宝生 弥一(ほうしょう やいち、1908年(明治41年)7月… 宝生 弥一(ほうしょう やいち、1908年(明治41年)7月2日 - 1985年(昭和60年)3月11日)は、ワキ方宝生流(下掛宝生流)の能楽師。元の名は光本弥一郎。 愛媛県松山市のワキ方下掛宝生流能楽師・光本敬一の長男として生まれる。1918年に上京し、下掛宝生流家元宝生新に入門する。翌年、「小鍛冶」の大臣役で初舞台を踏む。1923年、関東大震災に遭い、松山に帰郷する。1931年、法政大学専門部商業科を卒業する。1933年、宝生新の次女と結婚する。その後、宝生家に入籍し、宝生姓を名乗る。1944年、宝生新の死に伴い、宝生彰彦の家元後見となる。 1970年以降、芸術祭優秀賞・紫綬褒章・芸術選奨文部大臣賞、1980年には日本芸術院賞を受賞。
小川 國松(おがわ くにまつ、1908年7月1日 - 没年不… 小川 國松(おがわ くにまつ、1908年7月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新字体表記小川 国松(おがわ くにまつ)、旧芸名澤村 國丸(さわむら くにまる、新字体表記沢村 国丸)、菊池 一郎(きくち いちろう)ほか変遷がある。映画・新派での子役出身で、松竹蒲田撮影所の少年スターから「純情型二枚目俳優」となる。 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる。父は同地で絹糸商を営んでいた。 旧制小学校在籍時、満8歳であった1916年(大正5年)11月12日に公開された天然色活動写真(天活)製作・配給、吉野二郎監督による『水戸三郎丸』に、「澤村 國丸」の名で五代目澤村四郎五郎らとともに出演、主演した記録がある。
関 守三郎(せき もりさぶろう、1908年(明治41年)7月… 関 守三郎(せき もりさぶろう、1908年(明治41年)7月 - 1990年(平成2年)8月7日)は、日本の外交官。外務省経済局長、駐スペイン特命全権大使、駐メキシコ特命全権大使、アジア生産性機構事務総長、外務省顧問。 新潟県長岡市出身。1926年第四高等学校理科乙類入学許可取消。1929年東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1932年同大学本科卒業。山岳部出身。 在英国大使館外務書記生、在ドイツ大使館外交官補、外務省通商局事務官、在中華民国大使館三等書記官、上海領事兼支那派遣軍渉外審判所検察官、徐州総領事等を経て、1945年中華民国三級同光勲章受章。同年外務省政務局第三課長。1946年終戦連絡中央事務局第二部第二課長。
野田 一雄(のだ かずお、1908年6月30日 - 1995… 野田 一雄(のだ かずお、1908年6月30日 - 1995年3月31日)は、日本の競泳選手。400m・800m・1500m自由形元日本記録保持者。 静岡県浜松市出身。静岡県立浜松商業学校(現・静岡県立浜松商業高等学校)卒業後、慶應義塾大学に進学。 1924年、浜商在学中にパリオリンピック代表に選出され、400m自由形・1500m自由形に出場。また、男子4×200mリレーにおいて小野田一雄、高石勝男、宮畑虎彦とともに4位の成績を修めた。 1925年、第7回極東選手権競技大会に出場。400ヤード第3位。 1926年、第5回全国学生水上競技大会に出場。100m・800m自由形優勝。 1928年アムステルダムオリンピックで水泳主将を務め、男子4×200mリレーの予選のみ出場した。
沼田 一夫(ぬまた かずお、1908年〈明治41年〉6月30… 沼田 一夫(ぬまた かずお、1908年〈明治41年〉6月30日 - 1965年〈昭和40年〉11月22日)は、福島県内郷市(現・いわき市)長。位階は従六位。勲五等双光旭日章。 青森県弘前市出身。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)、旧制第二高等学校を経て、東北帝国大学を卒業する。 卒業後は満州国に渡り、大同学院に入り、満州国の官吏となる。1943年、上海の満州国総領事館領事となる。終戦後は日本に引揚げ、経済安定本部に入り、同嘱託から経済査察官となった。 1951年、福島県内郷町の町長選挙に立候補し、当選する。1954年、内郷町の市制施行により、市長となる。1955年の市長選挙で再選。1959年と1963年の市長選挙で連続当選した。
古田 直弥(ふるた なおや、1908年6月27日 - 没年不… 古田 直弥(ふるた なおや、1908年6月27日 - 没年不詳)は、日本の実業家、帝国ホテル支配人、同常務取締役。 東京出身。立教大学を卒業後、帝国ホテルに入社。 同ホテル支配人を務めたのち、1965年(昭和40年)、同社常任監査役に就任。 1968年(昭和43年)、同社常務取締役に就任。 1970年(昭和45年)、同社常務取締役を退任。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石上 堅(いしがみ かたし、1908年〈明治41年〉6月26… 石上 堅(いしがみ かたし、1908年〈明治41年〉6月26日 - 1994年〈平成6年〉1月3日)は、国文学・民俗学者。東横学園女子短期大学名誉教授。 東京生まれ。1927年折口信夫に師事、1932年國學院大學文学部卒。1961年「神生誕発想胎生因子の研究」で國學院大學文学博士。東京都立大泉高等学校教諭、國學院大學講師、東横学園女子短期大学(現東京都市大学)教授を経て名誉教授。 1994年1月3日、胃潰瘍のため死去。
鬼頭 英一(きとう えいいち、1908年6月26日 - 19… 鬼頭 英一(きとう えいいち、1908年6月26日 - 1969年9月9日)は、日本の哲学者。 愛知県名古屋市出身。1930年東京帝国大学文学部哲学科卒。立教大学教授、武蔵高等学校教授、1951年金沢大学教授を経て、1965年九州大学文学部教授となる。昭和初期から実存主義哲学に着目し、ハイデッガー、ヤスパースらを紹介した。70年安保にむけての学園闘争のさなかの1969年9月9日、福岡市の博多東急ホテル浴室で、シャワー取り付け口にかけた布で首吊り自殺した。のち著作集全8巻が刊行された。
梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25… 梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25日 - 1987年(昭和62年)10月8日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍中佐。名は「覬」と表記される場合がある。 1908年(明治41年)6月25日、現在の広島県江田島市鷲部に、父・藤市と母・スギの9人兄弟の末っ子として生まれる。旧制呉中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)を経て、1925年(大正14年)4月、海軍兵学校に第56期生として入学、1928年(昭和3年)3月卒業。 装甲巡洋艦「八雲」、重巡洋艦「青葉」、航空母艦「赤城」その他に乗組、1930年(昭和5年)中尉に任ぜられる。その後、駆逐艦「菊」砲術長、駆逐艦「朝顔」、防護巡洋艦「対馬」、吹雪型駆逐艦「白雪」への乗組を経て、1934年(昭和9年)、海軍水雷学校高等科に学び、同年大尉に任ぜられる。
辻合 喜代太郎(つじあい きよたろう、1908年6月25日 … 辻合 喜代太郎(つじあい きよたろう、1908年6月25日 - 1993年7月2日)は、服飾史研究者。 大阪府出身。大阪天王寺師範学校卒、関西大学法文学部哲学科卒。1959年「日本上代文様の研究」で関西大学文学博士。大阪市立大学家政学部助教授、教授、京都府立大学教授。72年定年退官、琉球大学教授、帝国女子大学教授。
宗像 英二(むねかた えいじ、1908年6月24日 - 20… 宗像 英二(むねかた えいじ、1908年6月24日 - 2004年4月20日) は、日本の化学技術者。日本原子力研究所理事長や、日本原子力学会会長を務めた。 東京出身。旧制成蹊高等学校を経て、1931年東京帝国大学工学部応用化学科卒業、日本ベンベルグ絹糸入社。1968年日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)理事長。1973年日本原子力学会会長。1978年勲二等旭日重光章受章。2004年三鷹の病院で死亡。葬儀は宝仙寺。
川原 勝麿(かわはら かつまろ、1908年(明治41年)6月… 川原 勝麿(かわはら かつまろ、1908年(明治41年)6月24日 - 没年不明)は、昭和時代の政治家。福岡県直方市長。 1933年(昭和8年)高野山大学卒業。 1940年(昭和15年)直方市役所、1941年(昭和16年)より福岡県庁に勤務。戦中軍務を経て戦後は直方市役所勤務に戻る。 1971年(昭和46年)の直方市長選挙にて市長に当選。
柳沢 騰市(やなぎさわ とういち、1908年6月23日 - … 柳沢 騰市(やなぎさわ とういち、1908年6月23日 - 没年不明)は、群馬県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手)。
松井 静郎(まつい しずろう、1908年6月23日 - 19… 松井 静郎(まつい しずろう、1908年6月23日 - 1997年12月18日)は、日本の経営者。 兵庫県赤穂市出身。1931年に関西大学法学部法科を卒業した。大蔵省、国税庁での勤務を経て、1967年にロッテに転じた。1971年に専務、1976年には副社長に就任した。1971年から1995年までロッテオリオンズ(1992年、千葉ロッテマリーンズに改称)球団社長を務めた。 1978年に勲三等瑞宝章を受章した。 1997年12月18日、腎不全で死去した。89歳没。
島 秀之助(しま ひでのすけ、1908年6月21日 - 19… 島 秀之助(しま ひでのすけ、1908年6月21日 - 1995年12月26日)は、兵庫県神戸市生まれのプロ野球選手・監督・審判員。
渡辺 保(わたなべ たもつ、1908年6月21日 - 197… 渡辺 保(わたなべ たもつ、1908年6月21日 - 1973年1月26日)は、日本史学者。 1929年に児玉幸多、岡田章雄、斎藤忠、豊田武らとともに東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1932年に卒業。卒業論文は「中世武家の檢斷制に就いて」。新潟県高田師範学校教諭、神奈川県師範学校教諭を経て、1940年、明治大学予科教授となり、1949年に新制大学発足にあたり、同大学文学部教授となる」。源平抗争史を専門とした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
高木 昇(たかぎ のぼる、1908年6月19日 - 2005… 高木 昇(たかぎ のぼる、1908年6月19日 - 2005年5月28日)は、日本の電子工学者。東京大学名誉教授。東京工科大学名誉学長。工学博士(東京帝国大学、1942年)。理事(財団法人電子文化研究所、1964年)。東京大学宇宙航空研究所初代所長(1964年-1969年)。科学技術庁宇宙開発推進本部長(1965年-1967年)。東京神田生まれ。 東京大学の宇宙空間観測観測グループのリーダーとして、観測ロケットの打ち上げ、科学衛星の開発や打ち上げ等、宇宙電子工学の分野で貢献した。1994年文化功労者。
山田 精一(やまだ せいいち、1908年6月19日 - 1… 山田 精一(やまだ せいいち、1908年6月19日 - 1991年2月13日)は、日本の官僚。公正取引委員会委員長を務めた。 東京都出身。1931年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1959年6月から1966年6月までに理事を務め、1967年8月から1969年11月までに公正取引委員会委員長を務めた。公正取引委員会委員長在任時には、八幡製鉄と富士製鉄との合併を一部部門の分離を条件に認定した。 1978年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1991年2月13日呼吸不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
関 好美(せき よしとみ、1908年6月19日 - 1996… 関 好美(せき よしとみ、1908年6月19日 - 1996年3月7日)は、日本の経営者。明治生命保険社長、会長を務めた。 徳島県出身。1931年に東京商科大学本科を卒業し、同年に明治生命保険に入社した。1953年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1967年に社長に就任し、1974年4月には会長に就任した。1979年7月から相談役を務めた。 1971年8月に生命保険協会会長に就任し、相談役も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章した。 1996年3月7日、肺炎のために神奈川県鎌倉市の病院で死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大西 弘(おおにし ひろむ、1908年(明治41年)6月18… 大西 弘(おおにし ひろむ、1908年(明治41年)6月18日 ‐ 1975年(昭和50年)1月17日) は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、松山市議会議長。 愛媛県松山市山越で生まれた。除虫菊製造業を営み、大西土地建物を設立して社長に就任し、四国畜産 (株) 重役、松山市御幸農業会長なども務めた。 1947年(昭和22年)4月、松山市議会議員、愛媛県議会議員に選出され、松山市議会議長を務め、県議会では愛媛民主党に所属して活動した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に愛媛県第1区から民主自由党所属で出馬して当選し、その後、自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。この間、自由党総務などを務めた。
城戸 久(きど ひさし、1908年〈明治41年〉6月16日 … 城戸 久(きど ひさし、1908年〈明治41年〉6月16日 - 1979年〈昭和54年〉10月30日)は、日本の建築学者。名古屋工業大学名誉教授。日本建築史の専門家として、多くの城の再建に携わったことで知られる。建築家の城戸武男は兄。 三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)の生まれ。旧制三重県立上野中学校をへて、1929年名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築学科卒。 1934年名高工助教授、1942年教授、戦後学制改革により名古屋工業大学教授に就任。 1949年、「近世日本城廓建築に関する基礎的研究」により京都大学から工学博士を授与。1969年2月、名工大学長代行に就任するが、学内の大学紛争の影響で同年9月に辞任。
田中 四郎(たなか しろう、1908年 <明治41年> 6月… 田中 四郎(たなか しろう、1908年 <明治41年> 6月15日 - 1990年 <平成2年> 11月21日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長、会長を務めた。位階は従五位。 群馬県出身。1934年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年5月に日本製鉄に入社。1957年5月に富士製鐵取締役に就任し、1960年7月に東海製鐵専務を経て、1965年3月に山陽特殊製鋼管財人代理に就任し、1967年12月から1970年12月までに社長を務めた。 1980年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1990年11月21日肺炎のためにで死去。82歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
藤井 茂(ふじい しげる、1908年6月13日 - 2000… 藤井 茂(ふじい しげる、1908年6月13日 - 2000年6月30日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。専門は国際経済学、特に国際貿易論。 1908年、兵庫県加東郡滝野町(現・加東市)で生まれた。小野中学校(現・兵庫県立小野高等学校)を経て、神戸商業大学(現・神戸大学)に進んだ。在学中は瀧谷善一に師事し、1932年に卒業。 1940年、神戸商業大学助教授に就いた。1946年に神戸経済大学教授に昇格。1949年、学位論文『国際貿易論』を神戸経済大学(現・神戸大学)に提出して経済学博士号を取得。1953年に神戸大学経済学部教授となった。1960年から1962年まで経済学部長を務めた。1972年に神戸大学を定年退官し、名誉教授となった。
結城 道子(ゆうき みちこ、1908年(明治41年)6月13… 結城 道子(ゆうき みちこ、1908年(明治41年)6月13日 - 没年不明)は昭和期の歌手。群馬県前橋市出身。本名は由利 文子(ゆり ふみこ)。 1908年(昭和41年)6月13日、群馬県前橋市神明町で誕生。前橋高等女学校、東京高等音楽学院卒業後、奥田良三や太田恒子に師事。1933年(昭和8年)本名の由利文子でポリドール・レコードから「白帆は去りて」で歌手デビュー。後にニットーレコードを経てポリドールレコードの専属歌手となる。1937年(昭和12年)8月発売された上原敏との「裏町人生」が大ヒットした。その後もポリドールで「愛国行進曲」、「純情月夜」、「おもいで日記」、「雨の日曜日」などを吹き込んだほか、皇軍慰問団のメンバーとして戦地を訪れている。
日影 丈吉(ひかげ じょうきち、1908年6月12日 - 1… 日影 丈吉(ひかげ じょうきち、1908年6月12日 - 1991年9月22日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)出身。本名は片岡十一。幻想的な作風で、代表作として長篇小説「真赤な子犬」「内部の真実」「応家の人々」、短篇小説「猫の泉」「吸血鬼」、探偵右京慎策の活躍するハイカラ右京シリーズなど。 1908年(明治41年)に東京府東京市深川区深川木場町(現在の東京都江東区木場一丁目)で、魚問屋の父と魚小売商の母の間に第三子として生まれる。4歳の時に父が亡くなり、その魚問屋のあった日本橋に移る。1917年に深川に戻り、神田の明治中学に入学、中学時代は金剛社の探偵小説の叢書を愛読し、『童話』誌に投稿して入選したこともあった。
岡本 利雄(おかもと としお、1908年6月11日 - 19… 岡本 利雄(おかもと としお、1908年6月11日 - 1996年10月30日)は、日本の経営者。いすゞ自動車社長を務めた。山口県出身。 1937年に明治専門学校機械学科を卒業。1958年6月にいすゞ自動車取締役に就任し、常務、専務を経て、1970年6月に副社長に就任し、1976年1月に社長に昇格。1984年1月に取締役相談役兼名誉会長、1987年1月に相談役を経て、1990年1月から顧問を務めた。 1969年11月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1996年10月30日肺炎のために川崎市の病院で死去。88歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山内 六郎(やまうち ろくろう、1908年(明治41年)6月… 山内 六郎(やまうち ろくろう、1908年(明治41年)6月9日 - 没年不明)は、日本の造園系官僚。 静岡県に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1934年に京都帝国大学農学部を卒業。1937年に静岡県立静岡農学校(現・静岡県立静岡農業高等学校)の教諭となる。 1940年に内務省に入り、計画局都市計画課技手となる。翌年、都市計画大阪地方委員会技手兼大阪府都市計画課技手に転じ、1943年には都市計画北海道地方委員会技師兼北海道庁技師となった。[要出典] 1947年から福岡県土木部計画課公園係長を務めた後、1955年に神戸市建設局に移る。神戸市では土木緑地砂防課長などを務めた。 1972年に第3回日本公園緑地協会公園緑地折下功労賞、昭和60年度(第4回)日本造園学会上原敬二賞を、それぞれ受賞している。
石川 義雄(いしかわ よしお、1908年(明治41年)6月9… 石川 義雄(いしかわ よしお、1908年(明治41年)6月9日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、昭和時代の政治家。北海道名寄市長。 名寄市出身。東京帝国大学経済学部卒業。大野土建専務取締役。 1974年(昭和49年)より名寄市長に3選し、1986年(昭和61年)まで務めた。ほか、名寄軟式庭球連盟、名寄将棋連盟各会長などを歴任した。
岩村三千夫(いわむら みちお、1908年6月8日 - 197… 岩村三千夫(いわむら みちお、1908年6月8日 - 1977年5月16日)は、日本の中国問題評論家。 新潟県生まれ。早稲田大学卒業。1937年読売新聞社に入社し、上海特派員・香港支局長・東亜部次長・シンガポール支局長・論説委員を務める。 1946年、中国研究所の創立に携わり、理事を務める。1949年には日中友好協会の設立に携わり、日中友好事業を進めた。
脇田 和(わきた かず、男性、1908年(明治41年)6月7… 脇田 和(わきた かず、男性、1908年(明治41年)6月7日 - 2005年(平成17年)11月27日)は昭和期に活躍した日本の洋画家。新制作協会創立会員。童話的で温かな印象を受ける作風が特徴。実子は洋画家の脇田愛二郎。
小林 桂助(3代)(こばやし けいすけ、1908年〈明治41… 小林 桂助(3代)(こばやし けいすけ、1908年〈明治41年〉6月6日 - 2000年〈平成12年〉1月10日)は、日本の鳥類研究家。旧名・小林賢三。位階は従六位。 1908年、神奈川県横浜市生まれ。1923年(大正12年)の関東大震災後、1927年に神戸市に移住。1932年(昭和7年)に神戸商業大学(現・神戸大学)を卒業した。 翌1933年(昭和8年)、薄荷輸出業「小林桂」(1883年に初代小林桂助が創業)に入社した。小林桂助3代目を継ぎ、家業の傍ら鳥の生態を調査した。1947年から1981年まで日本鳥学会評議委員をつとめた。2000年死去。死没日付をもって従六位に叙された。 このほか、鳥類に関連する著書多数。
高宮 晋(たかみや すすむ、1908年〈明治41年〉6月6日… 高宮 晋(たかみや すすむ、1908年〈明治41年〉6月6日 - 1986年〈昭和61年〉5月12日)は、日本の経営学者。東京帝国大学教授・一橋大学教授・上智大学教授を経て、上智大学名誉教授。 千葉県山武郡豊岡村(松尾町を経て現山武市)で、高宮昇の長男として生まれた。1933年東京帝国大学経済学部卒、1939年東京帝国大学助教授、1941年日本銀行調査局参与、1945年東京帝国大学教授、1946年運輸省調査局経済調査部長、1952年経営研究所所長、1954年一橋大学教授、1962年「経営組織に関する経営学的研究」で一橋大学より商学博士の学位を取得。1963年上智大学経済学部教授、1968年経済学部長、のち名誉教授。
平林 せん(ひらばやし せん、1908年〈明治41年〉6月6… 平林 せん(ひらばやし せん、1908年〈明治41年〉6月6日 - 1940年〈昭和15年〉2月)は、日本の労働運動家。製紙工場で労働を経て、従叔母(母の従妹)である社会運動家の伊藤千代子らの影響を受けて日本共産党の組織化に協力し、日本共産党の機関紙『赤色信越』の編集など、製紙労働者の組織化に短い生涯を捧げた。長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。 1908年に中洲村で誕生した。中洲小学校を卒業後、12歳で製糸工場の女工となった。家は伊藤千代子の家に近く、夏場に帰省すると千代子から労働問題についての話を聞いて、千代子の影響を強く受け育った。労働農民党の責任者である上条寛雄からも影響を受けて、社会主義に傾倒した。
小峰 柳多(小峯 柳多、こみね りゅうた、1908年〈明治4… 小峰 柳多(小峯 柳多、こみね りゅうた、1908年〈明治41年〉6月5日 - 1974年〈昭和49年〉5月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田)に、食料品店を営む勝重郎・たせ夫婦の長男として生まれる。誕生日は戸籍上9月3日となっているが、実際の生まれは6月5日で、役場の吏員が手続を忘れていたため父母が催促した日が届出上の日付になっているのだとされる。地元の松井田尋常高等小学校を経て、高崎商業学校(現・群馬県立高崎商業高等学校)に進学。高崎商業学校の同期には後に高崎市長を務める反町(沼賀)健次がいる。1926年(大正15年)に東京商科大学専門部(現・一橋大学)に入学し、1929年(昭和4年)卒業。
伊原 隆(いはら たかし、1908年6月5日 - 1976年… 伊原 隆(いはら たかし、1908年6月5日 - 1976年9月24日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。大蔵省理財局長、横浜銀行頭取、全国地方銀行協会会長、横浜商工会議所会頭などを歴任した。 1908年(明治41年)6月5日、神奈川県に生まれる。神奈川師範学校附属鎌倉小学校、神奈川県立湘南中学校、第一高等学校文科乙類を卒業したのち、1928年(昭和3年)に東京帝国大学法学部法律学科に入学。1931年に卒業したのちは大蔵省に入省、理財局に勤務した。京橋税務署長、大蔵大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官(兼任)などを歴任し、1945年5月19日に金融局資金統制課長。1946年2月2日に理財局国庫課長。同年8月31日に理財局次長となり、1947年9月2日から1951年5月1日までは理財局長を務めた。
井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年… 井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年5月12日)は、日本の美学者、京都大学名誉教授。井島 勉とも表記。専門は西洋芸術哲学・芸術史。兄は元大阪高等検察庁検事長の井嶋磐根(wikidata)であり、兄・磐根の子である元最高裁判所判事の井嶋一友は甥にあたる。 京都市上京区出身。京都府師範学校附属小学校、京都府立第一中学校、第三高等学校を経て1932年京都帝国大学文学部哲学科卒。1947年「藝術の創造と歴史」で京都大学文学博士。1943年京都大学文学部美学美術史助教授、1947年同教授。 1951年に日本美術教育学会を設立し、没するまで会長を務めた。1968年 - 1969年、京都大学文学部長。
前川 俊一(まえかわ しゅんいち、1908年6月5日 - 1… 前川 俊一(まえかわ しゅんいち、1908年6月5日 - 1993年1月11日)は、日本の英文学者、九州大学名誉教授。 三重県南牟婁郡(現熊野市)生まれ。第三高等学校 (旧制)卒。1931年、京都帝国大学経済学部卒。1934年東京帝国大学文学部英文科卒。東京府女子師範学校教諭。1937年第二高等学校 (旧制)教授。1943年第三高等学校 (旧制)教授。1948年九州大学法文学部助教授。1953年 - 1955年英国出張。1957年教授。1961年 - 1967年評議員。1964年 - 1966年文学部長。1972年定年退官、名誉教授、金城学院大学教授。
木村重義(きむら しげよし、1908年(明治41年)6月5日… 木村重義(きむら しげよし、1908年(明治41年)6月5日-1980年(昭和60年)6月27日)は、日本の経済学者(会計学)。学位は、経済学博士(東京大学・1960年)。東京大学名誉教授。 父は木村重治(西洋史学者 立教大学元学長)。
小杉 一雄(こすぎ かずお、1908年6月4日 - 1998… 小杉 一雄(こすぎ かずお、1908年6月4日 - 1998年10月22日)は、日本の美術史学者。早稲田大学名誉教授。専門は中国美術史。 当時は洋画家で、後に日本画を多く描いた小杉放庵の長男として東京市本郷区千駄木町に生まれる。1927年に第一早稲田高等学院に入学した後は一貫して早稲田大学系列の学校に在籍し、1929年に早稲田大学文学部史学科東洋史学専攻に入学。大学院進学後は父とも親交があった会津八一の指導を受けた。1945年に早稲田大学講師、1949年には同大学文学部教授となり、美術史を担当。同年設立の美術史学会では10人が加わった発起人のうちの一人となった。1957年に「中国美術史に於ける伝統の研究」で文学博士号を取得。
渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4… 渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4日 - 1939年(昭和14年)8月21日)は、広島県呉市出身の歌人。 呉一中(現:広島県立呉三津田高等学校)、広島高等師範学校(現:広島大学)卒業。芥川龍之介に影響を受けた文学青年で、マルクス主義にも関心を持った。異父兄・高橋彰三の影響で短歌を始める。1935年(昭和10年)、伊藤左千夫を中心にして1908年(明治41年)に作られた短歌誌『アララギ』に入会し、土屋文明に師事した。しかし当初の渡辺の作品は牧歌的で、島木赤彦や文明の模倣でしかなかった。 呉市立高等女学校(現:呉三津田高等学校)の国語教師として奉職中だった1937年(昭和12年)、日中戦争に応召し、中国に第五師団歩兵第十一連隊陸軍少尉として送られる。
赤城 さかえ(あかぎ さかえ、1908年〈明治41年〉6月3… 赤城 さかえ(あかぎ さかえ、1908年〈明治41年〉6月3日 - 1967年〈昭和42年〉5月16日)は、俳人、俳論家。本名・藤村 昌(ふじむら さかえ)。 国文学者・藤村作の次男として広島県広島市に生まれる。二歳の時に父、作の東京帝国大学赴任に伴い上京、千駄ヶ谷尋常高等小学校(のちの渋谷区立渋谷小学校)、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)、旧制山形高校を経て東京帝国大学文学部中退。東大在学中に日本共産党(非常時共産党)に入党、山本健吉や亀井勝一郎、原民喜らと地下活動に入るも熱海事件に巻き込まれて知多半島に逃亡。のち転向し、1937年召集。1938年には昭和鉱業に勤務するが、1940年結核を発病して逗子湘南サナトリウムに入院。
曽我廼家 明蝶(そがのや めいちょう、本名:北村 弘一(きた… 曽我廼家 明蝶(そがのや めいちょう、本名:北村 弘一(きたむら ひろかず)、1908年〈明治41年〉6月3日 - 1999年〈平成11年〉4月13日)は、日本の俳優。兵庫県明石市出身。旧字体「曾我廼家明蝶」。 明石の寺の次男坊として生まれるが、まもなく大阪・船場の呉服商の養子となる。成器商業を経て東京の明治学院に進むも中退する。芝居の台本作家をめざして栗島すみ子の父・栗島狭衣の紹介で、1927年に明石潮一座に文芸部員として入る。同期には伴淳三郎と河津清三郎が俳優部にいた(河津は同級生でもある)。1928年に俳優の欠員から舞台にかりだされたのがきっかけで俳優に転じ、その後は曾我廼家五郎劇団に移籍し二枚目として活躍する。
黒羽 茂(くろばね しげる、1908年6月3日 - 2000… 黒羽 茂(くろばね しげる、1908年6月3日 - 2000年2月27日)は、日本の歴史学者。 茨城県水戸市出身。東京帝国大学文学部卒、1962年「日英同盟史論」で文学博士。東北大学助教授、教授、1972年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授を務めた。近代における日本の対外関係を専門とした。
齋藤 尚一(さいとう しょういち、1908年6月1日 - 1… 齋藤 尚一(さいとう しょういち、1908年6月1日 - 1981年10月30日)は、日本の技術者、実業家。位階は正四位。勲等は勲二等。 トヨタ自動車工業株式会社会長(第3代)、社団法人自動車技術会会長(第9代)などを歴任した。 愛知県出身。1927年、旧制前橋中学校卒業。1931年、第八高等学校理科甲類卒業。1935年、東北帝国大学工学部機械工学科卒業、豊田自動織機自動車部入社。 創業期には数少なかった大学出身の技術者として、トヨタ自動車創業者豊田喜一郎の日本車生産構想を補佐し、日中戦争中、菅隆俊のもと、岩岡次郎、豊田英二と挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)建設構想にあたった。第3代トヨタ自動車工業会長、第9代自動車技術会会長などを歴任。
伊東 勉(いとう つとむ、1908年6月 - 1992年8月… 伊東 勉(いとう つとむ、1908年6月 - 1992年8月24日)は、ドイツ文学者、名古屋工業大学名誉教授。 岐阜県岐阜市出身。1935年京都帝国大学文学部卒。同年名古屋高等工業学校教授、1949年合併により名古屋工業大学助教授、のち教授、1972年定年退官し中日本自動車短期大学教授を1978年まで務めた。 中世狐物語の研究のほかドイツ社会主義、ルカーチの文学論などを研究、翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
中井 信夫(なかい のぶお、1908年(明治41年)5月31… 中井 信夫(なかい のぶお、1908年(明治41年)5月31日 - 2004年(平成16年)12月13日)は、日本の政治家。元大阪府議会議員(自由民主党)、元大阪府議会議長。薬剤師。大和屋薬局代表社員。位階は従五位。 大阪府出身。1929年(昭和4年)大阪薬学専門学校(のち、大阪大学医学部薬学科、現・大阪大学大学院薬学研究科・薬学部)卒。同年、堺市で薬局を開業する。堺薬剤師会長、堺市議を経て、1947年(昭和22年)大阪府議会議員に当選する。以来連続6回当選。 1964年(昭和39年)大阪府議会議長に就任。翌1965年(昭和40年)全国都道府県議会議長会会長に就任。同会長は1949年に会長職が置かれて以来、東京都議会議長が代々その座に就いていたが、同年に発生した都議会議長選挙に絡む汚職事件(東京都議会黒い霧事件)により、現職都議会議長で会長の小山貞雄が逮捕されたため、小山は会長を辞任。
伊馬 春部(いま はるべ、1908年(明治41年)5月30日… 伊馬 春部(いま はるべ、1908年(明治41年)5月30日 - 1984年(昭和59年)3月17日)は日本の作家、劇作家。本名は高崎英雄。旧筆名は伊馬鵜平。戦前から戦後にかけてユーモア小説やラジオドラマなどの分野で活躍。釈迢空門下の歌人としても知られる。
蓬茨 祖運(ほうし そうん、1908年5月30日 - 198… 蓬茨 祖運(ほうし そうん、1908年5月30日 - 1988年9月20日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。 石川県出身。大谷大学卒。真宗大谷派参務。1970年九州大谷短期大学教授、二代目学長。賢隆寺住職。宇宙物理学者・蓬茨霊運は長男。
戒能 通孝(かいのう みちたか、1908年(明治41年)5月… 戒能 通孝(かいのう みちたか、1908年(明治41年)5月30日 - 1975年(昭和50年)3月22日)は、日本の法学者。専門は民法。早稲田大学教授、旧東京都立大学教授などを歴任。弁護士。 1908年、長野県飯田市生まれ。本籍は愛媛県。父は旧制飯田中学教師として飯田に赴任した。1927年、第五高等学校卒、1930年、東京帝国大学卒。法学博士。 師は穂積重遠、末弘厳太郎。在学中セツルメント法律相談部に参加。 満鉄調査部の宮崎正義が率いる日満財政研究会に、当時、東京帝国大学経済学部助手だった古賀英正(後の作家南條範夫)らとともに参加。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。
木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985… 木村 繁(きむら しげし、1908年5月29日 - 1985年)は、昭和時代日本の作曲家、音楽研究者。 青森県出身。兄は作曲家・民俗音楽収集家の木村弦三。 1908年(明治41年)、弘前市に生まれる。東奥義塾再興後の1回生であり、1933年(昭和8年)に法政大学英文科を卒業した後は小松耕輔、近衛秀麿らの師事を仰ぐ。 1947年(昭和22年)から1969年(昭和44年)まで県立弘前高校の音楽教諭を務める傍ら津軽地方の民謡を採譜・収集し、その成果を合唱曲「津軽の旋律」として1958年(昭和33年)に陸奥新報社より刊行した。作曲家としては元青森県副知事の横山武夫が作詞したものが多く、2代目「青森市民歌」をはじめ県内各地の校歌を数多く手掛けている。