深町 弘三(ふかまち こうぞう、1902年(明治35年)9月… 深町 弘三(ふかまち こうぞう、1902年(明治35年)9月29日 - 1967年(昭和42年)5月22日)は、大正時代から昭和時代の日本の英文学者、翻訳家。 石川県金沢市にて旧加賀藩士の深町家に生まれる。1925年、東京帝国大学文学部英文科を卒業。山形高等学校の教師となった。戦後は引き続き山形大学の教授となり42年間同校で教鞭をとった。翻訳にスウィフトの『奴婢訓』や『樋物語』、『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』などがある。墓所は世田谷区の円光寺にある。妻は伊都子。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
山近 剛太郎(やまちか ごうたろう、1902年〈明治35年〉… 山近 剛太郎(やまちか ごうたろう、1902年〈明治35年〉9月28日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の炭鉱技術者、洋画家。自身が経験した炭鉱の採掘作業や鉱山事故を題材に、油彩や水彩で描いた記録画で知られる。 福岡県鞍手郡宮田町(現・宮若市)に産まれる。若いころから絵画に興味があり、中学校時代には画塾にも通っていた。九州帝国大学採鉱科卒業。 1926年(昭和元年)、貝島太助が社長を務める貝島炭鉱に入社し、炭鉱の採掘現場で技術指導や監督にあたった。後には貝島炭鉱の役員として1972年(昭和47年)まで炭坑に入り、特に炭鉱の防災体制の確立に貢献した。この間にも、坑内の風景をスケッチし、1947年(昭和22年)-1949年(昭和24年)頃には、福岡で画塾を主宰していた洋画家である、手島貢(創元会会員)の下で絵を学んでいた。
小林 茂(こばやし しげる、1902年(明治35年)9月28… 小林 茂(こばやし しげる、1902年(明治35年)9月28日 - 1988年(昭和63年)10月23日)は、日本の実業家。東京創元社を設立し、同社社長や会長を務めた。 東京商科大学(現一橋大学)卒業。創元社東京支社長を経て、創元社東京支社が独立して設立された同名の創元社が倒産したため、これを再建し、1954年に東京創元社を設立。同社社長や、会長を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
赤松 明子(あかまつ あきこ、1902年〈明治35年〉9月2… 赤松 明子(あかまつ あきこ、1902年〈明治35年〉9月27日 - 1991年〈平成3年〉3月21日)は、昭和時代の社会運動家。旧姓は吉野。 東京出身。吉野作造の次女。東京女子高等師範学校附属女学校卒業。1923年3月赤松克麿と結婚。克麿の妹の赤松常子とともに総同盟・社会民衆党系の婦人運動を指導。1927年7月社民党系の小池元子(小池四郎夫人)、松岡勝代(松岡駒吉夫人)、総同盟傘下の日本縫工組合、東京電気従業員組合の女工らと労働婦人連盟を結成し、山一林組争議に参加。同年11月赤松常子らと社民党系の社会婦人同盟を結成。1928年赤松常子、阿部静枝らと社会民衆婦人同盟を結成し、婦人参政権獲得運動や母子扶助法制定運動などを推進。
龍野 喜一郎(りゅうの きいちろう、1902年(明治35年)… 龍野 喜一郎(りゅうの きいちろう、1902年(明治35年)9月27日 - 1981年(昭和56年)5月29日)は、昭和期の日本の政治家、内務官僚、実業家。衆議院議員、官選鹿児島県知事、初代大川市長。 福岡県出身。第五高等学校を首席で卒業。1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、栃木県学務課長、鹿児島県農務課長、千葉県学務課長、鳥取県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、内閣情報部第二課長、京都府学務部長、警視庁刑事部長、兵庫県警察部長、近畿地方総監府第一部長などを歴任。
半谷 三郎(はんや さぶろう、1902年9月27日 - 19… 半谷 三郎(はんや さぶろう、1902年9月27日 - 1944年3月24日)は、日本の詩人。福島県いわき市出身。早稲田大学高等師範部英語科を卒業し、茨城県立古河商業学校に英語教師として赴任。早大在学時より詩作に励む。教職の傍ら『發足』を出版。その後、三好達治、西脇順三郎らとともに、新詩運動に加わる。従来の抒情詩やシュールレアリスム、ダダイスムなどの詩を批判し、新しい詩の創作を提唱した。それらの集大成が彼の代表作である『現實主義詩論』である。1944年、41歳で急死。 長男の半谷恭一は裁判官として活躍し、ロッキード事件の裁判長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
北村 又左衛門(きたむら またざえもん、明治35年(1902… 北村 又左衛門(きたむら またざえもん、明治35年(1902年)9月26日 - 昭和60年(1985年)12月23日)は、日本の林業家、政治家。北村林業会長、また帝国議会の衆議院議員を務めた。その他、全国林業組合長などを歴任した。 奈良県出身。前名は太郎。昭和3年(1928年)法政大学卒業。 昭和17年(1942年)の翼賛選挙に奈良全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、初当選、昭和20年(1945年)12月まで在職した。 戦後、公職追放となり、昭和26年(1951年)6月解除と共に同年10月大丸監査役に就任する。 妻は百五銀行取締役土井八郎兵衛の長女・利子。長女は白鶴酒造相談役嘉納信治の妻であり、灘の名門嘉納家の大閨閥につながっている。
鹿島 俊策(かしま しゅんさく、1902年9月25日 - 没… 鹿島 俊策(かしま しゅんさく、1902年9月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は恵良 俊二郎(えら しゅんじろう)で、旧芸名は鹿島 陽之助(かしま ようのすけ)。一部に鹿島 俊作という表記もみられる。 1902年(明治35年)9月25日、東京市日本橋区(後の東京都中央区日本橋)に生まれる。 旧制・大分県宇佐中学校(後の大分県立宇佐高等学校)を卒業して上京すると、相羽有が主催する蒲田の日本飛行学校に入学。航空機制作の理論や技術を学んだ。その後は欧州航路の高級船員を務めたこともあったとされる。自動車やオートバイの運転、ダンスも得意とし、変わり種と評された。牧野省三が日活から独立して設立した牧野教育映画製作所に1923年(大正12年)に入社、「鹿島 陽之助」として脇役出演を開始する。
進藤 孝二(しんどう こうじ、1902年9月25日 - 19… 進藤 孝二(しんどう こうじ、1902年9月25日 - 1973年9月23日)は、日本の実業家。大阪商船三井船舶(現商船三井)代表取締役社長や、日本船主協会会長を務めた。 兵庫県出身。神港商業学校(現神戸市立神港高等学校)を経て、1925年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業。三井物産船舶部入社後、船舶部が三井船舶として独立すると、同社企画課長、営業部長、常務取締役、専務取締役を歴任。1960年から代表取締役社長を務め、大阪商船との合併を行い、合併後の大阪商船三井船舶初代代表取締役社長に就任した。この間、日本船主協会会長も務めた。
浅井 亨(あさい とおる、1902年〈明治35年〉9月25日… 浅井 亨(あさい とおる、1902年〈明治35年〉9月25日 - 1986年〈昭和61年〉4月16日)は、昭和期の歯科医師、政治家。参議院議員。 福井県福井市で生まれる。1928年(昭和3年)東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業し、さらに1946年(昭和21年)東京慈恵会医科大学を卒業。歯科医を開業した。 堺市議会議員に選出され2期在任した。1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙に全国区から立候補して初当選。1968年(昭和43年)7月の第8回通常選挙に兵庫県地方区から公明党公認で立候補して再選され、参議院議員に連続2期在任した。この間、参議院法務委員長、同懲罰委員長などを務めた。
安藤 博(あんどう ひろし、1902年〈明治35年〉9月25… 安藤 博(あんどう ひろし、1902年〈明治35年〉9月25日 - 1975年〈昭和50年〉2月21日)は、滋賀県滋賀郡膳所町(現・大津市膳所)出身の発明家で、日本におけるエレクトロニクスの開拓者。日本のエジソン、東洋のマルコーニなどと呼ばれた。放送関連の研究に従事し、英語のブロードキャスト (broadcast) に「放送」という訳語を付けた。 1947年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 -… 高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 - 1976年8月5日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。広島県広島市出身。 広島市立本川小学校、旧制広島一中を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業、キリンビール入社。1942年営業部第一部長。1943年営業部第一部長兼東京支店長。1944年麦酒配給統制出向。1948年酒類配給公団理事。1949年酒類配給公団解散に伴い、キリンビールに復帰し、同社取締役営業部長に就任。1953年取締役営業部長兼宣伝部長。1958年常務取締役営業部長。1966年専務取締役。1969年から代表取締役社長を務め、史上最高の63.8パーセントの市場シェアを獲得。
蘇 歩青(そ ほせい、1902年9月23日 - 2003年3… 蘇 歩青(そ ほせい、1902年9月23日 - 2003年3月17日)は、中国の数学者。復旦大学名誉学長。中国数学会名誉理事長。元中国科学院院士。創価大学名誉博士。 浙江省温州市平陽の山間部の農家に生まれる。浙江省立第十中学校(のちの浙江省温州中学(英語版))に首席で合格して学費全額免除を得て卒業後、1919年から日本に留学した。 1920年に兄が通っていた東京高等工業学校(のちの東京科学大学)電気科に進学。在学中関東大震災で被災したものの生き残り、1924年に卒業し、東北帝国大学理学部数学科に進学した。 仙台では止宿先が同じ家だった茅誠司(のちに東京大学総長)と親しくなり、第二次世界大戦後も交友が続いた。
河原 喜久恵(かわはら きくえ、1902年(明治35年)9月… 河原 喜久恵(かわはら きくえ、1902年(明治35年)9月21日 - 1997年(平成9年))は昭和期の声楽家(ソプラノ)。 東京府芝区田村町(現在の東京都港区)出身。士官である河原喜久蔵の二女として生まれる。1920年(大正9年)に日本高等女学校(現・相模女子大学)を卒業。1923年(大正12年)に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に入学して長坂好子とマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事し、1927年(昭和2年)3月に同校本科声楽部を卒業。1929年(昭和4年)3月に同校研究科声楽部を修了。山田耕筰の推薦によりコロムビアに入社。 1930年(昭和5年)「ザッツ・オーケー」「麗人の唄」、1931年(昭和6年)「月の浜辺」が大ヒット。
山崎 釼二(やまざき けんじ、1902年9月19日 - 19… 山崎 釼二(やまざき けんじ、1902年9月19日 - 1958年1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 静岡県駿東郡御厨町(現:御殿場市)出身。1915年御殿場実業学校卒。卒業後は満洲に渡り、満鉄に入るが、社会主義に関心を寄せ、満鉄を退職し、帰国した。帰国後は東京帝国大学に聴講生として通い、帰郷。以後、農民運動の指導者になる。この間、看護婦の藤原道子と結婚した。 その後、労働農民党、社会大衆党に入り。沼津市議、静岡県議を経て。1936年の第19回衆議院議員総選挙において静岡2区(当時)から社会大衆党で立候補して初当選する。翌年の第20回衆議院議員総選挙でも再選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
高橋 健二(たかはし けんじ、1902年9月18日 - 19… 高橋 健二(たかはし けんじ、1902年9月18日 - 1998年3月2日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。中央大学名誉教授。ヘルマン・ヘッセやエーリッヒ・ケストナー作品の翻訳者として知られる。 東京・京橋生まれ。第一高等学校在籍時代は尾崎秀実と親しかった。1925年東京帝国大学文学部ドイツ文学科を卒業、成蹊高等学校のドイツ語教師となる。1931年ドイツに留学し、スイスでヘルマン・ヘッセに会った。ヘッセやエーリッヒ・ケストナーの翻訳・紹介につとめたほか、ゲーテやグリム兄弟やハンス・カロッサなどドイツ文学に関する著書・翻訳多数。 大日本帝国がナチスドイツと1936年に日独防共協定、1937年に日独伊防共協定、1940年に日独伊三国同盟を締結し、枢軸国を形成していくなか、高橋は大政翼賛会宣伝部長に就任し、1942年に『文学と文化 評論と随筆』、 1943年に日独文化協会からヘルマン・シエーファー共編『大独逸に関する優良日本図書短評付撰集 第1』、『戦争生活と文化』(大政翼賛会宣伝部) 、1945年には 『美しい日本への道 反省と発足』(大日本飛行協会)などを刊行し、ナチ文学紹介も行った。
富永 惣一(とみなが そういち、1902年9月18日 - 1… 富永 惣一(とみなが そういち、1902年9月18日 - 1980年6月4日)は、日本の美術史家、美術評論家。男爵・安場末喜の孫。 東京市生まれ。学習院初等科、中等科、高等科を経て、1923年東京帝国大学文学部フランス文学科に進学する。翌年美学美術史学科に転科し、1926年同学科を卒業。1927年学習院講師、1929年学習院教授。1931年から1933年にかけて、宮内省在外研究員として欧米に留学。1949年、学習院大学文学部教授。1954年、美術評論家連盟会長。1959年、国立西洋美術館初代館長に就任するが、1968年に購入作品の真贋問題が追及された責任をとって辞任した。1968年大阪万国博覧会美術館館長、共立女子大学教授。
宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 19… 宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 1988年1月9日)は、日本の実業家。元丸善石油(現コスモ石油)社長、会長。広島県三原市出身。1971年、藍綬褒章受章。
馬上 義太郎(まがみ ぎたろう、まがみ よしたろう、1902… 馬上 義太郎(まがみ ぎたろう、まがみ よしたろう、1902年9月15日 - 1971年1月6日)は、日本のロシア・ソビエト文学研究者、翻訳家。 東京府東京市浅草区浅草千束町(現・東京都台東区千束または同区浅草)のうなぎ料理屋の家に長男として生まれる。生家跡で「エロス堂書店」を営む一方、1928年、松竹キネマ蒲田撮影所に開設された「脚本養成所」(後に「松竹映画脚本研究所」と改称)の研究生(第1期生)を経て、脚本部の客員として従事。1931年3月、東京外国語学校専修科(露語)卒業。ナウカ社に勤務。兵役で中国北部に出征、帰国後は東亜研究所員(または嘱託)としてソ連の新聞、放送の翻訳に従事。戦後は東京都千代田区役所に定年まで勤務。
山本 空外(やまもと くうがい、1902年9月13日 - 2… 山本 空外(やまもと くうがい、1902年9月13日 - 2001年8月7日)は、哲学者、浄土宗の僧。 1902年、広島市南区金屋町生まれ。旧名・幹夫。1926年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。 1927年より(旧制)山形高等学校教授、1929年より広島文理科大学助教授。1929から1931年まで欧米に留学して学ぶ。1935年「哲学体系構成の二途 プローティーノス解釈試論」を提出して文学博士号を取得。1936年より広島文理科大学教授。1945年に被爆し、同年望月信亨のもとで出家する。1947年、広島文理科大学を退官する。1952年より愛媛大学文理学部教授をつとめた。1953年、法蓮寺住職となり、また広島大学文学部教授となった。
木村 寅太郎(きむら とらたろう、1902年(明治35年)9… 木村 寅太郎(きむら とらたろう、1902年(明治35年)9月13日 - 1972年(昭和47年)4月13日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員。 木村吉三郎の長男として、群馬県新田郡笠懸村(笠懸町を経て現みどり市)に生まれる。旧制群馬県立太田中学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学農学部実科卒業。 県農会技師、大日本青年団組織課長、群馬県会議員、大政翼賛会群馬県支部常務委員、同臨時中央協力会議員、県翼賛少年団副団長、大政翼賛会県支部錬成本部長、県翼賛壮年団副団長、文部省委員などを歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では群馬県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。
島袋 俊一(しまぶくろ しゅんいち、1902年9月11日 -… 島袋 俊一(しまぶくろ しゅんいち、1902年9月11日 - 1965年9月17日)は、日本の植物病理学者・菌学者・教育者。歌人としても活躍し、小林 寂鳥(こばやし じゃくちょう)と号した。 1902年、沖縄県国頭郡伊江村出身。 1924年に旧制鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学農学部)を卒業後、名瀬実科高等女学校(鹿児島県立奄美高等学校の前身の一つ)、鹿児島県第二師範学校の教員を務める。1937年に帰郷して沖縄県立八重山農学校(現在の沖縄県立八重山農林高等学校)の初代校長を務め、1944年からは沖縄青年師範学校の校長を歴任した。 1950年に琉球大学が開学すると同大学の教授に就任、1959年に農学部長、学部改組により農家政学部長、農家政工学部長を歴任した。
久保寺 逸彦(くぼでら いつひこ、1902年9月10日 - … 久保寺 逸彦(くぼでら いつひこ、1902年9月10日 - 1971年11月5日)は、アイヌ文化およびアイヌ語の研究者。金田一京助の薫陶を受け、知里真志保、山田秀三と交友関係を持ち、ユーカラなどの口承文芸や宗教儀礼(儀式参照)の記録に多大な貢献を残した。墓所は多磨霊園。
大和田 弥一(おおわだ やいち、1902年(明治35年)9月… 大和田 弥一(おおわだ やいち、1902年(明治35年)9月10日 - 1999年(平成11年)3月13日)は、日本の政治家。初代福島県いわき市長。旧平市(現・いわき市)長。 福島県出身。弘前高校を経て、1927年、高等文官試験(行政科)に合格。1928年、京都帝国大学法律学科卒。卒業後は関東庁に勤務する。1936年、関東庁警察部長となり、1939年、帰国。帰国後は岩手、鳥取、茨城、京都、福島の各府県に勤務する。この間、司政官としてシンガポールに派遣される予定だったが、出発直前に終戦となり、派遣は取りやめになった。 終戦後は福島県総務部長となり、1947年、福島県副知事に就任。1953年の第3回参議院議員通常選挙において福島地方区から自由党公認で立候補したが落選した。
小西 寅松(こにし とらまつ、1902年9月10日 - 19… 小西 寅松(こにし とらまつ、1902年9月10日 - 1960年4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。第3次吉田内閣で賠償政務次官を務めた。 大阪府泉大津市出身。貧家の生まれであり、小学校を中途退学せざるを得なくなり、自由労働者の中に身を投じたという。 1945年、土建業の寅林組を設立。1946年、第22回衆議院議員総選挙で当選(以後第28回まで当選7回)。自由民主党大阪府連合会会長、大阪府漁港協会会長、大阪府土木建築協同組合理事長、大阪府消防協会長など要職を歴任する。 1954年11月、日興連汚職事件により福田繁芳と共に収賄罪の容疑で逮捕され、後に懲役6か月・執行猶予1年の判決を受けた。
赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 197… 赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 1973年12月4日)は、日本の経営者。長野県出身。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業。東邦電力での勤務を経て、1951年6月に九州電力理事に就任し、取締役、常務、副社長を経て、1960年5月に社長に就任。1967年5月には会長に就任。福岡商工会議所会頭、福岡証券取引所理事長、日本放送協会経営委員、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任。 1961年10月に藍綬褒章を受章し、1965年12月に紺綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1973年12月4日に急性肺炎のために死去。
坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9… 坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9日 - 1982年(昭和57年)11月19日)は日本の男性地球物理学者、随筆家。東京大学名誉教授。理学博士で、寺田寅彦の弟子として知られている。
和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日… 和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日 - 1995年(平成7年1月5日))は、日本の地球物理学者・歌人。専門は、気象学・地震学。理学博士(東京帝國大学・1932年)。初代気象庁長官。深発地震の存在を証明し、分布を指摘してプレートテクトニクスに先鞭をつけた。 愛知県名古屋市生まれ。息子に物理学者・和達三樹がいる。 西須諸次(さいす もろじ)の名でエッセーを執筆した。 天王寺中学、東京開成中学、一高を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝國大学理学部物理学科を卒業。中央気象台に入り、1932年、東京帝國大学から理学博士の学位を取得する。 1947年(昭和22年)第6代中央気象台台長につき、1956年(昭和31年)に組織改変により初代気象庁長官に就任。
大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985… 大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985年6月28日)は、日本の実業家。住友化学元社長。富山県出身。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友合資本社に入社した。 1935年に住友化学工業に転職、1944年から1946年まで住友金属工業で勤務したのち、1946年に住友化学工業に復帰し、1956年から専務を務め、1963年2月から1965年2月まで社長を務めた。 関西経済同友会幹事や全日本剣道連盟顧問、副会長なども務めた。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1985年6月28日心筋梗塞のために大阪市内の病院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
伊波 南哲(いば なんてつ、1902年9月8日 - 1976… 伊波 南哲(いば なんてつ、1902年9月8日 - 1976年12月28日)は日本の詩人・作家。 八重山諸島石垣島出身。本名・興英。高等小学校卒。1923年近衛兵として上京。除隊後警視庁に入り、丸の内警察に勤務。佐藤惣之助に師事し詩之家同人となる。27年詩集『南国の白百合』を出版。41年警視庁を退職、敗戦時には福岡にいて火野葦平らと交わっていた。火野の『革命前後』に「志波春哲」として登場する。 東京練馬区の自宅にて肺炎のため死亡(享年74)。 代表作は1500年に石垣島で起こったオヤケアカハチの乱を題材にした長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』。沖縄地方の民話・怪談を多数書き残している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
国井 淳一(國井、くにい じゅんいち、1902年(明治35年… 国井 淳一(國井、くにい じゅんいち、1902年(明治35年)9月7日 – 1974年(昭和49年)10月29日)は、昭和期の詩人、農民運動家、政治家。参議院議員、栃木県那須郡親園村長。 栃木県那須郡親園村(現大田原市親園)出身。1924年(大正13年)東洋大学文化学科を卒業した。その後、上智大学哲学科を中退。 1925年(大正14年)本所キリスト教産業青年会内産業学院主事に就任。この頃、白鳥省吾に師事し、『日本詩人』、『地上楽園』、『詩神』、『北方詩人』などに農民詩を発表した。1934年(昭和9年)親園村長に就任し1期在任した。また、農民青年運動を指導し全国農村青年連盟委員長となった。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して次点であったが、膳桂之助が公職追放で当選を辞退したため当選者となり(補欠、任期3年)、国民民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
滝沢 英輔(瀧澤 - 、たきざわ えいすけ、1902年9月6… 滝沢 英輔(瀧澤 - 、たきざわ えいすけ、1902年9月6日 - 1965年11月29日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名瀧澤 憲( - けん)名義で大正末期に脚本家としてスタート、俳優兼助監督として脚本も手がけ、「英輔」名義で監督となった。第二次世界大戦前の京都にかつて存在した脚本家集団「鳴滝組」に参加、映画史に名を残す。マキノ正博、山中貞雄との共同作業、戦後の女性映画・青春映画でも知られる。 1902年(明治35年)9月6日、東京市芝区三崎町(現在の港区三田4丁目)の葉茶屋の家に生まれる。3歳上の兄は映画監督の二川文太郎(本名・瀧澤吉之助)である。旧制東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)卒業後、新劇の研究をすべく劇研究会を組織した。
金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 199… 金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 1991年5月25日)は、日本の法学者・元裁判官・元外交官。専門は、民事手続法(民事訴訟法・民事執行法・民事保全法)。法学博士(中央大学)。中央大学名誉教授。 山梨県甲府市出身。山梨県立日川中学校(現・山梨県立日川高等学校)卒業。1926年高等文官試験司法科合格。1927年中央大学法学部卒業。司法官試補。1928年東京地方裁判所判事に就任。その後、福島地方裁判所判事、仙台地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事を経て、1936年中華民国南京日本総領事館領事に就任。1942年中華民国天津日本総領事館領事。1946年東京控訴院判事。1948年中央大学法学部教授。
紙 恭輔(かみ きょうすけ、1902年9月3日 - 1981… 紙 恭輔(かみ きょうすけ、1902年9月3日 - 1981年3月24日)は、日本初の本格的ジャズプレーヤー。作曲家、指揮者。日本のジャズ・軽音楽・映画音楽の草分け。広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町)生まれ。岳父は貴族院議員男爵、日本橋簡易商業夜学校(現在の中央学院大学)初代校長南岩倉具威。 広島高等師範学校附属中学校(現在の広島大学附属高校)の一級下に桜田武。紙は級長で音楽もよくできた。同校から、第五高等学校を経て東京帝国大学法学部に進む。中学時代、14、15歳から近くの目黒キネマ(映画館)で、当時ナンバーワン・オーケストラだった波多野オーケストラ(ハタノ・オーケストラ)のメンバー(楽士)、主にベース奏者として、暗がりの中で無声映画の伴奏を行ったといわれる。
穂積文雄(ほづみ ふみお、1902年9月2日 - 1979年… 穂積文雄(ほづみ ふみお、1902年9月2日 - 1979年11月26日)は、日本の経済史学者。京都大学名誉教授。 愛媛県生まれ。愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)、長崎高等商業学校(現・長崎大学)卒、1926年京都帝国大学経済学部卒。1927年東亜同文書院教授、1932-1934年ドイツに学ぶ。1939年京都帝大講師、1939年助教授、1945年3月教授、1952-1954年京都大学経済学部長。1957年「英国産業革命史の一断面 ラダイツの研究」で経済学博士。1966年定年退官、名誉教授、名古屋学院大学教授。1977年大阪工業大学教授。
柴田 敬(しばた けい、1902年(明治35年)9月2日 -… 柴田 敬(しばた けい、1902年(明治35年)9月2日 - 1986年(昭和61年)5月22日)は、日本の経済学者。京都大学教授、山口大学教授、青山学院大学教授などを歴任。数理マルクス経済学の開拓者であり、マルクス、ベーム=バヴェルクへの理論的批判で知られる。 1902年(明治35年)、福岡県福岡市で生まれた。福岡商業学校、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)を卒業後、高商時代の恩師である作田荘一を追うように京都帝国大学経済学部に入学した。そこでは河上肇のゼミに参加し、マルクス経済学を学んだ。また、先輩の高田保馬からローザンヌ学派の研究について学んだ。 卒業後は、京都帝国大学助教授に就いた。
榎尾 義男(えのお よしお、1902年9月1日 - 1989… 榎尾 義男(えのお よしお、1902年9月1日 - 1989年)は、日本の海軍軍人。海兵51期。最終階級は海軍大佐。 1902年、広島県双三郡川地村(現三次市)の農家に生まれる。旧制三次中を経る。1920年8月26日海軍兵学校第51期入学、1923年7月14日、海軍兵学校51期を255名中13番で卒業。1933年12月1日、海軍大学校甲種33期に入学、1935年11月卒業。成績は本来恩賜の軍刀に値するものであったが席次を引き下げられている。教官であった高木惣吉は当時の海大首脳の理不尽な指示があったことを指摘している。 1936年12月「有明」駆逐艦長。1937年12月呉鎮守府参謀。1940年1月15日駐仏武官補佐。
佐伯 敏男(さえき としお、1902年(明治35年)9月1日… 佐伯 敏男(さえき としお、1902年(明治35年)9月1日 - 1963年(昭和38年)4月8日)は、日本の内務・厚生官僚。官選三重県知事。 東京府出身。佐伯頴雄の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、東京府属となる。 以後、富山県経済部長、厚生省職業部課長、福井県総務部長、内務省監査官、厚生省勤労局動員部長、同勤労局長などを歴任。 1946年1月、三重県知事に就任。1947年3月、同県知事選挙に出馬のため知事を辞するが落選した。その後、配炭公団理事兼東海亜炭支団長、関西鉱燃社長を務めた。
高橋 昴(たかはし あきら、1902年8月31日 - 199… 高橋 昴(たかはし あきら、1902年8月31日 - 1992年7月4日)は、北海道出身の元クロスカントリースキー選手。 旧制北海中学校 → 早稲田大学 早大在学中、1925年の第3回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人4kmとリレーで優勝。翌年の同大会でも、クロスカントリースキー個人25kmとリレーの2冠を達成した。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックの代表に選出され、クロスカントリースキー個人長距離(18km)で36位、個人耐久(50km)で25位だった。 引退後は全日本スキー連盟の理事をつとめた。
徳永 郁介(とくなが いくすけ、1902年8月31日 - 没… 徳永 郁介(とくなが いくすけ、1902年8月31日 - 没年月日不詳)は、日本の大学教授。熊本県出身。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)、第五高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科(美学及び美学史専攻)卒業。 昭和3年、京都市主事、同4年、日本大学講師となり、応召を経て同15年、山口師範学校教諭、次いで小郡農業学校教諭などを歴任した。 その後、再度の応召を経て、昭和21年5月に復員し、同23年3月に熊本女子専門学校教授を経て熊本女子大学(現・熊本県立大学)の教授(美学)となった。 昭和43年に定年退官し、同年7月2日に名誉教授となった。 著書に「ルネサンス」やその他、多数の訳書がある。
青山 政次(あおやま まさじ、1902年8月31日 - 19… 青山 政次(あおやま まさじ、1902年8月31日 - 1999年10月20日)は、日本の実業家。京都セラミツク(現在の京セラ)社長を務めた。兵庫県出身。 1928年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。日本電磁器、松風工業での勤務を経て、1959年に稲盛和夫らと共に京都セラミックを創立し、専務に就任し、1964年には社長に昇格。1966年には会長に就任し、1971年に取締役相談役を経て、1973年から監査役を務めた。 趣味は音楽で、1987年には私財を投じて、京都市郊外に青山音楽記念館を建設した。 1999年10月20日急性心筋梗塞のために死去。97歳没。
木村 武雄(きむら たけお、1902年8月30日 - 198… 木村 武雄(きむら たけお、1902年8月30日 - 1983年11月26日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。 衆議院議員選挙に12回当選し、建設大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、国家公安委員会委員長なども務めた。ニックネームは木村元帥、放言居士。 山形県会議員を務めた木村忠三の次男として、山形県米沢市に生まれる。 1926年に明治大学法学部法律学科卒業後、同大学政治経済学部に学士入学し、1928年に卒業。米沢市議会議員、山形県議会議員を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に当時最年少の32歳で初当選。当初中立倶楽部に所属していたが、その後中野正剛率いる東方会に入党。
水谷川 忠麿(みやがわ ただまろ、1902年〈明治35年〉8… 水谷川 忠麿(みやがわ ただまろ、1902年〈明治35年〉8月27日 - 1961年〈昭和36年〉5月20日)は、日本の男爵、貴族院議員。旧姓、近衛。 公爵近衛篤麿の四男として生まれた。兄に内閣総理大臣の近衛文麿、指揮者の近衛秀麿、ホルン奏者の近衛直麿がいる。 男爵水谷川忠起の養子となり家督を相続する。学習院中等科時代から有島生馬について洋画を習い、画家を志す。学習院高等科在学中、1921年(大正10年)に養母堯子を亡くした。1923年(大正12年)京都帝国大学文学部哲学科に入学した直後に養父忠起を亡くし、男爵位を相続。京大在学中は京都帝大オーケストラに参加してオーボエを吹き、京都音楽協会の設立に参加。
渡辺 温(わたなべ おん、1902年8月26日 - 1930… 渡辺 温(わたなべ おん、1902年8月26日 - 1930年2月10日)は、日本の推理作家・幻想小説家。本名は温(ゆたか)。 渡辺伊太郎・渡辺ツネの三男、推理作家・渡辺啓助の実弟。北海道上磯郡谷好村(現在の北斗市)生まれ。 1905年2月東京市深川に転居、スラム街の社宅で幼少期を過ごす。1912年8月茨城県多賀郡高鈴村(現在の日立市)に転居。1920年、旧制水戸中学校を卒業し、慶應義塾大学予科文科に入学するが、翌1921年4月中退。1922年4月、慶應義塾高等部に入学。このころ、啓助と福田耕太郎とともに共同生活を営む。 1924年、プラトン社の雑誌『女性』と『苦楽』が行った映画原案の懸賞公募に「影」を投稿し、一等入選を果たす。
稲田 正次(いなだ まさつぐ、1902年(明治35年)8月2… 稲田 正次(いなだ まさつぐ、1902年(明治35年)8月26日 - 1984年(昭和59年)8月14日)は、日本の憲法学者。法学博士。東京教育大学名誉教授。 島根県能義郡赤屋村(現安来市伯太町)出身。1922年東京高等師範学校文科に入学し、1926年に卒業。熊本県第一師範学校教諭を務めたのち、1928年に九州帝国大学法文学部に入学。1931年に学士試験に合格し法学士となる。静岡県立富士高等女学校教諭を務めたのち、1934年5月に東京文理科大学助手兼東京高等師範学校助教授となる。1936年東京高等師範学校教授、1942年東京文理科大学助教授。 1945年、終戦直後の12月憲法改正私案を政府に提出し、公表した。
菊池 正士(きくち せいし、1902年(明治35年)8月25… 菊池 正士(きくち せいし、1902年(明治35年)8月25日 - 1974年(昭和49年)11月12日)は、日本の物理学者。理学博士(東京大学・1932年)。日本の原子物理学の黎明期を起ち上げた一人である。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。文化勲章、勲一等瑞宝章受章者。贈正三位(没時叙位)。 数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍した男爵菊池大麓の四男として東京府に生まれた。 1915年(大正4年)、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1920年(大正9年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、のちに最高裁判所判事となった下村三郎、獨協大学学長となった市原豊太、東京大学名誉教授の坪井忠二、フランス文学者の中島健蔵などがいた。
村尾 薩男(むらお さつお、1902年(明治35年)8月25… 村尾 薩男(むらお さつお、1902年(明治35年)8月25日 - 1970年(昭和45年)1月5日)は、昭和期の社会運動家、政治家、実業家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡、のちの川内町(川内市を経て現薩摩川内市)で、鹿児島市の山形屋呉服店常務取締役の息子として生まれる。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て第七高等学校造士館に入学。是枝恭二、喜入虎太郎らと文芸、哲学、社会問題の研究会を立上げ、ロシア飢饉救済運動にも加わった。1923年(大正12年)東京帝国大学文学部社会学科に進み、新人会に加入して活動したが、京都学連事件で検挙され、第1審で禁固1年の判決を受け、1926年(大正15年)1月に大学を中退した。
安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月2… 安藤 徳器(あんどう とくき、1902年〈明治35年〉8月24日 – 1953年〈昭和28年〉1月15日)は、大正から昭和にかけての文筆家・翻訳者・報道記者。別名義として安藤十九木や杉森鵬程もあり、他にもXYZや十九気などの筆名もあったという。維新史の研究者から実録文学の執筆に転じ、また、西園寺公望や野口遵に関する書籍を特に多く出版した。 山口県岩国市の警察官・安藤徳明の子として生まれる。最初は軍人を志し、広島陸軍地方幼年学校第21期生として入学。善通寺歩兵第43連隊士官候補生を経て、陸軍士官学校第36期生となる。しかしこの後の安藤は、軍人としてのキャリアを進まなかった。 軍人の道を諦めた安藤は京都帝国大学史科に転じ、維新史を専攻した。
蓮池 公咲(はすいけ こうさく、1902年8月24日 - 1… 蓮池 公咲(はすいけ こうさく、1902年8月24日 - 1968年1月14日)は日本の政治家。秋田県知事を務めた。 新潟県中蒲原郡村松町にて蓮池幸太郎と母しん(川東村小山田出身の医師高橋良折長女)の長男として生まれる。旧制新潟高校(現・新潟大学)では陸上部主将を務めた。1928年に東北帝國大学(現・東北大学)法学部を卒業して農林省に入省、1946年に官選の秋田県知事に就任。引き続き、翌1947年の公選の県知事選挙に出馬して当選。同年に行われた昭和天皇の戦後巡幸では、天皇に拝謁して県政の奏上を行ったほか、県内を随行して回った。その後、知事を1期4年を務め、後継に池田徳治を指名して引退した。1950年から2年半にわたり東北興業(現・三菱マテリアル)の総裁を務め、いち早くセメント製造用のシャフトキルンを導入した。
秋月 康夫(あきづき やすお、1902年8月23日 - 19… 秋月 康夫(あきづき やすお、1902年8月23日 - 1984年7月11日)は、日本の数学者。京都大学名誉教授。 自身の研究室から2人のフィールズ賞受賞者(広中平祐、森重文)を輩出している。 和歌山県出身。旧制大阪府立天王寺中学校四年修了、旧制第三高等学校卒業。1926年京都帝国大学理学部数学科卒業。第三高等学校教授を経て、1948年京都大学教授。退官後、1951年から東京教育大学教授を兼ね、京都大学数理解析研究所の設立に尽力。1967年群馬大学学長。 日本数学会理事を務め、専門の代数幾何学を研究し数学教育にも力を入れた。1984年7月11日死去。81歳。 ヴォルフガング・クルル、オスカー・ザリスキ、永田雅宜に並び、可換環論の初期の基本的かつ重要な仕事をしたことで有名である。