勘米良 亀齢(かんめら かめとし、1923年(大正12年)1… 勘米良 亀齢(かんめら かめとし、1923年(大正12年)11月1日 - 2009年(平成21年)4月6日)は、昭和から平成時代の地質学者、古生物学者。 熊本県球磨郡湯前町で生まれる。旧制人吉中学校(現・熊本県立人吉高等学校)を卒業後、熊本県立工業高等学校(現・熊本県立熊本工業高等学校)を経て、1943年(昭和18年)10月九州帝国大学理学部地質学科に入学する。戦時中の当時、資源調査要員として新潟・長野県境の富倉(現・長野県飯山市富倉)へ学徒動員される。終戦後の1946年(昭和21年)9月、同校卒業後、同年10月に同校理学部助手となり、のち教授となった。球磨川下流域の調査を中心とした中生界の層序および火成岩・変成岩に付随する古生層の関係の研究に端を発した紡錘虫の化石帯区分に関する研究は日本地質学会研究奨励賞を受賞した。
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高橋 良平(たかはし りょうへい、1923年8月10日-19… 高橋 良平(たかはし りょうへい、1923年8月10日-1997年6月15日)は、日本の地球科学者。専門は石炭地質学。福岡県太宰府市生まれ。 旧制福岡県立福岡中学校をへて、1946年に九州帝国大学理学部地質学科を卒業。同年、麻生鉱業株式会社に入社。1952年に九州大学理学部地質学教室石炭地質学講座の講師になり、翌年同助教授に昇任し、松下久道教授を補佐して石炭地質学の教育と研究の発展につくした。1960年九州大学より理学博士の学位を取得。論文の表題は「Die Beziehung zwischen der Inkohlung und der geologischen Struktur in Nord-Kyushu Kohlenbecken.」。
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小林 信雄(こばやし のぶお、1922年(大正11年)10月… 小林 信雄(こばやし のぶお、1922年(大正11年)10月 - 2014年(平成26年)3月)は、日本の新約聖書学者。 牧師・竹林拙三の子に生まれる。 関西学院高等部卒、九州帝国大学卒、1947年関西学院文学専門部専任講師、1950年関西学院大学文学部専任講師、1952年神学部専任講師、トロント大学大学院神学修士課程修了、イマヌエル神学校卒。関西学院大学神学部助教授、教授。1991年定年退任、名誉教授。
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田村 圓澄(たむら えんちょう、1917年1月2日 - 20… 田村 圓澄(たむら えんちょう、1917年1月2日 - 2013年7月10日)は、日本史学者、仏教史学者、九州大学名誉教授。
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北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没… 北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没年月日不詳)は、日本の医学者。専門は公衆衛生学。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1927年卒業)、旧制静岡高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業した。九大卒業後、当時の旧制鹿児島県立医科大学の教授(公衆衛生学)となる。 1946年に九州帝国大学から医学博士号を取得した。その後、鹿児島大学医学部の教授となる。1974年に開催された日本人類遺伝学会の大会会長を務めた。多くの衛生学に関する論文を残し、1983年には日本人類遺伝学会の名誉会員となる。鹿児島大学を退官後は名誉教授となった。
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赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 198… 赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 1989年11月7日)は、日本の詩人、歌人、編集者、歴史家。本名・赤羽 寿(あかばね ひさし)、別名・伊豆 公夫(いず きみお)。 青森市生まれ。九州帝国大学法文学部中退。姫路高等学校時代から『アララギ』に投稿、1928年の三・一五事件以来、左翼運動に挺身。1933年、検挙投獄。1935年、出獄ののち、渡辺順三らの『短歌評論』に参加。1932年、唯物論研究会に属し、日本共産党に入党するが、1938年、一斉検挙にあい、1944年に判決が下って下獄。この間、1940年に「在りし日の東洋詩人たち」で第4回透谷文学賞を受賞した。敗戦後、1945年10月に連合軍により解放される。
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五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 19… 五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 1978年3月29日)は日本の理学者。 熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、九州帝国大学臨時教員養成所、大阪帝国大学理学部卒業。 宮崎県立延岡高等女学校、熊本県立八代高等女学校教諭などを経て、奈良女子高等師範学校教諭となる。 1949年(昭和24年)、私立暁女子短期大学学長、奈良女子大学教授となり、1953年(昭和28年)に理学部長となる。 1960年(昭和35年)に3度目の理学部長に就任した。1965年(昭和40年)に奈良女子大学長に就任した。 また、大阪帝国大学から理学博士号を授与されている。
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山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1… 山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1997年1月15日)は、日本の中国哲学者。兄に山室次郎(中部日本新聞社社長)、弟に作家の山室静がいる。 長野県北佐久郡志賀村(現在の佐久市志賀)生まれ。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)を経て、九州帝国大学法文学部選科支那哲学科修了。1933年九州帝大副手を経て、1934年外務省留学生として北京に赴き、1936年北京近代科学図書館初代館長、銭稲孫に委嘱して日本文学の中国語訳をさせる。帰国し、1947年九州帝大法文学部助教授、1960年九州大学文学部教授、1968年定年退官、名誉教授、1970年から1977年まで福岡大学教授、福岡県文化財専門委員、九州管区警察学校講師を務め、1980年から1983年まで東海大学教授。
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古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 196… 古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 1967年6月29日)は、日本の医学者、教育者。 1901年(明治34年)、福岡県朝倉郡大福村(現・朝倉市)に生まれる。福岡県立朝倉中学校には、実家(乳業家)の手伝いとして牛乳配達を続けながら通い、熊本市にあった第五高等学校、さらに九州帝国大学に進学した。1927年(昭和2年)に同大医学部を卒業。内科教室に入局後に医療分野における放射線研究を始め、博士号を取得。東北大学に異動した。 東北大学でも放射線研究を続け、1936年(昭和11年)には同大電気工学科教授の抜山平一と共同で、心臓の鼓動に合わせてX線撮影(単純X線撮影)を行う技術を開発。さらに1943年(昭和18年)には胸部X線間接撮影法を開発(同年ブラジルのde Abreuも独立して開発)、第1回技術院賞を受賞した。
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王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 199… 王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 1995年8月19日)は、日本の精神医学者。 福岡県議会議長、福岡市議会議長などを歴任した牛乳商・王丸代吉の長男として、福岡県久留米市に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制第六高等学校を経て、1926年、九州帝国大学医学部を卒業し下田光造教授の精神科に入局する。 1929年10月、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)神経精神医学講座開設に際して初代教授に就任し、1946年3月久留米医科大学教授、1950年4月久留米大学医学部教授となり、後に久留米大学医学部長を2期務めている。日本精神神経学会会長、日本精神分析学会会長、九州精神神経学会会長を歴任する。
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町野 碩夫(まちの せきお、1899年10月15日 - 19… 町野 碩夫(まちの せきお、1899年10月15日 - 1971年2月6日)は、日本の産婦人科学者、鹿児島大学長。 山口県下関市豊田町大河内百合野出身。三豊小学校、旧制豊浦中学校、山口高等学校を経て九州帝国大学医学部卒業。1934年九州大学医学博士。論文の題は「子宮筋腫に対する硬レ線作用の臨床的並に組織化学的研究」 九州帝国大学助教授、鹿児島県立病院産婦人科部長を経て、1943年鹿児島医専教授。県立鹿児島医科大学創立と同大の国立移管につくした。1951年-55年県立鹿児島医科大学学長・医学部長。1968年-1969年鹿児島大学長。正心女子短期大学学長も務めた。
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高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 19… 高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 1996年5月20日)は、日本の医学者、精神科医。専門は、性格学、森田療法。鹿児島県出身。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年、九州帝国大学医学部卒業。同大学精神神経科講師を経て、1929年、東京慈恵会医科大学に転任する。同年より東京根岸病院に勤務し、森田正馬に師事して森田療法を継承する。1937年、森田の後を継いで東京慈恵会医科大学教授となる。1940年、入院森田療法の施設である高良興生院を設立し、森田療法による神経(質)症の治療を行う。1964年、東京慈恵会医科大学名誉教授。
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秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1… 秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1982年12月4日)は、日本の高分子化学者。 福岡県出身。1917年福岡県立中学修猷館を経て、1923年九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。 商工省大阪工業試験所に入り、技手を経て技師となり、1935年学位を受け、同所の第四部長、第二部長を歴任。第二次世界大戦時には、陸軍兵器行政本部からの委嘱により、「重合「エチレン」蝋状物ノ合成ノ研究」を行っている。 1945年九州帝国大学工学部教授に就任。1951年大阪工業試験所および熊本大学教授も兼務。1956年3月九州大学評議員に選ばれ、1959年7月九州大学工学部長も併任する。 1961年帝人の常務取締役に転じ、開発本部長兼中央研究所所長を務め、1965年1月研究管理室長を委嘱され、1966年11月退任する。
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鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3… 鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3月9日 - 1975年(昭和50年)4月24日)は、日本の工学者、アイヌ文化研究者。著書には橋梁や構造力学など力学関係のものが多い。北海道帝国大学、九州大学、防衛大学校などで教授を務めた。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)に生まれる。父は岡崎藩士で画家の鷹部屋荘一郎。1899年(明治32年)4月4日、岡崎町立連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に入学。1903年(明治36年)、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)に入学。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学すると、毎日のように暗くなるまでテニスの練習を行ったという。
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金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明… 金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明治19年〉3月31日 - 1945年〈昭和20年〉7月23日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。九州帝国大学名誉教授。「日本脳炎」という名称の元になった症例を学会に報告した。 新潟県南蒲原郡猪子場新田(現 三条市猪子場新田)の素封家・山口新次郎の長男に生まれた。 1904年(明治37年)3月に新潟中学校を卒業、1907年(明治40年)7月に第三高等学校を卒業、新潟県南蒲原郡大面村大字蔵内(現 三条市蔵内)の大面村初代村長の金子正次の婿養子になった。 1907年(明治40年)9月に京都帝国大学福岡医科大学医学科に入学、1911年(明治44年)11月に九州帝国大学医科大学を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
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河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - … 河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - 昭和6年(1931年))は、日本の大正、昭和期を代表する地質学者・教育者・哲学者・宗教家である。九州帝国大学名誉教授であり、理学博士。
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吉町 太郎一(よしまち たろういち、1873年-1961年)… 吉町 太郎一(よしまち たろういち、1873年-1961年)は、日本の橋梁工学者。材料工学者・研究者。代表作に旭橋など。 九州帝国大学工学部長、北海道帝国大学工学部長、室蘭工業専門学校(現・室蘭工業大学)学長を歴任した。 青森県に生まれ、弘前市新寺町出身、藩士吉町官助の子。幼にして父に随い上京。苦学力行して第一高等学校から東京帝国大学工学部に入学。金属学を専攻して、1898年に卒業。同時に同学部助教授になり、1901年に欧州へ留学。1904年に帰朝して、名古屋高等工業学校教授、転じて九州帝国大学工学部教授となった。1924年に北海道帝国大学に工学部設立のさい迎えられて同学部教授。ついで同学部長となり、1936年退官して北海道大学名誉教授の称号をうけた。
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大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日… 大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日〈慶応4年1月3日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月9日)は、日本の農学者(農芸化学)。勲等は勲二等。学位は農学博士(1911年)。旧姓は鈴木(すずき)。 農事試験場や特許局で技師として勤務し、農芸化学に関する研究に従事したのち、九州帝国大学農学部で教鞭を執った。土壌酸性がアルミニウムに因ること(大工原酸度, Daikuhara acidity)を世界で初めて発見した。九州帝国大学や同志社大学で総長を務めた。 信濃国伊那郡南向村(現長野県上伊那郡中川村)の鈴木家に生まれ、のちに飯田の大工原孝吉の養子となる。松本中学校、東京農林学校を経て1894年、帝国大学農科大学農芸化学科を卒業。
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山本 清人(やまもと きよひと、生没年不明)は、日本の医師、… 山本 清人(やまもと きよひと、生没年不明)は、日本の医師、医学者。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1927年卒業)、旧制第五高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業した。 卒業後は母校である九州帝国大学の研究員となる。他の教授や研究員が太平洋戦争に次々と応召されたため、1942年に講師の身分ながら外科部門の責任者となる。終戦後の1948年に、国立別府病院(現・国立病院機構別府医療センター)に移り、外科部長を経て、[要出典]院長に就任した。退職後は名誉院長に推された。
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吉永 萌(よしなが すげる)は日本の医学者、医師。 熊本県出… 吉永 萌(よしなが すげる)は日本の医学者、医師。 熊本県出身。熊本県立玉名中学校(1910年卒業)[要出典]、第五高等学校を経て、九州帝国大学医学部を大正6年に卒業した。 専門は内科学、公衆衛生学で、大学卒業後、直ちに九州帝国大学医学部第三内科教室に入局し、助手となった。 大正13年には九州帝国大学から医学博士号を受けている。 公衆衛生学の第一人者として、昭和の初期には欧米に出張し、欧米の工場衛生や医事衛生などを視察した[要出典]。 その際の、初見を昭和12年に「吾が輩の出張報告欧米の工場衛生と医事衛生」と題して出版し、今現在でもその本は、産業医学・環境衛生学分野の初期資料となっている[要出典]。
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山岡 憲二 は、日本の医学者。専門分野は内科学。福岡県出身。… 山岡 憲二 は、日本の医学者。専門分野は内科学。福岡県出身。1928年九州帝国大学医学部卒業。1944年九州帝国大学助教授、1945年岡山大学教授、1956年九州大学医学部第一内科教授。「血色素並びに胆汁色素の研究」で、1965年学士院賞受賞。1966年名誉教授。1973年日本学士院会員。1987年に死去。84歳。
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