阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 19… 阿部 孝次郎(あべ こうじろう、1897年1月3日 - 1990年10月18日)は、日本の実業家。東洋紡績社長・会長。阿部房次郎の長男。滋賀県出身。 滋賀県出身。知られた美術蒐集家でもあった阿部房次郎とゑみの長男として生まれる。大正10年(1921年)、京都帝国大学工学部機械工学科卒業。 同年父・房次郎が社長を務める東洋紡績に入社。昭和17年(1942年)取締役、昭和21年(1946年)常務を経て、昭和22年(1947年)社長に就任。昭和34年(1959年)会長、昭和41年(1966年)相談役、のち名誉顧問となる。 この間、日本紡績協会委員長、関西経済連合会第6代会長、日本繊維機械学会副会長・会長なども務めた。
朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1… 朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1960年2月22日)は、愛媛県西宇和郡三瓶町(現西予市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は宮本 延近。身長173cm、体重90kg。最高位は東前頭2枚目(1927年5月場所)。引退後は年寄佐ノ山として後進の指導につとめた。 同郷の大関朝汐の佐ノ山部屋に入門し、1914年1月場所に初土俵を踏んだ。稽古熱心で順調に昇進し、1918年5月に、朝見藤と名乗って十両に昇進、1922年1月には朝見富士と改めて新入幕を果たした。その間、師匠が亡くなったので本家の高砂部屋に移籍した。また、入幕後に朝響と改名している。 1926年5月場所、1927年1月場所と連続して8勝3敗と好成績を収めたのがピークであった。
野溝 七生子(のみぞ なおこ、1897年〈明治30年〉1月2… 野溝 七生子(のみぞ なおこ、1897年〈明治30年〉1月2日 - 1987年〈昭和62年〉2月12日)は、日本の小説家・比較文学者。兵庫県姫路市出身。 父の野溝甚四郎は陸軍軍人で、父の赴任先である姫路にて1897年に生まれ、鳥取・金沢・丸亀・大分などで育つ。 香川県立丸亀高等女学校、大分県立大分高等女学校を経て同志社女学校英文科専門部予科に入学。在学中、辻潤・宮島資夫と知合う。彼らは野溝をゲアハルト・ハウプトマンの『沈鐘』(泉鏡花『夜叉ヶ池』の元ネタと言われる)のラウテンデラインに因んで「ラウ」と呼んだ。卒業後、東洋大学専門学部文化学科で西洋哲学を学ぶ。
桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897… 桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897年)1月2日 - 平成5年(1993年)8月24日)は、大正時代の大相撲力士。春日山部屋→立浪部屋所属。本名は冨永 惣治。最高位は西十両2枚目。 千葉県天羽郡湊町(現・富津市)出身。高等小学校卒業後、14歳の時家出同然で上京。畳屋で働いた後、春日山部屋へ入門し、緑嶌友之助の内弟子となる。明治45年(1912年)5月場所「湊浪」の四股名で初土俵を踏む。大正3年(1914年)1月、序ノ口に上がり、初めて番付に載った。翌大正4年(1915年)5月に師匠緑嶌が引退し、立浪部屋として正式に独立したのに伴い移籍した。大正7年(1918年)1月、三段目で「桐ノ花」に改名。
三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1… 三島 通陽(みしま みちはる、1897年(明治30年)1月1日 - 1965年(昭和40年)4月20日)は、日本の政治家・小説家・劇作家・演劇評論家。位階・勲等・爵位は正三位勲二等子爵。二荒芳徳とともにボーイスカウト運動を日本に広めた人物として知られる。東京府麻布区生まれ、学習院中退。ペンネームに三島 章道(みしま しょうどう)。 祖父は三島通庸。父は第8代日本銀行総裁を務めた三島弥太郎、母は四条隆謌侯爵の三女・加根子。妹・壽子の夫は阪谷希一、妹・梅子の夫は土方与志。妻は松岡均平の長女・純。叔父に三島弥彦がいる。 幼少期から文学に親しむ。一方で、祖母・和歌子から薩摩の郷中の掟を教わる[要出典]。
四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - … 四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - 1980年11月28日)は、日本の法学者・弁護士・裁判官・実業家。商法学者。法学博士(中央大学)。元中央大学理事長・総長・学長。兵庫県養父郡八鹿町出身
四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - … 四代升本 喜兵衛(ますもと きへえ、1897年1月1日 - 1980年11月28日)は、日本の法学者・弁護士・裁判官・実業家。商法学者。法学博士(中央大学)。中央大学理事長・総長・学長。兵庫県養父郡八鹿町(現:養父市)出身。升本喜兵衛3代目の娘婿。 1915年旧制海城中学校卒業。1919年中央大学法学部卒業。司法官試補。東京地方裁判所判事。1924年東京地方裁判所退官。弁護士登録。商法研究のためにドイツ、イギリスに留学( - 1927年)。1928年中央大学法学部教授に就く。1941年中央大学評議員。1947年中央大学理事( - 1951年)。1951年中央大学法学部長( - 1957年)。1960年中央大学理事( - 1974年)。
二木 謙吾(ふたつぎ けんご、1897年〈明治30年〉1月1… 二木 謙吾(ふたつぎ けんご、1897年〈明治30年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉12月22日)は、日本の政治家、教育者、実業家。初代学校法人宇部学園理事長、宇部興産顧問、山口県議会議長、参議院議員(3期)、大蔵政務次官、自由民主党両院議員総会長。 1897年(明治30年)、宇部村(現宇部市)に生まれる。福岡県で炭鉱業に参画するが経営的には失敗し帰郷、山口師範学校本科第一部を卒業し教員に転身する。教育者としての頭角を現した二木は、公立学校長など要職を務めるうちに宇部市の教育界で信頼を得、1942年(昭和17年)12月に蔵原経智から宇部女子商業学校の学校運営を受託、同校の理事長兼校長に就任し学校経営に参入する。
五鬼上 堅磐(ごきじょう かきわ、1897年1月1日 - 1… 五鬼上 堅磐(ごきじょう かきわ、1897年1月1日 - 1971年3月7日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事、学校法人中央大学理事長。三重県熊野市出身。 1922年(大正11年)中央大学法科2年を終えた後で同年9月に弁護士試験に合格し、法律家生活をスタートした。 弁護士を続け、1946年(昭和21年)5月に大審院検事となり、同年6月に司法大臣官房秘書課長、1947年(昭和22年)12月に最高裁判所事務総局事務次長を歴任。 1950年(昭和25年)6月に最高裁判所事務総長となり、約8年間、司法行政の総元締めとして、裁判所部内や最高裁機構改革問題(1957年に最高裁機構改革法案が国会に提出されるも廃案)などに取り組んだ。
荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)… 荒尾 静一(あらお せいいち、1897年1月 - 没年不詳)は、日本の元俳優、舞踏家、振付師、元オペラ歌手である。荒尾 靜一と表記されることもある。本名及び旧芸名は吉冨 一郎(よしとみ いちろう)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人であり、東京少女歌劇団の花形としても知られる。 1897年(明治30年)1月、鹿児島県に生まれる、とされている。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)には、生年は「明治三十年五月十三日」(1897年5月13日)である旨が記されている。また、2000年(平成12年)4月1日に発行された『日本映画興亡史 マキノ一家』(ワイズ出版)には、生年・出生地は不詳としている。 旧制・海城中学校(現在の海城高等学校)在学中から音楽研究所で声楽を学び、1912年(明治45年)、同中学校卒業後は早稲田大学に進学する傍ら高田舞踊団に入団、西本朝春らと同じ小学校出身の高田雅夫、石井漠らに師事して舞踊を学ぶ。
野村 昊(のむら ひろし、1897年 - 1984年)は、日… 野村 昊(のむら ひろし、1897年 - 1984年)は、日本の撮影技師である。松竹キネマ(現在の松竹)を代表する映画カメラマンである。 1897年(明治30年)に愛知県名古屋市に生まれる。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)卒業後、麹町の東條會舘写真館に就職し、3年間写真術を学ぶ。日活向島撮影所で少し助手をやった後、満23歳を迎える1920年(大正9年)、水谷文二郎とともに同年設立された松竹キネマに入社、松竹蒲田撮影所に入社する。 同年、松竹映画第一作『島の女』で、ヘンリー・小谷監督のただ一人の撮影助手を務める。小谷に一番気に入られたのが野村で、3年間の写真館勤務の経験が役に立ち、現像の知識では野村の方が小谷より上だったのではという説もある。
池田谷 久吉(いけだや ひさきち、1897年(明治30年) … 池田谷 久吉(いけだや ひさきち、1897年(明治30年) - 1956年(昭和31年))は日本の建築家、郷土史家。 大阪、泉州を中心に社寺建築など伝統的な建築作品を多く手掛けた建築家である。また大阪府庁在職中から法隆寺五重塔の調査など古建築の研究調査を行い、退職後も発掘調査や文化財指定に携わるなど、歴史研究においても功績を残した。大阪府泉佐野市出身。 現在の泉佐野市に生まれる。1913年(大正2年)大阪市立大阪工業学校本科建築科入学。 卒業後、いくつかの会社を経て大阪府庁入庁。1922年(大正11年)大阪府建築監督官補となる。 1926年 (大正15年) 大阪府庁退職、池田谷建築事務所設立。1929年 (昭和4年) 大阪府史跡名勝天然記念物調査委員就任。
松田 享爾(まつだ きょうじ、1897年(明治30年)- 1… 松田 享爾(まつだ きょうじ、1897年(明治30年)- 1927年(昭和2年)3月)は日本の内務官僚でありキリスト教伝道者。内村鑑三に影響を受け、その配下である黒崎幸吉に師事した。岡山県真庭市出身。 1897年(明治30年)岡山県真庭郡美川村(現:真庭市)に生まれる。兄に松田壽比古がいる。地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。彼らはお互いに、影響を与えあった。特に、社会評論誌『第三帝国』を定期購読し、校内で宇野と熱心に政治論を戦わせた。
福井 健夫(ふくい たけお、1897年 - 1986年)は郷… 福井 健夫(ふくい たけお、1897年 - 1986年)は郷土史家。
雷 震(らい しん、1897年 - 1979年)は、中華民国… 雷 震(らい しん、1897年 - 1979年)は、中華民国の政治家・言論人。戦後台湾における白色テロの犠牲者。字は儆寰。 青年期に日本に留学し、1917年に中華革命党に参加。1926年、京都帝国大学法学部を卒業した後、大学院に進学し憲法を専攻した。同年中国に戻った後、1927年に母校である浙江省立第三中学(現在の湖州中学)校長に就任し、後に国民党政府法制局編審に任命され王世杰の部下となる。1932年には中国国民党南京党代表大会主席団主席、1934年7月には教育部総務司司長を歴任。日中戦争間は蔣介石の信任を得て国民参政会副秘書長などに任命される。1946年1月、政治協商会議(中国語版)秘書長に就任し、各党派の意見の調整に当たる。
山 六郎(やま ろくろう、1897年 - 1982年)は、日… 山 六郎(やま ろくろう、1897年 - 1982年)は、日本のイラストレーター、装丁家である。 1897年(明治30年)、高知県内、現在の安芸市に生まれる。 旧制・京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業後、中山太陽堂(現クラブコスメチックス)に入社した。 1922年(大正11年)に同社が併設した出版社・プラトン社に出向し、同年4月、中山太陽堂顧問の小山内薫編集のもと、山が装丁をし、タイトルロゴを制作し、扉絵等を描いた雑誌『女性』が創刊された。翌1923年(大正12年)、山の装丁に注目した山名文夫が入社、また編集者として、直木三十二(のちの直木三十五)、川口松太郎も入社し、同年12月には雑誌『苦楽』が、1926年(大正15年)1月には雑誌『演劇・映画』が創刊され、同誌および直木の手がけた単行本のヴィジュアル・ワークも手がけた。
佐々木 雄堂(ささき ゆうどう、明治30年(1897年) –… 佐々木 雄堂(ささき ゆうどう、明治30年(1897年) – 昭和39年(1964年))は、大正から昭和期の曹洞宗の僧侶。平安山龍泰寺(佐賀県佐賀市)の住持職(方丈)。郷土史家、教育家、思想家。 佐賀県佐賀市赤松町にある平安山龍泰寺の住職をつとめる佐々木家の長男として生まれる。佐々木家は代々、佐賀県神埼市の吉祥山泰蔵院住持職を世襲する寺家であり、佐賀県曹洞宗の名刹・龍泰寺の住職に晋山したものである。生母は佐賀藩士石井探玄(新蔵)の娘チカ。母方の家系は、佐賀藩祖鍋島直茂の正室陽泰院の甥石井茂成の子孫の家であった。 長じて、駒澤大学仏教学部に学び、卒業後、父の跡を継いで龍泰寺に仕え、住持職に就任。神埼市の泰蔵院の住持職をも兼務した。
斎藤 春彦(さいとう はるひこ、1897年(明治30年) -… 斎藤 春彦(さいとう はるひこ、1897年(明治30年) - 1972年(昭和47年))は、宮内省に奉職した日本の造園家。 長野県生まれ。1920年(大正9年)千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)卒業。同年宮内省内匠寮工務課庭園係に入る。1947年(昭和32年)に始まった新宮殿造営調査に関わる。新宮殿造営の宮内庁試案をまとめ、御住居吹上御所の新造園を手がける。1953年(昭和38年)に造営官補佐を経て退官。
石川 純一郎(いしかわ じゅんいちろう、1897年〈明治30… 石川 純一郎(いしかわ じゅんいちろう、1897年〈明治30年〉 - 1987年〈昭和62年〉)は、日本の建築家。1930年代から1940年代にかけて竹中工務店の看板建築家として活躍し、モダニスト建築家として朝日新聞社の社屋を多数手がけた。 東京帝国大学を卒業し、同期の蒲原重雄、吉田宏彦、土浦亀城、岸田日出刀らと建築家グループ「ラトウ」(ラトー建築会とも表記)を結成。1927年(昭和2年)、竹中工務店に入社。1930年(昭和5年)、竹中工務店設計部の命により鷲尾九郎とともにシベリア鉄道で欧州各地に向かい、鷲尾は劇場と病院、石川はオフィスビルをテーマに建築動向を視察した。1946年(昭和21)より同社設計部長に就任。
上浪 朗(うえなみ あきら、1897年-1975年)は、日本… 上浪 朗(うえなみ あきら、1897年-1975年)は、日本の建築家。逓信省営繕課で幾多の逓信建築にたずさわる。 1897年(明治30年)大阪生まれ。1922年(大正11年)東京大学工学部建築学科を卒業し、同年逓信省経理局営繕課に就職し、逓信省の建築家になる。同年経理局営繕課技師に任命。 1927年(昭和2年)、営繕磔謝欄殿計6班主査。この間、下記作品を設計の他、尼崎郵便局電話分室新築、堺郵便局電話分室新築、京都中央電話局祇園電話分局新築、福山郵便局電話分室、宮崎郵便局電話事務室新築、銚子無線電信所新築工事を担当 1946年(昭和21年)、航空局技師を兼任。 1957年(昭和32年)、逓信省退官。
乙部 泉三郎(おとべ せんざぶろう、1897年 - 1977… 乙部 泉三郎(おとべ せんざぶろう、1897年 - 1977年)は、東京府出身の図書館員。第2代県立長野図書館長(1932年-1949年)。 旧制京華中学を経て、東京帝国大学文学部教育学科卒業。1922年(大正11年)に南満州鉄道奉天図書館司書となり、1923年(大正12年)に南満州鉄道撫順図書館長となった。1929年(昭和4年)に県立長野図書館が開館すると司書となり、1932年(昭和7年)に第2代館長となった。農山村地域への青年団の設置を奨励し、簡易図書館の建設を推進した。太平洋戦争の戦況が悪化すると、帝国図書館の蔵書の疎開先として県立長野図書館を提供した。1949年(昭和24年)に館長を退任し、叶澤清介に後を任せた。
近藤 謙三郎(こんどう けんざぶろう、1897年 - 197… 近藤 謙三郎(こんどう けんざぶろう、1897年 - 1975年)は、日本の都市計画家。道路技術者。高知県生まれ。 高知県安芸町(現・安芸市)で生まれる。1921年、東京帝国大学工学部土木工学科卒業。東京市道路局に入り、銀座通りの改修工事に従事し、その舗装に日本初の木煉瓦を使う。 その後帝都復興院勤務を経て、内務省都市計画東京地方委員会技師となる。西新宿、新宿西口の専売公社淀橋工場跡地移転後の都市計画において、超過収用型の都市計画事業を成功させる。 1933年、満州国民政部の初代都市計画課長(民政部都邑科長)に転ずる。 1939年、満州国政府直轄の大東港建設局に副局長として転じ、鴨緑江河口港の大東港と人口100万の工業都市安東の建設責任者となる。
山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 195… 山家 亨(やまが とおる、1897年(明治30年)- 1950年(昭和25年)1月)は、日本陸軍の軍人、大佐。宣撫工作「山家機関」の責任者。中国名、王嘉亨(ワンチアホン)。川島芳子の初恋の相手としても知られる。 1897年(明治30年)、静岡市生まれ。1916年、静岡県立静岡中学校卒業、静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。1921年(大正10年)、陸軍士官学校(33期)卒業後、陸軍士官学校の委託生として東京外国語学校に入学、中国語、蒙古語、ロシア語を学んだ。松本第五十連隊機関銃隊付少尉(一説に中尉)のころ、満蒙ロビーの川島浪速への接近がきっかけで川島芳子と知り合って恋仲となり、中国語の手ほどきを受けた。
雪野 元吉(ゆきの もときち、1897年(明治30年)- 1… 雪野 元吉(ゆきの もときち、1897年(明治30年)- 1945年(昭和20年))は、日本の建築家。 名古屋市で生まれ、横浜市で育つ。1922年(大正11年)、東京美術学校(現東京芸術大学)建築科を卒業。同年宮内省内匠寮に入る。 1926年(大正15年)には陸軍砲兵少尉に任じられる。 1928年(昭和3年)、宮内省の命により欧米18ヶ国へ出張。1931年(昭和6年)より臨時帝室博物館造営課勤務となり、帝室博物館(現・東京国立博物館)の実施設計にあたった。1938年(昭和13年)、同博物館の完成とともに退官。川崎重工業に入り、船内装飾にたずさわる。 その後独立し、満州国の新京市忠霊塔などを設計。
千々岩 助太郎(ちぢいわ すけたろう、1897年 - 199… 千々岩 助太郎(ちぢいわ すけたろう、1897年 - 1991年)は、日本の建築家。建築学者。戦前台湾にわたり、台湾先住民の住居を研究・再現するなどの功績を遺した。台湾時代の教え子に郭茂林らがいる。 佐賀県出身。名古屋高等工業学校建築科を卒業後広島、名古屋、宮崎などの旧制中等工業学校で教鞭をとった。1925年に台湾にわたり、台北州立台北工業学校(現在の国立台北科技大学)建築学科の教員になった。1930年に台湾建築会に入会し、会長の井手薫とともに台湾建築会誌の編集を担当した。1940年2月から1940年5月までは台北州立台北工業学校の第六代校長を務めた。その後1944年から1947年までは台南工業専門学校(現在の台湾国立成功大学)建築学科長として教えていた。
亀井 幸次郎(かめい こうじろう、1897年 - 1974年… 亀井 幸次郎(かめい こうじろう、1897年 - 1974年)は、日本の都市防災研究者。都市計画、都市政策と住宅地、火災予防など防災の研究を進めた人物。日本大学教授を歴任。工学博士。東京生まれ。 日本大学旧工学部建築学科卒業後、内務省に入省。都市計画地方委員会技師第1期生。同期は内山新之助、榧木寛之、武居高四郎、藤田宗光、石川栄耀ら。その後帝都復興院、住宅営団を経て、日本損害保険協会に勤務。1948年から1968年まで、日本大学で後進の育成と研究にいそしむ。 主著に、建築災害としての大火性状に関する一連の研究 1958 学位論文、災害の構造学 都市・建築の防災工学 理工図書 (B5 ) 1969年、集團的住宅地の計晝、住宅営団編、1943年などのほか、住宅営団の海外住宅研究として、住宅地の新体制原理と計画や住宅地の設計など、トーマス・アダムスの著作を翻訳。
繁野 繁造(しげの しげぞう、1897年(明治30年)- 没… 繁野 繁造(しげの しげぞう、1897年(明治30年)- 没年未詳)は、日本の建築家。三重県出身。 日本大学高等工学校(日本大学理工学部の前身)を1923年(大正12年)に卒業後、神奈川県庁に入り神奈川県営繕管財課の技術者を務めた。
根岸 情治(ねぎし じょうじ、1897年 - 1971年)は… 根岸 情治(ねぎし じょうじ、1897年 - 1971年)は、日本の内務官僚、都市計画家。著述業。東京都出身。都市工学者・石川栄耀の事務方として長年多くの都市計画に携わり、根岸自身は区画整理実務家と称した。 青森県尻内で滋賀県出身の鉄道技師の子として生まれたが、実父の同僚だった根岸鉄三郎に養子に出され、東京に転居。石川栄耀は養父の甥に当たり、東京目白では隣家同士。目白中学から明治大学予科に進み、卒業後日本橋三越に就職。病気療養を経て、石川の斡旋で内務省都市計画愛知地方委員会から名古屋市内各地の土地区画整理組合で事務担当。27歳で退職し、雑誌編集や記者、劇団主宰などに携わったがうまくいかず、再び石川らの紹介で名古屋で土地区画整理事業に携わる。
林 将英(はやし まさひで、1897年(明治30年) - 1… 林 将英(はやし まさひで、1897年(明治30年) - 1961年(昭和36年))は、日本の政治家。長野県岡谷市長。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)生まれ。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業[要出典]。1915年(大正4年)から家業の製糸業に従事。1917年(大正6年)一年志願兵として歩兵第50連隊に入隊し、1930年(昭和5年)陸軍中尉に進んだ。経営困難に陥った山一林組製糸の経営再建に乗り出し軌道に乗せた。このほか、共栄製糸など諏訪地方の複数の中小製糸会社の社長を歴任。 1927年(昭和2年)3月、平野村助役となり1933年(昭和8年)3月まで在任。同年4月、平野村会議員となり1936年(昭和11年)3月まで務めた。
伊藤 四郎(いとう しろう、1897年(明治30年) - 1… 伊藤 四郎(いとう しろう、1897年(明治30年) - 1976年(昭和51年))は、昭和時代の洋画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
青嶋 次郎(あおしま じろう、1897年(明治30年) - … 青嶋 次郎(あおしま じろう、1897年(明治30年) - 1949年(昭和24年))は、日本の飛行家・実業家。青島文化教材社の創業者。 静岡県静岡市葵区両替町生まれ。 静岡尋常高等小学校(現・静岡市立葵小学校)卒業後、近くの建具店に奉公に出るが、1915年(大正4年)に家出同然で上京。 その後、伊藤音次郎を頼り、1917年に(大正6年)に工員として伊藤飛行機研究所に入る。1919年(大正8 年)には飛行機の操縦訓練を受けるようになり、1921年(大正10年)に、勤め先で知り合った女性と結婚。1923年(大正12年)に三等飛行機操縦士免状を交付され、退社。 翌1924年(大正13年)、安東練兵場の隣地に青島文化教材社の前身となる青島飛行機研究所を設立し、資金を集めてニューポール83型機「静岡号」で郷土訪問飛行を果たした。
上杉修(うえすぎ おさむ、1897年(明治30年) - 19… 上杉修(うえすぎ おさむ、1897年(明治30年) - 1979年(昭和54年))は、八戸市の郷土史家。 八戸町上組町生まれ。1922年(大正11年)から1932年(昭和7年)まで小中野町にタクシー会社を経営し、1933年(昭和8年)に番町に公衆浴場を営む。 郷土史家としても八戸藩日記など数多くの郷土資料を収集した。 1946年(昭和21年)に、八戸南部家の子孫から八戸藩日記などの資料を購入し、野田健次郎と八戸藩の研究に取り組んだ。その結果、1950年(昭和25年)に安藤昌益の家族構成などが判明した。 1967年(昭和42年)に、自宅が火災に見舞われたため、自身が所有していた八戸藩の資料が一部焼失した。
朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画… 朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画家。東京都本郷出身。 1897年、漢学者朝井国南の家に生まれる。はじめ川端玉章の川端画学校で、のち日本美術院研究所に学ぶ。1917年(大正6年)の再興第4回院展への最初の出品作が入選し、同作品が美術院の大物後継者、原三渓の目をひく。三渓の援助により、荒井寛方のインド旅行に観波も随行できることとなり、帰国後、インドでの研究成果を活かした制作に専念する。1918年(大正7年)と1920年(大正9年)の院展で入選した出品作はともにインドの伝統的絵画から着想を得て描いたものであった。1922年(大正11年)日本美術院を脱退。その後は荒木十畝に師事し読書会に所属、以後は平福百穂の画風に接近した作風で、帝展の入選を重ねる。
横田 嘉右衛門(よこた かえもん、1897年(明治30年) … 横田 嘉右衛門(よこた かえもん、1897年(明治30年) - 1981年(昭和56年)9月24日)は、日本の薬学者。製薬学(有機製造化学)を専門とした富山薬学専門学校校長、富山大学学長を歴任。学位は、薬学博士(東京帝国大学)、日本薬学会名誉会員。 福島県出身で、生家は薬屋、造り酒屋を営んでいた。会津中学、四高第二部薬学科を経て、1923年(大正12年)に東京帝国大学医学部薬学科を卒業。同年1年志願兵として入営(陸軍三等薬剤官)。1925年(大正14年)、東大医学部助手に任ぜられる。 慶松勝左衛門教授(薬品製造学教室)の助手として勤務し、慶松との共同論文を発表した。横田は制癌剤合成研究の先駆者の一人である。
文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または… 文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または1899年 - 1973年11月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家。東萊郡郡守、制憲韓国国会議員、慶尚南道知事。本貫は南平文氏(朝鮮語版)。 釜山蓮山洞(現・釜山広域市蓮堤区蓮山洞)または福泉洞出身。私立東萊東明学校、東京正則英語学校、モスクワ東方共産大学卒。満洲の安東で中国人貿易商会の書記を務めながら、秘密政治結社の花郎徒に参加した後、1920年に朝鮮共産党に入党した。1922年10月、ベルフネウジンスクで開催された高麗共産党連合大会に出席し、党中央委員会第3書記部(国内)委員となった。
稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう、旧字:稻塚 權次郎、18… 稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう、旧字:稻塚 權次郎、1897年(明治30年) - 1988年(昭和63年)12月7日)は、日本の農学者。 緑の革命以降、世界に流通することになった小麦品種「ゲインズ」の親品種である「小麦農林10号」(ノーリン・テン)の育成者として知られる。 2015年に稲塚権次郎の生涯を描く映画『NORIN TEN〜稲塚権次郎物語〜』(稲塚秀孝監督)が公開された。
高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年… 高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年〉 - 1955年〈昭和30年〉9月18日)は、長野県岡谷市出身の洋画家。諏訪地域の美術界の草創期を支え、美術教育にも力を注いだ人物である。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校。教師に西岡瑞穂がいた)を経て、長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業。 1922年、岸田劉生に師事し、「夏牛」の雅号が贈られた。教員をしながら油絵を制作。母校である諏訪中学校で絵画部顧問を勤め、同部の教え子に矢崎博信がいる。 1937年、フランスへ留学しポール・セザンヌを研究。一水会会員、日展委嘱作家となった。
久野 源蔵(くの げんぞう、1897年(明治30年) - 1… 久野 源蔵(くの げんぞう、1897年(明治30年) - 1965年(昭和40年)4月16日)は、日本の政治家。愛知県三好村長、三好町長などを歴任。 愛知用水を引く運動に加わり、三好池の造成に尽力した。銅像がみよし市役所前に設置されている。 愛知県西加茂郡三好村(現・みよし市)に庄屋の子として生まれる。1917年3月、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。 1931年、三好村長(第11代)に就任。以後1945年まで就任。1952年、愛知用水土地改良区の理事に就任。1956年、三好村長(第16代)に就任。 1958年4月1日の三好村の町制施行により初代町長に就任。1960年、町長選挙で再選。
小那覇 舞天(おなは ぶーてん、1897年 - 1969年1… 小那覇 舞天(おなは ぶーてん、1897年 - 1969年1月25日)は沖縄県出身の演劇人、歯科医師である。本名・小那覇全孝。 国頭郡今帰仁間切(現在の今帰仁村)生まれ。旧制沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)から旧制日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を経て嘉手納で歯科医院を開業するかたわら、沖縄の伝統芸能の保存、普及に努め、また大衆演劇人として弟子の照屋林助とともに、占領下の焦土と化した沖縄で大きな人気を博し、沖縄のチャップリンと呼ばれた。
常葉 隆興(ときわ たかおき、1897年 - 1977年9月… 常葉 隆興(ときわ たかおき、1897年 - 1977年9月20日)は、日本の牧師、神学者。日本キリスト改革派教会の創立者の一人。 山形県の新庄藩の士族の常葉作太郎とその妻常葉ノブの長男として生れる。父は上山小学校校長であった。1915年(大正4年)沖縄県立第一中学校を卒業。東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学。 1918年(大正7年)に父が死去。叔父の常葉金太郎によってキリスト教信仰に導かれ、同年1918年、日本基督教会の指導者植村正久牧師より富士見町教会にて洗礼を受ける。 1920年(大正9年)、植村正久の創立した東京神学社に入学、1923年(大正12年)に卒業。同級生に熊野義孝。小野村林蔵牧師の司式で結婚する。
西 義雄(にし よしお、1897年 - 1993年3月29日… 西 義雄(にし よしお、1897年 - 1993年3月29日)は、臨済宗の僧、仏教学者。
金 載学(キム・ジェハク、朝鮮語: 김재학/金載學、1897… 金 載学(キム・ジェハク、朝鮮語: 김재학/金載學、1897年 - 1984年11月21日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。 号は白坡(ペクパ、백파)。 慶尚南道統営郡(現・統営市)出身。1912年に大阪工業専修学校(現・大阪大学)卒。茂朱郡茂豊鉱山を経営したほか、土木、建築業界で経営者として、また朝鮮土建協会(現・大韓建設協会)理事、朝鮮人土建共済組合長を務め、代表者としても活動した。そのほかに東亜日報統営支局長(1917年)、京畿道貨物自動車輸送協会理事長、ソウル市城東区中央市場協会理事長などを務めた。1948年の初代総選挙では韓国民主党所属で統営甲選挙区から出馬して当選、国会議員在任中は交通分科委員を務めた。
岩田 正俊(いわた まさとし、1897年(明治30年) - … 岩田 正俊(いわた まさとし、1897年(明治30年) - 1997年8月12日)は、日本の昆虫学者、寄生虫学者。近畿学校保健学会会長。 島根県荒島町(現:安来市)に生まれた。1923年に京都帝国大学理学部動物学科に入学、川村多実二に師事し、当時日本で全く研究が進んでいなかったトビケラの幼虫について研究を行った。鴨川や三井寺山内の細流などを調査のフィールドとし、1927年から1930年にかけて動物学雑誌に「日本産毛翅目研究 第1-5報」とした論文を発表、多くの新属新種を和名付きで記載した。また1927年には同大を卒業し、京都帝国大学附属の大津臨湖実験所に移って研究を続けた。 1930年に同研究所を離れて大阪医科大学(現:大阪大学医学部)に移り、吉田貞雄に師事して寄生虫の研究に従事した。
稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いなが… 稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いながき ひろたろう)、1897年(明治30年) - 1922年(大正11年)6月25日)は、大正時代の日本画家。京都市出身、 日本画家で工芸図案家の稲垣竹埠の長男に生まれ、克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として、将来を期待されながらも早逝した。 弟は型絵染の人間国宝に認定された染織家の稲垣稔次郎。 1912年(明治45年)に京都市立美術工芸学校(美工)に入学し、京都派の基礎とも言える写生技術を身につけた。1917年(大正6年)京都市立絵画専門学校(絵専)に進学し、翌1918年(大正7年)に美工出身者の研究団体「密栗会」に参加した。
伊藤 久秋(いとう ひさあき、1897年 - 1980年10… 伊藤 久秋(いとう ひさあき、1897年 - 1980年10月27日)は、日本の経済学者。青山学院大学経済学部名誉教授。立地論が専門。 長崎県出身。長崎高等商業学校卒、1944年「地域の経済理論」で京都帝国大学より経済学博士の学位を取得。長崎高等商業学校教授、1926年までドイツ・フライブルクに学び、のち青山学院大学経済学部教授。1968年定年、名誉教授、大東文化大学教授。
春日 俊吉(かすが しゅんきち、1897年 - 1975年7… 春日 俊吉(かすが しゅんきち、1897年 - 1975年7月7日)は、大正・昭和期の登山家・ノンフィクション作家。本名は伊藤照雄。 現在の千葉県山武市(旧松尾町)出身。1920年に早稲田大学英文科卒業後に読売新聞社に入り、新聞記者をする傍ら、登山家・作家活動を行う。 学生時代に木曽駒ヶ岳大量遭難事故を知って山岳遭難事故に関心を抱くようになり、遭難事故に関する多くの著作を著した。『中央公論』及び『山と渓谷』両誌に掲載されたものを纏めた『日本山岳遭難史』(三省堂、1933年)は、日本の山岳遭難記の先鞭と言える。しかし、参考文献の欠如や感傷的で興味本意の文章が多いとする批判もある。 主な著作に『日本山岳遭難史』、『登山遭難の実相と対策』、『山岳遭難記』(全6巻)、『山と雪の墓標 松本深志高校生徒落雷遭難の記録』、『山の遭難譜』などがある。
具 中会(ク・ジュンフェ、朝鮮語: 구중회/具中會、1897… 具 中会(ク・ジュンフェ、朝鮮語: 구중회/具中會、1897年または1898年4月21日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の教育者、独立運動家、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の政治家。号は蓮波(ヨンパ、연파)。天道教徒。 同じく独立運動家の具南会は弟。 慶尚南道昌寧郡霊山面出身。霊山公立普通学校(現・霊山初等学校)、普成中学校卒。己未独立運動での投獄を経て、しばらく周時経の下で韓国語文を学んだ後、早稲田大学高等師範学校英文科(現・早稲田大学教育学部)に留学し1926年に卒業した。大卒後は密陽郡北面私立精進学校設立校長、馬山中学校校長、木浦女子高等学校校長を歴任し、天道教の宣教活動にも従事した。
清水 清(しみず きよし、明治30年(1897年)- 昭和7… 清水 清(しみず きよし、明治30年(1897年)- 昭和7年(1932年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。満州事変のハルビン占領前に陸軍砲兵大尉で戦死、特進して少佐。 山口県長府町大字門峠の出身。1921年(大正10年)7月27日、陸軍士官学校33期卒業。1931年8月、砲兵大尉となる。 小倉野戦重砲兵隊所属であった1932年1月27日、ハルビン飛行場を偵察中、搭乗した八八式偵察機570号が反吉林軍からの対空砲火により被弾し、ハルビン郊外に不時着した。操縦士の福井中尉が陸軍特務機関に報告と来援を請いに向かった間、反吉林軍騎兵に包囲され、射殺された。
両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2… 両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2月4日)は、日本の銀行家、考古学者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。父は教育者の両角新治。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業した。長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)にあった小口(おぐち)銀行(現・八十二銀行)に勤務。旧制諏訪中学の同級生に彫刻家清水多嘉示がおり、生涯にわたって親交があった。1923年清水が絵画修行のために渡仏した際には、両角と立木茂が中心となり「渡欧後援画会」を組織し、フランス滞在時の清水の芸術を支えた。また、渡仏滞在費用は清水の父親と渡欧後援画会で支えた。その後、清水を通じて彫刻家アントワーヌ・ブールデルと交流があった。
黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1… 黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1976年(昭和51年)12月10日)は、日本の武術家。号は鉄心斎。身長165cm。黒田家に代々伝わってきた武術である民弥流居合術、駒川改心流剣術、四心多久間流柔術、椿木小天狗流棒術、誠玉小栗流殺活術を引き継ぐ振武館の道場主。父は黒田正郡。振武館の技は泰治の子の黒田繁樹、そして孫の黒田鉄山へと継承された。古武術の高度な理合を昭和の時代に体現することのできた達人であったと評される。 ※以上は孫の黒田鉄山が祖父から伝え聞いた話として著書等で語ったものである。