伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月2… 伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月23日 - 1965年(昭和40年)12月10日)は、臨済宗僧侶・仏教学者。 東京・北品川の沢庵宗彭ゆかりの臨済宗春雨寺に生まれる。1912年早稲田大学文学部和漢文学科卒。早稲田第一高等学院教授、高等師範部教授、1942年早大教授。61年定年退任、名誉教授。1941-59年早稲田大学仏教青年会会長。中世文学、仏教文学を教えた。のち春雨寺主管。
川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 … 川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 - 1983年9月6日)は、日本の工学者、早稲田大学名誉教授。日本におけるテレビジョン研究において、高柳健次郎と並ぶ第一人者。 同郷の宇田新太郎、盛永俊太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡下野方村(現・魚津市)に生まれ、素質を認められ地元の医師の支援のもとで働きながら苦学し、魚津町立魚津尋常高等小学校(後の魚津市立大町小学校、現在は魚津市立よつば小学校に統合)→魚津中学校(現富山県立魚津高等学校)を経て早稲田大学大学部予科に入学。1915年早大理工科電気工学科卒業。早稲田大学助教授としてイギリスに留学した際、ロンドン大学のテレビジョン実験に感銘を受ける。
名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975… 名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975年)は、日本の思想史学者、芸術学者。 長野県諏訪郡落合村(現・富士見町)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、長野師範学校を卒業後、小学校に2年勤務後、1918年早稲田大学文学部卒業。 日本美術学校(後の日本美術専門学校)講師。1929年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授。1934年同校校長 北昤吉に学校二分案を提示し、翌1935年、同盟休校事件が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)が分離独立。1948年1月造型美術学園(現・武蔵野美術大学)経営顧問。1948年11月武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)校長。
崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年… 崔南善(チェ・ナムソン、1890年4月26日 - 1957年10月10日)は朝鮮の詩人、ジャーナリスト、歴史家である。号は六堂(ユクタン)。本貫は東州崔氏。
菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 19… 菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 1990年2月4日)は、日本の政治家、植民政策学者。自由民主党衆議院議員。日本商科大学(廃校)の学長も務めた。
原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年… 原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年1月6日)は、日本の教育学者、作家、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 千葉県朝夷郡丸村に生まれる。千葉県立安房中学校(現・安房高等学校)を卒業。その後、早稲田大学高等師範部卒。 若山牧水と交流し、牧水が主宰する詩歌雑誌『創作』(1910年創刊)や太田水穂の『潮音』(1915年創刊)に短歌や歌論を精力的に発表。歌人として注目されたが、その後は学者の道で大成することとなった。 1918年、『青鞜』(1911 - 1916)や『潮音』などに「斎賀琴」あるいは「斎賀琴子」名義で短歌や小説を発表していた斎賀こと(1892 - 1973)と結婚。 雑誌『教育時論』編集長、1946年早大教授。
河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年(明治22年)6月… 河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年(明治22年)6月9日 - 1967年(昭和42年)11月15日)は、日本の演劇学者。位階は従四位。学位は文学博士。文化功労者。旧姓は市村(いちむら)。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館館長を務め、歌舞伎史、比較演劇を中心に演劇史を研究した。 1889年、長野県下伊那郡山本村(現・飯田市)に市村保三郎の三男として生まれる。旧制飯田中学まで毎日10キロ程徒歩で通学。1911年、早稲田大学英文科卒業。在学中、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所に入り、俳優・演出助手を務める。 同年、逍遥の推薦で河竹黙阿弥の娘・糸女の養子となる。1920年、帝国劇場文芸部に嘱託として勤務し、のちに技芸学校主事を務める。
遊佐 慶夫(ゆさ よしお、1889年(明治22年)1月18日… 遊佐 慶夫(ゆさ よしお、1889年(明治22年)1月18日 - 1944年(昭和19年)11月17日)は、日本の法学者。専門は、民法・信託法制。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1925年)(学位論文「信託法提要」)。早稲田大学初の法学博士。早稲田大学教授を歴任。 1889年1月18日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)に生まれる。 1911年、早稲田大学専門部法律科を卒業する。1914年から1916年にかけてベルリン、ロンドン、ベルンへ留学し、帰朝後に早稲田大学助教授に就任する(後に教授となる)。1920年4月から1942年7月まで専門部法律科長となり、同年7月から1944年11月まで法学部長となる。
上坂 酉蔵(酉三、こうさか とりぞう、1888年(明治21年… 上坂 酉蔵(酉三、こうさか とりぞう、1888年(明治21年)12月15日 - 1976年(昭和51年)4月4日)は、日本の商学者。早稲田大学名誉教授。商学博士。宮城県生まれ。 宮城県気仙沼市魚町出身。1914年(大正3年)に早稲田大学高等予科に入学し、翌年 大学部商科に進学。1918年(大正7年)早稲田大学商科卒業。 水産加工の実務に従事しながら苦学し、29歳で大学卒業。1918年4月増田貿易株式会社に入った後、1925年(大正14年)早稲田大学講師となり、翌年 早大留学生としてイギリス、ドイツに各1年滞在。ヨーロッパ留学後、1928年4月帰国し助教授に就任。翌1929年(昭和4年)教授となり日本の貿易と商学についての研究を重ねる。
本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1… 本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1974年10月10日)は、日本の民俗学者、文学碑研究家、文筆家。本名・豊治。孫は漫画家の本山一城。 長崎市出島町出身。1912年早稲田大学政治経済科卒。民俗および民芸の研究に従事し「日本民俗図誌」全20巻、「生活民俗図説」などの著書がある。戦後、金石文化研究所を主宰。その他実用書を含めて多種多様な著作をもつ。
金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1… 金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1日 - 1958年〈昭和33年〉8月2日)は、長野県茅野市出身の美学者、美術史学者。昭和期の歌人。帝国美術学校教授。旧姓は河西。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市湖東区)の河西家に生まれ、北安曇郡大町の金原家の養子となる。1910年長野師範学校卒業後に諏訪郡湖南小学校(現在の諏訪市湖南小学校)の訓導となるが上京し、正則英語学校を経て、1915年早稲田大学文学部哲学科を卒業する。さらに同大研究科で東洋美学、東洋美術史を研究。 1921年より日本美術学校教授、1929年より帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授(1935年、校長北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立)。
毛利 宮彦(もうり みやひこ、1887年(明治20年)8月2… 毛利 宮彦(もうり みやひこ、1887年(明治20年)8月25日 - 1957年(昭和32年)1月27日)は、日本の図書館学者、早稲田大学図書館員・講師。日本の図書館学の創成に大きく関わる草分けの1人であり、早稲田大学新図書館の設計図案を作成するなど図書館施設・設備にも高い関心を示した。 1887年8月25日、士族である毛利義保・鋺子の子として愛知県に生まれる。 1912年、早稲田大学大学部文学科英文学科第一部を卒業し、早稲田大学図書館の図書館員となる。1915年5月から1916年7月まで、図書館・大学研究室制度の研究のためにニューヨーク公共図書館附属ライブラリースクールに留学する。帰国した後、1916年10月9日から山形県山形市で開催された第11回全国図書館大会において「個人と公衆図書館」という演題で講演を行う。
坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月1… 坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月16日 - 1986年〈昭和61年〉3月19日)は、日本の演劇評論家、早稲田大学教授、戯曲家、振付師。女優・坪内ミキ子の父。 現在の愛知県名古屋市に生まれる。坪内逍遥の兄・義衛の三男で、逍遥に子がなかったため7歳のときに養子となった。旧制早稲田中学校を経て、1909年(明治42年)早稲田大学文学部英文科卒業。その後、ハーバード大学に留学して演劇を学び、1915年(大正4年)に帰国。翌年、留学中深い関係となったアメリカ人女性マッグラルド・ホームズが後を追って日本に来た。しかし逍遥は士行に娶合わせるつもりで鹿嶋清兵衛の娘のくにを養女にしており、この関係を許さなかった。
稲毛 金七(いなげ きんしち、1887年(明治20年)6月5… 稲毛 金七(いなげ きんしち、1887年(明治20年)6月5日 - 1946年(昭和21年)3月14日)は、日本の教育哲学者。早稲田大学教授、同高等学院教授、同評議員。号は詛風。 山形県東置賜郡漆山村(現在の南陽市)出身。郷里の高等小学校を卒業後、代用教員、準教員、小学校正教員を務めた。1906年(明治39年)、上京して早稲田大学文学部哲学科に入学し、1907年(明治40年)に修身科の中等教員検定に、1911年(明治44年)に教育科の中等教員検定に合格した。1912年(明治45年)に早稲田大学を卒業した後は中央公論社、内外教育評論社に関係した後は、雑誌「教育実験界」の主筆となったが、後に自己経営に移し「創造」と改題した。
高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 196… 高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 1965年5月25日)は宗教家、哲学者、教育者。 金光教第二世代の代表的人物。金光教学院長として数多くの若者を育てるとともに、金光教教監(現在の教務総長に相当する役職)として現在の金光教団の基礎を確立し、現在の金光教に続く結界取次を中心とする人間の生き方や、ゆるやかで自己内省的な教義を広めた。
坂崎 坦(さかざき しずか、1887年(明治20年)3月18… 坂崎 坦(さかざき しずか、1887年(明治20年)3月18日 - 1978年(昭和53年)1月4日)は日本の美術史家。美術評論家・坂崎乙郎の父。西洋音楽史家・坂崎紀の祖父。 兵庫県生まれ。早稲田大学英文科卒業。1914年 朝日新聞社に入社。1921年から2年間フランス留学。美術記者から学芸・調査両部長、編集局顧問などを歴任。1936年 文学博士号(早稲田大学)を取得。1942年 朝日新聞社を定年退社。早稲田大学教授、女子美術大学教授、同短大学部長、実践女子大学教授、武蔵野女子大学教授を歴任。紫綬褒章、勲三等瑞宝章を受章。
市川 又彦(いちかわ またひこ、1886年12月13日 - … 市川 又彦(いちかわ またひこ、1886年12月13日 - 1982年11月11日)は、日本の英文学者、早稲田大学名誉教授。 東京市牛込に生まれる。1909年早大英文科卒。1910-1912年英国留学。1913年博文館に入り『英語世界』を編集。坪内逍遥に師事し、1926年早大講師、のち教授、1957年定年、立正大学教授、1976年退職。ジョージ・バーナード・ショーを主として研究・翻訳した。
田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954… 田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954年10月30日)は、日本の教育社会学者。 山形県置賜郡添川村(現・飯豊町添川)生まれ。山形県立米沢中学校卒、1907年早稲田大学文学部文学科卒。新潟県立高田中学校教諭、1913年に退職して上京、大日本文明協会で翻訳の仕事をする。1915年大日本文明協会編集部員。1946年早大文学部講師。のち教育学部講師を兼ねる。
鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年… 鈴木悦(すずき えつ、1886年10月17日 - 1933年9月11日)は、著作家・記者・労働運動の指導者・大学講師。 レフ・トルストイの『戦争と平和』の全訳やカナダでの労働組合運動で知られる(後述)。 鈴木と田村の文学碑が、豊橋市高師緑地の駐車場の西側にある。二人の顔のレリーフと瀬戸内寂聴の撰文が組み合わされており、高さは約5メートルである。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
安部 立郎(あんべ たつろう、1886年2月6日 - 192… 安部 立郎(あんべ たつろう、1886年2月6日 - 1924年2月29日)は、日本の図書館員、郷土史家。 埼玉県川越市生まれ。1903年埼玉県立川越中学校卒業、1909年早稲田大学政治経済学科卒業。学生時代は外交官志望であった。中学時代から図書館設立に努め、学生団体の学生同志会を創設すると、1906年に川越市内に同志会図書館を設立した。1913年には川越尋常高等小学校の図書館と合併し、私立川越図書館となり、同図書館の理事に就任した。1918年に町立川越図書館となると司書として勤務し、郷土資料の収集に努め、近世の地誌類を翻刻する川越叢書の刊行にあたった。資料の収集は文献のみならず、考古資料の調査研究にもあたり、考古学会や東京人類学会の会員となったほか、1919年には梅原末治の紹介により史学研究会に入会した。
野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、188… 野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、1885年〈明治18年〉11月15日 - 1977年〈昭和52年〉10月30日)は、日本の英文学者・随筆家・天文民俗学者。早稲田大学文学部英文学科卒業。準惑星である冥王星の和訳命名者。 古今東西の星座・星名を調べ上げたことから「和製アレン」とでも言うべき存在でもあった。とくに、星の和名の収集研究で知られる。日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多い。若くして文学に興味を持ち、小泉八雲に傾倒した。星の和名の収集を始めたのは40歳を過ぎてからであった。 「抱影」という雅号は、早稲田大学文学部在学中、文芸誌「白百合」に作品を掲載するにあたり前田林外が金剛経の一節「夢幻泡影」から考案し、岩野泡鳴、相馬御風と相談して決めたものである。
伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月… 伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月17日 - 1964年〈昭和39年〉8月11日)は、日本の英語学者、早稲田大学商学部教授・理事・名誉教授、日本商業英語学会理事。ペンネーム(略号)はE.D.T.。 1884年(明治17年)6月17日、宮崎県西諸県郡加久藤村(現在の宮崎県えびの市)にて、伊地知章平・たつ夫妻の間に生まれる。宮崎県立宮崎中学校3年の時、英文によって自分の意見を発表することを決意する。 1902年(明治35年)7月にあった旧制高等学校の入学試験を病気のために諦め、1903年(明治36年)9月の早稲田大学の編入試験を受けて早稲田大学商科高等予科に入学する。1904年(明治37年)、早稲田大学大学部商科に第一回生として入る。
白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1… 白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1月7日 - 1950年〈昭和25年〉11月9日)は、日本の小説家、社会評論家、歴史家。 静岡県引佐郡気賀町(現・浜松市浜名区細江町)生まれ。本名は武司。15歳で書生として日本郵船重役宅に住み込み、郁文館中学校で島崎藤村を愛読し文学に興味をもち、早稲田大学文学部哲学科に進学。在学中から堺利彦の社会主義思想に影響を受け、1904年加藤時次郎の直行団に加入、消費組合運動の機関誌である月刊「直言」に協力。1905年中里介山らと火鞭会を創立し、機関誌「火鞭」を創刊(1905年9月-1906年5月。9号)、プロレタリア文学運動の先駆をなす。1907年大学卒業後、隆文館編集記者となり、麻布三連隊に志願入隊し、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を『新小説』1907年12月に発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。
武田 豊四郎(たけだ とよしろう、1882年〈明治15年〉 … 武田 豊四郎(たけだ とよしろう、1882年〈明治15年〉 - 1958年〈昭和33年〉7月30日)は、日本の仏教学者、民俗学者。早稲田大学仏教青年会初代会長。
会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年… 会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年〈明治14年〉8月1日 - 1956年〈昭和31年〉11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人・渾斎。1951年に新潟市名誉市民。 早大英文科卒。奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、『南京新唱』(1924年)を刊行。のち上京、早大教授となり、「東洋美術史」等を講じた。晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』(1940年)など。 新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。
土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 … 土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 - 昭和22年(1947年)4月20日)は、山梨県出身の郷土史家。号は節堂。 山梨県東山梨郡七里村(現・甲州市塩山)に、父「作甫」、母「ただ」の長男として生まれる。土屋昌次の子孫。明治28年(1895年)4月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、明治33年に卒業とともに早稲田大学に進学し坪内逍遥に師事。明治37年(1904年)3月に卒業した。 卒業後、山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)に勤務、明治38年12月には一年志願兵として近衛歩兵第2連隊に入隊。除隊後の明治40年5月に甲府市立商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)、大正13年5月に山梨県女子師範学校、大正15年10月に山梨県立山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に勤務し、昭和15年(1940年)3月の退職後も山梨県立農林学校、山梨県立日川中学校において嘱託講師として勤務するなど、40年にわたり歴史の教員を務めている。
杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉… 杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉4月9日 - 1968年〈昭和43年〉12月8日)は、日本の倫理学者・思想学者・政治学者・社会学者。旧姓は白松(しろまつ)、号は南山。 静岡県小笠郡南山村生れ。12歳で同郡賀茂村の医師である白松家の養子となる。14歳で東京に遊学し、上野図書館で独学生活を送った後、独逸協会中学校・数学館の第五学年編入試験に合格し、入学をした。その後、医師を目指して千葉医学専門学校に進学したが、進化論の講義を聞いた際「こんな学問があるのなら、医学など学んでいられない」と発意し、2年次に千葉医専を自主退学して白松家から学資援助を含む養子縁組を外された。その後、神田に私塾専修学院を創設。
押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日… 押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1944年〈昭和19年〉3月18日)は、日本のアマチュア野球選手、編集者、起業家。 早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。 父は牧師で東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。長男は劇作家の押川昌一。 現在の宮城県仙台市出身(愛媛県松山市出身と書いてある資料もあるが、押川家は1880年から仙台在住である)。 仙台では1887年(明治20年)9月に、米国聖公会の宣教医であったフランク・ハレルが、第二高等中学校(後の旧制二高、現・東北大学)の教師の就任すると、ハレルは野球道具を持ち込み学生たちに野球を教え、仙台に野球が伝えられた。
張 孝栘(ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は、清末… 張 孝栘(ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は、清末民初の司法官・法学者。字は棣生。別号は逖省。 日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。帰国後は京師法政学堂及び京師法律学堂の教習(教官)となる。以後、修訂法律館纂修、憲法編査館科員、北京政府大理院推事を歴任した。1915年(民国4年)、総検察庁首席検察官に任命される。1928年(民国17年)4月、総検察庁検察長暫定代理となった。その後、国立北平大学法学院教授、国立北京大学法律系講師、河北省立法商学院法律系教授を歴任している。 1937年(民国26年)12月、北京に中華民国臨時政府が成立すると、張孝栘もこれに参与する。
大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月2… 大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月20日 - 1955年(昭和30年)11月30日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 兵庫県赤穂郡若狭野村(現相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれ、17歳の時に神戸の米穀商・大山晨一郎の養子となり大山姓となる。東京専門学校に入学し、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業。シカゴ大学およびミュンヘン大学への留学を経て1914年(大正3年)に早稲田大学教授となり、政治学を講じた。やがて大山を含めた「恩賜館組」と呼ばれる少壮教授連は早大当局に対して様々な改革要求を突きつけることになる。
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 194… 吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。
蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28… 蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、明治から昭和にかけて活動した日本の歴史地理学者。旧福井藩士家に生まれ、早稲田大学卒業後、東京帝国大学史料編纂掛に所属、次いで越前松平家等華族諸家や帝国学士院の委嘱により歴史調査に携わった。『大日本地誌大系』『大日本読史地図』の編纂や、明治大学蔵蘆田文庫などで知られる。 1877年(明治10年)9月28日、石川県管下越前国足羽郡福井日ノ出下町(旧新屋敷、現・福井県福井市日之出)に、石川県第三師範学校(後の福井師範学校)漢学教授蘆田碩と福井藩士有沢権四郎娘岩子の間の長男に生まれた。1882年(明治15年)9月旭小学校に入学、1891年(明治24年)に福井県尋常中学校(現・福井県立藤島高等学校)に進んだ。
松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 … 松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 - 昭和40年(1965年)2月25日)は、大分県宇佐郡四日市村(現在の宇佐市四日市 (宇佐市))出身の漢学者。如石と号する。 早稲田中学校、豊山中学校教諭、国士舘専門学校、早稲田大学、大東文化学院(大東文化大学の母胎)、東洋文化研究所、東京藝術大学に教鞭を執る。無窮會理事(終戦後)、東洋文化學會評議員・幹事、東洋文化研究所講師・所長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日 - 1944年(昭和19年)8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。 1876年、長野県更級郡石川村(現・長野市)の豪農の家に生まれる。旧制長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)在学中は、病のため療養生活を送った。その間、当時東京専門学校出版局(現・早稲田大学出版部)から発行されていた講義録雑誌で勉強した。1895年、編入試験を受けて東京専門学校(現・早稲田大学)に入学。1896年、同校政治科を卒業。東京日日新聞の記者になる。1901年、コロンビア大学に留学し、1902年、マスター・オヴ・アーツの学位を取得した。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3… 津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本の歴史学者・思想史家。早稲田大学文学部教授。記紀を史料批判の観点から古代史研究したことで知られ、日本における実証史学の第一人者。1947年帝国学士院会員選出。1949年(昭和24年)に文化勲章受章。従三位勲一等。 1913年(大正2年)の『神代史の新しい研究』、1919年(大正8年)の『古事記及び日本書紀の新研究』を刊行(のちに、それぞれ1924年(大正13年)に『神代史の研究』、『古事記及び日本書紀の研究』として補訂再刊)が代表的な初期の研究成果である。それらの研究では、記紀神話の記述について神話と歴史とを峻別し、古典に対する徹底した史料批判を通して歴史的事実を考察した。
紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月2… 紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月22日) - 1936年(昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家、早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰(星峯)。 1872年5月28日(明治5年4月22日)、元津軽藩お抱えの能楽師(喜多流)である紀淑真の子として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。 東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学・英文学を担当する。1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員、同年9月から東京専門学校講師となる。
信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年… 信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和37年(1962年)11月1日)は、日本の外交官・法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)。早稲田大学教授、学士院会員、中華民国顧問等を歴任。1943年学士院恩賜賞受賞、従三位勲一等瑞宝章。 1871年、鳥取県生まれ。父・恕軒には男の子が3人あり、それぞれ寛一郎、淳平、敬造といった。5歳か6歳のときに生母・いとが恕軒と離別した。そのためどういう母親だったかの記憶はない。 旧制鳥取県中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、開成中学校を経て、1894年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
佐伯 好郎(さえき よしろう、明治4年8月1日(1871年9… 佐伯 好郎(さえき よしろう、明治4年8月1日(1871年9月15日)広島県 - 1965年6月26日)は、日本の言語学者・英語学者・西洋古典学者・ローマ法学者・東洋学者・東洋宗教史家。キリスト者でもある。英語名は「ピーター・(ヨシロウ・)サエキ」。 言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特にネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり「景教博士」と称された。また日本人とユダヤ人が同祖であるとする日ユ同祖論の最初期の論者としても知られ、独自の歴史観を唱えた。戦後は故郷・廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした。
塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治… 塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治3年10月20日) - 1945年(昭和20年)7月7日)は、茨城県水戸出身の経済学者、法学博士、早稲田大学第4代学長、第2代総長。 早稲田大学時代にボート競技に取り組んだことが縁で、晩年、日本漕艇協会会長に就任した。1940年(昭和15年)戸田漕艇場オープン時のデモンストレーションでは、会長として70歳台艇に乗り込み舵手を務めた。
金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年… 金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年2月10日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月1日)は、日本の哲学者・思想・文芸評論家。 本名は金子 馬治(うまじ)。 1870年、長野県小県郡赤坂村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)を経て、1893年東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、]母校講師となる。 『早稲田文学』1898年2月に評論「所謂社会小説」を発表した。1903年ドイツに留学し、ライプツィヒ大学、ベルリン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。帰国後の1907年より早稲田大学教授となり、哲学、心理学、美学を講義した。同大学文学部長、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館長、常務理事を務めた。
山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2… 山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2年11月18日) - 1965年(昭和40年)12月17日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は法学博士。法華会創立者。 1869年、奈良県高市郡越智村(現・高取町)に村長山田平三郎の三男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を経て、1896年帝国大学法科大学(現東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業。同大学院修了。その後東京帝国大学法科大学助教授に就き、文部省外国留学生としてドイツのハイデルベルク大学、フランスのソルボンヌ大学に3年間留学し国際法を学ぶ。1901年7月19日帰国。 帰国後、東京帝国大学法科大学教授、京城帝国大学総長、東京帝国大学法学部長などをつとめた。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、18… 渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、1865年10月17日〈慶応元年8月28日〉 - 1944年〈昭和19年〉7月2日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、倫理学者。文学博士。号は乾甫。 越後国古志郡吉水村(現・新潟県長岡市)生まれ。 東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)で学び、アメリカのコーネル大学で哲学博士号取得(1892年・専攻は倫理学・哲学史・心理学)。 1898年6月高等師範学校附属音楽学校主事。1899年8月に東京音楽学校校長(現東京芸術大学)に就任。校長時代には瀧廉太郎を支えた。 1911年小樽高等商業学校初代校長(現小樽商科大学)に就任。
小野 芳彦(おの よしひこ、1860年〈万延元年〉2月7日 … 小野 芳彦(おの よしひこ、1860年〈万延元年〉2月7日 - 1932年〈昭和7年〉3月2日)は、和歌山県の教育者・郷土史家。 旧制和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)で長きにわたって教壇に立ち、当地での尊敬の念を集めた。郷土史家としては、熊野新宮の本願庵主梅本家に秘伝であった編年体の記録を発掘し『熊野年代記』としてまとめたほか、没後に刊行された遺稿集『小野翁遺稿熊野史』(以下、『熊野史』)は、熊野の歴史と信仰の近代的研究の方向性を示したものとして評価されている。 小野は、万延元年(1860年)2月7日、和歌山県牟婁郡新宮町に生まれた。1875年(明治8年)5月、16歳で新宮小学校の教授手伝として勤務を始め、同年9月より当時の新宮にあった小学学科伝習所に入所し、小学科教授法を学んだ。
小野 梓(おの あずさ、1852年3月10日(嘉永5年2月2… 小野 梓(おの あずさ、1852年3月10日(嘉永5年2月20日) - 1886年(明治19年)1月11日)は、日本の法学者。明治の政治運動家。専門は英米法。 土佐国宿毛(高知県宿毛市)出身。男性。親友であった大隈重信を助け、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立の中心者で早稲田大学建学の母と言われている。ジェレミ・ベンサムの思想を分析した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
北芝 健(きたしば けん、生年未公表10月22日 - )は、… 北芝 健(きたしば けん、生年未公表10月22日 - )は、元警視庁刑事で日本の警察ジャーナリスト・漫画原作者・作家・空手家、犯罪心理学者。 日本経済大学大学院講師(「パブリックインテリジェンス研究」)。 生年は公表されていない。 東京都葛飾区出身。父は内科医、母は小児科医。早稲田大学卒業。貿易会社に勤務ののち警察官となる。 警察学校初任科を修了後、所轄署派出所を経て、刑事講習を受ける。その間に選挙取締本部、特別捜査本部での捜査を経験。 その後警視庁語学研修、公安講習を経て公安警察に配属され、外国要人の警護なども担当する。 早稲田大学大学院にて犯罪社会学研究のため退職。その後、警視庁OB団体に所属。
渡邊 亮(わたなべ りょう)は、大学教授。工学博士。早稲田大… 渡邊 亮(わたなべ りょう)は、大学教授。工学博士。早稲田大学先進理工学部電気・情報生命工学科教授。
江 庸(こう よう)は、清末、中華民国、中華人民共和国の法律… 江 庸(こう よう)は、清末、中華民国、中華人民共和国の法律家。北京政府、国民政府において、法律の専門家として名声を博した人物である。字は翊雲、逸雲。号は趨庭、澹盪閣主。