石川 準吉(いしかわ じゅんきち、1898年〈明治31年〉1… 石川 準吉(いしかわ じゅんきち、1898年〈明治31年〉11月24日 - 1990年〈平成2年〉7月12日)は、日本の農林官僚、政治家、弁護士。参議院議員。 秋田県で、石川為治の五男として生まれる。広島高等師範学校を卒業し、1922年(大正11年)、広島県福山師範学校教授に就任。1925年(大正14年)、高等試験司法科試験に合格し、1926年(大正15年)12月には同試験行政科試験に合格。1927年(昭和2年)、東北帝国大学法文学部法科を卒業し農林省に入省。産業組合事務官兼農林事務官、農林事務官兼水産講習所教授、大阪営林局庶務部長、東京営林局庶務部長、農林省水産局水産課長、同米穀局外地課長、大使館一等書記官、食糧管理局第一部長、地方総監府参事官、東北地方行政事務局次長、農林省総務局長などを歴任し、1946年(昭和21年)に退官。
宮城 孝治(みやぎ こうじ、1898年11月24日 - 19… 宮城 孝治(みやぎ こうじ、1898年11月24日 - 1985年2月22日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長を務めた。 徳島県出身。1924年に北海道帝国大学農学部農業経済科を卒業し、同年に農商務省に入省。1944年5月に共栄火災海上保険に転じ、同年6月に常務、1947年3月に専務を経て、同年11月には社長に就任した。1964年6月には会長に退いた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲四等旭日小綬章を受章した。 1985年2月22日、肝不全のために死去。86歳没。
中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月2… 中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月22日 - 1999年(平成11年)11月1日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、初代佐賀県武雄市長。 佐賀県杵島郡武雄町(現武雄市武雄町)で、温泉旅館・春慶屋経営、中野祐市、いち夫妻の長男として生まれる。1916年(大正5年)慶應義塾大学部理財科に入学したが、志望校ではなかったため両親に内緒で旧制高等学校を受験して合格し、親の許しを受けて1918年(大正7年)4月、第七高等学校造士館に入学。1921年(大正10年)3月、七高を卒業し、同年4月、東京帝国大学文学部社会学科に入学。1925年(大正14年)同大文学部を卒業したが、不況の最中での卒業であったため、じっくり学問に取り組もうと同年4月、同大法学部政治学科に入学し、1928年(昭和3年)3月に卒業した。
萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -… 萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -1969年7月13日 )は、日本の言語学者。ロンドン大学客員教授、早稲田大学教育学部英語英文学科教授等を歴任した。稲村松雄、竹沢啓一郎との共著『Jack and Betty』は発行部数4,000万部を超えるベストセラーとなり、戦後日本の中・高等教育課程における代表的な英語教科書となった。埼玉県上里町出身。墓所は寛永寺第3霊園。 埼玉県児玉郡賀美村(現:上里町)大字黛にて出生。旧制高崎中学校を経て早稲田大学高等師範部卒業。千葉県立大多喜中学校教諭、東京府立第五中学校教諭、早大高師部講師等を経て1935年に早大教授に就任。同校を1969年に定年退職するまでの間に、1938年に渡英しロンドン大学で客員教授を務め、1960年代に跡見学園女子大学で客員教授を務めた際には同大学英文科開設に尽力した。
稲田 勤(いなだ つとむ、1898年 <明治31年> 11月… 稲田 勤(いなだ つとむ、1898年 <明治31年> 11月19日 - 1976年 <昭和51年> 8月27日)は、日本の経営者。明治生命保険社長を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に明治生命保険に入社。 1946年11月に常務に就任し、1958年5月に副社長を経て、1961年5月に社長に就任。1964年5月には相談役に就任した。 経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟常任理事、日本相撲協会会長なども歴任した。 1963年5月に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1976年8月27日、心筋梗塞のために死去。77歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1… 近衞 秀麿(このえ ひでまろ、1898年11月18日 - 1973年6月2日)は、日本の指揮者・作曲家。元子爵。正三位勲三等。元貴族院議員。異母兄に近衞文麿(政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衞直麿(雅楽研究者)、水谷川忠麿(春日大社宮司)がいる。
奥野 健一(おくの けんいち、1898年11月18日 - 1… 奥野 健一(おくの けんいち、1898年11月18日 - 1984年5月6日)は、最高裁判所判事。和歌山県出身。文芸評論家の奥野健男は長男。 旧制和歌山県立田辺中学校から旧制第六高等学校へ進学。旧制高校時代に高校生と地回りたちの大乱闘があったさいに、喧嘩には加わらなかったが、目撃者の誤った証言で警察に逮捕された。いくらやらないと言っても警察官は聞き入れず、ついには卑怯者と言われたくなく友人を庇う義侠心から乱闘の首謀者と偽りの自白をしてしまった。警察官に尋問をされ、偽りの上に偽りの自白を重ね、架空の筋書きの調書が作られた。幸い検事の調べによって無実であることがわかり不起訴となった。 この体験は警官の誘導尋問によって人間はいかに偽りの自白をしやすいものであるかという教訓として、自身が体験者の一人として後年に裁判をする時にいつもその点を配慮するようになったとのことである。
北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1… 北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1960年12月27日)は、日本の演出家、劇作家、翻訳家。 石川県出身。東京帝国大学英文科卒。 1924年(大正13年)、築地小劇場に参加する。1937年(昭和12年)、村瀬と芸術小劇場を結成し主宰する。第二次世界大戦後は新劇で活動。1950年(昭和25年)8月18日、阿部知二とともに第22回国際ペンクラブ大会に戦後始めて代表として出席。1951年(昭和26年)、国際演劇協会日本センター初代理事長となる。 ドイツ・英米演劇を翻訳した。 妻は女優の村瀬幸子。
榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月1… 榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月17日 - 1994年〈平成6年〉11月30日)は、日本の経済学者、キリスト教(アナバプティズム)研究家、政治家、実業家。青山学院大学名誉教授。筆名は、吾妻 東一、福田 逸史。 妻は衆議院議員の榊原千代。息子はヒッポファミリークラブ創設者の榊原陽。 愛知県碧南市生まれ。1921年(大正10年)3月、官立神戸高等商業学校を中途退学する。同年4月に東京商科大学(現・一橋大学)本科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業する。同年4月に横浜社会問題研究所の研究員に就任する。 1926年(大正15年)6月から福島高等商業学校(現・福島大学)講師、1927年(昭和2年)7月から同校教授に就任する。
矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月1… 矢上 純雄(やがみ すみお、1898年(明治31年)11月16日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、昭和戦後の鹿児島県職員。 鹿児島県囎唹郡末吉村(現・曽於市)に生まれる。1918年(大正7年)8月、渡台し、台中郵便局雇、台湾総督府通信手、内務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月、地方理事官に進み、台北市助役に就任する。 1939年(昭和14年)4月、台中州豊原郡守に転じ、1940年(昭和15年)11月、台南州虎尾郡守に就任。1942年(昭和17年)8月、花蓮港庁総務課長を発令された。 終戦後は帰国し、1947年(昭和22年)から鹿児島県農地部農地課に勤務し、農地課長を経て、1949年(昭和24年)経済部水産課長に就く。
野溝 勝(のみぞ まさる、1898年(明治31年)11月15… 野溝 勝(のみぞ まさる、1898年(明治31年)11月15日 - 1978年(昭和53年)8月22日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員、参議院議員、左派社会党書記長、芦田内閣の地方財政委員会委員長。正三位勲一等瑞宝章。 長野県上伊那郡赤穂村(現在の駒ヶ根市)に馬車屋の子として生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、1917年(大正6年)青森農業学校畜産獣医科を卒業する。同年法政大学に入学するが、すぐに中退し、獣医師となり、長野県警察部で防疫官、衛生助手として勤務する。しかし思想的に問題があるとみなされて、長野県下伊那郡富草警察署(現・阿南警察署)に配置換えとなる。しかし、ここでも署長と衝突し、1922年(大正11年)に退職した。
河口 静雄(かわぐち しずお、1898年11月14日 - 1… 河口 静雄(かわぐち しずお、1898年11月14日 - 1991年12月19日)は、日本の実業家。三共副社長、東京12チャンネルテレビ事業本部長を務めた。 福岡県柳川市出身。河口時次、トリの三男。1928年に慶應義塾大学法学部を卒業し三共に入社。資材部長、1944年7月に取締役、1950年5月に常務、1955年11月専務を経て、1962年11月には副社長に就任し、1964年5月から相談役を務めた。1969年11月には当時経営不振に陥っていた東京12チャンネルテレビ事業本部長に就任し、同社の再建に当たった。全日本広告連盟理事長、日本広告審査機構理事長なども歴任し、広告界の重鎮として活躍した。1967年には日本宣伝大賞を授賞、1969年4月には勲三等瑞宝章を受章した。
桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、18… 桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、1898年 〈明治31年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉5月15日)は、日本の経営者。北越製紙、新潟総合テレビ社長などを務めた。位階は従四位。 新潟県広神村(現・魚沼市)の庄屋に生まれる。 長岡中学(現・新潟県立長岡高等学校)を経て慶應義塾理財科を卒業。1922年に九州水力電気に入社。1942年に九州配電理事に就任。理事になるまで、経理、営業、企画、技術を担当。九州の主なところでは大牟田、大分、福岡に移り住んだ。 1944年に日本発送電理事に転じ、1949年7月から1950年9月までに副総裁を歴任。1954年9月から1956年9月までに電源開発理事を務めた。
藤野 岩友(ふじの いわとも、1898年11月14日 - 1… 藤野 岩友(ふじの いわとも、1898年11月14日 - 1984年5月28日)は、古典中国文学者。國學院大學名誉教授。文学博士。折口信夫の五博士のうちの一人である。 楚辞の研究で知られ、主著は『巫系文学論』、『中国の文学と礼俗』など。漢文学者として『角川漢和中辞典』など漢和辞典や漢文教科書の編さんを担当した。 息子は幻想画家の藤野一友(別名義で中川彩子)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2… 松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2000年3月11日)は、日本の民法学者。現在の倉敷市生まれ。名古屋大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。
黒津 敏行(くろつ としゆき、1898年(明治31年)11月… 黒津 敏行(くろつ としゆき、1898年(明治31年)11月12日 - 1992年(平成4年)11月16日)は、日本の医学者。大阪大学名誉教授。 1898年(明治31年)京都府に生まれる。1916年(大正5年)京都府立京都第二中学校 (旧制)を卒業後。大阪医科大学 (旧制)に進学。1924年(大正13年)に卒業後、同大助手を経て、1931年(昭和6年)同大助教授に就任。1935年(昭和10年)にはロンドンで開催された第二回国際神経学会に出席した。1936年(昭和11年)大阪帝国大学教授、1948年(昭和23年)同大医学部長に就任。1956年(昭和31年)に退官後は園田学園女子短期大学、園田学園女子大学の初代学長をそれぞれ務めた。
川島 桂山(かわしま けいざん、1898年〈明治31年〉11… 川島 桂山(かわしま けいざん、1898年〈明治31年〉11月12日 - 1987年〈昭和62年〉3月4日)は、昭和に活躍した千葉県出身の書家。書道普及会創設者。社団法人日本書道院理事。書道研究温知会名誉理事。本名は川嶋 泰祐(かわしま たいすけ)。 1920年(大正9年)小野鵞堂主宰の書道研究斯華会に入会、1925年(大正14年)小野成鵞および神郡晩秋に師事し直接指導をうけ1952年(昭和27年)から1970年(昭和45年)には豊道春海に書道の薀奥を学んだ。また、世界各地に日本美術を紹介する手助けや、芸術家文化人のチャリティ展などに協力して書道の普及に尽力した。 桂山は1936年(昭和11年)「現代に適応した書道の普及と兼ねて精神の修養に資せんが為」に書道普及会を設立し、会誌「書道普及」を創刊する。
米田 吉盛(よねだ よしもり、1898年〈明治31年〉11月… 米田 吉盛(よねだ よしもり、1898年〈明治31年〉11月10日 - 1987年〈昭和62年〉5月17日)は、日本の教育者。神奈川大学の創立者であり、昭和期の政治家である。衆議院議員(4期)。 1898年(明治31年)11月10日に愛媛県喜多郡満穂村(現:内子町)論田で、村役場の書記を務める父良吉、母サヨシの元に生まれる。しかし、米田が1歳の際に離婚し、祖母であるクマの元で育てられた。尋常小学校を卒業後、京都の呉服屋に丁稚奉公に行く。しかしながら、この丁稚奉公は1年で切り上げ、米田15歳の夏、第一次世界大戦後の景気に沸く台湾・基隆の山本金物店(社長山本勘助)に勤め、数年のうちに責任を任された。
上田 誠一(うえだ せいいち、1898年(明治31年)11月… 上田 誠一(うえだ せいいち、1898年(明治31年)11月10日 - 1969年(昭和44年)1月7日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 石川県出身。小学校長・上田誠文の長男として生まれる。石川県立金沢第二中学校を卒業。金沢医学専門学校中退を経て、第四高等学校を卒業。1921年10月、高等試験行政科試験に合格。1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年4月、内務省に入省し、宮城県属となり内務部地方課に配属された。 1923年2月、宮城県警視・警察部警務課長に就任。以後、同保安課長兼工場課長、兵庫県警察部保安課長、同特別高等警察課長、京都府警察部特別高等警察課長、警視庁警視・特別高等警察課長、兼外事課長、警視庁衛生部長を歴任。
堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 196… 堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 1968年10月15日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。和歌山県出身。 1923年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1946年に理事に就任し、1950年1月には頭取に就任した。1961年から1962年12月に会長を務めた。1964年には日本銀行政策委員に就任し、全国銀行協会連合会会長も務めた。 1968年10月15日脳血栓のために死去。69歳没。
稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 19… 稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 1988年4月3日)は、昭和時代の日本の実業家。 京都出身。稲畑勝太郎の長男。 1921年(大正10年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。1937年(昭和12年)稲畑商店(のちの稲畑産業)取締役社長となる。 1944年(昭和19年)から1946年(昭和21年)まで住友化学工業監査役を務めた。1948年(昭和23年)関西経済同友会代表幹事。1953年(昭和28年)再び住友化学工業監査役に就任。1958年(昭和33年)久保田鉄工監査役に就任。 1959年(昭和34年)再び関西経済同友会代表幹事に就任。1960年(昭和35年)日本国際貿易促進協会関西本部副理事長。
伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 197… 伊藤 四男(いとう かずお、1898年11月8日 - 1974年3月20日)は日本の柔道家(講道館9段・国際武道院(英語版)名人10段)。 戦後、講道館の中で東京高師閥と共に興盛を誇った三船久蔵閥の主力人物であり、警視庁や日本体育大学、東洋大学等で柔道師範を務めた。その後北米や欧州各国で柔道指導を行い、柔道の国際的発展にも貢献している。 晩年は講道館の9段位に列せられたほか、国際武道院を主宰して師の三船に次ぐ名人10段位を名乗った。 山形県新庄市下金沢町の伊藤家に四男(よんなん)として出生し、警察官を退官後に町役場吏員を務める父・一から柔道の手解きを受けた。後の市立日新小学校を卒業後は1913年に旧制佐世保中学校(後の長崎県立佐世保北高校および同南高校)に入学して柔道を修行、その後は佐世保の海兵隊に進んで同隊在籍中の1920年4月に講道館へ入門した。
宮沢 トシ(みやざわ トシ、旧字体: 宮澤 トシ、1898年… 宮沢 トシ(みやざわ トシ、旧字体: 宮澤 トシ、1898年〈明治31年〉11月5日 - 1922年〈大正11年〉11月27日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の女性。詩人・童話作家の宮沢賢治の妹。 宮沢賢治の妹で、彼の理解者の一人であった。日本女子大学校(当時は旧制女子専門学校の扱い)を首席で卒業後、岩手県立花巻高等女学校(現・岩手県立花巻南高等学校)で教員を務めていたが、結核により満24歳で死去した。 彼女の臨終の模様は『永訣の朝』等の賢治の詩に描写され、またその死去は賢治の創作活動に大きな影響を与えたとされる。 なお、名前の「トシ」は戸籍名であるが、賢治の創作や書簡においては「とし子」「敏」といった表記も用いられている。
片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11… 片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月11日)は、日本の詩人、文学研究者、ドイツ文学者、フランス文学者、翻訳家。 ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケ、ハイネ、ゲーテらの翻訳も多く、『著作集』全10巻がある。 1898年11月5日、高知県医師会会長・片山徳治の長男として高知市帯屋町に生まれる。母の名は「歌」で、姉・佐栄との4人家族であった。1905年、高知市立第三尋常小学校へ入学、1911年、高知県立第一中学校(現在の追手前高校)に進んだ。多感で、詩に牽かれ、短歌を投稿するなどした。 1916年、岡山市の第六高等学校第3部(医科)に入学し、西欧の哲学、文学を耽読した。
平野 力三(ひらの りきぞう、1898年11月5日 - 19… 平野 力三(ひらの りきぞう、1898年11月5日 - 1981年12月17日)は、日本の農民運動家、政治家。位階は従三位。 国家社会主義者。のち反資本・反ファッショ・反共農民運動の指導者となる。数々の政党結成に関わり「政界の策士」と呼ばれ、戦後も衆議院議員として活動し、片山内閣の農林大臣を務めた。 兄に平野増吉、夫人の平野成子は日本社会党参議院議員。二女の平野義子は「呼び屋」と呼ばれた神彰の後妻となった。三女の平野照子は、民社党で活動した。自由民主党衆議院議員から岐阜県知事を務めた平野三郎は甥にあたる。 1898年(明治31年)11月5日岐阜県郡上郡大和村(現郡上市)に生まれる。1920年(大正9年)拓殖大学中国語科を経て、1923年(大正12年)早稲田大学政経科を卒業する。
季子女王(すえこじょおう、1898年〈明治31年〉11月2日… 季子女王(すえこじょおう、1898年〈明治31年〉11月2日 - 1914年〈大正3年〉7月17日)は、日本の皇族。閑院宮載仁親王の第3女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。腎臓病によって、15歳で夭折した。
牛尾 健治(うしお けんじ、1898年〈明治31年〉11月 … 牛尾 健治(うしお けんじ、1898年〈明治31年〉11月 - 1958年〈昭和33年〉8月20日)は、日本の実業家。牛尾合資会社代表社員。中国合同電気、山陽商事各社長。神戸銀行副頭取。姫路商工会議所会頭。神戸経済同友会元代表幹事。兵庫県輸出工業協会長。 兵庫県姫路市出身。飾磨郡豊沢村・梅吉の長男。1920年、大阪高等商業学校卒業。1923年、東京商科大学(現一橋大学)卒業。東京で大学講師をしていたが、1934年に父・梅吉が他界し、帰郷して事業を引き継ぐことになった。1934年、家督を相続した。株式公債売買業を営む。中国合同電気に入社。 広沢製作所会長、大日本産業報国会理事、神戸銀行副頭取、鳥取電燈副社長、日本電球、但馬瓦斯、山陽瓦斯、山陽製紐、北海電気興業、日本商品、日本編物、ナニワ電球工業、牛尾興業、山陽商事各社長などを務め、神戸経済同友会の立上げも行った。
森山 武彦(もりやま たけひこ、1898年(明治31年)10… 森山 武彦(もりやま たけひこ、1898年(明治31年)10月31日‐ 1964年(昭和39年)4月3日) は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。1920年(大正9年)法政大学専門部法律科を卒業。 東京市、都城市に森山航空精工所を設置して経営を行った。その後、木材業を営んだ。 1936(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から中立で立候補したが、最下位で落選。戦後、1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から日本社会党公認で立候補したが落選。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙で宮崎県第2区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月3… 臼井 茂樹(うすい しげき、1898年(明治31年)10月30日 - 1941年(昭和16年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。薩摩郡高江村大字久見崎(現在の薩摩川内市久見崎町)に臼井恕助の息子として生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1928年(昭和3年)3月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、ポーランド・ソビエト連邦駐在、ポーランド兼ルーマニア公使館付武官補佐官、参謀本部員、参謀本部付などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に昇進。
小牧 実繁(こまき さねしげ、1898年〈明治31年〉10月… 小牧 実繁(こまき さねしげ、1898年〈明治31年〉10月28日 - 1990年〈平成2年〉2月18日)は、日本の地理学者。京都帝国大学教授、滋賀大学学長等を歴任。滋賀県出身者として最初の文学博士。
大滝 亀代司(大瀧、おおたき きよし、1898年(明治31年… 大滝 亀代司(大瀧、おおたき きよし、1898年(明治31年)10月25日 - 1977年(昭和52年)8月31日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)、白鷹町名誉町民。 山形県西置賜郡蚕桑村大字山口(現白鷹町大字山口)で大滝利久馬の二男として生まれる。苦学して日本大学法学部を卒業。1923年(大正12年)弁護士試験に合格した。 東京で弁護士を開業。全日本弁護士会理事、第一東京弁護士会常議員となる。また、大興社取締役社長を務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に山形県全県区から日本自由党公認で出馬して次点で落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山形県第1区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
川口 寿(かわぐち ひさし、1898年(明治31年)10月2… 川口 寿(かわぐち ひさし、1898年(明治31年)10月25日 - 1984年(昭和59年)6月28日)は、日本の政治家。 富山県出身。1923年(大正12年)、明治大学卒業。大東文化協会常任幹事、東京市議、同参事会員、東京府議、明治大学評議員、日本共栄社長、外務省嘱託などを歴任し、1942年(昭和17年)に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)において、東京2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、立候補し、衆議院議員に当選した(所属は翼賛政治会→大日本政治会→日本進歩党)。戦後、推薦議員のため公職追放となった。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岡村 文子(おかむら ふみこ、1898年10月24日 - 1… 岡村 文子(おかむら ふみこ、1898年10月24日 - 1976年8月15日)は長野県出身の女優。 長野市立鍋屋田尋常高等小学校(現在の長野市立鍋屋田小学校)、長野県立長野高等女学校(現在の長野県長野西高等学校)卒業後上京。芸術愛好家の伯爵家に行儀見習いに行ったのが縁で女優の道を歩み始めた。 1917年に浅草オペラに入り、『天国と地獄』で初舞台を踏む。その後原信子歌劇団から新星歌舞劇団を経て、1921年松竹蒲田撮影所に入社し、『悪魔の崖』で映画デビューした。再び浅草オペラに戻り、1924年に東亜キネマ甲陽撮影所に入る。 1925年、松竹蒲田撮影所に戻り、『若き女の死』で助演したほか、『裸騒動記』などの喜劇映画で活躍した。
信濃 成繁(しなの なりしげ、1898年〈明治31年〉10月… 信濃 成繁(しなの なりしげ、1898年〈明治31年〉10月20日 - 1948年〈昭和23年〉5月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 富山県出身。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。陸軍砲工学校第29期を優等で卒業。東京帝国大学航空学科卒業。 1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進む。同年10月、陸軍航空技術研究所調査課長を経て、陸軍航空審査部員兼第2陸軍航空技術研究所員となる。1945年(昭和20年)4月、第2陸軍航空技術研究所長に就任したのち、同年6月、陸軍少将に進級した。
鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)… 鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)10月19日 - 1983年(昭和58年)8月3日)は、日本の染織家、沖縄文化研究者。 美術教師として赴任した沖縄県で、琉球王国時代からの沖縄独特の芸術や文化に心を奪われその研究を開始。染織家としては沖縄伝統の染織技法である紅型の技術を継承し、重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定された一方、第二次世界大戦前に沖縄の文化財を調査し、その時に遺した数々の写真やメモは、後に1945年(昭和20年)の沖縄戦で壊滅に瀕した沖縄文化の保存や復旧に大きく役立った。戦後の首里城再建も鎌倉の資料に負うところが大きく、彼の評伝を著した与那原恵は、鎌倉を「琉球文化全般の最高のフィールドワーカー」と評している。
木下 義謙(きのした よしのり、1898年10月19日 - … 木下 義謙(きのした よしのり、1898年10月19日 - 1996年7月16日)は、日本の洋画家。一水会創立会員、女子美術大学名誉教授。 東京市四谷区生まれ。同じく画家の木下孝則は実兄。父の友三郎は明治大学総長。母方の叔父の児島善久雄は西洋美術史家。 1915年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科に入学、1918年に卒業、1919年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した1921年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、1926年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。 また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、1923年の第1回展から1925年の第4回展まで出品した。
玉蟲 文一(たまむし ぶんいち、1898年10月18日 - … 玉蟲 文一(たまむし ぶんいち、1898年10月18日 - 1982年7月26日)は、日本の物理化学者、東京大学名誉教授。
門脇 勝太郎(かどわき かつたろう、1898年(明治31年)… 門脇 勝太郎(かどわき かつたろう、1898年(明治31年)10月18日 - 1969年(昭和44年)11月19日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 鳥取県東伯郡倉吉町越中町(現倉吉市越中町)で資産家、酒造業の門脇猪蔵の長男として生まれる。早稲田大学政治学科卒。 「菊水」の銘柄で酒造業を営む。その他、大東京小売市場組合主事、東京婦人子供服小売商業組合理事長、東京都繊維製品統制理事、全国繊維製品小売商連合会理事長、全国衣料品小売商協会理事長、全装商事社長、日本洋装協会会長、中央技能検定協会理事などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙に鳥取県全県区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
鈴木 鎮一(すずき しんいち、1898年10月17日 - 1… 鈴木 鎮一(すずき しんいち、1898年10月17日 - 1998年1月26日)はドイツで学んだとされる日本のヴァイオリニスト。スズキ・メソードの創始者であり、世界的には音楽教育家および教育学の理論家として著名で、その教育理論は、日本よりも欧米で、とりわけアメリカ合衆国で高く評価されている。
三木 鉄夫(みき てつお、1898年10月16日 - 197… 三木 鉄夫(みき てつお、1898年10月16日 - 1979年4月18日)は、日本の機械工学者・航空工学者。大阪府立大学・大阪工業大学名誉教授。工学博士(大阪大学)。元大阪帝国大学工学部航空学科創設者・教授。関西の航空工学研究の第一人者の一人。弟は衆議院議員を務めた三木喜夫。 専門は、航空工学・飛行機設計、流体力学・機械構造力学。 兵庫県姫路市出身。1923年東北帝国大学卒業後、愛知時計電機航空機部門(のちの愛知航空機)で海軍関係の飛行機の設計製作に携わる。同社とドイツのハインケル社の提携により、ドイツ留学を経験。日本語による航空工学の著書第1号として、1932年「航空工学」(太陽堂)を出版(のちの第2号は川西航空機・小野正三より出版)。
細川 政之助(ほそかわ まさのすけ、1898年(明治31年)… 細川 政之助(ほそかわ まさのすけ、1898年(明治31年)10月15日 - 1990年(平成2年)4月18日)は、日本の商工官僚、実業家、弁理士。細川特許事務所長。 富山県人・細川次郎左衛門の二男。1924年、東京帝国大学法学部政治科を卒業。商工省に入る。特許局事務官、鉱山監督局書記官等を経て、大阪鉱山監督局長、技術院審判部長等を歴任。 退官後日本金属常務専務を経て1947年、日本歯科機材社長に就任。趣味はゴルフ、旅行。宗教は仏教。東京在籍で、住所は東京大田区田園調布、同区北千束。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田浦 直蔵(田浦 直藏、たうら なおぞう、1898年(明治3… 田浦 直蔵(田浦 直藏、たうら なおぞう、1898年(明治31年)10月15日 - 1965年(昭和40年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、長崎県議会議長。 長崎県北松浦郡平村(平町、宇久町を経て現佐世保市宇久町)で、田浦甚吉の二男として生まれる。1916年(大正5年)長崎県水産講習所(現長崎県立長崎鶴洋高等学校)を卒業した。 1916年、長崎県農林技手となる。1924年(大正13年)長崎県漁業組合連合会が設立され同会主事に就任。1932年(昭和7年)長崎水産商事(株)を設立して取締役社長に就任。上海支店を設け、その他、長崎魚市場取締役、グランドサービス取締役なども務めた。
岩内 とみゑ(いわうち とみえ、1898年(明治31年)10… 岩内 とみゑ(いわうち とみえ、1898年(明治31年)10月15日 - 1986年(昭和61年)3月26日)は、日本の社会運動家である。旧姓は和田。夫は同じく社会活動家の岩内善作。 山梨県東山梨郡加納岩村(現在の山梨市)に生まれ、幼年期に小学校を中退し製糸工場の女工として活動する。1917年(大正6年)に単身上京し、亀戸にあったセルロイド工場の女工として活動した。同工場に勤務中にキリスト教に受洗し、1921年(大正10年)には日暮里で同教の社会事業団体であった愛隣団の診療所の看護婦として活動を始める。 1927年(昭和2年)には日本労働党傘下の全国婦人同盟の結成に携わり、その幹事も務めた。また後に社会大衆婦人同盟の幹事も務め、中間派の無産婦人運動の指導に尽力した。
三田 一也(みた かずや、1898年10月13日(明治31年… 三田 一也(みた かずや、1898年10月13日(明治31年)- 1998年6月3日(平成10年))は日本の元船員、元海軍軍人(予備将校)、元海上保安官。最終階級は、海軍では海軍中佐。海上保安庁では警備救難監(海上保安官の最高位)、海上保安庁次長。日本海事検定協会会長、日本海洋会副会長を歴任。又、戦後、海上自衛隊復活を討議した「Y委員会」の主要メンバー。一貫して再軍備には反対の立場を取った。埼玉県羽生市出身。埼玉県立不動岡中学校(後の埼玉県立不動岡高等学校卒業)。 1922年(大正11年)に東京高等商船学校航海科74期生(後の東京商船大学、現東京海洋大学)を首席で卒業し、御前講義した卒業論文は、東京海洋大学の越中島会館の中に保存されている。
伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年〈明治31年〉10月… 伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年〈明治31年〉10月13日 - 1981年〈昭和56年〉7月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。 1898年(明治31年)10月13日、愛媛県宇和島市に中学校教師の父・朔七郎と母・寿栄の息子として生まれる。 1911年(明治44年)、旧制松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。この時に雑誌『白樺』の影響を受けて、同窓の伊丹万作、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を発行。文才のある伊藤が文章を書き、画才のあった伊丹が挿絵を描き、中村、重松らと文筆を競った。中学卒業後、父逝去のため進学を諦め、呉海軍工廠に製図工として勤務する。
山之内 二郎(やまのうち じろう、1898年(明治31年)1… 山之内 二郎(やまのうち じろう、1898年(明治31年)10月13日 - 1980年(昭和55年)6月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1898年(明治31年)に鹿児島県で生まれた。陸軍士官学校第32期、陸軍大学校第40期、東京帝国大学法学部卒業。1939年(昭和14年)1月16日に陸軍省軍務局課員に就任し、8月1日に朝鮮軍参謀に転じた。1941年(昭和16年)3月1日に陸軍大佐に進級し、10月15日に第6師団参謀長(第11軍)に就任し、日中戦争に出動。1943年(昭和18年)6月11日に東部軍司令部附となり、11月10日に軍需省軍需官に就任した。 1945年(昭和20年)3月1日に陸軍少将に進級し、免陸軍省整備局御用掛となり、中部軍管区参謀副長兼第15方面軍参謀副長に就任した。
寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1… 寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1991年11月5日)は、日本の医学者、日本薬理学会会長。東北大学医学部名誉教授。朝鮮総督府京城医学専門学校教授。 宮城県古川市(現・大崎市古川)に生まれる。宮城県古川高等学校卒業。東北大学医学部卒業。
山住 克己(やまずみ かつみ 、1898年10月11日 - … 山住 克己(やまずみ かつみ 、1898年10月11日 - 1986年2月19日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。
渋沢 信一(しぶさわ しんいち、1898年10月11日 - … 渋沢 信一(しぶさわ しんいち、1898年10月11日 - 1983年7月15日)は、日本の外交官。外務事務次官。
田中 豊(たなか ゆたか、1898年10月11日 - 196… 田中 豊(たなか ゆたか、1898年10月11日 - 1969年2月5日)は、愛媛県出身の大蔵官僚。大蔵次官、宝酒造社長、日本勧業銀行副総裁。 第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部に入学。東京帝大在学時はア式蹴球部に所属した。 1923年に大学を卒業して大蔵省に入省。銀行局に配属。主税局国税課長、理財局長を経て、太平洋戦争中の1944年に主税局長に就任。1945年2月24日に大蔵次官に就任したが、津島壽一の大蔵大臣辞任に伴って同年4月に退任した。 戦後の1945年9月より日本勧業銀行の副総裁を務めたが、公職追放により副総裁を辞任し、弁護士を開業した。1951年、宝酒造社長に就任し、1965年に相談役となった。