三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年1… 三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年10月3日) - 1940年(昭和15年)10月27日)は、日本のドイツ哲学者、牧師である。 1865年(慶応元年)、伊予国松山(現・愛媛県松山市)で漢学者・歌原邁の子として生まれた。長じて母方の三並家を継いだ。同郷の正岡子規の母の従弟であり、実家も近所であり、松山中学時代の子規が「五友」の一人に数えるなど共に育った。1880年、松山中学に入学。しかし半年で退学し、県立医学校に入学。1882年夏に東京に出て、9月に本郷原要義塾に入学してドイツ語を学んだ。1983年に獨逸学協会学校に入学。ドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーに感化され、影響を受けた。
謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈186… 謝花 昇(じゃはな のぼる、旧暦尚泰18年9月28日〈1865年11月16日〉 - 明治41年〈1908年〉10月29日)は、沖縄の社会運動家、自由民権運動家。帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)卒業。沖縄県初の農学士。東風平村(現:八重瀬町)出身。 東風平間切(現在の八重瀬町)の農家の出身。1882年(明治15年)に第1回県費留学生として上京し、学習院中等科に入学。中江兆民の教えを受ける。1885年(明治18年)から東京山林学校で学び、1891年(明治24年)に帝国大学農科大学を卒業。沖縄初の農学士となった。 卒業後、鹿児島県等の県外出身者が多数を占めていた沖縄県庁に技師として入り、沖縄の農政改革に務める。
木下 宇三郎(きのした うさぶろう、1865年11月15日〈… 木下 宇三郎(きのした うさぶろう、1865年11月15日〈慶応元年9月27日〉- 1946年〈昭和21年〉1月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 肥後国菊池郡、現在の熊本県菊池市で木下居中の長男として生まれ、1903年(明治36年)1月に家督を相続した。 1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校旧9期を卒業し、陸軍砲兵少尉に任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(11期)に入学したが、日清戦争勃発のため退学し出征。1896年(明治29年)2月に復学し、1897年(明治30年)12月に卒業し参謀本部に配属された。日露戦争では第1軍作戦参謀として出征し、満洲軍が創設されると帰国し大本営陸軍部参謀を務めた。
清水 市太郎(しみず いちたろう、1865年11月14日〈慶… 清水 市太郎(しみず いちたろう、1865年11月14日〈慶応元年9月26日〉- 1934年〈昭和9年〉12月19日)は日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、弁護士。 尾張国知多郡鬼崎村(後の愛知県常滑市)出身。1889年(明治22年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、イギリスのミドル・テンプルに留学した。帰国後に判事試補、海軍大学校教官、東京帝国大学法科大学講師を歴任し、日清戦争の際には捕獲審検所評定官を務めた。その後は法制局参事官を兼ね、退官後は弁護士を開業。 1899年(明治32年)には小栗富治郎の欧米視察に随伴した。1908年の第10回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後合わせて6期の当選を数えた。
上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応… 上泉 徳弥(かみいずみ とくや、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1946年(昭和21年)11月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士(興譲館教頭)・上泉清次郎の長男として生まれる。私立米沢中学校、攻玉社を経て、1886年12月、海軍兵学校(12期)を卒業し、1888年1月に海軍少尉任官。海軍大学校で丙号学生として学び、「日進」「葛城」「高千穂」の各分隊長、佐世保海兵団分隊長、呉鎮守府参謀、大連湾要港部副官、「龍田」分隊長、「済遠」砲術長などを経て、1897年12月、海大将校科(1期)を卒業し、さらに水雷術練習所で学んだ。 「鎮遠」水雷長、「八重山」副長、「敷島」回航委員・水雷長、「秋津洲」「千代田」の各副長、佐世保海兵団副長、竹敷要港部第2水雷敷設隊司令、「高砂」副長、軍令部副官、兼同第1局員などを歴任。
野村 三四郎(のむら さんしろう、1865年11月13日〈慶… 野村 三四郎(のむら さんしろう、1865年11月13日〈慶應元年9月25日〉- 1933年〈昭和8年〉6月7日)は 明治期の大蔵官僚、田中鉱山の監査役。 現在の茨城県の鹿行地域にあたる常陸国鹿島郡の日川砂漠を開拓した柳川宗左衛門秀勝の三男。 第二代・柳川宗左衛門(秀勝)の三男として常陸国鹿島郡若松村(現在の茨城県神栖市若松)に生まれ、後に東京府・野村せいの養子となり野村家を継ぐ。1880年(明治13年)に東京へ出ると、浅草にある小永井五八郎の私塾・濠西塾(濠西精舎)で漢学を学んだ。さらに中央大学の前身である東京法学院に入学するが中退し、1885年(明治18年)より大蔵省預金部に勤める。1893年(明治26年)にこれを辞すと、当時岩手県南閉伊郡釜石町(現在の釜石市)における製鉄業で知られていた田中長兵衛の東京本店に入店し、会計主任を務めた。
吉松 忠敬(よしまつ ちゅうけい、1865年11月13日(慶… 吉松 忠敬(よしまつ ちゅうけい、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1937年(昭和12年)8月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 日向国那珂郡、のちの宮崎県南那珂郡福島町(現串間市)で生まれた。日清戦争に参加し、陸軍砲兵一等軍曹となる。帰国後は林業を営み、南那珂郡福島村長、宮崎県議、同議長を務める。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において宮崎1区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1937年死去。子孫にはジャーナリストの田中耕がいる。
納所 弁次郎(のうしょ べんじろう、慶応元年9月24日(18… 納所 弁次郎(のうしょ べんじろう、慶応元年9月24日(1865年11月12日)- 昭和11年(1936年)5月11日)は、日本の作曲家、音楽教育家。「兎と亀」「おつきさま」「さるかに」「ももたろう」などの童謡や唱歌、日露戦争の事績を謳った軍歌などの作曲者として知られる。 幕臣納所重兵衛の四男、六人兄姉の末っ子として江戸の築地に生まれた。1880年(明治13年)頃、築地の東京一致英和学校(現在の明治学院大学)に入学。1883年(明治16年)2月に音楽取調掛に伝習生として入学。ピアノを鳥居忱、瓜生繁子、ギヨーム・ソーヴレーに、唱歌を上真行に学んだ。またこれ以前にヴィオラをフランツ・エッケルトから習っていたこともある。
橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日… 橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日(慶応元年9月23日) - 1959年(昭和34年)2月14日)は、日本の官僚・実業家。貴族院議員。新潟県長岡市千手町出身。 長岡藩士・橋本弥十郎の長男として生まれる。1884年(明治17年)に長岡学校を卒業、育英団体である長岡社の支援を受けて上京、大学予備門へ進学。1890年(明治23年)、東京帝国大学を卒業して法制局に入り、1893年に枢密院書記官となる。 その後、大蔵省へ移り、欧米出張を経て1905年(明治38年)に横浜税関長、1907年(明治40年)に主計局長、1911年(明治41年)には大蔵次官となる。さらに、1912年(明治42年)12月5日に貴族院議員に勅選され、1946年(昭和21年)まで努めた。
窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年… 窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1946年10月6日)は、日本の内務官僚、法学者、社会事業家。法学博士、行政裁判所長官、枢密顧問官。 岡山藩学師範教授・窪田善之の長男として生まれる。岡山中学、第一高等学校を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を首席で卒業した。内務省に入省し、後藤新平のもとで日本の保健衛生制度の確立に尽力。伝染病予防法、癩予防法などの制定を推進した。医者ではない事務官として初めて衛生局長に就任した。また後藤の影響から、狭義の衛生政策のみならず社会問題・社会政策全般に関心を抱き、社会政策学会が発足するとその会員となった。
四代目 橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、1865年11月… 四代目 橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、1865年11月9日(慶応元年9月21日) - 1912年(大正元年)11月22日)は、落語家。本名:柴田 清五郎。 1865年11月9日(慶応元年9月21日)、本所柳原(現在の東京都墨田区江東橋近辺)の生まれ、父は江戸幕府の御家人。元の名字は桑原で、養子になり柴田になったと思われる。近所に義理の姉婿であった四代目橘家圓太郎が住んでおり、叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになった。 1872年に7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二ツ目昇進し、二代目三遊亭圓好に改名。このころから四代目三遊亭圓橘の助言で素噺に転向するが、周囲の評判が悪く廃業。
関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1… 関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1年9月19日)- 1939年(昭和14年)8月25日)は、日本の外科医、医史学者である。スクリバ門下十哲の一人で、北海道医学界の中心的存在であった。北海道医師会、札幌医師会の初代会長。『卵巣腫瘍ノ臨床上知見及外科的療法ノ追加』で医学博士(東京帝大)。 戦国時代末期は蒲生家に仕え、江戸時代中期に会津松平家家臣となる。曽祖父は北方警備で利尻島に赴き現地で病没(28歳)。祖父は戊辰戦争時に敢死隊指図役として若松城下で討死にした(62歳)。父の忠武は朱雀隊士で、斗南藩権少属を経て、青森県に採用され県の東京出張所員として上京。のち内務省官吏となる。
松本 亦太郎(まつもと またたろう、1865年11月3日(慶… 松本 亦太郎(まつもと またたろう、1865年11月3日(慶応元年9月15日) - 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の心理学者。旧姓は飯野、1879年松本家の養子となる。
広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶… 広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶応元年9月12日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月16日)は、日本の囲碁棋士。方円社5代目社長、八段。 美作国苫田郡東苫田村(現・岡山県津山市)の農家に生まれる。幼時から学問に秀でており、12、3歳頃に父、兄の影響で碁を覚えてたちまち周りの者を上回る。兄弟が多く家が貧しかったため、17歳で大阪に出て地方新聞編集の職に就き、20歳で東京で農商務省に勤務し、女流棋士伊藤繁に付いて碁を学ぶ。1891年(明治24年)、26歳で囲碁専業に身を投じて方円社に入り、翌92年に初段を許された。1893年二段、1895年三段、1898年四段。方円社では『囲碁新報』『初学独習新報』など雑誌執筆、発行に務めて文才も謳われ、巌崎健造社長の元では副社長格として腕をふるった。
三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年1… 三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の国史学者。貴族院帝国学士院会員議員、文学博士。 播磨国神東郡御立村の漢方医・幸田貞助の三男として生まれ、1875年に砥堀村で寺子屋を開いていた元姫路藩江戸詰藩士(足軽)・三上勝明の養子となる。養父は地元の小学校の校長を務めたのち、姫路市街に移り砂糖・乾物を商う「三上屋」に転じた。 その後旧制姫路中学校に進学するが、本科3年終了後、学校側の対応に不満を持ち自主退学。小学校の代用教員となったが、養父の希望で農学校進学のため上京し、本郷元町にあった進学予備校「進文学舎」を経て1881年に東京大学予備門入学、教師の勧めもあり入学先学部を農学から史学に変更し、1885年東京帝国大学文学部入学。
和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年1… 和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 昭和12年(1937年)8月20日)は、日本の歴史学者(日本史学)・国文学者。文学博士。位階勲等は従三位勲二等。 備後国沼隈郡鞆町(現在の広島県福山市)にて和田五平・イトの二男として出生。1872年、母の生家に託せられ、照蓮寺の三宅某について習字読書を始める。1873年、備後国深津郡新涯小学校に通学し、櫛野瀬平に学ぶ。1874年、医師内海卓爾について習字読書を学ぶ。1878年、玉井正幹について漢籍を学ぶ。1880年、福山師範学校を受験、不合格。以来、宗家の家事を手伝いながら会計を掌り、もっぱら史書を読む。1884年、帝国大学文科大学古典講究科入学。
當り矢 信太郎(あたりや のぶたろう、慶應元年9月10日(1… 當り矢 信太郎(あたりや のぶたろう、慶應元年9月10日(1865年10月29日) - 1923年9月1日)は、下野国安蘇郡(現在の栃木県佐野市)出身で春日山部屋に所属した力士。本名は山口 信太郎(やまぐち のぶたろう)。身長160cm・体重92kg。最高位は東前頭4枚目(1898年1月場所)。得意手は右四つ、寄り、突っ張り。 「免鳥車」と言う水車小屋を営んだ農家の長男で、地元の八幡相撲で活躍した。年齢の割に髪が薄く、常に髷を奴頭に結った。 1889年1月場所に初土俵(幕下)、1894年5月場所に十両昇進。1896年5月場所に新入幕を果たす。小兵ながら右四つと突っ張りの正攻法の取り口で活躍したと伝わる。
西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865… 西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 1889年(明治22年)2月11日)は、日本の不平士族、国粋主義者。森有礼の暗殺犯である。 長州藩士、西野義一の長男として山口に生まれる。山口黒城塾、山口中学校(現・山口県立山口高等学校)を卒業した後、三浦梧楼を頼って上京するが職が見つからず、一旦帰郷して山口県庁に就職した。東京では講道館に通い、本田増次郎の教え子だった。1886年(明治19年)、県庁を退職して再び上京し、山口黒城塾時代からの友人・玉井喜作が開いた私塾「東京速成学館」で総務と漢文教師を務める。しかし、東京速成学館はドイツ語を主に教える学校であり、その学生は西洋志向が強い者が多かったため、国粋主義思想が強い西野は生徒からの評判が悪く、まもなく西野は退職して内務省土木局に務めることとなった。
石塚 譲(いしづか ゆずる、慶応元年9月9日(1865年10… 石塚 譲(いしづか ゆずる、慶応元年9月9日(1865年10月28日) - 昭和6年(1931年)3月19日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 名古屋出身。1888年(明治21年)、英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業。1892年(明治25年)、弁護士となり、山田喜之助の事務所で勤務の後、独立開業した。1900年(明治33年)に新潟県高田町(現在の上越市)に事務所を開いた。 高田町会議員、高田市会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙(新潟県第4区)で当選を果たした。
野副 重一(のぞえ じゅういち、1865年10月28日(慶応… 野副 重一(のぞえ じゅういち、1865年10月28日(慶応元年9月9日) - 1927年(昭和2年)3月28日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 肥前国高来郡諫早村(現在の長崎県諫早市)に木下助内の三男として生まれ、1882年(明治15年)に野副弥惣左衛門の養子となった。1892年(明治25年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、仙台市で弁護士事務所を開業した。 仙台市会議員、同議長を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に当選した。 蔵王町立宮小学校には水難事故に遭った教え子を救おうとして殉職した小野さつき訓導への弔辞が展示されている。
永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9… 永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の裁判官、内務官僚、歴史家。官選宮崎県知事、門司市長、福岡県八幡市長、福井市長。 越前国足羽郡福井豊島中町(現福井県福井市豊島)出身。福井藩士・永井清也の長男として生まれ、永井熊之助の養子となる。1890年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、判事試補に任官し千葉始審裁判所詰となる。 以後、千葉区裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任。1894年12月、内務省に転じ長野県参事官に就任。以後、同県内務部第二課長・第三課長兼務、同内務部第一課長兼第二課長、群馬県警部長、群馬県書記官、北海道庁事務官・財務部長、同兼土木部長、同植民部長、静岡県書記官、兵庫県書記官、同事務官・第一部長、兵庫県立蚕業学校長事務取扱などを歴任。
吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27… 吉植 庄一郎(よしうえ しょういちろう、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1943年(昭和18年)3月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。子は歌人・衆議院議員の吉植庄亮。義弟に弘前高等学校校長を務めた鈴木信太郎がいる。 下総国印旛郡、のちの千葉県印旛郡埜原村(本埜村を経て現印西市)出身。北海道に渡り開墾に従事したが、北海道時事新聞社を興し、社長に就任した。やがて他の新聞との合併で北海タイムス新聞社が成立すると、理事を務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、当選回数は9回を数えた。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明・木村政次郎・関和知・津田毅一・鵜沢宇八・柏原文太郎・磯野敬・加瀬禧逸・土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職し、同月に実施された再選挙で当選した。
小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月… 小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月26日)- 昭和17年(1942年)1月16日)は明治・大正期の外交官で退官後は著述家として活躍した。号は霞南。 陸奥国会津地方(福島県)出身。鹿目政恒の長男で、会津藩士・小松光明の養子として絶家を再興する。慶應義塾を卒業後、米国に留学し、政治学をまなんだ。留学期間は8年に及びエール大学で法学士、プリンストン大学でマスターオブアーツを取得。帰国後は明治学院教授を短期間務めたのち外務省にはいり、駐米日本公使館の書記官や朝鮮総督府の外務部長などを歴任した。日露戦争では遼東守備軍司令部付であった。1916年(大正5年)総督府中枢院書記官長を最後に退官、その後は著述家として活動した。
左近 義弼(さこん よしすけ、慶応元年9月5日(1865年1… 左近 義弼(さこん よしすけ、慶応元年9月5日(1865年10月24日) - 昭和19年(1944年)9月1日)は、日本の聖書学者、聖書翻訳者。青山学院の教授(1907年-1937年)。子としては、東京神学大学名誉教授左近義慈、『落城日記』などの著者・左近義親、医師の左近さくらがいる。東京神学大学元学長左近淑は義理の孫。 越前国敦賀に近い杉津出身の農家に生まれる。父・左近孫太夫、母・そうの三男。姉・さき、兄・孫太夫、次兄・中蔵。 1877年に小学校・尋常科を卒業。父の農作業を手伝いながら、向学心に燃えて福沢諭吉の『世界国尽』や『学問のススメ』を読みふける。 1880年には、小学校教師に就任。1882年福沢諭吉の元で学ぶため上京して、翌年、慶應義塾で学び、1884年からは時事新報社で働きながら学業を続ける。
金久保 万吉(萬吉、かなくぼ まんきち、1865年10月23… 金久保 万吉(萬吉、かなくぼ まんきち、1865年10月23日〈慶応元年9月4日〉- 1938年〈昭和13年〉4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 武蔵国埼玉郡荻島村(現埼玉県羽生市北荻島)で金久保浅右衛門の2男として生まれ、1898年(明治31年)7月に家督を相続した。 1888年(明治21年)7月、陸軍士官学校旧10期を卒業し、陸軍歩兵少尉任官。1893年(明治26年)11月、陸軍大学校(12期)に入学。日清戦争勃発のため1894年(明治27年)7月、陸大を退校し第2軍に属して出征。1896年(明治29年)2月、陸大に復学し1897年(明治30年)12月に卒業して陸軍戸山学校に配属された。
鮫島 慶彦(さめしま けいひこ、1865年10月23日(慶応… 鮫島 慶彦(さめしま けいひこ、1865年10月23日(慶応元年9月4日) - 1928年(昭和3年)10月4日)は、日本の政治家、実業家。鹿児島県会議員。衆議院議員(鹿児島県郡部選出、当選1回)。南薩鉄道社長。万瀬水力電気、鹿児島火山灰珪藻土、薩摩製糸、南薩林業各取締役。族籍は鹿児島県士族。 慶応元年、薩摩国加世田生まれ。鹿児島県士族・鮫島郷兵衛の二男。先代次右衛門の養子となり1875年、家督を相続する。 東京の二松学舎で漢学を学ぶ。帰郷後、村議、鹿児島県会議員をへて、立憲政友会県支部長となり、1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で当選し衆議院議員を1期つとめる。 1912年(明治45年)南薩鉄道を創立し、社長をつとめる。
石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応… 石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応元年8月29日〉 - 1942年〈昭和17年〉4月10日)は、明治から昭和にかけての日本の中等教育の英語教員、キリスト教伝道者。多摩地方の自由民権運動指導者だった石坂昌孝の長女で、評論家の北村透谷の妻であったことで知られる。 本名は石阪 ミナ。美那子とも書く。苗字は「石阪」「石坂」「北村」とも表記され、文献によってゆれがある。 生涯の精神的なキリスト教に出会い入信し、女学校を卒業した翌年に透谷と結婚する。夫の死後は英語学習と伝道のため、34歳でアメリカに留学。1907年に帰国し、その後は東京府立豊島師範学校(現在の東京学芸大学)、東京府立品川高等女学校(後に東京府立第八高等女学校、現在の東京都立八潮高等学校)などの英語教師を72歳まで続けた。
小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10… 小山 温(おやま あつし、慶応元年8月28日(1865年10月17日) - 昭和19年(1944年)2月9日)は、日本の司法官僚、判事、衆議院議員。法学博士。 三河国碧海郡小山村(愛知県碧海郡小山村、刈谷町を経て現刈谷市)出身。1890年、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事を歴任した。1906年より法律取調委員。1907年、司法省監獄局長に就任し、1911年に司法省刑事局長に移った。1912年に司法次官に昇任し、1914年まで務めた。 次官退任後、1914年4月21日、錦鶏間祗候に任じられ、弁護士を開業した。1917年の第13回衆議院議員総選挙に愛知県郡部から立憲政友会の候補として出馬し、当選。
渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、18… 渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、1865年10月17日〈慶応元年8月28日〉 - 1944年〈昭和19年〉7月2日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、倫理学者。文学博士。号は乾甫。 越後国古志郡吉水村(現・新潟県長岡市)生まれ。 東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)で学び、アメリカのコーネル大学で哲学博士号取得(1892年・専攻は倫理学・哲学史・心理学)。 1898年6月高等師範学校附属音楽学校主事。1899年8月に東京音楽学校校長(現東京芸術大学)に就任。校長時代には瀧廉太郎を支えた。 1911年小樽高等商業学校初代校長(現小樽商科大学)に就任。
岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元… 岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元年8月25日〉 - 1955年〈昭和30年〉12月2日)は、日本の実業家。三菱財閥3代目総帥。正四位、男爵。 久弥は岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男として土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)に生まれた。父・弥太郎は三菱財閥の創設者。明治8年に福澤諭吉の慶應義塾に幼稚舎から入塾。3年後に父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、英語や簿記、法律、経済を学んだ。慶應義塾普通部を卒業後、明治19年に米国留学し、1888年(明治21年)にアメリカのペンシルベニア大学ウォートン・スクールに入学。 1891年(明治24年)に帰国後、副社長として三菱社に入り、1894年(明治27年)、三菱社の合資会社転換と共に、叔父・岩崎弥之助に代わって社長に就任。
岩垂 今朝吉(いわだれ けさきち、1865年10月10日 -… 岩垂 今朝吉(いわだれ けさきち、1865年10月10日 - 1917年7月16日)は日本の教育家。 信濃国諏訪郡小井川村(現・長野県岡谷市)生まれ。1887年長野県師範学校卒。高島小学校の訓導となる。素封家に篤志を依り、明治22年(1889年)諏訪郡育英会(後の諏訪郡実科中学校の前身母体)を創設。中学校設置の必要性を説き、諏訪中学(現諏訪清陵高等学校)教諭となった。また女子中等教育の必要性を説き、諏訪高等女学校(現諏訪二葉高等学校)の創設に尽力し、初代校長。生涯を通じ諏訪地域の教育普及に尽力した。大正5年(1916年)従七位に叙せられた。 この項目は、教育に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育)。
山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月… 山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月19日)- 1941年(昭和16年)12月20日)は、日本の地主、農政家、政治家。貴族院多額納税者議員。 越前国坂井郡一本田村(福井県坂井郡丸岡町を経て現坂井市)で、豪農・山田穣の長男として生まれた。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)卒業。父の死去に伴い1892年(明治25年)家督を相続した。 1892年、高椋村会議員に選出され、坂井郡会議員も務めた。1897年(明治30年)に福井県会議員に就任したが1期で引退した。1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、農政懇談会幹事として議員立法の農会法(大正11年4月12日法律第40号)の成立に尽力した。
和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年1… 和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年10月7日) - 昭和9年(1934年)11月21日)は、明治から昭和にかけての国文学者・図書館学者・書誌学者。今沢慈海と並んで日本に本格的な図書館学を導入した人物として知られている。美濃国大垣出身。 大垣藩士和田為助の子として、大垣城城下町の東長町に生まれる。明治23年(1890年)に東京帝国大学国文科を卒業して東京帝国大学付属図書館大学に奉職する。明治25年(1892年)から4年間は学習院教授を兼ねる。明治29年(1896年)に東京帝国大学助教授兼附属図書館司書官となり、翌明治30年(1897年)に図書館長に昇進、以後27年間にわたって館長を務めた。
河波 荒次郎(かわなみ あらじろう、1865年10月7日(慶… 河波 荒次郎(かわなみ あらじろう、1865年10月7日(慶応元年8月18日)- 1932年(昭和7年)2月21日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。「玄洋社式の豪傑」と呼ばれた。 筑前国御笠郡山田村、のちの福岡県筑紫郡大野村(現大野城市)で、地主・河波宗五郎の長男として生まれる。1885年(明治18年)家督を相続した。1888年(明治21年)東京専門学校邦語政治科を卒業した。農業を営み、玄洋社社員であった。 大野村会議員、筑紫郡会議員、同議長、雑餉隈郵便電信局長(現博多南郵便局)などを務め、1903年(明治36年)福岡県会議員に選出された。1905年(明治38年)九州日報社副社長に就任した。
小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応… 小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応元年8月18日)- 1932年(昭和7年)8月26日)は、日本の牧師である。 丹波の南桑田郡千代川村今津(現在の京都府亀岡市)に小北忠蔵とその妻のふじ子の子として生まれる。1883年(明治16年)に京都に出て後に同志社英学校に入学し山本覚馬から法学等を学び、また後に覚馬の影響を受け受洗しキリスト教徒となる。1890年(明治23年)に同学校を卒業後は、同年創立したばかりの熊本の八代教会を経て1896年(明治29年)には再度京都に戻り同地の丹後教会に赴任する。 1909年(明治42年)には北海道に渡り、名寄で天塩教会(名寄教会)の設立に携わり同地でキリスト教の伝道にあたった。
村上 紋四郎(むらかみ もんしろう、慶応元年8月15日(18… 村上 紋四郎(むらかみ もんしろう、慶応元年8月15日(1865年10月4日) - 昭和20年(1945年)1月21日)は日本の政治家。愛媛県漁業組合長、宮窪村初代村長、県会議員、今治市長、衆議院議員。 元最高検察庁次長検事村上常太郎は長男。政治家村上誠一郎は曾孫。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
大場 竹次郎(おおば たけじろう、1865年10月4日(慶応… 大場 竹次郎(おおば たけじろう、1865年10月4日(慶応元年8月15日)- 1932年(昭和7年)12月15日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。 美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡南平野村(現大垣市、神戸町)で生まれる。滋賀県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。一年志願兵として陸軍に入隊し、歩兵少尉に任官し日清戦争に従軍して歩兵中尉に進んだ。日露戦争に参戦し歩兵大尉に進み、中隊長として旅順攻囲戦に従軍した。 政界では安八郡会議員、岐阜県農会議員、岐阜県会議員、同参事会員、大垣輪中水害予防組合議員などを務め、地主と小作人間の調整、農村改良などに尽力した。1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に岐阜県郡部から立憲同志会所属で出馬して当選し、その後憲政会に所属し衆議院議員に1期在任した。
有田 温三(ありた おんぞう、1865年10月2日〈慶応元年… 有田 温三(ありた おんぞう、1865年10月2日〈慶応元年8月13日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月27日)は、日本のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(当選2回)。族籍は広島県平民。 安芸国賀茂郡西高屋村(現在の広島県東広島市)出身。有田久の二男。生家は代々農業を営む。京都本願寺普通教校を経て、1888年に東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科を卒業。山陽新報記者となり、後に安芸津新報主筆に転じ、さらに大阪朝日新聞に入って広島支局長を務めた。 1903年(明治36年)、広島県会議員に当選し、県参事会員及び地方森林会議員も務めた。1907年(明治40年)に広島市会議員に当選、下水道創立に尽力した。
久米 金弥(くめ きんや、慶応元年8月12日(1865年10… 久米 金弥(くめ きんや、慶応元年8月12日(1865年10月1日) - 昭和7年(1932年)5月6日)は、日本の内務官僚、逓信官僚、農商務官僚。 東京府士族久米美由の長男として生まれる。1884年(明治17年)、東京大学を卒業後、内務省に入る。書記官、参事官、社寺局長を歴任した。のち逓信省に移り、参事官、通信局長を務めた。さらに農商務省に移り、特許局長、山林局長、農商務次官を歴任した。 特許局長を務めていた1904年(明治37年)に農商務大臣清浦奎吾とともに「工業所有権保護協会」を創設し、常務委員長、副会長に就任した。工業所有権保護協会は1910年(明治43年)に「帝国発明協会」と改称したが、引き続き副会長を務めた。
木村 越後(きむら えちご、慶応元年8月11日(1865年9… 木村 越後(きむら えちご、慶応元年8月11日(1865年9月30日) - 大正11年(1922年)7月22日、本名:上田秋次郎(のち柳川正直と称す))は大坂相撲を代表する行司。現在の愛知県清須市出身。 実父は地元の相撲集団・愛知組の頭取・一力利三郎で、1871年に親の勧めで同郷の大坂相撲頭取・三保ヶ関喜八郎の部屋に入門。初名は木村秋次郎で1873年7月初土俵。しかし兄弟子の厳しい指導に耐えきれず、一時郷里に帰った。当時、東京相撲を脱退した初代高砂浦五郎が名古屋で改正組を結成、1875年にその一員となり、木村庄治郎とも名乗っていた。1878年5月、4年半余り対立していた高砂改正組は仲裁者の仲立ちで東京相撲と和解、復帰することになり、木村秋二郎(秋治郎)で同場所の別番付に記載された。
内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29… 内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29日〈慶応元年8月10日〉- 1936年〈昭和11年〉3月12日)は、日本の外交官、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。 明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない。通算外相在職期間7年5か月は、現在に至るまで最長である。 熊本藩医・内田玄真と熊本士族黒田五左衛門長女ミカの子として肥後国八代郡竜北(現:熊本県八代郡氷川町)に生まれる。八代郡鏡町にあった名和童山の新川義塾などで学んだ後、同志社英学校に入学するも2年後に退学。東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務中に一時、臨時代理公使・オーストリア公使兼スイス公使・アメリカ大使・ロシア大使などを歴任し、第4次伊藤内閣の外務次官を務めた。
野口 忠太郎(のぐち ちゅうたろう、1865年9月27日(慶… 野口 忠太郎(のぐち ちゅうたろう、1865年9月27日(慶応元年8月8日)- 1931年(昭和6年)2月24日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国三池郡横須村(現:福岡県大牟田市中町1丁目33番地)で、野口忠七、キワ夫妻の長男として生まれる。1882年(明治15年)橘陰校中学部を卒業。1883年(明治16年)9月14日に家督を相続した。 野田卯太郎、永江純一らの知遇を得て、1887年(明治20年)合資会社三池土木会社の創立に参画し事務担当者となり、1900年(明治33年)社長に就任した。その他、三池銀行監査役、大牟田瓦斯取締役、九州電灯鉄道取締役、東邦電力取締役、三池無尽取締役、大牟田無尽取締役、大東畜産工業取締役、三池肥筑物産社長などを務めた。
大谷 仁兵衛(おおたに にへい、慶応元年8月3日(1865年… 大谷 仁兵衛(おおたに にへい、慶応元年8月3日(1865年9月22日) - 1956年(昭和31年)10月21日)は、明治から昭和期にかけて日本の出版業界を代表する実業家。日本タイプライターの創業者。 慶応元年8月3日(1865年9月22日)近江高島郡椋川村(現・滋賀県高島市今津町椋川)に栗田長五郎の3男として生まれ、幼名を捨吉と言った。1880年(明治13年)、京都の出版書店『大谷屋』に奉公し精励していたところ、1893年(明治26年)才覚と人物を認められ大谷家に入籍し、名を大谷仁兵衛と改めた。『十八史略摘註』などの歴史書、『日本旅行独案内』・『亰都名所案内』などの旅行書から詩集・工芸書・『歴世女装考』などのファッション誌と仁兵衛が出版・編集を行った書籍は多岐に及ぶ。
ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Dom… ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Domingos Chohachi Nakamura、1865年9月21日(慶応元年8月2日) - 1940年3月14日)は、明治時代から昭和戦前期にかけてブラジルで活動した日本人のカトリック司祭・海外宣教師。長崎県五島列島出身。 奄美大島での26年間の司牧を経て、17年間に渡りブラジル在住の日本人移民・日系人の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり、生前にすでに「生ける聖人」と呼ばれていた。 1938年、教皇ピオ11世より「大聖グレゴリオ勲章」を受章する。1940年3月、鹿児島司教区の使徒管理に任命されたが、その通知が手許に届く直前にブラジルにて死去。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日[3])は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日[4] - 1922年(大正11年)5月27日[5])。静岡県出身。
桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶… 桜井 鉄太郎(さくらい てつたろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日) - 1945年2月20日)は、日本の官僚。大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取、第5代神戸市長(在任:1920年10月18日 - 1922年(大正11年)5月27日)。静岡県出身。 1865年9月20日(慶応元年8月1日)、後の静岡県に生まれる。大学予備門、東京帝国大学法学部を卒業後官僚となり、長野県参事官、石川県参事官、岡山県警部長、茨城県書記官、東京税務監督局長、神戸税関長、大蔵省主税局長、税関臨時工事部長、大蔵省関税局長、専売局長、大蔵次官(心得)、台湾銀行頭取などを歴任。 1920年(大正9年)、名市長と呼ばれた鹿島房次郎の後任として第5代神戸市長に就任。
森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元… 森 外三郎(もり ほかさぶろう、1865年9月20日〈慶応元年8月1日〉 - 1936年〈昭和11年〉3月6日)は石川県出身の数学者であり教育者。第三高等学校校長などを務めた。 1865年、石川県金沢に生まれる。第一高等学校を経て東京帝国大学理科大学に進んだ。1891年(明治24年)に同大学数学科を卒業。1892年(明治25年)には同郷の友人である香村小録に桜井一久の妹・倉を紹介、結婚に至る。 三重県尋常中学校教諭となった外三郎は、第三高等学校や学習院などで教授を歴任した。1909年(明治42年)よりイギリス・アメリカ・ドイツに留学し、当時欧米で最先端の教育として注目されていた新教育運動(日本では「大正自由教育運動」)に触れる。
渡辺 千代三郎(渡邊、わたなべ ちよさぶろう、1865年9月… 渡辺 千代三郎(渡邊、わたなべ ちよさぶろう、1865年9月20日(慶応元年8月1日)- 1936年(昭和11年)4月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。西成鉄道社長、大阪瓦斯社長、南海鉄道社長、貴族院勅選議員。 現在の岐阜県で渡辺新次郎の二男として生まれる。幼少より学問を好み、1889年(明治22年)7月、帝国大学法科大学法津学科を卒業した。卒業後、代言人(弁護士)の登録をしたが、1891年(明治24年)日本銀行に入行した。北海道支店長に昇進したが、その後辞職し、帝国商業銀行副支配人となる。 その後、大阪に移り北浜銀行頭取岩下清周の招きで同行副支配人となり、さらに支配人に就任した。西成鉄道社長、大阪瓦斯社長、南海鉄道社長、大阪株式取引所理事、帝国瓦斯協会(現日本ガス協会)会長なども務めた。
中島 和三(なかじま わぞう、慶応元年8月1日(1865年9… 中島 和三(なかじま わぞう、慶応元年8月1日(1865年9月20日) - 1944年(昭和19年)1月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家。高知県高岡郡須崎町長、高知市長。高知県会議員。 五藤家の旧臣・中島作次の次男として土佐国安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。1883年(明治16年)高知県師範学校中等科を卒業後、安芸郡大井・井ノ口、土佐郡潮江などの訓導を経て、幡多郡視学。その後、県属となり、1908年(明治41年)香美郡長、1912年(大正元年)吾川郡長、1914年(大正3年)高岡郡長を経て、1917年(大正6年)12月、高知市長に就任。1921年(大正10年)12月まで務める。 満期辞任後は、1922年(大正11年)高知県教育会長を15年務め、さらに同年、高知信用組合を設立し、組合長に就任した。
狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年… 狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1942年(昭和17年)12月22日)は、日本の教育者。号は君山。