十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉… 十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉永5年11月29日) - 1908年(明治41年)8月12日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。号に海山猟夫、尊農子。 涌谷伊達家家臣・十文字秀雄の長男として陸奥仙台藩領遠田郡涌谷(現涌谷町)に生まれる。家は代々亘理氏に仕え砲術を能くした。8歳にして小姓となり、のち砲術を習った。その後、1871年(明治4年)上京し箕作麟祥の塾に入り英学を修め、ついで海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に学んだ。津田仙の学農社編集長、広島県、宮城県各勧業課長、宮城郡長を歴任したのち、雑誌『農事新報』を発刊した。ほか仙台区長を務め、鉄砲販売業を営んだ。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では宮城県第3区から大成会所属で出馬し当選。
曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11… 曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11月24日) - 1937年(昭和12年)12月6日)は日本の建築家。
井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 … 井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 - 没年不詳)は、日本の編集者である。 1853年(嘉永6年)近江国大津(現滋賀県大津市)に生まれた。 初め京都で書肆をやっていた須磨勘兵衛に雇われた後、京都の福井源次郎の書肆に転職した。その後、名古屋の紙久の養子となった。 1881年(明治14年)に上京した。 1886年(明治19年)に氷業を営んだが廃業し、同年10月に東京の京橋区南大工町で「魁眞棲」という社名で書籍業を始めた。 1889年(明治22年)同業者を勧誘して図書の競り市の第一回を挙行し、井口自身は販売人の振手を務めた。 1891年(明治24年)東京の神田錦町に移り書籍小売行を開始した。
高橋 亦助(たかはし またすけ、1853年 - 1918年)… 高橋 亦助(たかはし またすけ、1853年 - 1918年)は、明治から大正にかけての高炉技師。西洋式の製鉄所として我が国で初めての事業的な成功例となった釜石鉱山田中製鉄所の創立に寄与した。 陸奥国(岩手県)釜石村東前、上の沢の旧家で肝煎を務めた父・岩間宇右衛門と母・トメ(高橋は母の旧姓)の三男として1853年(嘉永6年)に生まれる。1857年(安政4年)5歳の時に父と死別し、その翌年より当時生家の近くにあった石応禅寺の学僕となったが、2年で寺を飛び出して遠野の商家や釜石の漁師の手伝いなどをしていた。 1875年(明治8年)亦助22歳の時に工部省鉱山局釜石出張所の求人に応募し採用される。5年越しの建設工事が終わり、1880年(明治13年)より日本で最初の官営製鉄所が操業開始。
植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 19… 植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 1925年(大正14年))は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡会議員、同郡彦島村会議員)、実業家。 長門国彦島西山(現・山口県下関市)出身。植田甚之丞の嫡子。1889年、町村制が実施されると推されて村会議員となり30余年間その公職にあって村政に参与し、その間には郡会議員となり信用組合・漁業組合の理事及び各種の名誉職に挙げられた。 1915年11月、彦島村長より、1919年10月、山口県知事より村治功労者として同年10月には彦島町長より1922年4月、豊浦郡長より自治功労者として表彰され、里人の手によって頌徳碑が建設された。 貧困な家を復興すると同時に全身熱血を注いで部落の青年を薫陶し、常に誠意をもって不言実行した。
高瀬 羽皐(たかせ うこう、本名: 高瀬 真卿(たかせ しん… 高瀬 羽皐(たかせ うこう、本名: 高瀬 真卿(たかせ しんきょう)、嘉永6年(1853年)-大正13年(1924年)11月17日)は、明治時代から大正時代にかけてのジャーナリスト、社会事業家、刀剣研究家。幼名・政吉。号は羽皐隠史、往生庵、菊亭静、茂顕、茂卿など。ほかに、高瀬真之助(介)、高瀬松吉、高瀬恭助、高真卿、高瀬鉄窓、高瀬紫峯、鉄窓学人、天賜苑、東台隠士、柳窓外史、茂湿、春雨、春雨静、藤原静、藤原茂、藤の舎茂、高瀬真藁、高瀬巳之吉、佐野尚、近藤東之助、春秋堂、萩村など、約30もの筆名を使った。 茨城県水戸市下市に米穀炭商・高瀬儀平次の長男・政吉として生まれ、水戸学派の川崎巌雄、庄司春村の塾で漢籍を学ぶ。
束野 孝之丞(つかの こうのじょう、1853年〜1877没)… 束野 孝之丞(つかの こうのじょう、1853年〜1877没)は、明治時代の武士(薩摩藩士)、軍人。 現在の宮崎県都城市出身。1877年(明治10年)、15歳で薩摩軍に参加し、西南戦争で戦死した。 熊本市北区(旧植木町)の荻迫薩軍台場跡に墓碑が建立されており、墓碑銘は「東野」と刻まれているが誤記とされている。没後55年を経た1932年(昭和7年)に、当時の陸軍大臣である荒木貞夫による慰霊碑が建立されている。 『田原坂甚句』に歌われる「美少年」のモデルとされるが、モデルは束野一人ではないともされる。
江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 19… 江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 1916年〈大正5年〉11月21日)は、会津藩士、白虎隊士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等瑞宝章。 文久元年(1861年)に会津藩の南学館友善社に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校日新館に入る。会津戦争では、数え15歳で白虎隊士(寄合組一番隊)として越後口の防衛戦に出動、戦後は越後高田に謹慎となる。その間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主稲葉正邦公の給費生として同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、鹿児島兵学校、東奥義塾、共慣義塾等を転々とした。
佐藤 百太郎(さとう ももたろう、1853年(嘉永6年) -… 佐藤 百太郎(さとう ももたろう、1853年(嘉永6年) - 1910年(明治43年)12月24日)は、日本の実業家(貿易商)。日本における百貨店の創始者であり、日本領事をも務めた。明治4年(1871年)岩倉使節団一行の通訳としても活躍した。藍綬褒章受章。義兄に日米貿易の先駆者である8代目・大野伝兵衛(大野秀頴 1829年 - 1876年 7月29日)。 1853年(嘉永6年)、下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市の本町)に順天堂2代目佐藤尚中の長男として生まれる。成徳館(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)を経て、元治元年には横浜のヘボン塾(現在の明治学院高校の前身)で米国長老派教会系医療伝道の宣教師、ヘボン夫人から英語を学ぶ。
美濃部 貞亮(みのべ ていりょう、1853年(嘉永6年5月)… 美濃部 貞亮(みのべ ていりょう、1853年(嘉永6年5月) - 1904年(明治37年)8月19日)は、日本の弁護士、政治家。 尾張国出身。山田松斎の門下にて学んだ後、明治法律学校(現明治大学)で磯部四郎から学び、1882年に仁杉英(のちの衆議院議員)らと共に、「治罪法詳解」を著した。名古屋にて弁護士を開業した後、1888年愛知県会議員となり、愛知県会副議長に就任。1890年の第1回衆議院議員総選挙で愛知県第11区から出馬し、当選した。 曾孫がイオングループ創業者の岡田卓也。玄孫にはイオングループ経営者の岡田元也と政治家の岡田克也(外務大臣、元民主党党首)などがいる。
赤川 霊巌(あかがわ れいがん、1853年(嘉永6年1月)-… 赤川 霊巌(あかがわ れいがん、1853年(嘉永6年1月)- 1925年(大正14年)5月18日)は、明治時代の政治家。浄土真宗本願寺派の僧侶。衆議院議員(1期)。 安芸広島藩領高田郡、のちの可愛村(広島県高田郡吉田村、吉田町を経て現安芸高田市)出身。慶應義塾に学ぶ。私財を投じて私立学校洗心館を設立し、館長兼講師となった。のち還俗し、1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では広島県第4区から出馬し当選。大成会に所属し衆議院議員を1期務めた。
小野 吉彦(おの よしひこ、1853年(嘉永5年12月)- … 小野 吉彦(おの よしひこ、1853年(嘉永5年12月)- 1908年(明治41年)3月3日)は、明治期の銀行家、政治家。衆議院議員。 豊後国大分郡、のちの大分県大分郡豊府村(大分町を経て現大分市南大分)で、小野吉郎の長男として生まれた。 大分郡会議員、同参事会員を務める。1880年(明治13年)大分県会議員に選出され、衆議院議員在任中を除き、1895年(明治28年)まで務め、この間、副議長に2度在任した。1882年(明治15年)立憲改進党の結党に設立準備委員として参画。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(大分県第1区、無所属)では落選したが、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(大分県第1区、弥生倶楽部(自由党))では元田肇に競り勝って当選し、その後、同志倶楽部(同志政社)に所属し衆議院議員に1期在任した。
清水 文二郎(淸水、しみず ぶんじろう、1853年(嘉永6年… 清水 文二郎(淸水、しみず ぶんじろう、1853年(嘉永6年1月) - 1920年(大正9年)3月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 石見国邇摩郡大国村(のち島根県邇摩郡明治村→大国村→仁摩町、現・大田市)生まれ。漢学を学ぶ。日貫村(のち石見町、現・邑南町)連合会議員、同村学務委員、徴兵参事員、市木村(のちに瑞穂町(現・邑南町)と那賀郡旭村(のち旭町、現・浜田市)に分割)戸長、勧業諮問会員となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において島根4区から無所属で立候補したが落選。1892年の第2回衆議院議員総選挙では弥生倶楽部所属で再び立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では立憲改進党で立候補したが落選。
阿部 周吉(あべ しゅうきち、1853年 - 1927年)は… 阿部 周吉(あべ しゅうきち、1853年 - 1927年)は幕末から明治・大正期の滋賀県の実業家。 1853年(嘉永5年)、近江国甲賀郡水口宿本陣の鵜飼家に生まれる。幼時巖谷一六・小波等の知遇を得、白峰と号して書・詩を嗜む。近江国能登川の近江商人の老舗阿部市郎兵衛家分家阿部利兵衛家の養子となり第2代利兵衛娘なをと結婚し家督を継ぐ。その後金巾製織(現在の東洋紡の前身のひとつ)、近江銀行、関西鉄道などを発起人のひとりとして創業。金巾製織専務、大和紡績(やまとぼうせき、現在のユニチカの前身のひとつ)社長、能登川村長などを歴任。1927年(昭和2年)2月18日74歳で死去。 長女はつは膳所藩筆頭家老戸田資慶長男元寿と結婚。
中山 丹治郎(なかやま たんじろう、1853年(嘉永6年1月… 中山 丹治郎(なかやま たんじろう、1853年(嘉永6年1月)- 1900年(明治33年)12月4日)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員、栃木県会議長、宇都宮市会議長。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡石橋町(現下野市)で、松兵衛の長男として生まれる。法律学を修めた。17歳で家督を相続し、戸長、土地実地測量委員などを務めた。1879年(明治12年)代言人(弁護士)免許状を取得し、宇都宮江野町で開業した。 自由民権運動に加わり、新井章吾、塩田奥造らと国会開設運動、反三島闘争などを進めた。1884年(明治17年)加波山事件では関係者として一時拘引されたが、釈放後、容疑者の弁護人となった。1887年(明治20年)条約改正反対運動に加わり、保安条例違反で皇居三里外に退去を命じられた。
中村 克昌(なかむら かつまさ / こくしょう、1853年(… 中村 克昌(なかむら かつまさ / こくしょう、1853年(嘉永6年4月)- 1930年(昭和5年)5月31日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国多摩郡上石原宿(布田五宿)(神奈川県北多摩郡調布町、東京府北多摩郡調布町、東京都北多摩郡調布町を経て現調布市上石原)で、上石原宿名主・中村勘六の長男として生まれた。呉服雑貨商を営む。 1872年(明治5年)初代戸長に就任。1873年(明治6年)新治県に出仕し庶務課の業務に従事。1879年(明治12年)民権政社「融貫社」が設立されると加入して自由民権運動に加わる。1881年(明治14年)10月、自由党の創立に三多摩壮士の一人として参画した。
八田 謹二郎(はった きんじろう、1853年(嘉永6年9月)… 八田 謹二郎(はった きんじろう、1853年(嘉永6年9月) - 1928年(昭和3年)6月22日)は、明治時代の政治家、銀行家、林業家。衆議院議員(2期)。 安芸広島藩領佐伯郡玖島村(広島県佐伯郡佐伯町を経て現廿日市市)で、酒醤油醸造業・先代新七の長男として生まれる。漢学を修め、広島県下の多額納税者に列した。広島県農工銀行監査役、同頭取、八田貯蓄銀行頭取などを歴任した。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では広島県第2区から無所属で出馬し当選。つづく第2回選挙でも当選した。在任中は中央交渉会に属した。 林業家としては、1万余町に数万株の諸苗を増植、灌漑に努めるなど郷里の農林業に貢献し、その功を賞して1900年(明治33年)緑綬褒章を下賜された。
双木 八郎(なみき はちろう、1853年 - 1923年12… 双木 八郎(なみき はちろう、1853年 - 1923年12月8日)は、日本の政治家、銀行家。 名栗村の柏木家で生まれ、利八郎の養子になった。真能寺村戸長、飯能・久下分・真能寺の三村が合併した連合村の筆生を経て、1889年、飯能町(現・飯能市)の初代町長に就任した。1897年、自治行政の功により藍綬褒章を受けた。1903年頃から、第三十六銀行の監査役、取締役を務める。 1907年、日露戦争銃後の功により勲七等に叙せられた。1908年から2期8年、町長と兼任して埼玉県会議員を務めた。1910年から4年間は小山八郎平と交替したが、1922年に健康上の問題で退任するまで前後あわせて30年にわたり町長を務めた。
池谷 繁太郎(いけたに しげたろう、1853年(嘉永6年6月… 池谷 繁太郎(いけたに しげたろう、1853年(嘉永6年6月) - 1908年(明治41年)3月3日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。諱は茂時、号は岳雲。 池谷七郎平の長男として駿河国富士郡大宮東町(静岡県富士郡大宮町を経て現富士宮市)に生まれる。幕末、韮山の江川塾に入り漢籍、砲術を学んだ。1872年(明治5年)副戸長となり、学区取締、医務取締、地租改正調、第二大区長、町村連合会議長を経て、1876年(明治9年)静岡県民会議員となり、1880年(明治13年)静岡県会議員に当選した。国会開設請願運動の建白総代に名を連ね、1881年(明治14年)の静岡県改進党の結成に加わり、翌年結成された岳南自由党にも参加した。
田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6… 田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6年4月)- 1895年(明治28年)5月8日)は、明治期の農業経営者・教育者・政治家。衆議院議員。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、代々大庄屋を務めた田江家に生まれた。大庄屋を務め農業を営む。自邸内に家塾・択善学舎を設け子弟の教育を行った。 1873年(明治6年)10月、第64区戸長となり、同年12月、第16区第7小区長に就任。広正社を創立して社長となり地域の金融の便を図った。また、田江製糸の設立、ブドウ園の経営など、地域産業の振興に尽力した。 1884年(明治17年)3月、補欠選挙で鳥取県会議員に当選し、同年7月まで在任した。
林 小一郎(はやし こいちろう、1853年(嘉永6年4月)-… 林 小一郎(はやし こいちろう、1853年(嘉永6年4月)- 1926年(大正15年)8月10日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(2期)。 美濃国加茂郡太田村(岐阜県加茂郡太田町を経て現美濃加茂市)で素封家・林市郎兵衛の長男として生まれる。16歳の時、名古屋藩の隊伍に加わったのち、笠松の儒者角田欽江につき漢籍を修めた。その後、1869年(明治2年)愛知県丹羽郡丹羽村の鷲津毅堂の塾に学んだ。 農業を営む傍ら、岐阜県会議員に当選し、同常置委員を歴任。地方産業の発展や鉄道敷設などに尽力した。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岐阜県第6区から出馬し当選。1904年(明治37年)3月の第9回総選挙でも当選し衆議院議員を通算2期務めた。
安田 愉逸(やすだ ゆいつ、1853年(嘉永6年11月)- … 安田 愉逸(やすだ ゆいつ、1853年(嘉永6年11月)- 1904年(明治37年)8月23日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 日向国諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)出身。農業を営んだ。1878年(明治11年)英国の測量船「シルビア」が日本近海にて測量をした際、これに従う。その数年後、鹿児島県の山鹿野鉱山嘱託となり、1886年(明治19年)長崎県属に転じ、外交事務に従事する。1889年(明治22年)オーストリアの皇族ハンリート・バルジー来朝の際は通訳として随行し全国を巡遊した。ほか、教師、造兵局通訳官、外務省訳官などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では宮崎県第2区から無所属で出馬し当選。
佐藤 力作(さとう りきさく、1853年(嘉永5年12月) … 佐藤 力作(さとう りきさく、1853年(嘉永5年12月) - 1924年(大正13年)2月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越後国岩船郡村上城下(のち新潟県岩船郡村上本町→村上町、現・村上市)生まれ。岩船郡会議員、新潟県会議員、村上鮭産育養所長、大日本水産会評議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟2区から自由党所属で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。衆議院議員は1期務め、1924年に死去した。
勝山 芳藏(かつやま よしぞう、1841年12月27日(天保… 勝山 芳藏(かつやま よしぞう、1841年12月27日(天保12年11月15日) - 1896年(明治29年)11月30日)は、因幡国気高郡(現鳥取市)出身の力士。本名は小松 芳五郎。年寄2代尾車。最高位は東前頭5枚目(明治5年4月場所)。 玉垣に入門し1864年10月序ノ口。負け越しが一度もなく1871年4月入幕。しかし幕内では不調で一度も勝ち越せず下位の常連であった。負け越し続きにもかかわらず1877年6月までの6年間幕内から陥落しなかったのは若者頭的存在で指導能力があったためと思われる。1877年引退し年寄尾車を襲名。尾車の名跡は元禄時代以来の復活と思われ、師匠玉垣の後ろ盾と事務能力から角界に残るため復活させたと考察される。
池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保1… 池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保12年11月10日〉- 1918年〈大正7年〉4月30日)は、明治時代の医者。日本の近代医学の礎を築いた人物。学位は、医学博士。華族(男爵)、宮中顧問官、錦鶏間祗候。諱・秀之、幼名・圭助。通称・桂太郎または謙輔(けんすけ)で謙斎に改めた。 1841年、入沢健蔵の次男として越後国蒲原郡中之島村(現長岡市)に生まれる。幼名は圭助。安政5年3月(1858年1月 - 2月)に江戸に出、伯父の入澤貞意宅に寄宿する。漢学を瀬川道元に、剣術を心形刀流伊庭軍兵衛、オランダ語を竹垣龍太郎に学ぶ。 竹垣の紹介を経て適塾に入門し、1862年に西洋医学所へ入学した。
田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(184… 田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の幕末から明治時代にかけての村名主、政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の解決に奔走し、明治天皇に直訴しようとしたことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、救済を政府に訴えた。日本の公益活動家の嚆矢となった人物。 父の跡を継いで小中村の名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。
赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈184… 赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈1841年12月13日〉 - 大正9年〈1920年〉9月23日)は、日本の武士(幕臣)、華族、海軍軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将。位階勲等爵位は従二位勲一等男爵。通称は大三郎。「日本造船の父」と呼ばれる。 中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。
長井 氏克(ながい うじかつ、1841年11月26日(天保1… 長井 氏克(ながい うじかつ、1841年11月26日(天保12年10月14日) - 1904年(明治37年)10月9日)は、衆議院議員(立憲政友会)、津市長。 津藩士の子として伊勢国津に生まれる。戊辰戦争の際には大軍監として藩兵を率いて仙台・秋田に進軍した。1869年(明治2年)、津藩少参事に就任し、1871年(明治4年)には権大参事に昇進した。 1878年(明治11年)、「伊勢新聞」を創刊し、社長に就任した。また代言人免許を取得し、代言組合会長になった。 1880年(明治13年)より三重県会議員、同議長を務めた。1887年、三重同志会を立ち上げて自由民権運動を推進し、大同団結運動に参加し、自由党が成立するとこれに加入した。
内藤 新吾(ないとう しんご、天保12年10月11日(184… 内藤 新吾(ないとう しんご、天保12年10月11日(1841年11月23日) - 大正6年(1917年)8月2日)は、初代久留米市長、衆議院議員。諱は敏樹、字は子敏、号は寒山。 久留米藩国家老有馬氏の臣下の家に生まれ、藩校明善堂で学んだ。真木和泉・水野正名らの尊王攘夷論に傾倒し、福岡藩の平野国臣と交わった。1862年(文久2年)、江戸に出て安井息軒の門に学んだ。翌年に帰郷すると、同志とともに藩の執政有馬監物に尊王攘夷を藩論とするように説いたが、八月十八日の政変で公武合体が藩論となると、幽囚の身となった。 1867年(慶応3年)、5年に及んだ幽囚を解かれた。1868年(明治元年)、明善堂寮長に起用され、翌年には民政判事となった。
川島 宇一郎(かわしま ういちろう、1841年11月17日(… 川島 宇一郎(かわしま ういちろう、1841年11月17日(天保12年10月5日) - 1904年(明治37年)12月15日)は、明治時代の滋賀県の政治家。 1841年11月17日((旧暦)天保12年10月5日)、旗本(6,300余石)朽木之綱の家臣川島眞廣の一子として近江国高島郡長尾村(滋賀県高島郡広瀬村を経て現高島市)に生まれる。父は朽木家京都留守居役を勤め、宇一郎は京において巖垣月洲に漢学を修め、戸田栄之助に剣を習った。京より帰郷後自宅で近隣子弟に漢学を教えていたが、1875年(明治8年)高島郡第8区長となり、1879年(明治12年)4月20日、第一回滋賀県県議会開催に際し、宇一郎は高島郡選出県会議員として議員64名の一人に選ばれた。
今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年… 今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年11月14日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)、佐幕活動家、警察官、教育者、農事指導者、キリスト教活動家、政治家。 今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原健吉道場に入門、免許取得後講武所の師範代の任に就いた。慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。戊辰戦争では衝鋒隊副隊長として各地を転戦し、箱館戦争まで戦った。明治3年(1870年)2月、近江屋事件の件で嫌疑をかけられ、身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。
足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈18… 足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈1841年11月5日〉 - 1907年〈明治40年〉4月19日)は、日本の武士(鳥取藩士)、官僚、華族。男爵。字は興卿、通称は八蔵。雅号は老狸、天瀑、克己斎、礫室、碌々山房、楽石山人、鼓腹庵、古狸窟。 因幡国邑美郡鳥取庖丁人町(現鳥取県鳥取市)で、鳥取藩士・足立次郎八中和の二男として生まれる。文久元年(1861年)学正堀庄次郎(熙明、敦斎)の推挙で江戸の芳野金陵に学ぶ。文久2年(1862年)冬、国事周旋方に就任。 文久3年8月17日(1863年9月29日)本圀寺事件に参加したため、京都藩邸に拘留され、伯耆国日野郡黒坂、鳥取に幽閉された。第二次長州征討が始まり、慶応2年7月(1866年)幽閉先の荒尾直就邸から同志と共に脱出し、長州藩諸隊の南園隊に加わり、備前、京都で活動して長州藩のために周旋し、大村益次郎から西洋軍学を学んだ。
鈴木 昌司(すずき しょうじ、1841年11月1日(天保12… 鈴木 昌司(すずき しょうじ、1841年11月1日(天保12年9月18日)- 1895年(明治28年)4月30日)は、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県会議長。幼名・保逸郎(ほいちろう)、号・竹外。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡代石村(大出口村、吉川村代石、吉川町代石を経て現上越市吉川区代石)で、庄屋・鈴木三郎右衛門の長男として生まれる。同村の高島道隆に師事し漢学を修めた。 父の死去により家督を相続し戸長、副大区長を務めた。地租改正反対運動に加わった。1877年(明治10年)八木原繁祉らと高田町(現上越市)士族らを中心に新潟県初の民権結社・明十社を結成した。1879年(明治12年)府県会規則による新潟県会が開設され、初の県会議員に当選。
巌崎 健造(いわさき けんぞう、天保12年9月1日(1841… 巌崎 健造(いわさき けんぞう、天保12年9月1日(1841年10月15日) - 大正2年(1913年)10月2日)は、囲碁の棋士。武蔵国出身、9世安井算知門下、八段。元の名は海老沢健造。方円社3代目社長として、碁界のもう一方の本因坊秀栄とともに明治後半の囲碁界を取り仕切り発展に努めた。 多摩郡田無村(現・東京都西東京市)の旅人宿の次男に生まれ、幼名は鍋吉。父や親戚の影響で7歳の頃から囲碁を嗜んだ。家が零落したため8歳の時に新座郡新倉村東福寺に預けられ忍治となる。和尚実願の碁の相手をしていたが、実願は才能を見て太田雄蔵に弟子入りさせ、当時本因坊秀和に星目で打ち1目勝している。12歳の頃に実願が大病にかかった際には、近隣にて賭碁で薬代を稼いだともいう。
成川 尚義(なりかわ なおよし / なるかわ ひさよし、18… 成川 尚義(なりかわ なおよし / なるかわ ひさよし、1841年10月4日〈天保12年8月20日〉 - 1899年〈明治32年〉11月27日)は、日本の内務・大蔵官僚、政治家。三重県知事(官選第5代)、貴族院勅選議員。幼名:禎三郎。 上総国山辺郡白幡村(現千葉県山武市)に、伊志田治平(石田治平)の次男として生まれる。同郡本須賀村・成川家の養子となり名を尚義と改める。 幕末の動乱期に勝海舟のもとで事態の収拾に奔走した。新政府軍の江戸城入城後、追及を受けて自首するが、沈着冷静な対応により釈放された。その際、刑法官判事・中島錫胤からの熱心な勧めを受けて出仕することを決意した。 明治2年(1869年)、若森県大参事に就任。
渡辺 徹(渡邉 徹、わたなべ とおる、1841年9月15日(… 渡辺 徹(渡邉 徹、わたなべ とおる、1841年9月15日(天保12年8月1日) - 1913年(大正2年)10月19日)は、幕末の勤王家、明治期の内務官僚、政治家、実業家。茨城県参事、御影町長、衆議院議員。幼名・政吉、後左衛門、又衛。 越前国南条郡武生で、福井藩越前府中領主本多家家臣・渡辺良右衛門の三男として生まれ、のち大坂の国学者・渡辺資政の養子となる。剣鎗銃砲の術を修めた。幕末の国事に奔走し、錦小路頼徳に仕え、七卿落ちの際にも随行し、錦小路死去後に東久世通禧に仕えた。 明治維新後、神奈川府巡察補に就任。以後、同巡察、神奈川県少参事、五條県大参事、甲府県権大参事、租税寮七等出仕、秋田県参事などを歴任。
秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天… 秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天保12年7月28日) - 1913年(大正2年)5月10日)は明治時代の日本の官僚、漢詩人。女子高等師範学校長、貴族院議員を務めた。号は天放。 豊後国佐伯藩(現在の大分県佐伯市)の藩儒秋月橘門の長男として生まれ、咸宜園で学んだ。1871年(明治4年)、兵部省(のち陸軍省)に出仕し、兵部大録に進んだ。西南戦争の際には征討軍団書記官として従軍し、さらに陸軍省総務局報告課長、参謀本部編纂課長、太政官少書記官、参事院議官、太政官権大書記官を歴任した。その後内務省で参事官、図書局長、大臣秘書官を歴任した。 1894年(明治27年)、女子高等師範学校校長に就任して1897年(明治30年)まで務め、文部省参事官も兼ねた。
相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保1… 相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保12年6月23日〉- 1911年〈明治44年〉4月1日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。官位は従二位勲一等功三級男爵。旧名は忠一郎。 佐賀藩士相浦蕃慎の長男として生れる。藩校・弘道館で学び、佐賀藩海軍に入り、戊辰戦争に従軍。 1869年(明治2年)、「延年艦」副長となり、「長鯨丸」「飛隼丸」の各船長、「日進」乗組などを歴任。1871年(明治4年)、海軍大尉に任官。「摂津艦」「雲揚」「龍驤艦」の各艦長などを歴任。1873年(明治6年)3月、水路寮出仕、水路寮測量課長、海軍兵学校次長などを務めた。 1879年(明治12年)9月、現場に復帰し「筑波」艦長となり、以後、「金剛」「扶桑」の各艦長を経て、1885年(明治18年)12月に海軍少将となる。
初代佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、旧姓・中村、1841年… 初代佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、旧姓・中村、1841年8月1日〈天保12年6月15日〉 - 1914年〈大正3年〉12月3日)は、日本の商人(呉服商)、実業家、政治家(貴族院多額納税者議員)、青森県の大地主、青森県多額納税者。五所川原銀行頭取。族籍は青森県平民。勲四等。 陸奥国津軽郡金木村(現青森県五所川原市)の農家に生まれた。中村半治郎の長男。12歳のときに五所川原の呉服商に丁稚奉公。佐々木喜太郎の養子となった。1867年に分家し、一家を創立した。分家した嘉太郎が木綿と雑貨を扱うことにした店の屋号は「又古」だった。 1889年以降、北津軽郡会議員、県税調査委員等を務めた。1895年、津軽鉄道の設立に参画した。
藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保1… 藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日) - 1912年(明治45年)3月30日)は、日本の商人、実業家、華族。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田組(後の藤田財閥、現・DOWAホールディングス)の創始者。男爵。 建設、土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士だとされるが詳細は不詳。 長州藩の萩(現・山口県萩市)で醸造業を営む藤田半右衛門常徳の四男に生まれる。家業は醸造業の他、藩の下級武士に融資を行う掛屋を兼営していた。
石坂 昌孝(いしざか まさたか、1841年6月11日〈天保1… 石坂 昌孝(いしざか まさたか、1841年6月11日〈天保12年4月22日〉 - 1907年〈明治40年〉1月13日)は、日本の幕末から明治期の名主、政治家。神奈川県会議員、神奈川県会議長(初代)、群馬県知事(官選第5代)、衆議院議員(4期)。幼名・高之助。苗字は「石阪」とも表記され、文献によってぶれがある。 武蔵国多摩郡野津田村(のち鶴川村、現在の町田市域)で豪農・石阪吉恩の三男として生まれ、母の実家、名主・石阪昌吉の養子となる。安政4年10月(1857年11月)、家督を相続し、又次郎を襲名。 明治維新後、明治5年1月(1872年2月)、第三十戸籍区戸長となり、第八区区長、神奈川県権少属を歴任。
境川 浪右衛門(さかいがわ なみえもん、1841年5月28日… 境川 浪右衛門(さかいがわ なみえもん、1841年5月28日(天保12年4月8日) - 1887年(明治20年)9月16日)は、下総国葛飾郡(現・千葉県市川市高谷)出身で境川部屋に所属した大相撲力士。第14代横綱。本名は宇田川 政吉(うだがわ せいきち(まさきち))で、のちに市川 政吉(いちかわ - )から市川 浪右衛門( - なみえもん)。 1841年に下総国葛飾郡(現:千葉県市川市)で製塩業を営む家に三男として生まれる。13歳で江戸・新川(現:東京都中央区新川)にあった酒問屋「小西屋」に奉公へ出たが、四斗樽を楽々と運ぶ政吉を見た相撲好きの主人が力士転向を熱心に勧め、境川部屋に入門、1857年11月場所で初土俵を踏んだ。
福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日(1… 福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日(1841年5月13日) - 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の政論家・劇作家・小説家。幼名八十吉(やそきち)。号星泓のち櫻癡(おうち、新字体:桜痴)、別号吾曹。福地桜痴の名で知られる。東京日日新聞社長、最晩年は衆議院議員。 「江湖新聞」発刊で筆禍を得、大蔵官僚を経て東京日日新聞社主筆・社長に就任。当時の言論界・政界に大きな影響力を揮ったが、のち声望傾き、退社後は演劇改良運動に傾注して活歴劇を創始。改修物、翻案物のほか時代物や世話物を創作して劇壇の第一人者となった。 天保12年(1841年)、長崎新石灰(しっくい)町(現在の長崎市油屋町)で長門国豊浦郡府中(現 山口県下関市)出身の儒医・岸田苟庵(福地苟庵)の息子として生まれた。
国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈184… 国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈1841年5月12日〉 - 1885年〈明治18年〉1月18日)は、日本の武士(長州藩士)、官僚。愛知県令。諱は景孝、景廉、景行。通称は鶴之進、直之進、直人、晩年には廉平。変名は逸水清助。雅号は韓山。 天保12年3月(1841年5月)、長門国萩城下松本村で長州藩士・国貞要助の嫡男として生まれた。藩校・明倫館で学び、万延元年(1860年)江戸の有備館に入り、大橋訥庵の指導も受けた。文久2年(1862年)藩世子・毛利元徳の近侍となる。 慶応2年正月(1865年)、鎮静会議員に加わり内乱の収拾に尽力。慶応2年5月(1866年)、干城隊頭取兼文学寮都講となり、さらに国政方を務めた。
中西 新作(なかにし しんさく、1841年5月9日(天保11… 中西 新作(なかにし しんさく、1841年5月9日(天保11年4月8日) - 1911年(明治44年)11月17日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥後国天草郡宮地岳村(熊本県天草郡宮地岳村、本渡市を経て現天草市宮地岳町)出身。漢学を学ぶ。庄屋の家に生まれ、跡を継いだ。大阪府に出仕し、司法省に転じる。のち帰郷し、熊本裁判所判事補、宮地岳村長、同村会議員、天草郡連合町村会議員、熊本県会議員、所得税調査委員、天草郡会議員となる。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において熊本6区から憲政党公認で立候補して落選。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1903年の第8回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から無所属で立候補して初当選。
遠藤 吉平(えんどう きっぺい、1841年5月5日(天保12… 遠藤 吉平(えんどう きっぺい、1841年5月5日(天保12年3月15日) - 1932年(昭和7年)8月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・佐藤、初名・富次郎。 越後国蒲原郡笹口浜(新潟県東蒲原郡築地村、中条町を経て現胎内市)で、廻船業・佐藤六右衛門の二男として生まれる。安政2年(1855年)商船に乗組み蝦夷地、樺太の航海に従事し、その後、箱館の漁業家・中川勇助のもとで5年間働いて帰郷。慶応元年3月(1865年)先代・遠藤吉平の養子となる。養父の死後に家督を相続し吉平と改名した。 1877年(明治10年)、一家で函館に移住し、海陸物産商を開業。函館商業会議所特別議員、函館共立 (株) 社長、北海道セメント監査役、百十三銀行監査役、函館船渠監査役、北海道馬車鉄道取締役などを務めた。
神田 兵右衛門(こうだ ひょうえもん、天保12年2月18日(… 神田 兵右衛門(こうだ ひょうえもん、天保12年2月18日(1841年4月9日) - 大正10年(1921年)1月13日)は、日本の実業家。本姓は梅谷で、名は胤保、号は松雲。播磨国印南郡大塩村(現在の兵庫県姫路市大塩町)出身で、慶應3年に兵庫開港商社取締役世話役に就任し、兵庫運河建設に大きく貢献した[要出典]。のち、神戸市会議長を務める。「神戸発展の父」とも呼ばれる[要出典]。 播磨国印南郡大塩村(現兵庫県姫路市大塩町)の大庄屋の三男に生まれ、15歳で兵庫出在家町の素封家、第12代神田兵右衛門の養子となる。 神田家の家督を継いだ兵右衛門は、慶應3年(1867年)7月、兵庫開港商社取締役世話役に命じられた。
田中 義廉(たなか よしかど、天保12年2月11日(1841… 田中 義廉(たなか よしかど、天保12年2月11日(1841年4月2日) - 明治12年(1879年)10月3日)は日本の洋学者、教科書編纂者。号は天口酔史。博物学者の田中芳男は実兄。 信濃国伊那郡飯田城下(現在の長野県飯田市)に医師・田中隆三(如水)の六男として生まれた。幼名は大輔。兄の芳男とともに名古屋の伊藤圭介の門下となり、蘭学や医学を学ぶ。安政6年(1859年)江戸に出て、林洞海に蘭学や本草学を学ぶ。また海軍兵学と蒸気機関の研究に専念し、英語やフランス語を修めた。慶応3年(1867年)に幕府に出仕し、幕府海軍士官となる。同4年(1868年)の上野戦争では彰義隊に属した。明治2年(1869年)には新政府の海軍御用掛となって海軍操練所の設立に協力し、兵学大助教に進むが、学制発布を受けて、同5年(1872年)には文部省に転属し、小学校教科書の編纂に着手し、「小学読本」を発行。
山口 小一(やまぐち こいち、1841年3月29日(天保12… 山口 小一(やまぐち こいち、1841年3月29日(天保12年2月7日)- 1911年(明治44年)8月27日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の政治家。衆議院議員。 肥前国杵島郡武雄村小楠(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣(足軽)の家に生まれる。幕末には名誉とされていた武雄領の時報役を務めた。戊辰戦争では主君鍋島茂昌に従い羽州を転戦した。 その後、武雄軍団所史生、副戸長を務め、1880年、長崎県会議員に当選。1883年、佐賀県会議員に選出され、1887年、鎌田景弼佐賀県知事により抜擢され佐賀県属・土木課副長に就任。その後、退官して県会議員に復帰し、1902年、県会議長に就任した。
野間 豊五郎(豐五郎、のま とよごろう、1841年3月28日… 野間 豊五郎(豐五郎、のま とよごろう、1841年3月28日(天保12年2月6日) - 1934年(昭和9年)11月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 伊予国越智郡本庄村(のち愛媛県越智郡津倉村→吉海町、現・今治市)の大地主の生まれ。漢学と数学を学ぶ。農業を営む。村民総代、学務世話係、本庄村戸長、津倉村助役、同村長、同村会議員、同議長、越智郡会議員、愛媛県会議員、日本赤十字社特別社員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛媛2区から自由党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党から出馬して再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。