池田 宰(いけだ つかさ、1907年2月7日 - 1989年… 池田 宰(いけだ つかさ、1907年2月7日 - 1989年3月21日)は、日本の経営者。長野県出身。位階は従五位。 1926年に京都大学附属電気工学講習科を修了し、同年3月に日立製作所に入社。 1955年10月に日立運輸代表取締役に就任し、1957年5月に社長に就任し、1967年5月には東京モノレール社長にも就任し、1969年11月には日立運輸東京モノレール社長に就任した。1970年5月に会長に就任し、1977年6月には相談役に就任した。 1977年6月に運輸大臣表彰を受け、1979年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1989年3月21日食道癌のために死去。82歳没。死没日付をもって従七位から従五位に進階。
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亀井 勝一郎(かめい かついちろう、1907年〈明治40年〉… 亀井 勝一郎(かめい かついちろう、1907年〈明治40年〉2月6日 - 1966年〈昭和41年〉11月14日)は、昭和期の文芸評論家、日本芸術院会員。 当初は左翼的政治運動に参加したが転向し、仏教思想に関心を深め、文芸評論や文明批評で活躍した。「日本浪曼派」を創刊。著書に『大和古寺風物誌』(1943年)、『現代史の課題』(1957年)など。 函館貯蓄銀行支配人の父・喜一郎、母・ミヤの長男として、北海道函館区(現・函館市)元町で生まれる。旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)では田中清玄、大野一雄と同期。旧制山形高等学校(現・山形大学)を経て、1926年(大正15年)に東京帝国大学文学部美学科に入学。
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原 健三郎(はら けんざぶろう、1907年〈明治40年〉2月… 原 健三郎(はら けんざぶろう、1907年〈明治40年〉2月6日 - 2004年〈平成16年〉11月6日)は、日本の政治家。位階は従二位。勲等は勲一等旭日桐花大綬章。 衆議院議員(20期)、衆議院議長(第65代)、衆議院副議長(第43代)を務め、また国務大臣としては労働大臣(第29代・第31代)、国土庁長官(第9代)、北海道開発庁長官(第43代)を歴任。 1907年2月6日、兵庫県津名郡浅野村(現在は北淡町を経て淡路市)に生まれる。旧制兵庫県立洲本中学校を経て1925年、早稲田大学政治経済学部政治学科入学。このころから政治を志し、地元の県議会議員の選挙活動を手伝ったり、代議士の自宅を尋ねたりした。
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水野 祥太郎(みずのしょうたろう、1907年2月6日 - 1… 水野 祥太郎(みずのしょうたろう、1907年2月6日 - 1984年5月10日)は、日本の整形外科医・登山家。大阪大学名誉教授。 神戸市生まれ。1930年大阪府立医科大学(現大阪大学医学部)卒、同第一外科に入る。1946年「荷重と足骨骼構造」で大阪帝国大学より医学博士の学位を取得。1947年大阪市立大学整形外科教授。1960年大阪大学医学部教授。1964年日本リハビリテーション医学会第1回会長。70年大阪大を定年退官[要出典]、名誉教授、川崎医科大学教授。72-80年同学長。 山歩きとスキーを趣味とした。1928年、西岡一雄、藤木九三らとロック・クライミング・クラブ(RCC)を創立した。アフガニスタンへ赴任したこともある。
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葛原 妙子(くずはら たえこ、1907年(明治40年)2月5… 葛原 妙子(くずはら たえこ、1907年(明治40年)2月5日 - 1985年(昭和60年)9月2日)は、歌人、潮音社友、日本歌人クラブ会員、女人短歌会会員。現代歌人協会発起人。南日本新聞歌壇選者。現代短歌女流賞選考委員。
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矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5… 矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5日 - 1986年〈昭和61年〉11月26日)は、日本の倫理学者。文学博士(東北大学)。東北大学名誉教授。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。1923年旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)四年修了。1926年旧制第一高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部入学。1930年東京帝国大学文学部倫理学科卒業。1948年東北大学文学部教授。1962年「カントにおける自由の概念」で、文学博士(東北大学)。1971年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授。西洋、東洋、仏教倫理学の融合を目指した。1977年勲三等旭日中綬章受章。1983年日本学士院会員。
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金子 金治郎(かねこ きんじろう、1907年 <明治40年>… 金子 金治郎(かねこ きんじろう、1907年 <明治40年> 2月2日 - 1999年 <平成11年> 5月31日)は、日本の国文学者。広島大学名誉教授。中世国文学、連歌史専攻。ホトトギス系の俳人でもある。位階は正四位。 1907年、長野県諏訪市で生まれた。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、広島文理科大学に進学。1933年に卒業した。 卒業後は教員となり、東京明星学園や旧制前橋中学(群馬県立前橋高等学校)に勤務。1941年、広島高等師範学校教授に就いた。1949年に学制改革に伴い高等師範学校が広島大学に包摂されることとなったため、1950年より広島大学助教授。1957年に同教授昇格。
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長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月… 長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月2日 - 1946年(昭和21年)10月10日)は、日本の俳人。本名・直次郎。 父が大阪砲兵工廠の技師であったため大阪府で生まれたが本籍は三重県津市。1915年父の退職により津に戻り、津中学校、京都市の第三高等学校を経て京都帝国大学に入学。 俳句を田中王城、鈴鹿野風呂に師事し、1929年野風呂主宰の「京鹿子」同人。また高濱虚子にも師事し、1930年「ホトトギス」初入選。 後に平畑静塔らとともに「京大俳句」創刊に参加するも、1933年に志を異にして決別。同年、「阿漕」を創刊・主宰。1937年、砲兵少尉として応召。同年、病により内地送還。1939年、戦争を詠んだ句を集めた句集『砲車』を刊行。
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谷 光次(たに みつじ、1907年〈明治40年〉2月2日 -… 谷 光次(たに みつじ、1907年〈明治40年〉2月2日 - 2002年〈平成14年〉11月30日)は、日本の政治家。弁護士。鳴門市長。京都帝国大学法学部法科卒業。徳島県鳴門市出身。 板野郡撫養町(現在の鳴門市)で生まれた。父は撫養町長を務めた谷伊七郎。旧制山口高等学校を経て、1931年(昭和6年)に京都帝国大学法学部法科卒業。 大学卒業後、京都市と徳島市で弁護士として務め、徳島市選管委員長、徳島県出納長、徳島県弁護士会会長を経て1959年(昭和34年)に鳴門市長に初当選。その後、28年間、7期に渡り鳴門市長を務めた。1978年(昭和53年)には、西ドイツ政府からドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章が贈られた。
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片桐 勝昌(かたぎり かつまさ、1907年(明治40年)2月… 片桐 勝昌(かたぎり かつまさ、1907年(明治40年)2月2日 - 1973年(昭和48年)8月31日)は、日本の政治家、税理士、計理士。 現在の長野県伊那市出身。日本大学卒。豊島区会議員、東京市会議員、東京都議会議員、日本合同ゴム社長、片桐興産株式会社代表取締役などを歴任した。 戦後の1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に東京1区(当時)から立候補したが落選した。翌1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に東京5区(当時)から民主党公認で立候補したが落選した。1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙では日本再建連盟から立候補したが落選した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
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林 弘高(はやし ひろたか、1907年(明治40年)2月1日… 林 弘高(はやし ひろたか、1907年(明治40年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月27日)は、興行師、芸能プロモーター。吉本興業社長、吉本株式会社(東京吉本))社長、太泉映画(東映の前身)社長。大阪府大阪市北区出身。 姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(泰三)の妻の吉本せい。兄は旧吉本興業株式会社の社長を務めた林正之助。長男は吉本株式会社社長や吉本興業常務を務めた林英之。 米穀商を営んでいた林豊次郎の四男として兵庫県明石市に生まれる。出生名は林 勝(はやし まさる)といった。 1925年(大正14年)、関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業後、上京して中央大学法学部を卒業した後、社会民衆党の機関紙の編集に関わった。
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尾崎 博(おざき ひろし、1907年2月1日- 1994年2… 尾崎 博(おざき ひろし、1907年2月1日- 1994年2月23日)は、日本の古生物学者。理学博士。国立科学博物館地学研究部長、斎藤報恩会自然史博物館館長などを歴任した。鳥取県鳥取市出身。 1907年、鳥取県気高郡青谷村(現在の鳥取市)で生まれる。旧制倉吉中学校を卒業後、1924年に満州教育専門学校へ第一期生として入学。同期には後の妻となる女性の兄がいた。1928年、東北帝国大学理学部地質学古生物学科に進学し、矢部長克に学ぶ。1932年、再び満州国に戻り、満鉄地質調査所に技師として配属。満州各地で地質資源の探査に貢献する。 1947年に日本へ帰国。1950年国立科学博物館地学課長。1959年、東京教育大学理学博士「Stratigraphical and paleontological studies on the neogene and Pleistocene formations of the Tyosi district」。
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石黒 美種(いしぐろ よしたね、1907年2月1日 - 19… 石黒 美種(いしぐろ よしたね、1907年2月1日 - 1990年5月13日)は、日本の電気工学者。徳島大学工学部名誉教授。東京帝国大学工学部卒業。徳島市立工芸青年学校初代校長。 徳島県出身。東京帝国大学工学部電気工学科卒業。 1929年、理化学研究所所員に就任。1940年、東京大学、助教授に就任。1950年に徳島大学工学部教授に就任。その後、徳島大学工学部学部長・徳島市立工芸青年学校校長などを歴任。その間に『電気工学実験』・『電気工学大意』・『プロセス制御実験』等、電気工学に関する多くの本を発表した。1977年勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
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小稲 義男(こいね よしお、1907年2月 - 1991年6… 小稲 義男(こいね よしお、1907年2月 - 1991年6月30日)は、英語・英文学者。 東京出身。東京外国語学校卒業。上智大学教授を務め、研究社『新英和中辞典』を編纂した。 1991年6月30日、心不全のため死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
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岩田 孝三(いわた こうぞう、1907年1月30日-1994… 岩田 孝三(いわた こうぞう、1907年1月30日-1994年2月21日)は、日本の地理学者。専門は地政学。 新潟市出身。本籍は埼玉県浦和市。1930年東京高等師範学校文科第一部卒業、1933年東京文理科大学地理学科卒業。1934年同大学院退学、第二東京市立中学校(現東京都立上野高等学校)教諭、1936年陸軍経理学校教授、1937年陸軍教授。1945年敗戦により解雇、1951年東京学芸大学教授。1952年「わが国、国界、藩界についての政治地理学的研究」で東北大学理学博士(主査 富田芳郎教授)。1970年東京学芸大学定年退官、名誉教授、国士舘大学文学部地理学専攻教授。
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高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30… 高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30日 - 1965年8月17日)は、日本の小説家、詩人。
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脇阪 実(わきさか みのる、1907年1月30日 - 没年不… 脇阪 実(わきさか みのる、1907年1月30日 - 没年不明)は、日本の大蔵官僚。主税局国税査察部長、関東信越国税局長、東京国税局長、造幣局長などを歴任。 滋賀県出身。1932年10月 高等試験行政科を合格。同年11月 高等試験司法科を合格。東京帝国大学法学部法律学科卒業。1933年 大蔵省入省。主税局兼東京税務監督局属。1935年6月 金沢税務署長。1936年7月 神田橋税務署長。1946年5月1日 主税局国税第二課長。1947年7月2日 主税局国税第一課長。1948年7月5日 主税局国税査察部長兼主税局国税第一課長。同年12月9日 主税局国税査察部長。1949年6月1日 関東信越国税局長。
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河上 君榮(かわかみ きみえ、1907年1月30日 - 没年… 河上 君榮(かわかみ きみえ、1907年1月30日 - 没年不詳)は、日本の女優である。新漢字表記河上 君栄。本名川上 高江(かわかみ たかえ)、旧芸名光村 貴美子(みつむら きみこ、光村 きみ子とも)、河上 君江、河上 君枝と表記されることもある。 1907年(明治40年)1月30日、愛媛県松山市に生まれる。 同市内にある旧制・松山市裁縫女学校を卒業するとともに京都に移り、満17歳となった1924年(大正13年)7月、日活大将軍撮影所に置かれた関根達発の研究所の研究生として入社する。「光村 貴美子」の名で脇役出演を始め、満18歳になった1925年(大正14年)11月12日に公開された『愛国の血刃』(監督高橋寿康)に出演して、認められるようになり、1926年(大正15年)4月1日に公開された『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』(監督池田富保)では大野群右衛門の妻に抜擢されたが、端役が続き、同年9月には同社を退社、同年10月1日、関根達発の紹介により牧野省三のマキノ・プロダクションに移籍、「河上 君榮」と改名し、関根主演の『勝てば官軍』(監督富沢進郎)で相手役に抜擢されて再デビューを果たした。
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マキノ 智子(マキノ ともこ、1907年〈明治40年〉1月2… マキノ 智子(マキノ ともこ、1907年〈明治40年〉1月29日 - 1984年〈昭和59年〉10月20日)は、日本の女優である。「日本映画の父」といわれた牧野省三の四女。父の映画の子役からスタートし、大スターとなった。本名は加藤 恵美子(かとう えみこ、旧姓:牧野)。芸名はほかにも、マキノ輝子(マキノ てるこ)、牧野智子、藤野智子(ふじの ともこ)、牧野輝子、マキノ恵美子(マキノ えみこ)、マキノ笑子(マキノ えみこ)などがある。 京都市に生まれる。1歳年下の弟に映画監督のマキノ雅弘、2歳年下の弟に映画プロデューサーのマキノ光雄がいる。家政高等女学校(後の家政学園高等学校。現・京都文教中学校・高等学校)卒業後に、父が経営するマキノ映画製作所に入社する。
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乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28… 乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28日 - 1993年(平成5年)9月20日)は、日本の実業家。乾家5代目当主、乾汽船社長、広野ゴルフ倶楽部理事長、関西ゴルフ連盟理事長、日本ゴルフ協会(JGA)名誉会長などを務めた。旧姓は高橋。 名古屋の旧家高橋家、高橋彦治郎(後に彦次郎に改名)の七男として生まれる。父彦治郎は、中京財界の大立者といわれた人物で、茶人、美術収集家でもあった。 幼少の頃から父の勧めで書道、能楽、茶道などを習う。愛知一中、名古屋高等商業学校を卒業。 三井物産時代、四代目乾新兵衛こと日本鉄線鋼索の経営者乾新治の一人娘の道子と結婚。乾家に入るが、義父の急死で、33歳で乾汽船の社長に就任し、乾倉庫などの事業を引き継ぎ「関西のうるさ型」と言われ活躍した。
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増井 経夫(ますい つねお、1907年(明治40年)1月28… 増井 経夫(ますい つねお、1907年(明治40年)1月28日 - 1995年(平成7年)6月17日)は日本の東洋史学者。専攻は清代史。 1907年、東京都生まれ。東京帝国大学文学部東洋史学科に進み、1930年に卒業。卒業論文は「清代の広東貿易について」。 卒業後は日本大学、東京外国語大学、明治学院大学、武蔵高等学校等で講師を務めた後、武蔵大学教授を経て、金沢大学法文学部教授に就任。1972年に金沢大学法文学部教授を定年退官。
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藤野 恒三郎(ふじの つねさぶろう、1907年1月28日 -… 藤野 恒三郎(ふじの つねさぶろう、1907年1月28日 - 1992年8月15日)は、日本の医学者、細菌学者、医学史研究者。大阪大学名誉教授。神戸学院大学名誉教授。 1950年に集団食中毒の原因として腸炎ビブリオを発見した。適塾を主とした近代医学史の研究でも知られる。魯迅の恩師として知られる藤野厳九郎の甥。祖父藤野升八郎から三代続けての医家。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
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常盤野 藤兵衛(ときわの とうべえ、1907年1月27日 -… 常盤野 藤兵衛(ときわの とうべえ、1907年1月27日 - 1974年12月10日)は、長崎県長崎市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は鳥越 藤兵衛。174cm、94kg。最高位は東前頭8枚目。 草相撲で鳴らし、同郷の6代出羽ノ海(元小結両國)にスカウトされ入門。1925年5月初土俵、1929年5月十両昇進。1931年1月新入幕。やせ型だが、肩幅が広く、若さあふれる突っ張りを得意とした。四つは左四つで、非力だが動きが速く、活気があった。春秋園事件に加担し、1932年1月脱退(実質的最終場所は1931年10月)し、新興力士団に加わり、そのまま復帰しなかった。廃業後は常陸嶌朝次郎と運送業を起こした。
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小関 庄太郎(こせき しょうたろう、1907年(明治40年)… 小関 庄太郎(こせき しょうたろう、1907年(明治40年)1月25日 - 2003年(平成15年)3月20日)は、戦前日本を代表するピクトリアリスム・芸術写真の写真家。 福島県福島市生まれ。1924年より写真を撮り始め、亡くなった2003年まで80年近い写歴をもつ、「最後の芸術写真家」の一人。 福島商業学校卒業後、家業(小関屋、古着等を扱う)を手伝いながら、写真同好会・二葉会(1921年 - 1944年頃)に入会し、佐藤信(さとう まこと、1897年 - 1987年)、本田仙花(ほんだ せんか、1897年 - 1951年)の薫陶を受ける。 二葉会のメンバーには他に、菊田蝶秋、伊藤晨水、伊東松葉、伊藤弥十郎、川村重和、吹澤龍一、本間第一郎、三瓶秀三、金澤治男、三浦通庸、木村長雄、氏家健吉、村山俊吾、島崎得三郎、山崎金三郎などがいた。
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奥貫 一男(おくぬき かずお、1907年(明治40年)1月2… 奥貫 一男(おくぬき かずお、1907年(明治40年)1月25日 - 1999年(平成11年)5月29日)は、日本の生化学者。大阪大学名誉教授。位階は正四位。 埼玉県に生まれる。旧制埼玉県立粕壁中学校、旧制山形高等学校を経て、東京帝国大学理学部に入学。1929年(昭和4年)に卒業後は徳川生物学研究所に入所し同所の研究員として活動した。その後は柴田桂太が主催した岩田植物生理学研究所に入り、後にわかもと製薬創業者の長尾欽弥が設立した長尾研究所に転勤する。 第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)には大阪大学の教授となり、同大学で教鞭を執る傍らでミトコンドリアの電子伝達系や生体の酸化還元反応等主に細胞呼吸の仕組みの研究に携わった。
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中野 四郎(なかの しろう、1907年(明治40年)1月25… 中野 四郎(なかの しろう、1907年(明治40年)1月25日 - 1985年(昭和60年)10月21日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員(通算13期)、国土庁長官、碧南市長などを歴任した。 愛知県碧海郡新川町(現・碧南市)に中野久吉、さだ夫妻の四男として生まれる。生家はどじょう屋。小学校卒業後農機具店に奉公に出るが、13歳の時単身上京し、新聞配達などをしながら私立豊山中学校(現・日本大学豊山中学校・高等学校)で学ぶ。1923年9月に同校を中退。 愛知県出身のジャーナリストで衆議院議員でもあった鈴木正吾の紹介で、大正デモクラシー期を代表する論客の一人であった茅原華山の門下生となる。
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火野 葦平(ひの あしへい、1907年〈明治40年〉1月25… 火野 葦平(ひの あしへい、1907年〈明治40年〉1月25日 - 1960年〈昭和35年〉1月24日)は、日本の昭和戦前・戦後期の小説家。本名:玉井 勝則。 早くから文学を志し、早大在学中『街』の創刊に参加。労働運動に参加するも検挙され転向した。日中戦争応召中に『糞尿譚』が芥川賞を受賞。次いで『麦と兵隊』以下3部作が評判を呼んで、兵隊作家としてマスコミの寵児となった。そのため、戦後は戦犯作家として指弾される。その後、筆力を揮って再び活躍したが、睡眠薬を用いて自殺した。甥にアフガニスタンで亡くなった医師の中村哲、Jリーグ・ギラヴァンツ北九州を運営する株式会社ギラヴァンツ北九州取締役会長の玉井行人がいる。
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阿部 甚吉(あべ じんきち、1907年1月25日 - 198… 阿部 甚吉(あべ じんきち、1907年1月25日 - 1981年7月30日)は、日本の弁護士、大阪弁護士会会長、日本弁護士連合会会長。 1907年、徳島県に生れる。1922年、徳島県橘郵便局に就職。1925年、大阪逓信局監督課に転勤。在勤のまま、北陽商業学校(現・関西大学北陽中学校・高等学校)を卒業。1929年、関西大学専門部法律科に入学し、 1932年に同校を卒業。翌年司法試験に合格。さらに翌年に大阪逓信局を退職。はじめは村野弁護士事務所に勤めたが、1938年に独立して自宅に事務所を開く。その後、1954年大阪弁護士会副会長、 1957年近畿弁護士会連合会理事、 1964年大阪弁護士会会長・近畿弁護士会連合会理事長・日本弁護士連合会常務理事を歴任した。
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益邑 健(ますむら たけし、1907年1月24日 - 199… 益邑 健(ますむら たけし、1907年1月24日 - 1994年12月5日)は、日本の経営者。大同生命保険社長を務めた。 山口県出身。1930年に京都帝国大学を卒業し、同年に大同生命保険に入社。1953年6月に取締役に就任し、1961年1月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年1月に社長に就任。1978年4月に会長に就任し、1988年7月に取締役相談役を経て、1989年6月には相談役に就任。 1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1994年12月5日老衰のために死去。87歳没。
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平原 寿恵子(ひらはら すえこ、1907年(明治40年)1月… 平原 寿恵子(ひらはら すえこ、1907年(明治40年)1月24日 - 1993年(平成5年)2月20日)は日本の声楽家(ソプラノ。ただしアルト、メゾソプラノを歌った記録がある)。音楽教育者。名前は壽惠子、壽恵子と表記されることがある。 東京府(現:東京都)出身。童謡歌手として1924年(大正13年)『叱られて』を東京レコードに吹き込む。1931年(昭和6年)東京音楽学校卒。1933年(昭和8年)東京音楽学校研究科修了。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。1934年(昭和9年)東京音楽学校教授( - 1974年(昭和49年)東京芸術大学教授)。1935年(昭和10年)2月 日比谷公会堂におけるクラウス・プリングスハイム指揮、東京音楽学校オーケストラ第74回定期演奏会のマーラー交響曲第3番全曲日本初演のアルト独唱を務める。
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湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23… 湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23日 - 1981年〈昭和56年〉9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。学位は理学博士(大阪帝国大学・1938年)。位階は従二位。勲等は勲一等旭日大綬章。 京都府京都市出身。京都帝国大学理学部物理学科卒。大阪帝国大学にて学位取得。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
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和田 重正(わだ しげまさ、1907年1月23日 - 199… 和田 重正(わだ しげまさ、1907年1月23日 - 1993年5月15日)は、日本の教育家、文筆家。 鎌倉生まれ。父は鉱物学者の和田八重造。 浦和高等学校卒、1929年東京帝国大学法学部法律学科卒。17歳の頃から人生に深く悩み、28歳で機縁にめぐりあって東京西荻窪で青年のため、一誠寮をという寮を開く。 戦後は小田原で「はじめ寮」、1967年から山北町に一心寮を設けて青少年と生活をともにする。 くだかけ会(家庭教育を見直す会)主宰。同行教育人生科を提唱。息子の和田重良が後継者となり「くだかけ生活舎」を運営している。
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堀野 正雄(ほりの まさお、1907年1月22日 - 199… 堀野 正雄(ほりの まさお、1907年1月22日 - 1998年12月24日)は、日本の写真家である。新興写真の主要な担い手の一人。 1907年 (明治40年) 1月22日、東京市京橋区木挽町(現・東京都中央区銀座)生まれ。父・寛次郎、母・千代の四男三女の三男として生まれた。父親は仁和印刷株式会社と質店を合わせて経営しており、堀野の回想によれば非常に新しもの好きだったという。父親が、当時としてはかなり高価なカメラを持っていてアマチュア写真家として熱心に撮影しており、その影響を受けた。 1919年 (大正8年) 築地尋常小学校を卒業、同年芝中学校に入学、この頃から写真に興味を持ち始める。 1923年 (大正12年)、東京・赤坂の演技座で上演された高田雅夫舞踊団の新帰朝第1回舞踊公演を、舞台上の照明のみで、上演の様子をそのまま撮影することに成功、それを高田に見せたところ写真のできを賞賛された縁で、同舞踊団の撮影を続けることになった。
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小野 正則(おの まさのり、1907年1月20日 - 198… 小野 正則(おの まさのり、1907年1月20日 - 1989年12月7日)は、日本の経営者。明治乳業社長を務めた。北海道出身。 1926年に小樽高等商業学校を卒業し、同年に明治製菓に入社。1944年に明治乳業に転じ、1959年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1973年5月に社長に就任。1977年6月に会長に就任し、1979年6月には相談役に就任。 1989年12月7日急性心不全のために死去。82歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
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山口 和雄(やまぐち かずお、1907年 <明治40年> 1… 山口 和雄(やまぐち かずお、1907年 <明治40年> 1月20日 - 2000年 <平成12年> 5月1日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。日本経済史・経営史を専門とし、幕末・明治の経済史を研究した。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 栃木県生まれ、千葉県出身。1932年(昭和7年)東京帝国大学経済学部卒。1934年(昭和9年)日本共産党に資金提供していたとして治安維持法違反の疑いで逮捕。1935年(昭和10年)-1945年(昭和20年)、アチック・ミューゼアムの研究員を務める。 第二次世界大戦後、北海道大学法文学部助教授、同経済学部教授を経て、1957年(昭和32年)東京大学経済学部教授。
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椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - … 椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - 2007年12月3日)は、日本の実業家。栃木県出身。元住友商事副会長。 1924年(大正13年)、旧制栃木県立栃木中学校(現 栃木県立栃木高等学校)修了。東京商科大学(現 一橋大学)卒業。元住友商事副会長。1973年(昭和48年)、(財)日本ラグビーフットボール協会会長に就任。1979年(昭和54年)、同 名誉会長に就任。1995年(平成7年)、同 名誉相談役に就任。 2007年12月3日、肺炎により100歳で死去。
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江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日… 江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日 - 1982年(昭和57年)6月26日)は、日本の鉄道官僚、政治家。工学博士。位階は従三位、勲等は勲一等。 山口県下関市貴船町で陸軍将校・江藤鋪の二男として生まれた。文関尋常小学校(現下関市立文関小学校)、豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、京都帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年4月、鉄道省に入省した。 函館保線事務所長、大臣官房幹線調査課勤務、広島鉄道局施設部長、本省施設局停車場課長、同施設局次長、札幌鉄道局長、兼北海道営業支配人、本省施設局長、日本国有鉄道理事などを歴任。 1952年(昭和27年)7月30日、『重力操車場の設計について』により京都大学から工学博士の学位を授与された。
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菅野 矢一(すがの やいち、1907年1月19日 - 199… 菅野 矢一(すがの やいち、1907年1月19日 - 1991年6月15日)は、洋画家、日本芸術院会員。本名は彌一。 山形市生まれ。山形商業学校を中退した後、小学校代用教員や会社員を経て、画家を志して上京。川端絵画研究所に学び、1936年文展鑑査展に「黒牛」で初入選。1939年から安井曾太郎に師事し、翌年一水会展に初入選。1953年に渡仏し、グラン・ショーミエールで、ゴエルグやクラヴェに師事する。1954年に帰国した後、日展への入選を重ね、日展評議員、同参事、日展顧問などを歴任した。1982年「くるゝ蔵王」で日本芸術院賞受賞、1986年日本芸術院会員。 『菅野矢一画集』(日動出版部 1990)がある。
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和田 耕作(わだ こうさく、1907年〈明治40年〉1月18… 和田 耕作(わだ こうさく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 2006年〈平成18年〉7月4日)は、日本の政治家。元民社党衆議院議員。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。高知県出身。1984年勲二等旭日重光章受章。 旧制高知高等学校を経て、1930年に京都帝国大学経済学部を卒業。1934年南満州鉄道に入社、調査部に勤務する。1937年企画院調査官となる。1941年の「企画院事件」では和田博雄・勝間田清一らとともに検挙される。翌1942年応召。 戦後はソ連に5年間抑留され、その経験から反共産主義の立場を取るようになる。日本フェビアン協会事務局長を務め、1960年に民主社会主義研究会議を創設して事務局長に就任、同時に民主社会党の結成に参画、1967年の衆議院議員選挙に民社党公認で旧東京4区から出馬し初当選。
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高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 … 高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、音楽評論家。本名は安藤 煕(あんどう ひろし)。 ヴァイオリニストで、女性初の文化功労者に選ばれた安藤幸と、英文学者・安藤勝一郎の子として東京市本郷区西片町に生まれる。東京帝国大学独文科卒。 水戸高等学校や第一高等学校教授などをつとめながら、同人雑誌『作家精神』に小説を書いた。1936年「遣唐船」で芥川賞候補、1940年(昭和15年)、大伴家持を描いた歴史短篇「歌と門の盾」で芥川賞を授与されるが辞退する。菊池寛は「恥を掻かされた」と言って怒っている。高木は、自分が辞退すれば『作家精神』の桜田常久がくりあげ受賞すると誤認したという説もある(桜田は次回受賞)。
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諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 20… 諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 2002年4月16日)は、日本の政治家。元長崎市長(在任1967年 - 1979年)。 熊本県出身。長崎高等商業学校卒業後、長崎市内で底引き網の網元の支配人となる。1945年(昭和20年)8月9日、長崎市内の自宅で原爆投下に遭遇。水を求めながら亡くなった被爆者を多数目撃した体験から、市長就任後に平和公園内に「平和の泉」を造らせている。1947年(昭和22年)より長崎市議会議員を2期、1955年(昭和30年)より長崎県議会議員を3期務め、この間1963年5月~1964年12月まで副議長になった。1967年(昭和42年)4月の統一地方選挙で執行された長崎市長選に出馬し当選、以後1979年(昭和54年)4月の市長選で本島等に敗れるまで3期12年間長崎市長を務めた。
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吉河 光貞(よしかわ みつさだ、1907年1月16日 - 1… 吉河 光貞(よしかわ みつさだ、1907年1月16日 - 1988年4月17日)は、日本の検察官、司法・法務官僚。 東京府生まれ。京華中学、第一高等学校 (旧制)(一高)を経て、東京帝国大学法学部に入学。在学中は新人会に属し田中清玄らと並び称され、日本共産党にも入党した。1930年(昭和5年)大学卒業、直後に離党。 1932年司法官試補となり、各地の裁判所で検事を務める。東京地方裁判所時代には主任検事(思想検事)として1941年のゾルゲ事件の捜査に参加、リヒャルト・ゾルゲを取り調べた。 戦後は公職追放を免れ、法務庁事務官を経て1948年(昭和23年)に設置された法務庁特別審査局(後の公安調査庁)の初代局長、翌1949年に改称された法務府でも局長などを務めた。
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藤島 達朗(ふじしま たつろう、1907年1月16日 - 1… 藤島 達朗(ふじしま たつろう、1907年1月16日 - 1985年1月24日)は、日本の仏教史学者。大谷大学名誉教授。浄土真宗大谷派講師。 1907年、島根県美保関町で生まれた。1929年、大谷大学文学部国史学科を卒業。大谷大学文学部助教授となり、後に教授昇格。1962年に学位論文『我国古代に於ける浄土教思想の研究』で大谷大学より文学博士の学位を取得。1978年に大谷大学を定年退職し、名誉教授となった。また、奈良大学教授、真宗大谷派講師も務めた。
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三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月… 三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月16日 - 1990年 <平成2年> 10月20日)は、日本の経営者、バスケットボール選手。全国農業協同組合連合会会長を務めた。位階は従四位。 鳥取県鳥取市出身。1933年に京都帝国大学農業経済科を卒業。山陰日日新聞社取締役などを経て、1955年に鳥取県議員となり、後に副議長も務めた。1957年6月に全国購買農業協同組合連合会会長に就任し、1972年3月には全国農業協同組合連合会会長に就任。 バスケットボール選手としても活躍し、1934年には極東大会に出場し、1936年のベルリン・オリンピックでは、日本代表チームのヘッドコーチを務め、1967年11月には日本バスケットボール協会理事長に就任。
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福島 慎太郎(ふくしま しんたろう、1907年1月15日 -… 福島 慎太郎(ふくしま しんたろう、1907年1月15日 - 1987年4月2日)は、日本の外交官、内閣官房次長、調達庁長官。 東京都出身。礫川小学校、旧制府立五中、旧制一高を経て、東京帝国大学法学部卒。1930年に外務省入りし、英語研修(米国)、フィリピン在勤などを経て1947年から内閣総理大臣秘書官、同年終戦連絡大阪事務局長、1948年の大阪連絡大阪事務局長。同年芦田内閣では内閣官房次長(現在の内閣官房副長官)に就任。 1949年9月に毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)の球団社長となり、1951年からはパシフィック・リーグ会長も兼ねて日本プロフェッショナル野球協約制定の中心役となった。
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木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15… 木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の政治家。初代名和町長。 鳥取県出身。木下鶴吉の養嗣子となった。米子中学校(現・米子東高校)卒業後、農耕に精励する。民生委員、農業会常務理事、農業委員、県郡養蚕連副会長監事、小学校PTA会長、村会議員、鳥取県町村長会副会長等を歴任した。 1950年(昭和25年)11月から1954年(昭和29年)3月まで光徳村長を務めた。その後、合併で発足した名和町長を同年4月から1966年(昭和41年)4月まで務めた。 住所は鳥取県西伯郡名和町大字東坪(現・大山町東坪)。
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竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-199… 竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-1993年12月6日)は、日本の労働運動家・社会学者(労働社会学)。創価大学名誉教授・拓殖大学元教授。戦前は社会主義運動から日本共産党で活動し、転向後は寧ろ反共・右派の労働運動の理論家となった。電機労連委員長から民間連合会長になった竪山利文は弟。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市の一部)松崎に生まれる。1924年3月、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)文科を卒業し、同4月に東京帝国大学経済学部経済学科入学。帝大入学と同時に新人会に入り、浜松日本楽器大争議に派遣される。新人会幹事長を経て日本共産青年同盟に加盟。
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真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 20… 真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 2007年3月7日)は、日本の国語学者、広島大学名誉教授。専攻は近世文学・国語学。女性語について研究した。 京都府京都市出身。1933年、東京帝国大学国語国文学科卒。広島文理科大学助教授、広島大学教授。1971年、定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。 2007年3月7日、慢性腎不全のため死去。100歳没。 真下は多彩な文献から多くの用例を収集し、そこから言語体系を抽出するよりも、個々の用例そのものを検討した。言語体系の抽出が現代言語学の要件だとすれば、一見すると真下は古いタイプの国語学者のように思えるが、そもそも真下が研究活動に従事していた当時は、ソシュールを批判した時枝誠記の言語過程説が強い影響力を持っていた時期でもあることから、真下が体系の抽出ではなく個々の用例に目を向けたのは、差異や体系に言語の本質を求めるソシュールへの批判が込められていたとされる。
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渡辺 惣蔵(惣藏、わたなべ そうぞう、1907年(明治40年… 渡辺 惣蔵(惣藏、わたなべ そうぞう、1907年(明治40年)1月15日 - 1985年(昭和60年)1月25日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。 北海道札幌郡札幌村大字苗穂村(現:札幌市東区苗穂町)で生まれる。小学校卒業後、農業をしながら通信教育で学び、1929年、日本大学専門部政治科を卒業。 日大在学中から無産政党運動に加わる。1932年、武蔵野館争議など多くの映画争議を指導した。全国大衆党中央委員、労農大衆党中央委員、社会大衆党中央委員、同中央青年隊長、全国労働組合同盟中央委員・出版部長、全国映画劇場従業員組合書記長、豊島区会議員などを歴任。1938年、人民戦線事件で検挙され一年半にわたり拘留された。
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陸奥 イアン 陽之助(むつ イアン ようのすけ、1907年(… 陸奥 イアン 陽之助(むつ イアン ようのすけ、1907年(明治40年)1月14日 - 2002年(平成14年)10月30日)は、日本のジャーナリスト、映画監督・プロデューサー、実業家、華族(伯爵)。インタナシヨナル映画社の創業者。身長180cm。 勲功華族の陸奥家に生まれる。父は陸奥宗光の長男で2代伯爵の陸奥廣吉。母はイギリス出身のイソ(ガートルード・エセル・パッシングハム)。日本名の陽之助は祖父・宗光の通称でもあった。廣吉が外交官としてロンドンに赴任していた時のアパートで午後11時20分に誕生した。誕生の際には2人の医者ブラントとアディルセンが付き添った。3歳の時に初来日する。家のあった鎌倉の小学校や学習院初等科への入学を考えたが「アイノコ」といじめられていたため断念、家庭教師に学んだ。
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