島崎 こま子(しまざき こまこ、1893年11月7日 - 1… 島崎 こま子(しまざき こまこ、1893年11月7日 - 1979年6月29日)は、島崎藤村の次兄広助の次女。藤村の小説『新生』の「節子」のモデル。結婚後の氏名は長谷川こま子。 長野県吾妻村の高等小学校4年後上京。三輪田高等女学校の3年に編入、根岸の親類(藤村の長兄の家族)の家から通っていた。卒業後に妻を亡くした藤村の家に住み込んだ。最初は姉ひさと一緒だったが、姉は結婚して家を出た。 19歳の1912年半ば、藤村と関係を結び、藤村との子を妊娠する。 藤村は1913年4月にパリに留学。同年8月に藤村との子を出産するも養子に出された。この養子は10歳時に1923年の関東大震災で行方不明となる。 藤村は1916年に帰国し、関係が再燃。
粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月… 粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月7日 - 1945年〈昭和20年〉8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。ゴーストップ事件時の大阪府警察部長、広島市への原子爆弾投下時の広島市長として知られる。東京府士族。 鉄道官吏・粟屋頴祐(えいすけ)の二男として生まれる。父の転勤先の仙台で生まれたため「仙吉」と命名される。父は山口県出身だが、鉄道に勤務していたために転勤をくりかえし、その任地の一つとして1902年鳥取の米子に来た。 1906年鳥取県立第二中学校(現在の米子東高校)に入学し、野球と柔道に熱中した。 1911年12月林重浩校長が鳥取中学校へ転任することになった際、仙吉は生徒の先頭に立って留任運動のリーダーになった。
古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1… 古田 良一(ふるた りょういち、1893年11月7日 - 1967年7月12日)は、日本の日本史学者。 愛知県愛知郡熱田町(現・名古屋市熱田区)出身。京都帝国大学文科大学史学科で、内田銀蔵に師事した。1918年卒業。卒業論文は「徳川時代に於ける史学の発達」。神戸市史編纂員を経て、東北帝国大学法文学部助教授となり、1929年教授。東北大学教授となり1957年定年退官、名誉教授、宮城学院女子大学教授。1947年「東廻海運及び西廻海運の研究」で文学博士。東北史学会を創立し、「宮城県史」「仙台市史」などを編集した。
永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11… 永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11月7日 - 1967年(昭和42年)2月19日)は、大正から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家。衆議院議員。戦後の炭鉱開発を担った。 佐賀県小城郡多久村(現多久市多久町西ノ原)で永井英迅の長男として生れる。1920年(大正9年)東京帝国大学工学部採鉱学科を卒業した。 1920年、高取鉱業(佐賀県)に入社し、杵島炭鉱長、大鶴炭鉱長、鉱業部長、常務取締役を歴任。その他、湘南製作所取締役、住ノ江造船取締役、西日本坑木取締役、大日鉱業常務取締役、杵島炭礦専務取締役、大日鉱業社長、佐賀相互銀行社長、花菱商事社長、自由文化出版社代表者などを務めた。
犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - … 犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - 1931年9月3日)は、大正から昭和期の日本の弁護士、法学者、教育者、立教大学教授。 富山県東礪波郡出身。早稲田大学卒業。大正から昭和にかけて弁護士を務めた。 1925年(大正14年)には衆議院議員選挙法(普通選挙法)改正によって男子普通選挙が実現されたが、この際、犀川は同改正法のほか、改正貴族院令及び同時に制定された治安維持法の解説書を出版するなど、法律学に関する執筆活動も行った。 大正期には立教大学経済学部教授を兼務し、細野三千雄とともに民法と刑法を講じた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26… 4代 瀬川 弥右衛門(せがわ やえもん、1893年〈明治26年〉11月4日 - 1967年〈昭和42年〉11月21日)は、日本の資産家、実業家、政治家(貴族院多額納税者議員)。「弥右衛門」の名前は代々襲名されており、本記事に記載するのは4代目である。 岩手県稗貫郡花巻町出身。出生名は周蔵。花巻町でも有数の豪農である瀬川家に、3代弥右衛門の子として生まれ、父の死去に伴い1922年(大正11年)1月に家督を相続し弥右衛門を襲名した。 慶應義塾大学経済学部を卒業。父が没した1922年の時点では瀬川家は県下一の多額納税者であった。この時期には農家から貸金業に中心は移っていたとみられている。豊富な資金を岩手軽便鉄道・花巻電気などに投資し、その役員となった。
加藤 千一(かとう せんいち、1893年(明治26年)11月… 加藤 千一(かとう せんいち、1893年(明治26年)11月4日 - 1981年(昭和56年)8月20日)は、日本の政治家。愛知県守山市長。 現在の愛知県瀬戸市生まれ。瀬戸窯業専門学校、名古屋高等工業学校卒。大倉孫兵衛・和親父子が設立した日本陶器合名会社大倉製陶研究所に所属していたが、同研究所が九州に移転する際、加藤は愛知に残った。陶磁器絵付師の杉村作太郎に招かれ、1916年、愛知県瀬戸市に設立された合資会社杉村組で工場長を務める。その後採算が取れなくなり、東京紙器社長の松井氏より紹介された、東京財界有力者の星野錫とともに、1917年、名古屋市北区に移転し設立された中央窯業株式会社で工場長を務める。
長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)1… 長谷川 万吉(はせがわ まんきち、1893年(明治26年)11月3日 - 1970年(昭和45年)7月14日)は、日本の地球物理学者。京都大学名誉教授。 新潟県西蒲原郡漆山村(現・新潟市西蒲区)出身。1916年(大正5年)広島高等師範学校卒業後、熊本県立済々黌中学の理科教師となるが1年で退職し、1917年(大正6年)広島高等師範学校研究科に入るが4カ月で中退。1921年(大正10年)京都帝国大学(現京都大学)理学部卒業。1924年(大正13年)同大学助教授。1928年(昭和3年)にドイツに留学し、ポツダムの地球物理学研究所で研究に当たる。1930年(昭和5年)8月にストックホルムで開催された国際測地学・地球物理学連合総会に参加した後、11月に帰国。
富塚 清(とみつか きよし、1893年11月3日 - 198… 富塚 清(とみつか きよし、1893年11月3日 - 1988年3月9日)は、日本の機械工学者。内燃機関技術の研究改良における先駆的人物として知られる。 千葉県山武郡生まれ。5歳で小学校に入学し、1903年、大網高等小学校、1906年、旧制千葉中学校に入学する。1911年、第一高等学校に無試験入学。1917年、東京帝国大学工学部機械工学科卒業。1918年4月、東京帝国大学航空学調査委員会(のち航空研究所)の嘱託、同年11月、東京帝国大学助教授。1932年、教授。日本におけるガソリンエンジン国産化の初期から研究に携わり、日本の航空エンジン研究の先駆者の役割を果たすと共に、多くの技術者および研究者を育てた。
沖 蔵(藏、おき おさむ、1893年(明治26年)11月2日… 沖 蔵(藏、おき おさむ、1893年(明治26年)11月2日 - 1978年(昭和53年)10月29日)は、大正末から昭和期の弁護士・農民運動家・政治家。衆議院議員。 福岡県山門郡水上村大字小田(東山村、瀬高町を経て現みやま市瀬高町小田)で、沖健雄の二男として生まれる。福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、さらに1922年(大正11年)同大法学部法律学科(独法)を卒業した。 弁護士を開業し、法政大学教授、上智大学講師も務めた。1923年(大正12年)から2年間、自費でドイツを中心としたヨーロッパ各国の政治経済の状況を視察して帰国し、郷里に戻った。
原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 19… 原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 1983年1月17日)は、日本の民俗学者、宗教学者。東海大学名誉教授。熊本県出身。 1893年、熊本県山本郡吉松村(現在の熊本市北区(鹿本郡植木町))に原田官太の二男として生れる。吉松尋常高等小学校、熊本県立鹿本中学校(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業の後、1919年、神宮皇學館本科を卒業。東京帝國大學文学部宗教学宗教史学科選科に入学。姉崎正治の指導のもと、「ヘブライの宗教意識の発達」を研究テーマとする。1922年に選科、1927年に本科を卒業。東大在学中には宗教学研究調査を委嘱され、雑誌『宗教研究』の編集などにも携わっている。 青山学院、東洋大学、大谷大学、龍谷大学、九州帝國大學、日本大学、東京帝國大學、京都帝國大學、東京文理科大学、大正大学などに出講、また帝国学士院からの研究費補助、「本邦農耕儀礼の宗教民族学的研究」のテーマで有栖川宮記念奨学金を受けるなどして、研究生活に従事。
皆見 省吾(みなみ せいご、1893年11月1日 - 197… 皆見 省吾(みなみ せいご、1893年11月1日 - 1975年9月6日)は、日本の皮膚科医。九州大学名誉教授。 岡山医科大学、九州帝国大学皮膚科教授を務め、皮膚科学を研究。若い皮膚科研究者を育てる為に皆見賞を創設。ドイツ留学中に世界大戦後の戦傷後の腎不全を研究。挫滅症候群(クラッシュ・シンドローム)を世界で初めて報告した。 広島市生まれ。1918年、東京帝国大学(現東京大学)医学部卒業。1922年、文部省在外研究員として渡欧(2年間)。1924年、岡山医科大学(岡山大学医学部の前身)皮膚科教授。1929年、第29回日本皮膚科学会を岡山で主催。1931年、九州帝国大学(九州大学の前身)皮膚科教授。
清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日… 清瀬川 敬之助(きよせがわ けいのすけ、1893年11月1日 - 1967年7月1日)は、秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)出身で楯山部屋に所属した大相撲力士。本名は三輪 敬之助(みわ けいのすけ)(旧姓:守屋)。5代伊勢ヶ濱。最高位は東関脇。 1893年11月1日に秋田県平鹿郡大森町(現:秋田県横手市)で生まれる。地元の尋常高等小学校では柔道の猛者として活躍していたが、土地相撲の世話人だった花瀬川の世話によって、熊ヶ谷部屋へ入門、1911年1月場所において新序から初土俵を踏んだ。入門後も柔道道場には通い続け、力士としては史上初となる講道館段位(三段)を取得した。 1917年5月場所で新入幕を果たすと、右四つに組んでから上手投げ・下手投げなどの投げ技や、外掛けなどの足技を始めとした多彩な技を繰り出す取り口で、出足を使う相撲では無かった。
森谷 延雄(もりや のぶお、1893年(明治26年)10月2… 森谷 延雄(もりや のぶお、1893年(明治26年)10月28日 - 1927年(昭和2年)4月5日)は、日本の家具デザイナー、インテリアデザイナー、東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)教授。 旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科を卒業。清水組に入社し、1920~22年に海外派遣。ロンドン王立美術学校と中央美術工芸学校で家具デザインを学ぶ。「誠之堂」(東京都世田谷区から埼玉県深谷市に移築、1916年築、国の重要文化財)や「晩香廬」(東京都北区、1918年築、国の重要文化財)等の室内装飾を手掛けた。
岩田 千虎(いわた かずとら、1893年10月28日 - 1… 岩田 千虎(いわた かずとら、1893年10月28日 - 1966年10月6日)は、日本の彫刻家、獣医師。獣医師となったのちに37歳から彫刻の修得を始め、牛をはじめとする動物の彫刻で知られる。 1893年(明治26年)、熊本県飽託郡芳野村中河内(現・熊本市西区)に六人兄弟の末子として生まれた。千虎(かずとら)は父のつけた本名で、加藤清正から連想したものだろうと本人が語っている。子どもの頃から絵が好きで、河内小学校のときにかいた絵馬が地元の大明神に残るという。小学校卒業後、熊本農学校養蚕別科を経て、大阪府立農学校(現在の大阪府立大学)畜産学科に進み、1912年(大正元年)、獣医師免許を取得した。 1915年(大正4年)に大阪府立農学校を卒業。
吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27… 吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27日 - 1984年(昭和59年)8月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。吉原文平の二男として生まれる。栃木県立真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し鉄道連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を卒業。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し鉄道第1連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)1月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、工兵監部員、陸大教官、陸軍省整備局課員、軍務局課員(兵務課)などを務め、1934年(昭和9年)8月、工兵中佐に昇進。
御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)… 御木本 隆三(みきもと りゅうぞう、1893年(明治26年)10月27日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の著述家、ジョン・ラスキン研究者。 三重県志摩郡鳥羽町(現鳥羽市)に生まれる。御木本幸吉の長男。第一高等学校を経て東京帝国大学文科に学ぶ。1914年に京都帝国大学に進み、河上肇のもと、イギリスの思想家、美術評論家のジョン・ラスキンを学ぶ。同校中退後、父親の会社で働きはじめるも、ラスキンは「海の底で真珠を探してドレスを飾るために100人のダイバーを雇うべきではない」(原文は「袖に縫い付けるビーズを見つけるために100人のダイバーを雇ってはいけない」)と述べているとして家業に批判的であった。
大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月2… 大津 敏男(おおつ としお、1893年(明治26年)10月26日 - 1958年(昭和33年)12月27日)は、第15代にして最後の樺太庁長官。現在の福岡県柳川市生まれ。 福岡県立中学伝習館、第五高等学校 (旧制)を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法学部を卒業した。1916年軍務に服し少尉の位で陸軍主計少尉となった。1919年(大正8年)大阪府林務部に入り部長まで務めた。1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)まで内務省に入省、警視庁刑務部長、1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)まで長崎県内務部長、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)は神奈川県経済部長、1936年(昭和11年)には満州国新京市の民生部総務部長。
佐喜眞 興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10… 佐喜眞 興英(さきま こうえい、1893年(明治26年)10月26日 - 1925年(大正14年)6月13日)は、沖縄県宜野湾市出身で、民俗学者。 1912年、沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業し。その後上京して1915年に第一高等学校独法科を卒業し、東京帝国大学独法科に入学。在学中から柳田國男に目をかけられた。1921年に帝大を卒業すると、裁判官になり福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任。1925年、津山にて、肺結核のため31歳で死去。死後、穂積陳重の教えを受けて行った古代母権制研究が『女人政治考』として出版された。 16歳で新城ウタと結婚し一女(貞子)をもうけるが28歳の時に離婚。
高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 … 高垣 勝次郎(たかがき かつじろう、1893年10月26日 - 1967年4月30日)は、日本の実業家。 旧三菱商事最後の社長で、戦後財閥解体された三菱商事を再興し初代社長も務めた。広島県尾道市出身。東京銀行の最後の頭取及び東京三菱銀行の初代頭取を務めた高垣佑は息子。 第一高等学校から1918年、東京帝国大学法学部を卒業後、新設された三菱商事に入社。ロンドン支店他、上海支店長、新京支店長、ハルビン支店長など、大半を大陸で過ごし三井物産に引けを取らない業績を上げた。1944年取締役、満州で終戦を迎え1946年帰国。同年常務取締役、翌1947年同社代表取締役社長就任。しかしGHQによる解散命令(財閥解体)を受け同社清算人となる。
矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-195… 矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-1958年3月24日)は、心理学者、京都大学名誉教授。
張 沢相(チャン・テクサン、1893年10月22日 - 19… 張 沢相(チャン・テクサン、1893年10月22日 - 1969年8月1日)は、大韓民国の政治家、独立運動家。字は致雨(チウ、치우)。号は滄浪(チャンナン、창랑)。 朝鮮時代の学者の張顕光(朝鮮語版)の直系の子孫である。朝鮮末期の慶尚道観察使の張承遠(朝鮮語版)は父、教育者・歴史学者の張炳恵(朝鮮語版)は娘。元奎章閣直閣の張吉相(朝鮮語版)、元善山郡郡守の張稷相(朝鮮語版)は兄。 慶尚北道漆谷郡北三面呉太洞(現・亀尾市呉太洞)に生まれる。本貫は仁同張氏。15歳で日本へ渡り、1909年に早稲田大学へ入学したが、同年10月に起きた安重根による伊藤博文暗殺事件を受けて、翌1910年に中国・上海へ亡命し、独立運動に身を投じることとなる。
大泉 黒石(おおいずみ こくせき、1893年(明治26年)1… 大泉 黒石(おおいずみ こくせき、1893年(明治26年)10月21日/1894年(明治27年)7月27日 - 1957年(昭和32年)10月26日)は日本の作家、ロシア文学者。自称「国際的の居候」。アナキスト的思想を盛り込んだ小説『老子』『人間廃業』などのベストセラーがある。 長崎県八幡町(現在の長崎市)八幡神社境内にて、ロシア人アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチと日本人本山恵子の間に生まれる。日本名、大泉 清。ロシア名アレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキー。 父はロシアの農家の出でペテルブルク大学出身の法学博士。天津の領事館に勤務していたが、ロシア皇太子時代のニコライ2世の侍従として来日した折、日本側の接待役でロシア文学研究家だった恵子と知り合い、周囲の反対を押し切って結ばれた。
木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 198… 木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 1986年7月27日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。
津雲 国利(津雲 國利、つくも くにとし、1893年〈明治2… 津雲 国利(津雲 國利、つくも くにとし、1893年〈明治26年〉10月18日 - 1972年〈昭和47年〉1月4日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(当選8回)。拓務政務次官、政友会幹事、翼賛政治会常任総務などを歴任。 東京府西多摩郡青梅町上町(現・東京都青梅市)出身。津雲仙太郎の二男。津雲孝の弟。 旧制東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)卒業。安田銀行員養成所修業。安田銀行、古河銀行に勤務した。古河銀行宇都宮支店長をつとめた。 宇都宮市に於いて新聞経営に従事した。下野銀行相談役、下野新聞社顧問、下野日日新聞社顧問などを歴任した。1922年(大正11年)に分家し、一家を創立する。
山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 -… 山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、大正時代から昭和時代後期にかけて活躍した日本画家。本名、三郎(さぶろう)。文化勲章受章者。 同項目の多くは後述する「山口蓬春記念館」公式サイト内の「年譜」による。 北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。日本銀行員だった父の転任に伴って松前や札幌に住んだ後、1913年(大正2年)に東京府(現東京都)高輪中学校を卒業後、1年間の志願兵として帝国陸軍に従軍した後に除隊し、1915年(大正4年)に東京美術学校(現東京芸術大学)に進学。当初は西洋画学科だったが、1918年(大正7年)に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得した。
伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明… 伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明治26年)10月15日 - 1976年(昭和51年)6月7日)は、沖縄県出身の日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 沖縄県中頭郡北谷村(現北谷町)字北谷で、農家・伊礼昆正の三男として生まれる。沖縄県立第一中学校から第七高等学校造士館に進学し、1916年に同校理科を卒業。京都帝国大学法学部法律学科(独法)に進学し、1919年7月に卒業した。 同年に帰郷して沖縄県属となり地方課に配属。要請を受け1920年8月に北谷村長に就任。村政改革を進めたが保守勢力との対立を引き起こした。1923年11月に村長を辞して那覇に法律事務所を開設。1924年5月の第15回衆議院議員総選挙に憲政会の公認を受けて沖縄県から出馬したが落選。
等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10… 等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10月15日 - 1959年(昭和34年)6月7日)は、日本の洋画家。 長野県南安曇郡柏原村(現・安曇野市)に生まれる。高等小学校を卒業後、豊科や堀金の小学校で代用教員となり、本科正教員となった後も、教育に専念する傍ら画業の研鑽を積む。昭和3年(1928年)教師を休職し、シベリア鉄道経由でパリに3年間留学し、アカデミー・ランソン(英語版)に入学、オトン・フリエスに師事し、ダゲール街(英語版)で西洋画を学ぶ。昭和5年(1930年)1月、スイス・イタリアを歴遊して帰国後、二科展で「ヴェニスの船着場」が初入選する。昭和8年(1933年)、東京市郊外の練馬にアトリエを構える。
小菅 宇一郎(こすが ういちろう、1893年10月14日 -… 小菅 宇一郎(こすが ういちろう、1893年10月14日 - 1968年2月14日)は、日本の経営者。滋賀県犬上郡多賀町出身。 1912年に八幡商業学校を卒業。伊藤糸店での勤務を経て、1925年に伊藤忠商事名古屋支店長に就任した。1933年12月に取締役に就任し、1949年12月に社長に昇格した。 1958年に藍綬褒章を受章し、1964年に産業功労賞を受賞し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1968年2月14日脳溢血のために死去。74歳没。
今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月1… 今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月14日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家、教育者。 片倉製糸紡績株式会社取締役、財団法人片倉学園理事長、片倉磐城製糸株式会社代表取締役、昭和興業株式会社取締役、株式会社美篶商会取締役、日東紡績株式会社取締役、長崎製糸株式会社取締役、昭和絹靴下株式会社取締役、片倉米穀肥料株式会社取締役、東邦石油株式会社取締役、富国火災海上保険株式会社監査役、極東化学工業所社長(初代)、片倉合名会社出資社員、埼玉県大宮市長(初代・第4代)、片倉工業株式会社取締役、東亜ゴム工業株式会社社長(第2代)、トーテックス株式会社社長(初代)などを歴任した。
山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉1… 山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉10月12日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は、日本の日本画家。高知県幡多郡出身。本名は伝三郎。 四条派の伝統の上に近代的な様式を加えた花鳥画で知られ京都画壇の重鎮であった。 1893年2月17日、高知県幡多郡に生まれる。 1918年山元春挙(早苗会)に師事、1926年、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)在学中に「麗日」が第7回帝展入選。1933年同校選科修了。同年、「菜園の黎明」が第14回帝展特選。 山元春挙没後の1939年、堂本印象(東丘社)に師事。 戦後は日展に出品を続けたほか、東丘社展・京展・関西展等で活躍。1958年の社団法人日展発足時に日展評議員就任。
長尾 秀太郎(ながお ひでたろう、1893年(明治26年)1… 長尾 秀太郎(ながお ひでたろう、1893年(明治26年)10月11日 - 1948年(昭和23年)6月24日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 香川県鵜足郡宇多津村(現在の綾歌郡宇多津町)出身。香川商業学校を経て、1920年(大正9年)、早稲田大学専門部法律科を卒業した。弁護士を開業し、高松弁護士会副会長、同会長を歴任した。香川県会議員、同参事会員に選出された。 1936年(昭和11年)7月、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月… 黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月10日 - 1965年(昭和40年)10月20日)は、日本の海軍軍人。海兵44期卒業。最終階級は海軍少将。
冨田 ふさ(とみた ふさ、1893年(明治26年)10月10… 冨田 ふさ(とみた ふさ、1893年(明治26年)10月10日 – 1954年(昭和29年)7月19日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は不明。 1893年、福井県吉田郡松岡町(現・永平寺町)に生まれる。東京女医学校(現・東京女子医科大学)を卒業し、産婦人科医となる。京都帝国大学病院に勤務し、医師の冨田精と結婚する。1922年に夫とともに京都市で「冨田医院」を開業する。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で京都府から女子自由党公認で立候補して3位で当選した。選挙後、選挙期間中に戸別訪問したことが選挙違反に問われ、裁判所から罰金500円の有罪判決を受けた。翌年の第23回衆議院議員総選挙で民主党公認で京都1区から立候補したが落選した。
大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉1… 大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉10月6日 - 1987年〈昭和62年〉10月16日)は日本の弁護士。第二東京弁護士会会長、A級戦犯松井石根の補佐弁護人。第二次世界大戦後に法務庁(現:法務省)の初代人権擁護局局長を務めた。日弁連副会長、国際法曹協会会長などを歴任。岡山県笠岡市出身。 1893年(明治26年)岡山県浅口郡大島村(現:笠岡市)に生まれる。1907年、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期には、京大医学部名誉教授となる井上硬や、キリスト教伝導師の松田壽比古がいた。同校を卒業し、1912年(大正元年)第六高等学校文科甲類に進学、その後、1914年(大正3年)に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学へ進学した。
村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 … 村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 - 1953年4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
北島 謙次郎(きたじま けんじろう、1893年(明治26年)… 北島 謙次郎(きたじま けんじろう、1893年(明治26年)10月5日 – 1957年(昭和32年)11月24日)は、南洋庁長官、拓務次官。 佐賀県出身。佐賀県立佐賀中学校、第五高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験に合格して、大蔵省銀行局に勤務し、のち福島税務署長に就任した。1919年(大正8年)、拓殖局書記官に任ぜられ、拓務省が設置されると拓殖省書記官に任ぜられた。文書課長、管理局第一課長などを経て、1932年(昭和7年)より殖産局長を務めた。 1936年(昭和11年)に南洋庁長官に任ぜられ、1940年(昭和15年)4月までその職にあった。同年10月に拓務次官に就任し、退官後は陸軍軍政顧問を務めた。
岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1… 岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1977年1月11日)は、日本の経営者。大和証券社長を務めた。 岡山県出身。第六高等学校 (旧制)卒。1921年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に藤本ビルブローカー銀行に入社。1943年2月に大和証券取締役に就任し、常務、専務を経て、1953年11月には社長に就任。1957年11月から1959年12月までに会長を務めた。 1966年9月に黄綬褒章を受章。1977年1月11日、心不全のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26… 平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26年)10月5日 - 1960年(昭和35年)6月14日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎港町本山町(現秋田市土崎港中央)で、平沢喜一郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)東京帝国大学農科大学実科を卒業した。 木材業を営み、出羽林業を設立して取締役に就任。土崎木材商業組合長、秋田県木材業統制組合理事長、同森林組合連合会副会長、同木材業林産組合長、秋田合同運送社長、三協木材社長、東北興業監事などを務めた。 政界では、土崎港町会議員、秋田市会議員、秋田県会議員、同参事会員、同議長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から秋田県民主党公認で出馬して初当選。
司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 … 司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉5月1日)は、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)出身の実業家。丸善社長・会長。 丸善社長就任時にはワンマン独裁を宣言し、洋書部門の再建や著作権法改正に尽力した。国外に流出していた西洋絵画の松方コレクションの返還交渉にも関与している。 1893年(明治26年)10月5日、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)にある安久美神戸神明社の家に生まれた。1906年(明治39年)9月に高浜尋常高等小学校を退学すると、13歳で書籍商の丸善株式会社に見習生として入社した。 1922年(大正11年)5月10日に結婚している。
加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日… 加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日 - 平成元年(1989年)3月29日)は、日本の化学者。理学博士。日本の女性科学者の草分けの一人。元理化学研究所主任研究員。上野学園大学名誉教授。山形県東田川郡三川町名誉町民。
宮本 正尊(みやもと しょうそん、1893年10月1日 - … 宮本 正尊(みやもと しょうそん、1893年10月1日 - 1983年11月30日)は、仏教学者。号は「香雪」。 1893年(明治26年)、新潟県で生まれた。大谷大学で学び、1918年(大正7年)に卒業。東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科で学び、1921年(大正10年)に卒業。1924年(大正13年)にオックスフォード大学大学院に留学し、1928年(昭和3年)に帰国。1929年(昭和4年)にPh.D.を取得した。 1928年(昭和3年)に帰国し、東京帝国大学助教授に就いた。1942年(昭和17年)に教授昇格。同年、学位論文『中道思想及びその発達』を東京帝大に提出して文学博士号を取得。 戦後の1949年(昭和24年)からは名称変更に伴い東京大学文学部教授。
榑林 皓堂(くればやし こうどう、1893年10月1日 - … 榑林 皓堂(くればやし こうどう、1893年10月1日 - 1988年1月6日)は、日本の曹洞宗の僧侶、仏教学者、駒澤大学総長。 1893年に静岡県榛原郡菅山村(現牧之原市)の華厳院、榑林拡道の長男として生まれる。 1915年、曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業し、永平寺で丘宗潭について修行。1918年から1921年には岸沢惟安について修行。 1927年に駒澤大学助手に就任、講師、助教授を経て教授、仏教学部長に。1958年に『道元禅の研究』で駒澤大学文学博士。1968年から75年に駒澤大学総長。76年に名誉教授。73年に曹洞宗権大教正に補任。
成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975… 成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975年1月7日)は、日本の経営者。新東京国際空港公団総裁を務めた。 東京都出身。1914年に東亜同文書院大学商務学科を卒業。中国貿易で活躍し、1934年に満州国建国に携わり、1936年に東洋パルプ専務、1939年に日本米穀副理事長を経て、その後は全国米穀商組合連合会理事長、朝鮮食糧営団理事長、中央食糧営団総裁、全国米穀小売組合連合会会長などを歴任。戦後は、1955年に農地開発機械公団理事長、1961年10月に愛知用水公団理事長を経て、1966年7月から1967年10月までに新東京国際空港公団総裁を務めた。 1975年1月7日、心臓衰弱のために死去。
笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26… 笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26年)9月26日 - 1990年(平成2年)9月8日[要出典])は、日本の内務官僚、拓務官僚、朝鮮総督府官僚。 新潟県西蒲原郡四ツ合村(現在の新潟市西蒲区)出身。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学工科大学土木科を卒業。さらに東京帝国大学法学部政治科に学んで、1920年(大正9年)に卒業した。内務省土木局勤務、静岡県安倍郡長、静岡県理事官、内閣拓殖局書記官、拓務書記官、拓務省管理局第二課長、同第一課長、同地方課長、拓務局奨励課長、大臣官房文書課長、朝鮮総督府咸鏡南道知事を歴任した。 1940年(昭和15年)に退官した後は、北鮮合同電気株式会社社長を務めた。
斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9… 斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9月26日-1983年(昭和58年)12月11日)は、出版社金の星社の創業者。児童雑誌『金の船』(後『金の星』と改題)主宰者。 1893年(明治26年)父佐次郎(佐次郎と同名)の5男として生まれる。父親は人力車の防水幌や雨合羽の防水加工で財を成した。佐次郎が成人する前に両親と死別するが、父親の遺産により裕福な青年時代を送る。早稲田大学英文科卒業。在学中には坪内逍遥や島村抱月らの指導を受け、文学への道を志す。 1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意。島崎藤村、若山牧水、西條八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西條八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊、自ら執筆にも関わる。
田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9… 田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1969年〈昭和44年〉11月29日)は、日本の歴史研究家。在野の学者という立場を貫き、学会の官僚主義やエリート意識を批判した。遊廓街で育ったことから幼少時から遊女らと交渉を持った。風俗関係に関する研究で知られ、数多くの著書を出した。 1893年(明治26年) 群馬県高崎市嘉多町に生まれる。生家は人力車宿・履物屋を営んでいた。高崎尋常小学校を経て、高崎商業学校に学ぶ。病気のため同校を卒業間際に中退し、その後上京して明治薬学校(現・明治薬科大学)に入るがほどなく中退する。台湾に渡り、漢方薬の研究をするがほどなく帰国。 郷里で農民運動に参加、建設者同盟にも加わる。
東 善作(あずま ぜんさく、1893年〈明治26年〉9月25… 東 善作(あずま ぜんさく、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1967年〈昭和42年〉10月11日)は石川県出身の飛行家。1930年にアメリカ西海岸から欧州を経て日本まで、三大陸横断飛行を敢行した。 石川県羽咋郡南大海村字中沼(かほく市中沼)で東長松・八重夫妻の二男として生まれる。母の実家がある一ノ宮村へ移住。伯父・義学が住職を務める西教寺に預けられ、従兄の義圓と共に育った。1908年(明治41年)春に羽咋高等小学校を卒業。同年8月、満14歳で一ノ宮村役場の給仕として働き始めたが、翌1909年に事業家を夢見て朝鮮半島の馬山浦新同洞へと渡る。そこで学問の必要性を感じた善作は2年ほどで日本に戻り、1912年(大正元年)京都中学校の4年に編入。
三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 197… 三野 昌治(みの しょうじ、1893年9月25日 - 1978年7月20日)は、日本の法学者、弁護士、裁判官、教育者。 1893年(明治26年)、香川県に生まれる。1919年京都帝国大学法学部卒業。東京地方裁判所、東京控訴院の判事や秋田地方裁判所所長などを務めた後、1948年より弁護士として活動。東洋大学で博士号を取得後、同大学で教授となる。1967年に東洋大学学長に就任。学生運動の最中ということもあり、学生の強い反発を受ける中で教養課程の川越キャンパスへの移転、図書館、学生会館建設の問題収拾にあたった。1969年に学長を辞任した。 1978年7月20日、老衰のため東京都大田区の自宅にて死去。84歳。
田村 宣武(たむら のぶたけ、1893年(明治26年)9月2… 田村 宣武(たむら のぶたけ、1893年(明治26年)9月25日 - 1988年(昭和63年)7月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1893年(明治26年)に愛媛県で生まれた。陸軍士官学校第27期を卒業し、1922年(大正11年)3月に陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。1937年(昭和12年)8月に陸軍技術本部仏国駐在官に就任し、1938年(昭和13年)3月に陸軍砲兵大佐に進級した。1939年(昭和14年)7月に大阪陸軍造兵廠研究所長に就任し、1940年(昭和15年)4月に兼技能者養成所長となった。 1941年(昭和16年)6月23日に陸軍技術本部附となり、8月25日に陸軍少将に進級して、1942年(昭和17年)に第8陸軍技術研究所長に就任した。