業家としては東洋パイルヒューム管製作所会長なども務めた。