泊 武治(とまり たけじ、1889年(明治22年)3月25日… 泊 武治(とまり たけじ、1889年(明治22年)3月25日 - 1953年(昭和28年)2月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選高知県知事。陸軍司政長官。 石川県出身。泊宗平の五男として生まれる。第四高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 三井鉱山を経て、1916年、内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁警視、警視庁警視、同理事官、島根県書記官・警察部長、徳島県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、京都府書記官・警察部長、同内務部長、大阪府内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。
林 譲治(林 讓治、はやし じょうじ、1889年(明治22年… 林 譲治(林 讓治、はやし じょうじ、1889年(明治22年)3月24日 - 1960年(昭和35年)4月5日)は、日本の政治家。第41代衆議院議長、副総理、厚生大臣、初代内閣官房長官、内閣書記官長、高知県議会議員を歴任。位階勲等は従二位勲一等旭日桐花大綬章。 自由民権運動家としても活躍した明治・大正期の政治家・林有造の次男として高知県幡多郡宿毛村(現:宿毛市)に生まれた。戦後の内閣総理大臣・吉田茂の又従弟に当たる。1918年(大正7年)京都帝国大学法科大学独法科を卒業する。三菱倉庫勤務を経て1923年(大正12年)に宿毛町長、1927年(昭和2年)に高知県会議員となる。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
二荒 芳之(ふたら よしゆき、1889年(明治22年)3月2… 二荒 芳之(ふたら よしゆき、1889年(明治22年)3月22日 - 1909年(明治42年)8月18日)は、日本の伯爵。北白川宮能久親王の庶子で、後にその父子関係が確認されて華族に列せられた。旧姓は山本。 北白川宮能久親王の庶子として栃木県に生まれる。生母は側室の申橋カネ。申橋家は栃木県平民で、日光輪王寺宮元家司に申橋姓がある。 1891年(明治24年)、能久親王の信任が篤かった浅間牧場主事の黒岩有哉に密かに預けられ、群馬県吾妻郡長野原町で3年間を過ごしたのち、1894年(明治27年)から応桑村小学校(当時、現・長野原町立応桑小学校)に学んだ。当時は、快活で明朗大胆な性格だった。 1895年(明治28年)10月28日、父能久親王と死別。
小原 英一(おはら えいいち、1889年3月22日 - 19… 小原 英一(おはら えいいち、1889年3月22日 - 1959年12月22日)は、日本の実業家・運輸官僚。南海電気鉄道元社長・会長。 千葉県出身。東京帝国大学政治学部卒業後、1915年に鉄道院入りし、配車課長、貨物課長を歴任した後、1934年に退官。南海鉄道へ中途入社し、運輸部長、専務取締役を歴任した後、関西急行鉄道との合併で近畿日本鉄道副社長に就任。 1947年に南海電気鉄道発足に伴い社長に就任するが、南海野球(当時のプロ野球球団・南海ホークスの運営会社)会長となり、1950年に南海電鉄社長に復帰してその後は会長も歴任。南海会館をはじめ動物園・水族館・四国航路など関連事業に尽力し、太平洋野球連盟会長、新日本放送(現:毎日放送)監査役などを務めた。
柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年〈明治22年〉3月21… 柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年〈明治22年〉3月21日 - 1961年〈昭和36年〉5月3日)は、日本の美術評論家、宗教哲学者、思想家。民藝運動の主唱者である。名前は「やなぎ そうえつ」とも読まれ、欧文においても「Soetsu」と表記される。 宗教哲学、近代美術に関心を寄せ白樺派にも参加。芸術を哲学的に探求、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めた。著名な著書に『手仕事の日本』、『民藝四十年』などがある。 1889年(明治22年)3月21日、東京府東京市麻布区市兵衛町二丁目(現在の東京都港区六本木)に(父の元海軍少将・柳楢悦と母・勝子の三男として生まれる。1891年、宗悦が2歳の時に父はインフルエンザで死去、その後は母に育てられた。
高橋 清(たかはし きよし、1889年〈明治22年〉3月20… 高橋 清(たかはし きよし、1889年〈明治22年〉3月20日 - 1968年〈昭和43年〉10月7日)は、日本の政治家、宮城県議会議員(4期)。宮城県登米郡吉田村長(2期)。位階は従六位。 宮城県登米郡吉田村(のち米山町、現・登米市)に生まれる。1912年〈明治45年〉早稲田大学を卒業。卒業後は河北新報社に入り、記者となる。退社後は、吉田村で開拓農場を開いた。 1929年〈昭和4年〉宮城県会議員に当選、1931年〈昭和6年〉に県議を退職し、吉田村長に就任した。村長を2年務め、1939年〈昭和14年〉に県議に復帰した。1947年〈昭和22年〉に宮城県議会議長に就任。同年吉田村長に返り咲いた。また、宮城県町村会会長も務めた(1949年〈昭和24年〉まで)。
井田 友平(いだ ともへい、1889年(明治22年)3月17… 井田 友平(いだ ともへい、1889年(明治22年)3月17日 - 1965年(昭和40年)10月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、妻沼町名誉町民。メヌマポマードの製造販売で知られた。 埼玉県幡羅郡弥藤吾村新田、のちの大里郡妻沼町大字弥藤吾1520番地の1(現:熊谷市)で、農業・井田定吉、フク夫妻の長男として生まれる。父方は代々、教師の家系である。幡羅高等小学校を卒業し、太田村上江袋の能泉寺塾で漢学を修めた。家業の手伝いをしていたが、父の失敗で井田家は土地家屋を失ったため、17歳の春に上京して石鹸雑貨行商の見習奉公についた。 1910年3月、独立して本所区本所緑町四丁目に井田京栄堂を設立して石鹸雑貨卸商を営む。
原 忠一(はら ちゅういち、1889年〈明治22年〉3月15… 原 忠一(はら ちゅういち、1889年〈明治22年〉3月15日 - 1964年〈昭和39年〉2月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 島根県松江市出身。旧制島根県松江尋常中学校より海軍兵学校第39期入校。入校時成績順位は150名中第53位、卒業時成績順位は149名中第85位。余談ではあるが官報によると原は陸軍士官学校第23期の試験も合格しており、騎兵第八連隊への配属も決まっていた。 北部仏印進駐の際は第二遣支艦隊参謀長として陸軍強硬派との対応に追われる。第五航空戦隊司令官として、航空母艦を主力とする世界初の海戦となった珊瑚海海戦を指揮した人物である。
北沢 五郎(きたざわ ごろう、1889年(明治22年)3月1… 北沢 五郎(きたざわ ごろう、1889年(明治22年)3月15日 - 1964年(昭和39年)9月29日)は、日本の建築家。 関東大震災後の帝都復興院技師および警視庁の行政官として、東京市の復興と整備に従事した。在職中より大学講師として後進の指導にあたり、退官後は一般の設計活動もおこなったほか、地盤沈下の原因究明と対策に先駆者としての役割を果たした。 長野県長野市に生まれる。1916年(大正5年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。陸軍省に技手として入省する(翌年技師に昇格)。 1922年(大正11年)、警視庁技師に転任する。1923年(大正12年)には、関東大震災後に設置された帝都復興院建築局技師を兼任した。
守屋 磨瑳夫(もりや まさお、1889年(明治22年)3月1… 守屋 磨瑳夫(もりや まさお、1889年(明治22年)3月15日 - 1964年〈昭和39年〉1月)は、日本の内務・警察官僚。民政党系官選沖縄県知事(17代)、青森県知事(35代)。 熊本県出身。守屋充次郎の長男として生まれる。第五高等学校を卒業後、1913年11月に文官高等試験行政科試験に合格。1914年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県警察部警部となる。 以後、静岡県理事官、兵庫県理事官・工場監督官、大阪府警視、警視庁警視、福島県書記官・福島県警察部長、社会局書記官・社会局保険部大阪出張所長などを歴任。 1929年7月5日、沖縄県知事に就任。県経済の振興に尽力。
阿部 弘毅(あべ ひろあき、1889年(明治22年)3月15… 阿部 弘毅(あべ ひろあき、1889年(明治22年)3月15日 - 1949年(昭和24年)2月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 海軍兵学校(39期)、海軍大学校(23期)卒業。海軍兵学校同期に伊藤整一、遠藤喜一、高木武雄、山県正郷、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 山形県米沢市出身。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期を148人中26位で卒業。1912年(大正元年)12月、海軍少尉任官。 1938年(昭和13年)11月海軍少将、海軍兵学校教頭兼監事長。1941年(昭和16年)8月、重巡洋艦「利根」、「筑摩」からなる第8戦隊司令官。第8戦隊は真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に参加した。
植田 欣二(うえだ きんじ、1889年〈明治22年〉3月12… 植田 欣二(うえだ きんじ、1889年〈明治22年〉3月12日 - 没年不明)は、日本の会社役員、鳥取県多額納税者、地主。保証責任西伯南部製糸販売利用組合理事。山陰土地取締役。 鳥取県西伯郡天津村大字福成(現・南部町福成)出身。植田豊三郎の二男。1923年、家督を相続する。農業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県西伯郡天津村大字福成。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
太田 藤太郎(おおた とうたろう、1889年〈明治22年〉3… 太田 藤太郎(おおた とうたろう、1889年〈明治22年〉3月10日 – 1973年〈昭和48年〉10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 明治44年(1911年)、陸軍士官学校・第23期・歩兵科を卒業し、任官後弘前歩兵第31連隊 に入隊。大正14年(1925年)から山形及び秋田の諸学校で配属将校として勤務する。満州出征後の昭和12年(1937年)に陸軍歩兵大佐となり、以後、敦賀連隊区司令官、歩兵第16旅団長、新潟連隊区司令官、浦和連隊区司令官兼地区司令官、等を歴任。この間、陸軍少将まで進級した。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。 昭和48年(1973年)卒去し新潟の起願寺に葬られた。
永海 佐一郎(ながみ さいちろう、1889年3月10日 - … 永海 佐一郎(ながみ さいちろう、1889年3月10日 - 1978年1月13日) は、日本の化学者。東京工業大学名誉教授。隠岐の島町名誉町民。 島根県隠岐島中町出身。西郷町小学校を経て、松江市の旧制中学校を2年で中退後、東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科見習職工として加藤与五郎の化学助手を務めた。新潟県長岡市立商業高校(現新潟県立長岡商業高等学校)教師を経て、1917年東北帝国大学理学部卒業、講師。1926年理学博士。東北帝国大学助教授、東京高等工業学校教授、東京工業大学教授を経て、1949年定年退職、東京工業大学名誉教授。西郷町に帰郷し研究に従事した。1968年勲三等旭日中綬章受章。
熊岡 美彦(くまおか よしひこ、1889年3月9日 - 19… 熊岡 美彦(くまおか よしひこ、1889年3月9日 - 1944年10月1日)は茨城県出身の洋画家。 石岡市生まれ。実家は製糸業を営む素封家。石岡第一尋常小学校在学中に地元の南画家・鬼沢小蘭に日本画を学ぶ。土浦中学校を経て、1909年東京美術学校西洋画科に入学し和田英作、藤島武二に師事する。同期の首席は萬鉄五郎。1913年同校卒。1926年、第1回帝国美術院賞を受賞する。同年フランスへ遊学。1929年帰国。1932年、斎藤与里らとともに東光会を結成。 1939年(昭和14年)4月、陸軍美術協会が発足するに当たり発起人の一人として名を連ねた。同年『珠江口掃海』『虎門要塞攻撃』を第5回海洋美術展に出品。
田中 信義(たなか のぶよし、明治22年(1889年)3月8… 田中 信義(たなか のぶよし、明治22年(1889年)3月8日 - 昭和35年(1960年)4月11日)は、日本の政治家、実業家。参議院議員(1期)。旧姓下田。信儀と表記される場合がある。 衆議院議員下田勘次、鳥取大学長下田光造の弟。 鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現・鳥取市河原町和奈見)に生まれた。下田弥平の三男。 旧制鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て1907年、東京帝国大学農科大学に入学。卒業後帰郷し、八頭郡国英村三谷の田中嘉十郎の養子となる。農業を営む。 早くから郡会議員、郡農会長、県会議員を歴任し、1941年には県会議長に就任するなど地方政界において民政系に属して活躍した。
森川 葵村(もりかわ きそん、 1889年(明治22年)3月… 森川 葵村(もりかわ きそん、 1889年(明治22年)3月8日 - 1979年(昭和54年)8月1日)は、大正・昭和期の日本の詩人、実業家。本名は森川 勝次。 東京市下谷区入谷町(現・東京都台東区)に生まれる。旧制京北中学校在学中、同窓の飯田蛇笏らと交流を深める。1910年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科を卒業し、引き続いて在籍した同専攻部計理科を1912年に卒業した。 在学中、三木露風一派の詩人として活躍し、三井物産に入社後、朝鮮火薬銃砲常務取締役、同社専務取締役、帝国火薬工業営業部長、日本油脂営業部長等を歴任した。 57歳で秋田県の寒村に疎開後詩作を再開し、第二次世界大戦後は北洋火薬(のちの日本化薬)社長などを務めた。
堀内 干城(ほりうち たてき、1889年(明治22年)3月7… 堀内 干城(ほりうち たてき、1889年(明治22年)3月7日 - 1951年(昭和26年)5月28日)は、日本の外交官。駐中華民国公使。 奈良県生駒郡筒井村(現在の大和郡山市)出身。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業した。1918年(大正7年)、高等試験外交科に合格。領事官補、外務事務官、イギリス大使館二等書記官、上海領事、中華民国公使館二等書記官、同一等書記官、天津総領事、中華民国大使館参事官、北平総領事などを歴任した。1939年(昭和14年)、外務省東亜局長に就任。1940年(昭和15年)、中華民国大使館参事官を経て、特命全権公使兼上海総領事に就任した。1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙に全国区から自由党公認で立候補したが落選した。
堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年〈明治22年〉3月… 堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年〈明治22年〉3月7日 - 1964年〈昭和39年〉4月26日)は、日本の実業家、財界人、政治家。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者で、第44代衆議院議長を務めた。滋賀県大津市名誉市民。滋賀県平民。正三位勲一等。 「ピストル堤」の異名を持つ。 滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち秦荘町を経て、現・愛荘町)に農業兼麻仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた。4歳で父を腸チフスで失い、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。 1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し滋賀県立第一中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配したことから進学を断念して農業に従事する。
鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 198… 鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 1987年5月28日)は、日本の土木工学者、内務官僚。元日本大学教授。土木工学・港湾工学の研究に業績を上げる。1927年工学博士(九州帝国大学)。 長野県松本市生まれ。1908年旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)卒業、1911年第八高等学校卒業、1914年九州帝国大学土木工学科卒業。1914年内務省に入り、鉄道技師、土木局技術課長、内務技監を務める。 1930年日本大学旧工学部教授、1944年土木学会会長。1945年内務省を退官し、日本発送電の技術顧問となる。1947年から東京大学講師を兼任、1952年日本大学国土総合開発研究所長。1964年港湾審議会長、チリ津波対策審議会長、1968年日本港湾協会長などを歴任。
龍野 定一(たつの ていいち、1889年(明治22年)3月6… 龍野 定一(たつの ていいち、1889年(明治22年)3月6日 - 1986年(昭和61年)7月29日)は、日本の教育者。鹿児島県立大島中学校(旧制)校長、全国公民館協議会会長などを歴任。徳之島町名誉町民、奄美市名誉市民。 1989年、鹿児島県大島郡亀津村(現・徳之島町)生まれ。亀津尋常高等小学校、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)、広島高等師範学校卒業。広島高師を卒業後は、福岡県、鹿児島県、広島県、京都府で教職に就く。1924年、35歳で旧制鹿児島県立大島中学校(現・鹿児島県立大島高等学校)の第4代校長となる。学力低下および生徒指導上の問題を抱えていた旧制大島中を、後述の教育方針で再建。
近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年)3月… 近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年)3月6日 - 昭和61年(1986年)6月11日)は日本の実業家、相場師。元近藤商事会長。「丸ビル将軍」、「金融王」などと呼ばれた。
松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)… 松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)3月5日 - 1976年(昭和51年)11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県小笠郡掛川町(現掛川市)出身。漫画家の所十三は曾孫(ひ孫)。 1936年、戦艦金剛艦長に抜擢され、1937年まで務めた。 その後川棚海軍工廠長・佐世保軍工廠長などの要職を歴任し、1943年12月20日に予備役に編入される。予備役編入後は大谷重工業副社長に就任した。 終戦後の1947年11月、公職追放の仮指定を受けた。
菊山 嘉男(きくやま よしお、1889年(明治22年)3月5… 菊山 嘉男(きくやま よしお、1889年(明治22年)3月5日 - 1977年(昭和52年)2月23日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。勲二等旭日重光章。 三重県出身。菊山末造の長男として生まれる。第七高等学校造士館を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、大分県警察部長、朝鮮総督府事務官、同専売局長などを歴任。 1933年8月、山口県知事に就任。県会と協調して県政を行う。農山漁村経済更生計画を推進した。1936年6月、宮城県知事に転任。1939年4月、知事を退任。同年に退官した。1939年、京都市助役。
須賀 彦次郎(すが ひこじろう、1889年〈明治22年〉3月… 須賀 彦次郎(すが ひこじろう、1889年〈明治22年〉3月4日 - 1941年〈昭和16年〉2月5日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。位階勲等は従四位勲二等。三重県飯南郡松阪町(現・松阪市)出身。 旧制三重県立松阪中学校を経て海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中4番、卒業時成績順位は149名中54番。津田静枝、佐藤脩に続き、日本海軍が養成した中国関係の専門家である。尉官時代は水雷屋で「葦」駆逐艦長在職中は美保関事件に遭遇。部下28名が殉職した。 河川砲艦「堅田」艦長着任後は殆ど中国関係の勤務に限定された。情報活動に携わったが、中国人協力者の信頼が厚く、国民党政権が重慶に移ってからも、須賀のもとには重慶からの情報が絶えずもたらされていた。
後藤 格次 (ごとう かくじ、1889年3月4日 - 196… 後藤 格次 (ごとう かくじ、1889年3月4日 - 1969年11月29日)は、日本の農芸化学者。東京大学農学部教授。日本学士院会員。
平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2… 平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡由布川村長、同郡挾間村長、同郡挾間町長。 大分県大分郡朴木村(由布川村大字朴木、挾間村、挾間町を経て現由布市)で生まれる。明治大学専門部法律科で学んだ。その後、農業を営む。 1920年(大正9年)由布川村長に就任。道路整備、井路掘削、植林、学校施設の整備などに尽力し、1928年(昭和3年)に退任。1940年(昭和15年)由布川村長に再任され、1946年(昭和21年)まで在任した。その他、大分郡農会長、同町村長会長、方面委員大分郡支部長、大分県農業会理事、大分郡所得税調査委員なども務めた。
岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫… 岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫(おおぬき)、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月18日)は、日本の大正・昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。 東京府東京市赤坂区青山南町(現東京都港区青山)生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。 若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られた。小説家として実質的にデビューしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。 代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大和屋大貫家の別邸で誕生。
永津 佐比重(ながつ さひしげ、1889年(明治22年)3月… 永津 佐比重(ながつ さひしげ、1889年(明治22年)3月1日 - 1979年(昭和54年)9月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県西春日井郡師勝村[要出典](現在は北名古屋市)出身。 愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 歩兵第18連隊中隊長、参謀本部付勤務、支那駐屯軍司令部付、同軍参謀、参謀本部員などを歴任し、1925年(大正14年)2月から1927年(昭和2年)12月まで、アメリカに駐在。帰国後、陸大教官、参謀本部員、歩兵第68連隊大隊長、支那公使館付武官補佐官、歩兵第49連隊付、関東軍参謀などを歴任。
横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日… 横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日 - 1952年(昭和27年)4月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 歩兵第51連隊長を務めた陸軍大佐横山新治の長男として東京市牛込区で生まれる。母ヨシは山路一善の妹。祖父は会津藩士の横山直助であるため、福島県若松市出身という説もある。 姫路中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。卒業成績は8番/418名。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1919年(大正8年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(鉄道班)、陸軍省軍務局課員を経て、1924年(大正13年)8月、歩兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付となる。
和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年〈明治22年〉3月1… 和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1960年〈昭和35年〉12月26日)は、日本の哲学者・倫理学者・文化史家・日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。法政大学教授・京都帝国大学教授・東京帝国大学教授を歴任。日本倫理学会会員。文化勲章受章。 兵庫県出身。東大哲学科卒。ニーチェなど西洋哲学を研究。奈良の寺院建築や仏像の美を再発見し、『古寺巡礼』(1919年)も人気を博す。『人間の学としての倫理学』(1934年)で新しい倫理学の体系を構築。『風土』(1935年)、『面とペルソナ』(1937年)も名高い。 日本的な思想と西洋哲学の融合、あるいは止揚とでもいうべき境地を目指した稀有な哲学者と評価される。
高津 致道(たかつ ちどう、1889年3月 - 没年不詳)は… 高津 致道(たかつ ちどう、1889年3月 - 没年不詳)は、日本の実業家、株式会社にんべん第3代社長。 1889年(明治22年)3月、高津龍五郞(八代高津伊兵衛の長男)の三男として生まれる。家業は、1699年(元禄12年)の創業の鰹節問屋・伊勢屋から興ったにんべん(旧・高津商店)を営む水産加工品メーカー。 1914年(大正3年)、立教大学商科(現・経済学部、経営学部)を卒業。 卒業後、家業の高津商店に入り、取締役および監査役を務める。 1920年(大正9年)に分家して一家を創立。 1951年(昭和26年)、株式会社にんべん第3代社長に就任し、社長職を1955年(昭和30年)まで務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
浅野 安吉(あさの やすきち、1889年(明治22年)3月 … 浅野 安吉(あさの やすきち、1889年(明治22年)3月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 京都府京都市上京区出身。第三高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、同年10月に高等文官試験に合格した。台湾総督府警部、同警視、営林局事務官、殖産局営林所営林課長、殖産局庶務課長を歴任。1924年(大正13年)、欧米諸国に出張した。帰国後、殖産局商工課長を経て、1929年(昭和4年)に高雄州内務部長となった。1931年(昭和6年)、台北州内務部長に転じ、さらに花蓮港庁長に転じた。 1932年(昭和7年)に退官した後は、高雄州青果同業組合副組長、高雄青果株式会社社長、高雄州会議員などを務めた。
保利 信明(ほり のぶあき、明治22年(1889年)3月 -… 保利 信明(ほり のぶあき、明治22年(1889年)3月 - 昭和42年(1967年)11月22日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。海軍医学校校長、海軍省医務局長を務めた。長崎県出身。 明治22年(1889年)に長崎県で出生する。大正元年(1912年)長崎医学専門学校を卒業し、直ぐに海軍省へ入省する。海軍医として、連合艦隊軍医長、別府海軍病院、呉海軍病院、横須賀海軍病院の医院長を経て、海軍軍医中将となり、昭和16年(1941年)10月15日に海軍軍医学校長になる。 第二次世界大戦後に東京にて開業医となり、厚生省援護審査会委員長などを務めた。昭和42年(1967年)11月22日に78歳で死去。
田村 實(たむら みのる、1889年(明治22年)2月28日… 田村 實(たむら みのる、1889年(明治22年)2月28日 - 1941年(昭和16年)9月1日)は、大正から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 高知県長岡郡、のちの新改村(香美郡土佐山田町を経て現香美市)で、田村勇吉の長男として生まれる。1907年(明治40年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業した。 1916年(大正5年)土陽新聞社(現高知新聞)の東京支局記者に就任。1919年(大正8年)高知市会議員に選出され3期在任。その後、高知県会議員も務めた。その他、地方森林会議員、高知県水産会長、高知県織物同業組合長などを務めた。 1932年(昭和7年)2月の第18回衆議院議員総選挙で高知県第1区から立憲政友会所属で出馬して当選。
竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月2… 竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月28日 - 1948年(昭和23年)12月29日)は、日本の商工官僚。商工次官、企画院総裁、貴族院勅選議員。鹿児島県出身。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島第一中学校、第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学経済科を卒業して、農商務属となり、翌年に高等文官試験に合格した。以後、事務官、書記官、商工省工務局長、特許局長官、燃料局長官を経て、1936年(昭和11年)に商工次官に就任した。その後、臨時物資調整局次長、物価局次長を歴任して1939年(昭和14年)に退官した。 1940年(昭和15年)に企画院総裁に就任。
伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 19… 伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 1948年11月23日)は日本の書家。本名は宮本 正雄門(みやもと まさおと)。 和歌山県和歌山市に生まれる。 1891年(明治24年)、2歳で漢学者南海鐵山に入門し、1892年(明治25年)、3歳で元堺県知事に揮毫を披露する。早くから神童・天才書家と呼ばれ、幼くして古典を暗記するなど博覧強記な人物であったという。 1894年(明治27年)、5歳で王羲之の書法を体得し、免許皆伝書を授与される。 1895年(明治28年)2月13日、5歳の時明治天皇の御前で腕前を披露し、「日本明瑞」(明治の明と瑞祥の瑞)の名を賜る。後に伊藤博文の書生となり、「伊藤明瑞」を名乗るようになった。
田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 19… 田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 1949年7月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧加賀藩士・陸軍中佐、田辺盛親の長男として生まれる。松山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第49連隊付となる。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員、第16師団参謀、参謀本部員、陸大教官、フランス出張、歩兵第61連隊大隊長、参謀本部員、陸軍省整備局課員、陸軍歩兵学校教官、整備局動員課長、歩兵第34連隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍少将に進級し陸士幹事となる。
薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、188… 薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、1889年(明治22年)2月26日 ‐ 1953年(昭和28年)8月27日) は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県北宇和郡来村長。 愛媛県北宇和郡、のちの来村(現宇和島市)で生まれた。独学して青年団活動に従事した。森岡天涯の雑誌『南予之青年』の編集に従事。 来村会議員を経て、1925年(大正14年)宇和島市会議員に当選し1930年(昭和5年)まで在任。1931年(昭和6年)5月から1934年(昭和9年)5月まで来村長に在任。その後、宇和島市会議員に再選され1947(昭和22年)まで在任し、1942年(昭和17年)市会議長に就任。
本間 憲一郎(ほんま けんいちろう、1889年〈明治22年〉… 本間 憲一郎(ほんま けんいちろう、1889年〈明治22年〉2月24日 - 1959年〈昭和34年〉9月19日)は、昭和期の国家主義者。頭山満の高弟。号は紫山。 古河町(現在の茨城県古河市)出身。父秋田代吉は古河藩士秋田重柔の二男、母本間まさ(お正とも記述する)は水戸藩主徳川斉昭の侍医であった本間玄調の孫(玄調の長男・高佐=たかすけの二女)。 明治24年(1891年)1月に父が死去し、同年2月27日に母ともども本間家に復籍。翌明治25年(1892年)に母が再婚し東京へ行くものの、憲一郎は水戸市藤坂町(現在の水戸市泉町三丁目、五軒町三丁目のあたり)の伯父本間包三(かねみつ)方に預けられた。 憲一郎は水戸市五軒小学校、水戸市三の丸高等小学校、茨城県水戸中学校を経て、明治44年(1911年)に東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)支那語科へ入学。
深浦 正文(ふかうら せいぶん、1889年2月23日 - 1… 深浦 正文(ふかうら せいぶん、1889年2月23日 - 1968年7月31日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。 奈良県出身。佛教大学(のち龍谷大学)卒、浄土真宗本願寺派。インド留学ののち、1920年仏教大教授。1940年西本願寺勧学。1950年「唯識思想の起源及び発達」で龍谷大学より文学博士の学位を取得。1955年から米国、カナダ、ハワイの開教区特命布教師。
篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1… 篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1975年6月9日)は、日本の経営者、薬学博士。第一製薬社長を務めた。 愛知県海部郡蟹江町出身。第八高等学校を経て、1914年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、1922年にはイギリスのマンチェスター大学に留学。 東京薬学専門学校、徳島高等工業学校で教授を務め、1934年に第一製薬に入社し、1935年に取締役に就任し、1938年に常務を経て、1947年には社長に就任。1963年に会長を経て、1966年には相談役に就任した。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1964年に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月9日、心不全のために死去。86歳没。
池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1… 池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1974年12月25日)は、愛媛県出身の俳人。高浜虚子の兄池内信嘉の長男として松山市に生まれる。能楽の新興に務めた家風にならい当初は能楽師を志したが断念、1913年頃より虚子門に入り、「ホトトギス」発行所に務めながら虚子の指導を受けた。1932年「欅」を創刊・主宰。代表句に「仰向きに椿の下を通りけり」。大正中~後期の「ホトトギス」沈滞期に活躍した作家で、虚子の客観写生を忠実に実践。虚子は「平淡にして滋味がある」とその句風を評した。句集に『たけし句集』『赤のまんま』『その後』『父から聴いた話』『叔父虚子』などの著書がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
及川 マツノ(おいかわ マツノ、1889年〈明治22年〉2月… 及川 マツノ(おいかわ マツノ、1889年〈明治22年〉2月20日 - 2002年〈平成14年〉1月3日)は、長寿日本一であった岩手県の女性。 1889年、岩手県大船渡市に生まれる。 1918年から大船渡市内の自宅で旅館業を始める。夫利三郎との間には1男2女をもうけた。利三郎の死後は女手一つで子供たちを育てた。 1999年に110歳を迎えた。東北地方では最高齢となり、全国でも4番目の長寿者になった。同年9月には自宅に親族や増田知事などが集い、鶴があしらわれた銀杯などが贈られた。 109歳頃に風邪を引いたがその後も元気で、朝7時に起床し、夜9時に就寝の生活であった。2000年12月には入れ歯が喉に詰まり、一時呼吸停止するなど入院もしたが回復。
浦ノ濱 栄治郎(うらのはま えいじろう、1889年2月20日… 浦ノ濱 栄治郎(うらのはま えいじろう、1889年2月20日 - 1945年10月30日)は、新潟県三島郡(現在の小千谷市)出身で浦風部屋に所属した大相撲力士。本名は滑川 丑五郎(なめりかわ うしごろう)、旧姓は丸山。身長171cm、体重101kg。得意手は左四つ、吊り。最高位は関脇。 新潟県出身。板前修業に上京するも県人の財閥より体格より勧められ、相撲界へ浦風部屋へ入門。1906年5月序ノ口。1911年2月十両に昇進、1913年1月新入幕。6勝2敗1分1預で優勝旗手となる。均整の取れた体格で、吊りをはじめとする派手な取り口は「浦さま」と呼ばれた美貌とあわせ、女性に人気が有った。大物食いとしても鳴らして花形力士。
永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 19… 永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 1970年5月1日)は、日本画家。本名は永田良亮。 1889年(明治22年)2月18日、茨城県北相馬郡相馬町(現取手市藤代)に生れる。1907年、茨城県立龍ケ崎中学校(現 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校・附属中学校)を卒業後、一家で上野池之端へ移る。荒木寛畝、寺崎広業、結城素明に師事。1913年に東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科を卒業後、国華社に入り古画研究に従事した。1920年に渡欧して仏画模写などに約1年間たずさわった。1924年の日華連合展では国賓として北京に招かれ、出品作は袁世凱中華民国大統領が買い上げた。第6回帝展出品作「花柘榴・立葵」はフィラデルフィア万博に出品され、同地美術館に収蔵。
渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 19… 渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 1983年5月19日)は、日本の編集者、児童文学作家、児童文学研究者。本名・寿三郎。別名・孤星、素風。 1889年(明治22年)、東京八丁堀に生まれ、まもなく浅草千束町に移る。浅草尋常高等小学校に入学、小学校時代、友人であった小宮山豊作や久保田万太郎の影響で文学に関心を持つ。東京府立第三中学校を経て早稲田大学英文科に入学し、片上伸に師事する。 1912年(明治45年)早稲田大学文学部英文学科を卒業。島村抱月の紹介で実業之日本社に入社する。はじめ、1913年(大正2年)に大隈重信、渋沢栄一らによって創刊された『実業講習録』編集部に勤務するが、同社の雑誌『少女の友』に少女小説「悲しき海へ」を寄稿したのがきっかけで、1914年(大正4年)同誌へ配属された。
田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月1… 田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月18日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、薬理学者。医学博士、東京帝国大学名誉教授。 1889年(明治22年)2月18日、愛知県渥美郡二川村(現豊橋市)で米穀商「駒屋」を営む旧家に生まれる。小学校を卒業後は上京して獨逸学協会学校、旧制第一高等学校へ進む。東京帝国大学医科大学医学科へ入学し、第3年以降は特待生となるが、卒業は1年遅れた。1941年(昭和16年)1月に軽い脳卒中発作を起こし、疎開がてら郷里に戻って療養生活を送った。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが田村は欠席した。
林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 19… 林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 1935年12月20日)は日本の実業家・新聞記者。本名:林 茂(はやし しげる、旧姓:板井)。十勝毎日新聞の創業者として知られる。 大分県臼杵にて板井増次・コトの次男として生まれる。海外への憧れを抱いて海軍・陸軍士官学校を受験するも慢性結膜炎の既往症があり不合格、軍人以外での海外渡航の道を模索して東京の英語学校へ入学し英語学習に打ち込む。 1908年に板井家と同じく臼杵の名家である林家の長女・林波津女と養子縁組をし、林家の援助で中央大学法科へ進学。当初北海道帯広へ移住した林家の家業を継ぐことに戸惑いを感じるも「十勝の開発に身を投じる事が海外移住に勝る使命」と考えを変え、1910年に大学を中退し波津女と義父が住む帯広へ移住。
奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月… 奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月18日 - 1990年〈平成2年〉9月25日)は現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。 刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている。 没後に、作品に課せられた巨額の相続税(没時がバブル期だったので高額になった)に悩んだ子息・奥村勝之(四男で写真家)が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを、著書で告白し話題になった。