スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
星 新一(ほし しんいち、本名:星 親一、1926年〈大正1… 星 新一(ほし しんいち、本名:星 親一、1926年〈大正15年〉9月6日 - 1997年〈平成9年〉12月30日)は、日本の小説家、SF作家。 父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一。森鷗外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は父・一のモットー「親切第一」の略である(弟の名前の協一は「協力一致」の略)。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二と並んで稀有な東証一部上場企業(当時)の社長経験者である。 膨大な作品量でありながら、どの作品も質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート(掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。
岸田 文武(きしだ ふみたけ、1926年〈大正15年〉8月1… 岸田 文武(きしだ ふみたけ、1926年〈大正15年〉8月19日 - 1992年〈平成4年〉8月4日)は、日本の通産官僚(中小企業庁長官)、政治家。元自由民主党所属の衆議院議員(5期)。位階は正四位勲二等、勲章は旭日重光章。 父は元自由党衆議院議員の岸田正記、弟は大蔵省証券局長・広島銀行会長・相談役を務めた岸田俊輔。妻は元日東製粉社長井口良二の次女。長男は衆議院議員で第27代自民党総裁、第100・101代内閣総理大臣の岸田文雄。派閥は宏池会に所属した。 広島県広島市南区段原町出身。1945年、旧制東京高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)卒業後、東京帝国大学へ進学。しかし、戦争末期のころであり、入学早々から勉強どころではなく、連日の勤労動員に続いて、終戦間近の同年7月には、学徒動員で旭川の師団に入隊した。
佐川 吉男 (さがわ よしお、1926年8月17日 - 20… 佐川 吉男 (さがわ よしお、1926年8月17日 - 2000年5月10日) は、日本の音楽評論家で、特にオペラおよび、チェコ、スロヴァキアの音楽に造詣が深かった。没後2003年に「佐川吉男音楽賞」が創設されている。 1926年青森県弘前市に生れる。旧制東京高等学校理科乙類卒業。早稲田大学演劇科に進み、在学中より音楽評論を始める。レコード雑誌『ディスク』編集長を務め、後に『音楽の友』『レコード芸術』『ステレオ』『LP手帖』などの音楽雑誌の新譜レコード評を担当。同時に『朝日新聞』のビデオストリートと新譜試聴室も長年担当した。さらにオペラの分野でも音楽雑誌や演奏会プログラムに解説を寄稿し、活発な評論活動を行った。
三角 哲生(みすみ てつお、1926年(大正15年)7月19… 三角 哲生(みすみ てつお、1926年(大正15年)7月19日 - 2016年(平成28年)4月15日)は、日本の官僚。元文部事務次官。 旧制東京高等学校、東京大学法学部卒業後、文部省に入省した。文部省大臣官房会計課長、大学局審議官を経て、1977年(昭和52年)管理局長、1980年(昭和55年)初等中等教育局長に就任した。1982年(昭和57年)、文部事務次官に就任した。 1983年(昭和58年)に退官後は、1983年(昭和58年)日本育英会理事長、1990年(平成2年)国立西洋美術館長、1992年(平成4年)ユネスコアジア文化センター理事長、2003年(平成15年)新国立劇場運営財団理事長を歴任した。
渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年〈大正15年〉5月3… 渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年〈大正15年〉5月30日 - 2024年〈令和6年〉12月19日)は、日本の新聞記者・実業家。株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。位階は正三位、勲等は旭日大綬章。「ナベツネ」の通称で知られ、読売関係者の間では「ワタツネ」と呼ばれていた。株式会社読売新聞社社長、読売ジャイアンツの球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長を歴任した。日本のプロ野球界に関連する渡邉の伝説は数知れず、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ、マスメディアにおいて「野球界の独裁者」または単に「独裁者」と呼ばれていることについては渡邉自身が認めていた。
氏家 齊一郎(うじいえ せいいちろう、1926年(大正15年… 氏家 齊一郎(うじいえ せいいちろう、1926年(大正15年)5月17日 - 2011年(平成23年)3月28日)は、日本のジャーナリスト、実業家。位階は正三位。 日本テレビ放送網代表取締役会長、日本民間放送連盟会長、読売新聞グループ本社取締役相談役を歴任。位階は正三位。読売新聞グループの総帥である渡邉恒雄の盟友として、同グループ内、特に日本テレビにおいて強大な発言力を有していた。趣味はパソコン。 また、東京都歴史文化財団理事長、東京都現代美術館館長も務めた。 古河合名理事を務めた氏家貞一郎の長男として東京に生まれる。 旧制東京高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)で同級生の網野善彦、1年先輩の渡邉恒雄と知り合う。
仲田 紀夫(なかだ のりお、1925年8月9日 - )は、日… 仲田 紀夫(なかだ のりお、1925年8月9日 - )は、日本の数学教育者、元埼玉大学教授。
藪 重夫(やぶ しげお、1925年6月30日 - 2008年… 藪 重夫(やぶ しげお、1925年6月30日 - 2008年2月17日)は、日本の法学者・弁護士。北海道大学名誉教授、元学校法人北海学園理事。専門は民法。京都市生まれ。 主に、民法の財産法全般であるが、家族法の一分野である親族法も研究対象としており、実務家からの視点の論稿を幾つも出している。 北海学園大学法学部教授退任後は、後進育成のために、北海学園大学付属図書館に所有図書を寄贈している。
川田 侃(かわた ただし、1925年6月22日 - 2008… 川田 侃(かわた ただし、1925年6月22日 - 2008年2月14日)は、日本の経済学者(国際経済学・国際関係論)。位階は従四位。勲等は勲二等。学位は経済学博士(東京大学)。東京大学名誉教授、上智大学名誉教授、日本学士院会員。 東京大学社会科学研究所研究員、東京大学教養学部助教授、東京大学経済学部教授、上智大学外国語学部教授、フェリス女学院大学教授などを歴任した。 1925年6月22日、栃木県栃木市生まれ。父の川田準一郎は東京帝国大学法科大学卒の弁護士。旧制東京高校、東京大学経済学部卒業。高校教諭を経て、国際経済学や国際関係論を専門とする経済学者となった。東京大学社会科学研究所研究員、東京大学教養学部助手・助教授、東京大学経済学部助教授・教授、上智大学外国語学部教授、フェリス女学院大学教授を歴任。
濃野滋(こいの しげる、1925年1月26日 - 没年不明)… 濃野滋(こいの しげる、1925年1月26日 - 没年不明)は、日本の通産官僚。通産事務次官、川崎製鉄副社長、同社副会長などを務めた。 東京府出身。旧制東京高等学校から東京帝国大学法学部政治学科に入学。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年9月、海軍経理学校に入学し1945年に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1947年 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京帝大時代の仲間に大蔵省に入省する渥美謙二がいた。同年11月 商工省に入省。振り出しは総務局総務課(現在の大臣官房総務課)。 通商局輸出振興部輸出保険課長、通商局経済協力部資本協力課長、企業局産業立地部工業用水課長、在中国日本大使館一等書記官などを務める。
鈴木 千秋(すずき ちあき、1925年〈大正14年〉生 - … 鈴木 千秋(すずき ちあき、1925年〈大正14年〉生 - 2006年〈平成18年〉10月19日)は、元ラジオ東京(現:TBS)アナウンサー、ナレーター、ラジオパーソナリティ。東京府(1943年7月以後の東京都)文京区出身。 (出典:本人による「東京放送社史」への加筆メモに基づく) すべてナレーション。 1980年代は東京放送(現・TBSテレビ)で放送する番組のCMナレーションを担当したこともあった。主な番組は以下のとおり。 上記のほか、ラジオCM・全日空機内BGM用番組・学校向け教育映画などでもナレーションを務めている。
小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 20… 小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日)は、日本の実業家、ヤマト福祉財団元理事長。ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。東京都出身。 小倉康臣の次男として代々木に生まれた(長男は早世)。1937年幡代小学校卒業。同年、当時府立一中を上回る最難関の官立東京高等学校尋常科(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。1942年秋、東京高等学校高等科卒業。1943年秋、東京帝国大学経済学部入学。1947年、東京大学経済学部(旧制)卒業。1948年9月1日、父・小倉康臣が経営する大和運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社。 入社から半年後の1949年2月2日に肺結核を患い4年間の入院生活を送るが、大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していた為、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手できた事もあり、当時としては奇跡的に回復し、1953年7月9日に退院し復職した。
松浦 功(まつうら いさお、1923年〈大正12年〉4月24… 松浦 功(まつうら いさお、1923年〈大正12年〉4月24日 - 2002年〈平成14年〉12月28日)は、日本の内務及び自治官僚、政治家。法務大臣(第63代)、参議院議員(3期)。 東京都出身。旧制東京高等学校卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に入学。東京帝大在学中の1946年に高等試験行政科に合格。1947年、東京帝大を卒業し、旧内務省に入省(地方局配属)。自治省大臣官房総務課長、北九州市助役、消防庁長官、自治事務次官などを歴任した後、1980年の参議院議員選挙に全国区から自民党公認で出馬し初当選。1995年、自民党地方自治関係団体委員長。1996年、第2次橋本内閣の法務大臣として初入閣。
吉田 満(よしだ みつる、1923年〈大正12年〉1月6日 … 吉田 満(よしだ みつる、1923年〈大正12年〉1月6日 - 1979年〈昭和54年〉9月17日)は、日本の作家。日本銀行職員。キリスト者。 大日本帝国海軍における戦時体験をもとにした戦記を残すとともに、日本銀行職員の要職を歴任する傍ら、「戦中派」として独自の著作活動や言論活動を続けた。代表作の『戦艦大和ノ最期』は、映画化、長時間テレビドラマ化もされ、海軍での上官であった臼淵磐も吉田の著作を通しても広く知られるようになった。 1923年(大正12年)1月6日、父・吉田茂と母・ツナの長男として、東京市赤坂区青山北町(現・東京都港区北青山)で誕生。上には姉の瑠璃子がいた。同年の9月の関東大震災のため、その後一家は渋谷町(現・渋谷区)に移った。
住吉 弘人(すみよし ひろと、1922年(大正11年)12月… 住吉 弘人(すみよし ひろと、1922年(大正11年)12月7日 - 2008年(平成20年)1月9日)は、日本の経営者。コスモ石油社長を務めた。三井物産元社員で田中代表取締役社長の住吉望は三男。 東京都出身。神戸銀行元会長や石原産業社長を歴任した住吉四郎の長男として生まれる。 旧制東京高等学校卒業。1944年(昭和19年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1971年(昭和46年)1月に取締役、1973年(昭和48年)12月に常務取締役に就任。1974年(昭和49年)に大協石油に転じ、常務、専務を経て、1978年(昭和53年)8月に副社長に就任。 1986年(昭和61年)4月に大協石油と丸善石油の合併しコスモ石油設立に伴い、同社副社長に就任し、1987年(昭和62年)6月には社長に昇格。
土田 國保(つちだ くにやす、1922年〈大正11年〉4月1… 土田 國保(つちだ くにやす、1922年〈大正11年〉4月1日 - 1999年〈平成11年〉7月4日)は、日本の警察官僚、警視総監(第70代)、防衛大学校長(第4代)。愛称は「ミスター警視庁」。剣道7段(居合)。位階は正四位。 父・土田誠一、母・敬子の長男として東京府生まれ。小学校6年間は学習院初等科で学び、5年生より生涯の趣味となる剣道を始める。旧制東京高校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。同年9月に短期現役主計科士官(第10期)に採用されて海軍経理学校で短期間の教育を受け、1944年(昭和19年)3月に同校を卒業して海軍主計中尉に任官した。戦艦武蔵にも乗り組み、主計大尉で終戦を迎えた。
安倍 北夫(あべ きたお、1922年3月3日 - 2013年… 安倍 北夫(あべ きたお、1922年3月3日 - 2013年8月6日)は、日本の社会心理学者。東京外国語大学名誉教授。 青森県生まれ。旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学文学部心理学科を卒業。東京外国語大学助教授、1964年教授。1985年定年退官、名誉教授。早稲田大学文学部教授、聖学院大学政治経済学部政治経済学科教授を経て1994年から1999年まで聖学院大学学長。地震・火事などに当たっての災害心理学を提唱した。2013年8月6日死去、91歳没。 1998年4月 勲三等旭日中綬章を受章
赤羽 桂(あかはね かつら、1922年1月22日 - 197… 赤羽 桂(あかはね かつら、1922年1月22日 - 1972年11月3日)は、日本の大蔵官僚。理財局次長(理財担当)、関税局長などを歴任。 長野県出身。東京高校を経て東京帝国大学法学部法律学科卒業。1944年9月 大蔵省入省。総務局文書課属。 1945年5月 大臣官房文書課。1947年5月8日 水戸税務署長。1950年11月15日に主計局法規課長補佐となって以降は主に主計局でキャリアを歩んでいく。この間、経済企画庁や防衛庁への出向も経験する。1966年7月22日 主計局総務課長。1967年8月4日 経済企画庁調整局参事官。1969年8月 大蔵省大臣官房審議官(大臣官房担当)。1970年6月25日 理財局次長(理財担当)。
尾形 敏彦(おがた としひこ、1921年10月27日 - )… 尾形 敏彦(おがた としひこ、1921年10月27日 - )は、日本のアメリカ文学者、京都大学名誉教授。 東京出身。(旧制)東京高等学校卒、1942年京都帝国大学文学部英文科入学、徴兵で従軍し中国大陸に転戦、復員ののち僧籍をもち1947年卒業、大学院在籍、1948年京大附属医学専門部教授、1951年大阪女子大学助教授、1965年京大教養部助教授、教授、1982年名誉教授、奈良女子大学教授、1984年佛教大学教授、92年退職。弟の尾形克彦 (1924 - ) は工学者、米国ミネソタ大学教授。長男・尾形充彦(あつひこ、1954 - )は宮内庁技官正倉院勤務。
武藤 輝彦(むとう てるひこ、1921年〈大正10年〉4月 … 武藤 輝彦(むとう てるひこ、1921年〈大正10年〉4月 - 2002年〈平成14年〉10月)は、日本の打ち上げ花火師、日本煙火協会専務理事、日本煙火芸術協会事務局長を務めた。サークル花火万華鏡を主宰、打上花火に関連した著書が多い。日本初の女性弁護士・判事・裁判所長を歴任した三淵嘉子の次弟。
平原 毅(ひらはら つよし、1920年10月25日 - 19… 平原 毅(ひらはら つよし、1920年10月25日 - 1999年4月24日)は、外交官。 中国広東生まれ。鹿児島県鹿児島市出身。外交官藤田栄介の二男。旧制東京高校を経て東京帝国大学入学。1941年高等文官試験外交科合格。1943年東京帝国大学法学部卒業後、ハルピンでロシア語研修中に学徒動員で出征。戦後の1946年外務省に戻る。在パリユネスコ本部アジア局長、ミラノ総領事、1968年臨時代理でベルギー公使。1969年外務省経済局次長。1970年外務省経済局長時には日米繊維交渉にあたる。1972年モロッコ大使、75年OECD代表部大使、81年英国大使。 1982年フランス政府からレジオンドヌール勲章コマンドール章受章。
甲田 和衛(こうだ かずえ、1920年1月16日 - 199… 甲田 和衛(こうだ かずえ、1920年1月16日 - 1993年9月23日)は、日本の人文学者。大阪大学名誉教授。放送大学元学長。 大阪府出身。旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学。社会学科で社会学を専攻し、1942年9月に卒業。1944年、蒙古聯合自治政府領張家口で西北研究所が設立されると所員となった。 1951年6月、大阪大学文学部助教授に就いた。1966年4月、大阪大学文学部教授に昇格。1972年5月からは大阪大学人間科学部教授。1976年5月からは大阪大学人間科学部長もつとめた。1983年、大阪大学を定年退職し、名誉教授となった。同1983年4月からは放送大学教授として教鞭をとった。
舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - … 舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - 1998年(平成10年)4月9日)は、日本の実業家。三菱自動車工業社長。 大日本炭鉱の専務を務めた舘香緑・すえ夫妻の四男として、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区平河町)に生まれる。舘家は、旧伊勢国桑名藩士の家柄で、陸地測量師の館潔彦は祖父。 旧制東京高校、東京帝国大学経済学部を卒業後、1942年に三菱重工業に入社。三菱商事への出向時代には造船の営業を担当。 1970年6月、三菱重工と米・クライスラーとの合弁で発足する三菱自動車工業に移籍。1977年、取締役に選任され、常務を歴任後、1983年に社長となる。トップ時代には1988年に三菱自動車を東証1部に上場させ、「三菱自動車中興の祖」と呼ばれる。
沢田 和夫(澤田和夫、さわだ かずお、1919年12月9日 … 沢田 和夫(澤田和夫、さわだ かずお、1919年12月9日 - 2024年4月11日)は、カトリック東京教区司祭。 東京高等学校、東京帝国大学法学部を卒業。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。海軍大学校付となり、海軍省大臣官房に転じた。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。海軍将校として対米通訳の任にあたる。 ローマ・ウルバノ大学(神学大学)を卒業し、カトリック教会司祭叙階。神学・哲学博士。上智大学・聖心女子大学専任講師を務めた。川口、清瀬、関口、浅草橋、各教会司祭を務めた。
舟橋 和郎(ふなはし かずお、1919年7月2日 - 200… 舟橋 和郎(ふなはし かずお、1919年7月2日 - 2006年1月15日)は、日本の脚本家。兄は小説家の舟橋聖一。 東京府出身。東京帝国大学教授の四男として生まれる。母方の祖父に古河財閥幹部の近藤陸三郎がおり、裕福な家庭で育つ。1939年、東京高等学校在学中、治安維持法違反で検挙される。1943年、明治大学専門部文科(文芸科)を卒業。菊池寛の秘書を経て、1944年、大映企画部に入社、同年応召。翌年復員し、1946年、『彼と彼女は行く』を発表して脚本家に転じ、のちフリーとなる。1950年に映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の脚本でシナリオ賞受賞。その他代表作に『雁の寺』、『兵隊やくざ』シリーズ、『与太郎戦記』シリーズなど。
吉國 二郎(よしくに じろう、1919年6月11日 - 19… 吉國 二郎(よしくに じろう、1919年6月11日 - 1997年9月5日)は、日本の大蔵官僚、実業家。位階は従三位。国税庁長官(第11代)、大蔵事務次官、横浜銀行頭取を務めた。 神奈川県出身。旧制東京高等学校を経て1941年11月、東京帝国大学法学部法律学科卒業後、大蔵省に入省(預金部兼大臣官房文書課)。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年6月、海軍省調査課勤務となる。同年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年9月に予備役に編入された。 1945年10月に下京税務署長。主税局税制第二課長、理財局証券第二課長、理財局証券第一課長、主税局総務課長、主税局総務課長兼主税局国際租税課長、主税局総務課長、大臣官房文書課長、大臣官房財務調査官(主税局担当)、東京国税局長などを経て、1967年8月に証券局長、同年11月に主税局長、1969年より国税庁長官に就任。
大村 襄治(おおむら じょうじ、1919年〈大正8年〉3月3… 大村 襄治(おおむら じょうじ、1919年〈大正8年〉3月30日 - 1997年〈平成9年〉12月15日)は、日本の政治家、官僚。衆議院議員(8期、自由民主党)、防衛庁長官(第39代)。父も防衛庁長官を務めた大村清一。 東京府出身。旧制東京高等学校卒業。1940年10月に高等試験行政科合格。1941年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、内務省に入省。土木局属。短期現役海軍主計科士官(6期)を志願し、1941年4月、海軍経理学校に補修学生として入校し海軍主計中尉に任官。同年8月、経理学校を卒業。古鷹に配属。同年11月、南西方面艦隊所属・第3設営班主計長に転じ、ダバオ、ホロ、メナド、アンボン方面で飛行場等の設営に従事。
秋山 光和(あきやま てるかず、1918年5月17日 - 2… 秋山 光和(あきやま てるかず、1918年5月17日 - 2009年3月10日)は、日本の美術史学者。日本美術史専攻。東京大学名誉教授、東京文化財研究所名誉研究員。 1918年、京都市下京区(現、東山区)で父・秋山光夫と母・花枝の長男として生まれた。父の秋山光夫が宮内省図書寮に職を得たことから家族とともに東京に移り、幼少期を過ごした。やがて私立暁星小学校に入学。母方の祖父は元ベルギー公使で、幼いころから祖父母にフランス語を教わっていた。 1931年、旧制東京高等学校尋常科に進み、同高等科文科丙類(仏語専修)を卒業。一時は外交官を志した。1938年4月、東京帝国大学文学部美術史学科に入学し、1941年に卒業。
松井 武(まつい たけし、男性、1918年5月10日 - 2… 松井 武(まつい たけし、男性、1918年5月10日 - 2002年9月22日)は、日本の実業家、第2代松井証券社長。 松井房吉商店(現在の松井証券)創業の日(1918年5月10日)に創業者・松井房吉の長男として生まれる。旧制府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)、東京高等学校 (旧制)、東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業した。1949年、松井證券の代表取締役社長に就任した。第二次世界大戦で房吉がほとんどすべての財産を失っていたが、戦後約40年間堅実な経営を続け、資本的に完全に独立した証券会社として会社を存続させる。1987年に三菱銀行出身の弟の松井正俊に社長を譲り、会長に就任した。1990年以降、娘婿で日本郵船出身の松井道夫(当時常務取締役営業本部長)が社内改革を始めると、これに口を挟まず陰で改革を支えた。
鈴木 秀雄(すずき ひでお、1917年6月4日 - 2015… 鈴木 秀雄(すずき ひでお、1917年6月4日 - 2015年8月21日)は、日本の大蔵官僚。 父・鈴木商店(味の素の前身)第2代社長鈴木忠治と母マスの七男として神奈川県三浦郡葉山村に生まれる。 大蔵入省後まもなく短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、1940年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進して終戦を迎えた。戦後、B級戦犯容疑者として逮捕された。裁判では検事から死刑を求刑され、禁固15年の判決が下る。長い拘禁状態の後、サンフランシスコ講和条約の直前に仮釈放された。この間に公職追放も受けた。 釈放後は大蔵省に復職。
吉國 一郎(吉国 一郎、よしくに いちろう、1916年9月2… 吉國 一郎(吉国 一郎、よしくに いちろう、1916年9月2日 - 2011年9月2日)は、日本の商工・法制官僚。位階は正三位。 内閣法制局長官。第9代プロ野球コミッショナー。神奈川県出身。 旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学卒業。 1940年、商工省入省。同期に熊谷典文、国井真、小島慶三、加藤悌次(鉱山局長)等。 戦後は新制通商産業省から出向で内務省解体後の総理府において、主に法令審査畑を歩む。法制局長官総務室主幹、法制局第三部長、内閣法制局第一部長、内閣法制次長等を歴任。 1972年、第1次田中角榮内閣の下において内閣法制局長官に就任。その後、田中角栄・三木武夫の2人の首相に合計4年半仕えた。
瀬田 貞二(せた ていじ、1916年4月26日 - 1979… 瀬田 貞二(せた ていじ、1916年4月26日 - 1979年8月21日)は、日本の児童文学作家・翻訳家・児童文学研究者。 東京市本郷区(現:東京都文京区)湯島切通坂町にて父・瀬田金之助と母・余寧の息子として生まれる。1939年、俳人中村草田男に師事。本郷尋常小学校、開成中学校、東京高等学校を経て、1941年、東京帝国大学国文科卒業。同1941年、東京府立第三中学校(のちの、都立両国高校)の夜間部の教諭となる。 1942年、千葉県立国府台陸軍病院の衛生兵となる。1945年の終戦後、東京府立第三中学校に復職し、同年の秋、結婚。 戦後、東京府立第三中学校夜間部教師のかたわら、余寧金之助の筆名で児童文学作品を雑誌に寄稿。
河田 敬義(かわだ ゆきよし、1916年1月15日 - 19… 河田 敬義(かわだ ゆきよし、1916年1月15日 - 1993年10月28日)は、日本の数学者。東京大学名誉教授。第6代統計数理研究所所長。 1916年生まれ。 東京高等学校理科乙類で学び、1935年3月に卒業。同年4月、東京帝国大学理学部数学科に入学。1938年(昭和13年)3月に卒業し、4月より東京帝国大学大学院に進んだ。1938年4月、東京帝国大学理学部副手に採用される。1939年7月、同大学理学部助手に昇進。1939年7月、東京帝国大学大学院を退学した。1941年3月、 東京文理科大学講師に就いた。同年10月、助教授昇任。 太平洋戦争終結後の1945年12月、東京大学に学位論文を提出して理学博士の学位を取得。
加藤 匡夫(かとう ただお、1916年 - 1996年)は、… 加藤 匡夫(かとう ただお、1916年 - 1996年)は、日本の外交官。外務省経済局長、OECD代表部特命全権大使、駐イギリス特命全権大使、日英協会理事長などを歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 東京出身。東京高等学校文科甲類を経て、1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1948年連絡調整中央事務局連絡調整官。1950年通商産業省通商局市場第二課長。1955年外務省経済局第四課長。1956年外務省経済局第一課長。
堀田 正久(ほった まさひさ、1915年〈大正4年〉1月4日… 堀田 正久(ほった まさひさ、1915年〈大正4年〉1月4日 - 2003年〈平成15年〉1月13日)は、日本の政治家。3代目の千葉県佐倉市長で、4期16年にわたり務める。旧佐倉藩主堀田氏当主。実業家の小佐野賢治は義弟にあたる。位階は正五位。 堀田正恒伯爵の嫡男として東京府東京市本郷区弥生町に於いて生まれる。文京区立誠之小学校、東京府立第五中学校、東京高等学校を卒業。東京帝国大学法学部政治学科に入学し、1940年(昭和15年)卒業。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、1940年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。病のため長期療養となる。1942年(昭和17年)3月、主計大尉に進む。
宮原 将平(みやはら しょうへい、1914年(大正3年)12… 宮原 将平(みやはら しょうへい、1914年(大正3年)12月17日 - 1983年(昭和58年)1月31日)は、日本の物理学者。学位は、理学博士(北海道大学・1943年)(学位論文「半導体の強磁性の理論について」)。北海道大学名誉教授。日本物理学会会長。 東京出身。1933年旧制東京高等学校卒、1937年北海道帝国大学理学部物理学科卒業。東北帝国大学金属材料研究所で本多光太郎の下で研究。1943年「半導体の強磁性の理論について」で北海道大学より理学博士の学位を取得、名古屋帝国大学理学部助教授、1949年北海道大学教授、1978年定年退官、名誉教授、中央大学商学部教授。固体物性論が専門、半導体の強磁性を電子論の観点から研究した。
保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7… 保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、昭和期戦前の外交官、華族。幼名・正虎。 子爵・保科正昭の長男として生まれる。幼名は正虎であったが、1934年(昭和9年)12月6日に光正に改名した。 東京高等学校を経て、1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験外交科試験に合格し、外務省に入省して英国書記生に発令されて渡英した。 以後、外交官補、外交事務官を歴任。1942年(昭和17年)11月、大東亜省が設置され同事務官に転じた。支那事務局総務課在勤となり在支渉外事務を担当。大臣秘書官事務取扱、兼大臣秘書官も務めた。
松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)… 松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)6月13日 - 1994年(平成6年)12月23日)は、日本の実業家。日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)副社長、日本ケーブルテレビジョン社長を務めた。 松岡洋右の長男としてワシントンで生まれる。東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同盟通信に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業。第一南遣艦隊司令部付となりカムラン湾に赴任。第11根拠地隊付(サイゴン)、第2海軍航空工廠会計部勤務(木更津)を歴任。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む。同年、海軍省軍務局第4課(大本営報道部)に転じ終戦を迎えた。
家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 20… 家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は、日本の歴史学者。専門は思想史(日本思想)。学位は文学博士(東京大学)。東京教育大学名誉教授。甥に歴史学者の家永遵嗣がいる。 国民精神文化研究所の機関誌『国民精神文化』第九巻第二号によると、1月11日から3月20日までの課程修了者29人の1人。クラスの科目は、「皇国の道」(紀平正美)、「皇国哲理」(佐藤通次)、「国体と政治」(大串兎代夫)、「大東亜教育論」(伏見猛弥)など。なお、文部省発令事項の東京教育大学が作成した正規の年譜からは削除している。国民精神文化研究所の歴史部門責任者の東京高師の長老松本彦次郎に知られ、東京高師へ栄転。
國分 正胤(国分、こくぶ まさたね、1913年(大正2年)7… 國分 正胤(国分、こくぶ まさたね、1913年(大正2年)7月21日 - 2004年(平成16年)7月7日)は、昭和から平成時代の土木工学者。国分青崖の孫。 東京府に生まれる。旧制七年制高等学校の旧制東京高等学校を経て、1936年(昭和11年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、東京府に出仕する。1938年(昭和13年)から1945年(昭和20年)まで兵役に就く。1943年(昭和18年)東京帝国大学助教授を経て、1950年(昭和25年)吉田徳次郎の後任として東京大学教授となり、1974年(昭和49年)定年退官した。同年、武蔵工業大学教授に転じ1984年(昭和59年)まで務め、ついで足利工業大学顧問教授となった。
鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日… 鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日 - 2004年(平成16年)7月3日)は、日本の実業家。昭和電工社長・会長や企業メセナ協議会初代会長、経団連常任理事、東京商工会議所監事などを歴任。経済同友会設立や湘南国際村発起にも関わった。フンボルト大学ベルリン名誉博士。 神奈川県葉山村生まれ。東京に転居後、麹町の永田町小学校(現・麹町小学校)に入学するも、一家の転居に伴い、3年時に白金小学校に転入し卒業。卒業後は旧制東京高等学校に入学。1936年、東京大学法学部を卒業し野村合名会社(現・野村証券)へ入社するが、1939年に昭和電工創立に伴い同社へ入社した。軍需産業を推進した理由で戦後公職追放されたものの、1951年に同社に復帰し、1971年に社長、1981年には会長に就任。
松下 正治(まつした まさはる、英語:Masaharu Ma… 松下 正治(まつした まさはる、英語:Masaharu Matsushita, 1912年9月17日 - 2012年7月16日)は、日本の実業家。パナソニック(旧・松下電器産業)の代表取締役社長、代表取締役会長、取締役相談役名誉会長を歴任した。位階は従三位。松下幸之助の娘婿。東京府出身。2018年現在、同社の歴代社長8人の中で唯一、関西以外の出身者(他は全て最終学歴まで関西育ち)である。
糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日 - 19… 糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日 - 1999年2月21日)は、日本の工学者。専門は航空工学、宇宙工学。ペンシルロケットに始まるロケット開発や宇宙開発を先導し、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。 小惑星探査機「はやぶさ」が調査を行ったことでも知られる小惑星「イトカワ」は、糸川英夫にちなんで命名された。 1912年、東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)で生まれる。小学校では六本木、中学校からは東京青山に育った。教育者の家庭であり父は麻布の笄小学校の教師であった。英夫という名は、1912年の東大銀時計卒業者(首席)の鳩山秀夫にちなみ、秀才好きの父に命名された。越境入学で麻布の南山小学校に学び飛び級で卒業した。
小寺 明(こてら あきら、1911年11月2日 - 2001… 小寺 明(こてら あきら、1911年11月2日 - 2001年9月28日)は、日本の化学者。専門は、高分子化学。東京教育大学名誉教授。理学博士(東京帝国大学)。東京生。 この他に、東京教育大学理学部長、東京教育大学評議員、中央大学法学部通信教育課程兼任講師、日本化学会副会長、日本学術会議議員を歴任。
米沢 滋(よねざわ しげる、1911年 <明治44年> 2月… 米沢 滋(よねざわ しげる、1911年 <明治44年> 2月1日 - 1999年 <平成11年> 5月2日)は、日本の逓信官僚、工学者。日本電信電話公社総裁、経済団体連合会理事、電気通信協会長などを歴任。位階は正三位。 米沢与三七の子として生誕。富山県下新川郡入善町出身。1933年、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省に入省。電気通信省業務局計画部長、日本電信電話公社保全局長、電気通信研究所長、総務理事などを歴任。1965年から1977年にかけて日本電信電話公社の総裁を務める。 超短波電波による無線多重電話方式を提唱し、1940年に世界に先駆けて実用化。また、通信設備の保全を合理化するため、初めて統計的品質管理方式を導入。
林 修三(はやし しゅうぞう、1910年1月1日 - 198… 林 修三(はやし しゅうぞう、1910年1月1日 - 1989年6月21日)は、日本の官僚。大蔵・法務官僚を経て法制局に移り、鳩山・石橋・岸・池田の4内閣(10年弱)にわたって法制局長官(内閣法制局長官)を務めた。位階勲等は正三位勲一等旭日大綬章。『時の法令』誌連載の判例解説でははやし しうぞうの別名を用いた。 著作の一部はデジタル化されており、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。
内田 藤雄(うちだ ふじお、1909年2月22日 - 199… 内田 藤雄(うちだ ふじお、1909年2月22日 - 1992年12月21日)は、日本の外交官。法務省入国管理局長、外務省大臣官房長、駐オーストリア特命全権大使、駐ドイツ特命全権大使。 岡山県出身。1928年東京高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部法律学科入学。1930年高等試験外交科本試験に合格し、1931年に外務省に入省した。1949年公正取引委員会事務局総務部長。1954年法務省入国管理局長。1957年外務省移住局長。1958年外務省大臣官房長。1960年オーストリア国駐箚特命全権大使、国際原子力機関理事会理事たる日本政府代表。1965年ドイツ国駐箚特命全権大使。1973年海外移住審議会委員。
村井 順(むらい じゅん、1909年〈明治42年〉2月5日 … 村井 順(むらい じゅん、1909年〈明治42年〉2月5日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。初代京都府警本部長、初代内閣総理大臣官房調査室長(現・内閣情報調査室)、綜合警備保障の創業者で、社長・会長。 東京出身。東京高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1935年(昭和10年)内務省に入省し、1939年(昭和14年)に福岡県警防課長から、汪兆銘の南京政府を実質的に支配していた上海の興亜院に転出し、中国大陸における特高警察活動や、思想文化統制に従事。 敗戦後は、青森県警察部長を務めている最中に吉田茂に才気を見出され、第1次吉田内閣で内閣総理大臣秘書官に抜擢されるも、のちに内務省に戻り、廃止された特高警察の代わりとして設立された、内務省警保局公安一課(公安警察)の課長として、情報関係業務に従事。
伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - … 伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - 2001年4月16日)は、日本の実業家。住友銀行頭取・会長。関西経済同友会代表幹事、日仏クラブ世話人。 現在の東京都新宿区出身。東京開成中学(旧制)、東京高校(旧制)を経て、1933年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年住友合資会社入社。のちに住友銀行に移り有楽町支店長、東京事務所長などを経て、1957年取締役。常務、専務、副頭取等を歴任し、浅井孝二の後を受けて、1973年頭取に就任した。 頭取在任中、磯田一郎副頭取と共に経営危機に陥った安宅産業を伊藤忠商事に救済合併させたり、マツダやアサヒビールの再建に取り組んだ。1977年会長、のち相談役、1983年最高顧問。
朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年(明治41年)7月9… 朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年(明治41年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月29日)は、大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を務めた日本の指揮者。位階は従三位。 左利き(指揮棒は右だが、包丁は左)。朝比奈の出生には謎があり、中丸美繪著『オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練』が詳しい。 著名な家族に、長男の朝比奈千足(指揮者、クラリネット奏者)。 1908年、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷砂土原町の小島家に生まれ、生後まもなく鉄道院技師朝比奈林之助の養子となり朝比奈姓となる。 虚弱児だったため乳母と共に神奈川県国府津の漁村に預けられ、国府津町立国府津尋常小学校(現:国府津小)を経て小田原町立第三尋常小学校(現:新玉小)に学ぶ。