池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日… 池田 恒雄(いけだ つねお、1911年〈明治44年〉5月3日 - 2002年〈平成14年〉2月9日)は、日本のスポーツを中心としたジャーナリスト、出版社経営者。ベースボール・マガジン社(以下、BBM)の創立者。社長・会長を歴任。 相撲評論家の池田雅雄は弟。工藤写真館が実家の妻とは離婚。作家の工藤美代子、BBM2代目社長の池田郁雄、3代目社長の池田哲雄(三男)、翻訳家の池田晶子は実子。スキー選手の猪谷千春は元娘婿。元産経新聞記者でジャーナリストの猪谷千香は孫。英文学者の池田雅之は甥。 新潟県北魚沼郡小出町(現・魚沼市)出身。旧制・新潟県立小千谷中学校を経て、早稲田大学文学部を卒業。大学在学中の1931年に雑誌「野球界」の編集に携わり、雑誌編纂や野球の魅力にとりつかれていく。
太田 静六(おおた せいろく、1911年4月16日 - 20… 太田 静六(おおた せいろく、1911年4月16日 - 2009年10月8日)は、日本の建築史学者。九州大学名誉教授。東京府生まれ。 1935年早稲田大学理工学部卒業。1957年「平安、鎌倉時代における住宅建築史の研究」で早大工学博士。東京帝室博物館研究員、九州大学工学部教授、1977年定年退官、名誉教授、早稲田大学文学部客員教授、1983年退任。87年春、勲三等瑞宝章受勲。1988年『寝殿造の研究』で角川源義賞受賞。 2009年、心筋梗塞のためサイパンの三男宅で死去。98歳没。 『家屋雑考』ベースの寝殿造を学び、それを乗り越えて寝殿造の研究大きく発展させたのが太田静六である。特に「東三条殿の研究」、「堀河殿の考察」、「鳥羽殿の考察」については現在も評価は高い。
三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - … 三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - 1989年3月20日)は、日本の保険事業家。三淵忠彦の三男。 1911年(明治44年)4月11日、元判事で元慶應大学講師、住友信託社員の父三淵忠彦と、母登喜の三男として、福島県に生まれる。 1935年(昭和10年)、早稲田大学法学部(ドイツ法)卒業。兄の三淵乾太郎は判事となっていた。 1941年(昭和16年)、大東京火災海上保険(現あいおいニッセイ同和損害保険)に入社し、1943年には徴収課主任。のち、常務を務めた。 妹の多摩は法学博士で大審院検事石渡敏一子息の石渡慎五郎(東京火災保険社員)と結婚した。 自動車保険料率算定会(自算会)の常務を務めた。
内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 19… 内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 1994年6月5日)は、日本の映画監督。宮城県加美郡小野田町(現・加美町)出身。 旧制神奈川県立逗子中学校卒。早稲田大学文学部在学中の1934年に長谷川一夫の勧めで松竹京都撮影所に入社し大学を中退。1943年に召集され、1947年に復職。1955年に東映京都撮影所に移籍。東映の路線転換によりテレビ部のディレクターに転身し、1963年にフリーとなった。 主にナショナル劇場『水戸黄門』『大岡越前』『江戸を斬る』などのテレビ時代劇のディレクターとして活躍。『水戸黄門』では東野英治郎主演版第1部(1969年)から最終シリーズの第13部(1983年)まで足掛け13年半にわたり156本を担当し現役を退いた。
中島 亥太郎(なかじま いたろう、1911年3月13日 - … 中島 亥太郎(なかじま いたろう、1911年3月13日 - 1993年5月20日)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。400mの元日本記録保持者。早稲田大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに200m走およびリレー2種目(4×100m、4×400m)で出場。 静岡県御殿場市出身。沼津商業学校(現在の静岡県立沼津商業高等学校)卒業後、早稲田大学に進む。 早稲田大学在学中の1930年から1933年にかけて、400mの日本記録(ならびに日本男子学生記録)を6回更新している。 1932年ロサンゼルスオリンピックの代表となり、男子200メートル、男子400メートルリレー走(吉岡隆徳、南部忠平、阿武巌夫、中島亥太郎)、男子1600メートルリレー走(中島亥太郎、増田礒、大木正幹、西貞一)に出場。
小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日… 小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日 - 1986年〈昭和61年〉1月4日)は、日本の記者、新聞編集者、実業家。新潟日報社第4代社長、會津八一記念館初代館長。 新潟県新潟市に生まれ、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、同盟通信社(現 共同通信社)などを経て、新潟日報社編集局長の時に太平洋戦争に応召し、硫黄島でアメリカ軍の捕虜となると、ハワイの捕虜収容所に送られた。 そこで情報将校ドナルド・キーン海軍中尉と親しくなり、未来の日本について語り合った。 包容力があり、太っ腹で、日本人捕虜の仲間たちから、「おやじ」や「とっつぁん」などと呼ばれていたため、捕虜収容所所長の情報将校オーテス・ケーリ海軍中尉から、幡随院長兵衛の一字を採って「幡さん」と名付けられた。
竹中 錬一(たけなか れんいち、1911年(明治44年)3月… 竹中 錬一(たけなか れんいち、1911年(明治44年)3月1日 - 1996年(平成8年)12月31日)は、日本の実業家。竹中家第15代当主。竹中工務店社長、会長、関西経済同友会代表幹事等を歴任した。 兵庫県神戸市出身。旧制甲南高等学校を経て、1933年(昭和8年)早稲田大学理工学部建築学科卒業、早稲田大学大学院修了。 1975年(昭和50年)には無公害、省エネルギー空調システムの開発で毎日工業技術奨励賞受賞。
長谷川 実雄(はせがわ じつお、1911年3月1日 - 20… 長谷川 実雄(はせがわ じつお、1911年3月1日 - 2001年5月9日)は、日本の経営者。読売新聞社常務、読売ジャイアンツ球団代表を務めた。愛知県江南市出身。 1937年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に読売新聞社に入社した。社会部、編集局婦人部長、社会部長、編集局総務を経て、1969年に報知新聞社副社長兼編集局長に就任し、1971年に読売新聞社編集局長兼取締役に就任し、1973年に常務に就任した。1975年6月から1987年までに読売ジャイアンツ球団代表を務めた。1978年から1979年にかけての江川事件では球団代表として対応にあたった。 1987年にセントラル・リーグから連盟特別功労賞として表彰され、同リーグの顧問も務めた。
石野 久男(いしの ひさお、1911年2月16日 - 200… 石野 久男(いしの ひさお、1911年2月16日 - 2007年3月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(10期)。 三重県志摩郡大王町(現志摩市)出身。1936年早稲田大学政治経済学部を卒業後、高速機関工業(株)を経て、日立製作所に入社。戦後、同社水戸工場長秘書を務めていた時に労組結成に参加し、日立製作所水戸工場社員組合執行委員長、日立製作所労働組合総連合中央執行委員長を歴任した後、1947年第23回衆議院議員総選挙に旧茨城2区から日本社会党公認で立候補し当選する。以後、当選10回。 初当選から間もなく芦田内閣の予算案に反対して除名となり黒田寿男、岡田春夫、松谷天光光らとともに労働者農民党を結成。
笠置山 勝一(かさぎやま かついち、1911年1月7日 - … 笠置山 勝一(かさぎやま かついち、1911年1月7日 - 1971年8月11日)は、奈良県生駒郡(後の大和郡山市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は仲村 勘治(なかむら かんじ)。最高位は西関脇。 1911年1月7日に奈良県生駒郡(後の大和郡山市)で生まれる。小学生の時から相撲で活躍し、小学6年生では大阪毎日新聞社が主催した奈良県学童相撲で優勝する実力を身に付けた。奈良県立郡山中学校では相撲を離れて柔道部に所属していたが、1928年に常陸山谷右エ門の叔父である内藤高治の推薦で出羽海部屋へ入門した。しかし、学業を修了していなかったため、東京・早稲田中学校へ転校して部屋から中学校へ通う生活を続けていた。
秀島 乾(ひでしま かん、本名読み:ひでしま つとむ、191… 秀島 乾(ひでしま かん、本名読み:ひでしま つとむ、1911年 - 1973年)は、日本の都市計画家。戦後すぐに日本最初の都市計画のコンサルタントとして活躍した人物。計画士を自称。佐賀県東松浦郡相知町生まれ。 旧制福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業後、1936年早稲田大学理工学部建築学科に入学し佐藤武夫に師事。佐藤は戦時中満州の調査研究を熱心に行い、影響を受ける。大学卒業後、満州国民政部営繕需品局(その後建築局に改名)技師。1940年技佐。同年臨時国都建設局兼任。新京第一期五か年計画など新京の都市計画全般に携わるほか、満州における満州集団住区制理論、都市計画と集団住区制、住宅傾向などについて研究発表する。
矢島 粂安(やじま くめやす 1911年 - 1944年4月… 矢島 粂安(やじま くめやす 1911年 - 1944年4月)は、日本のプロ野球選手。長野県出身。結婚後の姓は、繁原(しげはら)。
稲垣 源四郎(いながき げんしろう、1911年 - 1995… 稲垣 源四郎(いながき げんしろう、1911年 - 1995年11月17日)は、日本の弓道家。日置流印西派師家。 東京生まれ。早稲田大学理工学部を卒業。1969年より、ドイツなどヨーロッパ各地で指導。東京教育大学教授、早稲田大学・筑波大学弓道部・ドイツ弓道連盟師範などを務めた。全日本弓道連盟範士9段。1995年11月17日、膵臓癌のため死去。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
恒松 恭助(つねまつ きょうすけ、1910年12月22日 -… 恒松 恭助(つねまつ きょうすけ、1910年12月22日 - 2001年4月13日)は、日本の作家、放送作家。 千葉県生まれ。1936年早稲田大学英文科卒。大学時代より同人誌『人間』に所属、戦後は早大系の『文学者』の編集委員。1956年から1964年までNHKで放送された人形劇『チロリン村とくるみの木』の原作者であり作者で、最終回までの全812回分、および1966年にフジテレビで放送された続編『おーい!チロリン村だよ』の全30回分を単独で執筆。作家としては私小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
小田 仁二郎(おだ じんじろう、1910年12月8日 - 1… 小田 仁二郎(おだ じんじろう、1910年12月8日 - 1979年5月21日)は、日本の小説家。 山形県南陽市生まれ。旧制長井中学在学時に大竹俊雄らと同人雑誌『火花』を創刊。早稲田文学仏文科に進み、在学中は野田誠三らと「ヴァリエテ」を刊行、中原中也や山沢民喜等の同人「紀元」に参加。卒業後は都新聞に勤め、文化部文芸欄を担当するが、1941年退社。戦後になって丹羽文雄の『文学者』に参加。1948年に真善美社の「アプレゲール叢書」の一冊として刊行された「触手」で文壇の一部からは評価されたが、その難解さから商業誌には迎えられなかった。1952年「昆虫系」で芥川賞候補、53年「からかさ神」で芥川賞候補、54年「塔の沢」で直木賞候補。
大島 博光(おおしま ひろみつ、1910年11月18日 - … 大島 博光(おおしま ひろみつ、1910年11月18日 - 2006年1月9日)は、日本の詩人、翻訳家である。
平田 寛(ひらた ゆたか、1910年11月14日 - 199… 平田 寛(ひらた ゆたか、1910年11月14日 - 1993年9月23日)は、日本の西洋科学史家。早稲田大学名誉教授。日本科学史学会会長。 古代ギリシャの科学技術を研究し、西洋の科学史の文献の翻訳により、日本の科学史研究に貢献した。また日本科学史学会の発起人となり、その創立にも尽力した。 平田内蔵吉・平田晋策(『新戦艦高千穂』の著者)は父の従兄弟であり、内蔵吉の孫である平田オリザは縁戚にあたる。
山田 克郎(やまだ かつろう、1910年11月5日 - 19… 山田 克郎(やまだ かつろう、1910年11月5日 - 1983年4月26日)は、日本の小説家。 朝鮮・釜山生まれ(石川県金沢市とするものもある)。本名・克朗。 旧制中学3年のときに父の故郷である香川県香川郡香西町(現・高松市香西南町)に移り、高松中学校に転入する。 1936年、早稲田大学商学部卒。 1937年、処女作「燈台視察船」を『オール讀物』に発表。 1941年、最初の単行本『翼の饗宴』を上梓、以後、旺盛な作家活動を戦中、戦後と続ける。 海洋もの作家として活躍し、戦後、1949年に「海の廃園」(『文藝読物』発表)で直木賞受賞。 日本テレビ放送網でテレビドラマ化された『快傑ハリマオ(原作名『魔の城』)』の原作者として知られる。
秋沢 修二(あきざわ しゅうじ、1910年9月29日 - 1… 秋沢 修二(あきざわ しゅうじ、1910年9月29日 - 1991年8月27日)は、評論家、哲学者。本名は秋津賢一(あきつ けんいち)。 静岡県沼津市の鼈甲商の長男に生まれた。沼津市立沼津尋常高等小学校(現・沼津市立第一小学校)卒。静岡県立沼津中学校(第24期、現・静岡県立沼津東高等学校)を4年生で中退。中学卒業検定試験に合格し、専門学校入学資格(専検)を取得。1928年早稲田大学高等学院文科に入学。早稲田では新稲会に所属。1930年早稲田大学文学部哲学科に進んだが、同年8月学資納入が困難なため中退。 1930年2月頃にプロレタリア科学研究所(プロ科)所員となり、哲学部門の唯物弁証法研究会に所属。
鈴木 啓蔵(啓藏、すずき けいぞう、1910年〈明治43年〉… 鈴木 啓蔵(啓藏、すずき けいぞう、1910年〈明治43年〉8月20日 - 1993年〈平成5年〉5月8日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(3期)。位階は正六位。 山形県南村山郡上山町十日町出身。旧制山形中学校(現山形東高校)、早稲田大学中退。1931年に兄の死去に伴い上山町に帰郷。太平洋戦争に応召。1945年終戦は台湾の屏東で迎えた。復員後、山形県に奉職。山形県知事室秘書課長、文書課長、統計課長、東京事務所長、最上事務所長、東南村山地方事務所長を歴任。 1959年より松本長兵衛市長のもと上山市助役を2期務めた。 1971年7月に上山市長選に出馬し、雨谷憲作との一騎打ちを制して初当選。(鈴木啓蔵13,549票、雨谷憲作9,204票) 1975年6月の市長選では、無投票当選し2選。
今 治彦(こん はるひこ、1910年(明治43年)8月17日… 今 治彦(こん はるひこ、1910年(明治43年)8月17日 - 没年不明)は、日本のフィールドホッケー選手。 東京生まれ。早稲田大学出身。日本のフィールドホッケーチームのメンバーで、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、銀メダルを獲得した。フォワードとして2試合出場した。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
石原 省三(いしはら しょうぞう、1910年8月10日- 1… 石原 省三(いしはら しょうぞう、1910年8月10日- 1993年7月19日)は、日本の元スピードスケート選手・指導者。第二次世界大戦前にオリンピック出場2回。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会では500mで4位入賞を果たした。 満洲安東県(現在の中国遼寧省丹東市東港市)に生まれ育つ。南満洲鉄道(満鉄)がスケートを奨励したこともあり、満洲は大日本帝国の勢力圏において「スケート王国」と評され、スケート競技では内地を圧倒していた。スピードスケートにおいては、満鉄の仲介でハルピン在住ロシア人スケーター、ルシチャイがコーチとして指導にあたっていた。1931年には満鉄の岡部平太監督のもと石原らがヘルシンキの世界選手権大会に出場している。
友田 信(ともだ しん、1910年(明治43年)8月2日 -… 友田 信(ともだ しん、1910年(明治43年)8月2日 - 2000年(平成12年)5月16日)は、日本の経営者。文化放送、キングレコード、サンケイ・スワローズで社長を務めた。 京都府京都市出身。1936年に早稲田大学政治経済学部を卒業。第一紙業社社長、第一通信社社長を経て、1956年に文化放送専務に就任し、1968年には社長に昇格した。 その一方で、産業経済新聞社で取締役と専務を務め、キングレコードで代表取締役社長と会長を務めた。フジテレビジョン代表取締役、サンケイ・スワローズ球団社長も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1981年に勲二等瑞宝章を受章した。 2000年5月16日肺炎のために死去。
伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 20… 伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 2001年11月29日)は、日本の映画プロデューサー、労働運動家。日本映画演劇労働組合の初代委員長として、東宝争議を指揮した。本名伊藤 武男(いとう たけお)。 1910年(明治43年)7月17日、福井県に「伊藤武男」として生まれる。 東京に移り、早稲田大学に入学、同学を卒業後の1937年(昭和12年)、東宝映画(現在の東宝)に入社する。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で、1942年(昭和17年)、渡辺邦男監督の『武蔵坊弁慶』で伊藤基彦とともに初めて「製作」に名を連ね、映画プロデューサーとなる。 第二次世界大戦終結の翌年、1946年(昭和21年)2月に東宝撮影所で東宝争議が起きる。
山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 19… 山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 1983年8月11日)は、日本の映画監督。鹿児島県出身。早稲田大学文学部独文科中退。 甥たち(兄山本勝巳の子)が、俳優の山本學、山本圭、山本亘で、自身の作品への配役も多い。息子の山本駿、山本洋も映画監督。 両親とも石川県小松市の出身(薩夫の本籍も石川県)。札幌農学校を中退して農商務省の官吏になった父が愛知県庁を振り出しに各地の県庁を転々とし、鹿児島県庁勤務時に薩夫が生まれた。名前もそこから付けられた。6人兄弟の末っ子で兄弟はそれぞれ別の土地で生まれた。薩夫が2歳になる前に父が愛媛県庁に転勤し、一家は愛媛県松山市に引っ越す。この時期に長兄の友人で、のちに共産党弾圧で獄死した重松鶴之助や俳人・中村草田男らの知遇を得る。
金 元圭(キム・ウォンギュ、朝鮮語: 김원규、1910年6月… 金 元圭(キム・ウォンギュ、朝鮮語: 김원규、1910年6月17日 - 1988年3月10日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 慶尚北道盈徳郡出身。早稲田大学専門部商科卒。南鮮貿易創業者・理事社長・代表理事会長、咸興商工専修学校設立者、徳永百貨店会長、東洋醸造会長、三光興業会長、第一企業会長、咸興商工ゴム社長、東亜ゴム工業社長、興南ゴム社長、東亜炭鉱社長、再生ゴム社長、合同通信社社長・代表理事、韓国畜産物輸出組合理事長、韓国海苔輸出組合理事長、大韓商工会議所常務委員、東海水産社長、大韓蚕糸会中央会理事、自由党中央委員、国会復興委員会委員、東林水産会長、水産経済新聞社長、元洋貿易会長を務めた。
加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996… 加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996年11月3日)は昭和期の将棋棋士。名誉九段。棋士番号14。東京府東京市(現在の東京都港区)出身。山本樟郎八段門下。早稲田大学を卒業した、初の大学出身プロ棋士。
岩本 政敏(いわもと まさとし、1910年5月25日 - 没… 岩本 政敏(いわもと まさとし、1910年5月25日 - 没年不明)は、日本の経営者。文化放送社長、会長を務めた。東京都出身。 1933年に早稲田大学商学部を卒業。 日本放送協会での勤務を経て、1957年11月に日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に転じ、1960年11月に取締役に就任し、1965年に常務、1972年11月に専務を経て、1979年6月には文化放送社長に就任。1987年7月に会長を経て、1990年6月には相談役に就任。 1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?… 近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?)は、日本のジャーナリスト、歴史家。 兵庫県出身。早稲田大学政治経済学部卒。大阪毎日新聞記者をへて、大阪読売新聞社勤務。1965年定年退職、帝塚山学院短期大学教授を務め、78年定年退職。ジョセフ彦記念会会長を務めた。
河合 亨(かわい とおる、1910年3月31日 - 1993… 河合 亨(かわい とおる、1910年3月31日 - 1993年10月14日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。早稲田大学教授を務め、1980年定年退任、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松居 桃楼(まつい とうる、1910年3月30日 - 199… 松居 桃楼(まつい とうる、1910年3月30日 - 1994年9月25日)は、日本の随筆家。 東京に、松居松葉の三男として生まれる。本名・桃太楼。早稲田大学政経学部卒。松竹演芸演劇審議会委員を務め、のち1942年台湾演劇文芸部長。1946年帰国、丹沢開拓地共同組合長。1950年上京し台東区隅田公園バタヤ地区蟻の街結成に参加しその住人となり、北原怜子とともに蟻の街の中心となる。1958年「蟻の街のマリア」は五所平之助監督で映画化され知られた。墓所は寛永寺。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
森 茂喜(もり しげき、1910年3月27日 - 1989年… 森 茂喜(もり しげき、1910年3月27日 - 1989年11月19日)は、日本の政治家、陸軍軍人(中佐)。父は根上村長を務めた森喜平。長男は第85・86代内閣総理大臣の森喜朗。 石川県能美郡根上村(現能美市)出身。旧制小松中学、早稲田大学専門部法律科で学ぶ。大学時代はラグビー部の中心選手として活躍した。大学卒業後、京都市役所で勤務。その後石川県庁に移る。 日中戦争勃発により陸軍に召集され従軍(特別志願将校)。少尉時代に上海上陸から南京攻略戦、その後徐州作戦、武漢作戦と初期の激戦を一通り経験し、伝記にも載っている。週刊誌に取り上げられたこともある。 満州の牡丹江に駐留していた歩兵第7連隊第9中隊長時代、部下に丁来赫(チョン・ネヒョク)が居た。
武 基雄(たけ もとお、1910年3月22日 - 2005年… 武 基雄(たけ もとお、1910年3月22日 - 2005年10月8日)は、日本の建築家。早稲田大学名誉教授。武建築設計研究所を主宰し、多くの優れた建築作品を残す。元新建築家技術者集団代表幹事。鎌倉彫の武登苑は夫人。日本画家福永晴帆は義父。 長崎市生まれ。1937年早稲田大学理工学部建築学科卒。1937年から1940年の間石本喜久治の石本建築事務所勤務。同僚の立原道造、海老原一郎、西山卯三らや、立原の友人丹下健三らと知己になる。 1940年から1979年まで、早稲田大学で教鞭をとる。藤井博巳、菊竹清訓ら多くの俊英を育てる。戦災復興都市計画では、吉阪隆正らと主に広島県呉市を担当。1950年、建築設計事務所・武建築設計研究所を開設。
西田 修平(にしだ しゅうへい、1910年(明治43年)3月… 西田 修平(にしだ しゅうへい、1910年(明治43年)3月21日 - 1997年(平成9年)4月13日)は、日本の元陸上競技選手。和歌山県東牟婁郡那智村(現・那智勝浦町)出身。1936年ベルリンオリンピック銀メダリスト。早稲田大学理工学部卒業。 弁護士・西田郁平と楠枝の長男として生まれる。旧制和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を卒業後、織田幹雄に感化されて第一早稲田高等学院に進学。棒高跳のエキスパートとして知られ、大学在学中に1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。銀メダルを得た。早稲田大学理工学部機械工学科を卒業後、日立製作所に入社。1936年ベルリンオリンピックでは大江季雄と2・3位を分け合い、帰国後にお互いのメダルを切断して「友情のメダル」を作成したことはつとに有名。
河野 金昇(こうの きんしょう、1910年2月1日 - 19… 河野 金昇(こうの きんしょう、1910年2月1日 - 1958年3月29日)は、日本の政治家、愛知県選出の衆議院議員。海部俊樹の師匠として知られている。 東京都出身。幼少時に足を負傷し、治療が不十分であったために障害が残った。金昇の親は、障害者となった息子を不憫に思い、兄弟の中で金昇だけを大学に進学させてあげたという。1933年(昭和8年)早稲田大学専門部を卒業する。その後、政治を志し、大学の先輩に当たる中野正剛の門下となり、中野が主宰する東方会に入る。1942年(昭和17年)の総選挙(いわゆる翼賛選挙)において地元愛知県から東方会(翼協非推薦)で立候補するが、落選した。1943年(昭和18年)中野が東條英機内閣を「戦時宰相論」で批判すると、10月に東方会の同志共々、特高に検挙され、中野は自刃するという悲運に見舞われた。
猪原 淳三(いのはら じゅんぞう、1910年(明治43年)1… 猪原 淳三(いのはら じゅんぞう、1910年(明治43年)1月31日 - 没年不明)は、日本のフィールドホッケー選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。 広島県に生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現在の広島大学附属中学校・高等学校)を経て、早稲田大学に進む。大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックにフィールドホッケーで出場、フォワードとして2試合をプレイし、銀メダルを獲得した。 1934年(昭和9年)、早稲田大学を卒業。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
赤松 勇(あかまつ いさむ、1910年〈明治43年〉1月25… 赤松 勇(あかまつ いさむ、1910年〈明治43年〉1月25日 - 1982年〈昭和57年〉8月30日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(11期)。 長男は元衆議院副議長の赤松広隆。 兵庫県朝来郡和田山町(現朝来市)生まれ。聴講生として早稲田大学で学び中央大学で履修する。在学中の1926年(大正15年)、労働農民党に入党する。1931年(昭和6年)、日本労働組合総評議会に参加し中央委員になる。1937年(昭和12年)の人民戦線事件で逮捕されて4年間入獄する。 1945年(昭和20年)、日本社会党の結成に参加する。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で初当選を果たした。
李 燦(リ チャン、리찬、日本名:青葉薫、1910年1月15… 李 燦(リ チャン、리찬、日本名:青葉薫、1910年1月15日 - 1974年1月14日)は、「金日成将軍の歌 (김일성 장군의 노래)」の作詞などによって知られる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の詩人。 咸鏡南道北青郡出身。京城第二高等普通学校(後の景福高等学校(朝鮮語版))を卒業し、日本の立教大学と早稲田大学に学んだ。この当時に、林和などと知り合い、社会主義系の文学運動に加わった。 1931年の冬至に結成された朝鮮プロレタリア芸術家同盟 (KAPF) に加わり、中央委員として活動した。1932年に検挙されて、約2年間、投獄の苦難を体験し、以後は故郷である北清に戻り、詩集を発表した。KAPFの活動をしていた初期には、現実参加的な叙述詩を書いたが、服役後に刊行した詩集『待望 (대망)』(1937年)、『焚香 (분향)』(1938年)、『望洋 (망양)』(1940年)には虚無的な情緒で、弱気な知識人としての苦悩を告白する内容が入っている。
田中 秀次郎(たなか ひでじろう、1910年1月1日 - 没… 田中 秀次郎(たなか ひでじろう、1910年1月1日 - 没年不詳)は、昭和戦前期に活動した日本のバスケットボール選手。1936年ベルリンオリンピックに出場し、バスケットボール日本代表チームの主将を務めた。 旧制成蹊高等学校(現在の成蹊中学校・高等学校)に学び、籠球部に所属。当時の成蹊高校籠球部は好調な成績を残しており、1929年(昭和4年)、1930年(昭和5年)と全国高校選手権を連覇した。1931年(昭和6年)には、第10回全日本選手権において、決勝で早稲田大学を破り、高校チームが全国制覇をするという快挙を成し遂げた。この際のメンバーに田中秀次郎が含まれる。当時のあだ名は「デンチュー」であったという。
柯 子彰(か ししょう 1910年 - 2001年)は、元ラ… 柯 子彰(か ししょう 1910年 - 2001年)は、元ラグビー選手、指導者。
清田 文永(きよた ふみなが、1910年-1982年)は、日… 清田 文永(きよた ふみなが、1910年-1982年)は、日本の建築家。 大分県佐伯市生まれ。早稲田大学理工学部卒業。逓信省、大日本航空株式会社勤務の後、株式会社 梓設計を創設。「NHK放送センター・NHKホール」で日本建築学会賞・建築業協会賞を受賞。 戦後の焼け野原の中で「梓」の社名の由来となる「におやかで、おおらかで、怒りを含んでいる」建築を目指し、事務所を立ち上げた。「拘束と闘って自由を獲得する。そこで出来上がったものが、ほんとうのデザインである」と設計に情熱を傾けた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
金 永千(キム・ヨンチョン、朝鮮語: 김영천、1910年代 … 金 永千(キム・ヨンチョン、朝鮮語: 김영천、1910年代 - 2000年8月7日)は、大韓民国の法曹。第11代法務部次官。 早稲田大学卒。普通文官試験、朝鮮弁護士試験に合格。光州地方検察庁検事長、清州地方検察庁検事長、大検察庁検事、法務部法務局長、第11代法務部次官(1960年6月30日〜1960年9月29日)、光州高等検察庁検事長、ソウル高等検察庁検事長、大検察庁次長検事、韓国ボーイスカウト連盟副総裁、共和党中央委人権擁護委員長、憲法委員、弁護士などを務めた。2000年8月7日に老衰により死去、享年86。
宮坂 完孝(みやさか さだたか、1909年 <明治42年> … 宮坂 完孝(みやさか さだたか、1909年 <明治42年> 12月15日 - 1996年 <平成8年> 11月13日)は、日本の朝鮮総督府官僚、国会職員。参議院事務総長、国立国会図書館長を歴任した。位階は正三位。 長野県埴科郡埴生村(現千曲市)出身。旧制長野中学(現、長野県長野高等学校)を経て早稲田大学法学部卒業。朝鮮総督府、貴族院事務局、文部省を経て参議院事務局に奉職。1965年第5代参議院事務総長に就任。1972年に退任し、同年国立国会図書館長に就任。1980年勲一等瑞宝章を受勲した。1996年死去。死没日付をもって従六位から正三位に進階した。
今 官一(こん かんいち、1909年(明治42年)12月8日… 今 官一(こん かんいち、1909年(明治42年)12月8日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の小説家。 青森県弘前市西茂森町に藤田三次郎(藤田匡の一族)の孫、今宮吾の三男として生まれる。東奥義塾の学生時代、1926年(昭和2年)に中田重治より洗礼を受ける。 早稲田大学露文科中退。同郷の太宰治と親しく、桜桃忌の名は今によって名付けられた。 1956年(昭和31年)、『壁の花』で第三十五回直木賞を受賞。
村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月… 村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月22日 - 2006年(平成18年)3月31日)は日本の工学者、早稲田大学名誉教授、日本カナダ教育文化交流財団理事長。早稲田大学第10代総長、早稲田奉仕園第6代理事長、恵泉女学園大学初代学長。キリスト教プロテスタントである。次男村井吉敬は早稲田大学客員教授を務めた。旧姓日野西。 北海道茅部郡石倉村(現森町)濁川の広大な日野西牧場で農場を経営していた日野西長輝(日野西光善三男)の三男として生まれた。日野西家は京都の堂上華族。1916年に父親が日本統治下の朝鮮・慶尚南道の村井進永農場の農場長に就任したため翌年から一年間、現地の内地人用小学校に通う。
棟田 博(むねた ひろし、1909年〈明治41年〉11月5日… 棟田 博(むねた ひろし、1909年〈明治41年〉11月5日 - 1988年〈昭和63年〉4月30日)は、日本の作家。自己の戦争体験を元に手記・随筆・小説を描いた「兵隊作家」のひとり。 1909年(明治41年)11月、岡山県英田郡倉敷村(現在の美作市林野)の伊藤家に生まれる。後に岡山県津山市の棟田家の養子となる。家は料亭を営み、常に芸妓の姿や三味線の音が絶えなかったという。旧制岡山県立津山中学校を経て、早稲田大学文学部国文科を中退する。地元に帰り、短歌同人に参加するなど、文学青年の道を歩む。 1928年(昭和3年)に徴兵検査甲種合格、1929年(昭和4年)1月、岡山歩兵第10連隊に現役兵として入営する。
八馬 眞治(八馬 真治、はちうま しんじ、1909年〈明治4… 八馬 眞治(八馬 真治、はちうま しんじ、1909年〈明治42年〉10月10日 - 1976年〈昭和51年〉1月9日)は、日本の実業家。多聞酒造社長。 兵庫県西宮市出身。海運業・八馬永蔵の六男。1932年、早稲田大学経済学科卒業。1942年、八馬汽船、1943年、西宮酒造各監査役。1949年、八馬汽船取締役。 灘五郷酒造組合理事長、日本酒造組合中央会評議員、西宮商工会議所常議員、西宮カントリークラブ理事をつとめる。また多聞有限社員である。 三代八馬兼介、八馬安二良、八馬駒雄の弟。 趣味は庭球。宗教は真宗。住所は兵庫県芦屋市平田町、西宮市大井手町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
土井 修爾(どい しゅうじ、1909年10月1日 - 193… 土井 修爾(どい しゅうじ、1909年10月1日 - 1938年7月7日)は、日本の水球選手である。1932年に開催された夏季オリンピックの男子トーナメントに出場した。日中戦争中は陸軍に士官として召集されていたが、日本国内での訓練中の負傷がもとで病死(戦病死)した。 広島県広島市出身。父の土井與一は弁護士であった。広島市立袋町小学校、県立広島第二中学校(現在の広島県立広島観音高等学校)を経て、早稲田大学法学部に学ぶ。 早稲田大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。水球には4か国(ドイツ、アメリカ、ハンガリー、日本)が出場した。初出場の日本は国内の優秀選手を送り出したが、全敗を喫した。
原田 鋼(はらだ こう、1909年9月17日 - 1992年… 原田 鋼(はらだ こう、1909年9月17日 - 1992年7月17日)は、日本の政治学者。元中央大学学長。専門は、政治学。特に、政治思想史・政治哲学・政治権力。後年、法哲学も研究した。政治学分野から初めての文化功労者である。 中国大連生まれ。栃木県大田原市で育つ。1936年、早稲田大学政治経済学部卒業。1941年から1945年にかけて、早稲田大学政治経済学部非常勤講師。1942年11月、法学博士(東京帝國大學)(学位論文「法治国家論」)。 1948年、中央工学専門学校専任講師。1949年、中央大学法学部教授。政治学原論・政治史・法哲学を担当。1965年、中央大学評議員( - 1973年)。1969年、中央大学学長。
前田 武男(まえだ たけお、1909年9月15日 - 197… 前田 武男(まえだ たけお、1909年9月15日 - 1977年5月21日)は、日本の実業家。キヤノン2代目社長を務めた。 気を見るに敏にして積極果断で、難局に当っては慎重に事を進める。私生活ではユーモアに理解があり、囲碁とゴルフを趣味とした。 1909年9月15日:山梨県都留市に生まれる。 1930年3月:早稲田大学政治経済学科卒業。その後山一証券勤務を経て、1934年5月キヤノン株式会社の前身である精機光学研究所に移った。 1937年8月10日:精機光学研究所を基盤とする新会社:精機光学工業株式会社設立に合わせ、同社営業部長に就任。 1946年8月:同社取締役に就任。 1947年9月:同社がキヤノンカメラ株式会社に改名。