スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日… 伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日 - 1981年(昭和56年)6月12日)は、大正から昭和期の弁護士、裁判官、政治家。衆議院議員。 千葉県匝瑳郡福岡町(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で、伊藤啓三郎の二男として生まれる。錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第三高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 1918年8月、司法官試補に任官し、東京地方裁判所予備判事、長崎地方裁判所判事を歴任し、1921年(大正10年)7月に退官した。留学してロンドン大学、ベルリン大学で学び、在学中に司法省から英独の労働法研究の委嘱を受けた。1925年(大正14年)に帰国し弁護士を開業した。
宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - … 宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - 1945年12月30日)は、朝鮮の独立運動家、政治家。本貫は新平宋氏。号は「古下」(コハ、고하)。 全羅南道潭陽郡に生まれる。1907年に金性洙とともに日本に留学し、1915年に明治大学を卒業後、帰国して私立中央学校校長に就任する。1919年の三・一独立運動に参加した容疑で、1年間投獄される。1921年から1924年まで東亜日報第3代社長、1927年から1937年まで第6代社長を務め、民族主義右派の立場で論陣を張った。1945年12月1日に第8代社長に就任した。 日本の敗戦を控えた1945年8月11日に、朝鮮総督府は京畿道知事を通じて、朝鮮における資本家及び地主勢力を代弁することができる宋鎮禹と接触し、「行政委員会」を構成してくれる事を要請した。
新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - … 新免 純武(しんめん すみたけ、1889年10月23日 - 1967年9月8日)は日本の柔道家(講道館9段)、レスリング選手。文献によっては新免 伊助とも。 古流柔術を経て講道館に学び鹿児島県や島根県を中心に後進の柔道指導を行ったほか、自身も戦前の全日本選士権等で活躍。アムステルダム五輪にはレスリングの日本代表として出場した。 福岡県福岡市出身。双水執流の家元である福岡市の隻流館で古流柔術を学び、中学生時代に17歳で上京して1907年5月付で講道館に入門。講道館の名物男で神田の錦城中学校(現・錦城学園高校)に通う徳三宝2段の推薦で1908年に同校の4年生に編入学し、1910年4月に2段位を取得した。
細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月2… 細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月27日 - 1962年〈昭和37年〉12月2日)は、日本のジャーナリスト・政治学者。日本共産党参議院議員。 ※以下、第一高等学校時代までの記述は、1953年に服部之総が細川からの聞き取りにより作成したが未刊となっていた「河童自伝」(2019年刊行の『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』に収録)および『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』巻末年譜に基づく。 富山県下新川郡泊町(現・朝日町)出身。生家があったのは、東三浦町と呼ばれる一角だった。後年の回想によると、父の実家は町方で晒問屋を営んでいたが、近代的紡績産業の発展で仕事を失い、実家の次男だった父は季節によって様々な仕事に就く「稼ぎ人」と呼ばれる職業だった。
3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21… 3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21年〉9月4日 - 1971年〈昭和46年〉2月6日)は、日本の陶工、日本芸術院会員。本名は井上 良太郎。位階は正五位。 東京浅草生まれ。隅田川に窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、旧制錦城中学校卒業の頃、1905年から作陶に従事する。板谷波山に師事。1914年に横浜へ移り、1928年、帝展初入選。1953年、第1回横浜文化賞受賞。1959年、「丸紋平皿」で日本芸術院賞を受賞。1966年、日展理事に任じられるとともに、日本芸術院会員となる。1967年、勲三等瑞宝章受賞。1971年死去。死没日付をもって正五位に叙された。 温厚な人柄を反映したかのような、気品の高い風格ある作風が特徴である。
2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年… 2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1959年〈昭和34年〉7月6日 / 7月16日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八 / 千八、名は応義(まさよし)。 群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)で、剣道範士本間三郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業、中央大学を中退。 伯父の初代千代吉の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた。
村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 … 村田 武(むらた たけし、1887年(明治20年)2月3日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 静岡県に堀慎作の長男として生まれ、村田熊三郎の養子となった。錦城中学校、第二高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同警視、同理事官、同日高郡長、京都府理事官、兵庫県理事官、福岡県書記官・学務部長、和歌山県警察部長、岐阜県警察部長、山形県警察部長を歴任した。 1929年(昭和4年)に退官した後は、京都市助役を務めた。
山本 冬郷(やまもと とうごう、1886年11月4日 - 1… 山本 冬郷(やまもと とうごう、1886年11月4日 - 1952年3月24日)は、日本の元俳優である。本名:山本 鎌藏(やまもと けんぞう)。ハリウッド映画からスタートした日本人俳優で、帰国後は松竹蒲田撮影所、日活太秦撮影所、新興キネマ東京撮影所などで活躍した名脇役として知られる。 1886年(明治19年)11月4日、神奈川県横浜市根岸(現在の同県同市中区根岸町)に生まれる。旧制錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業後、早稲田大学政治経済科に進学する。 1904年(明治37年)2月、早稲田大学を中退して渡米。種々の職業に従事していたが、日本から来た在留邦人相手の新派劇団に急遽加入し、各地を巡業する。
長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月… 長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月18日 - 1961年〈昭和36年〉12月10日)は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員、大光寺村長。 青森県南津軽郡大光寺村(現平川市)で、初代大光寺村長・長内建美の長男として生まれる。東奥義塾3年時に東京の錦城中学校に転じ、1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後帰郷して、1914年(大正3年)、大光寺村会議員に当選。その後、大光寺村長、消防組頭、青森県会議員を歴任。立憲政友会支持一色であった大光寺村において、立憲民政党に入党し、同党南津軽郡分所幹事、同青森県支部幹事を務めた。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に青森県第2区から翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けずに出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 … 池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 - 1969年(昭和44年)12月17日)は、東京府東京市本所区(現東京都墨田区本所)出身の日本の風刺漫画家、洋画家。旧姓・山下。 岡本一平の義弟(妻が岡本一平の妹)、岡本太郎の叔父にあたり、俳優の池部良は実子。 1886年(明治19年)3月3日、東京本所に生まれる。東京府人の山下覺之介の二男。叔父で芝区露月町で洋服商の池田屋を営む池部鍬吉の養子となる。台東区立下谷小学校に通った。 1898年(明治31年)頃、12歳時に神田の錦城中学に入学、翌1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけての時期に白馬会展の展観作品に感動し画家を志す。
井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - … 井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - 1944年10月1日)は、日本の画家、版画家。 1885年(明治18年)5月29日 岐阜県恵那郡三濃村(現在の岐阜県恵那市)に生まれる。近代日本がはじめて遭遇した巨大地震の濃尾大地震(1891年)で被災し、長野県松本市に移住。1900年(明治33年) 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)に入学するが、2学年で中退。1901年(明治34年) 東京の白馬会溜池洋画研究所に入り、旧制錦城中学(現錦城学園高等学校)に学ぶ。1906年(明治39年) 母親の死去により研究所を退所、松本の父親経営の旅館養老館にもどる。1922年(大正11年) 養老館廃業(現在の五千尺ホテルに引き継がれる)。
箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28… 箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28日 – 1964年〈昭和39年〉12月15日)は、日本の海軍軍人、電気工学者。工学博士。最終階級は海軍造兵中将。 兵庫県多紀郡篠山町(現在の丹波篠山市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。海軍造兵中技士となり、1933年(昭和8年)に海軍造兵中将に至った。その間、舞鶴海軍工廠部員、呉海軍工廠部員、造兵監督官、造兵廠研究部員・海軍大学校教官、航空機試験所所員、海軍技術本部部員・艦政本部部員、海軍技術研究所工作課長、同電気研究部長・艦政本部会議議員、特許局技師、海軍技術研究所所長・海軍技術会議議員、軍令部出仕を歴任した。
岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947… 岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947年10月3日)は、日本の法学者。民法学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。日本で初めて事情変更の原則を論じた。国際私法の大平善梧一橋大名誉教授や商法の吉永榮助一橋大名誉教授は岩田ゼミ出身。なお、民法の後継者は出していない。川名兼四郎門下。 愛知県碧海郡知立町(現・知立市)出身。1906年(明治39年)第一高等学校卒業。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科卒業。1916年(大正5年)東京帝国大学大学院(旧制)法学研究科修了。東京高等商業学校(現一橋大学)教授。1920年(大正9年)フランス・ドイツ・スペイン・イギリス・イタリアに文部省在外研究員として、研究留学( - 1923年)。
秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日… 秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1944年〈昭和19年〉12月3日)は、日本の政治家。第30代衆議院議長、厚生大臣、拓務大臣を務めた。 徳島県出身。旧制徳島中学(現:徳島県立城南高等学校)、日本法律学校(現:日本大学)、東京法学院(現:中央大学)卒業。高知地方裁判所の判事、二六新報の編集および社長職を経て政界入り。1932年(昭和7年)、衆議院議長に就任。1937年(昭和14年)、内閣参議に就任。1939年(昭和14年)、阿部内閣で厚生大臣に就任。1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で拓務大臣に就任。1944年(昭和19年)12月3日死去。
島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治… 島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治14年)4月20日 - 1926年(大正15年)11月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・相良、旧名・基直。 旧人吉藩主・相良頼基の六男として生まれる。1896年(明治29年)加治木島津家当主・島津健(とし、前当主・故島津久宝夫人、島津久徴六女)の養子となり、同年8月14日に家督を継承。1897年(明治30年)10月27日、久宝の戊辰戦争の功により特旨をもって男爵を叙爵した。 錦城中学校を経て、1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。1909年(明治42年)イギリスに留学し、政治学・法律学を学び、1910年(明治43年)10月に帰国した。
香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 19… 香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 1967年12月21日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 東京生まれ。本籍・山形県。東京府立一中、錦城中学、一高を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科仏法科卒業。同年同月、千葉県属、同年11月、文官高等試験合格、42年8月、内務省入省。愛媛県理事官・視学官、岡山県警察部長、熊本県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長などを経て、1923年(大正12年)に福島県知事となる。 以後、愛媛県・岡山県・愛知県各知事を歴任。1932年(昭和7年)2月5日、依願免本官となり退官。同年5月、東京府知事に復帰。1935年(昭和10年)に依願退職。
青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)1… 青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)12月21日 - 1954年(昭和29年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・龍間。 茨城県西葛飾郡、のちの猿島郡五霞村(現五霞町)で、先代・青木才次郎の長男として生まれる。私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)を経て、明治法律学校を修了した。1919年(大正8年)家督を相続し才次郎を襲名した。 青木組を組織して土木建築請負業を営み、茨城土木工業社長、水戸商工会議所議員などを務めた。 また、水戸市会議員、同参事会員、茨城県小作調停委員、同治水委員会委員、同耕地整理組合長などを歴任した。 1924年(大正13年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月3日に就任し1925年(大正14年)9月28日まで在任。
浮谷 権兵衛(うきや ごんべえ、1878年(明治11年)2月… 浮谷 権兵衛(うきや ごんべえ、1878年(明治11年)2月18日 - 1950年(昭和25年)12月31日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、治水家、実業家。千葉県多額納税者。市川町名誉町長、葛飾瓦斯専務取締役、耕地整理組合長、東葛飾郡農会長、市川市農会長などを務めた。 先代・浮谷権兵衛(本楽)とヨシの長男善次郎として千葉県葛飾郡市川新田(現・市川市)に生まれ、17代権兵衛を襲名する。浮谷家は農業を営み、当主は権兵衛を名乗り、父は市川町長を務めたことがあった。錦城中学校、明治法律学校を卒業後、東葛飾郡市川町会議員、同郡会議員を歴任。1905年(明治38年)千葉県真間川周辺の水害を防ぐため土地改良事業を提唱する。
伊藤 徳五郎(いとう とくごろう、1878年(明治11年)-… 伊藤 徳五郎(いとう とくごろう、1878年(明治11年)- 1939年(昭和14年)1月22日)は、日本人の柔道家・プロレスラーである。「キューバの四天王」の一人。 ウェッブサイト "Cageside Seats" でジョン・S・ナッシュは、キューバの四天王はブラジルにおける「MMAの父」であった、との考えを述べている。 秋田県の南外(後の大仙市南外)坊田で、代々肝煎や村役人を務めてきた造り酒屋の地主・伊藤多吉の長男として生まれた。 坊田小学校を卒業し、秋田尋常中学校に進学するが同校のストライキの影響で退学し、東京の錦城中学校へと転学して卒業した。その後早稲田大学へ入学して本格的に柔道を始めるが、大学と柔道の両立に苦しみ中央大学、明治大学と転学して1902年(明治35年)に中退した。
末広 恭二(すえひろ きょうじ、1877年10月24日 - … 末広 恭二(すえひろ きょうじ、1877年10月24日 - 1932年4月9日)は日本の造船工学者。東京帝国大学教授、地震研究所所長。日本の造船工業の発展に寄与。末広鉄腸の次男。末広恭雄の父。 1900年東京帝国大学工科大学を卒業、長崎三菱造船所に入社。1911年東大教授となる。 主に船体の応力・振動・動揺について研究した。1919年三菱造船所に研究所の設置を提案、自ら所長になる。また、関東大震災後、寺田寅彦とともに東京帝大地震研究所の創設につくし、初代所長となる。 1922年「伝動軸の捩れ計の研究」で帝国学士院賞を受賞する 1931年には米国土木学会に招かれ渡米し、日本の地震学、地震工学を紹介した。
新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12… 新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1932年〈昭和7年〉11月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県出身。新井沢次郎の四男として生まれる。群馬県境野小学校、同山田第一高等小学校、錦城商業学校を経て、1896年(明治29年)11月陸軍士官学校(8期)を卒業。翌年6月、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵第16、9、35の各連隊付を経て、1903年(明治36年)陸軍大学校に入学。 日露戦争の勃発に伴い修学を中退、原隊復帰、第一回旅順攻撃(歩兵第35連隊第12中隊長)、第二回攻撃(歩兵第6旅団副官代理)、第三回攻撃及び奉天の会戦(同副官)に参加。 1907年陸軍大学校(第19期)を卒業。
飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 195… 飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 1954年9月27日)は、日本の東洋史学者。 長野県松代町(現長野市)の旧松代藩士の家に生まれる。祖父は藩の故実家・飯島勝休。小学校卒業後、母校で雇として教えるかたわら、外祖父で旧藩上級藩士の長谷川昭道に漢学を師事、1901年上京し旧制錦城中学に編入、翌年卒業。臨時お茶の水第一教員養成所に入り、1904年卒業し学習院中等科教授、1937年(昭和12年)まで務めた。東京帝国大学選科修了。帝大では上田万年に師事した。東宮御学問所御用掛も務めた。1929年(昭和4年)「支那古代史論」で東京帝大文学博士。中国古代史、暦法研究のほか、郷土の人物として佐久間象山も研究した。
小栗 風葉(おぐり ふうよう、本名:加藤 磯夫(旧姓:小栗)… 小栗 風葉(おぐり ふうよう、本名:加藤 磯夫(旧姓:小栗)、1875年(明治8年)2月3日 - 1926年(大正15年)1月15日)は日本の小説家。愛知県生まれ。 愛知県知多郡半田町(現半田市)に薬種商(美濃半)の長男として生まれる。幼名磯平、のち磯夫と改めた。少年の頃から近世稗史小説を好み、柳亭種彦、為永春水らを耽読、また嵯峨の屋おむろ「初恋」などに感動し、『少年園』などに投稿、1889年、家業を継ぐ勉強のため上京。済生学舎、商業素修学校を経て、錦城中学校に学ぶ。1891年高等学校の入試に失敗し一時不良となるが、文学に志を持ち、家業は弟に任せ、尾崎紅葉の硯友社に入門。1893年九州を放浪し、その経験をもとに「片靨」を書き読売新聞に掲載。
林 春雄(はやし はるお、1874年(明治7年)2月25日 … 林 春雄(はやし はるお、1874年(明治7年)2月25日 - 1952年(昭和27年)1月1日)は薬理学者。東京帝国大学医学部薬物学教室の第二代教授。東京帝国大学名誉教授。貴族院議員。 1874年、愛知県で生まれた。1881年に、林茂雄の養子となった。1897年に東京帝国大学医学部を首席で卒業し、学士号を取得。 1900年に東京帝国大学助教授に就いた。1902年から1905年まで3年間、薬理学ならびに毒物学研究のためにドイツ留学を命じられ、シュトラースブルク大学に留学した。1905年に帰国した後は、京都帝国大学福岡医科大学(現九州大学)助教授となった。1905年7月、医学博士の学位を取得。1908年、東京帝国大学に薬理学第二講座が開設されて二講座制になると、、林は同大学に転じて第二講座を担任した。
三枝 彦太郎(さいぐさ ひこたろう、1873年(明治6年)1… 三枝 彦太郎(さいぐさ ひこたろう、1873年(明治6年)10月22日 - 1929年(昭和4年)4月17日)は、明治後期から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員。 山梨県都留郡鹿留村(南都留郡桂村、東桂村鹿留を経て現都留市鹿留)で、三枝彦兵衛の長男として生まれる。東京錦城学校(現錦城学園高等学校)で学んだ。1898年(明治31年)家督を相続。 1902年(明治35年)合名会社電灯広告社を創立し代表社員に就任。その他、日本化工取締役、日本乳酸取締役、桂電燈取締役などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙で山梨県第5区から立憲政友会公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6… 小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6日 - 1962年〈昭和37年〉9月26日)は、日本の逓信官僚。栃木県出身。 東京帝国大学卒業。逓信省に入り、逓信局長などを歴任。1936年第2代NHK会長に就任。戦後、NHK会長のため公職追放となる(1951年追放解除)。 1956年文化功労者。墓所は多磨霊園(12-1-2)。息子の元妻は映画評論家の小森和子。
蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日… 蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日 - 1959年(昭和34年)8月17日)は日本の法学者、外交官、大学教授。専門は国際法。先祖は室町幕府に政所代を世襲した蜷川氏で、後に江戸幕府の旗本となった。格闘家の武蔵、TOMO兄弟は曾孫にあたる。 父は旗本蜷川親賢、母は林田藩主建部政醇の娘はつ子。旗本小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。 1889年(明治22年)第一高等学校に入学。学友に渡辺千冬や鈴木梅太郎がいた。卒業後東京帝国大学の法科大学に進学し、有賀長雄のもとで国際法を専攻した。卒業後、同大学大学院に進学。
篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年… 篠田 治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年11月12日) - 昭和21年(1946年)1月23日)は、明治後期から昭和前期にかけての法学者・拓務官僚。 1872年、静岡県城東郡池新田村(現在の御前崎市)の農家の長男に生まれた。15歳の時に上京して錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第一高等学校を経て、明治32年(1899年)に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。一度は弁護士になるが、明治37年(1904年)の日露戦争勃発に際して陸軍省の国際法事務嘱託に任ぜられ、第三軍の国際法担当顧問として従軍、旅順要塞陥落後は同要塞の司令部付顧問を兼務した。 戦後の明治40年(1907年)に韓国統監府の嘱託となり、間島派出所総務課長・統監府秘書官を歴任、日韓併合後の明治43年(1910年)10月から朝鮮総督府によって平安南道へ派遣された。
田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5… 田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5年9月12日) - 1946年(昭和21年)3月4日)は、神道学者。 山口県出身。1903年東京帝国大学文科大学哲学科卒。東洋大学教授、第五高等学校教授、國學院大學教授を歴任。1920年東京帝国大学文学部助教授、神道学講座を担当。1933年定年退官、帝国女子専門学校校長。のちの相模女子大学の設立に努めるが急死。神道学会、神道青年連盟協会を設立。女婿は国文学者の次田真幸。
田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871… 田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)5月6日)は、日本の文部官僚・内務官僚・貴族院勅選議員。文部次官、錦鶏間祗候。 土佐藩士田所美之の長男として生まれる。第二高等中学校を首席で卒業。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、愛媛県、宮城県、東京府の参事官を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、書記官、文部大臣秘書官、普通学務局長、文部次官を歴任した。また学習院御用掛、宮内省御用掛、学習院評議会会員を兼ねた。 1918年(大正7年)9月21日、貴族院議員に勅選され、退官した。
竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30… 竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30日〈明治2年11月28日〉 - 1937年〈昭和12年〉5月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍主計少監(主計少佐)。公金費消の嫌疑により免官となった人物である。大仏次郎の小説『帰郷』のモデル。 三重県出身。父は旧桑名藩士、兄は陸軍二等兵から中佐まで昇進した。三田英学校から海軍主計学校に進み、13名の同期生のうち首席・恩賜で卒業。日清戦争では旗艦「松島」の主計官として黄海海戦に参戦した。その後横須賀司計部計算官、「赤城」主計長などを勤め、造船造兵監督官としてイギリス駐在となり、現金前渡官吏を兼務。日本が発注する軍艦について代金支払の実務を担うこととなった。
山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2… 山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2年11月18日) - 1965年(昭和40年)12月17日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は法学博士。法華会創立者。 1869年、奈良県高市郡越智村(現・高取町)に村長山田平三郎の三男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を経て、1896年帝国大学法科大学(現東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業。同大学院修了。その後東京帝国大学法科大学助教授に就き、文部省外国留学生としてドイツのハイデルベルク大学、フランスのソルボンヌ大学に3年間留学し国際法を学ぶ。1901年7月19日帰国。 帰国後、東京帝国大学法科大学教授、京城帝国大学総長、東京帝国大学法学部長などをつとめた。
三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(18… 三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(1869年12月17日) - 昭和39年(1964年10月27日))は、日本の医師・軍医・新聞記者。日露戦争に従軍した時のエピソード(後述)で後世に名を残した。最終階級は陸軍一等軍医。 1869年(明治2年)11月15日、陸奥国三戸県佐井村(現在の青森県下北郡佐井村)の代々医家である三上家の長男(8代目)として生まれた。1875年(明治8年)に佐井小学校(現在の佐井村立佐井小学校)に入学。1884年(明治17年)に上京して、三田英学校(現在の錦城学園高等学校)で学ぶ。そこで漢文学者の森田思軒の影響を受け、文学へ傾倒した。1888年(明治21年)に英学校を卒業後、読売新聞社社会部記者となり、新聞記者の世界へ足を踏み入れた。
井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明… 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明治2年3月25日〉- 1932年〈昭和7年〉2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9・11代総裁。山本、濱口、第2次若槻内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。位階は従二位。 帝大卒業後に山本達雄の勧めで日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。 第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。
大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日… 大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日〈慶応4年1月3日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月9日)は、日本の農学者(農芸化学)。勲等は勲二等。学位は農学博士(1911年)。旧姓は鈴木(すずき)。 農事試験場や特許局で技師として勤務し、農芸化学に関する研究に従事したのち、九州帝国大学農学部で教鞭を執った。土壌酸性がアルミニウムに因ること(大工原酸度, Daikuhara acidity)を世界で初めて発見した。九州帝国大学や同志社大学で総長を務めた。 信濃国伊那郡南向村(現長野県上伊那郡中川村)の鈴木家に生まれ、のちに飯田の大工原孝吉の養子となる。松本中学校、東京農林学校を経て1894年、帝国大学農科大学農芸化学科を卒業。
山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶… 山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉- 1932年〈昭和7年〉12月21日)は、日本の内務・鉄道官僚、政治家。第1次山本内閣の内閣書記官長、第2次山本内閣の鉄道大臣、貴族院勅選議員。 後の鹿児島県鹿児島市上之園町出身。鹿児島藩士・山之内時習の長男として生まれる。錦城学校を経て旧制第一高等学校卒業。1890年(明治23年)7月、東京帝国大学卒業後、内務省に入省。1899年(明治32年)3月、警保局保安課長となる。 1901年(明治34年)4月、官選青森県知事に任命。1904年(明治37年)4月、逓信省鉄道局長。1907年(明治40年)1月、南満州鉄道株式会社監理官となり、同年4月には帝国鉄道庁副総裁を兼任。
右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3… 右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3月22日) - 大正9年(1920年)1月11日)は大正時代の劇作家、歌舞伎狂言作者、小説家。 豊後国(現・大分県)臼杵に臼杵藩士の子に生まれる。右田年英の実弟。柳塢亭、矮亭主人と号す。明治10年代、11歳時には上京、三田英学校や漢学塾に学んだ後、高畠藍泉に師事する。めざまし新聞、都新聞において多くの戯曲の脚本、艶種(つやだね)や雑報などを執筆した。その後、東京朝日新聞に入社して主に小説を書いた。明治38年(1905年)には栗島狭衣らと文士劇の劇団、若葉会を結成する。明治42年(1909年)に帝国劇場が開場されるのに伴い、立作者となって多数の戯曲を執筆した。
蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) … 蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) - 1941年(昭和16年)2月17日)は、数学天文学者、海軍大学教授、理学士、気象関係従事者。従三位勲二等。 慶應義塾幼稚舎を経て東京帝国大学理学部卒業。学生のとき1887年(明治20年)8月の皆既日食を白河にて、アメリカの天文学者トッド博士の通訳兼協力者として菊池大麓と共に観測に参加。 1900年(明治33年)文部省が行ったローマ字表記調査委員となり、上田萬年、磯田良、大西祝、神田乃武、金子銓太郎、小西信八、藤岡勝二、高楠順次郎、湯川寛吉、渡部董之介の11名で報告。 日本数学物理学会会員。長く海軍大学教授を務め、退官後、理化学研究所の図書の係を務めた。
大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元… 大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元年4月13日〉- 1943年〈昭和18年〉7月13日)は、日本の内務官僚、政治家。日本赤十字社理事。位階・勲等・爵位は正二位勲一等侯爵。 1865年(慶応元年)4月13日、薩摩国鹿児島城下新照院通町に大久保一蔵(利通)と満寿子の三男として生まれる。幼名は三熊。1887年(明治20年)、第一高等中学校を卒業後、アメリカ合衆国に留学し、イェール大学を卒業。さらにドイツに留学し、ハレ大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学ぶ。 1894年(明治27年)に帰国。日清戦争で大本営付通訳官を務め、その後、台湾総督秘書官に就任。1896年(明治29年)9月、内務省に入省し、内務大臣秘書官に就任。
伊集院 彦吉(いじゅういん ひこきち、1864年7月22日〈… 伊集院 彦吉(いじゅういん ひこきち、1864年7月22日〈元治元年6月19日〉- 1924年〈大正13年〉4月26日)は、明治・大正時代の日本の外交官。外務大臣。男爵。妻の芳子は大久保利通の長女。 1864年(元治元年)、薩摩藩鹿児島城下高麗町において、薩摩藩士・伊集院吉次の長男として生まれた。その後、上京して築地の立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。1890年(明治23年)7月に帝国大学法科大学政治科を卒業した後、すぐに外務省に入省した。同期には石井菊次郎がいる。1892年(明治25年)からは翻訳官となり、1893年(明治26年)には 芝罘(のち山東省煙台)の副領事として清朝支配下の中国大陸に渡った。
小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3… 小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3年11月23日〉- 1932年〈昭和7年〉10月15日)は、明治・大正期の官僚、政治家、貴族院議員。正三位勲一等。 信濃国埴科郡松代(現:長野県長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次男として生まれる。和田英・横田秀雄の実弟。同藩士小松政昭の養子となる。藩校文武学校を経て、上京後、慶應義塾から帝国大学法科大学に転じ1888年(明治21年)に卒業。 司法省参事官、試験委員から逓信省に入り書記官となる。日露戦争中には韓国へ派遣され電信電話の普及に努める。逓信局長を経て次官で退官。同じくして1912年(大正元年)12月28日に貴族院議員に勅選された。
三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月… 三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)は、明治・大正・昭和時代の植物学者。学位は、理学博士。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人である。特に桜とハナショウブの研究に関しての第一人者として知られ、殊に桜博士とも呼ばれた。また、天然記念物の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。 文久元年(1862年)、美濃国岩村藩士の次子として同藩江戸藩邸に生まれる。出生後は岩村で幼年期を過ごした。11歳の時に父が没したため、越前国坂井郡の浄土宗西光寺の住職の伯父に引き取られてそこで学んだ。明治9年(1876年)にのちの石川県第三師範学校に入学して、明治11年(1878年)に同校を卒業した。
有馬 良橘(ありま りょうきつ、1861年12月16日〈文久… 有馬 良橘(ありま りょうきつ、1861年12月16日〈文久元年11月15日〉 - 1944年〈昭和19年〉5月1日)は、日本の海軍軍人、神職。最終階級は海軍大将。和歌山県和歌山市出身。養子に海軍中将・有馬寛がいる。 文久元年11月15日(1861年12月16日)、紀州藩の藩医(奥医師)・有馬元函の長男として生まれる。父の元函は紀州徳川家家臣として幕府軍側に参戦転戦したために、良橘が幼少の頃は朝敵扱いされ、良橘の尋常小学校入学が12歳まで遅延する結果を招く。旧制三田英学校より海軍兵学校第12期入校。入校時成績順位は44名中第16位、卒業時成績順位は19名中16位。 有馬の職歴の特徴として明治天皇と東郷平八郎との関わりが深く、日清戦争でも東郷が艦長を務める防護巡洋艦「浪速」の航海長として東郷の指揮下で従軍している。