冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8… 冨田 恒男(とみた つねお、1908年<明治41年>10月8日 - 1991年<平成3年>6月23日)は日本の生理学者。医学博士。慶應義塾大学医学部名誉教授で医学部長を務めた。アメリカ合衆国のイェール大学名誉教授。眼の網膜の情報処理機構の研究で知られ、視覚神経生理学、感覚生理学の世界的権威とされる。1972年(昭和47年)、紫綬褒章受章。1978年(昭和53年)、勲二等瑞宝章受章。位階は従四位。愛知県岡崎市出身。
野村 良雄(のむら よしお、1908年10月8日 - 199… 野村 良雄(のむら よしお、1908年10月8日 - 1994年2月4日)は、日本の音楽学者、キリスト教学者。音楽美学のほか、キリスト教の典礼などを研究、音楽学会会長。カトリック教徒。 東京出身。東京帝国大学文学部美学科を卒業。上智大学教授、慶應義塾大学教授、東京藝術大学教授、1984-93年東邦音楽大学学長。
津峯山 政雄(つみねさん まさお、1908年10月8日 - … 津峯山 政雄(つみねさん まさお、1908年10月8日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は岩戸 政雄。最高位は十両4枚目。 徳島県阿南市出身。出羽海部屋に入門し、1926年5月に序ノ口に就く。1933年5月十両に昇進。この場所3勝8敗と負け越し、幕下に落ちる。1934年5月に十両に復帰。しかし、この場所から3場所続けて負け越し、十両で一度も勝ち越すことなく再び幕下に落ち、1938年5月で廃業した。
井上 晴丸(いのうえ はるまる、1908年10月7日 - 1… 井上 晴丸(いのうえ はるまる、1908年10月7日 - 1973年10月5日)は、日本の農業経済学者。 山口県出身で税関長などを務めた井上徳太郎の二男として兵庫県神戸市中山手通二丁目の税関官舎で生まれる。 五高を経て、1934年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、農林省に入る。立田信夫の筆名で講座派マルクス主義の立場から協同組合論などを展開。1938年に中華民国出張、39年から興亜院技師、43年に帰国、農林省米穀利用研究所技師。戦後の1946年農政局経営課長となり農地改革を進めるが49年レッドパージで農林省を追われ、10年間東畑精一会長の農業発達史調査会メンバーとして「日本農業発達史」の編集、執筆に従事。
気賀 健三(きが けんぞう、1908年〈明治41年〉10月6… 気賀 健三(きが けんぞう、1908年〈明治41年〉10月6日 - 2002年〈平成14年〉2月15日)は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。 同じく経済学者であった気賀勘重の子として東京に生まれる。1930年慶應義塾大学経済学部経済学科卒業、同学部助手。1937年同助教授、1942年教授。1956年、「社会的進歩の原理 : 経済政策原理の社会哲学的研究」で慶應義塾大学より経済学博士を取得。1974年定年退職、名誉教授、成城大学教授。学校法人桑沢学園理事長、教科書正常化国民会議会長[要出典]。 はじめソ連経済を研究し、ソ連、東欧研究会代表理事だったが、スタンスは反共主義で民主社会主義研究会議理事であった。
三代目 市川 段四郎(いちかわ だんしろう、1908年(明治… 三代目 市川 段四郎(いちかわ だんしろう、1908年(明治41年)10月5日 - 1963年(昭和38年)11月18日)は大正から昭和期の歌舞伎役者。本名は喜熨斗 政則(きのし まさのり)。屋号は澤瀉屋。定紋は三升の中に段の字、替紋は八重澤瀉。東京市浅草区生まれ。 猿之助一座で幹部として活躍したが病に倒れ、長男が三代目市川猿之助を襲名するのを見届けると、父の初代市川猿翁の後を追うようにして死去した。 趣味は音楽。住所は東京市京橋区(現・東京都中央区)明石町。 夫人は女優の高杉早苗で、その間に2男1女。長男が二代目市川猿翁、次男が四代目市川段四郎。長女は市川靖子、その元夫は俳優の川合伸旺。
清水 将夫(、1908年〈明治41年〉10月5日 - 197… 清水 将夫(、1908年〈明治41年〉10月5日 - 1975年〈昭和50年〉10月5日)は、日本の俳優。旧字体: 淸水將夫。 明治大学中退後、滝沢修や宇野重吉らと共に劇団民藝を結成し、死去するまで劇団の代表的俳優として活躍した。また、映画俳優として戦前期から松竹キネマ・新興キネマの作品に出演し、戦後も舞台活動の傍らバイプレーヤーとして数多くの作品に出演した。黒澤明監督作品の常連でもあり、出演本数は300本以上にのぼる。 妻は女優の高野由美。 1908年(明治41年)10月5日、東京府東京市牛込区に生まれる。明治中学在学中から、キリスト教青年会の演劇サークルに入り、新劇に興味を抱く。1926年(大正15年)、明治大学文科に入学後、新劇俳優を目指す。
ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10… ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は、徳島県徳島市出身の日本人ジャズ・ブルース・流行歌歌手、ギタリスト、俳優、タレント。訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一(みね こういち)と名乗った。創成期のテイチクレコードの立役者で、日本のジャズ・シンガーの嚆矢として数多くの名演を残すとともに、日本の創成期の流行歌においても多くのヒットを飛ばした。また、トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画にも多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した。結婚は3回、初婚相手は死別、2回目と3回目の女性は姉妹。
栗谷川 平五郎(くりやがわ へいごろう、1908年10月4日… 栗谷川 平五郎(くりやがわ へいごろう、1908年10月4日 - 1993年2月20日)は、北海道名寄市出身のクロスカントリースキー、ノルディック複合選手。 戦前を代表する名選手の一人である。 旧制札幌第一中学校 → 札幌鉄道管理局(現・JR北海道鉄道事業本部) → 明治大学 → 札幌鉄道管理局 札幌一中から札幌鉄道管理局に入り、1928年の第6回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーの個人30kmとリレーで優勝。その後明大に進み、1929年から31年までの全日本学生スキー選手権大会の個人18kmで3連覇した他、1930年の全日本スキー選手権大会のノルディック複合で優勝する。1932年レークプラシッドオリンピックでは、クロスカントリースキー個人長距離(18km)と個人耐久(50km)、ノルディック複合の3種目にエントリーする。
森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 … 森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 - 1977年〈昭和52年〉10月23日)は、群馬県桐生市出身の農学者(農学博士)。森式純粋培養菌種駒製造法の発明者で、現在の原木シイタケ栽培技術を確立した。森産業株式会社創業者。歴史学者の羽仁五郎は叔父。 1908年(明治41年)、群馬県桐生市の素封家・森家の次男として生まれる。桐生中学校、宇都宮高等農林学校を経て1935年(昭和10年)京都帝国大学農学部を卒業。 大学在学中に大分県を訪れた際、シイタケの発茸を祈る農夫の姿を見てシイタケ栽培の研究を決意(後述)、大学卒業の翌年に森食用菌蕈研究所を設立して研究を開始した。1942年(昭和17年)森式純粋培養菌種駒製造法を開発し、翌1943年(昭和18年)に特許を取得した。
中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 19… 中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 1988年3月4日)は、東京府東京市出身の俳人・国文学者。本名は武雄。旧号月士。 芝区(現港区)生。東京帝国大学文学部国文科大学院修了。近世文学、俳諧史を専攻。日本女子大学名誉教授。 旧制芝中学校在学時、同級生の漫画家・小川たけしが刊行した『虎落笛』という雑誌に投句している。後に俳句を小野蕪子に師事し「鶏頭陣」に所属。東大俳句会で高浜虚子の指導を受け「ホトトギス」「馬酔木」に投句。 一時中断を経て1946年「麦」を創刊。同誌に俳諧史研究からの理念をもとに現代俳句に関する評論を連載。句作においては知的な構成と叙情とを特徴とし、時に難解な表現に傾きつつも独自の道を辿った。
岡田 章雄(おかだ あきお、1908年〈明治41年〉10月2… 岡田 章雄(おかだ あきお、1908年〈明治41年〉10月2日 - 1982年〈昭和57年〉3月18日)は、日本の歴史学者。中世後期から近世初頭にかけての日本と西洋の交流史が専門。東京大学史料編纂所教授、青山学院大学教授を歴任。 1908年(明治41年)群馬県前橋市に生まれる。群馬県師範学校附属小学校を経て、群馬県立前橋中学校に入学し埼玉県立浦和中学校へ転校。旧制浦和高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学文学部国史科を卒業。 大学卒業とともに大倉精神文化研究所副本作成部国書校正係嘱託となる。1933年(昭和8年)東京大学史料編纂所嘱託として入所。この頃から歴史地理学会の委員として『歴史地理』の編集に携わる。
金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 19… 金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 1986年10月10日)は、日本の教育者・教育評論家。 愛知県出身。41年の教員生活で世田谷区立祖師谷小学校校長などを務め、定年後には「児童教育研究家」の肩書で活動した。 1908年(明治41年)10月2日に愛知県宝飯郡蒲郡町平田村(現・蒲郡市平田町)に生まれた。父親は平田村の副区長や区長を務めた。1915年(大正4年)に蒲郡町立東部小学校に入学し、1921年(大正10年)に宝飯郡実業学校(その後愛知県立蒲郡農学校に改称、現在の愛知県立蒲郡高等学校)に入学して教員の道を目指した。1927年(昭和2年)に東京の青山師範学校二部(東京学芸大学の前身)に入学し、1928年(昭和3年)に青山師範学校を卒業して小学校教師となった。
増田 四郎(ますだ しろう、1908年(明治41年)10月2… 増田 四郎(ますだ しろう、1908年(明治41年)10月2日 - 1997年(平成9年)6月22日)は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授。第5代一橋大学学長、東京経済大学理事長。日本学士院会員。文化勲章受章者。位階は従三位。日本学術振興会会長、国立大学協会副会長等を歴任。 専門は西洋史、西洋経済史。西洋社会・経済史の変遷を、実証研究と比較社会史・地域史の方法論を用いて研究した。 1908年、奈良県山辺郡波多野村(後の山添村)生まれ。旧制上野中学校(後の三重県立上野高等学校)卒業後、東京商科大学付属商業教員養成所入学。1932年東京商科大学(後の一橋大学)卒業。学部では日本経済史を専攻し、幸田成友の指導を受ける。
横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10… 横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10月2日 - 1990-93年(平成2-5年) )は、日本の薬学者であり教育者でもある。長崎医科大学教授(現・長崎大学医学部)を務めた後、岐阜薬科大学教授、エーザイ研究所長 。長崎医科大学時代に長崎原爆を経験した。岡山県出身。 1908年(明治43年)に岡山県に生まれる。その後、1923年(大正12年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学、卒業を経て、1928年(昭和3年)第一高等学校理科乙類へ入学し、1931年(昭和6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学医学部薬学科へ入学、1934年(昭和9年)3月に同大学を卒業し、助手として京都帝国大学薬学科で薬学研究を続けた。
郡司 信夫(ぐんじ のぶお、1908年10月1日 - 199… 郡司 信夫(ぐんじ のぶお、1908年10月1日 - 1999年2月11日)は、栃木県出身のボクシング評論家。 大田原中学校から大正大学を経て、1930年に誠文堂新光社に入社。スポーツ誌編集に携わる。 1934年に独立してガゼット出版社を設立、「ボクシング・ガゼット」誌を創刊した。時同じくして「拳道会ボクシング練習場」を設立。拳道会は解散するが、戦後に「日本拳闘株式会社」を設立。一方、ガゼット誌の編集はベースボール・マガジン社に吸収されるまで約30年担当。 1952年からは30年に渡りTBSのボクシング解説者を務め、日本テレビの平沢雪村、フジテレビの石川輝らとともにボクシング解説者の草分けと呼ばれた。
山地八郎(やまじ はちろう 1908年10月1日 - 199… 山地八郎(やまじ はちろう 1908年10月1日 - 1999年6月9日)は、日本の元商工・通産官僚。長崎県南高来郡口之津町出身。
古賀 専(こが あつし、1908年10月1日 - 1993年… 古賀 専(こが あつし、1908年10月1日 - 1993年12月20日)は、昭和時代の労働運動家。通称は専(せん)。全国造船重機械労働組合連合会(造船重機労連)初代委員長。 佐賀県神埼郡城田村(現神埼市)生まれ。長崎県佐世保市出身。1923年佐世保尋常高等小学校を卒業。佐世保海軍工廠に電気工の見習として入り、佐世保海軍工廠教習所高等科を卒業。1924年海軍労働組合連盟佐世保労愛会に加盟。1927年佐世保民衆党、ついで社会民衆党で活動。1928年三・一五事件で検挙され解雇。1930年佐世保社会民衆党常任書記となり、西日本坑夫組合の結成に参加、主事。1932年柚木炭鉱争議で検挙。1937年中国へ渡った。
松下 久道(まつした ひさみち、1908年9月30日 - 1… 松下 久道(まつした ひさみち、1908年9月30日 - 1980年9月3日)は、日本の地球科学者。専門は石炭地質学。福岡県福岡市生まれ。 1934年に京都帝国大学理学部地質学鉱物学科を卒業。同学部大学院に進学して、中村新太郎のもとで炭田地質学の研究を始める。同年山根新次の招きで九州帝国大学工学部採鉱学教室副手に採用となり、翌年助手に昇任。1939年、九州帝国大学に理学部が新設されると同時に、同学部地質学教室の助教授になり、渡辺久吉・杉健一・吉村豊文を助けて、松本達郎とともに地質学教室の基礎づくりに尽力。1949年に同教室に国内ではじめて石炭地質学講座が開設され、初代担当教授に就任した。同年、「九州北部に於ける古第三紀層の層序学的研究」により、京都大学より理学博士の学位を取得。
村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 199… 村田 武雄(むらた たけお、1908年9月30日 - 1997年3月16日)は、音楽評論家・国立音楽大学名誉教授。東京都出身。 1950年代から1980年代にかけて、クラシック音楽に関する書籍などを多数執筆し、その普及につとめた。海外の音楽関連の書籍の翻訳なども手がけている。晩年は、当時の音楽評論家の代表格として数えられる存在だった。 堀内敬三の後を受けてNHKラジオ第1放送のクラシック音楽専門の番組「音楽の泉」2代目パーソナリティとして、1959年度から1987年度まで、延べ30年近くの長きにわたって担当したことで知られた。永井荷風と疎開先の岡山で知り合った。また、慶應義塾大学・国立音楽大学などでは、教授として音楽史について教鞭を執っていた。
茂田井 武(もたい たけし、1908年9月29日 - 195… 茂田井 武(もたい たけし、1908年9月29日 - 1956年11月2日)は、昭和時代に活躍した日本の童画家。 その素朴でいながら独特の雰囲気に絵本愛好家の間では知られる作家である[要出典]。素朴で大胆なデフォルメが特徴で谷内六郎、山本夏彦も絶賛している[要出典]。江國香織の『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』の表紙絵にもなっている。 東京日本橋の旅館「越喜」に生まれる。1923年、関東大震災で生家が全焼、翌1924年には母を病で亡くす。1926年旧制赤坂中学校卒業。その後、太平洋画会研究所、川端画学校、本郷絵画研究所に学ぶ。アテネ・フランセで中原中也と出会う。 1930年にハルピンからシベリア鉄道でパリへ渡り、働きながら独学で絵を書き続ける。
四本 潔(よつもと きよし、1908年9月29日 - 198… 四本 潔(よつもと きよし、1908年9月29日 - 1981年4月14日)は、日本の実業家。川崎重工業社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1932年に京都帝国大学工学部を卒業し、川崎汽船に入社した。1966年に川崎航空機社長に就任し、川崎重工業副社長を経て、1969年11月に川崎重工業社長に就任した。1977年6月に会長に就任日本初のヘリコプターの生産を手掛けたり、アメリカのボーイング社との提携によるYX開発に携わるなど日本の航空機技術の発展に大きな功績を残した。 民間輸送機開発協会理事長、日本航空宇宙工業会会長なども歴任した。 1971年11月に藍綬褒章を受章。 1981年4月14日心筋梗塞のために死去。
藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29… 藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29日 - 1933年 (昭和8年)4月24日)は、日本の詩人。ボードレールの影響を受けた耽美的な詩を書き、詩集に『夜の聲』がある。 1908年9月29日に鹿児島県大島郡名瀬村(現・奄美市)で生まれ、鹿児島市、台湾と転居し、14歳まで台湾で過ごす。台北第二高等女学校に入学。再び鹿児島に転居し、鹿児島県立第二高等女学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)に編入。1925年に鹿児島県立第二高等女学校を卒業。鹿児島女子師範学校(現・鹿児島大学教育学部)に進学、1926年に卒業し小学校教師になるが、病弱のため退職。その後鹿児島女子師範学校の専攻科に進学。
島 清(しま きよし、1908年(明治41年)9月29日 -… 島 清(しま きよし、1908年(明治41年)9月29日 - 1997年(平成9年)5月15日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、うるま新報(現琉球新報)社長。 沖縄県糸満町に生まれる。1938年(昭和13年)、法政大学法文学部を卒業する。戦前は、社会運動家として、日本大衆党、全国大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党などで活動する。 1945年(昭和20年)、ウルマ新報(後にうるま新報に社名変更)の初代社長に就任する。 1947年(昭和22年)、第1回参議院議員通常選挙に日本社会党候補として東京都選挙区より出馬し、当選する。また、全国戦災者事業団副理事長に就任する。1954年(昭和29年)、日本社会党(社会党右派)中央執行委員に就任。
藤田 良雄(ふじた よしお、1908年(明治41年)9月28… 藤田 良雄(ふじた よしお、1908年(明治41年)9月28日 - 2013年(平成25年)1月9日)は日本の天文学者(天体物理学)。学位は理学博士(東京帝国大学・1939年)。東京大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。勲等は勲二等。 東京帝国大学理学部助教授、東京大学理学部教授、日本学士院院長などを歴任した。 福井県出身の天文学者である。東京帝国大学を卒業し、東京帝国大学や東京大学にて教鞭を執り、のちに東京大学から名誉教授の称号を授与された。日本学士院会員に選任され、院長に就任した。低温度恒星の研究で知られており、恒星の温度とスペクトルとの関係を研究し、低温恒星の3個の分枝は星の大気中の炭素、窒素、酸素の比重の差異に起因すると提唱した。
平原 浩哉(ひらはら こうさい、1908年(明治41年)9月… 平原 浩哉(ひらはら こうさい、1908年(明治41年)9月27日 - 1992年(平成4年)10月7日[要出典])は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 日本統治時代の台湾、台北庁生まれ。台北第一中を経て、第七高等学校造士館を卒業。1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、鹿児島県属となる。1935年(昭和10年)10月、高等試験行政科試験に合格。1937年(昭和12年)台湾総督府属に転じる。1940年(昭和15年)1月、地方理事官に進み、台南州北門郡守に就任。 ついで殖産局商工課勤務、企画部労務課勤務、高雄州総務部教育課長などを歴任した。
斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - … 斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - 2004年)は大阪府出身の経営者、サッカー選手。 父親は貿易商であり大阪府で生まれた。 帝塚山学院小学校、桃山中学校を経て、関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学。在学中はサッカー部に所属し1年次よりスタメンGKに定着。同級生に後藤靱雄がおり、1929年10月に開催された明治神宮大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に優勝するなどの成績を残した。 1930年3月に卒業。同年5月に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など2試合に出場し、大会優勝に貢献した。
大炊御門 経輝(おおいのみかど つねてる、旧字体: 大炊御門… 大炊御門 経輝(おおいのみかど つねてる、旧字体: 大炊御門 經輝、1908年〈明治41年〉9月24日 - 没年不詳)は、日本の華族(侯爵)。貴族院侯爵議員、理学博士。 侯爵・大炊御門幾麿と保木江んの息子(庶子)として生まれる。父の死去に伴い、1919年11月21日に侯爵を襲爵。1933年、京都帝国大学理学部を卒業し、さらに同大学院を修了。のちに理学博士号を授与された。1938年9月23日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1935年以降、東京科学博物館嘱託、海軍省軍需局嘱託、帝国石油社員などを務めた。 宗教は仏教。住所は東京豊島区池袋。
吉村 貞司(よしむら ていじ、1908年9月24日 - 19… 吉村 貞司(よしむら ていじ、1908年9月24日 - 1986年1月4日)は、日本の文芸評論家・美術評論家。 福岡県生まれ。本名・彌吉三光(やよし かずみつ)。早稲田大学文学部独文科卒。雑誌記者をへて戦後『新婦人』編集長、のち杉野女子大学教授。福士幸次郎の晩年の弟子。文芸評論のほか日本文化や日本美術、中国美術の評論を多く書いた。特に川端康成を高く評価した。
宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - … 宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - 2000年7月8日)は、音楽評論家。東京都出身。京都帝国大学法学部を卒業した。在学中にエマヌエル・メッテルの指導を受ける。オペラ中心に解説、評論を行い、武蔵野音楽大学教授を務めた。1968年にNHK放送文化賞、1972年に紫綬褒章を受賞した。1987年に脳梗塞で倒れ、第一線を退いたが、以後も妻の秋子の口述筆記による「オペラシリーズ」などを出版した。
本多 秋五(ほんだしゅうご、1908年(明治41年)9月22… 本多 秋五(ほんだしゅうご、1908年(明治41年)9月22日 - 2001年(平成13年)1月13日)は、愛知県西加茂郡猿投村(現:豊田市)出身の文芸評論家である。 1912年、4歳で母と死別。1921年、旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)入学。同人誌『朱雀』に参加。1926年、旧制第八高等学校に入学。1929年、東京帝国大学文学部国文科に入学、マルクス主義に近づく。1930年、ロシア革命記念日のデモに参加し検挙される。1932年、東大を卒業。卒論は「森鷗外研究」、大学院に進学する。1933年、治安維持法違反で検挙され翌年釈放、郷里に帰る。のちに長兄について満洲を訪問。1936年に上京し、逓信省電務局無線課に勤務。
岸上 康夫(きしがみ やすお、1908年(明治41年)9月2… 岸上 康夫(きしがみ やすお、1908年(明治41年)9月22日 - 1990年(平成2年)4月6日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。京都府出身。 小、中学を1年ずつ飛び級をして三高に進み、1930年(昭和5年)3月に京都帝国大学法科を卒業。1931年(昭和6年)12月に判事となり、大阪、神戸、東京地裁などに勤務。1952年(昭和27年)7月から6年2ヶ月、最高裁経理局長として老朽化したり戦災になった裁判所庁舎の復興に務めた。 その後、鹿児島地・家裁所長、最高裁事務次長、東京高裁判事、仙台高裁長官、東京高裁長官を歴任した。長官時代は「長官や所長の仕事は人事問題と会計、経理が中心。落ち着いて裁判ができるような環境をつくるという台所仕事」と話す。
八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 199… 八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 1994年6月30日)は、日本とアメリカとで活躍した日本人画家、絵本作家である。本名 : 岩松 淳(いわまつ じゅん)。鹿児島県肝属郡小根占村出身。作家の伊佐千尋、俳優のマコ岩松は息子。
天野 武一(あまの ぶいち、1908年9月21日 - 199… 天野 武一(あまの ぶいち、1908年9月21日 - 1997年12月2日)は、日本の検察官。最高裁判所判事。 1932年(昭和7年)に東京帝国大学法科を卒業。石川島造船所に入社したが、転身。1934年(昭和9年)に司法官試補となり、1935年(昭和10年)に検事となった。 東京地検が振り出し、1943年(昭和18年)に司法省刑事局に勤務。司法大臣秘書官、法務府人事課長、経理部長を歴任。1955年(昭和30年)に東京地検特捜部長に就任し、売春汚職事件を摘発した。その後、甲府地検検事正、法務総合研究所長、神戸地検検事正、大阪地検検事正を務めた。大阪地検検事正時代には大阪タクシー汚職事件を手掛けた。
山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20… 山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。最終階級は中尉。妻は皇族賀陽宮家の従姉妹あや子。 新潟県出身(高田市東城町を経て、現上越市東城町)。名士の家に7人キョウダイの次男として生まれ、父の宏隆は日露戦争に出征した陸軍歩兵大尉で、在郷軍人高田分会長や新潟県会議員を2期、副県会議長も歴任した。姉の多嘉子は従軍記者として日中戦争に赴いた後、北支で宣撫教育に携わった。新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)を経て、陸士海士ともに合格、父が山岸家伝来の刀を手に日露戦争に従軍して敵が恐れをなしたことに憧れ、短剣生活を夢に1928年(昭和3年)3月、海軍兵学校(56期)を卒業。
澤田 三郎(さわだ さぶろう、1908年(明治41年)9月2… 澤田 三郎(さわだ さぶろう、1908年(明治41年)9月20日 - 2002年(平成14年)8月29日)は、日本の政治家。福島県須賀川市長(5期)。 1932年京都帝国大学経済学部卒業。愛知、兵庫、富山の各県に勤務した後、陸軍司政官となる。戦後、福島県岩瀬地方事務所長などを経て、1951年須賀川市長に当選する。 市長就任後はまず、赤字財政からの脱却に取り組み、地方財政再建特別措置法を受け入れ、市役所内部の機構改革に取り組んだ。市職員の研修を実施し、職員の資質と勤務能率の向上を図った。また、市税滞納者の整理に力を入れるとともに、歳出入両面での努力の結果、1期目で負債を完済させ、自主独立の財政計画を達成させるに至った。
安達 良助(あだち りょうすけ、1908年(明治41年)9月… 安達 良助(あだち りょうすけ、1908年(明治41年)9月20日 - 1967年(昭和42年)5月11日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 山形県山形市出身。東京帝国大学を中退した。 1933年(昭和8年)山形県履物組合連合会理事に就任。その他、山形県桐樹奨励会理事、同木履工業組合理事、同桐材統制組合理事、山形県桐材(株)監事、山形県下駄統制組合理事長、同桐紙工業組合理事長、日本木履製造組合連合会常任理事、山形市体育会理事、山形県体育協会理事などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、国民民主党に所属し参議院議員を1期務めた。
平野 婦美子(ひらの ふみこ、1908年9月19日 - 20… 平野 婦美子(ひらの ふみこ、1908年9月19日 - 2001年6月)は、日本の教育者。 千葉県出身。旧姓は佐久間。千葉女子師範卒。千葉県長浦尋常小学校。1930年、結婚し姓を平野に改め、市川尋常高等小学校へ赴任、1937年(昭和12年)病気により一時休職。1938年(昭和13年)6月より東京市第四日野小学校などで教諭を務めた。 市川尋常高等小学校在籍中より寒川道夫、国分一太郎らの綴り方教師と交流し、「東京綴方の会」に参加。さらに教育科学研究会の言語教育研究部会に参加。1940年(昭和15年)に出版した『女教師の記録』は文部省の推薦図書に指定される。千葉県においても東京都においても模範訓導として表彰された。
吉田 忠雄(よしだ ただお、1908年9月19日 - 199… 吉田 忠雄(よしだ ただお、1908年9月19日 - 1993年7月3日)は、日本の実業家で、YKKの創業者。富山県出身。魚津市、黒部市の名誉市民。神奈川県藤沢市に居住していた。YKK二代目社長・YKK AP創業者吉田忠裕は長男。 富山県下新川郡下中島村住吉(現在の魚津市住吉)で生まれる。魚津尋常高等小学校卒業後の1928年に上京。 古谷商店の社員を経て1934年にYKKの前身であるサンエス商会を設立し、ファスナーの生産を始める。以降、YKKを世界的な企業に育て上げた。兄弟の吉田久松もYKKの設立に貢献した。 魚津町議会議員、魚津商工会議所初代会頭(1949年~)、富山地方裁判所魚津支部民事司法委員なども務めた。
島袋 龍夫(しまぶくろ たつお、1908年9月19日 - 1… 島袋 龍夫(しまぶくろ たつお、1908年9月19日 - 1975年5月31日)は、沖縄県の空手家。沖縄空手の流派の一つ、一心流を創始した空手の大家の一人である。娘婿に上江洲安儀。 島袋龍夫は、1908年(明治41年)に具志川村宇喜屋武(現うるま市喜屋武)士族の長男として生まれた。1907年(明治40年)に旧藩時代に「間切」は現在の行政区「村に改められたので、屋取(やーどぅい)(士族の集落)出身の人々はまだ士族意識を持っており、その出自を誇ったものである。龍夫は兄弟10名の子宝家庭の出身で何かと将来を期待されていた。末っ子の弟・島袋永三も空手をやり、後世少林流の使い手として世に知られる存在となる。
鷲尾 洋三(わしお ようぞう、1908年 (明治41年)9月… 鷲尾 洋三(わしお ようぞう、1908年 (明治41年)9月18日 - 1977年(昭和52年)4月26日)は、日本の編集者、実業家。文藝春秋副社長を務めた。東京生まれ。 慶應義塾大学文学部卒業後、1932年(昭和7年)文藝春秋社入社。36年谷崎潤一郎の二番目の妻だった古川丁未子と結婚。戦時中、三たび応召されるが生き延びる。 戦後、菊池寛が文藝春秋を解散すると、車谷弘らと佐佐木茂索を社長に迎えて文藝春秋新社を創立。池島信平を『文藝春秋』編集長とし、のち自身も編集長を担い、谷崎の「幼少時代」を連載した。その後、取締役出版局長、専務、副社長を歴任した。 1969年(昭和44年)丁未子の死後、千代と再婚した。
豊田 三郎(とよだ さぶろう、1908年〈明治41年〉9月1… 豊田 三郎(とよだ さぶろう、1908年〈明治41年〉9月18日 - 2015年〈平成27年〉12月6日)は、日本の昭和 - 平成期の洋画家。 福井県大野郡下味見村(現・福井市)生まれ。福井農林学校(現・福井農林高校)を卒業し家業の農業に従事していたが25歳で上京、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)へ入学。卒業後は中島飛行機製作所に勤務。1950年に教員となり、郷里・福井県内の公立中学校で1968年まで美術を教えた。 1989年に「ふるさとの山河」でサロン・ド・パリ展大賞受賞。豊かな緑の杉の描写を特徴とし、「トヨダグリーン」とも表現される。2001年、当時の福井県足羽郡美山町より、名誉町民の称号が贈られた。
杉江 一三(すぎえ いちぞう、1908年〈明治41年〉9月1… 杉江 一三(すぎえ いちぞう、1908年〈明治41年〉9月18日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵56期、海大甲種37期。第5代海上幕僚長、第2代統合幕僚会議議長。 愛知県出身。旧制愛知県熱田中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)を経て海軍兵学校に入校。太平洋戦争中は海軍大臣秘書官、南西方面艦隊参謀などを経て、終戦時は特殊潜航艇「海龍」36隻、人間魚雷「回天」6隻、「震洋」100隻を擁する横須賀鎮守府第1特攻戦隊第11突撃隊副長。 戦後は公職追放となり、北海道で酪農に従事するが、1953年(昭和28年)10月に海上自衛隊の前身である警備隊に入隊。1963年(昭和38年)7月、第2次防衛力整備計画実施期間中に海上幕僚長となり、第3次防衛力整備計画策定作業に参画した。
岡崎 文彬(おかざき あやあきら、1908年9月18日 - … 岡崎 文彬(おかざき あやあきら、1908年9月18日 - 1995年3月18日)は、日本の造園家、造園学者、林学者。京都大学名誉教授。農学部林学科で造園研究室を主宰。多くの人材を育成した。大阪府三島郡茨木町高瀬(現:茨木市)出身。 1908年(明治41年)生まれ。林学ならびに造園学の研究および学生の教育、執筆に、永年にわたり従事、数多くの業績を上げる。 1931年(昭和6年)、京都帝国大学農学部林学科卒業と同時に同大助手。当初の研究は森林美学であったが、1933年9月、京都帝国大学農学部助手を辞任し、1933年から1936年にかけて、造園学研究のため欧米歴訪。古代エジプトの庭園、古代ギリシャの庭園、古代ローマの庭園、中世スペイン庭園、ルネサンス期イタリア式庭園、アンドレ・ル・ノートルのフランス式庭園、近代ドイツのクラインガルテンなどの西洋庭園史の研究に取り組み、7つの外国語を駆使して、膨大な文献史料の正確な考証と現地での周到な調査を行う。
鈴木 行男(すずき ゆきお、1908年9月18日 - 197… 鈴木 行男(すずき ゆきお、1908年9月18日 - 1971年6月6日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(2期)。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 甥に元衆議院議員の遠藤利明、姪孫に遠藤寛明がいる。 山形県南村山郡西郷村阿弥陀地(現上山市)出身。 山形師範学校(現在の山形大学教育学部)卒業。卒業後は小学校教員として勤務。 蔵王林間学校長、西郷村村長2期などを歴任。 1955年(昭和30年)4月23日に山形県議会議員に初当選。1958年8月23日に上山市長選出馬のため辞職。 1958年9月に上山市長選に出馬し、松本長兵衛と一騎打ちとなるも、落選。(鈴木行男9,774票、松本長兵衛12,441票) 1959年4月23日に山形県議会議員に再選。
原 仙作(はら せんさく、1908年9月14日 - 1974… 原 仙作(はら せんさく、1908年9月14日 - 1974年7月9日 )は英語教師、英文学者。旺文社にて編集顧問を務め、大学受験生向けの英語の参考書の著者として活動した。弟は画家の原覚。 長崎県諫早市出身。海星中学校を経て1931年長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)を卒業し、日本統治下の朝鮮に渡って龍山公立中学校の教諭となる。終戦直後に米軍政長官付き通訳官兼参謀二課翻訳官を務めたあと、1946年5月に日本へ引き揚げ。旺文社の主幹となり、1948年編集顧問となる。そのかたわら1950年から1956年まで開成高等学校講師、その後は千葉大学工業短期大学部、明治大学、青山学院大学、実践女子短期大学で非常勤講師を務める。
多田 英次(ただ えいじ、1908年9月13日 - 1996… 多田 英次(ただ えいじ、1908年9月13日 - 1996年1月19日)は、日本の英文学者、神戸大学・京都橘女子大学名誉教授。 奈良県出身。1933年、京都帝国大学英文科卒。神戸大学教授、1972年、定年退官、名誉教授。橘女子大学教授。 阪神・淡路大震災で自宅が損壊し宝塚市に避難、翌年大動脈瘤破裂で死去。
向後 英一(こうご えいいち、1908年9月13日 - 19… 向後 英一(こうご えいいち、1908年9月13日 - 1973年5月14日)は、日本の新聞記者、翻訳家。 千葉県出身。1933年東京帝国大学法学部卒業。毎日新聞社で論説委員を務めた。 推理小説、ノンフィクションを主として翻訳した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
万年 東一(まんねん とういち、1908年〈明治41年〉9月… 万年 東一(まんねん とういち、1908年〈明治41年〉9月10日 - 1985年〈昭和60年〉3月28日)は、日本の元陸軍軍人(上海特務機関)、右翼活動家、愚連隊の首領、総会屋。右翼団体大日本一誠会初代会長。全日本女子プロレス初代会長。山形県飽海郡松嶺町出身。安部磯雄襲撃事件、渋谷事件などで知られる。 明治41年(1908年)9月10日に山形県飽海郡松嶺町で生まれた。父は小学校の教頭だった。東一は次男だったが、長男は生まれてすぐに死亡した。 大正8年(1919年)、父が東京の親戚の事業を手伝うことになり、一家で上京した。 同年、父が手伝った事業は失敗し、父は裁判所の書記官に任官した。一家は京王線の沿線に住んだ。
梅村 淸明(うめむら せいめい、1908年9月10日 - 1… 梅村 淸明(うめむら せいめい、1908年9月10日 - 1995年7月14日)は、日本の体育学者、教育者。 中京商業学校創立者の梅村淸光の子息として茨城県水戸市において生まれた。旧制愛知第一中学校(現 愛知県立旭丘高等学校)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学)、神戸商業大学(現神戸大学)をそれぞれ卒業する。 神戸商業大学卒業後に父が興した中京商業学校の教諭となる が、1933年に父の逝去により中京商業学校校長(梅村学園2代目校主)となる。1935年には1932年ロサンゼルスオリンピック陸上競技日本代表で、日本陸上競技選手権大会女子100mを3連覇した渡辺すみ子と婚姻する。 1942年に日本軍に召集されて出征。