武内 五郎(たけうち ごろう、1902年(明治35年)3月2… 武内 五郎(たけうち ごろう、1902年(明治35年)3月25日 - 1981年(昭和56年)2月10日)は、日本の農民運動家、政治家。参議院議員(2期)、青森県上北郡浦野舘村長。 青森県出身。1926年(大正15年)早稲田大学専門部商科を卒業した。 早大建設者同盟設立に参加し社会主義運動に加わる。日本社会主義同盟、日農関東同盟に加わり農民運動に参画し、新潟県木崎村小作争議、同県王番田、同乙村などの小作争議を指導した。労働農民党、日本労農党、日本大衆党などの無産政党の結成に参画した。 戦後、青森県上北郡浦野舘村長に就任。以後、八戸労働組合学校主事、日本農民組合中央執行委員、社会党左派中央委員、日本社会党新潟県書記長、同執行委員長、新潟県農業会議議員、同県土地収用委員などを務めた。
東野辺 薫(とうのべ かおる、1902年〈明治35年〉3月9… 東野辺 薫(とうのべ かおる、1902年〈明治35年〉3月9日 - 1962年〈昭和37年〉6月25日)は、日本の小説家・劇作家。本名、野辺 慎一。福島県在住者として、初めて芥川賞を受賞した。 福島県二本松出身。旧制安積中学校を経て、1923年早稲田大学高等師範部国漢文科卒業、長野県立大町中学校教諭となる。1925年福島県立安達中学校教諭、1930年、戯曲集『黎明を待つ人々』を自費出版、1940年福島県立会津中学校教諭、1941年、懸賞小説当選作「国土」が『サンデー毎日』に掲載される。1943年福島県立保原中学校教諭。1943年、「和紙」で芥川賞を受賞。 1948年福島県立福島女子高等学校教諭、1949年福島県立福島商業高等学校夜間部教諭を経て、1952年に教員を退職。
山本 栄一郎(やまもと えいいちろう、1902年(明治35年… 山本 栄一郎(やまもと えいいちろう、1902年(明治35年)3月8日 - 1979年(昭和54年)12月15日)は、日本のプロ野球選手。日本初のプロ野球球団である日本運動協会で主将を務め、後に東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)にも入団した。右投げ右打ちで、守備位置は投手を中心に捕手以外のほぼ全て。投法はサイドスローであった。 大の餅好きであったことから、チームメイトからは「バブさん」(バブは島根の方言で餅のこと)のあだ名で呼ばれた。 島根県松江市出身。島根商業(現・島根県立松江商業高等学校)卒業後、神戸で働いていたが、1920年(大正9年)、早稲田大学野球部OBである加藤吉兵衛(後に山陽クラウンズの総監督)の紹介で日本運動協会の入団テストを受け合格。
常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1… 常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1988年10月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者、郷土史家。 佐賀県唐津市出身。1923年3月福岡県立中学修猷館を経て、1929年3月早稲田大学文学部哲学科を卒業。 1929年4月朝日新聞社大阪本社に入社。1936年3月中華民国北平(北京)特派員となる。1937年7月7日勃発した盧溝橋事件において、事前にその情報を掴み、現場に一番乗りして取材し、7月9日の朝日新聞朝刊の一面を飾るスクープをものにした。1939年10月西部本社編集局東亜課、1941年東京本社を経て、1942年3月中華民国済南支局長兼青島支局長、1944年9月奉天支局長を歴任するが、ここで終戦を迎え、抑留された後、1946年7月帰国。
中島 正信(なかしま しょうしん、1902年(明治35年)2… 中島 正信(なかしま しょうしん、1902年(明治35年)2月12日 - 1973年(昭和48年)7月25日)は、早稲田大学名誉教授、早稲田精神昻揚会会長、早稲田船上大学研究会会長、早稲田大学新聞会会長。専攻は商業英語、国際経済論、世界経済論。 1902年2月12日、山口県豊浦郡神玉村に生まれる。 山口県立豊浦中学校、早稲田大学第一高等学院文科を経て、1923年4月に早稲田大学商学部に入学する。1926年3月に卒業後、東京材木輸入協会に入り、貿易実務に従事する。 1930年4月から早稲田大学商学部助手となり、同年7月からアメリカ合衆国のコロンビア大学へ留学する。 1937年4月から早稲田大学専門部商科教授、1941年4月早稲田大学商学部教授となる。
高野 弥一郎(たかの やいちろう、1902年2月11日- 1… 高野 弥一郎(たかの やいちろう、1902年2月11日- 1992年7月21日)は、日本の翻訳家。 新潟県小千谷市片貝の農家に生まれ、小学校卒業後、鉄工所に勤める。英文学に志して上京し、銀座で新聞配達をしながら早稲田大学英文科に学ぶ。在学中に『サンデー毎日』の懸賞映画小説に応募し「夢と女」で当選、小説家を志す。1940年、喜多荘太の筆名でアンドレ・モーロワ「欧州大戦秘話」を『サンデー毎日』に連載し、『フランス敗れたり』として刊行すると、300版の大ベストセラーとなり、にわかなモーロワのブームが訪れた。1944年、郷里新潟県に疎開、高校教師をしながら、戦後も翻訳を続けた。
小宮山 明敏(こみやま あきとし、1902年〈明治35年〉2… 小宮山 明敏(こみやま あきとし、1902年〈明治35年〉2月10日 - 1931年〈昭和6年〉9月30日)は、1920年代に活躍したプロレタリア文学の評論家である。 岡山県御津郡金川町(現・岡山市)出身。早稲田第一高等学院文科に入学し、早稲田大学露文科に進学する。在学中より尾崎一雄、村田春海たちと同人雑誌をはじめ、卒業後は高等学院で教壇にもたつが、結核を病み職を辞し、文芸評論の執筆に専念する。その後、日本プロレタリア作家同盟に加入し、1930年に『文学革命の前哨』(世界社)を上梓するも、まもなく没した。 瀬沼茂樹は『現代日本文学大系』所収の小宮山の評論に関して、「解説」のなかで、「マルクス主義の立場で所謂ブルジョア文学を内在的に批評する者は稀であったので、珍重すべき評論」と述べている。
山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月… 山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月5日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の軍事史学者。特に日本の甲冑についての研究で名を知られる。 山上が帝国学士院より受賞した研究『日本甲冑の新研究』は、上下巻を合わせて2500ページに迫る膨大なもので、その中で紹介されている日本全国の甲冑資料も、非常に豊富である。現代の甲冑研究にも強い影響を与え続けている大著である。 「万巻の書を読み千里の道を行く」を一生の目標とし、大学時代より日本各地を旅行して甲冑を捜索した。服飾史学者の河鰭実英や城郭研究者の鳥羽正雄と親交があったが、特に鳥羽とは小学校以来の付き合いがあり、山上が東洋大学より文学博士号を取得したのも鳥羽の推薦があったためという。
深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)… 深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)1月18日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県半田市長(5期)などを歴任。 愛知県出身。1925年、早稲田大学専門部法律科を卒業し、その後、コロンビア大学、ソルボンヌ大学大学院で学んた。 愛知県半田農業学校講師、文部省嘱託、満州国外交部嘱託、満州炭鉱社員、富士産業農場長を務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙おいて大選挙区の愛知県第一区で日本自由党から出馬して当選。第23回総選挙(旧愛知2区)でも当選し、衆議院議員を連続二期務めた。この間、日本自由党総務、同渉外部副部長、同政調会鉱工業委員長、民主自由党常任総務などを務めた。
武藤 運十郎(むとう うんじゅうろう、1902年(明治35年… 武藤 運十郎(むとう うんじゅうろう、1902年(明治35年)1月6日 - 1993年(平成5年)4月8日)は、昭和時代の日本の弁護士(法学博士)、政治家。元衆議院議員(旧群馬3区選出、日本社会党所属)。社会党左派の論客として名をはせた。衆議院不当財産取引調査特別委員会委員長などの要職を歴任。 1902年1月、群馬県碓氷郡八幡村(現高崎市)に生まれる。1927年、早稲田大学専門部法科を卒業。弁護士開業後、日本借家人組合を組織し委員長になる。1947年、第23回衆議院議員総選挙に社会党公認で旧群馬3区より出馬し衆議院議員に当選。1948年、国会でハンセン氏病の問題を取り上げる。1954年、社会党代議士会長に抜擢される。
萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年… 萬 直次(よろず なおじ、1902年1月5日 - 1973年12月12日)は、日本のジャーナリスト、新聞社経営者。元日本経済新聞社社長。北海道小樽市出身。 1926年に早稲田大学政経学部を卒業し、中外商業新報社(現日本経済新聞社)に入社。政治部記者・編集局次長・工務局長などを歴任し、1945年に取締役となる。その後常務・専務を経て、1956年社長に就任。就任後は積極的な経営政策をとり、設備の近代化・通信網の拡大・マーケティング活動の拡張などを推進した他、1964年には東京・大手町に新社屋を建設した。経済専門紙としての同紙の飛躍的な発展の基を築き、後任社長の圓城寺次郎とともに「中興の祖」と呼ばれる。
小島 正治郎(こじま しょうじろう、1902年(明治35年)… 小島 正治郎(こじま しょうじろう、1902年(明治35年)1月2日 - 1974年(昭和49年)2月23日)は、日本の実業家。西武鉄道社長などを務めた。位階は正四位。 小島卯八の次男として栃木県安蘇郡佐野町(現・佐野市)に生まれる。 佐野中学を経て、1925年早稲田大学商学部を卒業。 駿豆鉄道(のち伊豆箱根鉄道)取締役、東京ゴム(のち西武ゴム化学)、西武鉄道各常務を経て専務となり、1954年、西武ゴム化学、西武鉄道の社長に就任。堤康次郎の片腕として西武鉄道の経営にあたり、康次郎の長女・淑子と結婚している。 康次郎の亡き後の西武グループは運営にあたって集団指導制を採用したが、この体制には中核4社(西武鉄道、国土計画、西武百貨店、西武化学工業)の代表が参加した。
豊増 秀俊(とよます ひでとし、1902年1月 - 1987… 豊増 秀俊(とよます ひでとし、1902年1月 - 1987年11月)は、日本の人文学者。大学などには勤務せず、終生在野の立場で研究に当たった。 豊増竜次郎の次男として佐賀県佐賀市に生まれる。1927年、早稲田大学文学部に入学するが、1930年に学問的理由により退学、独学する。この間、弁証法的唯物論を確信する。 1935年7月、財団法人東亜経済調査会(のち南満州鉄道に合併)に入会する(調査局調査課)。1940年に満鉄を退社し、中華民国新民会(在北京)に入会、専門委員、企画部次長を務める。1941年12月に退職する。1942年1月、中央亜細亜協会(在北京)の設立に参加、主宰となる。1944年4月に退職して日本に帰国する。
根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、… 根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、日本の野球選手・監督。東京都出身。 早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)から茨城県の竜ヶ崎中学校に転校し、1921年の甲子園に投手として出場(初戦で大連商に3-5で惜敗)。早稲田大学では名遊撃手として活躍した。 プロ野球選手としての経歴はないものの、指導者として長く様々なチームに関わった。早大進学後には、合宿を抜け出して母校の竜ヶ崎中学校を泊まり込みで指導し、甲子園に導いている。秋田商や中央大学の監督を経て、1938年に桝嘉一の後任として名古屋軍の監督に就任した。 しかし、当時の名古屋軍は主力が抜けた後でチーム事情が悪く、投手では西沢道夫・松尾幸造、打者では大沢清が活躍するも低迷。
横山 青娥(よこやま せいが、1901年(明治34年)12月… 横山 青娥(よこやま せいが、1901年(明治34年)12月25日 - 1981年(昭和56年)12月20日)は、日本の詩人、国文学者。 高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)生まれ。1927年(昭和2年)に早稲田大学文学部国文科卒業。 1921年(大正10年)、西條八十の門下に入る。『黄金の灯台』『蒼空に泳ぐ』『海南風』等の詩集により、海洋詩人と呼ばれた。 1924年(大正13年)1月、門下生と共に詩誌『棕櫚の葉』を創刊。『棕櫚の葉』は1925年(大正14年)12月に廃刊となるが、渡仏していた八十の帰国と共に1926年(大正15年)5月、全国詩誌『愛誦』が創刊されるとこれに参加、1934年(昭和9年)の廃刊まで編集主宰を務めた。
井伊 玄太郎(いい げんたろう、1901年12月14日 - … 井伊 玄太郎(いい げんたろう、1901年12月14日 - 1998年)は、日本の社会学者。 鳥取県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。早大教授、72年定年退職、名誉教授。社会思想研究会理事、民主社会主義連盟評議員。ジャン・ジャック・ルソー、エミール・デュルケーム、アレクシ・ド・トクヴィルなどを研究・翻訳した。
山本三吾(やまもと さんご、1901年11月17日 - 19… 山本三吾(やまもと さんご、1901年11月17日 - 1964年8月31日)は日本の法学者、翻訳家。山本琴子はその妻。 新潟県生まれ。早稲田大学政治経済科を出て、同大学の講師を務める。その傍ら、『外交時報』に国際法関係の論文を寄稿。L・H・モルガン『古代社会』、マックス・アドラー(英語版)『マルキシズム国家観』(山本琴名義)、『マル・エン全集』23巻の一部などの翻訳を行った。埼玉県で没する。
浅野 延秋(あさの のぶあき、1901年(明治34年)11月… 浅野 延秋(あさの のぶあき、1901年(明治34年)11月10日 - 1969年)は、日本のバスケットボール選手・指導者。早稲田大学で最初の学生バスケットボールチームを組織し、大日本バスケットボール協会の設立に尽力した。 山梨県中巨摩郡落合村(現在の南アルプス市)出身。郷里の小学校を卒業後、成城中学に入学。成城中学はいち早くバスケットボールを受容していた中等学校の一つで、浅野はバスケットボール部の主将を務めた。 1920年、早稲田大学高等学院(早高)に入学。浅野は陸上競技部で同好者を集めてバスケットボールの練習を行い、アメリカ人英語教師スペンサーの指導を受けた。その後、早高にはほかにいくつかのバスケットボールチームが現れた(中山克己は建築科で、冨田毅郎は機械科でチームを結成した)。
銭 鎮漢(チョン・ジンハン、1901年11月5日 - 197… 銭 鎮漢(チョン・ジンハン、1901年11月5日 - 1972年4月22日)は、韓国の労働運動家、政治家である。制憲および第2・3・5・6代国会議員、初代社会部長官。本貫は聞慶銭氏、号は牛村。 韓国の近代協同組合の先駆者である銭俊漢は兄。娘婿の鄭在哲と外孫の鄭文憲(朝鮮語版)も元国会議員。 己未育英会の選抜で日本内地へ留学中の1926年6月、留学生を中心に「協同組合運動社」を組織した。そして協同組合運動の理論研究に取り組む傍らで、朝鮮に宣伝隊を派遣して組織作りに取り組んだ。1927年1月、彼の実兄である銭俊漢によって慶尚北道尚州咸昌面に「咸昌協同組合」が設立され、全国各地に同様の組織が相次いで設立された。
足立 勇(あだち いさむ、1901年〈明治34年〉11月2日… 足立 勇(あだち いさむ、1901年〈明治34年〉11月2日 - 1968年〈昭和43年〉1月11日)は、日本の食物史研究家。 大分県大分町(現大分市)出身、1929年早稲田大学文学部英文科卒。文筆や編集に従事。 1945年豊山中学校(現・日大豊山高校)教師。 (著作したものの権利は現在はなし)
坂井徳三(さかい とくぞう、1901年10月26日 - 19… 坂井徳三(さかい とくぞう、1901年10月26日 - 1973年1月28日)は、日本の詩人である。詩人会議の創立メンバーとして、社会問題にかかわる詩を多く作った。 広島県尾道に生まれる。早稲田大学を卒業後プロレタリア文学運動に参加、はじめは世田三郎というペンネームを使って詩作をしていた。日本プロレタリア文化連盟(コップ)解散後は、壺井繁治、小熊秀雄らとともに、諷刺詩集団〈サンチョ・クラブ〉に属した。1936年、世田三郎名で詩集『百万人の哄笑』を時局新聞社より刊行するも、すぐに発禁となる。 その後中国に渡り、北京で終戦を迎える。戦後帰国してからは、新日本文学会に参加、その後は詩人会議の創立に加わり、民主主義詩運動のメンバーとして活動した。
寿岳 しづ(じゅがく しづ、1901年〈明治34年〉10月2… 寿岳 しづ(じゅがく しづ、1901年〈明治34年〉10月23日 - 1981年〈昭和56年〉6月27日)は、日本の英文学者、随筆家。 大阪市生まれ。旧本名・岩橋 静子。梅田高等女学校中退。 日本ライトハウスの創始者で愛育事業を行った岩橋武夫の妹。兄武夫が早稲田大学在学中に失明し関西学院に転じたため、兄の杖がわりとなって一緒に通学、ノートをとるなどして助けた。1923年に英文学者・寿岳文章と結婚。1927年に小説『朝』を発表した後、1933年に居を京都府乙訓郡向日町(現・同府向日市)に移した。1937年、ウィリアム・ハドソンの『はるかな国・とほい昔』を翻訳するなど、文筆活動に活躍。 文章とともに和紙の研究を行い、1943年に共著『紙漉村旅日記』を私家版で刊行。
稲垣 達郎(いながき たつろう、1901年10月21日 - … 稲垣 達郎(いながき たつろう、1901年10月21日 - 1986年8月13日)は、日本近代文学の研究者である。
西田 隆男(にしだ たかお、1901年〈明治34年〉10月1… 西田 隆男(にしだ たかお、1901年〈明治34年〉10月13日 - 1967年〈昭和42年〉9月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、労働大臣(第10代)。 福岡県嘉穂郡稲築町(現嘉麻市)に生まれる。1924年早稲田大学専門部法科を卒業。炭鉱夫から身を起こし、やがて筑前炭鉱・第二筑前炭鉱の経営者となる。1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧福岡2区より立候補し当選。民主党に所属する。炭鉱国管疑獄では、1948年衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている。その後、参議院福岡県選挙区に転じ2回当選。国民民主党解党後の改進党結党には参加せず、院内会派民主クラブに参加した。
西野 綱三(にしの こうぞう、1901年10月6日 - 19… 西野 綱三(にしの こうぞう、1901年10月6日 - 1984年6月15日)は、日本の元ラグビー選手及び同監督。
神部 孝(かんべ たかし、1901年9月4日 - 1938年… 神部 孝(かんべ たかし、1901年9月4日 - 1938年6月15日)は、日本の翻訳家、フランス文学者。 1901年9月4日、静岡県駿東郡楊原村(現・沼津市)に生まれる。 1925年に早稲田大学フランス(佛蘭西)文学科を卒業後、同学科の教員となった(1925年9月−1938年6月)。 1938年6月15日、36才で没しており、後輩である根津憲三は『サランボオ』解説に「この作品の訳者は今から十数年まへの夏、いまだ春秋に富む身を、恵まれた文才を惜しまれながら他界の人となつた」と記している。また、早稲田大学百年史には「神部孝は大正十四年の仏文科卒業生で、昭和三年『文学思想研究』に「メリメ研究」を発表、大学では「テーヌ研究」などの講座を担当、その将来を嘱目された。
横山 隆良(よこやま たかひさ、1901年(明治34年)9月… 横山 隆良(よこやま たかひさ、1901年(明治34年)9月4日 - 1977年(昭和52年)8月24日)は、昭和期の華族(男爵)。加賀八家横山家第15代当主。 加賀藩重臣横山家第14代当主、男爵横山隆俊の子として生まれる。1934年2月15日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 早稲田大学法学部を卒業。大学卒業後、浅野物産に入社し、重役まで昇進した。その他、小野慈善院評議員、北陸大亜細亜協議会会頭、鶴来通運社長、北陸鉄道常務、石川県乗合自動車運送事業組合専務理事などを務めた。 長隆 - 長知 - (康玄) - 忠次 - 玄位 - 任風 - 貴林 - 隆達 - 隆従 - 隆盛 - 隆章 - (隆貴) - 隆平 - 隆俊 - 隆良 - 隆昭
佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - … 佐藤 観次郎(さとう かんじろう、1901年8月19日 - 1970年3月3日 )は、愛知県出身の日本の政治家、ジャーナリストである。衆議院議員8期(日本社会党所属)、中央公論編集長を務めた。愛称はサトカン。
笠原 貞造(かさはら ていぞう、1901年(明治34年)8月… 笠原 貞造(かさはら ていぞう、1901年(明治34年)8月8日 - 1985年(昭和60年)3月19日)は、昭和期の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県出身。1928年(昭和3年)早稲田大学専門部政経科を卒業した。 卒業後は東京市牛込区役所に勤務し、書記、社会課、福利課各主任となり、1935年(昭和10年)に退職し、弁護士の業務に従事。社会大衆党新潟県連合会執行委員、全国農民組合新潟県連合会執行委員、日本農民組合新潟県支部連合会書記長などを務めた。その他、新潟県地方通貨安定推進委員会長、新潟県地方労働委員会長、新潟市教育委員、新潟県弁護士会長、日本弁護士連合会理事、同副会長、新潟県市町村教育委員連合会長などを務めた。
雲井 浪子(くもい なみこ、本名:坪内操、旧姓:高井、190… 雲井 浪子(くもい なみこ、本名:坪内操、旧姓:高井、1901年(明治34年)7月23日 - 2003年(平成15年)8月20日)は、元宝塚少女歌劇団主演娘役で宝塚歌劇団卒業生。兵庫県津名郡洲本町出身。 夫は演劇評論家、早稲田大学教授の坪内士行。娘に女優の坪内ミキ子がいる。実姉は同じく宝塚歌劇団1期生で宝塚歌劇団卒業生の八十島揖子、実妹は宝塚歌劇団16期生で宝塚歌劇団卒業生の緒島なほ子(本名:高井秀子)。義理の叔父は坪内逍遥、逍遥の養女は飯塚くに。 芸名は小倉百人一首の第76番:法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)の より、宝塚歌劇団創設者の小林一三によって命名された。 1913年7月、湊山尋常高等小学校(後の神戸市立湊山小学校)を卒業した後、宝塚唱歌隊(同年12月に宝塚少女歌劇養成会に改称。
稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉… 稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉7月12日 - 1930年〈昭和5年〉4月15日)は、三重県名張市出身の歌人。 1901年(明治34年)に、三重県名張市本町の煙草元売捌商・稲森惣兵衛の長男として生れた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)を卒業し、1921年(大正10年)、20歳の時、第一早稲田高等学院政治経済学科入学。学院時代から歌人・窪田空穂教授に師事。和歌を作り始めた。早稲田同人誌『自画像』に和歌や小説を発表し、島村民蔵主催の演劇研究会に参加するなど活躍し、その機関誌に戯曲も寄稿していた。 早稲田大学国文学科に進んだ宗太郎は、三重県立第一中学校時代の2年先輩の中谷孝雄と、中谷の友人・梶井基次郎からの誘いで、彼らと一緒に同人誌『青空』の創刊メンバーとなった。
慎 重穆(シン・ジュンモク、朝鮮語: 신중목/愼重穆、190… 慎 重穆(シン・ジュンモク、朝鮮語: 신중목/愼重穆、1901年7月1日または1902年7月1日 - 1982年12月31日〈陰暦11月17日〉)は、大韓民国の政治家。昌原郡守、居昌郡守、第2代韓国国会議員、第7代農林部長官、初代農協中央会長を歴任した。 号は素岡(ソガン、소강)。本貫は居昌慎氏。 慶尚南道居昌郡南上面出身。1918年に早稲田大学政経科を修了した後は居昌郡庁で勤務していた。1932年に居昌郡書記として勤務する時には賄賂事件により懲役10か月の刑を宣告された。その後は1936年に創立された居昌薬酒合名会社の支配人を務め、1937年と1938年の朝鮮酒類品評会で優等賞を獲得した。1938年には居昌邑で郡内初の養魚場を開設し、養魚を行った。
明石 信道(あかし しんどう、1901年7月 - 1986年… 明石 信道(あかし しんどう、1901年7月 - 1986年)は昭和期に活動した日本の建築家。早稲田大学名誉教授。 函館市青柳町生まれ。生家は函館の名家堀川家で五男坊。同地の願乗寺川を掘削し、函館発展に尽力した真言本願寺派の僧侶・堀川乗経は祖父、英国人地震学者ジョン・ミルンと結婚したトネ・ミルンは伯母。 新川小学校を経て道立函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)を卒業後に上京。23歳の時に母方の名跡で松前藩重臣であった旧家明石家の養子となって家を継ぎ明石姓となる。その後トネのアドバイスにより、信道は早稲田大学理工学部建築科に進学。1928年に卒業。 在学中に新宿の映画館・武蔵野館のオーナーの依頼を受け、設計を担当。
比嘉 秀平(ひが しゅうへい、1901年(明治34年)6月7… 比嘉 秀平(ひが しゅうへい、1901年(明治34年)6月7日 - 1956年(昭和31年)10月25日)は、沖縄県の官僚、教育者、琉球政府の政治家。1952年4月から1956年10月まで琉球政府行政主席を務めた。琉球民主党初代総裁。 沖縄県中頭郡読谷村に生まれる。小学校時代に事故で右腕を失うも、勉学に励み、1925年(大正14年)早稲田大学文学部英文学科を卒業する。 和歌山県の高野山中学に勤務後、約20年間の教員生活を送り、母校である沖縄県立第二中学校の教諭および沖縄県立第三中学校の教頭を務める。 沖縄戦では県立第三中学校の学徒隊を率いたが生還し、終戦後、沖縄民政府に採用されて、翻訳課長や官房長などを歴任した。
笹野 堅(ささの けん、1901年〈明治34年〉6月6日 -… 笹野 堅(ささの けん、1901年〈明治34年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉11月6日)は、日本の国文学者。号は葵園。 静岡県志太郡藤枝町出身。静岡県立静岡中学校を経て、1927年、早稲田大学文学部国文科卒業。東京帝国大学文学部国文学研究室藤村作のもとで学び、1929年、同文学部副手、1930年、東京女子大学教授を兼任。北京師範大学、善隣大学教授を歴任した。 広島市で缶詰製造・精米業を営み広島市会議員や広島女子商業初代理事長等をつとめた笹野雄太郎の長男である。 狂言研究の先駆者として知られ、天正狂言本を初めとする狂言の諸資料を発掘、調査、紹介し、文献資料に基づく狂言研究の基礎を築いた。
山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 19… 山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 1996年7月8日)は、日本の歌人、出版者、実業家。 兵庫県赤穂郡上郡町の酒造家に生まれる。早稲田大学文学部国文科卒。窪田空穂のもとで作歌、1926年『槻の木』を創刊、尾崎一雄らと同人誌を出し、1935年砂子屋書房を創業。43年には廃業し、実家の山崎酒造の社長を務めた。砂子屋ははじめ「まなごや」と読ませるつもりだったが、人々が「すなこや」と呼ぶためこれに任せた。
高 権三(コ・グォンサム、朝鮮語: 고권삼/高權三、1901… 高 権三(コ・グォンサム、朝鮮語: 고권삼/高權三、1901年5月31日 - 没年不詳)は、大韓民国の歴史学者であり政治学者である。済州島出身。『大阪と半島人』(1938年)著者。 祖先は世宗時代最後の87代漢城府尹であった済州高氏の高得宗。祖父は李氏朝鮮王朝末期の官吏であり、旌義、高敞の県監を歴任した高啓正。兄は独立運動家で初代済州道城山面長の高殷三。 1921年5月1日、城山青年会(旌義面城山里)創立。『消費組合設立の件」「労働夜学開設の件」をここで決議するなど早くから無産階級を視野においた政治活動を行っていた。その後日本に渡り、1927年3月に早稲田大学政治経済学部を卒業。卒業後も同大学院研究室に残り歴史研究を続けた。
河野 謙三(こうの けんぞう、1901年(明治34年)5月1… 河野 謙三(こうの けんぞう、1901年(明治34年)5月14日 - 1983年(昭和58年)10月16日)は、日本の政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 参議院議員(5期)、衆議院議員(1期)、参議院議長(第11・12代)を歴任した。 神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)に河野治平、タミ夫妻の三男として生まれる。河野一郎は兄、河野洋平は甥に当たる。 神奈川県立小田原中学校(現在の神奈川県立小田原高等学校)時代から長距離選手として活躍し、早稲田大学在学中は競走部(陸上競技部)に入り、兄一郎と共に箱根駅伝の選手として活躍、2度の総合優勝を経験した。第3回大会では区間2位の選手に10分37秒差をつけた。
壷田 修(つぼた おさむ、1901年5月1日 - 1981年… 壷田 修(つぼた おさむ、1901年5月1日 - 1981年2月9日)は、日本の鉄道官僚、経営者。南海電気鉄道社長、会長を務めた。 三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)出身。1926年、早稲田大学在学中に高等文官試験行政科に合格。1927年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に鉄道省に入省。札幌鉄道管理局、陸軍司政長官、運輸省での勤務を経て、1947年5月に退官し、同年6月に南海電気鉄道取締役に就任。 常務、専務を経て、1956年11月に副社長に就任し、1959年6月には社長に昇格。1966年10月に会長に就任し、1968年4月には顧問に就任。南海ホークスオーナーも務めた。 1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。
勝野 金政(かつの きんまさ、1901年4月9日 - 198… 勝野 金政(かつの きんまさ、1901年4月9日 - 1984年1月13日)は、日本の作家・思想家である。パリ、モスクワに滞在中フランス共産党員、ソ連共産党員として活動し、大粛清に遭遇してラーゲリに収容されながら、日本への帰国を果たした。21世紀においては、大粛清に対する先駆的批判者として「日本のソルジェニーツィン」と紹介されることもある。 長野県木曽郡読書村(現南木曽町)に生まれる。島崎藤村とは旧知であり、若いころから文学に憧れた。1914年旧制愛知一中に入学。1919年早稲田大学に入学し、フランス文学、ロシア文学を専攻する。在学中の1924年(大正13年)、フランスに留学、パリ大学で学び、フランス共産党に入党した。
中野 武雄(なかの たけお、1901年(明治34年)4月3日… 中野 武雄(なかの たけお、1901年(明治34年)4月3日 - 1969年(昭和44年)6月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 京都府出身。1929年(昭和4年)早稲田大学英法科を卒業し、さらに同大学院で学んだ。その後、醤油醸造、食料品製造業を営む。 京都市会議員、同参事会員となる。京阪伏見桃山農業会連合会長、京都市開拓協会長、鳳凰醸造監査役、日本食料専務取締役、伏見小運搬取締役社長、近畿砂利社長、京都伏見農業協同組合連合会顧問などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に京都府選挙区から日本自由党公認で出馬して初当選。以後、京都府第2区から出馬して第25回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続4期在任した。
中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 19… 中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 1996年3月30日)は、日本の英文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 茨城県土浦市生まれ。茨城県立土浦中学校を経て、1921年早稲田大学高等師範部英語科卒業。早稲田中学校専任教諭となり、46年まで務める。戦後47年母校講師、48年助教授、49年早大教育学部教授、71年定年退任、名誉教授。多くの翻訳をおこなった。
橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 … 橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 - 1990年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、運輸大臣(第40代)、建設大臣(第19代、第26代)、内閣官房長官(第27代、第28代)、自由民主党幹事長(田中内閣)、自由民主党総務会長(佐藤内閣)などを歴任した。 茨城県行方郡潮来町(現:潮来市)の回送問屋の家に生まれた。当初父は「三郎」という名を考えていたが、親戚が生まれた子供に三郎と名づけたので、母親の名前をつけて「登美三郎」と命名したという。旧制佐原中学(現:千葉県立佐原高等学校)から、早稲田大学政治経済学部に入学。在学中は雄弁会に所属し、「闘将」と称された。 1927年(昭和2年)に大学卒業後、朝日新聞社に入社する。
植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月2… 植竹 圓次(うえたけ えんじ、1901年(明治34年)2月28日 - 1977年(昭和52年)11月16日)は、ジャーナリスト・政治家。第16 - 18代八王子市長を務めた。 1901年(明治34年)2月28日東京府八王子町元子安(現八王子市子安町)で三男として生まれる。町立第三尋常小学校(現八王子市立第三小学校)、攻玉社中学校、早稲田高等学院を経て1927年(昭和2年)早稲田大学政治経済学部を卒業。在学中に高等文官試験行政科に合格するも東京日日新聞社(現毎日新聞社)に入社。1936年(昭和11年)には整理部長、1948年(昭和23年)には毎日小学生新聞部長、1954年(昭和29年)には地方部長兼地方版編集長となり1956年(昭和31年)定年退職。
清水 康雄(しみず やすお、1901年2月17日 - 196… 清水 康雄(しみず やすお、1901年2月17日 - 1966年9月9日)は、日本の経営者。清水建設元社長。東京都出身。 1923年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、同年に清水組に入社。 1937年に取締役に就任し、1940年には社長に昇格。 1956年に藍綬褒章を受章。 1966年9月9日肺炎のために死去。65歳没。
吉田 暎二(よしだ てるじ、1901年〈明治34年〉2月5日… 吉田 暎二(よしだ てるじ、1901年〈明治34年〉2月5日 ‐ 1972年〈昭和47年〉9月30日)とは、大正から昭和にかけての浮世絵・歌舞伎の研究家。 東京本所区(現在の墨田区)の東両国で生まれる。父は東海銀行支店長の吉田源次郎。1907年(明治40年)相生尋常小学校に入学、1914年(大正3年)東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校・附属中学校)に入学。1919年(大正8年)早稲田大学露文科に入学したが、のちに関東大震災により中退する。1924年(大正13年)東京歌舞伎座に入社、雑誌『歌舞伎』、『歌舞伎研究』の編集を担当する。1927年(昭和2年)に歌舞伎座を退社、その後高見沢木版社、また北光書房に勤務することがあった。
高野 実(たかの みのる、1901年1月27日 – 1974… 高野 実(たかの みのる、1901年1月27日 – 1974年9月13日)は、日本の労働運動家。元日本労働組合総評議会(総評)事務局長。長男にジャーナリストの高野孟が、二男に気功師の津村喬がいる。
梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月… 梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月15日 - 1946年〈昭和21年〉4月5日)は、日本の作家・編集者。本名は梅原 貞康。昭和初期のエログロナンセンス文化を代表する出版人である。宗教研究家の梅原正紀は息子。別名・烏山朝太郎、談奇館主人、大塚倭堂、吾妻大陸ほか多数。 1901年、富山県富山市の士族の次男として生まれる。父・貞義は生命保険の代理店を営んでおり、生活はゆとりがあったとされる。京都の平安中学を卒業し、早稲田大学予科に進学。同校在学中に片山潜のグループと接し、社会主義思想に触れた。1920年に中退して関西で部落解放運動に従事。1924年から新聞社や雑誌社に勤める傍ら小説を執筆。
佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 199… 佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 1992年4月19日)は、日本の内務官僚、詩人。 岩手県江刺郡米里村(現:奥州市江刺米里)出身。本名は慎一。1925年早稲田大学文学部仏文科卒。内務省に入り、情報局文芸課に勤務。児童向け書籍の統制に大きな役割を果たす。第二次世界大戦後は岩手県庁に勤めたのち、1973年盛岡大学短期大学部生活学園短期大学教授。1985年退職。大学在学中から詩作を始め、1931年詩集『北の貌』を刊行。「詩洋」「文学表現」「風」同人。児童文化運動にも関わり、1964年岩手県教育功労者。 1941年(昭和16年)12月23日に児童文化の統制団体として発足した日本少国民文化協会の設立にあたっては、民間側の城戸幡太郎、波多野完治、百田宗治、上村哲弥、藤田圭雄、吉田甲子太郎、滑川道夫、羽仁説子、稲田達雄、武井武雄とともに官側(内務省)の設立準備委員を務めた。
森崎 小平(もりさき こへい、1901年(明治34年) - … 森崎 小平(もりさき こへい、1901年(明治34年) - ?)は、日本の技術者、発明家。 早稲田大学附属工学校電気科、東京工学院(現在の東京工学院専門学校)電気高等科を卒業した。1923年(大正12年)に電気事業主任技術者資格検定の第二種試験に合格し、逓信省電気試験所第五部(蓄電池研究部)に奉職した。1924年(大正13年)に辞め、東京市三徳商会と提携して蓄電池と充電器の製造販売に従事した。1927年(昭和2年)に神戸電機製作所に入所した。