片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月2… 片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月20日 - 1977年(昭和52年)10月22日)は、螺鈿師、蒔絵師。本名は照三郎。東京都出身。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
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片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月2… 片岡 華江(かたおか かこう、1889年(明治22年)8月20日 - 1977年(昭和52年)10月22日)は、螺鈿師、蒔絵師。本名は照三郎。東京都出身。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968… 館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968年9月27日)は、日本の内務官僚・政治家。参議院議員(3期)、府県知事。旧姓・木津。 富山県高岡市出身。木津太郎平の二男として生まれ、後に館萩江の入夫となり改姓。富山県立高岡中学校、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、内務省に入り岐阜県属として内務部学務兵事課に配属された。1917年(大正6年)10月、文官高等試験に合格した。 1918年(大正7年)4月、岐阜県警部となる。以後、同県警視・警務課長兼工場課長、同県内務部産業課長、神奈川県外事課長、茨城県知事官房文書課長兼内務部社会課長、内閣書記官、内閣官房記録課長、同総務課長などを歴任。
石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8… 石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8月18日 - 1981年〈昭和56年〉9月20日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議長(第54代)、副総理、法務大臣、通商産業大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、運輸大臣、商工大臣、朝日放送社長を歴任した。久留米市名誉市民。 福岡県久留米市出身。石井百次の四男として生まれ、1897年(明治30年)家督を相続。久留米商業学校(現・久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1914年(大正3年)東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部を卒業する。 1913年(大正2年)に高等文官試験に合格し、東京高商専攻部卒業後に警視庁警部、台湾総督府秘書課長兼外事課長などを経て1922年(大正11年)に朝日新聞社入社。
野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月… 野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月17日 - 昭和39年(1964年)3月31日)は、和歌山県出身の日本画家。国画創作協会の創立メンバーとして大正時代の日本画界で活躍した。 和歌山県西牟婁郡近野村(現:田辺市中辺路町近露)に資産家の三男として生まれる。本名、弘男。初め蘆秋と号する。 明治36年(1903年)14歳で大阪に出て、円山派の中川蘆月のもとで4年間基礎を学び、その後京都の谷口香嶠塾に移る。 明治42年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学(同級に小野竹喬、土田麦僊ら)。2年目には授業に出席せず(翌々年退学)、秦テルヲや竹久夢二をはじめとする進歩的な若い芸術家たちとの交流を深めた。
武塙 祐吉(たけはな ゆうきち、1889年〈明治22年〉8月… 武塙 祐吉(たけはな ゆうきち、1889年〈明治22年〉8月15日 - 1964年〈昭和39年〉4月3日)は、日本の政治家。第12代秋田市長。号は三山。 秋田県南秋田郡上井河村井内(現・井川町井内)に生まれる。本荘中学校(現・秋田県立本荘高等学校)を経て、1912年(明治45年)、早稲田大学法律科卒。卒業後1913年(大正2年)秋田魁新報社に入社したが、1914年(大正3年)に退社し帰郷した。 1920年(大正9年)、秋田県農会書記に就職するが、1923年(大正12年)に辞任し、同年秋田魁新報社に再入社した。 同社では経済、整理の各部長、副主筆、監査役、取締役編集局長、常務取締役に進んだ。 1945年(昭和20年)、上井河村長に就任。
内藤 豊次(ないとう とよじ、明治22年(1889年)8月1… 内藤 豊次(ないとう とよじ、明治22年(1889年)8月15日 - 昭和53年(1978年)3月20日)は、日本の実業家。エーザイ創業者・元社長。 戦前、日本の薬業界が主に外国品の輸入に頼っていることに対し、日本でも新薬の研究開発に注力しなければならないと考えていたという。周りの協力が得られなかったため、独力で創業した「合資会社桜ヶ岡研究所」が、現在のエーザイである。 福井県丹生郡糸生村(現・越前町)出身。明治36年(1903年)武生中学校を2年で中退したが、この時点で旧制高等学校卒業程度の学力を持っていたためという。明治38年(1905年)に大阪の工場で奉公し、翌年神戸の貿易商ウインケル商館(経営者はドイツ人)に勤める。
川瀬 俊男(かわせ としお、1889年8月15日 - 198… 川瀬 俊男(かわせ としお、1889年8月15日 - 1982年6月9日)は、日本の経営者。愛知県出身。 1918年に東京帝国大学法学科を卒業。三菱製紙での勤務を経て、1934年に江戸川化学工業常務に就任し、1946年には社長に昇格した。1956年から1960年6月までに会長を務めた。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年6月9日高血圧性心不全のために死去。92歳没。
杉 寛(すぎ かん、1889年8月14日 - 1974年8月… 杉 寛(すぎ かん、1889年8月14日 - 1974年8月7日)は、日本の俳優、元オペラ歌手である。杉 寬と表記されることもある。本名は杉山 寬治(すぎやま かんじ)。浅草オペラの花形として活躍し、後年は東宝、新東宝等で活躍したバイプレーヤーである。 1889年(明治22年)8月14日、東京府東京市本郷区曙町(現在の東京都文京区本駒込)に生まれる。1919年(大正8年)に発行された『人気役者の戸籍調べ』(文星社)の杉の項では、生年は「明治二十五年」(1892年)、本名は杉山寬次(読み同じ)である旨が記されている。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)卒業。小間物商を経て欧州航路の船員となるが、1913年(大正2年)に帝国劇場洋劇部の第3期研究生となり、日本のオペラ界に影響を与えたイタリアの演出家ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー(1867年 - 1940年)にオペラを師事。
三富 朽葉(みとみ くちは/きゅうよう、1889年〈明治22… 三富 朽葉(みとみ くちは/きゅうよう、1889年〈明治22年〉8月14日 - 1917年〈大正6年〉8月2日)は、日本の詩人。本名は義臣。 長崎県石田郡武生水村(現・壱岐市)生まれ。父・道臣は石田郡長を務めた。1896年、本家の伯父三富浄の養嗣子となる。旧制暁星中学校を経て、1908年に早稲田大学予科を修了し、早稲田大学本科英文科に入学する。大学の同期には宇野浩二・廣津和郎がいる。1909年、人見東明、加藤介春、福田夕咲らとともに、自由詩社を結成する。自由詩風で認められ、またフランス文学批評も著した。1911年、早稲田大学英文科を卒業。 1917年8月2日、犬吠埼君ヶ浜で溺れた友人の今井白楊を助けようとして、そのまま水死した。
中江 丑吉(なかえ うしきち、1889年(明治22年)8月1… 中江 丑吉(なかえ うしきち、1889年(明治22年)8月14日 - 1942年(昭和17年)8月3日)は、大正・昭和期の中国学者。 中江兆民の長男として大阪に生まれた。小石川竹早小学校、旧制早稲田中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1913年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌年8月に袁世凱の憲法制定顧問となった有賀長雄博士の助手として北京に赴く。これは当時官界にあった曹汝霖・章宗祥が日本留学中に中江家に寄寓していたという機縁によるものである。その期限が満了した1915年夏に日本に帰国。しかし、数ヶ月後に再び中国に渡り、以降30年にわたる北京での生活を始める。1919年、五四運動の際には曹汝霖・章宗祥を救出し、その前後から中国思想の研究に励む。
佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 … 佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 - 1961年(昭和36年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級 鹿児島県桑原郡横川村(横川町を経て現霧島市)で生まれた。陸軍士官学校第23期卒業。青島の戦いに従軍し戦傷を受けた。1937年(昭和12年)7月20日に歩兵第80連隊補充隊長に就任し、11月1日に陸軍歩兵大佐に進級。1938年(昭和13年)5月に歩兵第23連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団)に転じ、日中戦争に出動。武漢作戦では漢口に一番乗りの戦果を挙げ、岳州を根拠地として贛湘作戦などにも参加した。1940年(昭和15年)8月1日に熊本陸軍教導学校長に転じた。
安蔵 弥輔(あんぞう やすけ、1889年8月7日 - 19… 安蔵 弥輔(あんぞう やすけ、1889年8月7日 - 1963年1月22日)は、東京電力の初代社長(1951年5月 - 1952年9月)。他に東京電力会長、東京電力記念科学研究所理事長、日本電気協会会長を務めた。 1889年、東京生まれ。旧制東京中学、旧制第二高等学校を経て1912年東京帝国大学電気工学科を卒業後、猪苗代水力電気に入社。1923年猪苗代水力電気が東京電燈に合併されたことに伴い同社に移り、技師長や工務部長、取締役などを経て、1938年常務に就任。 戦後日本発送電副総裁を経て、1951年東京電力の初代社長に就任。翌1952年新井章治会長が死去したことに伴い会長に昇格。以後東電顧問、日本電力調査委員会委員長、日本電気協会会長などを歴任。
河目 悌二(かわめ ていじ、1889年8月6日 - 1958… 河目 悌二(かわめ ていじ、1889年8月6日 - 1958年4月23日)は、大正・昭和期の日本の画家(童画・商業美術)。愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身。初山滋、岡本帰一、川上四郎、武井武雄らとともに「童画の第一世代」のひとりである。父は教育者の河目正平。 1889年(明治22年)8月6日、愛知県碧海郡刈谷町大字熊字本屋敷(旧・碧海郡熊村、現・刈谷市八幡町)に生まれた。父親の河目正平は碧海郡熊村出身であり、刈谷藩の藩校である文礼館の教員を務めていた。母親の徳丸あやは刈谷藩江戸屋敷に生まれ、10歳の時に刈谷に移住していた。悌二は次男であり、兄1人と姉2人がいる。兄の河目揆一は小高原尋常小学校(現・刈谷市立小高原小学校)などで校長を務めた教育者である。
杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月… 杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月5日 - 1952年(昭和27年)8月25日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教育者、指揮者。本名は杉山 直樹(すぎやま なおき)。別名として杉山 長谷雄、杉山 はせをという表記も見られる。 愛知県名古屋市出身。1913年(大正2年)東京音楽学校器楽科卒業。安藤幸、アウグスト・ユンケル、ハインリヒ・ヴェルクマイスター、アレクサンドル・モギレフスキーらにヴァイオリンや作曲を師事した。東京音楽学校を卒業後はヴァイオリン奏者として活躍し、高階哲夫、多基永、高勇吉、芝盂泰、多忠亮らと室内楽運動を展開。暁星中学校、俳優学校、陸軍戸山学校などで音楽を教えた。
新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1… 新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1979年4月27日)は、ドイツ文学者、演劇研究者。1943年恩賜賞受賞。1963年日本学士院会員。1967年文化功労者。文学博士。学習院教授、埼玉大学学長。河北町名誉町民。息子の新関欽哉は外交官、オーストリア、ソ連大使などを務めた。 山形県西村山郡谷地村横町(現・河北町谷地)生まれ。旧姓・平泉。谷地尋常高等小学校から西村山郡立西村山中学校(現・山形県立寒河江高等学校)に入学後、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転じる。東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。1912年、山形市の伯母新関せいの養子となる。第一高等学校文科を経て、1915年東京帝国大学文科大学独文科卒。
織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日… 織田 信恒(おだ のぶつね、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1967年〈昭和42年〉5月20日)は、日本の政治家、実業家、漫画原作者。貴族院議員。爵位は子爵。筆名は織田 小星(おだ しょうせい)。漫画『正チャンの冒険』の原案・文を作った。織田信正、織田信昭の父。 1889年(明治22年)8月3日、元相馬中村藩藩主の子爵相馬誠胤の長男として東京府に生まれる。生母は東明氏。初名は相馬秀胤(そうま ひでたね)。1895年(明治28年)6月、元天童藩藩主の子爵織田信敏の養嗣子となる。1901年(明治34年)7月1日、養父信敏の死去により襲爵。学習院高等科 (旧制)を経て、1915年(大正4年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入行した。
熊野 英(くまの えい、1889年〈明治22年〉8月3日 -… 熊野 英(くまの えい、1889年〈明治22年〉8月3日 - 1963年〈昭和38年〉2月3日)は、日本の内務官僚、政治家。官選群馬県知事、松江市長。旧姓・石倉。 島根県出身。石倉家に生まれ、熊野家の養子となる。松江中学校を経て、第一高等学校を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1915年、内務省に入省し鹿児島県属となる。 以後、鹿児島県警視、同県日置郡長、同薩摩郡長、同県理事官、和歌山県理事官、同農林課長、同地方課長、帝都復興院書記官、復興局書記官・整地部庶務課長、同用地課長、愛知県書記官・学務部長、大阪府書記官・学務部長、岐阜県書記官・内務部長、三重県書記官・総務部長などを歴任。
佐野 隆一(さの りゅういち、1889年8月1日 - 197… 佐野 隆一(さの りゅういち、1889年8月1日 - 1977年5月29日)は、日本の実業家・慈善家。自身が設立した鉄興社(現・東北東ソー化学)を日本有数の総合電気化学メーカーに成長させ、社長・会長を務めた。また、自身が蒐集した古美術品をもとに佐野美術館を設立したほか、出身地の三島市にたびたび寄付を行い、図書館や学校、福祉施設などの開設に貢献した。「三島のお父さん」と呼ばれ、三島市名誉市民(第1号)に推挙されている。静岡県田方郡三島町(現・三島市)出身。 1889年(明治22年)8月1日、静岡県田方郡三島町久保町(現・三島市中央町)の商家に生まれた。父親は佐野米吉、母親はたみであり、実家は秋月堂という和菓子舗を営んでいた。
田所 芳秋(たどころ よしあき、 1889年(明治22年)8… 田所 芳秋(たどころ よしあき、 1889年(明治22年)8月 - 1977年(昭和52年)6月29日) は、日本の鉱物学者。元日本製鐵八幡製鐵所研究所長。帝国学士院賞受賞。 高知県出身。旧制高知県立中学海南学校(現高知県立高知小津高等学校)を経て、1911年旧制大阪高等工業学校卒業。1916年東北帝国大学理科大学物理学科卒業、理学士。同年官営八幡製鐵所(研究課)入所。1920年東北帝国大学理学博士。官営八幡製鐵所研究所で研究し、日本製鐵八幡製鉄所技師、研究所監事、研究所長、日本製鐵理事などを経て、高知県工業試験場長に就任。1923年正七位勲六等瑞宝章。1934年帝国学士院賞受賞、従四位。1938年日本鉄鋼協会香村賞受賞。
山本 茂(やまもと しげる、1889年〈明治22年〉7月27… 山本 茂(やまもと しげる、1889年〈明治22年〉7月27日 - 1970年8月18日)は、日本の政治家・実業家。鹿児島県松山町議会議長(2期)、松山町議会議員(4期)、松山遺族会会長、松山町商工会会長などを歴任した。 1889年〈明治22年〉、和歌山県日高郡上山路村(現・田辺市)に生まれる。 1913年〈大正2年〉、23歳の時に医師を志して家を出て、親類を頼って人吉へ移った。1917年〈大正6年〉、製材所で勤めていた茂は、親類の杭木商・古久保安次郎の手引きで松山へ移った。翌1918年〈大正7年〉、28歳の時に水力利用の製材所を興し、以後製材業を続け、1940年〈昭和15年〉、囎唹郡製材統合株式会社副社長・郡内伐出組合長・県坑木組合囎唹支部長・県平木組合長に就任した。
石原 富松(いしはら とみまつ、1889年7月26日 - 没… 石原 富松(いしはら とみまつ、1889年7月26日 - 没年不詳)は、日本の化学者、鉱物工学者。東北大学名誉教授。鉱物の選鉱製錬研究において重要な業績を残した。特に、金属資源の有効利用に関する研究に従事し、戦前・戦中の日本の工業発展に貢献した。 1889年(明治22年)、宮城県に生まれる。旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を経て、1915年(大正4年)東北帝国大学理科大学化学科を卒業。東北帝国大学附属興業専門部、理学部を経て、1923年同大学工学部に勤める。1924年、イギリス、フランス、ドイツへ留学。同年、東北大学工学博士の学位を取得、選鉱製錬研究所の第三代所長に就任。当時、日本は自国の鉱物資源に乏しく、戦争遂行のために鉄や銅などの金属資源確保が急務で、石原は鉱石の選鉱技術や製錬技術を発展させ、より効率的に金属を精錬する方法を研究した。
河相 達夫(かわい たつお、1889年(明治22年)7月26… 河相 達夫(かわい たつお、1889年(明治22年)7月26日 - 1966年(昭和41年)10月31日)は、大正から昭和期の外交官、外務次官。終戦連絡中央事務局次長やオーストラリア公使等を務めた。旧姓・永井。 広島県賀茂郡竹原村(現竹原市)出身。永井潜の実弟で、河相保四郎の養子となる。旧制第一高等学校を経て1915年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、北海道炭礦汽船入社。翌年退職し1918年、外交官及領事官試験に合格、外務省入省。 バンクーバー総領事代理、青島在勤外務書記官、情報一課長、関東庁官房外事課長、米国大使館一等書記官、中国公使館一等書記官、広東、上海各総領事を歴任。1937年外務省情報部長となり、同年10月の米ルーズベルト大統領のシカゴ演説(隔離演説)に反駁談話を発表、「持てる国」中国に対し「持たざる国」日本が不公平是正の戦いを挑むことの正当性を主張し注目された。
緋縅 祐光(ひおどし すけみつ、1889年7月25日 - 1… 緋縅 祐光(ひおどし すけみつ、1889年7月25日 - 1928年10月14日)は、現在の千葉県市原市出身で二十山部屋に所属した元力士。本名は鈴木 勇作。167cm、109kg。最高位は東前頭17枚目。 1903年1月13歳で入門。1905年1月場所序ノ口に付き、最初「槙ノ嶌」を名乗って着実に出世した。1910年1月場所新十両昇進、一時番付に「牧ノ嶌」と書かれたこともあった。1913年1月場所幕下に陥落したが、1914年1月場所に十両に復帰した。1915年1月場所、再び幕下に陥落していたが、この場所から四股名を「緋縅」と改めて翌1915年6月場所で再び十両に復帰し、そこで4勝1敗の好成績を残して1916年1月場所で新入幕を果たした。
井上 赳(いのうえ たけし、1889年7月23日 - 196… 井上 赳(いのうえ たけし、1889年7月23日 - 1965年7月20日)は、島根県出身の文部官僚。1930年代の国語読本である『小学国語読本』(サクラ読本)の編集の中心となった。 県立松江中学校、第一高等学校(同期に近衛文麿、山本有三、土屋文明)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業した。1921年、鹿児島県の第七高等学校造士館教授の時、大学の先輩である高木市之助に誘われ、文部省図書監修官となる。以後20年にわたって国定教科書の編集に関わる。 1925年から教科書研究のため1年間欧米に留学する。 1931年から『小学国語読本』の編纂に着手する。従来巻一の冒頭に単語から教えていたが井上は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に象徴されるように文から習うように改めた。
青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1… 青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1956年12月26日)は、日本の俳優、演出家、映画監督である。本名は青山 達美(あおやま たつみ)。 新潟県北蒲原郡紫雲寺村(紫雲寺町を経て、現在の新発田市米子)にある浄土真宗大谷派紫雲寺に、父・宣と母・綱の長男として生まれる。12歳下の弟に青山敏美 がいる。旧制新発田中学校(現在の新潟県立新発田高等学校)を卒業した。 1909年(明治42年)、旧制早稲田大学哲学科に入学した。在学中から演劇活動に参加し、同大学創立記念祭の野外公演で、青山杉作を名乗り初舞台を踏む。しかし、僧籍を拒み演劇活動に熱中しすぎたため、実家から送金を絶たれてしまい、英文科に転じた後大学を中退する。
岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月2… 岡田 喜久治(おかだ きくじ、1889年〈明治22年〉7月21日 - 1959年〈昭和34年〉2月2日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(3期、立憲民政党)、参議院議員(1期、民主党)。農林政務次官。 栃木県芳賀郡清原村(現在の宇都宮市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。同年の高等文官試験に合格し、宮城県志田郡長、北海道庁理事官、石川県理事官を経て、警視庁理事官に任命され、工場課長、保安課長、外事課長、特別高等課長を歴任した。その後、宮崎県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長に就任。1927年(昭和2年)、京都市助役となった。1929年(昭和4年)、岐阜県書記官・警察部長となり、翌年には宮崎県書記官・内務部長となった。
森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 19… 森 幸太郎(もり こうたろう、1889年7月20日 - 1964年2月4日)は、昭和期の日本の政治家。衆議院議員、農林大臣、滋賀県知事などを歴任。位階は正三位。勲一等瑞宝章。 滋賀県東浅井郡竹生村(現在の長浜市)出身。1905年に長浜農学校を卒業後、家業の農業・蚕種製造・水産業などを行っていたが、政治の世界を志して竹生村長となり、1917年には38歳で立憲政友会より滋賀県会議員となり2期務める。1936年の第19回衆議院議員総選挙で滋賀県選挙区から立憲政友会の公認で立候補して当選するが、3期目を目指した1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補して落選した。
生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月1… 生駒 高常(いこま たかつね、1889年(明治22年)7月19日 - 1955年(昭和30年)10月16日)は、日本の内務・台湾総督府官僚。台中州知事、官選石川県知事。 兵庫県出身。生駒八十弥の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し専売局書記兼大蔵属となる。その後、内務省に転じた。 以後、警視庁警視、岡山県理事官、台湾総督府事務官兼同参事官、同内務局学務課長、同府秘書官、同総督官房文書課長兼調査課長、台中州知事などを歴任。1929年7月、拓務省管理局長に就任した。 1935年1月、石川県知事(「石川県知事一覧」参照)に就任。
木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 19… 木村 蓬伍(きむら ほういつ、1889年7月19日 - 1964年4月22日)は、日本の牧師。学校法人関西学院理事長を歴任した。 1889年、山口県宇部市に生まれる。1908年、日本メソヂスト下関教会で高橋泰平牧師より受洗。関西学院神学部を卒業後、エモリー大学神学部、同大学院を修了。1926年、受按。呉、京城、大阪東部(現:東梅田教会)各教会の伝道・牧会に従事した後、大阪東部伝道局巡回教師となる。西宮教会(現:西宮公同教会)の牧師在任中、ランバス女学院神学部、聖和女子学院神学部、関西学院神学部の講師を務めた。1960年6月から1964年4月まで、関西学院理事長を務めた。
木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18… 木戸 幸一(きど こういち、1889年〈明治22年〉7月18日 - 1977年〈昭和52年〉4月6日)は、日本の華族・官僚・政治家。 昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。 1889年(明治22年)7月18日に東京府赤坂区新坂町六二において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。 学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下に当たる。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
永井 要造(ながい ようぞう、1889年(明治22年)7月1… 永井 要造(ながい ようぞう、1889年(明治22年)7月16日 - 1962年(昭和37年)7月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県 甲府市下一条町(現城東)で、雑穀商・永井忠兵衛の長男として生まれる。市立甲府商業学校(現甲府市立甲府商業高等学校)を卒業後、満州、朝鮮に渡ったが帰国した。 1923年(大正12年)3月、横浜の日清製菓 (株) を買収し合資会社に改組して代表社員に就任。その他、日清煉乳取締役社長、ABC製菓取締役社長、日清化学食産社長、早川鉄工監査役、横浜商工会議所議員などを務めた。 1930年(昭和5年)横浜市会議員に選出され同参事会員も務め、1938年(昭和13年)まで2期在任した。
加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - … 加野 宗三郎(かの そうざぶろう、1889年7月14日 - 1946年1月23日)は、日本のパトロン、美術品収集家。 「金盛」という酒を醸造販売する、造り酒屋「萬屋」を営む加野熊次郎の長男として、福岡市中奥堂町(現・博多区)に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館を経て、1911年大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)醸造科を卒業。 家業の酒造業を営む傍ら、美術や文芸に関心を向け、多くの美術家や詩人・俳人らと交友を持つ。所有する別邸「柳北亭」や「環水荘」は、来福の文人墨客のたまり場となった。交友のあった美術家には、青木繁、青山熊治(ドイツ語版)、津田青楓、森田恒友、正宗得三郎、村上華岳、榊原紫峰、冨田溪仙、小野竹喬、山崎朝雲、冨永朝堂、恩地孝四郎などがあり、文筆家では与謝野鉄幹・晶子夫妻、北原白秋、吉井勇、高浜虚子といった人たちがいた。
高橋 百千(たかはし ももち、1889年7月14日 - 19… 高橋 百千(たかはし ももち、1889年7月14日 - 1973年8月8日)は船舶交通に関する人物。 台湾総督府交通局技師として現地の方を尊重し、台湾と日本の関係良好の礎を築いた。戦後は日本モーターボート選手会が今の競艇に発展するための法整備などに尽力。[要出典] 広島県広島市東白鳥町で生まれる。1916年(大正5年)、官立商船学校機関科(現・東京海洋大学海洋工学部)卒業。日本郵船機関士を務めた後、1917年(大正6年)逓信省管船局に入り、名古屋逓信局海事部長を経て、1940年(昭和15年)日本船用品統制副社長、1949年(昭和24年)日本船燈監査役となる。 1956年(昭和31年)日本船舶機関士協会会長、1957年(昭和32年)全国モーターボート競走施行者協議会事務局長を務める。
平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1… 平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1923年9月3日)は、近代日本の劇作家・労働運動家である。日本のプロレタリア演劇の祖にして、生活協同組合及び労働金庫の設立の提言者でもある。関東大震災直後に、亀戸警察署に検束され労働運動家であったために他の活動家とともに虐殺された。妻の松は森竹次郎(森泰吉郎の父である磯次郎の義父)の次女。実子は、平澤綾子がいた。 若い頃、「潮態」あるいは「紫魂」の筆名を用いた。新潟県小千谷町(現・小千谷市)の出身。小学校を卒業すると、日本鉄道株式会社(現・JR東日本)大宮工場に就職した父に連れられて故郷を後にし、同工場付属職工養成所に入った。そこで3年間、近代的鍛冶工としての技術を身につけた。
兪 万兼(ゆ まんけん、ユ・マンギョム、朝鮮語: 유만겸、1… 兪 万兼(ゆ まんけん、ユ・マンギョム、朝鮮語: 유만겸、1889年(高宗26年 / 明治22年)7月13日 - 1944年(昭和19年)12月13日)は、大正から昭和にかけての朝鮮総督府官僚。位階は正四位、勲位は勲三等。 1889年に兪吉濬の長男として漢城府で生まれた。培才学堂、興化学校を卒業し、日本に留学。1913年(大正2年)に岡山県の旧制第六高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部経済科に入学。1917年(大正6年)に卒業。大学院に進んだが、1918年(大正7年)に朝鮮に帰り、朝鮮総督府に奉職する。1920年(大正9年)に聞慶郡守に昇進し、1921年(大正10年)に慶尚北道庶務課長、1922年(大正11年)に同道社会課長などを歴任した。
地主 悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22年)7月1… 地主 悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22年)7月12日 - 1975年(昭和50年)11月26日)は、日本の洋画家。 1889年、地主正次の次男として山形県鶴岡最上町(現:鶴岡市)に生まれる。 1905年に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)に進むも中退。検定試験に合格し小学校教諭となる。 1913年、画家坂本繁二郎の作品を見て、感銘を受け、弟子となる。 その後、図画教諭の検定試験に合格。秋田県師範学校、山口県女子師範学校、鶴岡中学校(現:鶴岡南高等学校)で教鞭を執った。また1950年には鶴岡の美術団体「白甕社」会長に就任。庄内の芸術文化の発展にも尽力した。 1954年に健康を害したことから、転地療養も兼ね、友人である真田祐太郎が居住する神奈川県中郡二宮町に移る。
菅野 廉(かんの れん、1889年(明治22年)7月12日 … 菅野 廉(かんの れん、1889年(明治22年)7月12日 - 1988年(昭和63年)7月8日)は、日本の洋画家。宮城県黒川郡大衡村生まれ。東京美術学校を卒業し、戦前は二科で、戦後は河北美術展などで活躍した。「蔵王の画家」と呼ばれる。 昭和万葉の森の敷地内にある「大衡村ふるさと美術館」は、作品の一部を常設展示している。 1889年(明治22年)7月12日、宮城県黒川郡大衡村に生まれる。1910年(明治43年) 宮城県師範学校卒業。1911年(明治44年) 東京美術学校に入学。1915年(大正4年) 東京美術学校卒業。 1925年(大正14年) 二科展に入選。1931年(昭和6年) パリに留学。
尾関 義一(おぜき ぎいち、1889年(明治22年)7月11… 尾関 義一(おぜき ぎいち、1889年(明治22年)7月11日 - 1966年(昭和41年)2月14日)は、明治末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(3期)。 広島県三上郡、のちの比婆郡本田村(現庄原市)出身。1907年(明治40年)中央大学法律科を卒業。弁護士の業務に従事。 犬養内閣嘱託、衆議院嘱託、立憲政友会幹事、吉田内閣内閣総理大臣秘書官を務めた。立憲政友会幹事長森恪の側近として活躍し、森の没後は林譲治と共に活動した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に栃木県第1区から日本自由党公認で出馬して落選。落選後の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月… 篠原 新三(しのはら しんぞう、1889年〈明治22年〉7月9日 - 1966年〈昭和41年〉4月13日)は日本の画家・水彩画家である。水彩画の普及と信州での美術の発展に多大に貢献した。 長野県上水内郡芹田村(現・長野市中御所)に資産家である篠原勝之助の三男として生まれる。長野商業学校(現・長野商業高等学校)在学中、長野師範学校で開催された水彩画研究会に参加。河野通勢、草川信を知り、共に絵画グループを結成する。 卒業後上京し、日本水彩画会研究所に入り、日本水彩画の父・大下藤次郎の指導を受ける。大正元年(1911年)太平洋画会会員となり、大正2年(1913年)丸山晩霞ら総勢37名と日本水彩画会を創立。
足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉… 足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉7月8日 - 1973年〈昭和48年〉3月31日)は、日本の画家、作家、登山家。山岳作家として国内外に足跡を残し、『滝谷ドームの北壁』『北穂高岳南峰』など、数々の名作を世に送り出した。 大阪府大阪市南船場生まれ。1905年に京都市立美術工芸学校(現:京都市立芸術大学)に入学し、翌年からは京都岡崎に新設された関西美術院にも通って浅井忠や鹿子木孟郎の指導を受けた。 1907年に上京して太平洋画会研究所に入る。さらに柚木久太の勧めで1914年から渡欧。1914年〜1918年、1923年〜1926年の7年のパリへの渡欧を経て画家としての基礎を学ぶ。
稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治2… 稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治22年)7月7日 - 1979年(昭和54年)4月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鳥取県邑美郡古市村(岩美郡美保村古市を経て現鳥取市古市)で、稲田益造、ちせ夫妻の長男として生まれる。1908年(明治41年)鳥取県第一中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業。在学中、日露戦争後の満韓の視察を行った。1908年、第六高等学校に入学したが中退し、1909年(明治42年)早稲田大学に転じた。在学中、雄弁会幹事を務め、南極探検事業、理想選挙、憲政擁護運動の遊説を全国各地で行った。1915年(大正4年)同大政治経済科を卒業。
河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日… 河瀬 四郎(かわせ しろう、1889年(明治22年)7月7日 - 1946年(昭和21年)7月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 鳥取藩士・小学校長、河瀬聰の四男として生れる。鳥取第一中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「天津風」水雷長、臨時海軍防備隊付などを経て、1922年11月、海軍大学校(甲種20期)を卒業した。 横須賀防備隊水雷長、「萩」「桑」の各駆逐艦長、連合艦隊参謀、水雷学校教官、艦政本部員、水雷学校教官、イギリス出張(造兵監督官)、「霧島」副長、第3駆逐隊司令、第6駆逐隊司令、艦政本部員などを経て、1937年12月、海軍少将に進級。
山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7… 山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7日 - 1971年(昭和46年)1月24日)は昭和期の実業家。南満洲鉄道株式会社(満鉄)最後の総裁としてその終戦処理をおこなった。 福岡県糸島郡福吉村(現・糸島市二丈地域)出身。名前の読みは「もとき」であるが「げんかん」と音読みするものが多かったという。唐津中学、第一高等学校英法科、東京帝国大学法科大学政治学科を首席卒業。 1916年(大正5年)5月、満鉄に入社し、総務部に勤務。1921年(大正10年)8月から1923年(大正12年)9月にかけて、欧米に留学する。帰国後は社長室文書課勤務となる。1925年(大正14年)6月、撫順炭鉱参事に移り、翌年8月には撫順炭鉱庶務課長を務めた。
大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7… 大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7日 – 1957年(昭和32年)2月20日)は、日本の内務官僚、政治家。 熊本県玉名郡梅林村(現玉名市)出身(出生地は東京府)。兄は後に剣道十段となった大麻勇次。 熊本中学、第五高等学校、1914年(大正3年)東京帝国大学法科を卒業後、内務省に入省。山梨県属。警察畑を歩み、山形・山梨・神奈川各県の警察署長を務めた。 1924年(大正13年)、同郷の小橋一太(元文部大臣)の推挙により、清浦奎吾首相秘書官を務める。徳川家広によると、細川護立の宴会に出席した大麻のスピーチの巧さが清浦の目に止まったのが秘書官になったきっかけという。同年政友本党から第15回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7… 佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7日 - 1983年(昭和58年)5月2日)は社寺大工。富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市福野)で代々宮大工であった佐々木家に生まれた。 父であった三代目佐々木嘉平に師事し、独学で技術・知識を身に付け、全国各地で数々の国宝や重要文化財の修復・保存に携わった。昭和46年黄綬褒章を受章。この四代目佐々木嘉平は、棟梁としては佐々木棟慶とも名乗った。戒名は平等院釈棟慶居士。 日本建築文様宝典 2003年 文芸社刊 清水稔次 佐々木健 編
飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日… 飯塚 茂(いいづか しげる、1889年(明治22年)7月4日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県下都賀郡三鴨村大字都賀(現:栃木市藤岡町都賀)で、飯塚茂十郎の長男として生まれる。叔父・飯塚国三郎(講道館幹部、慶應義塾柔道師範)の導きで講道館・嘉納塾に入塾し、最終的に段位は講道館柔道七段となる。 1915年、慶應義塾大学部法律学科を卒業し、同年4月、英国領シンガポールに渡り、英国領マレー半島ジョホール州でゴム栽培事業を経営。1918年、南進公司を設立して社長となり、南和公司常務、大倉スマトラ農場常務なども務めた。1927年12月、財団法人暹羅協会(現:日本タイ協会)の設立時に創立委員、その後、1935年3月まで理事を務めた。
大溝 勇(おおみぞ いさむ、1889年(明治22年)7月4日… 大溝 勇(おおみぞ いさむ、1889年(明治22年)7月4日 - 1928年(昭和3年)6月17日)は、日本の造園家。明治神宮内苑の造営にかかわり、関東大震災復興小公園の設計にも関与した。 静岡県君沢郡中郷村(現・三島市)に生まれる。1899年に中郷尋常小学校を卒業して上京し、富士見尋常高等小学校に入学した[要出典]。1907年に旧制第一高等学校理農科に進学。1911年7月に卒業(卒業時点では「農科」)、同年9月に東京帝国大学農科大学林学科に入学した(入学宣誓式は10月14日に挙行)。大学では本多静六に学ぶ。 1914年7月に大学を卒業すると、翌年4月30日に内務大臣所管の明治神宮造営局(内苑造営工事専門の国による部局)林苑課に就職した。
明石 順三(あかし じゅんぞう、1889年7月1日 - 19… 明石 順三(あかし じゅんぞう、1889年7月1日 - 1965年11月14日)は、日本の宗教家。1927年にワッチタワー(エホバの証人)の日本支部として灯台社を創立した。聖書に基づく信仰から戦争に反対し、1939年に検挙され、治安維持法違反で懲役刑を受けた。第二次世界大戦後の1945年10月に釈放されたが、1947年にエホバの証人のアメリカ合衆国本部を批判してエホバの証人から除名された。 1889年7月1日に滋賀県坂田郡息長村(現・米原市)岩脇(いよぎ)で生まれた。順三の生まれた家は彦根藩で代々藩医を務めていて、父の道貞は外科医あるいは漢方医だった。 順三は滋賀県立彦根中学校(後の滋賀県立彦根東高等学校)を2年で中退し、1907年に東京に行きプロテスタント系の神田教会の牧師である島貫兵太夫(しまぬき へいだゆう・ひょうだゆう)が主宰する力行会に入った。
中島 陟(なかじま のぼる、1889年7月 - 1958年2… 中島 陟(なかじま のぼる、1889年7月 - 1958年2月)は、日本の実業家・都市計画家。多摩湖鉄道株式会社常務、駿豆鉄道、箱根土地各株式会社取締役歴任。堤康次郎の正妻川崎文の妹婿。兵庫県生まれ。 明治22年(1889年)兵庫県出石郡に生まれる。 1907年から東京物理学校(現東京理科大学)、及び日英義塾で2年間ずつ学ぶ。 大正3年(1914年)宮内省帝室林野管理局に勤務。大正8年(1919年)宮内省御料野境界査定官吏。 大正9年(1920年)東京外国語学校(現東京外国語大学)専修科独逸語部入学。大正10年(1921年)攻玉社工学校で講師を勤める。大正11年3月大学を卒業。箱根土地株式会社に入社し、堤康次郎と西武グループの形成を図る。