青山 邦夫(あおやま くにお、1943年 - )は、日本の元… 青山 邦夫(あおやま くにお、1943年 - )は、日本の元裁判官。退官後は、名城大学法務研究科(法科大学院)教授、弁護士(愛知県弁護士会所属)。
富山県立高岡高等学校:83人
青山 邦夫(あおやま くにお、1943年 - )は、日本の元… 青山 邦夫(あおやま くにお、1943年 - )は、日本の元裁判官。退官後は、名城大学法務研究科(法科大学院)教授、弁護士(愛知県弁護士会所属)。
中村 良三(なかむら りょうぞう、1942年11月12日 -… 中村 良三(なかむら りょうぞう、1942年11月12日 - )は、日本の柔道家。講道館九段を取得している。 現役時代は全日本選手権出場等の実績を持ち、引退後は母校・東京教育大学および筑波大学にて教授や柔道部監督、国際柔道連盟教育理事等を歴任した。 富山県高岡市の生まれで、小学校低学年の時に母親の友人の女性から勧められて柔道を始めた。市立高陵中学校にて後々まで生涯の師と仰ぐ事となる向健三と出会い、中学3年次に県大会で団体戦・個人戦とも優勝。高校は県下有数の進学校である県立高岡高校へ進み、卒業後1961年に東京教育大学へ入学して稽古に励んだ。大学4年次の1964年には日本の柔道家にとっての檜舞台である全日本選手権に東京地区代表として出場を果たしている。
二橋 正弘(ふたはし まさひろ、1941年12月27日 - … 二橋 正弘(ふたはし まさひろ、1941年12月27日 - )は、日本の官僚。元内閣官房副長官(事務担当)、元自治事務次官。 富山県出身。高岡高校を経て、東京大学法学部卒業後の1964年 自治省に入省。静岡県副知事、自治省財政局長などを経て、1999年自治省最後の事務次官に就任。2003年9月から第1次小泉内閣第2次改造内閣以降の小泉内閣で内閣官房副長官(事務担当)を務めた。2006年9月の安倍内閣発足、的場順三の起用に伴い退任するが、2007年9月発足した福田康夫内閣で再起用される。経験者の再起用は異例。 2008年9月発足の麻生内閣発足に伴い退任、財団法人自治総合センター理事長に復帰した。
木崎 さと子(きざき さとこ、1939年11月6日 - )は… 木崎 さと子(きざき さとこ、1939年11月6日 - )は、日本の小説家。芥川賞作家。 旧満洲国の新京(現在の長春)に生まれる。本名は原田正子。父は応用化学者の横山辰雄(1904年 - 1993年、1927年東京帝国大学理学部応用化学科卒業、1961年工学博士、富山大学名誉教授)。4歳で母を失い、継母に育てられる。皆川博子は従姉(父の妹の長女)で、少女時代に文学を教えられた。敗戦時、満洲でソ連兵や中国人の横暴を目の当たりにする。引き揚げ後、沼津、富山へ移る。富山県高岡市で少女期を送り、1958年、富山県立高岡高等学校を経て、1960年、東京女子大学短期大学部英文科卒業。帝人に就職する。1962年、植物発生生理学者の原田宏(1930年6月1日 - 2023年1月7日、筑波大学名誉教授)と結婚し、渡仏する。
三浦 安子(みうら やすこ、1938年12月18日 - )は… 三浦 安子(みうら やすこ、1938年12月18日 - )は、日本のドイツ文学・キリスト教学者、東洋大学名誉教授。 富山県立高岡高等学校卒。1961年、東京大学教養学部教養学科ドイツ分科卒、同大学院比較文学比較文化修士課程入学1962年10月、病気休学。1965年9月、西独ハンブルク大学留学。1967年、帰国。1968年、修士課程修了、1972年、博士課程単位取得満期退学。東洋大学文学部専任講師(ドイツ語)、1974年、助教授、1986年、教授、1992年、老人介護のため退職、非常勤講師、1994年、教授復帰、2000年、経済学部教授。2009年、定年退任、名誉教授。
松下 武義(まつした たけよし、1938年2月10日 - )… 松下 武義(まつした たけよし、1938年2月10日 - )は日本の実業家、徳間書店代表取締役相談役、多摩大学大学院経営情報学研究科客員教授、元・加州住友銀行代表取締役会長、元・東京総合信用代表取締役社長、クオーク初代代表取締役会長、元・大映代表取締役社長、元・徳間ジャパンコミュニケーションズ代表取締役会長。 1938年生まれ。富山県高岡市出身。高岡市立中田小学校、高岡市立中田中学校を経て、富山県立高岡高等学校にて学んだ。上京し、学習院大学の政経学部に入学し、1960年に卒業する。 大学卒業後、住友銀行に入行する。1985年に取締役となり、以降1988年に常務、1991年に専務に就任した。1992年、住友グループに属する信販会社である東京総合信用の社長に就任した。
藤子 不二雄Ⓐ(ふじこ・ふじお・エー(エイ)、本名:安孫子 … 藤子 不二雄Ⓐ(ふじこ・ふじお・エー(エイ)、本名:安孫子 素雄(あびこ もとお)、1934年3月10日 - )は、日本の漫画家。コンビ解消後は本名で紹介されることも多い。大垣女子短期大学客員教授。座右の銘は「明日にのばせることを今日するな」。血液型はA型。
崎田 文二(さきた ぶんじ、1930年 - 2002年8月3… 崎田 文二(さきた ぶんじ、1930年 - 2002年8月31日)は、日本の物理学者。専門は素粒子物理学。富山県東礪波郡井波町(現在の南砺市) 出身。
河 文雄(かわ ふみお、1924年10月7日 - 1991年… 河 文雄(かわ ふみお、1924年10月7日 - 1991年1月30日)は、富山県高岡市出身の元プロ野球選手。 高岡中学校(現:富山県立高岡高等学校)では「富山球界一の投手」として話題になる。しかし、在籍中は高岡商業や富山商業の前に敗れ、甲子園には縁が無かった。最上級年においては、1941年の甲子園は戦争のために中断となり、富山県では予選すら行われなかった。高岡中時代は、「嘆きのエース」とも呼ばれていた。卒業後、満州に渡り、満鉄倶楽部に所属した。戦後は、母の故郷である北海道に住み小樽野球協会に所属。1948年には、第19回都市対抗野球大会に出場している。この都市対抗野球では、小樽野球協会は初戦となった対西日本鉄道戦で敗れ敗退した。
山内 邦臣(やまのうち くにおみ、1915年5月28日 - … 山内 邦臣(やまのうち くにおみ、1915年5月28日 - 1998年6月17日 )は、英米文学者。京都大学名誉教授。旧姓は「姉嵜 邦臣(あねざき)」。主としてユージン・オニールを研究。 1915年、奈良県奈良市生まれ。旧制奈良師範附属小学校、旧制奈良中学校、旧制高岡中学校を経て、旧制富山高等学校を1935年に卒業。京都帝国大学文学部(英文学専攻)に進み、1938年に卒業した。その後は同大学大学院に進み、1943年まで在籍した。 その後は文学部副手となり、1939年までつとめた。1939年より旧制大谷女子専門学校講師、1940年旧制龍谷大学予科教授、1944年旧制京都府立女子専門学校教授(1946年まで)、旧制第三高等学校教授(1948年まで)。
小林 與三次(こばやし よそじ、新字体:小林 与三次、191… 小林 與三次(こばやし よそじ、新字体:小林 与三次、1913年〈大正2年〉7月23日 - 1999年〈平成11年〉12月30日)は、日本の内務・自治官僚、実業家。自治省の設立に尽力したのちに下野。読売グループの要職を歴任した。正力松太郎は岳父。 正力家の土建資材を運ぶイカダ舟の船頭・小林助次郎の三男として、富山県大門町(現・射水市)に生まれる。 高岡中学校、第四高等学校を経て、1935年に東京帝国大学法学部独法科を卒業、東大在学中に、高等文官試験の司法科と行政科の両方に合格し、内務省に入省。後藤田正晴によれば、入省時の成績は抜群であったという。入省同期に参議院議員の原文兵衛、陸上幕僚長の山田正雄らがいる。
高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)… 高井 悌三郎(たかい ていざぶろう、1911年(明治44年)1月3日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の考古学者・教育者。考古学者としては、日本の地方郡衙の調査研究で先駆的な成果を上げた。元甲陽学院中学校・高等学校教諭。 1911年(明治44年)1月3日、富山県射水郡伏木町(現・高岡市)中道に生まれる。伏木町立尋常高等小学校、富山県立高岡中学校、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)4月に京都帝国大学文学部に入学。大学では西田直二郎らの教えを受ける。大学を1934年(昭和9年)3月に卒業した翌月に茨城県立水戸第二高等女学校講師兼茨城県女子師範学校(茨城県女子師範学校は後,茨城師範学校となる)講師として茨城県に着任する。
八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 196… 八嶋 三郎(やじま さぶろう、1906年1月3日 - 1968年6月3日)は、日本の都市計画家、行政官僚。 内務省や厚生省、建設省で官僚として活動し、全国区画整理協会連合会会長、歴史的風土審議会委員、帝都高速度交通営団管理委員会委員、財団法人都市計画協会理事を歴任した。 富山県新湊町(現・射水市)に生まれる。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)から旧制第四高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に入学する。在学中高等文官試験に合格し、1930年に卒業後、内務省に勤める。福島県や岩手県、愛知県、兵庫県を転任し、1942年鹿児島県官房長となる。1943年に福島県経済部長に移る。ここまでは警察や経済部といった部署を歩んだ。
梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月… 梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月12日)は昭和初期のの社会運動家、農民運動家、日本共産党員。富山県で農民運動を指導した後上京し、日本共産党中央委員会の農民部員として活動した。梶哲二の表記もある。 富山県西礪波郡立野村(現高岡市)で商家の次男として生まれる。1922年旧制高岡中学(現富山県立高岡高等学校)を卒業すると、伯父を頼りに上京、川崎銀行に就職した。しかし、向学心を捨てきれず、1923年に青山学院に入学する。翌1924年、学生連合会参加組織「社会思想研究会」が学校に公認されるとこれに加わる。このころから社会主義者であり、弟の謙三が哲次の寄宿舎を訪ねた際、押入れを本棚にし、マルクスの肖像が飾ってあった。
筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月… 筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月28日 - 1971年(昭和46年)4月21日)は、富山県高岡市桐木町出身の歌人。父は俳人の筏井竹の門で、長男として生まれた。 高岡中学校を卒業。詩人、童謡作家、歌人である北原白秋の『桐の花』に感銘を受け、1914年(大正3年)に巡礼詩社および短歌雑誌『日光』に入会、白秋に師事する。1921年(大正10年)に上京し、音楽専科の小学校教師として働く。 白秋門下としては珍しく昭和初期のモダニズム短歌運動に同調し、1928年(昭和3年)、歌人の坪野哲久、前川佐美雄らと共に新興歌人連盟を結成。また、村野次郎主宰の歌誌『香蘭』の選者を担当した。1935年(昭和9年)、白秋が創刊した『多磨』に参加を乞われたが辞退。
工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 19… 工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 1970年7月2日)は、日本の柔道家(講道館9段・大日本武徳会範士)。 戦前の明治神宮競技大会等で活躍して古賀残星の選抜した“柔道十傑”の1人に数えられ、旧制浦和高校助教授を経てドイツに留学し柔道の普及に尽力。後には警視庁にて逮捕術制定の任に当たって講道館審議委員や全日本柔道連盟の理事を務めるなど、柔道界の大家として知られた。 青森県弘前市富田に生まれ富山県で育った。県立高岡中学校(現・県立高岡高校)在学中に磯貝一の実兄である誠三(のち6段)の手解きを受け、1916年に同校を卒業後は上京して東京高等師範学校体育科に進学し、生来の研究熱心も手伝い永岡秀一の指導のもとで以前にも増しその腕を上達させた。
高辻 武邦(たかつじ たけくに、1896年(明治29年)10… 高辻 武邦(たかつじ たけくに、1896年(明治29年)10月1日 - 1963年(昭和38年)3月21日)は、日本の内務官僚、政治家。第2代富山県知事(1948年11月23日 - 1956年9月30日、2期)。孫に第6代北海道知事を経て参議院議員となった高橋はるみ、元日本海ガス・日本海ガス絆ホールディングス社長で、富山県知事の新田八朗がいる。 富山県出身。高岡市・高辻喜作の二男。旧制富山県立高岡中学校、旧制第二高等学校卒業。1922年、文官高等試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省。山口県属。引揚援護院次長を経て、官選最後の大阪府知事(第35代・1947年3月11日 - 1947年4月12日)。
吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 19… 吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 1956年9月8日)は、日本の建築家。庭園研究家としても知られる。逓信建築の先駆者のひとりであり、多くのモダニズム建築を設計した。著書の『日本の住宅』(1935年)は、日本の伝統建築について西洋の言葉で書かれた出版物の中で最も影響力のあった一冊と言われる。 1894年(明治27年)、富山県東礪波郡福野町(現・南砺市)に郵便局長を務める五島寛平の三男として生まれた。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)を卒業後、美術学校への進学を志望したが兄の反対に遭って断念した。旧制第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学建築学科を卒業した。
卯尾田 毅太郎(うおた きたろう、1894年(明治27年)4… 卯尾田 毅太郎(うおた きたろう、1894年(明治27年)4月8日 - 1945年(昭和20年)6月16日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、新湊町長。 富山県射水郡新湊町四十物町(現射水市八幡町)で、卯尾田兵次郎、やい夫妻の長男として大井清平宅で生まれる。文珠寺尋常高等小学校高等科を経て、1914年(大正3年)3月、富山県立高岡中学校を卒業。同年4月、早稲田大学商科に入学し、1918年(大正7年)7月に卒業した。 大学卒業後、神戸市の下里貿易商会に入社。1923年(大正12年)2月、新湊立憲青年党を結成し総理に就任。1927年(昭和2年)9月、富山県会議員に当選。以後、名誉職参事会員、新湊町長(6期)、新湊町職業紹介所長、都市計画富山地方委員会委員、新湊警防団長などを務めた。
室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月… 室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月20日 - 1977年(昭和52年)3月21日)は、日本の作曲家。本名は清太郎(せいたろう)。童謡「夕日」の作曲者。
田中 良雄(たなか よしお、1890年1月24日 - 196… 田中 良雄(たなか よしお、1890年1月24日 - 1964年10月7日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。住友家評議員会委員。 1890年(明治23年)、富山県射水郡浅井村(現射水市)に生まれる。高岡中学校、第四高等学校卒業。1915年(大正4年)、東京帝国大学法学部を卒業し、同年6月住友総本店(住友財閥)に入社。人事部人事課長、人事部長を経て、1937年(昭和12年)住友電線(現住友電気工業)専務、1941年(昭和16年)住友本社常務理事に就任。1947年(昭和22年)に退職した後、住友工業高等学校理事長や住友病院理事長、大阪市教育委員長などを務めた。
館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968… 館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968年9月27日)は、日本の内務官僚・政治家。参議院議員(3期)、府県知事。旧姓・木津。 富山県高岡市出身。木津太郎平の二男として生まれ、後に館萩江の入夫となり改姓。富山県立高岡中学校、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、内務省に入り岐阜県属として内務部学務兵事課に配属された。1917年(大正6年)10月、文官高等試験に合格した。 1918年(大正7年)4月、岐阜県警部となる。以後、同県警視・警務課長兼工場課長、同県内務部産業課長、神奈川県外事課長、茨城県知事官房文書課長兼内務部社会課長、内閣書記官、内閣官房記録課長、同総務課長などを歴任。
河辺 正三(かわべ まさかず、1886年(明治19年)12月… 河辺 正三(かわべ まさかず、1886年(明治19年)12月5日 - 1965年(昭和40年)3月2日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。 1886年(明治19年)12月、富山県礪波郡苗加村(東礪波郡東野尻村、砺波町を経て現砺波市)に河辺純三の三男として生まれる。終戦時の参謀次長河辺虎四郎中将(陸士24期、陸大33期優等)、瀧田俊吾軍医大佐は実弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした。 旧制高岡中学校を経て、陸軍士官学校(19期)、陸軍大学校(27期優等)卒業。 1907年(明治40年)12月26日、歩兵少尉に任官して 石川県野田村に駐屯していた歩兵第35聯隊附から軍歴をはじめて以降、主要な経歴として名古屋歩兵第6連隊長、教育総監部第一課長、支那駐屯歩兵旅団長、第3軍司令官、支那派遣軍総参謀長、緬甸方面軍司令官、中部軍司令官、航空総軍司令官、第1総軍司令官、第1復員司令官を歴任した。
河合 良成(かわい よしなり、明治19年(1886年)5月1… 河合 良成(かわい よしなり、明治19年(1886年)5月10日 - 昭和45年(1970年)5月14日)は、日本の農商務官僚、政治家、実業家。富山県高岡市名誉市民。
飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - … 飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - 1982年10月13日)は日本の分析化学者、理学博士。1917年9月創立間もない財団法人理化学研究所 (通称:理研) に入所し、主に放射性鉱物と希元素の研究を行う。1919年イギリスに留学し、オックスフォード大学のフレデリック・ソディ教授のもとで放射化学を学んだ。帰国後、日本では未開拓の分野だった放射化学を導入し基礎を築き確立させた功績、放射性鉱物の研究に生涯を捧げた科学者として「日本の放射化学の父」と呼ばれている。太平洋戦争中は、理研の仁科芳雄を中心に進められた原子爆弾開発研究 (二号研究) に加わり、ウラン鉱の探索・採掘・精製を行なった。戦後は人造宝石の研究を行い、ビクトリア・ストン、メタヒスイをはじめとする一連の人造宝石 (IL-stoneと総称) の発明者としても知られている。
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年… 正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日)は、日本の警察官・内務官僚、実業家、政治家。読売新聞社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。 読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、読売中興の祖として大正力(だいしょうりき)と呼ばれている。 読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したためにプロ野球の父と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したためにテレビ放送の父と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために原子力の父とも呼ばれる。
松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月… 松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1971年〈昭和46年〉8月21日)は、日本の政治家。 富山県福光町(現在の南砺市)出身の実業家、政治家。 5回にわたり中国を訪問。1970年には、周恩来首相から日中貿易継続を許される企業の条件を示された。そこで、台湾に多くの投資を行い、援助している企業との取引は拒否すると言い渡される。そうして、日中国交正常化の地固めをした。幣原内閣では農林大臣として第1次・第2次農地改革に携わった。 生家は薬種商を営む地主の素封家で、その長男である。実母は事情があって2歳の時に松村家を離れ、継母によって育てられる。腹違いの弟と妹がいた。 立本小学校尋常科・高等科を優秀な成績で卒業して富山の県立一中(富山中学)に入学した。
今 市子(いま いちこ、4月11日 - )は、日本の漫画家。… 今 市子(いま いちこ、4月11日 - )は、日本の漫画家。富山県氷見市出身。東京女子大学文理学部卒業。AB型。
三浦 健人(みうら けんと)は、日本の実業家。トムソン・ロイ… 三浦 健人(みうら けんと)は、日本の実業家。トムソン・ロイター株式会社にて、代表取締役社長を務める。 トムソン・ロイター参画前は、Apple Japanにて、iPhone、Apple Payなど日本国内でのサービスや製品の立ち上げに長く携わった後、パーセフォニ(脱炭素ソリューション関連の米企業)のジャパン・カントリーマネージャーに就任していた。 富山県高岡市出身。富山県立高岡高等学校、東京大学工学部卒業。 トムソン・ロイター株式会社の代表取締役社長に2024年7月に就任。 トムソン・ロイター参画前は、パーセフォニにて日本法人代表を務め、AIなどのテクノロジーを活用し、企業や金融機関の脱炭素を促進した。
河内 正孝(かわうち まさたか)は、日本の元郵政・総務官僚。… 河内 正孝(かわうち まさたか)は、日本の元郵政・総務官僚。総務省大臣官房総括審議官、KDDI総研代表取締役副社長、日本無線協会理事長等を経て、YRP研究開発推進協会会長。 富山県立高岡高等学校卒業後、1978年金沢大学大学院工学研究科電子工学専攻修士課程修了、郵政省入省。1981年アジア・太平洋電気通信共同体(APT)事務局員。1986年郵政省通信政策局国際企画課課長補佐。1997年郵政省電気通信局電気通信事業部電気通信技術システム課長。1999年郵政省放送行政局放送技術政策課長。2001年総務省情報通信政策局技術政策課長。2002年総務省総合通信基盤局電波部電波政策課長。2004年総務省信越総合通信局長。
鶴 宏明(つる ひろあき)は、日本のアニメ映画プロデューサー… 鶴 宏明(つる ひろあき)は、日本のアニメ映画プロデューサー、ゲームプロデューサー。ポケモン代表取締役等を経て、江副記念リクルート財団代表理事、日本バスケットボール協会理事、ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ理事、Tリーグ理事。 高岡市立志貴野中学校、富山県立高岡高等学校を経て、1983年一橋大学卒業、日本リクルートセンター(のちのリクルートホールディングス)入社。 橘慶一郎衆議院議員は中学・高校の同級生。武市敬元東京都副知事や田中俊和元住友不動産販売代表取締役社長は大学のテニス仲間。村井満元Jリーグチェアマンはリクルートの同期。 ポケモン代表取締役を務め、日本のアニメーションの海外展開に携わり、2005年には新設されたポケモンラーニング代表取締役社長に就任。
屋敷 利紀(やしき としのり)は、日本の官僚、銀行家。金融庁… 屋敷 利紀(やしき としのり)は、日本の官僚、銀行家。金融庁総合政策局長。 富山県立高岡高等学校卒業後、京都大学文学部に進学。文学部へ進学した理由について「歴史学者を目指していた。文学部を選んだのもそのため」としている。巨漢として知られており、高校時代は柔道部に所属。大学入学時点で身長187.5cm、体重100kgを超える恵まれた体型もありアメリカンフットボール部から熱烈な勧誘を受けていたが断っていた。しかし、監督から両親への働き掛けもあり、屋敷はアメリカンフットボール部に入部し頭角を現す。4年時に主将に就任し、京都大学ギャングスターズの黄金期を築いた。アメリカンフットボールに打ち込むあまり学業が疎かになり屋敷は留年し、5年時にアメリカンフットボール部コーチを務めた。
若森 資朗(わかもり しろう)は、日本の実業家、政治活動家。… 若森 資朗(わかもり しろう)は、日本の実業家、政治活動家。 富山県出身、富山県立高岡高等学校卒業、明治大学工学部中退。 1970年ごろには学生運動、全共闘運動を行っていた。これに一区切りをつけて、以降は生協で活動を行う。 2002年ごろの専務だった時には、生協とは事業面ばかりが強調されており、生協は物を売る組織というイメージが強くなっていることから、こうした古いイメージから脱却して新しい生協を作ることを考える。21世紀型生協を作ることにして、個人を対応する無店舗の事業を作ることにする。そこでは班として組織化して事業をして、班の中でいろいろなことを解決していこうという考えであった。その時には班で行動できない個人が世の中に多くいて、そのような個人に視点を置いて、ネットワークを作り、組織的にどのように支援や保障をできるのかを考えた。