花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年〈明治30年〉… 花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年〈明治30年〉7月10日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、大正・昭和期の漫才師、俳優である。本名:藤木 徳郎。福井県勝山市出身。 生家は法沢寺という寺院であった。幼くして両親とともに大阪に移り住む。父は仏壇職人になった。移住後、アチャコは奉公に出るなどしていたが、遊芸に興味を持ち、1913年に15歳で新派の山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入って「東明幸四郎」と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年、神戸の喜劇一座「鬼笑会」に入り、漫才に転向。このとき「花菱アチャコ」を名乗る。芸名のうち、亭号の「花菱」は、生家の家紋が由来である。
長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 196… 長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 1967年7月3日)は、大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家。カトリック美術家として、おもにキリスト教黎明期の日本のキリシタンを題材にした日本画による宗教画制作に取り組むとともに、日本のフレスコ・モザイクのパイオニアとして旧国立競技場などの公共施設に多くの壁画作品を制作する。また、文化服装学院をはじめ、いくつかの教育機関で服飾史を講じた。本名は龍三。 <暁星学校〜東京美術学校時代> <パリ・ヨーロッパ遊学時代> <チヴィタヴェッキア時代> <壁画集団「F・M」の時代> 長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動に携わった。
陸奥錦 建市(むつにしき けんいち、1897年7月9日 - … 陸奥錦 建市(むつにしき けんいち、1897年7月9日 - 1982年5月14日 )は、大正時代の力士。振分部屋所属。本名は須藤 金作(すどう きんさく)。 青森県南津軽郡五郷村(現青森市)出身。最高位は西十両9枚目。 浪ノ音の振分部屋に入門、1915年1月場所「一ノ音」の四股名で初土俵を踏む。1918年5月「陸奥錦」に改名した。1920年5月場所新十両。2場所つとめて幕下に落ちた。1922年1月に再十両となったが、0勝5敗に終わり幕下に落ちた。その後1923年5月場所限りで廃業した。 廃業後すぐに警視庁に入り巡査となり、柔道を学び中野正三十段の指導を受けて1923年に講道館へ入門。入門から3ヶ月で初段を取得してから段位を上げ、入門から5年後の1928年には5段位を取得した。
長岡 正男(ながおか まさお、1897年7月7日 - 197… 長岡 正男(ながおか まさお、1897年7月7日 - 1974年11月20日)は、日本の技術者で実業家。第6代日本光学工業(現ニコン)社長。
高橋 冏(たかはし あきら、1897年〈明治30年〉7月7日… 高橋 冏(たかはし あきら、1897年〈明治30年〉7月7日 - 1978年〈昭和53年〉10月18日)は、日本の経営者。東京都出身。 1923年に東京帝国大学経済学部商業科を卒業し、東邦電球取締役を経て、1929年に日本生命保険に入社。1945年に取締役を経て、1948年にオリンパス光学工業常任監査役に就任し、常務、1951年に副社長を経て、1953年6月に社長に就任し、1961年12月までに務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1967年に勲三等旭日中綬章を受章。 1978年10月18日脳血栓のために死去。81歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日… 風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日 - 没年不明)は、日本の俳人。本名は山本 直得。別号に南鳳江。河東碧梧桐門下でルビ俳句の提唱者として知られる。東京都出身。 1897年に東京都日本橋区浜町(現在の中央区日本橋)で生まれる。若くして俳句の道を志し、新傾向俳句を提唱していた河東碧梧桐の元へ投句、1917年(大正6年)に碧梧桐の正式な門人となる。以降は一貫して新傾向俳句と、そこから発展した自由律俳句を詠む。碧梧桐主宰の海紅を経て、海紅の東京同人を中心に1924年(大正13年)東京俳三昧を立ち上げ、直得が代表となる。この前年の1923年(大正12年)、師の碧梧桐も海紅を中塚一碧楼に譲り、新たに『碧』を主宰、1925年(大正14年)に東京俳三昧と碧が合流する形で『三昧』を創刊した。
金子 益太郎(かねこ ますたろう、1897年(明治30年)7… 金子 益太郎(かねこ ますたろう、1897年(明治30年)7月7日 - 1983年(昭和58年)10月6日)は、大正から昭和期の農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(2期)、栃木県栃木市長。幼名は亀吉で、35歳の時に益太郎と改名した。 栃木県下都賀郡栃木町入舟町(現栃木市入舟町)で、染物屋・金子忠吉(ただよし)の二男として生まれる。1912年(明治45年)3月、栃木町立第一尋常高等小学校高等科を卒業した。 その後上京し、働きながら独学し、山室軍平の導きでキリスト教に入信。雑司ヶ谷で小間物屋を開業したが、労働農民運動に加わった。1926年(大正15年)日本労農党に入党。 1929年(昭和4年)に帰郷して栃木県下の労農運動を大屋政夫、石山寅吉らと指導した。
田中 耕(たなか こう、1897年(明治30年)7月6日 -… 田中 耕(たなか こう、1897年(明治30年)7月6日 - 1969年(昭和44年)9月22日)は、日本の政治家・薬剤師。衆議院議員(2期)。右翼活動家。 長野県北安曇郡会染村(現・池田町)生まれ。長野県師範学校第三種講習を経て、1917年(大正6年)明治薬学校(現・明治薬科大学)卒。薬剤師を経て、長野県豊科町(現・安曇野市)で薬局を開設。また、長野県豊科町商工会議員も務め、1936年(昭和11年)第19回衆議院議員総選挙で立憲養正会の公認で出馬し、落選するも、その後繰り上げ当選。院内では興亜議員同盟に所属した。1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で再選。1940年(昭和15年)、大政翼賛会が結成されるも、立憲養正会はかねてより新体制運動を批判しており、大政翼賛会には合流しなかった。
生島 広治郎(生島 廣治郎、いくしま ひろじろう、1897年… 生島 広治郎(生島 廣治郎、いくしま ひろじろう、1897年(明治30年)7月4日 - 1983年(昭和58年)10月2日)は、日本の経済学者。経済学博士。近畿大学名誉教授。 兵庫県神戸市元町通1丁目、生島藤吉の二男。1920年、神戸高等商業学校卒業。1922年、東京商科大学専攻部卒業(商学士)、同年に神戸高等商業学校商業研究所調査員。1923年、神戸高等商業学校講師。1926年、神戸高等商業学校教授。 1930年、神戸商業大学助教授。1933年、神戸商業大学教授。1944年、神戸経済大学教授となる。1945年、神戸経済大学より「世界経済学ノ根本問題」で経済学博士の学位を授与され、同大学を退官する。
島 薫(しま かおる、1897年〈明治30年〉7月2日 - … 島 薫(しま かおる、1897年〈明治30年〉7月2日 - 1977年〈昭和52年〉5月16日)は、日本の医師。広島市への原子爆弾投下の爆心地にある島病院初代院長。「広島外科会の父」。 安芸郡中野村(現広島市安芸区中野)出身。1916年(大正6年)旧制広島県立広島中学校(現広島国泰寺高校)卒業。同年度卒に永山忠則・深山静夫らがいる。 旧制大阪医科大学(現大阪大学医学部)へ進学、1924年(大正13年)卒業。岩永仁雄に師事した。その後、ドイツ・アメリカで留学・研修を続けた。 1933年(昭和8年)8月31日、広島市細工町29-2(現中区大手町1丁目5-25)に「島病院」を開院した。当時の開院挨拶状には「廣島郵便局東側に於いて外科病院を經營」「外科一般特に内臟外科の診療に從事」とある。
黒田 正夫(くろだ まさお、1897年(明治30年)7月2日… 黒田 正夫(くろだ まさお、1897年(明治30年)7月2日 - 1981年(昭和56年)7月10日)は、日本の登山家、工学博士。大同工業大学名誉教授、理化学研究所名誉研究員、日本金属学会、日本応用物理学会、雪氷学会名誉会員。 1897年東京府で出生。旧制高千穂中学校(第2回)卒業、1922年東京帝国大学冶金学科卒業。 1938年「軟鋼の降服点発生機構」により工学博士の学位を受ける。1954年地球物理及び鋳物の国際会議に出席のためイタリア及び瑞独英仏を視察。合金の色軟鋼の力学的性質金属の破壊機構溶接の強さ防弾鋼板の弾撃耐力積雪等の研究に成果を挙げ、日本機械金属応用物理鉄鋼雪水古事記その他諸学会に属す。
青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30… 青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30日 - 昭和47年(1972年)5月)は、日本の弁護士、政治家。旧名は貞吉。 鳥取県日野郡日南町出身。甚太郎の長男。 米子中学、松江中学を経て、大正7年(1918年)早大中退。昭和3年(1928年)、朝鮮において弁護士開業。昭和6年(1931年)に鳥取県米子市に移住した後も引き続き開業した。 戦前に米子市会議員を1期務め、戦後は鳥取県地方労働委員会委員、人権擁護委員、米子市選挙管理委員会委員、鳥取県人事委員会委員などに選任され、その功績により昭和37年(1962年)に藍綬褒章を授与された。 昭和47年(1972年)5月、74歳で亡くなった。
神田 盾夫(かんだ たてお、1897年6月30日 - 198… 神田 盾夫(かんだ たてお、1897年6月30日 - 1986年7月19日)は、日本の言語学者、聖書学者(新約聖書学)。国際基督教大学の設立に尽力した一人である。 1897年、東京市麹町区で英語学者神田乃武の四男として生まれた。1916年に第一高等学校英法科に入学。この頃、内村鑑三門下となった。1919年、東京帝国大学英文科に入学。しかし、翌1920年に師事した田中秀央の転出に伴い、神田も京都帝国大学文学部言語学科に転じた。京都では、田中秀央のほか、新村出、波多野精一らに師事した。1924年に同大学を卒業。その後は同大学大学院に進んだ。オックスフォード大学、ハイデルベルク大学に留学し、英国ではC・H・ドッドに、ドイツではマルティン・ディベリウスに師事し、主として西洋古典学を修めた。
長谷部 文雄(はせべ ふみお、1897年(明治30年)6月2… 長谷部 文雄(はせべ ふみお、1897年(明治30年)6月29日 - 1979年(昭和54年)6月13日)は、日本の経済学者。 愛媛県出身。愛媛県立今治中学校卒業後、第一高等学校に進学し、1920年に同校英法科を卒業し、京都帝国大学経済学部に入学。1923年に学士試験に合格し、「経済原論」の研究のため、同大学大学院に進学する。その後、同志社大学講師となり、教授であった1933年には治安維持法違反で検挙起訴され、同志社大学を退職した。戦後、立命館大学教授、龍谷大学教授、1977年退職。 マルクス主義経済学文献の翻訳を行い「資本論」を完訳した。
村田 保定(むらた やすさだ、1897年(明治30年)6月2… 村田 保定(むらた やすさだ、1897年(明治30年)6月29日 - 1976年(昭和51年)11月6日)は、大正・昭和期の弁護士・政治家・華族。貴族院男爵議員。旧姓・安場、旧名・道俊。 実業家・安場末喜の三男として生まれる。1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。同年、明治銀行に入行し、日本勧業銀行に転じ同青森支店主事、同本店支店課勤務を務めた。妻子を伴い、男爵・村田綱太郎(村田経芳長男)の死跡を相続し、1929年(昭和4年)4月15日、男爵を襲爵した。その後、第一弁護士会所属弁護士となった。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
土浦 亀城(つちうら かめき、1897年(明治30年)6月2… 土浦 亀城(つちうら かめき、1897年(明治30年)6月29日 - 1996年(平成8年)1月29日)は、昭和期の建築家である。 茨城県水戸市で土浦市松と光枝の間に生まれた。市松と横山大観はいとこである。1918年東京帝国大学工学部建築学科に入学。1922年、寄宿先で知り合い懇意にしていた遠藤新(当時、帝国ホテル建設のために来日していたフランク・ロイド・ライトの手伝いをしていた)の紹介でドラフトマンとしてライトの設計を手伝った。 同年にライトが建設費の問題から帝国ホテルの設計の任を解かれアメリカに引き上げる際、土浦はライトからアメリカに来るように請われ、卒業後の1923年に信子夫人(吉野作造の長女)と共に渡米。
小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 -… 小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 - 1995年7月22日)は、茨城県坂東市(旧岩井市)生まれの実業家であり、コーセーの創設者である。 長男は第2代社長の小林禮次郎、三男は第3代社長の小林保清。孫は第4代社長の小林一俊。
楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)… 楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)6月28日 – 1990年(平成2年)1月7日)は、大正・昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 和歌山県日高郡由良村(現由良町)で楠山四郎右衛門の二男として生まれた。1920年(大正9年)早稲田大学政治経済学科を卒業。同年9月、大阪毎日新聞社に入社。1921年(大正10年)コロンビア大学に留学し、さらにバージニア大学で学んだ。 ロンドン特派員となり、1932年(昭和7年)リットン調査団報告書をスクープした。神戸支局長を経て、東京日日新聞外国通信部長に転じて第二次世界大戦下のヨーロッパを視察した。欧米部長、副主筆を経て、戦時中は日本タイムス社長、上海タイムス社長を務めた。
合田 健吉(ごうだ けんきち、1897年(明治30年)6月2… 合田 健吉(ごうだ けんきち、1897年(明治30年)6月28日 - 1975年(昭和50年)8月5日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、香川県仲多度郡多度津町長。位階は正八位。勲等は勲四等。 香川県多度郡多度津町本通(現:仲多度郡多度津町)で、豪商「嶋屋」合田房太郎の二男として生まれる。早稲田大学商科を卒業。1937年(昭和12年)家督を相続した。 1928年(昭和3年)以降、四国水力電気取締役、琴平電気鉄道取締役、琴平参宮電鉄取締役、屋島登山鉄道取締役、槙田鉄工取締役、協和鉄工所社長、亀陽航空社長、中讃興業社長、多度津銀行監査役などを務めた。その他、多度津町社会教育委員、同農業会監事などにも就任した。
古田 誠一郎(ふるた せいいちろう、1897年6月27日 -… 古田 誠一郎(ふるた せいいちろう、1897年6月27日 - 1992年12月3日)は日本の社会事業家、教育者、ラジオ・テレビタレント、政治家。日本におけるボーイスカウト草創期の指導者の一人。初代の公選高槻市長、ボーイスカウト日本連盟理事、日本キャンピング連盟常任理事を歴任した。 1897年(明治30年)6月27日、和歌山市に古田吉兵衛の長男として出生。1914年(大正3年)、和歌山商業学校を卒業。 1919年(大正8年)、和歌山の聖救世主教会で受洗し日本聖公会に入信。同年神戸に移住する。 1921年(大正10年)12月1日、神戸聖ミカエル教会でボーイスカウト神戸第1隊(ウォーカー隊)を指導していたフレデリック・ウォーカー宣教師、竹内宗六神父の援助を受け、平井哲夫と共に神戸ボーイスカウト山手隊を結成。
篠田 英雄(しのだ ひでお、1897年6月27日 - 198… 篠田 英雄(しのだ ひでお、1897年6月27日 - 1989年12月26日)は、日本の哲学者、翻訳家。 1897年、千葉県で生まれた。東京帝国大学哲学科で学び、卒業。1934年、在日中のブルーノ・タウトと相識り、以降交流を続けた。1938年のタウト没後にエリカ・タウト夫人から日本に関する著書、日記の原稿を託され、その整理と翻訳に当たった。 また岩波文庫版のカントの主著、クラウゼヴィッツ『戦争論』など、重版し読み継がれる訳業を行った。『岩波西洋人名辞典』(岩波書店 1956、新版1981)のいくつかの項目も執筆している。
畠田 昌福(はたけだ まさとみ、1897年(明治30年)6月… 畠田 昌福(はたけだ まさとみ、1897年(明治30年)6月26日 - 1976年(昭和51年)7月14日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、陸軍司政長官。 兵庫県津名郡来馬村久留麻で畠田勝平の三男として生まれる。第六高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し福井県属となる。 以後、群馬県理事官、愛知県庶務課長、同地方課長、東京府庶務課長、同地方課長、秋田県書記官・警察部長、福島県書記官・警察部長、福岡県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、内務省警保局警務課長、大阪府書記官・警察部長、内務省地方局監査課長、内務省監査官などを歴任。
末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月2… 末永 雅雄(すえなが まさお、1897年(明治30年)6月23日 - 1991年(平成3年)5月7日)は、日本の考古学者。橿原考古学研究所初代所長。関西大学名誉教授。文学博士(龍谷大学・論文博士・1948年)。大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)生まれる。日本学士院会員。文化勲章受章者。大阪狭山市名誉市民。奈良県明日香村名誉村民。 河内狭山の旧家の一人っ子として生まれた。1904年に狭山尋常小学校入学、父親の勧めで狭山池周辺の土器片集めに熱中する。隣家の陸軍大将植田謙吉に憧れて陸軍幼年学校入学を希望するも母親に反対され進学を断念、土器石器集めや、祖父が集めた古武器を眺めて暮らすうち、水戸学の学統をひく感化院院長高瀬真卿の日本刀の新聞連載を読み、高瀬と文通を始める。
金 七星(キム・チルソン、朝鮮語: 김칠성、1897年6月2… 金 七星(キム・チルソン、朝鮮語: 김칠성、1897年6月22日または6月24日 - 1984年5月21日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は清道金氏(朝鮮語版)。 慶尚南道釜山(現・釜山広域市)出身。日本大学経済学部卒。1950年の第2代総選挙に釜山市丙選挙区から無所属で立候補して当選し、国会議員を1期務めた。そのほか、経済研究所長、ハンソン株式会社経営者、米軍政期の慶尚南道顧問などを務め、大韓独立促成全国労働総同盟にも関係があった。1950年9月19日正午ごろ、ソウルにいた際に北朝鮮に拉致された。1956年7月から在北平和統一促進協議会の常務委員を務め、その後の詳細は不明だが、87歳で死去したとされる。
桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 -… 桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1897年6月21日 - 1980年12月28日)は、日本の陸軍軍人、僧侶。最終階級は陸軍少将。法名、全覚。
松井三雄(まつい みつお、1897年6月21日 - 1983… 松井三雄(まつい みつお、1897年6月21日 - 1983年3月19日)は、日本の教育心理学者。東京大学名誉教授。 山口県美祢郡出身。1923年東京帝国大学文学部心理学科卒。体育研究所、東京文理科大学教授、東京大学教授、1961年定年退官、名誉教授、日本大学教授、鶴川女子短期大学学長。1983年退任。日本学術会議会員。 体育心理学、スポーツ心理学のほか、音楽教育についても研究した。
井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1… 井上 康文(いのうえ やすぶみ、1897年6月20日 - 1973年4月18日)は、日本の詩人、作家、新聞記者。本名・康治。日高駿一の筆名も用いた。 生涯で3回結婚した。最後の妻、井上淑子(きよこ)もまた詩人であった。 神奈川県小田原市出身。東京薬学校(現東京薬科大学)を卒業後、東京市役所の技師や雑誌『新小説』の記者などを務めた。1918年、同郷の福田正夫や白鳥省吾らと共に雑誌『民衆』を創刊して注目を集める。大正デモクラシーの時流の中で、民衆の生活を口語体で平易に表現する「民衆詩派」の一翼を担った。『民衆』は毎回300部程度、17号まで発行された。 さらに井上は詩人団体「詩話会」に入会。詩壇での地位を確立する一方、北原白秋らは「詩ではなく散文的である」として民衆詩派に反発した。
今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1… 今井 つる女(いまい つるじょ、1897年6月16日 - 1992年8月19日)は、俳人。本名は今井鶴(旧姓・池内)。父は高浜虚子の兄池内政夫で、つる女は虚子の姪にあたる。 愛媛県松山市生まれ。生後間もなく一家で上京するも4歳で父と死別し、池内政忠(虚子の長兄)の養女となる。1904年、尋常第一小学校(現 番町小学校)へ入学後、尋常第四小学校(現 東雲小学校)へ編入する。1914年、愛媛県立松山高等女学校(現 愛媛県立松山南高等学校)卒業。今井五郎との結婚を機に上京する。1920年頃から句作をはじめ、1928年『ホトトギス』夫人句会に参加する。1930年、星野立子の『玉藻』創刊に参加。1940年「ホトトギス」同人となる。
石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 19… 石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 1987年8月14日)は、日本の児童文学者、国語教育学者、教科書編集者。第二次世界大戦前1939年の『咲きだす少年群』で第3回新潮社文芸賞、大戦後は1957年刊行のベストセラー『コタンの口笛』(全2部)で第1回未明文学賞および第5回産経児童出版文化賞を、1962年の『バンのみやげ話』で第1回野間児童文芸賞を受賞。『石森延男児童文学全集』全15巻がある。 1897年(明治30年)、歌人で「われらが愛する北海道」の作詞者でもある石森和男の長男として北海道札幌市に生まれる。中央区南6条西9丁目に生誕地の碑がある。 東京高等師範学校第二部国語国文科に入学、在学中より詩作や口演童話にたずさわる[要出典]。
小清水 卓二(こしみず たくじ、1897年(明治30年)6月… 小清水 卓二(こしみず たくじ、1897年(明治30年)6月15日 - 1980年(昭和55年)10月24日)は、日本の植物生理生態学者。理学博士。 神奈川県足柄生まれ。父良造は大蔵省官吏。1923年東京高等師範学校理科卒後、秋田県立本荘中学校で教諭となる。教職を勤める傍ら東北帝国大学にてハンス・モーリッシュ教授から植物学の指導を受ける。その後京都帝国大学理学部(植物)に入学。1927年卒後、同大大学院にて植物生理生態学者郡場寛に師事。1930年京都府女子師範学校教授に就任。1932年奈良女子高等師範学校教授、1949年より奈良女子大学教授(植物学教室、理学部学部長)。1964年より帝塚山大学教授(教養学部学部長、学長代理)。
藤井 兼誼(ふじい かねよし、1897年(明治30年)6月1… 藤井 兼誼(ふじい かねよし、1897年(明治30年)6月15日 - 1986年(昭和61年)10月30日)は、日本の政治家、華族。貴族院子爵議員。 京都市で子爵・藤井行徳の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1930年(昭和5年)10月15日、子爵を襲爵した。 1926年(大正15年)京都帝国大学文学部を卒業。同年、私立京都薬学専門学校教授に就任。1937年(昭和12年)殿掌となり、大喪使祭官を務めた。 1942年(昭和17年)3月31日、補欠選挙で貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月… 森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月12日 - 1949年〈昭和24年〉7月9日)は、日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。群馬県出身。 1897年(明治30年)、群馬県佐波郡宮郷村上連取(現・伊勢崎市連取町)に、森村連太の三男として生まれる。酉三の名は酉年生まれであることにちなむ。森村家は江戸時代には旗本・駒井氏の地方代官を勤めた旧家で、兄・鍋太は佐波郡会議員や宮郷村長を務め、分家の堯太(父の又従兄弟)は群馬県会議員を務めた。酉三の生家は「旧森村家住宅」として伊勢崎市指定重要文化財となっている。 酉三は幼い頃から絵画や粘土細工を得意としていたという。
潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 192… 潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 1927年10月13日)は日本の歌人。本名は長谷川桐子。旧姓は太田。姉の若山喜志子も歌人。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。大正4年(1915年)三浦半島に療養中の姉・喜志子を見舞い、翌年まで滞在した。大正4年から歌作を始め、義兄の若山牧水に師事し、詩歌雑誌「創作」に作品を発表する。同7年(1918年)に上京し、翌年、喜志子・牧水夫妻の仲人により、牧水の弟子である長谷川銀作と結婚したが、同10年(1921年)ころから結核に罹患し、療養を続けながらも創作を続けたが、31歳で夭逝した。遺歌集に「潮みどり歌集」が刊行された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月… 新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月12日 - 1968年(昭和43年)6月13日)は、日本の彫刻家である。 新海竹太郎の甥として山形県山形市に生まれる。家系は仏師であり、竹蔵の曾祖父母は同業に従事していた。1912年(大正元年)に上京し、その後は伯父の竹次郎から塑像を学び、1915年(大正4年)に自身の作品が第9回文展に初入選される。後には多くの作品が文展および帝展に出品され、1924年(大正13年)には自身の作品が再興された院展にも出品された。これによって翌1925年(大正14年)には日本美術院の院友となり、1927年(昭和2年)には日本美術院の同人に推薦され院展彫塑部に所属する。
小岩井 浄(こいわい きよし、1897年〈明治30年〉6月9… 小岩井 浄(こいわい きよし、1897年〈明治30年〉6月9日 ‐ 1959年〈昭和34年〉2月19日)は、日本の社会運動家、教育者、弁護士、政治家。愛知大学第3代学長。 長野県東筑摩郡島立村(現在の松本市)に小岩井宗十の長男として生まれる。父・宗十は松本での分県移庁運動で検挙(のちに無罪)された経験のある社会運動家で、1902年に妻子を残して単身渡米し、カリフォルニアで農園経営者として成功したとも、消息を絶ったとも伝えられる。 1911年、旧制長野県立松本中学校(現在の長野県松本深志高等学校)に入学。1915年、同校を本荘太一郎校長との衝突を理由に中退。その後旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)に入学する[要出典]。
松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6… 松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6月7日–1987年〈昭和62年〉1月25日)は、昭和期の外交官・政治家。 台湾台北で、実業家・松本勝太郎の長男として生まれ、広島県呉市広育ち。広島県立呉中学校(呉三津田高校)、一高を経て経て、1921年(大正10年)東京帝国法学部卒業し外務省入省。 在ベルギー外交官補、アントワープ領事官補、条約局、在フランス大使館を経て、条約局第二課長、条約局第一課長、人事課長、在中華民国大使館参事官、文化事業部長、条約局長を歴任。 1942年(昭和17年)、重光葵外務大臣下で外務次官。フランス領インドシナ特派大使を経て1945年に東郷茂徳外務大臣下で再び外務次官となり内閣書記官長の迫水久常らと終戦処理にあたった。
中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7… 中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7日 - 1956年(昭和31年)12月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓は松永。 1897年(明治30年)に広島県で生まれた。陸軍士官学校第31期、陸軍大学校第39期、東京帝国大学政治学科卒業。1938年(昭和13年)7月に陸軍省人事局補任課高級課員に就任し、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に教育総監部庶務課長に着任し、12月1日には参謀本部庶務課長に転じた。1940年(昭和15年)5月に広島陸軍幼年学校長に就任し、1941年(昭和16年)4月に企画院調査官、1942年(昭和17年)1月に陸軍予科士官学校幹事を歴任した。
早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月… 早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月6日 - 1991年(平成3年)11月10日)は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。 宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛・長子夫妻の子として生まれる。父智寛は土建業で財を成したが、すでに第一線を退き、仙台商業会議所会頭や米穀取引所理事長などの名誉職にあった。後に仙台市長にも就任した。 慶應義塾大学在学中は茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽した。慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかった。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今だと2、3億円になる)を10年間にほぼ使い果たした。
島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6… 島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6月3日 - 1945年〈昭和20年〉9月18日)は、大正・昭和期の映画監督。松竹蒲田撮影所で蒲田調と呼ばれる小市民映画を多数製作し、松竹の代表的監督となった。 東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)三越日本橋本店の真正面に老舗の海苔商「甲州屋」を営む父・音次郎の次男として生まれる。 正則英語学校(現・正則学園高等学校)に入学するが、幼いころから極度の映画好きであった島津は学校をさぼって近くにあった映画館・錦輝館へ行って映画を見ていた。当時から映画監督への道を志しており、逓信省の宣伝映画のシナリオ公募に入選した経験もある。卒業後、実家の手伝いで、福島で下駄用桐材の切り出しに携わる。
中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 195… 中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 1956年11月15日)は、昭和期の司書。石川県立図書館や東京都立日比谷図書館の館長を歴任し、近代日本の図書館発展に大きな影響を与えた。号は自邦居士あるいは空人生。 滋賀県甲賀郡柏木村(後水口町を経て、現在は甲賀市)宇田の出身。事情により学業が思うように任せず、膳所中学校を卒業したのは20歳になってからで、以後第八高等学校 を経て、1920年に京都帝国大学哲学科に入り、西田幾多郎の門下となる。また、高校時代より飯田攩隠と親交を持ち、彼の元で度々座禅を組んだという。その後、大学院に進んだが、1923年に一年志願兵に志願したのを機に中退、除隊後は28歳で石川県主事となった。
長船 克巳(おさふね かつみ、1897年(明治30年)6月 … 長船 克巳(おさふね かつみ、1897年(明治30年)6月 - 1974年(昭和49年))は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。「克己」と表記される場合がある。 岡山県邑久郡行幸村長船(現在の瀬戸内市)出身。長船春太郎の長男として生まれる。第六高等学校(現・岡山大学)を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部(現・東京大学)政治学科を卒業。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁理事官(商工課長兼工場課長)、石川県庶務課長、兵庫県農務課長、鹿児島県学務部長、長野県学務部長、和歌山県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、愛媛県総務部長、静岡県書記官・総務部長などを歴任。
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
森村 勇(もりむら いさむ、1897年5月30日 - 19… 森村 勇(もりむら いさむ、1897年5月30日 - 1980年3月23日)は、日本の実業家。日本特殊陶業社長や、全日本空輸社長、日本航空常務取締役、日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本碍子取締役などを歴任した。 1918年高千穂高等商業学校(現高千穂大学)卒業。1936年日本特殊陶業取締役。1944年日本特殊陶業取締役社長。1950年大日本製糖監査役。1951年日本特殊陶業取締役会長。1953年日本航空常務取締役。1955年日本航空監査役、日本特殊陶業取締役社長。1961年日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本碍子取締役、日本特殊陶業取締役会長。1962年全日本空輸取締役、日東石膏取締役。1963年東洋サーモコントロール監査役。
田中 誠二(たなか せいじ、1897年5月30日 - 199… 田中 誠二(たなか せいじ、1897年5月30日 - 1994年12月23日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1939年)。一橋大学名誉教授。初代一橋大学法学部学部長を歴任。1981年12月12日より日本学士院会員。授勲勲二等瑞宝章。 指導学生等に堀口亘(一橋大学名誉教授)、好美清光(一橋大学名誉教授)、吉永榮助(一橋大学名誉教授)、加美和照(中央大学名誉教授)などがいる。 田中ゼミ出身者に堀口亘(一橋大学名誉教授)、好美清光(一橋大学名誉教授)、並木俊守(元日本大学教授、人気弁護士)、加美和照(中央大学名誉教授)、原茂太一(元青山学院大学教授)、佐藤節子(元青山学院大学教授)、柿沼幸一郎(元公正取引委員会委員)、岡村勲(元日本弁護士連合会副会長)、倉島研二(元法務省法務総合研究所教官)など。
黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29… 黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1991年〈平成3年〉6月26日)は、日本の元皇族。黒田長礼侯爵夫人。閑院宮載仁親王の第2女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、茂子女王(しげこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1897年(明治30年)5月29日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2女子(第3子)として誕生。1914年(大正3年)1月21日、黒田長礼(黑田長禮、黒田長成侯爵の嫡男)に降嫁した。1978年(昭和53年)4月16日に夫・長礼が没した後、茂子は「黒田家什宝は美術工芸品であっても、郷土福岡との関連において役立てるべき歴史的文化財である」ため、それらを故郷に帰すという亡夫の遺志を継ぎ、同年9月19日に国宝・漢委奴国王印をはじめ黒田家に伝来した文化財や歴史資料を『黒田資料』として一括して福岡市へ寄贈した。
由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29… 由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1973年〈昭和48年〉2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍法務少将。海軍省廃止時の海軍省法務局長。旧姓、岡村。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1922年に海軍法務官に任官する。海軍兵学校教官、海軍省法務局局員、東京高等軍法会議法務官、海軍司法事務官、大本営報道部附、海軍大学校教官などを歴任した。 1943年に連合艦隊法務長に就任した。1945年に海軍法務少将に昇進した。戦後は海軍省(のち、改組により第二復員省)法務局長となる。 第二復員省退官後は公職追放を経て、郷里である福岡県柳川市で弁護士業を営んだ。
周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年… 周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年4月28日〉 - 1948年〈民国37年〉2月28日)は、中華民国の財政家・政治家。本名周 福海。汪兆銘政権の有力者。 湖南省生まれ。日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。 その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は戴季陶の庇護を受け、蔣介石の下で三民主義のイデオローグとして活躍、国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。
西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日… 西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日 - 1989年(平成元年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・赤松。 海軍士官・赤松則良の七男として生まれ、1899年(明治32年)に海軍士官・西紳六郎の養子となる。養父の死去に伴い、1933年(昭和8年)11月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、第一銀行に入行し書記に就任。その後、南洋拓殖参事、南洋バルブ取締役、太洋真珠監査役、南洋水産監査役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 19… 鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 1968年2月19日)は、日本画家。 大阪市北区福島番外413番地に生まれる。父熊太郎(1865年(慶応元年)生まれ)、母ミチ(旧姓牧、1876年(明治9年)生まれ)の長男。鍋島熊太郎は旧佐賀蓮池藩連枝。 1915年(大正4年)東北学院中等部卒業。4月、東京美術学校日本画科に入学。4月から7月まで予備科、8月から本科に進む。川合玉堂、結城素明、松岡映丘の指導を受ける。 1921年(大正10年)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。卒業制作は、東京芸術大学収蔵品として保管されているが、一般公開はされていない。[要出典] 恩師・川合玉堂の言葉「塵汚の渦中に巻込まれる勿れ、一意我が道に精進せよ」を受けて中央画壇に背を向け、大阪南部の羽曳野市に住み、人知れず「己が魂」を描き続けた。
瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 -… 瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 - 1992年1月29日)は、日本の法学者。専門は法制史。大阪府大阪市西区出身。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。学位は法学博士。國學院大學名誉教授。