石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日… 石橋 毅(いしばし たけし、1909年〈明治42年〉9月2日 - 1943年〈昭和18年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家、千葉県多額納税者。計器製作業、合資会社石橋計器製作所代表社員。 千葉県香取郡本大須賀村久井崎(のち昭栄村、大栄町、現成田市)出身。石橋敬五郎の長男。石橋計器を創立、自動車関係メーターの製作に従事する。 本大須賀教育会長、村会議員、郡農副会長、県山林会評議員、郡産業組合共同処理所管理組合長、郡家禽購買販売利用組合長、東京市葛飾産業報国連合会理事、千葉木材工業社長、石橋計器製作所長、北総自動車合同、成鉄タクシー、常総合同運輸各取締役をつとめる。 その他、1935年〈昭和10年〉3月、千葉県立中央図書館落成記念として、父敬五郎蒐集の漢籍類1,041冊を寄贈したことでも知られる。
岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月… 岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月1日 - 1982年(昭和57年)6月23日)は、日本の実業家、政治家。山形屋会長、貴族院多額納税者議員。 鹿児島県鹿児島市で、実業家・岩元善蔵(岩元信兵衛弟)の三男として生まれ、伯父・信兵衛の養嗣子となり、山形屋の6代目を継承した。第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1934年(昭和9年)慶應義塾大学法学部を卒業した。その後、東京銀座の松屋に入社し、デパート経営を経験した。 1935年(昭和10年)山形屋の取締役に就任し、1943年(昭和18年)会長となる。その他、田辺鉄工所監査役、新生工業副社長、日本瓦斯取締役、小牧組取締役などを務めた。
中村 佳永子(なかむら かえこ、1909年(明治42年)9月… 中村 佳永子(なかむら かえこ、1909年(明治42年)9月1日 - 1987年(昭和62年))は、日本のピアニスト。元徳島文理大学音楽学部教授。 神戸絢、井口秋子に師事し、1931年(昭和6年)に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)甲種師範科を卒業。卒業の際、二条厚基賞を受賞。 音楽学校卒業後は徳島女子短期大学部音楽科(現:徳島文理大学短期大学部音楽科)の講師となり、後に徳島女子大学音楽学部(現:徳島文理大学音楽学部)の教授に就任する。 第二次世界大戦後の徳島県内のピアノ教育に尽力し、東京芸術大学・桐朋学園大学・神戸女学院大学・大阪音楽大学などの大学にピアニストを輩出した。また門下生に相愛大学名誉教授の片岡みどりなどがいる。
エドガートン・ハーバート・ノーマン (英語: Edgerto… エドガートン・ハーバート・ノーマン (英語: Edgerton Herbert Norman 、1909年9月1日 - 1957年4月4日)は、カナダの外交官。日本史の歴史学者。日本生まれ。終戦直後に、日本通であるため、GHQにも影響を与えた。1956年に在エジプト・カナダ大使として、カイロに赴任し、スエズ動乱における国際連合緊急軍の派遣を成功に導くことに尽力し、和平に貢献した。ソ連のスパイの疑いをかけられ自殺した。 1909年、在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として現在の長野県軽井沢町で生まれた。父ダニエル(1864年 - 1941年)は1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽くしたが、ハーバート自身はシェリー酒を嗜みながら雑誌を読むタイプだった。
水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 19… 水島 早苗(みずしま さなえ、1909年8月31日 - 1978年2月25日)は、日本のジャズボーカリスト。鹿児島県出身。本名は永田喜子。立教高等女学校卒業。トニー相良名義でも活動していた。 日本のジャズ草創期を代表する女性ボーカリスト。また自らも歌手として活動する一方で、1957年には「水島早苗ボーカル研究所」を設立して後進の育成にも取り組み、弟子にはマーサ三宅、金子晴美、佐良直美、前野曜子、伊集加代らがいる。 死後の1985年には、ジャズ専門紙『ジャズワールド』が水島の功績を称える意味で「水島早苗ジャズヴォーカル賞」(現在の日本ジャズヴォーカル賞)を創立するなど、その功績は高く評価されている。
見砂 直照(みさご ただあき、1909年8月30日 - 19… 見砂 直照(みさご ただあき、1909年8月30日 - 1990年6月20日)は、日本のジャズミュージシャン、バンドマスター。石川県金沢市出身。自身のバンド「見砂直照と東京キューバン・ボーイズ」を率いた。 父は追分節の名手である見砂東楽、息子は2005年に再結成した東京キューバン・ボーイズのリーダー・見砂和照(みさご かずあき)。また、娘が岩佐徹(フジテレビ・WOWOWの元アナウンサー)と結婚したことから、岩佐にとっては義父に当たる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
細谷 俊夫(ほそや としお、1909年〈明治42年〉8月29… 細谷 俊夫(ほそや としお、1909年〈明治42年〉8月29日 - 2005年〈平成17年〉5月16日)は、日本の教育学者。 東京府北多摩郡清瀬村生まれ。旧制東京府立第六中学校、旧制浦和高等学校を経て、1932年に東京帝国大学文学部教育学科を卒業。尋常小学校の訓導を経て、1946年岡崎高等師範学校教授、名古屋大学教育学部の創設に参加、1949年名大教授。1952年東大教育学部教授、1970年定年退官、名誉教授、立教大学教授。白梅学園短期大学学長。産業技術教育を研究、日本産業教育学会理事長。1937年には教育科学研究会技術教育研究部会に参加した。 妻は入沢宗寿(教育学者)の長女。長女はコロンビア大学C・V・スター東アジア図書館司書で、牧野成一(言語学者、プリンストン大学名誉教授)の妻。
太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 19… 太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 1996年11月15日)は、昭和・平成期の歌人、漢文学者、法政大学名誉教授。専門は中国詩学。文学博士。歌誌『潮音』主宰。妻(後妻)は歌人の太田絢子。青丘の娘は京都大学国語国文科卒の木村雅子(生母は満喜子)で『潮音』現主宰。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)生まれ。本名・兵三郎(ひょうざぶろう)。太田水穂の兄・嘉曾次の三男で、父の没後に水穂・四賀光子夫妻の養子となる。当初は漢詩の創作から始まり、1928年(昭和3年)水穂の歌誌『潮音』に入会。旧制武蔵高等学校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部中国文学科卒。東大大学院をへて文部省国民精神文化研究所所員。
藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979… 藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979年10月23日)は、東京市出身の俳優、元ラグビー選手。日本代表・キャップは1。
大西 芳雄(おおにし よしお、1909年(明治42年)8月2… 大西 芳雄(おおにし よしお、1909年(明治42年)8月28日 - 1975年(昭和50年)3月4日)は、日本の憲法学者。京都帝国大学法学部教授・立命館大学教授を経て、立命館大学名誉教授。妻は藤井行徳の娘。 京大憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事。1940年から1947年まで京都大学の憲法学講座を担当した(40年から43年までは黒田覚と分担。帝国憲法第一章、同第二章を黒田覚が担当。大西芳雄の担当は第三章以下。)。戦後、同僚の教授が大西の著作を地方軍政部に投書したことが端緒となり、戦中の著作である『国家と法律学』の記述内容を問題視され、国家主義者として佐伯千仭と共に教職追放処分を受ける。
田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 200… 田辺 正男(たなべ まさお、1909年8月28日 - 2002年4月17日)は、日本の国文学者・国語学者・教育者。学位は、文学博士(國學院大学・1961年)。國學院大学名誉教授、元国学院女子短期大学初代学長。三重県亀山市生まれ。東京都育ち。田邊正男とも表記される。 国語学者として中学校・高等学校の多くの国語教科書・古文教科書・指導要領の策定に関わった この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
大久保 忠利(おおくぼ ただとし、1909年8月28日 - … 大久保 忠利(おおくぼ ただとし、1909年8月28日 - 1990年6月1日)は、日本の言語学者・国語学者・文筆家。 神奈川県小田原市生まれ。1929年東京外国語学校卒。新聞記者、ユーモア作家、中学教師などを経て、東京都立大学教授。言語学、国語学、国語教育などについて多くの著述活動をした。
新田 圭二(にった けいじ、1909年〈明治42年〉8月27… 新田 圭二(にった けいじ、1909年〈明治42年〉8月27日 - 1996年〈平成8年〉12月14日)は、日本の政治家、経営者。山口県宇部市長(第17代)。宇部興産(現:UBE)取締役山陽無煙鉱業所長、日本石灰工業所社長。 1934年(昭和9年)、慶應義塾大学法学部を卒業。宇部興産(後のUBE)グループにおいて、同社取締役山陽無煙鉱業所長、宇部化学工業(後の宇部マテリアルズ)専務取締役を歴任した。1947年(昭和22年)4月22日、宇部市基本財産として多額の私財を寄付し紺綬褒章を受章。 また社業と並んで宇部市議会議員を務め、1952年(昭和27年)には教育委員会制度の発足に伴い市議会代表として教育委員に選出。
山口 正(やまぐち ただし、1909年(明治42年)8月26… 山口 正(やまぐち ただし、1909年(明治42年)8月26日 - 2000年(平成12年)5月26日)は、日本の国文学者。茨城大学名誉教授。上代文学、特に『万葉集』が専門だが、作文教育にも関わった。 鹿児島県加治木(現・姶良市加治木町)生まれ。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を経て、1930年3月第七高等学校造士館 (旧制)文科卒業。1933年東京帝国大学文学部国文科卒業。海城中学校(現・海城高等学校)教諭、1936年長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)教諭、釜山高等女学校教諭、水戸高等学校教授、茨城大学文理学部助教授、教養部教授、1975年定年退官、名誉教授。2000年5月26日、虚血性心不全のため死去。
宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1… 宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1978年9月26日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授。専攻は社会教育学。彼の教育学の核心は自己教育ととしての社会教育、共同学習と相互教育の連動であり、それを簡明に論説したのが戦前の「形成と教育」(1940)、戦後の「教育の本質」(1949)や「社会教育の本質」(1949)である(山田正行『平和教育の思想と実践』同時代社、2007年、参照)。 東京生まれ。旧制水戸高校を経て東京帝国大学文学部教育学科卒業後、新興教育研究所、教育科学研究会で活動ののち、1940年法政大学講師。戦後は文部省社会教育局勤務などを経て、1953年東京大学教育学部教授。
加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1… 加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1988年6月2日)は、茨城県出身の俳人、建築家。本名は昭夫。日本画家の加倉井和夫は弟。 茨城県出身。東京美術学校(現・東京芸術大学)建築科卒業。建築会社勤務を経て、1970年より武蔵大学教授(美術工芸史)。 俳句は1936年より、「あきを」の号で「馬酔木」に投句。1938年より「秋を」に改めて「若葉」に投句、富安風生に師事する。1941年より「若葉」編集長。1946年、安住敦らと俳句作家懇話会を結成。のちに同人誌「諷詠派」創刊に参加。1948年、「若葉」第一期同人。1955年、愛媛療養所の機関誌であった「冬草」の雑詠選者。1959年より「冬草」を東京に移管し主宰となる。
竹内 不忘(たけうち ふぼう、1909年8月26日 - 20… 竹内 不忘(たけうち ふぼう、1909年8月26日 - 2011年6月29日)は、日本の彫刻家。本名は竹内 延吉(たけうち のぶよし)。 長野県小県郡和村(現東御市)出身。川端画学校に学ぶ。1931年、日本美術協会に出品し銅賞。1935年に第1回東邦彫朔院賞、1937年に文展に『山』を出品、1938年に第3回東邦彫朔院恩賜賞受賞。その後も出展を続け、1965年に日展審査員、1966年に日展会員。 1979年に紺綬褒章受章。1990年、池袋西口公園に『平和の像』を建立している。故郷である東御市には東御市立和小学校の『太陽の子』、東御市役所前市民交流広場の『雷電像』などがある。 2011年6月29日、心不全のため東京都豊島区の自宅で[要出典]死去。
森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 19… 森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 1979年10月29日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。愛媛県松山市出身。 1934年に早稲田大学法学部を卒業し、宇治川電気(のちの関西電力)に入社した。 取締役、専務、副社長を経て、1975年7月からは社長を務め、電源開発問題などに取り組むが、体調不良により1977年6月に辞任。労務畑が長く、荒れた労使関係の調整に尽力した。 日本万博博覧会協会理事、宇治電ビル会長、山陽電気鉄道取締役などを歴任した。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1979年10月29日脳血栓により京都市内の自宅で死去。70歳没。
富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 19… 富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 1999年3月12日)は、日本の社会学者・社会運動家。 横浜市生まれ。1934年関東学院神学部卒業。社会的キリスト教運動に参加して検挙。戦後米国に学んだのち関東学院大学教授、1968年関東学院長。横浜コミュニティ研究会会長。1972年横浜文化賞受賞、1982年勲三等瑞宝章受勲。 1970年 日本大学 文学博士 論文の題は「人口社会学の基本問題」。
片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1… 片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1970年1月29日)は、日本の歌人、日本文学研究者、文筆家。 長野県野沢温泉村豊郷生まれ。新潟県社会教育課勤務の片桐佐太郎の三男。 旧制新潟高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部国文科卒。日本放送協会に勤務、編成局社会部長、ラジオ局文芸部長、芸能局次長、1960年総合放送文化研究所所長。1952年に『NHK短歌』を創刊。 1965年退職、1966年跡見学園女子大学教授。 学生時代に歌誌『真人』に参加。落合直文、斎藤茂吉を研究。日本エッセイストクラブ賞選考委員を務めた。
森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)… 森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)8月23日 - 1994年(平成6年)2月11日)は、日本の映画監督である。 1909年(明治42年)8月23日、佐賀県小城郡内の村(現在は多久市域)に生まれる。 1934年(昭和9年)に開所した日活多摩川撮影所に入社し、1936年(昭和11年)には首藤寿久監督の『日蝕は血に染む』に「監督」として名を連ねる。同作は満27歳を目前にした同年7月8日に公開された。1942年(昭和17年)1月、日活の製作部門が他社と合併して大映(大日本映画製作)を形成すると、翌1943年(昭和18年)には、朝鮮映画製作という会社で『昭和19年』という国策映画を監督する。
木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 19… 木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 1985年6月16日)は、日本の実業家、株式会社木村屋總本店元代表取締役社長(5代目)、全日本パン協同組合連合会初代会長、日本パン工業会元会長。 1909年、東京生まれ。1933年、立教大学商学部(現・経済学部)卒業。大学在学中は体育会ラグビー部に所属。 大学卒業後、家業である木村屋總本店へ入社。1947年、木村屋總本店取締役社長(5代目)に就任。 1956年、全日本パン協同組合連合会設立にあたり初代会長に就任。 母校、立教大学のラグビー部監督も務めた 木村屋總本店の本社、工場、店舗に、額に入れて掲げられている『五つの幸福』 『四大目標』は、栄一が繰り返し口にしていた言葉であり、木村屋の根幹をなす企業理念となっている。
遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 197… 遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 1979年9月11日)は、熊本県下益城郡(現・宇城市)出身の日本の数学者。数学教育の分野でよく知られる。
小野川 秀美(おのがわ ひでみ、1909年8月21日 - 1… 小野川 秀美(おのがわ ひでみ、1909年8月21日 - 1980年7月20日)は、日本の東洋史学者。学位は、文学博士(論文博士・1961年)(学位論文「清末政治思想研究」)。京都大学名誉教授。 高知県安芸郡生まれ。高知県立高知城北中学校、高知高等学校文科乙類を経て、1933年京都帝国大学文学部史学科(東洋史学専攻)卒業。 東方文化研究所嘱託員を経て、1940年(昭和15年)、東方文化研究所(現:京都大学人文科学研究所)助手就任。1951年(昭和26年)に京都大学人文科学研究所助教授。1961年(昭和36年)学位論文「清末政治思想研究」で文学博士の学位を取得。1965年(昭和40年)に同教授に就任する。
岩崎 敏夫(いわさき としお、1909年8月21日 - 20… 岩崎 敏夫(いわさき としお、1909年8月21日 - 2004年10月28日)は、日本の民俗学者、歌人。 福島県相馬生まれ。國學院大學高等師範部卒。1962年「本邦小祠の研究」で國學院大學文学博士。相馬女子高等学校教頭。東北学院大学教授。1963年「本邦小祠の研究」で柳田賞受賞。歌人。
斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 20… 斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 2000年9月30日)は、日本の平和運動家。 宮崎県延岡で、7人兄弟中の3姉妹の長女として生まれた。父は教員で、各地の学校で校長を務めた。 1930年に、東京女子高等師範学校附属高等女学校専攻科を卒業した。在学中は幼児教育を専門とした倉橋惣三に師事し、またテニスに打ち込んだ。その後、結婚して東京・中野に定住したが、戦時中の1944年には山形県に疎開していた。 1950年代に、PTA活動に参加するようになったことをきっかけに、社会問題への関心を深め、1954年の第五福竜丸の被爆事件を機に、安井郁らが組織した主婦学習グループ「杉の子会」に加わり、原水爆禁止運動、平和運動に関わり始め、1955年に『朝日新聞』への投書をきっかけに投稿者らの女性グループ「草の実会」に参加して、1967年には「草の実会」を母体に平和研究グループを組織し、原水爆禁止運動などに取り組んだ。
安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20… 安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20日 - 1977年(昭和52年)9月27日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県南都留郡谷村町下谷(現都留市)で生まれる。1927年(昭和2年)都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した。 谷村町町営電気部(のち東京電燈に合併)に入所。戦後、労働運動に加わり、関東配電労働組合大月分会委員長、南都留労協委員長、東京電力労働組合山梨県支部常任執行委員などを務めた。また社会運動研究会「黎人荘」を設立して主幹に就任。 政界では、社会大衆党に入党。1947年(昭和22年)山梨県議会議員に選出され2期在任し、同副議長を務めた。
西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - … 西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月30日)は和歌山県の政治家・郷土史家。和歌山県東牟婁郡四村の村長、本宮町町議会議員をつとめた。政治家の職を退いた後、熊野九十九王子の調査に従事した。 西は1909年(明治42年)8月20日、和歌山県東牟婁郡四村(和歌山県田辺市本宮町)に生まれた。新宮中学校を中退した後、家業の林業に一時従事したが、陸軍に入隊し、郷里を出た。第二次大戦中は満州で軍役に就いたが、敗戦とともにソ連に抑留され、1949年(昭和24年)に帰国した。帰国後、1949年から四村の村長に就任し、水害にあった村の復旧など、政治家としての手腕を振るったが、1951年(昭和31年)に四村ほかいくつかの町村が合併して本宮町が成立する際の町長選で落選した。
三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 200… 三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 2001年3月7日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章(1986年4月)。 衆議院議員(8期)、文部大臣、防衛庁長官、総理府総務長官を歴任した。福原学園元理事。長男は元北九州市議会議員の三原征彦、次男は元衆議院議員の三原朝彦。陸軍軍人の山縣初男は岳父にあたる。 福岡県にて三原幸太郎の次男として生まれる。生家は貧しい農家だった。1927年に旧制東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)卒業後、上京して明治大学専門部法科に入学する。明大在学中に愛国学生連盟を組織して学生運動を展開する傍ら、当時の著名人を訪問し教えを請うた。この頃から「貧乏からの解放」を終生の政治理念とし、この理念を共有する学生運動関係者、二・二六事件の青年将校、右翼関係者と最後まで付き合いがあった(三原は「右翼・保守思想とは、一言でいえば“優しさと度量”」と考えていた)。
市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1… 市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1995年2月23日)は日本の芸術家。 岐阜県土岐郡土岐村市原(現瑞浪市)の雛人形づくりの家に生まれる。 小学校5年生の時に、江戸川乱歩の小説のとある美しい彫刻のシーンが強烈に印象に残り、自分もいつしかあのような作品が作ってみたいと思う。 18歳から本格的に彫刻を習い始め、翌年、東京の雨宮治郎(日本芸術院会員)の門下生となる。 「ハンティングの自刻像」で構造社展初入選。 1933年(昭和8年)「キネ子の顔」で構造社展最高構造賞、1962年(昭和37年)「破る」で日展菊華賞。 1968(昭和43年)名古屋芸術大学教授となる。 その後、数々の賞を受賞。
成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18… 成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18日 - 1988年(昭和63年)4月1日)は、日本の野球評論家。成田は旧姓。本姓は西田。息子は中日ドラゴンズに所属した西田暢。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)で生まれる。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に法政大学法文学部法律学科を卒業する。大学在学中は、野球部選手として活躍し、2回の優勝に貢献する。 1934年東京鉄道局に入局。1940年応召。復員後の1949年に退職し、東鉄野球部監督、東京六大学野球審判員。1951年、明治座入社とともに野球部監督、全日本軟式野球連盟常任理事。1979年日本社会人野球関東連盟副会長。
小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1… 小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1969年2月10日)は、京阪神急行電鉄元社長、宝塚歌劇団元理事長。プロ野球球団阪急ブレーブスのオーナーでもあった。 阪急電鉄や宝塚歌劇団の創業者である小林一三の三男として生まれた。 京都帝国大学経済学部卒業後、1932年に阪神急行電鉄に入社。 1946年に取締役、1951年に専務取締役、1959年に代表取締役社長に就任。 専務時代の1956年に発生した庄内事件では、事件現場となった宝塚線庄内駅に自ら出向き、事態を収拾するため騒ぎを起こした群衆を説得した。 1968年5月から1969年1月まで宝塚歌劇団理事長を務め、2014年には『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰される。
平山 輝男(ひらやま てるお、1909年8月16日 - 20… 平山 輝男(ひらやま てるお、1909年8月16日 - 2005年8月17日)は、日本の国語学者。東京都立大学名誉教授。日本音声学会第5代会長。 宮崎県北諸県郡中郷村(現:都城市)生まれ。1922年3月に中郷村尋常高等小学校を卒業。1928年3月に麻布中学校を卒業。1935年3月に國學院大學文学部国文学科卒業。1937年3月に國學院大學大学院修了。金田一京助、折口信夫に師事。 1937年4月に法政大学講師。1940年6月に東京府立高等学校教授。1949年4月に東京都立大学人文学部助教授。1957年に文学博士となった(学位論文「日本語音調の研究」)。 1962年2月に東京都立大学人文学部教授。1969年4月に東京都立大学附属図書館長。
諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 19… 諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 1983年8月21日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1933年に東京商科大学本科を卒業し、同年に住友海上火災保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1965年6月に常務、1968年6月に専務を経て、1969年6月には社長に就任。1974年9月に会長を経て、1978年7月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年8月21日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月1… 相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月15日 - 1953年〈昭和28年〉4月29日)は、日本の科学史家、社会運動家。本名は矢浪久雄。 第二次世界大戦前の時期に唯物論研究会に参加し、技術史、科学哲学を中心にした理論学習運動の中核を担い、戦後は、シベリア抑留を経て、アジア地域における抑留者引揚運動に尽力した。第四高等学校中退。 新潟県高田市(現・新潟県上越市)南土橋出身。新潟師範附属小学校、佐渡河原田小学校、佐渡中学校、富山中学校を経て、第四高等学校文科乙類に首席で入学後、社会研究会、全国学聯支部に加盟。1928年6月の学生ストライキの責任者となる。 1929年、卒業試験後、雑誌「広場」の編集責任者であることを理由として卒業を取り消され、退学を命ぜられる。
内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 19… 内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 1989年7月27日)は、日本の劇作家、翻訳家。本名:菅原実(すがわら みのる)。実業家・劇作家の菅原卓は兄である。妻の富子は安川敬一郎の孫。 東京生まれ。1932年、慶應義塾大学経済学部卒。岸田國士に師事、同人誌『劇作』を編集担当。1935年に処女作「秋水嶺」を発表、築地座で上演された。戦後の作品として「雑木林」(1948)、「遠い凱歌」(1956)などがある。 NHKの連続ラジオ劇「えり子とともに」(1948 - 1951)の脚本ならびに劇中歌「雪の降るまちを」の作詞で広く知られている。また、日本の民間放送で初のテレビドラマとなった「私は約束を守った」(日本テレビ)(1953)や、「追跡」(NHK)(1955)をはじめ、初期のテレビドラマでも多く作品を発表した。
巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15… 巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15日 - 2020年〈令和2年〉4月14日)は、日本の医師、長寿の男性。渡邉智哲が2020年2月23日に死去して以来、男性長寿日本一となっていた。 愛知県岡崎市に生まれる。1939年、名古屋医科大学から医学博士を授与。1953年現在市立岡崎病院副院長であった。その後1968年、第4代市立岡崎病院長に就任。1979年9月に退職、のち名誉院長となっている。 岡崎市の老人ホームで生活し、車が好きで99歳の時まで運転していた。日ごろは車椅子で移動し、施設職員や入所者らとの会話を楽しみ、新聞を読んだりテレビを見たりして過ごしていた。 2020年2月23日、渡邉智哲が死去したことにより国内男性最高齢となったことが、厚生労働省により発表された。
福原 亮厳(ふくはら りょうごん、1909年〈明治42年〉8… 福原 亮厳(ふくはら りょうごん、1909年〈明治42年〉8月15日 - 2000年〈平成12年〉3月31日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。龍谷大学名誉教授。 広島県生まれ。龍谷大学仏教学科卒。1961年「阿毘達磨佛教教理研究」で龍谷大学文学博士。龍谷大学助教授、教授、1977年退職、名誉教授。浄土真宗本願寺派勧学。2000年3月31日、敗血症のため死去する。享年90歳。
森 三樹三郎(もり みきさぶろう、1909年8月14日 - … 森 三樹三郎(もり みきさぶろう、1909年8月14日 - 1986年8月29日)は、日本の中国思想研究者。文学博士(大阪大学・論文博士・1962年)。大阪大学名誉教授、佛教大学文学部教授。専門は仏教と老荘思想との関連を軸とした中国哲学史。 京都府舞鶴市生まれ。旧制・大阪府立高津中学校卒、1935年京都帝国大学文学部哲学科支那哲学史専攻を卒業。京都帝国大学副手、東方文化研究所(現京都大学人文科学研究所)を経て、1942年大阪高等学校教授に任命。1950年大阪大学文学部助教授、1962年「上古より漢代に至る性命観の展開」で大阪大学より文学博士の学位を取得。1966年教授、1973年定年退官、名誉教授。
山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2… 山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2008年12月31日)は、日本の実業家。元関西テレビ放送代表取締役社長、元阪急電鉄副社長、元新阪急ホテル監査役、元京都大学蹴球部OBクラブ会長。 1909年、兵庫県神戸市に生まれる。1927年、甲陽中学校(現在の甲陽学院、6回卒)を卒業。その後、旧制山口高等学校を経て京都大学法学部を卒業。同大学では蹴球部に所属し、後にOBクラブ会長を務めた。 関西テレビ放送代表取締役社長、阪急電鉄副社長、新阪急ホテル監査役、阪急ブレーブスオーナー代行などを歴任した。
祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13… 祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13日 - 1973年(昭和48年)8月23日)は、日本の国文学者、浄瑠璃・歌舞伎研究者。 1909年(明治42年)、大阪府大阪市東区北久宝寺町で生まれた。1928年(昭和3年)に大阪府立今宮中学校を卒業し、第三高等学校文科乙類へ入学。1932年、同校を卒業後、京都帝国大学文学部文学科国語学国文科専攻に進んだ。1936年に卒業し、同大学大学院に進学。 京都大学に在籍のまま、1938年に天理図書館嘱託となる。これに合わせて、この頃天理市に居を移した。翌1939年2月に天理図書館司書を退職。1941年3月に京都帝国大学大学院を修了し、1942年4月から天理中学校嘱託に就職した。
松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - … 松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - 1990年2月23日)は、高松松平家13代当主。華族制度廃止までは伯爵。第2代本郷学園理事長、第4代本郷中学校・高等学校長。ボーイスカウト日本連盟理事、同国際コミッショナー、日本ユネスコ協会連盟理事長などを歴任した。ブロンズ・ウルフ章受章者。戦前は陸軍技術将校(最終階級は技術少佐)。 1909年(明治42年)、東京市本郷区池之端七軒町(東京都文京区七軒町)に、松平胖・俊子夫妻の長男として生まれる。初名は廣。父胖は高松松平家の12代当主・伯爵松平頼寿の同母弟で海軍軍人(のちに海軍大佐)であり、母俊子は侯爵鍋島直大の六女。 1915年(大正4年)、暁星小学校へ入学。
山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986… 山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986年4月26日)は、日本の経済学者・統計学者。学位は、経済学博士(一橋大学・1961年)。1973年一橋大学名誉教授。1975年日本統計学会会長。国民経済計算、産業連関分析など計量経済学分野の研究で知られる。著書に『経済通論』・『産業連関の理論と計測』など、論文多数。訳書にW.J.ボーモル『経済動学序説』(共訳)・J.E.ミード『経済成長の理論』(監訳)など。 名古屋大学の北川一雄教授とともに名古屋高等商業学校が産んだ逸材の双璧とされた。指導学生に山澤逸平(一橋大学名誉教授)、島久代(千葉大学名誉教授)など。
横山 保(よこやま たもつ、1909年(明治42年)8月11… 横山 保(よこやま たもつ、1909年(明治42年)8月11日 - 1981年(昭和56年)3月)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵59期。最終階級は海軍で中佐、空自で空将補。 1909年8月11日、神奈川県横須賀市で海軍軍人の次男として生まれる。横須賀中学校を経て、1928年4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年11月7日兵学校を卒業。1934年11月、第26期飛行学生拝命。1935年7月、同課程修了、戦闘機搭乗員となる。1936年11月、佐伯空。 1937年2月、大分空分隊長。7月、支那事変の勃発に伴い、十三空分隊長として上海の公大飛行場に着任。哨戒任務を行う。9月19日、南京の中国空軍機殲滅を目的とした南京第一次空襲に第1大隊(制空隊、九六式艦戦13機)第3中隊長として参加。
古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42年)8月1… 古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42年)8月11日 - 1989年(平成元年)8月18日)は、日本の作曲家。本名は古關 勇治。1969年(昭和44年)、紫綬褒章受章、1979年(昭和54年)、勲三等瑞宝章を受章。
井村 栄三(いむら えいぞう、1909年8月11日 - 19… 井村 栄三(いむら えいぞう、1909年8月11日 - 1996年10月22日)は、日本の経営者。三重県出身。 1930年に名古屋高等商業学校を卒業。 トヨタ自動車工業などでの勤務を経て、1949年に日本電装監査役に就任し、1951年5月に取締役、1955年に常務、1962年に専務を経て、1967年に副社長に就任した。1973年12月に東海理化電機製作所社長に就任。1979年6月には会長に就任した。1979年6月から1983年6月までに光洋精工社長を務めた。 1977年4月に藍綬褒章を受章し、1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1996年10月22日慢性腎不全のために死去。87歳没。
福永 英二(ふくなが えいじ、1909年8月11日 - 20… 福永 英二(ふくなが えいじ、1909年8月11日 - 2002年11月18日)は、朝日新聞記者、翻訳家であり、アフリカとの民間外交も担った。 山口県生まれ。1936年早稲田大学法学部卒。1939年パリ大学修了、朝日新聞社入社、欧米部員、海外特派員などを経て、1956年退社。在フランス日本大使館勤務ののち、1959年社団法人日本アフリカ協会専務理事。1985年日本とアフリカの民間外交の功績で勲三等瑞宝章を受章(『日本企業の体験的アフリカ』略歴)。ほかフランス語の翻訳も行った。 2002年11月18日、心不全のため死去。
小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 199… 小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 1994年3月26日)は、日本の英文学者。元NHK職員。 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。水戸高等学校文科乙類を経て、1935年に東京帝国大学文学部英文科を卒業。 翌1936年に当時社団法人だったNHKにアナウンサーとして入局。戦前のNHKは軍の宣伝機関であったこともあり、今日のような分業制はとられておらず、報道記者も兼ねていた。戦後の改革で報道専業となり、外信部(現在の国際部)に配属。1961年ロンドン支局長、1962年ヨーロッパ総局長、1965年報道局長、1967年解説委員室主幹。 記者勤務の傍ら、イギリス・ロマン派の文学を研究、翻訳を行った。
野口 久光(のぐち ひさみつ、1909年8月9日 - 199… 野口 久光(のぐち ひさみつ、1909年8月9日 - 1994年6月13日)は、日本の映画、ジャズ、ミュージカル評論家。画家、グラフィックデザイナー。生涯に1000点を超える映画ポスターを描いたと言われる。
竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月… 竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月8日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代の競泳選手。水球選手。 中泉農学校卒業、静岡県浜名郡豊西村貴平(笠井町を経て現浜松市中央区貴平町)出身。早稲田大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子1500m自由形に出場したが準決勝棄権に終わった。さらに、1932年ロサンゼルスオリンピックでは水球に出場し4位に入賞した。 大学卒業後、中泉農学校の教諭となり、水泳部の強化に尽力した。