田代 博(たしろ ひろし、1950年3月25日 - 2021… 田代 博(たしろ ひろし、1950年3月25日 - 2021年2月19日)は、日本の地理学者・地理教育者。元筑波大学附属高等学校教諭。日本地図センター相談役。日本において、地図学習の指導者として知られていた。富士山をこよなく愛した。 1950年、広島県尾道市生まれ。1972年に東京教育大学理学部地学科地理学教室を卒業後、神奈川県立高等学校教諭に着任した。同年、通勤中の交通事故で骨折。そのリハビリで山歩きをはじめ、山に興味を持つようになる。 1997年より筑波大学附属高等学校教諭。高校教員を42年間務め、2014年3月に退職した。2015年6月より日本地図センター常務理事・地図研究所長、2017年6月より同相談役。
和田 重良(わだ しげよし、1948年1月- )は、日本の民… 和田 重良(わだ しげよし、1948年1月- )は、日本の民間教育者、NPO法人くだかけ会代表。祖父は和田八重造、父は和田重正。 神奈川県小田原市生まれ。神奈川県立小田原高等学校、東京教育大学農学部卒業。父の一心寮の運営にたずさわり、1978年からくだかけ会の活動を始め、『月刊くだかけ』を刊行、1984年からくだかけ生活舎を運営し不登校などの青年たちと生活をともにする。1998年正力松太郎賞受賞。
相原 茂(、1948年 - 2025年6月〈訃報発表日〉)は… 相原 茂(、1948年 - 2025年6月〈訃報発表日〉)は、日本の中国語教育者。中国語コミュニケーション協会代表。福島県会津地方出身。 福島県立会津高等学校卒業、東京教育大学修士課程修了。中国語学専攻。明治大学助教授、お茶の水女子大学教授を経て、中国語コミュニケーション能力判定テスト(TECC)を実施している中国語コミュニケーション協会の代表をしていた。日本における中国語教育の分野で精力的に活動し、語学書や中国語に関するエッセー等を多数執筆していた。NHKのラジオ・テレビの中国語講座にも講師として出演した。2001年度のNHKテレビ中国語講座では、「古畑您三郎」と称して毎回古畑任三郎を演じる田村正和の物真似を披露した。
前田 嘉昭(まえだ よしあき 、1947年(昭和22年)6月… 前田 嘉昭(まえだ よしあき 、1947年(昭和22年)6月 - )は日本の教育者。大阪府立阿倍野高等学校校長在任時に数々の改革を進め、大阪の公立高校として初めて北朝鮮による日本人拉致問題を取り上げて話題を呼んだ。現在、日本ラグビーフットボール協会理事。 大阪市出身。1966年(昭和41年)、大阪府立阿倍野高等学校卒業。1970年、東京教育大学卒業。以後、大阪府立の高校教諭として勤務し、大阪府教育委員会事務局を経て、2001年(平成13年)、大阪府立狭山高等学校校長。 2005年、母校である阿倍野高校の第18代校長として着任。教育面だけでなく生徒指導から入学式・卒業式まで(国旗掲揚など)を改革。
村瀬 幸浩(むらせ ゆきひろ、1941年11月2日 - )は… 村瀬 幸浩(むらせ ゆきひろ、1941年11月2日 - )は、日本の教育者。ジェンダーフリー、性の自己決定権や女性学、男性学といったテーマで活動している。 愛知県名古屋市生まれ。東海中学校・高等学校ではバスケットボールに打ち込み、1960年に東京教育大学体育学部に入学。在学中は丹下保夫に師事した他、デューイ、マカレンコ、ペスタロッチらの教育思想を学ぶ。1964年に同大学を卒業後、和光高等学校の保健体育教諭として1989年まで25年間勤める。退職後は一橋大学、津田塾大学でセクソロジーの講師を2015年までつとめる。他に東京女子大学講師。 1982年、"人間と性"教育研究協議会の設立に参画し、幹事をつとめ『季刊SEXUALITY』誌(エイデル研究所刊)の編集に携わる。
黒羽 清隆(くろは きよたか、1934年(昭和9年)2月25… 黒羽 清隆(くろは きよたか、1934年(昭和9年)2月25日 - 1987年(昭和62年)6月19日)は、日本の歴史学者・教育者。静岡大学教育学部教授。東京都杉並区出身。 歴史教育や日中戦争・太平洋戦争についての著作がある。教科書の自由発行、自由選択を支持し、家永教科書裁判当事者を支援した。 東京教育大学文学部史学科卒業。 中学教諭として新宿区立東戸山中学校、同四谷第一中学校で教鞭をとった後[要出典]、東京都立大学附属高等学校・東京学芸大学教育学部附属高等学校教諭となる。この間、和歌森の後任として1969年から10年間、NHK通信高校テレビ講座で日本史を担当した。 1975年から1977年まで東京学芸大学・中央大学の非常勤講師を併任、1979年に静岡大学教育学部助教授となる。
宮沢 嘉夫(みやざわ よしお、1932年 - )は、東京都出… 宮沢 嘉夫(みやざわ よしお、1932年 - )は、東京都出身の歴史学者、教育者。 『日本史の年代記憶法』(旺文社)の著者として知られる。 趣味は小旅行、奈良には数回足を運ぶ。 東京都立江北高等学校,東京都立臼鴎高等学校,東京都立高島高等学校教諭を経て,東京都立足立高等学校に勤務
亀井 浩明(かめい ひろあき、1930年 - )は、日本の教… 亀井 浩明(かめい ひろあき、1930年 - )は、日本の教育者・教育学者。帝京大学名誉教授。 群馬県生まれ。東京教育大学教育学部教育学科卒業。公立中学校・高等学校教諭を務めたのち、東京都教育委員会指導主事、同教育委員会高等学校教育指導課長、指導企画課長、指導部長をへて、帝京大学文学部教授、教育学科長、文学部長。2001年定年、名誉教授。日本連合教育会会長。
高橋 華王(たかはし かおう、1928年(昭和3年)7月3日… 高橋 華王(たかはし かおう、1928年(昭和3年)7月3日 - 2003年(平成15年)8月14日)は古武術研究家・武道家(宮本武蔵円明流判官派第14代宗家)、教育者、セルフディフェンスビクス発案者。東京理科大学経営学部教授。 福島県伊達市出身。福島師範学校(現:福島大学)、東京教育大学、日本体育大学を卒業。東京教育大学、東京外国語大学、明治大学、日本女子体育大学講師を経て、東京理科大学経営学部教授。教授を務める傍ら、東京大学医学部解剖学教室にて人体解剖生理学を研究。 宮本武蔵円明流判官派第14代宗家(関西・武蔵円明流、東京・武蔵円明流判官派などとは異なる)。東洋医学に精通し、鍼灸の資格も持っていた。
室木 洋一(むろき よういち、1927年6月4日 - 200… 室木 洋一(むろき よういち、1927年6月4日 - 2003年12月8日)は日本の武道家であり、教育者。戦後、北海道に空手を普及した先駆者。 1980年(昭和55年)の和道流、和道会の分裂騒動においては全日本空手道連盟和道会へ所属。北海道大学退官後は、空手道関連の役職から退き、後任に道を譲る。生涯個人の道場を持たず、流派を問わずして空手振興に尽力した。晩年は、合気柔術の大東流合気柔術幸道会の顧問を務め、空手道では全日本清心会(清心流空手道)技術顧問も務めた。
九里 茂三(くのり しげぞう、1921年2月6日 - 201… 九里 茂三(くのり しげぞう、1921年2月6日 - 2017年12月2日)は、日本の教育者。学校法人九里学園理事長・学園長などを歴任し、日本私立中学高等学校連合会副会長として私学助成運動などにも貢献した。 山形県米沢市に生まれ育つ。養母の九里とみは、1901年に九里裁縫女学校を創設し、その経営にあたっていた。 1940年に山形県師範学校本科一部を卒業し、翌1941年には同専攻科を卒業して、東京高等師範学校に進んだ。 1944年9月には、東京高等師範学校を卒要し、海軍予備学生として土浦海軍航空隊へ入隊、1945年6月には海軍少尉に任官、直ちに召集され8月まで針尾にあった海軍兵学校分校の教官を務めた。
堀内 政三(ほりうち まさぞう、1918年10月8日 - 2… 堀内 政三(ほりうち まさぞう、1918年10月8日 - 2012年12月27日)は、日本の教育者。巣鴨中学校・高等学校第4代学校長、学園長。山梨県出身。 東京文理科大学(現:筑波大学)卒業後、海軍予備員を志願し、特攻隊に入隊するも、出撃前に伊豆大島で終戦を迎える。巣鴨学園の創立者である遠藤隆吉の六女・幸(まさ)の婿であったため、一橋大学助教授から、巣鴨学園の校長に就任した。 1956年校長に就任、51年間もの間校長を務めたが、2007年に校長・理事長を辞任し、息子の堀内不二夫に職を譲った。退任した当時は全国の校長の中では在任期間が長いかつ、全国最高齢の校長だった。実質的に名ばかりではあるが、「学園長」と呼ばれる職に就いていた。
熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)… 熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)は、日本の画家、美術教育者。 山梨県東山梨郡菱山村(勝沼町を経て現甲州市)生まれ。1938年東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒、1942年早稲田大学専門学校政治経済科卒業。1948年東京美術学校油絵科内地留学修了。東京都の公立小学校教諭を1955年まで務める。1957年東京教育大学教育学部芸術学科構成専攻卒業。1958年二紀会絵画部同人。1965年国際美術教育会議(INSEA)東京会議事務総長を務める。1969年女子美術大学助教授、INSEA本部財務局長、1974年東京造形大学教授。1979年岡山大学教育学部教授。1983年上越教育大学教授。
生江 義男(なまえ よしお、1917年(大正6年)3月2日 … 生江 義男(なまえ よしお、1917年(大正6年)3月2日 - 1991年(平成3年)4月28日)は、日本の教育者、専門は比較文化論。元学校法人桐朋学園理事長。 宮城県石巻市生まれ。石巻市立石巻中学校、東京高等師範学校卒、1941年(昭和16年)病のため東京文理科大学史学科を中退(のち53年卒業)。 1941年石巻市立石巻中学校教諭となるが、43年応召で中国に渡る。復員後、48年から桐朋学園に勤務。桐朋女子部教務・事務主任のときの51年、音楽科を併設して小沢征爾らの人材を輩出させた。60年から桐朋幼稚園・桐朋小学校・桐朋女子中学校・高等学校の専任校長となり、通信簿廃止・入学時の筆記試験廃止など個性重視の教育を実践し、62年桐朋学園大学教授兼務、86年から桐朋学園理事長を務めた。
春田 正治(はるた まさはる、1916年4月29日 - 20… 春田 正治(はるた まさはる、1916年4月29日 - 2005年7月24日)は、日本の教育学者、教育者。和光学園理事長を務めた。 愛知県生まれ。東京文理科大学教育科卒。山梨教育研究所、1952-68年和光学園校長、和光大学人文学部教授、1983-97年和光学園理事長。全国生活指導研究協議会、日本生活教育連盟。社会科および生活指導について実践・研究した。
大瀬 久市(おおせ きゅういち、1912年(明治45年)2月… 大瀬 久市(おおせ きゅういち、1912年(明治45年)2月24日 - 1949年(昭和24年)4月10日)は、昭和前期の教育者、公吏(地方公務員)、政治家。衆議院議員。 長崎県北松浦郡出身。長崎県師範学校を卒業し、長崎県公立小学校訓導、東京市王子小学校訓導、赤羽小学校訓導を務めた。 その後苦学して1939年(昭和14年)東京文理科大学(のち東京教育大学)教育学科を卒業した。東京市役所に入り、同書記、東京都属、同主事を歴任した。 1947(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に長崎県第2区から民主党公認で出馬して次点で落選。1949(昭和24年)1月の第24回総選挙では無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
山口 久太(やまぐち ひさた、1911年4月26日 - 19… 山口 久太(やまぐち ひさた、1911年4月26日 - 1993年7月12日)は、日本の教育者。元日本体育協会副会長、名誉副会長。東海大学体育学部長。 1911年、、佐賀県東松浦郡相知町(現唐津市)に生まれる。下村湖人の薫陶を受け、旧制唐津中学(現在の佐賀県立唐津東高等学校)卒業後、周囲が旧制高等学校の進学を薦める中、日本一の体育教師を目指して、東京高等師範学校(現・筑波大学)体育科に進学する。1934年3月、東京高等師範学校体育科を卒業。体育教諭として、旧制甲府中(現・山梨県立甲府第一高等学校)、旧制広島一中(現・広島県立国泰寺高等学校)に奉職。戦後千葉県に体育担当地方事務官として招かれて、千葉県立佐原高等女学校校長、千葉県立船橋高等学校校長を務める。
梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 19… 梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 1993年8月4日)は、日本の哲学者・教育者。専門は教育哲学・ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに関する研究。北海道における学校経営者。 北海道留萌市出身。1925年札幌師範学校卒業。卒業後、北海道小樽市の小学校訓導として奉職するも、1926年に東京高等師範学校文科第三部に入学。1930年同学校卒業、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)英語教諭。1938年北海道庁立小樽中学校(後の北海道小樽潮陵高等学校)英語教諭に転任。1942年東京文理科大学哲学科に入学、1944年同大学卒業。同年9月、北海道第一師範学校講師、同年12月教授。
溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1… 溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1990年10月11日)は、日本の教育者、人類生活者。 広島県御調郡市村生まれ。広島県三原女子師範学校、奈良女子高等師範学校、東京文理科大学卒業。 実践女子専門学校教授、東京家庭学園教授、京都女子大学教授を経て、1951年島根大学教育学部教授。1958年に「日本の底辺―山陰農村婦人の生活」を刊行し、「底辺」の生活に光をあてる。1967年に島根大学を退官後は、全国の小学6年生に「生きる・生活する」と題する授業をつづけた。聖カタリナ女子短期大学教授、本州大学教授、上田女子短期大学教授を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
熊沢 龍(くまざわ りゅう、1901年2月3日 - 1974… 熊沢 龍(くまざわ りゅう、1901年2月3日 - 1974年2月28日)は、昭和時代の言語学者、国語教育者。東京教育大学名誉教授、東京成徳短期大学学長、日本国語教育学会理事長を務めた。位階および勲等は正三位・勲三等。 東京府南多摩郡忠生村大字上小山田(現在の東京都町田市常盤町)の寺子屋師匠である斎藤楓山の長男として生まれる。後に熊沢家の養子となる。父は1873年、現在の小山田小学校の前身である有隣学舎の訓導となった。1908年5月、病気のため辞職し同年12月17日に没したが、村民の教育のために一生を捧げた。祖父は本山派修験の持宝院不動尊の山主であった阿闍梨芳山。 東京文理科大学文学科を1932年に卒業後、同大学の研究科に入り、1934年に助手となる。
及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26… 及川 規(おいかわ ただし、1893年(明治26年)5月26日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、大正から昭和期の教育者、弁護士、政治家。衆議院議員。 岩手県江刺郡岩谷堂町(江刺町、江刺市を経て現奥州市)で生まれる。岩手師範学校を経て、1917年(大正6年)東京高等師範学校(のち東京教育大学)を卒業。 岩手県師範学校教諭、島根県立杵築中学校(現島根県立大社高等学校)教諭を歴任。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格。神奈川県視学官に就任。その後、横浜市で弁護士を開業し、横浜弁護士会副会長も務めた。その他、私立本牧中学校(のち現在の横浜中学校・高等学校に合併)校長兼理事長となった。
杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 … 杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 - 1943年(昭和18年)7月6日)は、日本の教育家である。 神奈川県に生まれ、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に入学する。卒業後は留学のため渡米し、カリフォルニア大学にて教育学および心理学を学んだ。帰国後は静岡師範学校(後の静岡第一師範学校、現在の静岡大学教育学部)で教鞭を執り、1916年(大正5年)には長野師範学校(現在の信州大学教育学部)に転勤する。 翌1917年(大正6年)には同学校附属の小学校の研究学級の教師にあたり、実験心理学を元に新教育の促進に携わった。これによって1925年(大正15年)には新教育の研究会から「研究学級の経営」として杉崎が研究した成果の発表にあたった。
須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6… 須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6年1月6日) - 1928年(昭和3年)6月23日)は、明治期の教育者。師範学校校長を歴任。 豊前国中津生まれ。藩校進脩館で学び塾長になり、慶應義塾に入り五等に進級する。1876年(明治9年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中学師範学科の嘱託教授、1879年(明治12年)より1881年(明治14年)まで同校訓導を嘱された。1882年(明治15年)時事新報に入社。1884年(明治17年)より福岡県の中学校一等教諭として豊津中学校在勤、1885年(明治18年)に福岡師範学校校長兼教諭に任じられた。翌年の学制改革に伴い、1887年(明治20年)に師範学校教育科の教員免許を正式に授与され、一時的に文部省雇として学務局兼編輯局詰を経て、1888年(明治21年)に神奈川県尋常師範学校教諭に任じられた。