スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐… 坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐ 1996年〈平成8年〉7月5日)は、日本の実業家。三井不動産の社長や会長を22年間務め、ツーバイフォー工法の導入や東京ディズニーランド開園事業に携わったほか、三井ホーム社長、世界不動産連盟会長、不動産協会理事長、不動産流通経営協会理事長等の公職も務めた。 千葉県市川市生まれ。旧制東京府立第三中學校(のちの都立両国高等学校)を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業。のちに三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成した。
立原 道造(たちはら みちぞう、1914年〈大正3年〉7月3… 立原 道造(たちはら みちぞう、1914年〈大正3年〉7月30日 - 1939年〈昭和14年〉3月29日)は、昭和初期に活躍し、24歳8か月で急逝した日本の詩人。建築家としての足跡も残した。別筆名(旧制一高時代の短歌投稿時に使用)に、三木祥彦・山木祥彦がある。東京帝国大学工学部建築学科卒業、学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。東大建築学科在学中の3年間、同学科より辰野賞を連続受賞、詩作では1938年に中原中也賞を受賞。 東京都中央区に生まれた。東京府立三中で芥川以来の秀才と称された。一高在学中に三中の先輩でもある堀辰雄を知り、また室生犀星に師事。東大在学中の夏に、信濃追分に滞在、土地の旧家の孫娘に恋をする。
青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月3… 青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月31日 - 1986年(昭和61年)4月23日)は、日本の政治家、教諭。東京都中野区長(2期)、東京都議会議員(3期)を務めた。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長男は石原慎太郎東京都知事の下で東京都副知事を務めた青山佾。 静岡県御殿場市生まれ。1943年立正大学専門部地理学科卒業。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)教諭、東京都高等学校教職員組合委員長を務めた。 1955年、日本社会党公認で東京都議会議員選挙に出馬し、初当選を果たした。3期目任期中の1965年に都議を辞職した。 1971年2月26日から1979年2月9日まで足掛け3期、中野区教育委員を務めた。
杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1… 杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1983年9月1日)は、日本の考古学者。 1913年に東京市日本橋区小舟町に生まれた。府立三中(現都立両国高校)の時代に考古学を志すも、家業の和紙問屋を継ぐ。東京考古学会の同人として活躍。1935年東京外国語学校専修科(仏語)を卒業し、1937年上智大学外国語学校独語科卒業。1941年、27歳で明治大学専門部地歴科に入学し、1943年首席卒業。同年、卒業論文『原史学序論』を上梓。卒業とともに軍務に服し、1946年の春に復員する。同年4月から文部省嘱託教科書局に勤務し、国定歴史教科書『くにのあゆみ』の編輯などにあたった。1948年から明治大学専門部助教授、翌年に同大学文学部助教授、1953年には文学部教授となる。
花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年… 花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名同じ。花布 辰夫と表記に揺れがある。大映の名脇役の一人である。 1912年(大正元年)12月17日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。1930年(昭和5年)、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)卒業と共に日本映画俳優学校の1期生として入校し、1934年(昭和9年)に卒業する。同期に織田政雄がいた。 1937年(昭和12年)、新興キネマ大泉撮影所に入社し、同年に公開された青山三郎監督映画『煙る故郷』で映画デビュー。以後、脇役として多数の作品に出演した。1942年(昭和17年)、大映に統合された後は東京撮影所に所属し、1971年(昭和46年)に倒産するまで脇役として長く活躍した。
中村 哲(なかむら あきら、1912年2月4日 - 2003… 中村 哲(なかむら あきら、1912年2月4日 - 2003年8月10日)は、日本の政治学者、憲法学者。法政大学総長、参議院議員。父方の叔母に竹越光代(婦人運動家、歴史家・政治家竹越与三郎の妻)がいる。 東京府出身。府立三中、旧制成城高等学校(現成城大学)を経て、1934年に東京帝国大学法学部卒業(美濃部達吉門下生)。台北帝国大学文政学部の助教授・教授を経て、戦後我妻栄の引きで法政大学法学部教授に。法学部長・常務理事を歴任し、1968年に法政大学総長となった。 総長就任時は学生運動が激しく、学内で内ゲバ殺人事件(海老原事件)が発生するなど危機的な状況にあったが、警官隊の学内導入をほのめかした秦野章警視総監と対立しながらも大衆団交を繰り返し、終に警官隊を導入することなく事態を乗り切った。
小山 清(こやま きよし、1911年(明治44年)10月4日… 小山 清(こやま きよし、1911年(明治44年)10月4日 - 1965年(昭和40年)3月6日)は、日本の小説家。太宰治の門人としても知られる。 東京府東京市浅草区新吉原(現在の東京都台東区千束)の廓内に生まれる。生家は兼東楼という貸座敷業を営んでいたが、盲目の父は家業に関係せず義太夫を謡っていた。 府立三中を経て、明治学院中等部卒業。18歳のとき人生への煩悶から洗礼を受けるも、数年で脱会。母の死後、一家離散の憂き目を見る。島崎藤村の世話で日本ペンクラブ初代書記になるも、公金を使い込み、水戸刑務所に8ヶ月間服役する。出所後、下谷竜泉寺町界隈で新聞配達をしていたが、1940年に太宰治の門人となる。
家城 巳代治(いえき みよじ、1911年9月10日 - 19… 家城 巳代治(いえき みよじ、1911年9月10日 - 1976年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家。 東京都出身。東京府立三中、弘前高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業後、1940年に松竹大船へ入社する。助監督部で渋谷実の下で働く。渋谷により『激流』(1944年)が着手される直前に召集されたため、家城が代打で初監督を務めた。 戦後は、撮影所に設立された労働組合の委員長に就任して経営側と渡り合ったが、1950年、連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、松竹の追放者第一陣のリストに名を連ね退社を余儀なくされた。 その後独立プロダクションを支え、以降、『雲ながるる果てに』『ともしび』『異母兄弟』などの名作映画を作り上げ、社会派の映画監督として活躍する一方、草創期のテレビドラマで演出家としても活躍した。
木内 信蔵(きうち しんぞう、1910年11月19日 - 1… 木内 信蔵(きうち しんぞう、1910年11月19日 - 1993年4月7日)は、日本の地理学者。専門は人文地理学。東京大学名誉教授。 東京出身。浦和高等学校卒、東京帝国大学理学部地理学科卒。大学院、理学部助手、講師を経て、1949年に東京大学教養学部助教授。1950年「都市の地理学的研究」で東京大学より理学博士の学位を取得。1954年、教養学部に人文地理学教室を創設。1956年に教授。1971年、定年退官、名誉教授、成城大学教授。1975年、ジョージ・デビッドソン賞受賞。1981年、定年退任。1959年、ベルリン地理学協会から日本人初のカール・リッター賞を受けた。
恩田 清二郎(、1910年5月1日 - 1974年11月28… 恩田 清二郎(、1910年5月1日 - 1974年11月28日)は、日本の俳優、男性声優、元活動弁士である。本名同じ。恩田 清次郎と表記に揺れがある。 1910年(明治43年)5月1日、東京府東京市浅草区に生まれる、とされている。『山形県大百科事典』(山形放送)など一部の資料には、出生地は冒頭の通りだが、生年は「明治四十年」(1907年)である旨が記されている。父は埼玉県の地主であった。旧制東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)卒業。 1925年(大正14年)、映画俳優を志し、当時東亜キネマに在籍していた近藤伊与吉(1894年 - 1944年)に師事。ところが芽が出ず、間もなく俳優業を辞退して浅草電気館の活動弁士に転向し、長く活動した。
杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 19… 杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。 東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。父親が早くに他界したため母親に育てられる。浅草育英小学校、東京府立第三中学校を経て、1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学、松岡映丘に師事する。山本丘人、髙山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年(昭和4年)、帝展に出品、1931年(昭和6年)、美校日本画科卒、結城素明に師事。
阿部 喜三男(あべ きみお、1909年6月16日 - 197… 阿部 喜三男(あべ きみお、1909年6月16日 - 1970年11月22日)は、日本の国文学者。近世俳諧が専門。 1933年、東京帝国大学文学部国文科卒。台北第一中学校教諭、東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)教諭、海軍教授。戦後は明治大学政治経済学部助教授、教授。在職中に61歳で死去。小躯斗酒も辞さないほどの酒好きだった。
澤村 三木男(さわむら みきお、1909年(明治42年)5月… 澤村 三木男(さわむら みきお、1909年(明治42年)5月24日 - 1979年(昭和54年)1月11日)は、文藝春秋四代目社長。 歌舞伎役者七代目澤村宗十郎の四男として生まれる。東京府立第三中学校(現都立両国高等学校)を経て慶應義塾大学文学部卒業。 松竹に入社後、1933年(昭和8年)文藝春秋社に転職。敗戦で菊池寛が文藝春秋を解散したあと、佐佐木茂索、池島信平、鷲尾洋三らと同社を再建、文藝春秋新社を発足される。長年専務を務め、1973年(昭和48年)池島社長の逝去に伴い四代目の社長に就任。75年日本宣伝賞を受賞し現職のまま逝去。
澤村三木男(さわむら みきお、1909年5月24日-1979… 澤村三木男(さわむら みきお、1909年5月24日-1979年1月11日)は、株式会社文藝春秋四代目社長。
吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月… 吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月12日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の国文学者、東京大学教授。専門は近代文学。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1960年)。 1940年(昭和15年)の処女作『近代日本浪漫主義研究』で頭角を現し、1951年(昭和26年)より日本近代文学会の中心となる。また、1983年(昭和58年)に近代日本文学の分野で初めて日本学士院会員となった。 文献学批判の立場から、独自の美学的根拠にたつ実証研究を確立した。芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎といった現代作家を研究対象とすることは当時のアカデミズムでは異例のことである。東京大学の教授だった時期は短く、名誉教授にはなっていない。
吉村 順三(よしむら じゅんぞう、1908年9月7日 - 1… 吉村 順三(よしむら じゅんぞう、1908年9月7日 - 1997年4月11日)は、日本の建築家。東京藝術大学名誉教授。 東京市本所区緑町の呉服商の家に生まれる。東京府立三中卒業。東京美術学校(現東京藝術大学)で建築を学び、実測と観察を通して日本の古建築に触れた。1931年に卒業後、アントニン・レーモンドに師事。モダニズム建築を体得するとともに、レーモンドに日本建築を伝える。1941年、吉村順三設計事務所を開設。1945年、東京美術学校助教授就任。1962年、東京藝術大学教授に就任。1970年、東京藝術大学名誉教授。1990年、日本芸術院会員。 皇居新宮殿の建設に関わった。日本の伝統とモダニズムの融合を図った。
福田 篤泰(ふくだ とくやす、1906年10月13日 - 1… 福田 篤泰(ふくだ とくやす、1906年10月13日 - 1993年8月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(10期)、総理府総務長官、行政管理庁長官、郵政大臣などを歴任した。 東京府出身。府立第三中学校、旧制浦和高等学校を経て、1930年東京帝国大学経済学部を卒業後、外務省に入省。情報局秘書課長などを経て吉田茂首相秘書官となる。吉田の名代として林譲治や益谷秀次との折衝を任されるなど信頼を得ていた。 1949年第24回衆議院議員総選挙に旧東京7区から民主自由党公認で立候補し当選、以後当選10回で、吉田政権時代の中央官僚出身政治家にしては珍しく、保守合同後は大野伴睦派-村上勇派-三木武夫派と、党人派系の派閥を遍歴している。
角田 喜久雄(つのだ きくお、1906年5月25日 - 19… 角田 喜久雄(つのだ きくお、1906年5月25日 - 1994年3月26日)は日本の小説家。伝奇小説と呼ばれる時代小説、探偵小説で活躍した。 神奈川県横須賀市に生まれ、父は佐倉藩士の家系で、海軍工廠印刷部創設要員だったが、翌1907年に浅草で印刷業を始めて一家で移転する。小学生の頃から、俳句、短歌、新体詩の投稿をしており、滝沢馬琴、山東京伝、黒岩涙香を愛読、中学時代はトルストイ、ドストエフスキーなどを愛読していた。 東京府立三中時代の1921年(大正10年)に『現代』誌のスポーツ小説の懸賞に応募して二等となる。英語教師からシャーロック・ホームズの話を聞いて探偵小説に興味を持ち、翌1922年に『新趣味』に「毛皮の外套を着た男」を発表してデビュー。
大塚 幸之助(おおつか こうのすけ、1906年 - 1987… 大塚 幸之助(おおつか こうのすけ、1906年 - 1987年)は、日本の実業家、プロ野球球団経営者。 東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)に生まれる。府立第三中学校を四年生で中退、父と共に家業の大塚製作所に入社。1923年に父が死去したため社長に就任。1925年から1927年まで徴兵検査甲種合格で陸軍第一師団野戦重砲第三旅団輜重兵大隊(国府台)に所属。1935年に軍需工場の指定を受け、ばね等の自動車部品、機関銃部品を製造する軍需産業に転換。1945年に罹災のため千葉県松戸市に移転。戦後は洋傘、洋傘骨製造に転換。 1947年、国民野球連盟の大塚アスレチックスのオーナーに就任。同年秋には宇高勲の後を受け国民野球連盟の会長に就任。
海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1… 海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1990年5月7日)は日本の建築家、日本芸術院会員。 東京府生まれ。本所区の府立第三中学校卒業。1924年、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)建築科に入学。 在学中に山口文象と知り合い、近代建築運動団体・創宇社建築会(1923年結成)に参加。1929年の創宇社第6回展・第7回展、1930年の第8回展に、労働診療所、労働者アパートメント、消費組合食堂などの作品を出品した。 1930年3月に東京美術学校を卒業後、石本建築事務所に勤める。1938年に独立し、海老原建築事務所を設立する。 1950年代に尾崎記念館(現在の憲政記念館)、1960年代に日本最初の超高層ビル「ディックビル」(18階建)を設計。
大河内 一男(おおこうち かずお、1905年〈明治38年〉1… 大河内 一男(おおこうち かずお、1905年〈明治38年〉1月29日 - 1984年〈昭和59年〉8月9日)は、日本の経済学者。位階は正三位。 東京大学総長、同名誉教授。専修大学学長。日本学士院会員。専攻は社会政策。 1905年、東京下谷生まれ。東京府立第三中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学に入学。大学では河合栄治郎に師事した。 大学卒業後、東京帝国大学経済学部助手に採用され、のちに講師昇進。しかし、平賀粛学に際して1939年(昭和14年)1月30日に辞表を提出。しかし平賀譲総長から慰留され、対処をめぐって改めて師の河合栄治郎、河合門下の三羽烏と呼ばれた木村健康・安井琢磨と相談をしたところ、あくまで辞表を撤回するなとする師のメッセージに、それまで持っていた師のイメージが変わってしまい、師と袂を分かつ決意をする。
畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - … 畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - 1994年2月11日)は、日本の地球物理学者。 新潟県北蒲原郡新発田町生まれ。1922年旧制東京府立第三中学校卒業。1925年旧制第一高等学校理科甲類卒業。1928年東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、中央気象台に入る。1949年気象研究所長、1958年東京管区気象台長、1963年気象庁長官。1965年退官、のち二松學舍大学教授、1975年名誉教授。 1938年10月に、地磁気湾形変化の研究を発表した。1940年「地磁気及び地電流の湾型変化並に脈動に関する研究」で理学博士の学位を取得。
堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日… 堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、日本の小説家。 それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、長野県軽井沢に度々療養、当地を舞台にした作品を多く残し、晩年には終の住処とした。 戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造、中村真一郎、福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。
金子 泰藏(かねこ たいぞう、1904年(明治37年)10月… 金子 泰藏(かねこ たいぞう、1904年(明治37年)10月23日 - 1987年(昭和62年)5月17日)は、日本の商学者、教育者、通訳者で一橋学院、東京国際大学の創立者である。1973年に勲三等旭日中綬章受章。 1904年10月23日、東京の浅草で生を受ける。旧制府立三中に進学し、卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)に入学した。在学中に後の国連大使・加瀬俊一と知り合い、同じ語学クラブとして英語を学ぶことになる。大学卒業後、東京商工会議所に就職し、外国課長として貿易業務を行いながら、新設されたばかりの上智大学にて教授として英語を教えていた。1941年太平洋戦争が開始されると、三菱、三井と共に軍需産業を行っていた日本鉱業の海外課長となり、海外調査の業務全般を行う。
武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 199… 武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 1990年6月19日)は、日本の詩人、図書館情報学者。 1904年(明治37年)、日本統治下の台湾に生まれる。幼少期を父の郷里である宮崎県児湯郡高鍋町で過ごし、東京府の旧制第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を経て旧制宮崎中学校(現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ移る。旧制宮崎中5年生の時には武者小路実篤が児湯郡木城町に開いていた「新しき村」を友人らと訪問し、実篤の薫陶を受けている。 旧制宮崎中を卒業後、立教大学文学部哲学科に進学。1930年(昭和5年)に卒業した後、そのまま大学図書館の職員となる。1938年(昭和13年)、神戸市が募集していた『神戸市歌』(初代、1951年廃止)の歌詞募集において応募作が一等入選で採用された。
臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治3… 臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治35年〉7月26日 - 1987年〈昭和62年〉10月18日)は、大正から昭和期の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。千葉興行2代目社長。総理府総務長官。衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。千葉市名誉市民。学位は商学士(早稲田大学)。剣道六段。 東京市深川区越中島(現在の東京都江東区越中島)で建築材料商の家に生まれた。1920年(大正9年)3月、旧制・東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を卒業し、1925年(大正14年)3月、早稲田大学商学部商学科を卒業。大日本麦酒に入社した。 父の病のため1925年11月、大日本麦酒を退職して千葉市に転居。
福田 一(ふくだ はじめ、1902年〈明治35年〉4月1日 … 福田 一(ふくだ はじめ、1902年〈明治35年〉4月1日 - 1997年〈平成9年〉9月2日)は、日本の政治家、位階は従二位。 自由民主党所属の衆議院議員(14期)、衆議院議長(第62代)。自民党では大野派→福田グループに属した後に、無派閥となる。 福井県出身。東京府立三中(現在の東京都立両国高等学校)、旧制一高を経て、1927年東京帝国大学法学部仏法科卒業。同盟通信記者を経て衆議院議員に。通産大臣、自治大臣、法務大臣などを歴任した。通産大臣時代には小説「官僚たちの夏」に描かれた今井善衛と佐橋滋との間の事務次官人事抗争に介入し、存在感を見せ付けたこともある。 自治大臣在任中、1975年1月21日、参議院決算委員会で「私は市川(房枝)さんほど国民を尊敬していない」と述べたため、野党の反発を招き、発言の取り消しを要求された。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。
燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月2… 燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月22日 - 1974年(昭和49年)11月9日)は、日本の詩人。本名は岸野 知雄。 東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)在学中から日夏耿之介に師事し、1922年同大学予科を卒業した。 1925年に同大学本科2年を修了後、三省堂に入社し、同社資料室長、営業部長などを務めた。 蒐集したウィリアム・バトラー・イェイツ初版本を含むアイルランド文学関連のコレクションは一橋大学附属図書館に岸野文庫として収蔵された。
井上 金太郎(いのうえ きんたろう、1901年10月15日 … 井上 金太郎(いのうえ きんたろう、1901年10月15日 - 1954年1月29日)は、日本の映画監督、脚本家である。最初のキャリアは映画俳優であり、芸名は栗井 饒太郎(くりい じょうたろう)であった。脚本家としての名は秋篠 珊次郎(あきしの さんじろう)である。
高村 弘平(たかむら こうへい、1901年9月21日 - 1… 高村 弘平(たかむら こうへい、1901年9月21日 - 1989年9月28日)は、日本の造園家。山形県上山市出身。 造園会社の高村造園(1971年から東急グループ傘下、1992年に社名を現在の東急グリーンシステムに商号変更)を設立し、近代造園草創期の造園家として活躍。財界人では五島慶太や藤山雷太などとのかかわりをもつ。また当時の民間鉄道会社が積極策の一つして展開していたレクリエーション施設の建設にかかわり、具体に係わった仕事でも全作品の四割は民間のアミューズメント商業関係の造園空間が多く、それらについての論述もいくつか発表している。 五島美術館庭園、聖蹟桜ヶ丘多摩聖蹟地計画、碑文谷公園、円山動物園、須磨海浜公園、二子玉川園などの造園作品を残す。
吉田 暎二(よしだ てるじ、1901年〈明治34年〉2月5日… 吉田 暎二(よしだ てるじ、1901年〈明治34年〉2月5日 ‐ 1972年〈昭和47年〉9月30日)とは、大正から昭和にかけての浮世絵・歌舞伎の研究家。 東京本所区(現在の墨田区)の東両国で生まれる。父は東海銀行支店長の吉田源次郎。1907年(明治40年)相生尋常小学校に入学、1914年(大正3年)東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校・附属中学校)に入学。1919年(大正8年)早稲田大学露文科に入学したが、のちに関東大震災により中退する。1924年(大正13年)東京歌舞伎座に入社、雑誌『歌舞伎』、『歌舞伎研究』の編集を担当する。1927年(昭和2年)に歌舞伎座を退社、その後高見沢木版社、また北光書房に勤務することがあった。
入江 俊郎(いりえ としお、1901年(明治34年)1月10… 入江 俊郎(いりえ としお、1901年(明治34年)1月10日 - 1972年(昭和47年)7月18日)は、日本の官僚、政治家、裁判官。法制局長官、貴族院議員、衆議院法制局長、最高裁判所判事。東京府出身。 府立三中、第一高等学校、東京帝国大学卒業。1924年に内務省に入り、1927年、法制局参事官となる。 戦後の1945年9月には法制局第一部長、同年11月には法制局次長、1946年3月には法制局長官となり、日本国憲法の立案責任者になった。1946年5月18日、昭和天皇により貴族院議員に勅選され、同和会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 日本国憲法により帝国議会及び貴族院は廃止され、国立国会図書館専門調査員であったところ、芦田内閣期の1948年7月に衆議院の法制局長に任命された。
山野 一郎(やまの いちろう、1899年12月15日 - 1… 山野 一郎(やまの いちろう、1899年12月15日 - 1958年12月18日)は、日本の活動写真弁士、漫談家、俳優。本名は山内幸一。 弟の山地幸雄(本名:山内倉司)も活動写真弁士である。 1919年、三浦さくと結婚。第1子は夭逝したが、第2子・山内明は俳優、第3子・山内久は脚本家、第4子・山内正は作曲家、また、第5子山内幸子は作曲家小杉太一郎(俳優小杉勇の長男)の妻となった。タレント・エッセイストの山内美郷は孫(明の長女)。 新潟県古志郡半蔵金村生まれ。幼年期に一家で東京に出て、向島に育つ。なお、生涯、自分が東京生まれでないことを隠していたという。東京府立第三中学校卒業。 はじめ俳優を志したが叶わず、三越の店員などを経て弁士となる。
諸橋 襄(もろはし のぼる、1899年(明治32年)12月1… 諸橋 襄(もろはし のぼる、1899年(明治32年)12月10日 - 1999年(平成11年)1月18日)は、日本の内務官僚。貴族院議員。法学博士。帝京大学法学部長。従四位勲二等。 新潟市出身。新潟中学(後の新潟県立新潟高等学校)から、東京府立三中(後の東京都立両国高等学校・附属中学校)に転校し卒業。そして旧制第八高等学校を経て、1923年(大正12年)に、東京帝国大学農学部農学科を卒業すると、東京帝国大学法学部政治学科に入学した。 同4月30日、新潟県属となり、1924年(大正13年)4月、同大学を卒業した。以後、奈良県、北海道、広島県、富山県、千葉県、福島県の勤務を経て、1937年(昭和12年)7月31日、 行政裁判所評定官となる。
守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 19… 守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 1983年2月7日)は、近世日本文学研究者、東京大学教養学部・実践女子大学名誉教授。
岸田 日出刀(きしだ ひでと、1899年2月6日 - 196… 岸田 日出刀(きしだ ひでと、1899年2月6日 - 1966年5月3日)は、日本の建築学者・建築家。工学博士(1929年)。元東京大学教授。 戦前から戦後にかけて建築分野の造形意匠設計方面の権威であった。東京帝国大学工学部建築学科卒業後、大学に残り非常勤講師を務める傍ら、東京帝国大学大講堂(安田講堂)、同理学部1号館(現存せず)などの設計に携わり、内田祥三とともに関東大震災で被災した東京帝国大学のキャンパス復興に尽力した。東京大学建築学科では建築意匠設計教育に長くかかわり、岸田研究室には前川國男、丹下健三、立原道造、浜口隆一、浅田孝らが在籍し巣立っていったほか、前川や丹下らをバックアップし育てた。
浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1… 浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年(明治31年)12月27日 - 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本の政治家。東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任。
五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)… 五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優、映画監督、元子役である。新漢字表記五味 国男。クレジットは五味 國雄(新漢字表記五味 国雄)と表記されることもあった。本名小崎 久雄(こさき ひさお)、父を初代とし、二代目 五味 國太郎(にだいめ ごみ くにたろう、新漢字表記五味 国太郎)を名乗ることもあった。 1898年(明治31年)1月2日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。父は俳優の五味國太郎(1875年 - 1922年)、妹はのちに女優の五味國枝(1905年 - 没年不詳)になった。生年月日については、初期の文献である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十年一月二日」(1897年1月2日)、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「明治三十年一月元旦」(1897年1月1日)とされている。
松田 義郎(まつだ よしろう、1898年 - 没年不詳)は、… 松田 義郎(まつだ よしろう、1898年 - 没年不詳)は、日本のアナウンサー。ラジオ創生期の日本放送協会で活動した。 生家は味噌・醤油醸造業の「松田屋」(松田甚兵衛参照)。旧制東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校・附属中学校)、旧制官立第四高等学校、早稲田大学政治経済学科を経て、兄とともに家業を手伝ったのち、1926年2月、社団法人東京放送局(のちの日本放送協会東京放送局)に入局。 株式市況、ニュース、天気予報の読み上げを担当したほか、肉声で時報を担当し、1932年末の自動化まで務めた[要出典]。 政府による各種式典の音声中継に、スタジオで予定稿とブザーによる合図を使ってアナウンスを追加する、「式典放送」と呼ばれる疑似実況放送を得意とした。
山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月2… 山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月26日- 1968年(昭和43年)5月19日)は、日本の医学者、生理学者、脳波研究者。医学博士。 日本人初の脳波研究者である。ただし帰国後は脳波研究からは手を引く。興奮伝導に関する理論研究に専念した。 東京高等歯科医学校(後の東京医科歯科大学)教授を務めた。 長野県小県郡西塩田村で出生、2,3才の頃東京に移る。大正4年に東京府立第三中学校を卒業、大正8年に第一高等学校を卒業、大正13年に東京帝国大学医学部医学科を卒業。昭和6年12月から橋田邦彦研究室の助教授を務めた。橋田門下での最優秀の学者と評される。 昭和8年、ヨーロッパへ留学。昭和11年まで主にケンブリッジ大学のエドガー・エイドリアン(1932年ノーベル生理学賞受賞)の下でヒト頭皮上計測脳波黎明期の研究に従事した。
蜷川 虎三(にながわ とらぞう、1897年2月24日 - 1… 蜷川 虎三(にながわ とらぞう、1897年2月24日 - 1981年2月27日)は、日本の政治家、経済学者、統計学者。初代中小企業庁長官。元京都府知事(1950年 - 1978年)。 東京府東京市深川区深川入船町(現在の東京都江東区木場一丁目)の材木商の家に生まれた。旧制東京府立第三中学(現:東京都立両国高等学校・附属中学校、同学年に正木ひろし(弁護士)がおり、英語教諭だった北昤吉(北一輝の弟)の授業を受ける)、農商務省水産講習所(現:東京海洋大学)卒業後、京都帝国大学経済学部に入学、1923年に卒業。1927年、同助教授となる。当初はマルクス経済学者の河上肇に私淑し、漁業水産経済学を研究していたが、ドイツに留学後、『統計利用に於ける基本問題』で経済学博士号を取得するも教授に昇格するのはずっと遅く1942年(昭和17年)だった。
尾津 喜之助(おづ きのすけ、1897年〈明治30年〉1月2… 尾津 喜之助(おづ きのすけ、1897年〈明治30年〉1月28日 - 1977年〈昭和52年〉6月28日)は、昭和期の露天商、関東尾津組組長。 東京府本所相生町(現在の東京都墨田区)に鍛冶職人の子として生まれる。母は水戸藩の士族の娘であったが、尾津が2歳のときに出奔し消息不明になる。 独力で府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)に合格するが、継母の反対により入学を許されず、激怒した尾津は家を飛び出した。 職を転々とした後、的屋組織飯島一家に属す。右翼団体「皇国決心団」を組織し、摂政宮(後の昭和天皇)の車列警備を妨害したブラジル公使に抗議しブラジル公使館に殴り込みをかけるなどの売名行為を行った後、新宿で関東尾津組を結成。
正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年〈明治29年〉9月… 正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年〈明治29年〉9月29日 - 1975年〈昭和50年〉12月6日)は、日本の弁護士。 第二次世界大戦前より軍国主義批判を繰り広げ、戦時中には官憲による拷問を告発した首なし事件で有名となった。戦後も多くの反権力裁判、冤罪裁判に関与した。1953年に発生した八海事件の弁護を担当。同事件についての著書『裁判官』はベストセラーとなり、『真昼の暗黒』という題名で映画化された。 敬虔なキリスト教徒としても知られていた。 本名は旲(ひろし)であるが、自ら「正木ひろし」「まさき・ひろし」の表記を好んで用いた。 1896年(明治29年)、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)林町に生まれる。
野村 兼太郎(のむら かねたろう、1896年〈明治19年〉3… 野村 兼太郎(のむら かねたろう、1896年〈明治19年〉3月20日 - 1960年〈昭和35年〉6月22日)は、日本の経済学者。経済学博士。専門は経済思想史(江戸時代・経世論)。 日本学士院会員。国文学研究資料館設立発起人。他、東洋貨幣協会名誉会員、社会経済史学会を創立し代表理事等を歴任。 東京府東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区日本橋浜町)生まれ。東京府立第三中学校を卒業後、1918年に慶應義塾大学部理財科を卒業。予科教授を経て、1923年よりケンブリッジ大学キングス・カレッジ在籍。 1937年、慶應義塾大学で「英国資本主義の成立過程」により経済学博士の学位を授与される。 1950年に日本学士院会員となり、他に慶應義塾図書館長、東京大学経済学部講師、日本学術会議会員、文部省科学研究費総合研究「近世庶民資料調査研究」委員長、文部省史料館評議会長、経済学部適格審査委員会委員長などを歴任した。
山本 喜誉司(やまもと きよし、1892年9月17日 - 1… 山本 喜誉司(やまもと きよし、1892年9月17日 - 1963年7月31日)は、日系ブラジル人社会で活躍した農業家。戦後混乱期のブラジル日系人社会/日系コロニアをまとめた人物。コロニア天皇とまで云われた実力者でブラジル日系人社会で知らない人はいない。コーヒー栽培の害虫駆除に有効なウガンダ蜂の研究で、母校東京大学から農学博士を授与をうけている。 芥川龍之介の妻文の母方の叔父で、芥川とは旧制東京府立第三中学校時代の親友であった。 東京生まれ。1905年、東京府立第三中学校に入学。1910年、旧制第一高等学校に不合格となり慶應義塾大学部理財科予科に進学したが、翌年再受験して二部乙類に合格する。その後東京帝国大学農学部に進学し、原煕に師事。
大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月… 大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月17日 - 1988年(昭和63年)1月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府(現・東京都江戸川区)出身。東京府立第三中学校から海軍兵学校(42期)へ進む。席次は入校時120名中首席、卒業時は117名中3番。海軍砲術学校高等科学生に進み、砲術専攻士官となる。また東京帝国大学で教育学を学んでいる。海軍大学校甲種学生に進んだが、入試は不合格であった。航空関係者を入校させるため人数あわせで入校を許されている。 1928年(昭和3年)10月、42期首席であった三木繁二少佐が死去すると、大西がクラスヘッドになっている。海軍兵学校教官を経てドイツ駐在となった。
原 善一郎(はら ぜんいちろう、1892年4月21日 - 1… 原 善一郎(はら ぜんいちろう、1892年4月21日 - 1937年8月6日)は大正、昭和の実業家。 横浜の大生糸商の原富太郎(原三渓)の長男として生まれた。東京府立第三中学校を経て早稲田大学卒業。1921年アメリカ留学。 祖父の原善三郎の養子となり、原合名会社の副社長となる。横浜興信銀行、帝国蚕糸の重役を務める。 芥川龍之介とは東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)における同級生で友人であった。他にも美術、文学の後援者として知られ、岸田劉生、阿部次郎、矢代幸雄、和辻哲郎、安倍能成との親交が知られる。
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25… 芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)出身。 1892年(明治25年)、東京市京橋区入船町8丁目(現:東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。出生時刻については資料がないため不明である。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。
武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月2… 武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月22日 - 1962年(昭和37年)11月7日)は日本の地震学者、地理学者、英語教師。本業である英語教師としての業務のかたわら、独学で地震学を学んだ。ほとんど独力で膨大な量の歴史地震に関する史料を収集し、『増訂大日本地震史料』としてまとめた。 1891年(明治24年)2月22日(戸籍上は3月1日)、東京市本所区向島須崎町(現在の墨田区)に生まれる。浅田家の第4子であったが、間もなく武者家の養子となる。 府立三中を経て、1910年(明治43年)9月、早稲田大学文学部英文学科に入学。1911年7月と1912年7月の2回、首席となり早稲田大学特待生となって授業料を免除される。