勝野 ふじ子(かつの ふじこ、本名:勝野フジノ、1915年 … 勝野 ふじ子(かつの ふじこ、本名:勝野フジノ、1915年 (大正4年) 3月5日 - 1944年 (昭和19年) 3月21日)は、日本の小説家。『九州文学』同人。鹿児島県立第二高等女学校卒業。 鹿児島県薩摩郡入来村(現・薩摩川内市)生まれ。実父と実母の結婚が認められず、母方の祖父母の戸籍に入り彼らの娘として育てられる。入来尋常小学校卒業後、鹿児島県立川内高等女学校(現鹿児島県立川内高等学校)に進学。その1年後に鹿児島市の戸籍上の兄の元へ移り、鹿児島県立第二高等女学校(現鹿児島県立甲南高等学校)へ転校。第二高等女学校では、文学好きな友人に恵まれ充実した学校生活を過ごす。1932年(昭和7年)に第二高等女学校を卒業。
山田 春(やまだ はじめ、1915年(大正4年)3月5日 -… 山田 春(やまだ はじめ、1915年(大正4年)3月5日 - 2004年(平成16年)8月16日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取を務めた。愛知県出身。 1936年に高文司法科に合格。1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に三菱銀行に入行した。 仙台支店長、本店営業部次長、考査室長兼調査部副部長、調査部長兼考査室長、人事部長兼研修所長を歴任。 1966年11月に取締役に選任。1970年5月に常務、1974年1月に専務、同年12月に副頭取、1978年1月に頭取に就任した。1986年6月に会長に退き、相談役を経て、1998年4月には特別顧問に就任した。また全国銀行協会連合会会長も歴任した。 2004年8月16日、心不全のため、東京都中央区内の病院で死去。
尾澤 千春(おざわ ちはる、1915年3月4日 - 2004… 尾澤 千春(おざわ ちはる、1915年3月4日 - 2004年)は、日本の工芸家、彫刻家。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、尾沢 千春(おざわ ちはる)とも表記される。 長野県農民美術連合会会長などを歴任した。 長野県小県郡神川村(現上田市)生まれの工芸家である。初代中村實の下で学び、主に木彫などを手掛けていた。長野県の「農民美術運動」の第一人者として知られている。長野県農民美術連合会の会長など要職を歴任した。また、後継者や愛好者の育成にも力を注ぎ、木彫の流行に対しても影響を与えた。 神川実業補習学校卒業。初代中村實に弟子入りし、木彫など工芸を学んだ。尾澤を指導した中村は、「農民美術運動」を提唱した版画家の山本鼎に共感し、山本の主宰する農民美術講習会に第1期生として馳せ参じ、山本の一番弟子となった。
緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4… 緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4日 - 2001年(平成13年)11月14日)は、写真家、歯科医師。生来の名は横山知(さとし)。二科会写真部会員。 岡山県邑久郡裳掛村虫明(現・瀬戸内市邑久町虫明)の呉服商の長男として生まれる。1932年(昭和7年)に上京し、日本大学専門部歯科に入学。1934年(昭和9年)、模型飛行機店の店主と合作でコンテストに応募したボート用スチームエンジンを、海軍省が50円で買い取る。これを元手にドイツ製カメラ・ペルケオを購入し写真撮影を始める。1936年(昭和11年)、日大専門部歯科を卒業。歯科医師国家試験に合格し、東京市蒲田区(現・大田区蒲田)の総合病院に勤務する。
山内 隆博(やまうち たかひろ、1915年3月3日 - 19… 山内 隆博(やまうち たかひろ、1915年3月3日 - 1990年10月6日)は、日本の経営者。大和証券社長を務めた。 静岡県磐田市出身。3歳で新宿区大久保に移る。少年期は野球に打ち込んだ。1938年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行し、名古屋支店に勤務するもわずか半年で応召。近衛歩兵第1連隊に入営して間もなく甲種幹部候補生に合格し、盛岡陸軍予備士官学校に入学。原隊復帰後、初年兵教育を担当したのち防衛総司令部参謀附に転属。これで戦地に赴くことはないと思い1941年10月に結婚するも間もなく、11月3日に第16軍編成人員に転属、南方へと派遣される。移動中、乗船していた神州丸が雷撃で大破しながらも船にとどまり、2000ギルダーの軍資金を肌身離さず守り抜いた。
川崎 桃太(かわさき ももた、1915年(大正4年)3月3日… 川崎 桃太(かわさき ももた、1915年(大正4年)3月3日 - 2019年(令和元年)9月30日)は、日本の言語学者、歴史学者。京都外国語大学名誉教授。 山口県大津郡俵山村(現・長門市俵山)出身。1930年(昭和5年)にブラジルに渡り、リオ・デ・ジャネイロ州ノーヴァフリブルゴ市アンシェータ大学哲学科卒業、サン・レオポルド市クリスト・レイ大学大学院修了。1955年(昭和30年)に帰国後、カトリック河原町教会で司祭を務める。京都外国語大学ブラジルポルトガル語学科助手を経て、1975年(昭和50年)より教授。1992年(平成4年)に名誉教授となる。 2019年(令和元年)9月30日、食道癌のため死去、享年104歳。
高梨 公之(たかなし まさゆき、1915年(大正4年)3月2… 高梨 公之(たかなし まさゆき、1915年(大正4年)3月2日 - 2005年(平成17年)1月14日)は、日本の法学者。日本大学名誉総長。学位は、法学博士(日本大学・論文博士・1962年)。弁護士。紫綬褒章、従三位勲一等瑞宝章。栃木県出身。 民法・家族法・婚姻法関係の数多くの著名な研究で知られている。監修した『口語民法』はロングセラーとなった。日大紛争の時代に、当時日大大学院生だった小沢一郎に、司法試験(弁護士教育)と論文指導をした。2005年1月14日(平成17年)に肺癌のため逝去。享年89。
松永 亀三郎(まつなが かめさぶろう、1915年3月2日 -… 松永 亀三郎(まつなが かめさぶろう、1915年3月2日 - 1997年9月29日)は、日本の実業家。中部電力社長や、同社会長、中部経済連合会会長、中部航空調査会理事長、涼仙ゴルフ倶楽部理事長等を務めた。 長崎県壱岐島出身。松永安左エ門の甥。1936年関西学院高等商業学校(現関西学院大学)卒業、合同電気入社。1985年から中部電力社長を務めた。1989年涼仙ゴルフ倶楽部理事長。1991年同社会長及び中部経済連合会会長に就任。中部航空調査会理事長も務め、中部国際空港計画などにあたった。 墓所は川崎市春秋苑。
名和 青朗(なわ せいろう、1915年3月2日 - 1979… 名和 青朗(なわ せいろう、1915年3月2日 - 1979年1月4日)は、日本の放送作家、劇作家。本名は津久井柾章(つくい まさあき)。また、名和左膳の筆名もある。 東京出身。1938年日本大学芸術科卒業。1946年ひまわり社に入社し、雑誌『それいゆ』の編集者を務めた後、1950年より牧野英二が創刊した『別冊モダン日本』の編集者となる。他の編集者には吉行淳之介がいた。翌年13号まで発刊したのち、牧野が出資者と対立して廃刊となる。その後、石坂幸男によって設立された三世社で、牧野・吉行・名和の三人を中心として1952年2月から月刊誌「読切倶楽部」を創刊する。この「読切倶楽部」では名和左膳の筆名で主に漫才を執筆している。
茂木 克己(もぎ かつみ、1915年3月1日 - 2005年… 茂木 克己(もぎ かつみ、1915年3月1日 - 2005年4月26日)は、日本の経営者。キッコーマン社長、会長を務めた。位階は従四位。 千葉県出身。キッコーマン初代社長・茂木七郎右衛門 (6代)の弟・藤崎勘三郎の五男として生まれる。1938年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に野田醤油(のちのキッコーマン)に入社。 1958年2月に取締役に就任し、1963年6月に常務、1974年2月に副社長を経て、1980年3月には社長に就任。1985年10月に取締役相談役に就任し、1994年3月に相談役を経て、2002年6月には特別顧問に就任。 2005年4月26日心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
増田 冨寿(ますだ とみじゅ、1915年3月1日 - 198… 増田 冨寿(ますだ とみじゅ、1915年3月1日 - 1989年8月5日)は、近代ロシア経済史の研究者。早稲田大学名誉教授。 増田冨寿は、1915年(大正4年)に東京府東京市下谷区(現東京都台東区)に生まれ、早稲田大学文学部史学科に入学した。一年生の時に煙山専太郎の講義、二年生の時には浮田和民の「フランス革命史」の講義を聴き、両者から影響を受けた。「フランス大革命」のロシアへの影響を扱った卒業論文を提出し、主査を煙山、副査を浮田が務めた。さらに研究を進めたいと考えた増田は、政治経済学部に学士入学した。学士入学した増田は、講義よりも図書館で時間を過ごすことが多かったという。この頃に増田は、煙山専太郎の研究室において個人的に指導を受けたと記している。
楠瀬 正太郎(くすのせ まさたろう、1915年 <大正4年>… 楠瀬 正太郎(くすのせ まさたろう、1915年 <大正4年> 3月 - 1992年 <平成4年> 2月13日)は、日本の都市計画研究者。位階は従四位。 高知県出身。旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)から第三高等学校を経て1940年に東京帝国大学工学部卒業。1961年工学博士(東京大学)。 建設省計画局、首都圏整備委員会事務局計画第一部第一調整官、新都市センター開発顧問、日本都市計画学会会長等を歴任し、戦災復興都市計画や筑波研究学園都市、多摩ニュータウンなどの計画に携わる。1992年死去。死没日付をもって従七位から従四位に進階。
小島 信夫(こじま のぶお、1915年〈大正4年〉2月28日… 小島 信夫(こじま のぶお、1915年〈大正4年〉2月28日 - 2006年〈平成18年〉10月26日)は、日本の小説家。中国から復員後、教師を経て『小銃』で文壇に登場。「第三の新人」の一人と目されるも、抽象表現を帯びた前衛的手法の作品に独自の道を拓いた。評伝や文学論でも活躍。日本芸術院会員。文化功労者。位階は正四位。 岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市加納安良町)出身。旧制岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て、1941年東京帝国大学文学部英文科卒業。卒業論文は『ユーモリストとしてのサッカレイ』。 1942年より中国東北部で従軍、敗戦でポツダム上等兵(伍長)。1946年復員し、1948年4月から千葉県立佐原女子高等学校で教え、1949年度より東京都立小石川高等学校に移る。
荻 太郎(おぎ たろう、1915年2月28日 - 2009年… 荻 太郎(おぎ たろう、1915年2月28日 - 2009年9月2日)は、日本の画家、絵本作家。 愛知県北設楽郡稲武町(現・豊田市)に生まれる。ほどなくして岡崎市に移り住む。旧制岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。東京美術学校油画科入学。在学中に南薫造、猪熊弦一郎から指導を受ける。1937年、第2回新制作派協会展に初入選、以後出品を重ねる(1947年に会員となる)。1939年、東京美術学校油画科を卒業する。 1939年、東京美術学校を卒業。第4回新制作派協会展に出品し、新作家賞を受賞。1941年、第6回新制作派協会展で新作家賞受賞。1951年、第2回選抜秀作美術展。以後同展の他、日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品した。
村田 知栄子(むらた ちえこ、1915年2月28日 - 19… 村田 知栄子(むらた ちえこ、1915年2月28日 - 1995年11月)は、日本の女優である。本名は村田 美代子(むらた みよこ)。兵庫県神戸市出身。元夫は俳優の見明凡太朗。姉の嘉寿代は「村田扶実子」の芸名で、芸術座や大映で活躍した女優。 旧芸名→村田智栄子→村田千栄子→村田千英子→村田知栄子→村田知英子。特技は三味線。 兵庫県御影師範学校附属小学校(現:神戸大学附属住吉小学校)、および松蔭高等女学校(現:松蔭中学校・高等学校)卒業。 1933年に日活太秦に入社。伊奈精一監督の現代劇映画『大東京曇後晴れ』にデビューする。明朗な娘役として売り出し、『夢に見る母』、『嫁ぐ日』などの作品に主演。1936年日活多摩川撮影所に移り、『人生劇場』で小杉勇と共演し、『恋は雨に濡れて』では岡譲二、時代劇『裸の町』では島耕二の相手役を務めた。
鹿山 誉(かやま ほまれ、1915年〈大正4年〉2月26日 … 鹿山 誉(かやま ほまれ、1915年〈大正4年〉2月26日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人、実業家、作家。最終階級は海軍少佐。『海軍第十六防空隊』など多数の日本軍関係本の著者。 徳島県生。旧制徳島県立徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)卒業後、1934年(昭和9年)に海軍兵学校に入学した。 海兵65期として1938年(昭和13年)に卒業する。八雲・陸奥・剣埼・夕立・村雨・五月雨などの海軍軍艦および艦艇に乗船した。[要出典] 1940年(昭和15年)に舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊副官になる。1941年(昭和16年)に夕立と村雨の砲術長兼分隊長、1943年(昭和18年)に海軍第16防空隊長になる。1944年(昭和19年)海軍少佐に昇進し、1945年(昭和20年)に海軍兵学校教官兼海軍兵学校監事となる。
大井 際断(おおい さいだん、1915年(大正4年)2月26… 大井 際断(おおい さいだん、1915年(大正4年)2月26日 - 2018年(平成30年)2月27日)は昭和・平成時代の日本の禅僧。 兵庫県西宮市出身。室号は大隠窟、道号は際断。法諱は令碩、俗姓は大井。1990年(平成2年)に臨済宗方広寺派管長ならびに方広僧堂師家に就任、1990年より2018年まで務めた。2018年(平成30年2月27日)遷化。世寿104。 1915年(大正4年)、兵庫県西宮市に生まれる。6歳のとき、西宮市の臨済宗東福寺派茂松寺和尚、かつ実父の大井洞雲について得度した。 1940年(昭和15年)京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、1940年(昭和15年)に家永一道のいる京都の東福僧堂に掛搭。
山川 茂夫(やまかわ しげお、1915年2月26日 - 19… 山川 茂夫(やまかわ しげお、1915年2月26日 - 1990年5月30日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。大阪府池田市出身。 1937年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄に入社。1947年に分社化に伴い、阪急百貨店に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1975年5月に専務、1979年6月に副社長を経て、1986年6月に社長に就任した。1988年6月から会長を務めた。阪急電鉄取締役、関西テレビ放送取締役も務めた。 小学校からテニスをプレーしており、1985年にはダンロップグランドマスターズで優勝を果たした。 1990年5月30日心不全のために死去。
藤田 美実(ふじた よしみ、1915年2月26日- )は、日… 藤田 美実(ふじた よしみ、1915年2月26日- )は、日本の倫理学、明治教育史学者。 岐阜県長良村(現在の岐阜市)生まれ。父の仕事で長野県松本市、群馬県前橋市と転々とし、水戸高等学校卒、1939年東京帝国大学文学部哲学科卒、外務省に入る。1940-42年入隊。1943年東京女子高等師範学校嘱託としてドイツ語を教える。1946年山梨工業専門学校専任講師、1949年明治大学教養部助教授、1954年教授、ドイツでボルノーに学ぶ。1969年東京農工大学教授、1978年定年退官、立正大学文学部教授、1986年退職。
滝井 義高(たきい よしたか、1915年(大正4年)2月25… 滝井 義高(たきい よしたか、1915年(大正4年)2月25日 - 2005年(平成17年)12月19日)は、日本の政治家、医師。日本社会党衆議院議員、福岡県田川市長を歴任した。 福岡県出身。旧制明治中学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業し、病院を開業する。 1947年(昭和22年)田川市議会議員選挙に立候補し当選する。1951年(昭和26年)福岡県議会議員選挙に立候補し当選する。日本社会党発足に参加するとともに、地元の筑豊炭田などの炭鉱労組の社会労働問題に精通する。 1953年(昭和28年)第26回衆議院議員総選挙に社会党から立候補し当選する。当選回数5回。社会党では、国会対策副委員長、選挙対策委員長などを務め、社会政策、労働政策の論客として活躍した。
衣笠 駿雄(きぬがさ はやお、1915年〈大正4年〉2月23… 衣笠 駿雄(きぬがさ はやお、1915年〈大正4年〉2月23日 - 2007年〈平成19年〉2月11日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸士48期・陸大55期恩賜。最終階級は帝国陸軍では陸軍少佐、陸自では統合幕僚会議議長たる陸将。第9代陸上幕僚長、第6代統合幕僚会議議長。 陸軍中佐・衣笠寛(陸士18期)の長男。陸軍士官学校(第48期)。陸軍大学校(第55期)恩賜の軍刀組でもある、陸士卒業時の兵科は航空兵。航空軍や航空総軍の参謀などを歴任。 戦後は公職追放を経て、警察予備隊に入隊、陸上自衛隊発足直後に戦時中、「空の神兵」と謳われた帝国陸軍挺進団(陸軍落下傘部隊)の元隊員達とともに(但し、第1次研究員は落下傘降下未経験者であった)、落下傘降下の研究を開始し、初代空挺教育隊隊長として第1空挺団の創設に尽力し、同空挺団の初代団長となる。
野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 -… 野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 - 1991年(平成3年)1月2日)は、日本の小説家・評論家・詩人。 大学時代の左翼運動と出征経験から、戦後『暗い絵』を書いて第一次戦後派の先頭に立ち、特に『真空地帯』は大きな反響を呼んで戦後文学の記念碑的名作となった。その後は社会全体の構造をとらえる全体小説を志向し、次々と大作を発表。文学の国際交流にも尽力し、また最晩年まで社会的な発言を多く行った。部落外の出身者だが部落解放同盟中央委員となった
中村 瑞隆(なかむら ずいりゅう、1915年2月23日-20… 中村 瑞隆(なかむら ずいりゅう、1915年2月23日-2003年11月15日)は、日蓮宗の僧、仏教学者、立正大学学長を務めた。 青森県出身。1941年立正大学文学部仏教学科卒、同大学院修了。45年専門部講師、48年助教授、49年立正大学講師、50年助教授、61年教授、66年「如来蔵思想研究」で九州大学文学博士。73年法華経文化研究所長。1977年仏教伝道文化賞受賞。1983-86年立正大学長、名誉教授。1987年、勲三等瑞宝章受章。日本学術会議会員。
井上 園子(いのうえ そのこ、1915年2月22日 - 19… 井上 園子(いのうえ そのこ、1915年2月22日 - 1986年1月19日)は、日本のピアニストである。 1915年2月22日、東京にて生まれる。父は神田駿河台に1881年から続く井上眼科病院の第7代院長・井上達二。 6歳からカテリーナ・トドロヴィチにピアノを師事する。入学した成蹊小学校では小林宗作に音楽を習う。 1926年5月16日、東京でデビューする。この時、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番イ長調Kv.488を演奏する。 1929年、ウィーンへピアニストとして留学する。翌年、ウィーン国立音楽院に入学。エミール・フォン・ザウアーのクラスで学び、パウル・ヴァインガルテンにもピアノを師事した。
山田 明吉(やまだ あきよし、1915年2月21日 - 19… 山田 明吉(やまだ あきよし、1915年2月21日 - 1994年11月25日)は、日本の鉄道官僚。帝都高速度交通営団総裁を務めた。愛知県安城市出身。 1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に鉄道省に入省した。監督局事務官、東京鉄道局旅客課長を経て、1949年から1953年までに内閣官房総務課長を務めた。国鉄常務理事、関西支社長を経て、1964年に帝都高速度交通営団理事に就任し、1969年から1973年までに国鉄副総裁を務めた。 1975年に帝都高速度交通営団副総裁に就任し、1978年には総裁に昇格し、1983年からは顧問を務めた。 1987年に勲一等瑞宝章を受章した。 1994年11月25日心不全のために死去。
小島 二男(こじま おとお、1915年2月20日 - 没年不… 小島 二男(こじま おとお、1915年2月20日 - 没年不詳)は、兵庫県出身のプロ野球選手。 豊岡実業から白木屋を経て1936年に東京セネタースへ入団。1941年は大洋軍に所属し同年退団。
水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年2月20日 - 2… 水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年2月20日 - 2009年11月16日)は、日本の女優、映画プロデューサー、タレント。
石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1… 石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1982年4月24日)は、山形県米沢市出身の実業家。東京帝国大学法学部政治学科卒。パイオニア2代目社長としてレーザーディスク事業を推進した。父は山形県立米沢興譲館高等学校教頭の石塚澄[要出典]。 1937年に東芝入社。東芝から1955年に日本電子機械工業会へ業務部長として出向。輸出問題で手腕を発揮。その後、ミツミ電機を経てスカウトされパイオニアに入社。常務、専務などを経て昭和46年社長に就任。パイオニアでは技術開発力の向上や無借金経営など財務体質の強化を図る傍ら、人材拡充にも注力。当時一介の中小企業であったパイオニアをオーディオのトップメーカーとして一流企業にまで発展させた。
宮村 定男(みやむら さだお、1915年〈大正4年〉2月19… 宮村 定男(みやむら さだお、1915年〈大正4年〉2月19日 - 2011年〈平成23年〉11月25日)は、日本の細菌学者、医師。医学博士。新潟大学名誉教授。趣味はバイオリンと水泳。 新潟県北蒲原郡川東村大字下羽津(現 新発田市下羽津)出身。1931年(昭和6年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1934年(昭和9年)3月に新潟高等学校を卒業、1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学を卒業。 1938年(昭和13年)3月に新潟医科大学細菌学教室(担任:宮路重嗣教授)副手に就任、12月に助手に就任、1943年(昭和18年)1月に医学博士の学位を取得、10月に新潟医科大学細菌学教室(担任:伊藤泰一教授)講師に就任。
山本 恪二(やまもと かくじ、1915年(大正4年)2月18… 山本 恪二(やまもと かくじ、1915年(大正4年)2月18日 - 2000年(平成12年)3月5日)は、昭和から平成期前半の彫刻家。京都市立美術大学名誉教授。 滋賀県生まれ。旧制中学2年の時にギリシャ彫刻の写真を見て、彫刻家になることを志したと言われる。1933年、東京美術学校彫刻科彫塑部に入学した。 1940年、第5回新制作派展に初入選するが、戦争に徴用される。戦後実家に戻り1947年から1949年まで京都市立美術専門学校(京都市立芸術大学の前身)、1950年から1980年まで京都市立美術大学・京都市立芸術大学、その後は大手前大学・神戸山手女子短期大学芸術科で彫刻の指導を行った。なお、この間1958年から1960年までパリに留学(パリ・エコール・デ・ボザール)しマルセル・ジモンとユーベル・ヤンセンに就いて学んだ。
西村 清次(にしむら せいじ、1915年 <大正4年> 2月… 西村 清次(にしむら せいじ、1915年 <大正4年> 2月18日 - 2013年 <平成25年> 8月1日)は、日本の経営者。京都中央信用金庫理事長を務めた。位階は従四位。 京都府出身。関東軍無線電信教習所、朝鮮平壌日本穀産工業での勤務を経て、1947年1月に京都中央信用金庫に入社し、1949年に立命館大学文学部哲学科を卒業。1950年4月に理事に就任し、1959年に専務を経て、1972年12月に理事長に就任。1989年5月に会長に就任し、1995年5月から2000年5月までに相談役を務めた。1981年に立命館理事長に就任し、1995年11月には名誉会長に就任。 1977年に黄綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章し、1996年4月に勲二等瑞宝章を受章。
梅崎 春生(うめざき はるお、1915年〈大正4年〉2月15… 梅崎 春生(うめざき はるお、1915年〈大正4年〉2月15日 - 1965年〈昭和40年〉7月19日)は、日本の小説家/随筆家。 海軍体験を基にした『桜島』の成功で第一次戦後派の代表的存在となった。戦争物のほか、人間心理の暗闘を戯画的に描いた市井事物でも評判を呼び、作家としての地位を確立。「第三の新人」の先駆とも目されたが、やがて心身不調となり、『幻化』を遺して没した。 福岡市簀子町生まれ(現中央区大手門)。父親の建吉郎は佐賀県出身で陸軍士官学校を卒業した軍人であり、海軍大将百武源吾とも旧制佐賀中学の同窓。父の福岡配属時に春生が生まれた。祖父梅崎長明の弟梅崎綱吉は、佐賀で相場師として活躍し名を馳せた。
小副川 十郎(おそえがわ じゅうろう、1915年2月15日 … 小副川 十郎(おそえがわ じゅうろう、1915年2月15日 - 1996年6月15日)は、日本の経営者。日本水産社長、会長を務めた。佐賀県出身。 1940年に農林水産講習所を卒業し、同年に日本水産に入社。 1964年に取締役に就任し、1969年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年5月に副社長に就任し、1975年12月には社長に昇格。1980年6月に取締役相談役に就任し、1982年6月には相談役に就任。 1979年4月に藍綬褒章を受章。 1996年6月15日心不全のために死去。81歳没。
小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月1… 小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月14日(戸籍上2月21日[要出典]) - 2001年〈平成13年〉12月7日)は、東京府(現:東京都)出身の画家・イラストレーター。 空想科学イラスト・戦記物・プラモデルの箱絵(ボックスアート)など、挿絵画家の第一人者として幅広く活躍した。 東京府北豊島郡南千住町(現在の東京都荒川区南千住)で生まれ、青年期には日本画家を志望し花鳥画の堀田秀叢(ほったしゅうそう)に学ぶ。しかし、転じて秀叢の弟弟子の画家・小林秀恒の下で挿絵画家の道を歩むことになる。 1938年(昭和13年)に「小樽新聞」に連載の悟道軒圓玉の講談小説『白狐綺談』の挿絵でデビューし(筆名は「恒方」)、翌々年には科学雑誌『機械化』の挿絵で、戦争物や空想科学を題材にした絵を描き評判になる。
新富 卯三郎(しんとみ うさぶろう、1915年2月13日 -… 新富 卯三郎(しんとみ うさぶろう、1915年2月13日 - 1945年8月1日)は、福岡県出身のプロ野球選手。
北見 禮子(きたみ れいこ、1915年2月13日 - 200… 北見 禮子(きたみ れいこ、1915年2月13日 - 2007年)は、日本の女優である。新漢字表記北見 礼子、出生名・旧芸名稲村 美津子(いなむら みつこ)、結婚後本名林 美津(はやし みつ)。夫は林敏夫、長男は林与一である。 1915年(大正4年)2月13日、千葉県東葛飾郡野田町(現在の同県野田市)に生まれる。 1932年(昭和7年)3月、野田町立野田高等女学校(現在の千葉県立野田高等学校)を卒業し、同年4月、東京・巣鴨の河合映画製作社に入社、同年6月10日に公開された吉村操監督の『大磯心中 天国に結ぶ恋』に出演して、映画界にデビューした。同年10月20日に公開された根岸東一郎監督の『下宿屋の娘』で、初めて主役に抜擢される。
石井 象二郎(いしい しょうじろう、1915年2月12日 -… 石井 象二郎(いしい しょうじろう、1915年2月12日 - 2004年12月10日)は、日本の昆虫学者・農学者。 大阪府大阪市出身。1937年東京高等農林学校(現東京農工大学)卒業。農林省農事試験場昆虫部、佐賀県立農事試験場を経て、1946年京都帝国大学農学部卒。1956年「アズキゾウムシの寄生選好に関する研究」により、農学博士の学位を取得。農林省農業技術研究所技官を経て、1963年京都大学農学部教授となる。1978年定年退官、名誉教授。ゴキブリの集合フェロモンを発見し、昆虫の生理生化学的研究を進めた。日本応用動物昆虫学会会長、日本昆虫学会会長を務めた。1991年『イラガのマユのなぞ わたしの研究』で日本科学読物賞受賞。
北村 茂男(きたむら しげお、1915年2月11日 - 20… 北村 茂男(きたむら しげお、1915年2月11日 - 2002年3月11日)は、日本の経営者。滋賀県出身。 1935年に彦根高等商業学校を卒業し、同年に第一銀行に入行。1951年9月にオリンパス光学工業に転じ、1964年12月に取締役に就任し、1969年12月に常務、1971年12月に専務を経て、1973年12月に社長に就任。1984年1月に会長に就任。 1979年4月に藍綬褒章を受章。 2002年3月11日肺炎のために死去。87歳没。
川名吉エ門(かわなきちえもん、1915年(大正4年)2月11… 川名吉エ門(かわなきちえもん、1915年(大正4年)2月11日 - 1998年(平成10年)9月6日)は、日本の都市計画学者。旧・東京都立大学名誉教授。 千葉県出身、東京大学建築学科卒業。 都市計画の研究に多くの実績を残す一方、東京都立大学(のち首都大学東京)工学部建築学科の他、日本女子大学、大阪市立大学工学部建築学科で都市計画方面の人材を数多く育成。 代表作に、神戸市西区の研究学園都市西神ニュータウン、鈴蘭台住宅団地基本計画、大阪既製服縫製近代化協同組合枚方工場団地、など。 1987年勲三等瑞宝章受章。
松永 義正(まつなが よしまさ、1915年 <大正4年> 2… 松永 義正(まつなが よしまさ、1915年 <大正4年> 2月11日 - 1995年 <平成7年> 11月4日)は、日本の経営者。日本軽金属社長、会長を務めた。位階は正四位。 東京都出身。1937年に早稲田大学商学部を卒業。富士川電力での勤務を経て、1939年に日本軽金属に転社。1963年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1967年5月に副社長を経て、1975年5月に社長に就任。1983年11月に会長に就任し、1987年6月に取締役相談役、1989年6月に取締役名誉会長を経て、1990年6月に名誉会長に就任。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1995年11月4日心不全のために死去。
福田 時雄(ふくだ ときお) のち 森山 時雄(もりやま と… 福田 時雄(ふくだ ときお) のち 森山 時雄(もりやま ときお、1915年2月10日 - 2001年1月6日)は、日本の陸上競技(障害走)選手・指導者、実業家、美術収集家。1936年ベルリンオリンピックに男子400メートルハードルで出場。 島根県出身。県立大社中学校(現在の島根県立大社高等学校)卒業。 関西大学に入学。1936年ベルリンオリンピックで日本代表選手となり、男子400メートルハードルに出場。 1937年9月5日、日本陸上競技選手権大会400メートルハードルにおいて、当時の日本学生記録(54秒8)をマーク。 1938年(昭和13年)関西大学法学部卒業。醸造業を営み、島根県醤油工業協同組合理事長を務めた。
清河 七良(きよかわ しちりょう、1915年〈大正4年〉2月… 清河 七良(きよかわ しちりょう、1915年〈大正4年〉2月10日 - 2004年〈平成16年〉8月24日)は、日本の政治家。富山県松倉村長および魚津市長を歴任。位階は従四位。 1915年2月10日、朝鮮半島の鎮海にて、池上家の七人兄弟姉妹の6番目の子供として生を受ける。1928年3月に鎮海尋常高等小学校卒業、1933年3月に釜山公立中学校卒業。1936年3月15日に立命館大学専門部文科を卒業。 1936年9月4日、富山県下新川郡松倉村北山の旅館業『仁右衛門家』を営む清河家(母方の実家)の清河さきと養子縁組をし、美智子と結婚。同年12月16日から1940年6月30日まで富山県中新川郡早月加積尋常高等小学校に代用教員として勤務し、続いて同年6月30日から1941年3月29日まで富山県公立青年学校教諭となり、下新川郡魚津青年学校に勤務。
阿部 正雄(あべ まさお、1915年2月9日 - 2006年… 阿部 正雄(あべ まさお、1915年2月9日 - 2006年9月10日)は、日本の禅哲学者、奈良教育大学名誉教授。禅と西洋哲学との比較研究、またキリスト教徒やユダヤ教徒との宗教間対話に力を注いたことから、西洋の学界、宗教界で著名である。 大阪市立大学卒業、1942年に京都帝国大学で西洋哲学を研究する。1952年奈良学芸大学助教授、奈良教育大学教授、1980年定年退官、ハワイ大学禅文化研究所に勤務。1985年「禅と西洋思想」で京都大学文学博士。 1950年代から、ニューヨークにあるユニオン神学校で、20世紀を代表する神学者であるラインホルド・ニーバーやパウル・ティリッヒに師事し、キリスト教神学を学んだ。
井上 四郎(いのうえ しろう、1915年2月8日 - 201… 井上 四郎(いのうえ しろう、1915年2月8日 - 2010年7月11日)は、昭和期の日本の銀行員。日本銀行理事、アジア開発銀行総裁(第2代)などを務めた。東京都出身。父は1932年に、血盟団事件で暗殺された元大蔵大臣の井上準之助、母は華族・吉敷毛利家の毛利重輔の娘・千代子。 1931年、東京府立一中を四修で修了し、府立高等学校 (旧制)、東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行。日本銀行理事(外国局担当 1967年10月-1972年9月)に就任、ニクソンショックの渦中にあって、当時の柏木雄介大蔵省顧問らと同様、日本銀行を代表して日本市場閉鎖に反対の立場をとった。この間、閉鎖するまでの12日間で当時2200億円の為替差損を生じさせることとなったが、一方で、これは市中銀行が輸出奨励政策の一貫からこれまで巨額のドルを保持していたこと、また、日本の国際収支の“黒字隠し”のためにこの「ドルの保持」が利用されていたこともあって、国家が民間企業の巨額の差損を肩代わりすることで“救った”ものだと評されている 。
加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3… 加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手。ポジションはインナーレフト。加茂正五は弟。 静岡県浜松師範学校付属小学校4年時にサッカーを始める。浜松一中では5年時にキャプテンを務め、中部大会に優勝した。 早稲田大学入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、背番号10を付けた。1回戦のスウェーデン代表戦に出場し、ベルリンの奇跡の立役者となった。また、2回戦のイタリア代表戦にも出場した。 また、1938 FIFAワールドカップ・予選および1940年東京オリンピック の日本代表にも選出されたが、試合会場となるベトナムへの渡航に難色を示した大日本蹴球協会(現:日本サッカー協会)によりW杯予選への不参加が決定された。
村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日… 村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日 - 2010年〈平成22年〉5月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。正三位勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(12期)、大蔵大臣(第82代・第91代・第92代)、厚生大臣(第60代)を歴任。税制通で知られ、消費税導入にもかかわった。 新潟県長岡市坂之上町生まれ。株屋をやっていた幸太郎の三男。 長岡市立表町尋常小学校から長岡中学校に進む。長岡中二年の時、母が死去、姉静子に身のまわりの面倒をみてもらうようになった。当時の旧制中学は五年制だったが、中学四年生から旧制高校を受験できた。担任教諭の勧めで一高を受験、合格した。 1937年(昭和12年)に東京帝国大学法学部を卒業。
春日 和男(かすが かずお、1915年2月8日 - 2012… 春日 和男(かすが かずお、1915年2月8日 - 2012年)は、日本の国語学者。九州大学名誉教授。 長野県生まれ。春日政治の長男で、親子二代で九州大学国語国文の教授を務めた。旧制福岡県立福岡中学を経て、京都帝国大学文学部国文科卒。1962年「古代国語における存在詞の展開」で九州大学文学博士。福岡経済専門学校教員、福岡商科大学(校名変更、のち福岡大学)助教授、九州大学文学部助教授を経て、教授となる。1978年定年退官、名誉教授、帝京大学文学部教授を務めた。
神田 貞之助(かんだ ていのすけ、1915年2月8日 - 1… 神田 貞之助(かんだ ていのすけ、1915年2月8日 - 1997年4月23日)は、日本の物理学者。神戸大学名誉教授。理学博士。大阪府大阪市出身。
吉賀 大眉(よしか たいび、1915年2月8日 - 1991… 吉賀 大眉(よしか たいび、1915年2月8日 - 1991年10月13日)は、陶芸家。文化功労者。 山口県萩市出身。本名は寿男。東京美術学校彫刻科卒。萩焼作家協会会長、山口芸術短期大学教授を務めた。1971年日本芸術院賞受賞。1982年日本芸術院会員。1986年勲三等瑞宝章、1990年文化功労者。墓は山口県萩市大井の周鷹寺の墓地にある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
西沢文隆(にしざわ ふみたか、1915年2月7日 - 198… 西沢文隆(にしざわ ふみたか、1915年2月7日 - 1986年4月16日)は、日本の建築家。元坂倉建築研究所所長。関西を中心に活動し、コートハウス論や日本庭園研究でも知られる。日本芸術院賞受賞者。 関西を中心に活動し、「前橋市庁舎」「大阪府青少年海洋センター」「ホテルパシフィック東京」「ルナ・ホール」などを代表作とする。また、1967年に「大阪府野外活動センター」で日本建築学会賞を受賞した。 1985年、建築「神宮前の家」(白倉邸)ほか一連の住宅作品に対して日本芸術院賞を受賞した。 西沢は、日本の風土に即した住宅としてコートハウスに注目し、著書『コート・ハウス論』などを通してその理論化を行った。