藤田 淳教(藤田 淳敎、ふじた あつのり、1896年〈明治2… 藤田 淳教(藤田 淳敎、ふじた あつのり、1896年〈明治29年〉4月27日 - 1963年〈昭和38年〉10月23日)は、昭和時代の台湾総督府官僚。公吏。台中市尹、台東庁長。旧姓は平良、幼名は亀吉。 鹿児島県姶良郡国分町(現・霧島市国府)出身。平良淳夫の四男として生まれ、藤田半次郎の養子となる。日本大学商学部予科を経て、1925年(大正14年)同大文学部法律学科を卒業し、高等文官試験行政科試験に合格する。 合格後、直ちに台湾総督府に理事官として出仕し、1928年(昭和3年)10月に高雄州岡山郡郡守、1929年(昭和4年)12月に台北州勧業課長、1930年(昭和5年)5月に新竹州教育課長、1931年(昭和6年)4月に台北州教育課長を経て、1935年(昭和10年)9月20日に台中市尹に就任する。
川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月… 川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月27日 - 1951年〈昭和26年〉4月24日)は日本の女性歌人。本名、小西 慶子(旧姓、久城)。覇王樹同人の小西憲三は夫。 1898年(明治31年)、福岡県八女郡三河村(現在の八女市)に生まれ、大牟田市で育つ。熊本尚絅女学校卒業後、1916年(大正5年)に白日社の『詩歌』に参加。詩歌の廃刊後は1918年(大正7年)『覇王樹』の創刊と共に参加、同人として出詠。1925年(大正14年)に水町京子、北見志保子らと共に『草の実』を創刊、覇王樹を退いた。1935年(昭和10年)、北原白秋が『多磨』を創刊するとともに同誌に参加する。なお、草の実は戦時中に解散の命で解散している。
李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4… 李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4月26日または1906年6月6日 - 1961年6月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の農業経済学者、農学者、教育者、政治家、実業家、ジャーナリスト。制憲・第5代(参議院)韓国国会議員、檀国大学学長、成均館大学校総長を務めた。 本貫は韓山李氏(朝鮮語版)。号は心堂。キリスト教徒。 忠清南道舒川郡麒山面出身。漢学教育を経て、1920年に水原農林専門学校卒、1924年に東京帝国大学(現・東京大学)農学部農科卒。日本留学中にキリスト教に入信した。公州永明学校教員を2年間務めた後、1927年にカンザス州立大学大学院修了、1929年にウィスコンシン州立大学大学院農業経済学専攻修了(博士)。
清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 … 清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 - 1976年2月21日)は、日本のアメリカ演劇研究者。 第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学英文科卒。在学中、十一谷義三郎らの『行路』に参加。米国へ留学し演劇を研究、ユージン・オニールを主として研究し、帰国後演劇活動に携わる。東京都立大学 (1949-2011)を経て1956年中央大学専任講師、1964年教授、1967年定年退職。
高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 -… 高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 - 1969年3月12日)は、第2代東京電力(現:東京電力ホールディングス)社長。関東配電社長。 新潟県加茂市出身。1920年(大正9年)、東京帝国大学電気工学科を出て猪苗代水力電気入社。東京電燈、関東配電と技術畑で育ち、1946年に関東配電社長。1952年に東京電力社長。 1958年、社員が収賄罪で起訴され引責辞任。1969年3月、腸腫瘍のため東京電力病院で死去。72歳。 初代 安蔵弥輔 / 2代 高井亮太郎 / 3代 青木均一 / 4代 木川田一隆 / 5代 水野久男 / 6代 平岩外四 / 7代 那須翔 / 8代 荒木浩 / 9代 南直哉 / 10代 勝俣恒久 / 11代 清水正孝 / 12代 西沢俊夫 / 13代 廣瀬直己 / 14代 小早川智明 初代 新木栄吉 / 2代 新井章治 / 3代 安蔵弥輔 / 4代 菅礼之助 / 5代 青木均一 / 6代 木川田一隆 / 7代 平岩外四 / 8代 那須翔 / 9代 荒木浩 / 10代 田村滋美 / 11代 勝俣恒久 / 12代 下河邉和彦 / 13代 数土文夫 / 14代 川村隆 この項目は、エネルギーに関連した書きかけの項目です。
等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4… 等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1980年〈昭和55年〉12月28日)は、日本の海軍軍人(主計科士官)。海軍経理学校6期。最終階級は海軍主計少将。戦後は公認会計士となり、有限責任監査法人トーマツを創設した。日本公認会計士会長。 群馬県前橋市に生まれるが、幼年期に判事であった父を亡くし、北甘楽郡岩平村(多野郡吉井町を経て現・高崎市)に引っ越す。群馬県立富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)を経て、海軍経理学校を1917年に卒業(6期)、海軍主計少尉候補生を命じられる。遠洋航海を経て、1918年、戦艦「扶桑」乗組。1919年、海軍主計少尉に任官。1920年、海軍主計中尉に進級。
正邦 宏(まさくに ひろし、1896年4月25日 - 192… 正邦 宏(まさくに ひろし、1896年4月25日 - 1928年6月1日)は、日本の俳優である[4][5][6][7]。本名金子 政國(かねこ まさくに)[8]。伊庭孝門下の新劇の舞台俳優から、時代劇も含めた映画俳優に転向、「和製ロイド」(ハロルド・ロイド)として人気を博したが、早世した[8]。
綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月… 綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1950年〈昭和25年〉9月7日)は、日本の政治家、実業家。元衆議院議員の綿貫民輔は長男。 兵庫県三原郡賀集村(現・南あわじ市)の南家に生まれる。父は兵庫県議、自由民権家の南嘉五郎。慶應義塾大学部理財科卒。卒論は交通経済学。卒業後は日本電力に入社し、日本電力社員として小牧ダム建設のため富山県井波町(現・南砺市)に入る。ダム建設反対運動のさなか、運動家たちとの接触を通じてダム反対派の中心メンバーの一人だった綿貫栄と知り合う。綿貫栄らが条件闘争派として反対運動からの分派行動をとる過程で親しくなり、綿貫栄の長女と結婚する。綿貫栄の長男が交通事故で亡くなったため婿として綿貫家に迎えられる。
西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 … 西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 - 1944年(昭和19年)4月16日)は、政治活動家。特に、経済の宇野学派を構成する宇野弘蔵や大学教授の高木益郎から高く評価され、西の活動により共産党員となったものも多い。 岡山県勝田郡梶並村(現:美作市)出身。旧制岡山県立高梁中学(現:高梁高等学校)へ進学、同級生に東京帝国大学教授となる宇野弘蔵や関西大学法学部教授になる高木益郎、第一高等学校の特待生となった松田享爾がいた。特に、後に東京帝国大学の教授になり、経済学の宇野学派をつくった宇野は、自身の著書「忘れえぬ級友」で西について言及している。 西は、後に堺利彦を委員長とする第一次共産党に参加し、その後もボルシェヴィズムに理論と実践の両面で心身共に投じてゆくが、早熟の文学少年だった西の手ほどきで、宇野は文学と社会・政治論に目を惹かれていった。
濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 193… 濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 1935年10月29日)は、日本の検事、弁護士、探偵小説家。子爵。貴族院議員。戦後の版では「浜尾四郎」表記が一般的である。作家活動は実働足かけ6年に過ぎず、作品量は長短20篇に及ぶだけだが、戦前派作家として逸することのできない足跡を残している。
横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)… 横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)4月22日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は、大正・昭和期の漫才師・俳優である。本名:石田 正見(いしだ まさみ)。花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、「万才」に代わり、「しゃべくり漫才」を発明。今につながる漫才ブームを作った。現在の(全国的に流布した)漫才スタイルの元祖である。漫才作家秋田實の良き相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。吉本新喜劇初期の出演者でもある。
山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4… 山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4月22日 - 1995年(平成7年)5月20日)は、日本の会社役員、弁護士、裁判官。昭和セメント、肥後製糸各監査役。神戸弁護士会長[3]。最高裁判事[3]。衆議院議員山田喜之助の三男。
武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月… 武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月20日 - 1956年(昭和31年)8月30日)は、秋田県出身の日本の考古学者、民俗学者、スポーツ指導者。 秋田県河辺郡豊岩村(現・秋田市豊岩)に武藤喜市郎、シケの四男として生まれた。本名のテツジョウにはテツシロという四番目の意味が込められている。 秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に入学し、中学5年生の時に新潟県高田市(現・上越市)で開催された第1回全国スキー大会において急斜面競技と長距離競技で4位と6位に入賞している。中学校を卒業した後、慶應義塾大学部に進み、理財科(経済学部)に籍を置いたが、在籍5年で退学し、1920年(大正9年)に帰郷して兄の一郎の四ツ小屋付近の発掘の助手をした。
小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年)… 小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年) 4月20日 - 1953年 (昭和28年) 3月6日)は大正 - 昭和期の日本の作曲家。秋田県由利郡玉米村(現在の由利本荘市)生まれ。兄は作曲家の小松耕輔、弟は音楽評論家の小松清。筆名は平平平平 (ひらだいらひらへい) 。 8人兄弟の6男として生まれる。東京京華中学から慶應義塾大学商学部に進み、在学中にワグネル・ソサエティーを指揮するが、2年で中退し作曲に専念する。作曲はシュレーカーの門弟である亡命ポーランド人のステファン・ルビエンスキーに師事した。 1927年から1941年まで国民交響楽団を主宰、指揮したが、この楽団の目的は作曲家に発表の機会を、聴衆に鑑賞の機会を共に廉価で提供することにあった。
松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月2… 松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1986年〈昭和61年〉6月15日)は、日本の蒔絵師。人間国宝。文化勲章受章者。位階は従三位。 1896年、石川県金沢市生まれ。7歳で蒔絵の修業を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科で学ぶ。1943年(昭和17年)、母校である東京美術学校教授に就任。以後36年間にわたって教鞭を取った。 1947年(昭和22年)日本芸術院会員となり、1955年(昭和30年)には人間国宝に認定される。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている。1965年著書『うるしの話』で毎日出版文化賞受賞。
堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 … 堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1981年〈昭和56年〉9月18日)は、日本の経済学者。専門は、経済思想史、社会思想史。日本学士院会員。関西学院大学学長、四国学院大学学長を歴任した。 1896年4月20日、函館市生まれ。1920年、京都帝国大学卒業。河上肇に師事。1925年東北大学教授、1932年大阪商科大学 (現在の大阪市立大学) 教授を経て、1948年関西学院大学教授に就任。1955年に、関西学院大学学長(第5代学長)に就任し、同学長を1966年に退任。同年、四国学院大学学長に就任。理論経済学会、経済学史学会、大洋州経済学会など多くの学会の創設以来の会員、幹事、顧問をつとめる。
片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月… 片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月19日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家。衆議院議員(2期)。地方議員(三重県会議員・四日市市会議員)。三重郡富洲原町の教育者。 1896年(明治29年)4月19日、三重県三重郡富洲原町(現・四日市市)に生まれる。富田一色地区の三重県下の富豪で名門の商家であった片岡家(有力者の片岡徳松の一粒種の子供)の一人っ子であった。金持ちの1人息子でボンボンと呼ばれて、片岡氏は北勢四十八家の1つで堺村城主だった片岡家の一族である。型破りの人物で、親譲りの監元買別所(四日市市に立地)と、米穀取引所仲買店(名古屋市に立地)と、回漕店(三重郡富洲原町に立地)を切廻して一分の隙もなかった。
山下 太郎(やました たろう、1896年4月19日 - 19… 山下 太郎(やました たろう、1896年4月19日 - 1970年2月26日)は、日本の実業家。元山下汽船社長、会長。父は山下汽船創業者山下亀三郎。
由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年… 由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年1月27日)は、日本の牧師、讃美歌作家。日本の讃美歌の発展の中心的な役割を果たし、賛美歌「きよしこの夜」の訳者として知られる。パスカルの研究家で「パンセ」を翻訳した。教育者・郷土史研究者足立正の次男。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市)に足立正の次男として生まれ、生後間もなく由木虎松の養子になる。 養父虎松の宣教活動のために、鹿児島、神戸、対馬などに転居する。養父の影響を受けてクリスチャンになり、神戸二中時代に洗礼を受ける。洗礼を受けてすぐの中学3年の時、すでに最初の賛美歌を作った。1914年、死の危険に直面して献身を決意する。関西学院高等学部文科(関西学院大学文学部の前身)で聖書学と神学を専攻する。
松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14… 松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14日 - 1962年(昭和37年)5月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。山形県鶴岡市出身。開拓使の松本十郎の孫にあたる。
手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年… 手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年)4月12日 - 昭和18年(1943年)5月3日)は、日本の経済学者。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授や東亜同文書院大学教授を務め、日本への近代経済学の導入を行った。 栃木県出身。宇都宮市立宇都宮商業学校(現栃木県立宇都宮商業高等学校)を経て、無試験入学で小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に進学し、1916年に同卒業。1919年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部経済科卒業。福田徳三ゼミ出身。 経済学及び統計学研究のため、1920年から1926年までイギリス、アメリカ、フランスに留学。1921年小樽高等商業学校教授、叙従七位。オーストリア学派などの日本への導入を行った。
鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月… 鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月8日 - 1975年〈昭和50年〉5月4日)は、日本の政治家。小田原市長(5期)。歌舞伎研究家 。位階は正五位。 現在の神奈川県小田原市出身。 1909年(明治42年)、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)に入学。同級に終生の友となる牧野信一(のち小説家)がいた。早稲田大学英文科中退。早大時代、同人誌「金と銀」「象徴」などを主宰した。読売新聞、朝日新聞、歌舞伎座支配人、松竹系の役員を務めた。 1949年(昭和24年)に小田原市長に初当選し5期務めた。この間、全国市長会副会長、関東市長会会長、国保中央会理事などを務めた。1969年に市長を引退。
萩原 寿雄(壽雄、はぎわら / はぎはら としお、1896年… 萩原 寿雄(壽雄、はぎわら / はぎはら としお、1896年(明治29年)4月8日 - 1981年(昭和56年)9月5日)は、日本の農業関係者、実業家、政治家。衆議院議員。 神奈川県出身。1919年(大正8年)東京帝国大学農科大学実科(現・東京農工大学農学部)を卒業した。 産業組合中央会主事補、全国購買農業協同組合連合会(現・全国農業協同組合連合会)主事、同肥料部長、同常任理事、農林省一般農林水産物価格形成専門委員会専門委員、神奈川県農業会長、同県蚕糸業会長、同県販売農業協同組合連合会長などを務めた。全国購買農業協同組合連合会の創立に加わった。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に神奈川県第3区から国民協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 195… 樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 1958年8月9日)は、放射線科医師。九州大学医学部講師。東京慈恵会医科大学教授。 日本で放射線が医療に利用されたはじめから、主としてエックス線の利用による診断、治療に関する研究に従事、その成果を数多くの論文に発表し、特に放射線障害の研究、放射線保護物質の研究を行い、1956年(昭和31年)文部省科学研究費による総合研究、特に「放射能の人体最大許容量の決定」については、研究班長としての取りまとめにあたるなど、多方面に大きな足跡を残した。 新潟県南魚沼郡湯沢町出身。新潟県立長岡中学校、第六高等学校卒業。1922年(大正11年)九州帝国大学医学部卒業。
小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日… 小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉3月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。3度に及ぶドイツ駐在歴があり、戦後には日独友好にも尽力した。 1896年(明治29年)、兵庫県神戸市生まれ。旧制第一神戸中学校を経て、海軍兵学校卒業。 海軍兵学校(第44期)では、入校時成績順位 100名中第5位、卒業時成績順位 95名中第7位と、成績優秀だった。日本海軍には珍しく、自他共に認める親ドイツ派の海軍軍人として鳴らし、そのため部内では、「ドイツ小島」と呼ばれることもあった。 ドイツ駐在は3回に及んだが、同じくドイツとの関係が深く、1938年(昭和13年)からは駐ドイツ大使も務めた陸軍軍人で親ナチスの大島浩とは犬猿の仲だった。
中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5… 中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5日 - 1965年(昭和41年)3月8日)は、愛媛県出身の日本の洋画家。雅号として「和光」の名を持つ 。 幼年期よりキリスト教の洗礼を受け、1955年(昭和30年)以降は聖イエス教団所属、晩年は熱烈なキリスト教徒として生活した。 1896年(明治29年)4月5日、「北野 和高」として愛媛県大洲に生まれる。1908年(明治41年)、家族と共に宮城県へ転居。 1914年(大正3年)に宮城県立仙台第一中学校を卒業。同年上京、葵橋洋画研究所に入所し黒田清輝に師事。1916年(大正5年)、東京美術学校西洋画科へ入学、1921年(大正10年)同校卒業、研究科へ進む。
山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日… 山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月20日)は、日本の実業家であり、愛知県を主な販売エリアとする自動車ディーラー・愛知トヨタ自動車の創業者である。愛知県自動車配給社長、愛知トヨタ自動車社長・会長(初代)などを歴任した。 1896年(明治29年)、愛知県碧海郡新川町(現・碧南市)に生まれた。 1913年(大正2年)、慶應義塾商工学校に入学した。在学中は慶應普通部の野球部に所属し、腰本寿監督の下、投手・キャプテンとして1916年(大正5年)の第2回全国中等学校優勝野球大会に出場、投打に活躍し優勝に貢献した。この時のチームメイトには、エドウィン・ダンの三男である日米混血のジョン・ダン、ハワイ出身の日独混血の河野元彦などがいた。
柴田 健太郎(しばた けんたろう、1896年(明治29年)4… 柴田 健太郎(しばた けんたろう、1896年(明治29年)4月 - 没年不詳)は、日本、満洲国の裁判官。 福岡県出身。1914年(大正3年)福岡県立中学修猷館、1917年(大正6年)第一高等学校独法科を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 宮崎地方裁判所、熊本地方裁判所、甲府地方裁判所、千葉地方裁判所、東京地方裁判所、東京控訴院の各判事を経て、1938年(昭和13年)満洲国最高法院審判官となり、1939年(昭和14年)新京高等法院次長に就任。 1943年(康徳10年)6月、新京法政大学学長に就任。
山口 将吉郎(やまぐち しょうきちろう、1896年(明治29… 山口 将吉郎(やまぐち しょうきちろう、1896年(明治29年)3月30日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、山形県鶴岡市出身の日本画家。挿絵画家。 高校時代は、美術講師の小貫博堂に指導を受け、大学時代は、結城素明に師事した。 大学卒業後は、絵画展覧会に作品を出品したり、同人誌などで挿絵を発表する。 その後は、主に小説本などの挿絵を描き、その中でも『神州天馬侠』 吉川英治(著)の挿絵は有名。 従甥に奇人の南画家として知られる服部二柳がいる。
内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1… 内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1990年5月8日)は、日本の東洋史学者。島根県出身。岡山大学名誉教授。次男は島根大学名誉教授の内藤正中。 1896年(明治29年)、島根県浜田市生まれ。1918年(大正7年)、京都帝国大学文学部史学科(支那史専攻)に入学して東洋史学者の内藤湖南(名字は同じ内藤姓だが血縁関係はない)に師事。卒業後、1929年(昭和4年)から岡山大学の前身である旧制第六高等学校教授を務める。戦後、1949年(昭和24年)、新制岡山大学教授に就任。1961年(昭和36年)、岡山大学を定年退官して名誉教授となる。定年退官後、1973年(昭和48年)までノートルダム清心女子大学教授。
泉山 三六(いずみやま さんろく、1896年(明治29年)3… 泉山 三六(いずみやま さんろく、1896年(明治29年)3月30日 – 1981年(昭和56年)7月7日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、大蔵大臣(第54代)を歴任。ペンネームは泉山間窓。 山形県東田川郡大和村(現庄内町)小出新田出身。豪農・太田直右衛門の三男として生まれる。後に長じてから青森県八戸の資産家泉山家・5代目泉山吉兵衛の養子となる。子供の頃は手に負えない乱暴者だったという。第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。三井銀行に入行する。ここで三井財閥の大物池田成彬の目に留まり、企画部長、帝国銀行秘書役、同行調査役と栄進した。
波多野 鼎(はたの かなえ、1896年(明治29年)3月30… 波多野 鼎(はたの かなえ、1896年(明治29年)3月30日 - 1976年(昭和51年)9月29日)は、日本の経済学者、政治家。参議院議員(1期)。 愛知県生まれ。1917年旧制八高卒業ののち東京帝国大学に入学、新人会で活動した。1920年法学部英法科卒業ののち南満洲鉄道東亜経済調査局に就職し、前期新人会員により結成された社会思想社に参加した。1922年に同志社大学教授となり、その後九州帝国大学教授を務める。経済学博士。 第二次世界大戦後に日本社会党に入党。1947年、第1回参議院議員通常選挙で福岡県選挙区から参議院議員に当選し、同年成立した片山内閣では平野力三が罷免された後に農林大臣に就任。
栗西 清(くりにし きよし、1896年3月30日 - 197… 栗西 清(くりにし きよし、1896年3月30日 - 1970年11月11日)は、日本の経営者。 東京都出身。1917年に東京高等工業学校応用化学科を卒業し、同年に大日本人造肥料(のちの日産化学工業)に入社。1947年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1957年から1962年までに社長を務めた。 1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1970年11月11日脳軟化症のために死去。74歳没。
伊藤 修(いとう おさむ、1896年3月30日 - 1969… 伊藤 修(いとう おさむ、1896年3月30日 - 1969年6月14日)は、日本の弁護士、政治家。参議院司法委員長および法務委員長(初代)。 名古屋市生まれ。1921年、日本大学法科卒。1922年、弁護士となる。中部日本農民組合および日本農民組合岐阜県連の常任顧問、岐阜市会議員、東亜興業、旭炭鉱、関東重工業、三富士製作所、朝日精機、旭電気工業および日本社会公論の社長、日本社会新聞岐阜県総局長、社会文化大学名誉学長、富田高等女学校理事、岐阜弁護士会会長、岐阜地方裁判所調停委員。1952年、右派社会党岐阜県連委員長。青年民主主義擁護連盟本部会長。浄土真宗。東京都新宿区下落合に龍山荘を構えていた。 1966年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3… 武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3月29日 - 1969年 <昭和44年> 5月23日)は、日本の経営者。位階は従四位。 愛媛県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井倉庫に入社。1943年11月に取締役に就任し、常務を経て、1947年に社長に就任し、1968年5月までに務めた。1959年に藍綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年5月23日がん性腹膜炎のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 19… 菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 1972年4月24日)は、日本の英文学者、翻訳家。 高松市出身。第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部英文科卒業。國學院大學教授を務め、戦後になって古代文学、歴史研究に重きを置く方向付けに尽力する。また代々木ゼミナールの校長を務めた。子息菊池映二はフランス文学者で明治大学教授を務めた(1929-2002)。 日本の文芸、特に室町時代の謡曲文学、仕舞に造詣が深く、笛もよくした。スコット『アイヴァンホー』訳は、文庫上巻刊行後の1965年に入院し、退院後も執筆を続けたが、下巻の原稿を残して没し、菊池が國學院に迎えた高見穎治が校訂し刊行された。
岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年〈明治29年〉3… 岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年〈明治29年〉3月27日 - 1984年〈昭和59年〉4月8日)は、日本の工学者。専門は電子工学。 マグネトロンを実用的なマイクロ波源とする分割陽極マグネトロンを発明し、日本の十大発明家に選ばれた。東北大学で助教授、名古屋高等工業学校、大阪帝国大学、近畿大学で教授を歴任。学士院恩賜賞、文化勲章の受章者。八木秀次に師事。 1896年(明治29年)、名古屋市に生まれる。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て、1916年(大正5年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)紡織科卒業。1917年1月に高田商会大阪支店に入社、同8月に東北帝国大学理科大学助手を経た後、1918年(大正7年)9月、東北帝国大学理科大学物理科入学。
野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1… 野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1986年11月4日)は、日本の教育者。岐阜県洞戸村(現在の関市洞戸地区)の農家に長男として生まれる。家は浄土真宗で特に親鸞に信仰しており、精神形成に大きな影響を残した。真宗の活動家梅原真隆(しんりゅう)に傾倒し、その言葉「純に生きる」を生涯を通じてのモットーとした。 農家を継ぐことになっていたが、高等小学校を終えた後、校長から代用教員にと嘱望され、准教員を経て岐阜師範学校卒業。地元の小学校、岐阜女子師範学校付属小学校を経て、1924年上京、野口援太郎が自由主義教育の模範校として創立した池袋児童の村小学校の訓導となる。農村の教育に従事してきたため、東京の知識人階層の新思想には馴染めないものを感じ、親鸞の同行二人の思想を借りて、生活を基礎にし共生協力、あるいは協同自治の精神で、みんなが共に学んでいくことのできる場を作っていくことを教師の役割と捉えた。
岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 -… 岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 - 1977年10月26日)は、東京都 出身の野球選手・指導者(名古屋金鯱軍監督。明治大学硬式野球部監督)。
秦 慧玉(はた えぎょく、1896年3月25日 - 1985… 秦 慧玉(はた えぎょく、1896年3月25日 - 1985年1月2日)は、日本の仏教学者。駒澤大学教授。永平寺76世貫首、曹洞宗管長。号は「明峰」。 兵庫県生まれ。5歳で秦慧昭について得度。曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。岐阜県の正眼寺で修行。1923年に東京帝国大学に入学。同年5月、宇井伯寿の勧めで、東北帝国大学に転学。武内義雄に師事し支那学を研究した。1926年東北帝国大学を卒業。同年9月、旧制浦和高等学校(現埼玉大学)の教授となる。のち駒澤大学教授。 1976年に曹洞宗管長、永平寺76世貫首。1980年全日本仏教会会長就任。仏教を通して国際親善に尽力。1983年清水寺の大西良慶貫主の本葬では大導師を務めた。
名川 保男(ながわ やすお、1896年(明治29年)3月25… 名川 保男(ながわ やすお、1896年(明治29年)3月25日 - 1975年(昭和50年)5月25日)は、日本の弁護士、東京弁護士会会長、国家公安委員会委員長代理、明治大学専務理事、東京音楽大学理事長。 衆議院議員、鉄道政務次官、第一東京弁護士会会長を務めた名川侃市の弟。 広島県生まれ。1919年(大正8年)明治大学法学部卒業。1922年(大正11年)千葉地方裁判所判事に任官。1927年(昭和2年)に弁護士となる。事務所は京橋区銀座。 帝人事件、炭鉱国管疑獄、昭和電工事件、日殖事件、造船疑獄といった汚職事件の弁護人を務めた。 1955年(昭和30年)東京弁護士会会長に就任。日本弁護士連合会副会長を務めた。
中部 謙吉(なかべ けんきち、1896年(明治29年)3月2… 中部 謙吉(なかべ けんきち、1896年(明治29年)3月25日 - 1977年(昭和52年)1月14日)は大正~昭和期(1920年代後半~1970年代前半)の実業家。大洋漁業(現・マルハニチロ)元社長。プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。父は林兼商店(大洋漁業の前身)創業者の中部幾次郎。 1880年に父・幾次郎が起こした林兼商店に入社した謙吉は1924年に28歳で常務に就任、終戦前の1945年には大洋漁業の副社長まで出世した。戦後の公職追放で謙吉は大洋漁業の経営から退き、兄の兼市が2代目の社長となった。1952年に公職追放令が解かれると、謙吉は大洋漁業の副社長に復帰し、1953年に兄の兼市が急死すると、大洋漁業の社長に就任した。
曽我 梶松(そが かじまつ、1896年(明治29年)3月24… 曽我 梶松(そが かじまつ、1896年(明治29年)3月24日 - 1968年(昭和43年)7月20日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 愛媛県出身。曽我保太郎の四男として生まれる。愛媛師範学校、東京高等師範学校を経て、1923年、京都帝国大学経済学部独逸経済科を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入り、愛知県属となり内務部地方課兼産業部農務課に配属された。 以後、愛知県宝飯郡長、同知多郡長、愛知県事務官、京都府事務官、香川県書記官・経済部長、内務省社会局経理課長、同局組合課長、厚生省保険院社会保険局庶務課長、同体力局企画課長、軍事保護院援護局長などを歴任。 1942年10月、三重県知事に就任。
伊藤 正文(いとう まさぶみ、1896年3月23日 - 19… 伊藤 正文(いとう まさぶみ、1896年3月23日 - 1980年12月3日)は、日本の建築家。旧制・大阪商科大学や大阪市立美術館などの作品で知られる。学位は、工学博士(早稲田大学・1939年)。 大阪市建築課長として、学校施設・美術館などを多く手掛けた建築家。辰野片岡建築事務所を経て大阪市技師着任。退職後、大阪市立大学家政学部教授を務める。作品には、旧制・大阪商科大学昭和初期学者群、大阪市立美術館(実施設計監理)などがある。 千葉県出身。早稻田大學高等豫科理工科を経て、1917年に早稻田大學大學部理工科建築学科を得業(現在の早稲田大学創造理工学部建築学科を卒業)、学業優秀賞を受賞。大阪市技手を経て、1919年に片岡建築事務所入所。
毛山 森太郎(けやま もりたろう、1896年〈明治29年〉3… 毛山 森太郎(けやま もりたろう、1896年〈明治29年〉3月23日 - 1986年〈昭和61年〉6月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県北宇和郡立間村柏木(吉田町を経て現宇和島市)出身。愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)中退。農業を営み、立間村助役、同村長、愛媛県議、四国電気(株)重役、同参事会員、北宇和郡畜産組合長、南予乾繭販売利用組合会長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。1986年死去。
落合 豊一(おちあい とよかず、1896年3月22日 - 1… 落合 豊一(おちあい とよかず、1896年3月22日 - 1958年10月2日)は、日本の経営者。第3代日商社長。 徳島県生まれ。1917年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業、鈴木商店入社。鈴木商店シアトル支店に勤務し、1918年には日本人初のシカゴ商品取引所メンバーとなった。1928年日商入社、1954年日商社長。1958年逝去、正六位勲四等瑞宝章。
森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1… 森本 覚丹(もりもと かくたん、1896年3月22日 - 1996年1月1日)は、日本の音楽評論家、文筆家、翻訳家。山口県、現在の宇部市出身。早稲田大学露文科中退。シベリウスの曲に感銘を受け、叙事詩『カレワラ』を約8年間かけて翻訳した。1937年、フィンランド政府より白バラ一等勲章を贈られる。1945年春、郷里に帰り、山口大学・山口芸術短期大学で美学・音楽史を教える。1970年、勲四等瑞宝章叙勲。妻は森本ヤス子。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
亀井 凱夫(かめい よしお、1896年(明治29年)3月21… 亀井 凱夫(かめい よしお、1896年(明治29年)3月21日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、日本の海軍軍人。マリアナ航空隊司令としてグアム島で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍少将。 1896年3月21日、東京都で父・亀井茲迪のもとに生まれる。茲迪の父は元谷田部藩第9代藩主細川興貫で、亀井氏分家の養子となっていた。兄に亀井貫一郎(外交官、衆議院議員)がいる。毛里英於菟(革新官僚)は妹の夫で義弟。父が事業に失敗し借金を背負って廃嫡し、11歳の凱夫が亀井氏分家を相続した。1908年3月、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1913年3月、東京高師附属中(現・筑波大附属中・高)を卒業。
野村 兼太郎(のむら かねたろう、1896年〈明治19年〉3… 野村 兼太郎(のむら かねたろう、1896年〈明治19年〉3月20日 - 1960年〈昭和35年〉6月22日)は、日本の経済学者。経済学博士。専門は経済思想史(江戸時代・経世論)。 日本学士院会員。国文学研究資料館設立発起人。他、東洋貨幣協会名誉会員、社会経済史学会を創立し代表理事等を歴任。 東京府東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区日本橋浜町)生まれ。東京府立第三中学校を卒業後、1918年に慶應義塾大学部理財科を卒業。予科教授を経て、1923年よりケンブリッジ大学キングス・カレッジ在籍。 1937年、慶應義塾大学で「英国資本主義の成立過程」により経済学博士の学位を授与される。 1950年に日本学士院会員となり、他に慶應義塾図書館長、東京大学経済学部講師、日本学術会議会員、文部省科学研究費総合研究「近世庶民資料調査研究」委員長、文部省史料館評議会長、経済学部適格審査委員会委員長などを歴任した。
山本 勝市(やまもと かついち、1896年〈明治29年〉3月… 山本 勝市(やまもと かついち、1896年〈明治29年〉3月20日 - 1986年〈昭和61年〉8月1日)は、日本の経済学者、政治家。和歌山高等商業学校教授、衆議院議員(5期)、大東文化大学教授。和歌山県出身。 京都帝国大学経済学部卒業、経済学博士 (東京商科大学)。戦前は経済学者として和歌山高商教授や文部省国民精神文化研究所所員を務め、戦後は日本自由党の結党に参加した。『福祉国家亡国論』の著述やマルクス主義への批判、経済計算論争の紹介など、自由主義経済の推進者として知られる。 1896年(明治29年)3月20日、和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市)生まれ。1913年(大正2年)3月、私立京都中学校(後の新制京都高等学校、廃校)卒業。