井上 敏夫(いのうえ としお、1901年1月10日 - 19… 井上 敏夫(いのうえ としお、1901年1月10日 - 1975年6月23日)は、日本の経営者。東京証券取引所理事長を務めた。 三重県出身。1924年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1948年4月に理事に就任し、1954年6月から1959年6月までに副総裁を務め、1961年4月から1967年4月までに東京証券取引所理事長を務めた。 1975年6月23日、脳血栓のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡崎 英城(おかざき えいじょう、1901年〈明治34年〉1… 岡崎 英城(おかざき えいじょう、1901年〈明治34年〉1月10日 - 1989年〈平成元年〉2月18日)は、日本の内務官僚・政治家。 東京帝国大学経済学部卒業後、内務省に入省。警察畑を歩み公職追放後の1955年(昭和30年)衆議院議員に東京4区から初当選(連続当選6回)。岸内閣の内閣官房副長官、労働・行政管理・通産の各政務次官、自民党東京都連幹事長などを歴任したが、入閣はできず1972年の衆院選で落選し政界を引退した。墓所は多磨霊園。 1901年(明治34年)1月10日、三重県津市出身。 水戸高校を卒業し、1928年(昭和3年)に東京帝国大学経済学部経済学科卒業・高等文官試験行政科に合格する。
山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 196… 山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 1964年11月23日)は日本の政治家。衆議院議員や青森県知事を務めた。 1901年、北海道久遠村(現せたな町大成区)に青森県出身の漁師の末子として生まれる。実家は貧しく、父は本籍地を捨てて出奔した状態だったので戸籍上は母の私生児扱いであった。1915年、父の郷里である八戸市に移住。八戸中学(現青森県立八戸高等学校)に入学するもストライキ騒動の責任者とされて退学処分を受ける。その後は中央大学の予科に進学。箱根駅伝の走者として活躍し、第2回から第7回まで出場した。在学中に結婚し、長男の竜男が生まれている。 中央大学法学部卒業後、青森県立青森商業高等学校の英語兼民法の教師となるが、大学の先輩である梅村大の衆議院議員立候補を応援するために退職。
佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 199… 佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 1992年4月19日)は、日本の内務官僚、詩人。 岩手県江刺郡米里村(現:奥州市江刺米里)出身。本名は慎一。1925年早稲田大学文学部仏文科卒。内務省に入り、情報局文芸課に勤務。児童向け書籍の統制に大きな役割を果たす。第二次世界大戦後は岩手県庁に勤めたのち、1973年盛岡大学短期大学部生活学園短期大学教授。1985年退職。大学在学中から詩作を始め、1931年詩集『北の貌』を刊行。「詩洋」「文学表現」「風」同人。児童文化運動にも関わり、1964年岩手県教育功労者。 1941年(昭和16年)12月23日に児童文化の統制団体として発足した日本少国民文化協会の設立にあたっては、民間側の城戸幡太郎、波多野完治、百田宗治、上村哲弥、藤田圭雄、吉田甲子太郎、滑川道夫、羽仁説子、稲田達雄、武井武雄とともに官側(内務省)の設立準備委員を務めた。
塚本 哲(つかもと てつ、1901年1月8日 - 1980年… 塚本 哲(つかもと てつ、1901年1月8日 - 1980年8月1日)は、社会福祉家。 島根県生まれ。幼名・僧哲。東洋大学社会福祉学科卒。1923年、関東大震災の時、日比谷公園で被災した子供らの相談に当たる。卒業後、知的障害者施設藤倉学園の研修生となる。のち本所のスラム街へセツラーとして入り、東京市社会局勤務。戦後東京都民生局調査室に勤務し、東京都新宿生活館初代館長。老人福祉事業に取りくみ、老人クラブの結成などに関わる。1956年定年、東洋大学社会学部教授、佛教大学教授、東北福祉大学教授。
三村 明(みむら あきら、1901年1月6日 - 1985年… 三村 明(みむら あきら、1901年1月6日 - 1985年12月23日)は、大正、昭和期の撮影監督、映画監督。日本映画カメラマン創始者の一人。海外ではハリー・三村 (Harry Mimura) の名前で知られる。 父は戦艦霧島や戦艦日向の艦長を務めた海軍少将・三村錦三郎。広島県安芸郡江田島町(現江田島市)生まれ。1919年(大正8年)逗子開成中学を卒業し、同年9月に渡米した。シアトルのスクールを経て、1924年、シカゴのニコラスセン大学予科を卒業した。全米で拡がりつつあった排日運動の払拭に際し、「キャメラマンとなってアメリカ人に日本の正しい姿を見せたい」との思いで映画界に入ることを決意したといわれる。
嶋田 晋作(しまだ しんさく、1901年(明治34年)1月6… 嶋田 晋作(しまだ しんさく、1901年(明治34年)1月6日 - 1950年(昭和25年)6月20日)は、大正末から昭和前期のジャーナリスト、評論家、政治家。衆議院議員。旧姓・近江谷。 秋田県南秋田郡土崎港町小鴨町(現秋田市土崎港)で、実業家・近江谷栄次の三男として生まれる。暁星中学校(現暁星中学校・高等学校)、日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)、第三高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 1925年(大正14年)中外商業新報に入社し経済部記者となり、のちの能代市・嶋田家の養子となる。以後、名古屋新聞嘱託、報知新聞論説委員、中部日本新聞(現中日新聞)論説委員、東京新聞論説委員を歴任。
阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治3… 阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治34年〉1月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月26日)は、満州国官吏、日本の実業家。阿川機工、構造物コンサルタント各社長。 長崎県・田中良蔵の甥。大阪府立天王寺中学校を経て1924年、第七高等学校造士館を卒業。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。 満鉄に入社する。安東、奉天各地方事務所に勤務。瓦房店、四平街各地方事務所庶務係長、大石橋地方事務所長を経て満州国に転じ、審計局審計官第一處勤務。後に四平街市長となる。1940年、安東市長に就任する。 1950年に阿川機工を設立、社長に就任。1962年に構造物コンサルタントを設立、社長を兼務。
弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年… 弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年)は、日本の劇作家、小説家。 山口県熊毛郡伊保庄村(現、山口県柳井市伊保庄)上八(こうじょう)生まれ。広島女学校附属小学校、広島県師範学校附属小学校、広島県立広島高等女学校を経て、日本女子大学校文科国文学科を1922年卒業。在学中より中村吉蔵らに師事。卒業後も東京で劇作に専念した。本名はチヨ。 1921年、日本女子大学校在学中に卒論のかわりに、印度の阿育王の伝説を題材にした戯曲・華子城物語(かしじょう・ものがたり)を、同級生の山原鶴、宮田範と共作、翌1922年6月、新光社より出版される。 代表作は、1925年(大正14年)7月号の「舞台批評」に発表した「天樹院」。
山縣 清(やまがた きよし、1901年1月5日 - 1973… 山縣 清(やまがた きよし、1901年1月5日 - 1973年2月24日) は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。元宇部工業高等専門学校校長。元日本伝熱研究会会長。 1901年、山口県厚狭生まれ。1926年九州帝国大学工学部機械工学科を卒業し、卒業後は同大学の助手となる。1927年、九州帝国大学講師に昇進。1929年、九州帝国大学助教授に昇進。1939年、九州帝国大学に「真直ナ円管内ニ於ケル流体ノ非等温層流ノ理論ニ対スル寄与」を提出して工学博士号を取得。1940年、九州帝国大学工学部教授に昇進。1947年より九州大学工学部長。1964年に九州大学を定年退官し、名誉教授となった。 その後は郷里に戻り、1965年より宇部工業高等専門学校校長(第3代目校長)。
加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 - 1… 加賀尾 秀忍(かがお しゅうにん、1901年1月5日 - 1977年5月14日)は、昭和期に活躍した真言宗の僧侶。フィリピン・モンテンルパの戦犯刑務所で教誨師として活躍したので『モンテンルパの父』ともよばれている。 1901年1月5日、岡山県真庭郡落合町の極楽寺に生まれる。落合尋常小学校を卒業後、おなじ落合にある木山寺に入り、住職の高藤秀本に師事し漢籍・経文を習った。1929年、真言宗京都大学を卒業して真言宗の僧侶となる。宝蔵院の住職をつとめたのち、高野山東京別院の副主監となる。 1949年11月4日、フィリピン・マニラ郊外のモンテンルパにある、当時、戦犯刑務所だったニュー・ビリビット刑務所に、病気のため早期帰国した安達本識(あだち・ほんじき)教誨師の後任として赴任する。
清水 七郎(しみず しちろう、1901年〈明治34年〉1月5… 清水 七郎(しみず しちろう、1901年〈明治34年〉1月5日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。経営者。台中州知事。 和歌山市に生まれる。1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、渡台する。専売局書記を拝命し酒課勤務を経て、1929年(昭和4年)台南州内務部教育課長に抜擢される。1931年(昭和6年)基隆郡守に任じ、ついで専売局参事、煙草課長兼酒課長、煙草課長、官房文書課長、総務局地方課長を経て、台中州知事に就任した。 戦後、名古屋塩業社長、同会長を歴任した。
土屋 詩朗(、1901年〈明治34年〉1月5日 - 没年不詳… 土屋 詩朗(、1901年〈明治34年〉1月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は土屋 德四郎()。旧芸名は土屋 四郎(読み同じ)、土屋 博敏()。 1901年(明治34年)1月5日、秋田県に生まれる。 1918年(大正7年)、正式な名称は不明だが、秋田県横手市の旧制中学校を卒業して東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に進学。声楽を学ぶ傍ら、中島六郎、樋口信平に師事してヴァイオリンを修業する。ところが、同年のシベリア出兵により、土屋は出征され、1年だけロシアに在住して間も無く帰国。その後、正式な名称は不明だが、土屋四郎という芸名で劇団に所属し、全国各地を巡業した。また、浅草オペラの舞台にも出演していたが、1924年(大正13年)12月、松竹蒲田撮影所へ入社。
鈴木 三千代(すずき みちよ、1901年1月5日 - 199… 鈴木 三千代(すずき みちよ、1901年1月5日 - 1997年11月10日)は、日本の実業家。三楽(のちのメルシャン)社長を務めた。食品産業功労賞者。 旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、1924年味の素本舗鈴木商店(のちの味の素)入社。大阪支店長、常務、専務等を経て、三楽(のちのメルシャン)社長に就任、ワイン事業などをすすめた。1952年に同社会長就任。また味の素の監査役や顧問も務めた。 1997年11月10日、東京都目黒区の病院で死去、享年96。築地本願寺で社葬が行われた。 鈴木忠治(鈴木商店(のちの味の素)第2代社長)の長男。2代目鈴木三郎助(鈴木商店創業者)は伯父、鈴木忠雄(元メルシャン社長、元味の素副会長)は長男。
石田 宥全(いしだ ゆうぜん、1901年(明治34年)1月5… 石田 宥全(いしだ ゆうぜん、1901年(明治34年)1月5日 - 1981年(昭和56年)11月13日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(5期)、新潟県中蒲原郡川東村長。 新潟県中蒲原郡川東村(現五泉市)出身。1916年(大正5年)川東高等小学校(現:五泉市立川東小学校)を卒業し農業に従事。 1923年(大正12年)頃から農民運動に加わった。日本農民組合、労働農民党、全国労農大衆党などの中央、地方組織の役員を務めた。1926年(大正15年)日農関東同盟新潟県連理事に就任し、同年に小作争議指導の嫌疑で検挙され懲役6月となり、1928年(昭和3年)菅沼小作争議では暴行容疑で懲役2月の有罪判決を受けた。
北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4… 北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4日 - 1964年(昭和39年)4月27日)は、日本の劇作家、小説家、脚本家。 青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校を経て慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の『マダムと女房』(1931年)など多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた。『人物のゐる街の風景』(1926年)が初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した。ほか翻訳がある。終戦後の1948年(昭和23年)に公職追放を受けて活動停止追放処分となる(1950年(昭和25年)に解除)。
服部 卓四郎(はっとり たくしろう、1901年(明治34年)… 服部 卓四郎(はっとり たくしろう、1901年(明治34年)1月2日 - 1960年(昭和35年)4月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 山形県出身。陸士34期、陸大42期(優等)。 陸軍士官学校34期を秩父宮雍仁親王を除き、12番の成績で卒業。同期に西浦進、石井秋穂、堀場一雄、赤松貞雄、西田税、三好達治などがいる。 服部は、同期の西浦・堀場とともに「三十四期の三羽烏」と称されるほどの俊秀であった。 陸軍大学校42期を卒業。卒業後、しばらくは参謀本部に勤務したが、1934年(昭和9年)~1935年(昭和10年)フランス留学、1936年(昭和11年)にはエチオピア戦争を観戦するなど海外畑を歩いた。
大部 孫太夫(たいぶ まごだゆう、1901年1月2日 - 1… 大部 孫太夫(たいぶ まごだゆう、1901年1月2日 - 1997年8月22日)は、日本の経営者。太陽生命保険社長を務めた。兵庫県出身。 1925年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日華生命に入社。1948年11月に太陽生命専務に就任し、1962年4月に社長に就任。1978年4月に会長に就任。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲四等瑞宝章を受章し、1988年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 1997年8月22日心不全のために死去。96歳没。
加藤 義秀(かとう よしひで、1901年〈明治34年〉1月2… 加藤 義秀(かとう よしひで、1901年〈明治34年〉1月2日 - 2002年〈平成14年〉10月)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 北海道雨竜郡一已村(現・深川市一已町)出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。1930年(昭和5年)陸軍大学校第42期卒業。 フィンランド駐在武官、スウェーデン駐在武官、関東軍参謀、陸軍省兵務局防衛課高級課員を経て、1941年(昭和16年)7月、防衛総司令部参謀に補され、翌8月、陸軍大佐に進む。ついで、1945年(昭和20年)6月1日、第53軍参謀長となり、同月30日、陸軍少将に進んだ。済州島の守備に当たる中終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
湯浅 清子(ゆあさ きよこ、1901年〈明治34年〉1月1日… 湯浅 清子(ゆあさ きよこ、1901年〈明治34年〉1月1日 - 1972年〈昭和47年〉4月22日)は、日本の教育者、宗教家である。元日本基督教女子青年会副会長。夫は同志社総長の湯浅八郎、矢嶋楫子の孫。湯浅洋は息子である。旧姓鵜飼清子。 1901年に鵜飼猛、妙子の長女として東京府に生まれる。1913年に女子学院に入学し、祖母矢嶋楫子や植村環の薫陶を受けた。 1914年からアメリカ合衆国アイオワ州シンプソン大学で学ぶ。1922年に卒業し、イリノイ州で湯浅八郎と結婚する。夫と共に、ヨーロッパで学び、1924年に帰国する。1927年、26歳の時に京都YWCAの会長になる。日本YWCAの要職を歴任した。
酒井 正三郎/正兵衛(さかい しょうざぶろう/しょうべえ、1… 酒井 正三郎/正兵衛(さかい しょうざぶろう/しょうべえ、1901年1月1日 - 1981年4月15日)は、日本の経済学者。名古屋大学名誉教授。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)校長や、初代名古屋大学経済学部長、経済社会学会会長、日本学術会議会員等を歴任した。 1901年、岐阜県岐阜市生まれ。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)、東京商科大学(現一橋大学)予科を経て、1924年に同大本科を卒業。大学では左右田喜一郎に師事した。1942年に学位論文『国民経済ノ構造変動ノ本質並ニ原因ニ関スル研究』を提出して経済学博士号を取得。 1922年より指導教官左右田が主催した横浜社会問題研究所主任研究員。
安宅 英一(あたか えいいち、1901年1月1日 - 199… 安宅 英一(あたか えいいち、1901年1月1日 - 1994年5月7日)は、日本の実業家。安宅産業会長、相談役社賓。芸術家のパトロン・美術品コレクターとしても知られた。 安宅産業創業者安宅弥吉、静子の長男として生まれる。英国領であった香港で生まれたため「英一」と名付けられた。 弟に重雄(安宅産業第2代社長)、妹に登美子(長谷川周重夫人)がいる。 大阪偕行社付属小学校(現:追手門学院小学校)を経て、兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)に入学。一中時代の同級生には有馬大五郎(NHK交響楽団副理事長、国立音楽大学学長)がおり、親友として晩年まで過ごした。また16歳の頃から、登美子のピアノ練習に触発され、上京してピアノのレッスンを受けた。
殿岡 利男(とのおか としお、1901年1月1日 -1982… 殿岡 利男(とのおか としお、1901年1月1日 -1982年3月29日 )は、栃木県足利市出身のアキレス創設者。
藤井 勝之助(ふじい かつのすけ、1901年(明治34年)1… 藤井 勝之助(ふじい かつのすけ、1901年(明治34年)1月1日 - 1984年(昭和59年)12月13日)は、京都府出身の日本の実業家。得三郎商店(のちの株式会社龍角散)の婿となり、2代没後に得三郎を襲名した。3代得三郎。 京都府出身で、旧制青山学院高等部を卒業した後に、三井物産に入社。その後、藤井得三郎商店に入り、養女(先代の妻の姪)の婿となり、家督を継ぎ、3代目得三郎を襲名。康男の父。康男が日本初の臨床試薬会社ヤトロン(現在のLSIメディエンス)の社長となると、自分は会長となる。のちに得三郎を襲名し、3代目となる。業界のことにつくした。 株式会社の3代目。秋田の藤井玄淵から数えると、6代目である。
三木 茂(みき しげる、1901年1月1日 - 1974年2… 三木 茂(みき しげる、1901年1月1日 - 1974年2月21日)は、日本の植物学者。メタセコイアの発見者。 香川県木田郡奥鹿村(現:三木町鹿庭)出身。 盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)を経て、1925年、京都帝国大学理学部卒業、後に同教授。大阪学芸大学(現:大阪教育大学)教授、大阪市立大学教授を歴任。また、大阪自然科学研究会(大阪市立自然史博物館友の会の前身)の会長を務め、自然史科学の普及活動に貢献した。 1939年、和歌山県・岐阜県から、常緑樹のセコイアやヌマスギとは異なる落葉樹の植物遺体(化石の一種)を発見し、1941年にメタセコイアと命名、発表した。遺跡出土の植物遺体についても多くの考察を残した。
小田 成就(おだ しげなり / じょうじゅ、1901年(明治… 小田 成就(おだ しげなり / じょうじゅ、1901年(明治34年)1月1日 - 1975年(昭和50年)6月12日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選奈良県知事。海軍司政長官。妻・英子は樺山資英の三女。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 兵庫県出身。小田半平の二男として生まれる。第八高等学校を卒業。1923年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県属となる。 以後、奈良県警察部保安課長、大阪府監査官・保安課長、神奈川県社会課長、同地方課長、同庶務課長、和歌山県書記官・学務部長、愛知県書記官・学務部長、文部書記官、文部省社会教育局成人課長などを歴任。
沖野 悟(おきの さとる、1901年〈明治34年〉1月 - … 沖野 悟(おきの さとる、1901年〈明治34年〉1月 - 1964年〈昭和39年〉5月1日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 広島県出身。沖野広松の長男として生まれる。第一高等学校を首席で卒業。1924年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し土木属となる。同年11月、高等試験行政科試験に合格。 以後、地方警視として秋田県、兵庫県、神奈川県で勤務。さらに、都市計画地方委員会事務官兼地方事務官、大阪府工場監督官、宮崎県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、内務書記官・警保局防犯課長、埼玉県書記官・総務部長、福岡県総務部長などを歴任。 1942年7月、高知県知事に就任し、戦時下の対応に尽力。
小坂 勝人(こさか かつんど、1901年(明治34年) – … 小坂 勝人(こさか かつんど、1901年(明治34年) – 1953年(昭和28年))は大正時代から昭和時代前期にかけての日本画家。 富山県高岡市国吉に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)卒業後、東京美術学校日本画科、同校研究科で学ぶ。結城素明に師事。1926年第7回帝展「海景」で初入選、以後同展、新文展、日展に作品を発表する。戦禍を避けて城端町に疎開し、戦後は富山県日本画家連盟の設立等に尽力した。
松本 美行(まつもと よしゆき、1901年〈明治34年〉 -… 松本 美行(まつもと よしゆき、1901年〈明治34年〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。 島根県松江市生まれ。1925年、京都帝国大学経済学部を卒業。山陰合同銀行参与、山陰貯蓄銀行頭取、松江市議会議長、島根県松江市教育委員会委員長などをつとめた。 趣味は読書。宗教は禅宗。住所は松江市寺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
谷口節道(たにぐち せつどう、1901年 - 1986年)は… 谷口節道(たにぐち せつどう、1901年 - 1986年)は、日本の曹洞宗の僧侶、福祉事業家。霊眼寺(富山県富山市中布目)住職。児童養護施設ルンビニ苑(富山県富山市中布目)初代園長。 駒澤大学専門部を女性として初めて卒業した、5人の尼僧のひとりとしても知られる。尼僧の地位向上にも貢献した。駒澤大学での勉学を終えて、郷里の富山に戻る折、複数の戦争孤児らを見るに見かねて、ともかくも一緒に連れ帰ったのが、福祉事業の最初とされる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
池辺 武人(いけべ たけと、1901年(明治34年) - 1… 池辺 武人(いけべ たけと、1901年(明治34年) - 1993年(平成5年))は、日本の造園家である。宮内関連の庭園に多く関わっている。熊本県出身。 1923年(大正12年)、東京帝国大学農学部実科林学科卒業後、農学部附属演習林嘱託。師の本多静六のもとで、小諸城#懐古園(1926年(大正15年)竣工)の設計に関与。1924年(大正13年)上野公園竹の台陳列館にて国民美術協会主催で行われた「帝都復興創築展覧会」では「都大路三題」を出展している。 演習林嘱託退職後の1927年(昭和2年)から宮内省に移籍。宮内技手補として内匠寮工務課庭園係に勤務。1933年(昭和8年)に宮内技手。省では、皇居の大道庭園詰となる。
上条 憲太郎(かみじょう けんたろう、1901年 - 197… 上条 憲太郎(かみじょう けんたろう、1901年 - 1977年)は、日本の教育者、長野県教育長などを歴任した。 長野県東筑摩郡笹賀村(現在の松本市笹賀)に生まれ、松本高等学校 (旧制)から東京帝国大学文学部へ進んだが、在学中に満州へ渡り南満州鉄道が運営する鞍山の中学校で教鞭を執った。1926年に復学して美学芸術学を専攻し、卒業後、静岡県や千葉県での教職を経て、1940年長野中学校校長、1944年長野青年師範学校校長などを歴任した。 第二次世界大戦後の1946年には信濃教育会会長となったが、第22回衆議院議員総選挙に際して、組織内候補者への応援が選挙違反に問われ5か月で会長職を辞任した。その後、1955年に長野県教育長に就任し、折から教員の勤務評定が全国的に教育現場の問題となる中、「長野方式」と称される方式の導入を主導した。
渡邉 信一(わたなべ しんいち、1901年 - 1984年… 渡邉 信一(わたなべ しんいち、1901年 - 1984年)は、日本の経済学者。東京帝国大学経済学部教授、名古屋大学経済学部長などを経て、名古屋大学名誉教授。 愛知県出身。1922年第八高等学校文科甲類卒業。1925年東京帝国大学経済学部経済学科卒業、東京帝国大学経済学部助手。1946に東京帝国大学経済学部教授を辞職し、1948年から名古屋大学法経学部教授として経済史講座を担当した。1950年名古屋大学評議員。1952年名古屋大学学生部長。1955年名古屋大学経済学部長。退官後、名古屋大学名誉教授。1984年正四位。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
蕗沢 紀志夫(ふきざわ きしお、1901年 - 1981年)… 蕗沢 紀志夫(ふきざわ きしお、1901年 - 1981年)は、日本の応用化学者、翻訳家。出生名は、蕗沢喜芳(ふきざわ のぶよし)。妻は同じく翻訳家の蕗沢忠枝。 長野県東筑摩郡芳川村野溝(現・松本市)出身。東京高等工業学校附設工業教員養成所・応用化学科を卒業した後、学校現場で理科・化学を教えるとともに、30代のころに高名な応用化学者たちとの共著書を著していることから、専門性に秀でた化学者であったとうかがえる。30代の終わりごろ、戦時中に『国策線上の理化教材』を著す中で「理化教育の国策化」を教育目標に掲げており、当時の皇国教育の立場に立っていた。敗戦後、民主教育の導入に伴う教師たちの思想的転向が一般的であった中で、蕗沢も例外でなかったと考えられる。
野村 重臣(のむら しげおみ、1901年 - 1954年)は… 野村 重臣(のむら しげおみ、1901年 - 1954年)は、民法学者・政治評論家。大日本言論報国会理事。 石川県出身。同志社大学法学部政治科を卒業し同大助教授となるが、右翼的・国粋主義的な言論について学内で反発を呼び、1936年『同志社論叢』に寄稿した論文「日本国民社会科学の建設と国体の真実」が不掲載となったことをきっかけとして林要・田畑忍・松山斌を左翼偏向と糾弾し、同僚の古谷美貞と計らって林らの解雇を要求。これに対し湯浅八郎総長は林を馘首するものの、その一方で古谷ともども野村も大学を解雇される。 その後も野村は学外で右翼団体や配属将校を巻き込みながら湯浅や同志社内のリベラル・左派系の教員への攻撃を続け、翌1937年には瀬川次郎・村井藤十郎両教授らが野村に同調する形で湯浅総長に上申書を提出。
泰井 武(やすい たけし、1901年 - 1997年)は、日… 泰井 武(やすい たけし、1901年 - 1997年)は、日本の建築家。泰井の作品については実績で詳らかなものは少ないが、広く知られているものに駿府城跡に立地する静岡県庁舎本館(1937、登録文化財)が挙げられている。1934年(昭和9年)の静岡県庁舎懸賞設計競技に当選したものであるが、実施設計は静岡県営繕課の中村與資平・大村巳代治らによっておこなわれた。 名古屋高等工業学校の出身で、卒業後は東京市臨時建築局学校建設課に勤務。大正15年(1926)開催の神奈川県庁舎懸賞設計に応募し、三等二席に入選。1927年(昭和2年には西村好時が所属する第一銀行に勤め、西村の独立とともに西村設計事務所に移った。
李 如星(り じょせい、イ・ヨソン、이여성、1901年 - … 李 如星(り じょせい、イ・ヨソン、이여성、1901年 - 1958年?)は朝鮮のジャーナリスト、作家、政治家、社会主義運動家、美術史家。朝鮮日報社調査部長・社会部長、東亜日報社調査部長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議議員。本名は李命鍵(イ・ミョンゴン、이명건)。 1901年に大邱の裕福な家庭に生まれる。 その後、日本統治時代の朝鮮において言論活動や社会運動に携わる。1918年に、金若水らと中華民国・南京にある金陵大学(現・南京大学)に留学するが、翌1919年に朝鮮に戻って三・一運動に参加し、投獄される。 1922年から1925年まで立教大学に留学し、北星会や一月会といった組織に関わりながら、社会主義思想を発展させる。
森崎 小平(もりさき こへい、1901年(明治34年) - … 森崎 小平(もりさき こへい、1901年(明治34年) - ?)は、日本の技術者、発明家。 早稲田大学附属工学校電気科、東京工学院(現在の東京工学院専門学校)電気高等科を卒業した。1923年(大正12年)に電気事業主任技術者資格検定の第二種試験に合格し、逓信省電気試験所第五部(蓄電池研究部)に奉職した。1924年(大正13年)に辞め、東京市三徳商会と提携して蓄電池と充電器の製造販売に従事した。1927年(昭和2年)に神戸電機製作所に入所した。
浅田家 寿郎(あさだや じゅうろう、1901年 - 1980… 浅田家 寿郎(あさだや じゅうろう、1901年 - 1980年)は、昭和期に活躍した漫才師。本名は竹田 幾之助。 大阪府大阪市南区河原町(現在の中央区)で生まれ、7歳で狂言で初舞台を皮切りに歌舞伎、新派新劇、俄、黒子などを経験。24歳で漫才に転向して浅田家朝日に入門し、浅田家十郎を名乗って後に妻になる浅田家朝菊と組んだ。 ミスワカバ、戦後は林田十郎と名前が紛らわしいので浅田家寿郎と改名して戎橋松竹に出演し、深田繁子 を2年、浮世亭歌楽を3年とコンビを変える。 千日劇場後に吉本興業が演芸場を復活させると専属になり、美山なをみを3年、星ララ子、守住田鶴子、二葉家美千子とコンビを変えた。吉本の劇場では人生幸朗・生恵幸子、中田ダイマル・ラケットほどの活躍はないものの古老として秋山右楽・左楽、花柳つばめ・浪花松枝(花柳つばめ・浪花松枝)、一輪亭花蝶・松原勝美などと共に淡々と舞台を勤めた。
志度 藤雄(しど ふじお、1901年 - 1986年)は、日… 志度 藤雄(しど ふじお、1901年 - 1986年)は、日本のフランス料理人。吉田茂が首相を務めていた際に官邸料理人の任に就き「吉田茂の料理番」、「日本のフレンチの草分け」、「フレンチの先駆者」、「ムッシュ志度」とも称される。 香川県大川郡三本松町(大内町を経て、現在の東かがわ市)で植田右衛門・かつ夫妻の間の8人兄弟の末っ子に生まれる。生後間もなく、志度繁太郎・まさ夫妻の三男として養子となる。 三本松尋常高等小学校を卒業後、義理の叔父が経営する神戸市の西洋料理屋「精養軒」へ住み込みで働く。4年以上勤めた後、先輩や友人の勧めでいくつか働き先を移り歩いた後、1921年に京都市の「萬葉軒」に就職する。
大村 勇(おおむら いさむ、1901年 - 1991年)は日… 大村 勇(おおむら いさむ、1901年 - 1991年)は日本の牧師、日本基督教団第6代総会議長。日本キリスト教協議会の議長も務めた、エキュメニカル派の牧師。日本基督教団阿佐ヶ谷教会の牧師を務める。
古森 善五郎(こもり ぜんごろう、1901年 - 1959年… 古森 善五郎(こもり ぜんごろう、1901年 - 1959年)は、日本の外科学者、ドイツ陸軍の軍人(軍医)。
井原 栄松(榮松、いはら さかえまつ、1901年(明治34年… 井原 栄松(榮松、いはら さかえまつ、1901年(明治34年) - 1990年(平成2年) 12月4日)は、日本の政治家・地方公務員。北海道小樽市出身。札幌商業学校卒業。北海道の町村長を歴任した。位階は正六位。
人見 豊治(ひとみ とよはる、1901年 - 1943年11… 人見 豊治(ひとみ とよはる、1901年 - 1943年11月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。
小林 正(こばやし まさし、1901年 - 1946年)は、… 小林 正(こばやし まさし、1901年 - 1946年)は、日本の脚本家である。 1901年(明治34年)に生まれる。 のちの映画監督の山本嘉次郎とは慶應義塾普通部(現在の慶應義塾高等学校)時代の同級生で、山本にシリアル・フィルム『名金』やブルーバード映画等、最新のアメリカ映画の存在を教え、ともに享受した。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後、京都に移り、日活大将軍撮影所の現代劇部門である第二部で、1924年(大正13年)、久米正雄の小説『冷火』を脚色して映画化、脚本家としてデビューする。1926年(大正15年)には旧友の山本嘉次郎らと共同で溝口健二監督の『海国男児』の脚本を執筆している。
東 武雄(あずま たけお 1901年 - 1945年11月2… 東 武雄(あずま たけお 1901年 - 1945年11月2日)は、日本の元アマチュア野球選手。身長5尺8寸(約176cm)、体重20貫余(約75kg)。右投。大阪府大阪市出身。戦後、東京都知事を務めた東龍太郎は兄に当たる。 医者の子として大阪船場で生まれ、天王寺中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学農学部に進学。 1925年秋、東京帝大の東京六大学リーグ加盟時の投手である。由谷敬吉や梶原英夫と並んで、東京大学野球部史上の「名投手三羽烏」と呼ばれる人物の一人。 1925年秋季対法大戦で六大学リーグ初の本塁打、1927年春季の対立教大戦ではノーヒットノーランを達成(現在まで東大選手唯一の記録)。
田中 四郎(たなか しろう、1901年 - 1945年8月1… 田中 四郎(たなか しろう、1901年 - 1945年8月15日)は、日本の実業家。歌人・俳人としても知られ、青野 梓のペンネームでも活動した。神戸高等商業学校在学中に初代学生横綱になった経歴があるほか、戦時期には出版統制機関である日本出版文化協会で要職を務めている。夫人は金子直吉の次女・須磨子。 和歌山県出身。和歌山商業学校(現在の和歌山県立和歌山商業高等学校)時代、全国少年相撲大会で優勝した。 1918年(大正7年)、神戸高等商業学校に入学(第16回生)、相撲部に所属。全国少年相撲大会での優勝経験によって相撲部キャプテンであった久琢磨がスカウトをかけたという。1919年(大正8年)、第1回全国学生相撲大会で優勝し、初代学生横綱となった。
木島 節夫(きしま せつお、1901年〈明治34年〉 - 1… 木島 節夫(きしま せつお、1901年〈明治34年〉 - 1978年〈昭和53年〉10月19日)は、日本の政治家。鳥取県八頭郡若桜町長。若桜町議会議長。若桜町森林組合組合長理事。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)出身。鳥取県立鳥取第一中学校を卒業する。前若桜町長太田義太郎辞職の後を承けて候補者に推され、無投票当選する。 1958年3月14日から1962年3月8日までと同年3月12日から1966年2月25日まで若桜町議会議長をつとめる。1966年3月23日から1970年3月22日まで若桜町長をつとめる。1978年死去。死没日付をもって正六位に叙された。 住所は鳥取県八頭郡若桜町大字若桜。
土井美夫(どい よしお、1901年 - 1986年)は日本の… 土井美夫(どい よしお、1901年 - 1986年)は日本の植物学者である。 広島県尾道市出身、広島高等師範学校付属臨時教育育成養成所を卒業し、鹿児島県、広島県で中学、高校の教員を務めた。鹿児島県旧制伊集院中学の教員、教頭時代などに多くの新種の植物を採集した(沖縄、台湾等でも採取を行った)。鹿児島を訪れた天皇へご進講した。後に、広島県山中女子師範学校等に勤務。原爆投下時、2.5㎞地点で被爆した。長年にわたり採集、分類した多くの標本は、広島大学の宮島分所に保管されている。著書に、『薩摩植物誌』(文明堂書店、1926年-1931年)、『広島県植物目録』(博新館、1983年)(広島県の植物目録として、初期のものである。
小田 信士(おだ しんじ、1901年〈明治34年〉 - 19… 小田 信士(おだ しんじ、1901年〈明治34年〉 - 1997年〈平成9年〉8月11日)は、日本の教育者。 1901年、山形県生まれ、山形県立 酒田商業学校から、1922年に新設の福島高等商業学校(現在の福島大学)に進学、第一期生として1925年に卒業、さら九州帝国大学経済学部に進み、1930年に卒業。 青山学院専門部および明治学院の教授を経て、1946年、弘前学院(大学・短大・高校)院長、1960年に宮城学院長となり、宮城学院女子大学長を兼務する。併せて、前任校弘前学院名誉院長となる。敬虔なクリスチャンであり、生涯、教育者としてミッションスクールで教鞭をとるかたわら、研究者としては、キリスト教経済思想史の著作を上梓する。