新田 圭二(にった けいじ、1909年〈明治42年〉8月27… 新田 圭二(にった けいじ、1909年〈明治42年〉8月27日 - 1996年〈平成8年〉12月14日)は、日本の政治家、経営者。山口県宇部市長(第17代)。宇部興産(現:UBE)取締役山陽無煙鉱業所長、日本石灰工業所社長。 1934年(昭和9年)、慶應義塾大学法学部を卒業。宇部興産(後のUBE)グループにおいて、同社取締役山陽無煙鉱業所長、宇部化学工業(後の宇部マテリアルズ)専務取締役を歴任した。1947年(昭和22年)4月22日、宇部市基本財産として多額の私財を寄付し紺綬褒章を受章。 また社業と並んで宇部市議会議員を務め、1952年(昭和27年)には教育委員会制度の発足に伴い市議会代表として教育委員に選出。
山口 正(やまぐち ただし、1909年(明治42年)8月26… 山口 正(やまぐち ただし、1909年(明治42年)8月26日 - 2000年(平成12年)5月26日)は、日本の国文学者。茨城大学名誉教授。上代文学、特に『万葉集』が専門だが、作文教育にも関わった。 鹿児島県加治木(現・姶良市加治木町)生まれ。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を経て、1930年3月第七高等学校造士館 (旧制)文科卒業。1933年東京帝国大学文学部国文科卒業。海城中学校(現・海城高等学校)教諭、1936年長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)教諭、釜山高等女学校教諭、水戸高等学校教授、茨城大学文理学部助教授、教養部教授、1975年定年退官、名誉教授。2000年5月26日、虚血性心不全のため死去。
宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1… 宮原 誠一(みやはら せいいち、1909年8月26日 - 1978年9月26日)は、日本の教育学者。東京大学名誉教授。専攻は社会教育学。彼の教育学の核心は自己教育ととしての社会教育、共同学習と相互教育の連動であり、それを簡明に論説したのが戦前の「形成と教育」(1940)、戦後の「教育の本質」(1949)や「社会教育の本質」(1949)である(山田正行『平和教育の思想と実践』同時代社、2007年、参照)。 東京生まれ。旧制水戸高校を経て東京帝国大学文学部教育学科卒業後、新興教育研究所、教育科学研究会で活動ののち、1940年法政大学講師。戦後は文部省社会教育局勤務などを経て、1953年東京大学教育学部教授。
加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1… 加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1988年6月2日)は、茨城県出身の俳人、建築家。本名は昭夫。日本画家の加倉井和夫は弟。 茨城県出身。東京美術学校(現・東京芸術大学)建築科卒業。建築会社勤務を経て、1970年より武蔵大学教授(美術工芸史)。 俳句は1936年より、「あきを」の号で「馬酔木」に投句。1938年より「秋を」に改めて「若葉」に投句、富安風生に師事する。1941年より「若葉」編集長。1946年、安住敦らと俳句作家懇話会を結成。のちに同人誌「諷詠派」創刊に参加。1948年、「若葉」第一期同人。1955年、愛媛療養所の機関誌であった「冬草」の雑詠選者。1959年より「冬草」を東京に移管し主宰となる。
竹内 不忘(たけうち ふぼう、1909年8月26日 - 20… 竹内 不忘(たけうち ふぼう、1909年8月26日 - 2011年6月29日)は、日本の彫刻家。本名は竹内 延吉(たけうち のぶよし)。 長野県小県郡和村(現東御市)出身。川端画学校に学ぶ。1931年、日本美術協会に出品し銅賞。1935年に第1回東邦彫朔院賞、1937年に文展に『山』を出品、1938年に第3回東邦彫朔院恩賜賞受賞。その後も出展を続け、1965年に日展審査員、1966年に日展会員。 1979年に紺綬褒章受章。1990年、池袋西口公園に『平和の像』を建立している。故郷である東御市には東御市立和小学校の『太陽の子』、東御市役所前市民交流広場の『雷電像』などがある。 2011年6月29日、心不全のため東京都豊島区の自宅で[要出典]死去。
森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 19… 森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 1979年10月29日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。愛媛県松山市出身。 1934年に早稲田大学法学部を卒業し、宇治川電気(のちの関西電力)に入社した。 取締役、専務、副社長を経て、1975年7月からは社長を務め、電源開発問題などに取り組むが、体調不良により1977年6月に辞任。労務畑が長く、荒れた労使関係の調整に尽力した。 日本万博博覧会協会理事、宇治電ビル会長、山陽電気鉄道取締役などを歴任した。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1979年10月29日脳血栓により京都市内の自宅で死去。70歳没。
富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 19… 富田 富士雄(とみた ふじお、1909年8月24日 - 1999年3月12日)は、日本の社会学者・社会運動家。 横浜市生まれ。1934年関東学院神学部卒業。社会的キリスト教運動に参加して検挙。戦後米国に学んだのち関東学院大学教授、1968年関東学院長。横浜コミュニティ研究会会長。1972年横浜文化賞受賞、1982年勲三等瑞宝章受勲。 1970年 日本大学 文学博士 論文の題は「人口社会学の基本問題」。
片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1… 片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1970年1月29日)は、日本の歌人、日本文学研究者、文筆家。 長野県野沢温泉村豊郷生まれ。新潟県社会教育課勤務の片桐佐太郎の三男。 旧制新潟高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部国文科卒。日本放送協会に勤務、編成局社会部長、ラジオ局文芸部長、芸能局次長、1960年総合放送文化研究所所長。1952年に『NHK短歌』を創刊。 1965年退職、1966年跡見学園女子大学教授。 学生時代に歌誌『真人』に参加。落合直文、斎藤茂吉を研究。日本エッセイストクラブ賞選考委員を務めた。
森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)… 森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)8月23日 - 1994年(平成6年)2月11日)は、日本の映画監督である。 1909年(明治42年)8月23日、佐賀県小城郡内の村(現在は多久市域)に生まれる。 1934年(昭和9年)に開所した日活多摩川撮影所に入社し、1936年(昭和11年)には首藤寿久監督の『日蝕は血に染む』に「監督」として名を連ねる。同作は満27歳を目前にした同年7月8日に公開された。1942年(昭和17年)1月、日活の製作部門が他社と合併して大映(大日本映画製作)を形成すると、翌1943年(昭和18年)には、朝鮮映画製作という会社で『昭和19年』という国策映画を監督する。
木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 19… 木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 1985年6月16日)は、日本の実業家、株式会社木村屋總本店元代表取締役社長(5代目)、全日本パン協同組合連合会初代会長、日本パン工業会元会長。 1909年、東京生まれ。1933年、立教大学商学部(現・経済学部)卒業。大学在学中は体育会ラグビー部に所属。 大学卒業後、家業である木村屋總本店へ入社。1947年、木村屋總本店取締役社長(5代目)に就任。 1956年、全日本パン協同組合連合会設立にあたり初代会長に就任。 母校、立教大学のラグビー部監督も務めた 木村屋總本店の本社、工場、店舗に、額に入れて掲げられている『五つの幸福』 『四大目標』は、栄一が繰り返し口にしていた言葉であり、木村屋の根幹をなす企業理念となっている。
遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 197… 遠山 啓(とおやま ひらく、1909年8月21日 - 1979年9月11日)は、熊本県下益城郡(現・宇城市)出身の日本の数学者。数学教育の分野でよく知られる。
小野川 秀美(おのがわ ひでみ、1909年8月21日 - 1… 小野川 秀美(おのがわ ひでみ、1909年8月21日 - 1980年7月20日)は、日本の東洋史学者。学位は、文学博士(論文博士・1961年)(学位論文「清末政治思想研究」)。京都大学名誉教授。 高知県安芸郡生まれ。高知県立高知城北中学校、高知高等学校文科乙類を経て、1933年京都帝国大学文学部史学科(東洋史学専攻)卒業。 東方文化研究所嘱託員を経て、1940年(昭和15年)、東方文化研究所(現:京都大学人文科学研究所)助手就任。1951年(昭和26年)に京都大学人文科学研究所助教授。1961年(昭和36年)学位論文「清末政治思想研究」で文学博士の学位を取得。1965年(昭和40年)に同教授に就任する。
岩崎 敏夫(いわさき としお、1909年8月21日 - 20… 岩崎 敏夫(いわさき としお、1909年8月21日 - 2004年10月28日)は、日本の民俗学者、歌人。 福島県相馬生まれ。國學院大學高等師範部卒。1962年「本邦小祠の研究」で國學院大學文学博士。相馬女子高等学校教頭。東北学院大学教授。1963年「本邦小祠の研究」で柳田賞受賞。歌人。
斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 20… 斎藤 鶴子(さいとう つるこ、1909年8月20日 - 2000年9月30日)は、日本の平和運動家。 宮崎県延岡で、7人兄弟中の3姉妹の長女として生まれた。父は教員で、各地の学校で校長を務めた。 1930年に、東京女子高等師範学校附属高等女学校専攻科を卒業した。在学中は幼児教育を専門とした倉橋惣三に師事し、またテニスに打ち込んだ。その後、結婚して東京・中野に定住したが、戦時中の1944年には山形県に疎開していた。 1950年代に、PTA活動に参加するようになったことをきっかけに、社会問題への関心を深め、1954年の第五福竜丸の被爆事件を機に、安井郁らが組織した主婦学習グループ「杉の子会」に加わり、原水爆禁止運動、平和運動に関わり始め、1955年に『朝日新聞』への投書をきっかけに投稿者らの女性グループ「草の実会」に参加して、1967年には「草の実会」を母体に平和研究グループを組織し、原水爆禁止運動などに取り組んだ。
安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20… 安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20日 - 1977年(昭和52年)9月27日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県南都留郡谷村町下谷(現都留市)で生まれる。1927年(昭和2年)都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した。 谷村町町営電気部(のち東京電燈に合併)に入所。戦後、労働運動に加わり、関東配電労働組合大月分会委員長、南都留労協委員長、東京電力労働組合山梨県支部常任執行委員などを務めた。また社会運動研究会「黎人荘」を設立して主幹に就任。 政界では、社会大衆党に入党。1947年(昭和22年)山梨県議会議員に選出され2期在任し、同副議長を務めた。
西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - … 西 律(にし りつ、1909年〈明治42年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月30日)は和歌山県の政治家・郷土史家。和歌山県東牟婁郡四村の村長、本宮町町議会議員をつとめた。政治家の職を退いた後、熊野九十九王子の調査に従事した。 西は1909年(明治42年)8月20日、和歌山県東牟婁郡四村(和歌山県田辺市本宮町)に生まれた。新宮中学校を中退した後、家業の林業に一時従事したが、陸軍に入隊し、郷里を出た。第二次大戦中は満州で軍役に就いたが、敗戦とともにソ連に抑留され、1949年(昭和24年)に帰国した。帰国後、1949年から四村の村長に就任し、水害にあった村の復旧など、政治家としての手腕を振るったが、1951年(昭和31年)に四村ほかいくつかの町村が合併して本宮町が成立する際の町長選で落選した。
三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 200… 三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 2001年3月7日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章(1986年4月)。 衆議院議員(8期)、文部大臣、防衛庁長官、総理府総務長官を歴任した。福原学園元理事。長男は元北九州市議会議員の三原征彦、次男は元衆議院議員の三原朝彦。陸軍軍人の山縣初男は岳父にあたる。 福岡県にて三原幸太郎の次男として生まれる。生家は貧しい農家だった。1927年に旧制東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)卒業後、上京して明治大学専門部法科に入学する。明大在学中に愛国学生連盟を組織して学生運動を展開する傍ら、当時の著名人を訪問し教えを請うた。この頃から「貧乏からの解放」を終生の政治理念とし、この理念を共有する学生運動関係者、二・二六事件の青年将校、右翼関係者と最後まで付き合いがあった(三原は「右翼・保守思想とは、一言でいえば“優しさと度量”」と考えていた)。
市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1… 市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1995年2月23日)は日本の芸術家。 岐阜県土岐郡土岐村市原(現瑞浪市)の雛人形づくりの家に生まれる。 小学校5年生の時に、江戸川乱歩の小説のとある美しい彫刻のシーンが強烈に印象に残り、自分もいつしかあのような作品が作ってみたいと思う。 18歳から本格的に彫刻を習い始め、翌年、東京の雨宮治郎(日本芸術院会員)の門下生となる。 「ハンティングの自刻像」で構造社展初入選。 1933年(昭和8年)「キネ子の顔」で構造社展最高構造賞、1962年(昭和37年)「破る」で日展菊華賞。 1968(昭和43年)名古屋芸術大学教授となる。 その後、数々の賞を受賞。
成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18… 成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18日 - 1988年(昭和63年)4月1日)は、日本の野球評論家。成田は旧姓。本姓は西田。息子は中日ドラゴンズに所属した西田暢。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)で生まれる。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に法政大学法文学部法律学科を卒業する。大学在学中は、野球部選手として活躍し、2回の優勝に貢献する。 1934年東京鉄道局に入局。1940年応召。復員後の1949年に退職し、東鉄野球部監督、東京六大学野球審判員。1951年、明治座入社とともに野球部監督、全日本軟式野球連盟常任理事。1979年日本社会人野球関東連盟副会長。
小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1… 小林 米三(こばやし よねぞう、1909年8月18日 - 1969年2月10日)は、京阪神急行電鉄元社長、宝塚歌劇団元理事長。プロ野球球団阪急ブレーブスのオーナーでもあった。 阪急電鉄や宝塚歌劇団の創業者である小林一三の三男として生まれた。 京都帝国大学経済学部卒業後、1932年に阪神急行電鉄に入社。 1946年に取締役、1951年に専務取締役、1959年に代表取締役社長に就任。 専務時代の1956年に発生した庄内事件では、事件現場となった宝塚線庄内駅に自ら出向き、事態を収拾するため騒ぎを起こした群衆を説得した。 1968年5月から1969年1月まで宝塚歌劇団理事長を務め、2014年には『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰される。
平山 輝男(ひらやま てるお、1909年8月16日 - 20… 平山 輝男(ひらやま てるお、1909年8月16日 - 2005年8月17日)は、日本の国語学者。東京都立大学名誉教授。日本音声学会第5代会長。 宮崎県北諸県郡中郷村(現:都城市)生まれ。1922年3月に中郷村尋常高等小学校を卒業。1928年3月に麻布中学校を卒業。1935年3月に國學院大學文学部国文学科卒業。1937年3月に國學院大學大学院修了。金田一京助、折口信夫に師事。 1937年4月に法政大学講師。1940年6月に東京府立高等学校教授。1949年4月に東京都立大学人文学部助教授。1957年に文学博士となった(学位論文「日本語音調の研究」)。 1962年2月に東京都立大学人文学部教授。1969年4月に東京都立大学附属図書館長。
諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 19… 諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 1983年8月21日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1933年に東京商科大学本科を卒業し、同年に住友海上火災保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1965年6月に常務、1968年6月に専務を経て、1969年6月には社長に就任。1974年9月に会長を経て、1978年7月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年8月21日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月1… 相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月15日 - 1953年〈昭和28年〉4月29日)は、日本の科学史家、社会運動家。本名は矢浪久雄。 第二次世界大戦前の時期に唯物論研究会に参加し、技術史、科学哲学を中心にした理論学習運動の中核を担い、戦後は、シベリア抑留を経て、アジア地域における抑留者引揚運動に尽力した。第四高等学校中退。 新潟県高田市(現・新潟県上越市)南土橋出身。新潟師範附属小学校、佐渡河原田小学校、佐渡中学校、富山中学校を経て、第四高等学校文科乙類に首席で入学後、社会研究会、全国学聯支部に加盟。1928年6月の学生ストライキの責任者となる。 1929年、卒業試験後、雑誌「広場」の編集責任者であることを理由として卒業を取り消され、退学を命ぜられる。
内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 19… 内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 1989年7月27日)は、日本の劇作家、翻訳家。本名:菅原実(すがわら みのる)。実業家・劇作家の菅原卓は兄である。妻の富子は安川敬一郎の孫。 東京生まれ。1932年、慶應義塾大学経済学部卒。岸田國士に師事、同人誌『劇作』を編集担当。1935年に処女作「秋水嶺」を発表、築地座で上演された。戦後の作品として「雑木林」(1948)、「遠い凱歌」(1956)などがある。 NHKの連続ラジオ劇「えり子とともに」(1948 - 1951)の脚本ならびに劇中歌「雪の降るまちを」の作詞で広く知られている。また、日本の民間放送で初のテレビドラマとなった「私は約束を守った」(日本テレビ)(1953)や、「追跡」(NHK)(1955)をはじめ、初期のテレビドラマでも多く作品を発表した。
巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15… 巴 一作(ともえ いっさく、1909年〈明治42年〉8月15日 - 2020年〈令和2年〉4月14日)は、日本の医師、長寿の男性。渡邉智哲が2020年2月23日に死去して以来、男性長寿日本一となっていた。 愛知県岡崎市に生まれる。1939年、名古屋医科大学から医学博士を授与。1953年現在市立岡崎病院副院長であった。その後1968年、第4代市立岡崎病院長に就任。1979年9月に退職、のち名誉院長となっている。 岡崎市の老人ホームで生活し、車が好きで99歳の時まで運転していた。日ごろは車椅子で移動し、施設職員や入所者らとの会話を楽しみ、新聞を読んだりテレビを見たりして過ごしていた。 2020年2月23日、渡邉智哲が死去したことにより国内男性最高齢となったことが、厚生労働省により発表された。
福原 亮厳(ふくはら りょうごん、1909年〈明治42年〉8… 福原 亮厳(ふくはら りょうごん、1909年〈明治42年〉8月15日 - 2000年〈平成12年〉3月31日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。龍谷大学名誉教授。 広島県生まれ。龍谷大学仏教学科卒。1961年「阿毘達磨佛教教理研究」で龍谷大学文学博士。龍谷大学助教授、教授、1977年退職、名誉教授。浄土真宗本願寺派勧学。2000年3月31日、敗血症のため死去する。享年90歳。
森 三樹三郎(もり みきさぶろう、1909年8月14日 - … 森 三樹三郎(もり みきさぶろう、1909年8月14日 - 1986年8月29日)は、日本の中国思想研究者。文学博士(大阪大学・論文博士・1962年)。大阪大学名誉教授、佛教大学文学部教授。専門は仏教と老荘思想との関連を軸とした中国哲学史。 京都府舞鶴市生まれ。旧制・大阪府立高津中学校卒、1935年京都帝国大学文学部哲学科支那哲学史専攻を卒業。京都帝国大学副手、東方文化研究所(現京都大学人文科学研究所)を経て、1942年大阪高等学校教授に任命。1950年大阪大学文学部助教授、1962年「上古より漢代に至る性命観の展開」で大阪大学より文学博士の学位を取得。1966年教授、1973年定年退官、名誉教授。
山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2… 山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2008年12月31日)は、日本の実業家。元関西テレビ放送代表取締役社長、元阪急電鉄副社長、元新阪急ホテル監査役、元京都大学蹴球部OBクラブ会長。 1909年、兵庫県神戸市に生まれる。1927年、甲陽中学校(現在の甲陽学院、6回卒)を卒業。その後、旧制山口高等学校を経て京都大学法学部を卒業。同大学では蹴球部に所属し、後にOBクラブ会長を務めた。 関西テレビ放送代表取締役社長、阪急電鉄副社長、新阪急ホテル監査役、阪急ブレーブスオーナー代行などを歴任した。
祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13… 祐田 善雄(ゆうだ よしお、1909年(明治42年)8月13日 - 1973年(昭和48年)8月23日)は、日本の国文学者、浄瑠璃・歌舞伎研究者。 1909年(明治42年)、大阪府大阪市東区北久宝寺町で生まれた。1928年(昭和3年)に大阪府立今宮中学校を卒業し、第三高等学校文科乙類へ入学。1932年、同校を卒業後、京都帝国大学文学部文学科国語学国文科専攻に進んだ。1936年に卒業し、同大学大学院に進学。 京都大学に在籍のまま、1938年に天理図書館嘱託となる。これに合わせて、この頃天理市に居を移した。翌1939年2月に天理図書館司書を退職。1941年3月に京都帝国大学大学院を修了し、1942年4月から天理中学校嘱託に就職した。
松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - … 松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - 1990年2月23日)は、高松松平家13代当主。華族制度廃止までは伯爵。第2代本郷学園理事長、第4代本郷中学校・高等学校長。ボーイスカウト日本連盟理事、同国際コミッショナー、日本ユネスコ協会連盟理事長などを歴任した。ブロンズ・ウルフ章受章者。戦前は陸軍技術将校(最終階級は技術少佐)。 1909年(明治42年)、東京市本郷区池之端七軒町(東京都文京区七軒町)に、松平胖・俊子夫妻の長男として生まれる。初名は廣。父胖は高松松平家の12代当主・伯爵松平頼寿の同母弟で海軍軍人(のちに海軍大佐)であり、母俊子は侯爵鍋島直大の六女。 1915年(大正4年)、暁星小学校へ入学。
山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986… 山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986年4月26日)は、日本の経済学者・統計学者。学位は、経済学博士(一橋大学・1961年)。1973年一橋大学名誉教授。1975年日本統計学会会長。国民経済計算、産業連関分析など計量経済学分野の研究で知られる。著書に『経済通論』・『産業連関の理論と計測』など、論文多数。訳書にW.J.ボーモル『経済動学序説』(共訳)・J.E.ミード『経済成長の理論』(監訳)など。 名古屋大学の北川一雄教授とともに名古屋高等商業学校が産んだ逸材の双璧とされた。指導学生に山澤逸平(一橋大学名誉教授)、島久代(千葉大学名誉教授)など。
横山 保(よこやま たもつ、1909年(明治42年)8月11… 横山 保(よこやま たもつ、1909年(明治42年)8月11日 - 1981年(昭和56年)3月)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵59期。最終階級は海軍で中佐、空自で空将補。 1909年8月11日、神奈川県横須賀市で海軍軍人の次男として生まれる。横須賀中学校を経て、1928年4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年11月7日兵学校を卒業。1934年11月、第26期飛行学生拝命。1935年7月、同課程修了、戦闘機搭乗員となる。1936年11月、佐伯空。 1937年2月、大分空分隊長。7月、支那事変の勃発に伴い、十三空分隊長として上海の公大飛行場に着任。哨戒任務を行う。9月19日、南京の中国空軍機殲滅を目的とした南京第一次空襲に第1大隊(制空隊、九六式艦戦13機)第3中隊長として参加。
古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42年)8月1… 古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年(明治42年)8月11日 - 1989年(平成元年)8月18日)は、日本の作曲家。本名は古關 勇治。1969年(昭和44年)、紫綬褒章受章、1979年(昭和54年)、勲三等瑞宝章を受章。
井村 栄三(いむら えいぞう、1909年8月11日 - 19… 井村 栄三(いむら えいぞう、1909年8月11日 - 1996年10月22日)は、日本の経営者。三重県出身。 1930年に名古屋高等商業学校を卒業。 トヨタ自動車工業などでの勤務を経て、1949年に日本電装監査役に就任し、1951年5月に取締役、1955年に常務、1962年に専務を経て、1967年に副社長に就任した。1973年12月に東海理化電機製作所社長に就任。1979年6月には会長に就任した。1979年6月から1983年6月までに光洋精工社長を務めた。 1977年4月に藍綬褒章を受章し、1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1996年10月22日慢性腎不全のために死去。87歳没。
福永 英二(ふくなが えいじ、1909年8月11日 - 20… 福永 英二(ふくなが えいじ、1909年8月11日 - 2002年11月18日)は、朝日新聞記者、翻訳家であり、アフリカとの民間外交も担った。 山口県生まれ。1936年早稲田大学法学部卒。1939年パリ大学修了、朝日新聞社入社、欧米部員、海外特派員などを経て、1956年退社。在フランス日本大使館勤務ののち、1959年社団法人日本アフリカ協会専務理事。1985年日本とアフリカの民間外交の功績で勲三等瑞宝章を受章(『日本企業の体験的アフリカ』略歴)。ほかフランス語の翻訳も行った。 2002年11月18日、心不全のため死去。
小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 199… 小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 1994年3月26日)は、日本の英文学者。元NHK職員。 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。水戸高等学校文科乙類を経て、1935年に東京帝国大学文学部英文科を卒業。 翌1936年に当時社団法人だったNHKにアナウンサーとして入局。戦前のNHKは軍の宣伝機関であったこともあり、今日のような分業制はとられておらず、報道記者も兼ねていた。戦後の改革で報道専業となり、外信部(現在の国際部)に配属。1961年ロンドン支局長、1962年ヨーロッパ総局長、1965年報道局長、1967年解説委員室主幹。 記者勤務の傍ら、イギリス・ロマン派の文学を研究、翻訳を行った。
野口 久光(のぐち ひさみつ、1909年8月9日 - 199… 野口 久光(のぐち ひさみつ、1909年8月9日 - 1994年6月13日)は、日本の映画、ジャズ、ミュージカル評論家。画家、グラフィックデザイナー。生涯に1000点を超える映画ポスターを描いたと言われる。
竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月… 竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月8日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代の競泳選手。水球選手。 中泉農学校卒業、静岡県浜名郡豊西村貴平(笠井町を経て現浜松市中央区貴平町)出身。早稲田大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子1500m自由形に出場したが準決勝棄権に終わった。さらに、1932年ロサンゼルスオリンピックでは水球に出場し4位に入賞した。 大学卒業後、中泉農学校の教諭となり、水泳部の強化に尽力した。
坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 … 坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 - 没年不詳)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。少候13期。第二次世界大戦に参加した最古参の現役戦闘機乗りのひとりで、教官やテストパイロットとしても活躍した。最終階級は陸軍少佐。 1909年(明治42年)8月6日、岐阜県旧稲葉郡蘇原村(現各務原市蘇原町)に生まれる。岐阜中学校を卒業後、民間パイロットを目指して所沢陸軍飛行学校で操縦教育を受けた。飛行学校卒業後の1928年(昭和3年)2月、予備役下士官を志願して陸軍に入隊、航空兵伍長として平壌の飛行第6連隊に配属された。同年5月、第三次山東出兵で半年間中国へ出動し、のち明野陸軍飛行学校で助教を務めた。
原 ひさ子(はら ひさこ、1909年(明治42年)8月6日 … 原 ひさ子(はら ひさこ、1909年(明治42年)8月6日 - 2005年(平成17年)12月4日)は、日本の女優。本名は石島 久(いしじま ひさ)。旧芸名に原緋紗子、原緋沙子。 1909年(明治42年)、静岡県静岡市に四人兄妹の末っ子として生まれた。父は銀行員だったが、6歳の時に亡くなっている。 不二高等女学校(現:静岡雙葉高等学校)を卒業すると同時に上京し、伯父夫婦の養子となった。伯父は会社のエンジニアだったが、東京大学の近くで下宿と喫茶店も経営していた。この当時原は家業を手伝ったり、長唄や生け花を習うなど花嫁修業をしていた。 1933年(昭和8年)、新聞の広告で見た前進座の座員募集に応募した。
石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 - 197… 石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 - 1975年11月6日)は、日本の俳人・随筆家・小説家・編集者。東京出身。石田波郷に師事、「鶴」「壺」「馬酔木」同人、「風土」主宰。本名は石川一雄。 東京市芝区三田聖坂の理髪店の息子として生まれる。御田高等小学校卒業。家業の理髪店の仕事をしながら俳句を作りはじめ、1934年、杉田久女に入門。1937年、石田波郷の「鶴」創刊より投句し、1939年に同人となる。また、小説を横光利一に師事する。 父の死後に店主となった理髪店を文具店とするが、店員が次々に召集されて人手不足となり廃業。工場・工事関係など様々な職を転々とする。1942年、理髪店時代を描いた小説『剃刀日記』を発表。
山崎 貞一(やまざき ていいち、1909年(明治42年)8月… 山崎 貞一(やまざき ていいち、1909年(明治42年)8月5日 - 1998年(平成10年)11月20日)は、静岡県榛原郡相良町福岡(現在の牧之原市福岡)出身の科学者・実業家。 東京電気化学工業株式会社(現TDK株式会社)社長・会長・顧問などを歴任。フェライトコアの工業化や、研究者・技術者の育成と科学技術の発展に貢献した。藍綬褒章・勲二等瑞宝章を受章し、山崎自然科学教育振興会の創立にも尽くした。 山崎貞一賞は、科学技術水準の向上とその普及啓発に寄与することを目的とし、また、初代理事長を務めた山崎貞一の科学技術および産業の発展に対する功績、人材の育成に対しての貢献を記念して創設された賞である。対象は、財団の寄付行為第4条の事業内容に対応した「材料」、「半導体及び半導体装置」、「計測評価」、「バイオサイエンス・バイオテクノロジー」の4分野からなり、論文の発表、特許の取得、方法・技術の開発等を通じて、実用化につながる優れた創造的業績をあげている者としている。
原 光雄(はら みつお、1909年8月5日 - 1996年1… 原 光雄(はら みつお、1909年8月5日 - 1996年10月20日)は、日本の科学論・科学史研究者。 山梨県出身。京都帝国大学理学部卒。1938年川崎重工業に入社。1956年大阪市立大学教授。1972年定年退官、名誉教授、阪南大学教授、1981年退職。 1937年寺田寅彦の物理学研究に対する態度を批判。近代化学史研究を通じて科学の方法論を「自然弁証法の研究」としてまとめた。田辺振太郎とも論争を行った。
藤井 隆(ふじい たかし、1909年8月4日 - 2000年… 藤井 隆(ふじい たかし、1909年8月4日 - 2000年2月25日)は、日本の生物学者。静岡県出身。東京大学名誉教授。理学博士。 1934年(昭和9年)、東京帝国大学理学部動物学科卒業(理学博士)。 1951年(昭和26年)、東京大学理学部教授に就任。1955年(昭和30年)には皇居に招かれて生物学に関する合同進講に出席。「発生化学 細胞分裂の化学」と題する進講を行った。後に東京大学理学部の学部長となるが、1968年(昭和43年)から始まる東大紛争の期間にも学部長を務めあげた。1970年(昭和40年)定年退官、名誉教授となる。同年、静岡大学理学部教授。 1979年(昭和54年)、勲二等旭日重光章。
和田 徹三(わだ てつぞう、1909年(明治42年)8月4日… 和田 徹三(わだ てつぞう、1909年(明治42年)8月4日 - 1999年6月27日)は日本の詩人・英文学者。北海道余市町出身。小樽高等商業学校卒。龍木煌(たつき あきら)のペンネームを持つ。 北海道薬科大学教授をつとめ英語を教える傍ら、詩人として活動。1930年頃伊藤整と同時に百田宗治主催の「椎の木」に参加し、文学活動に専念する。英詩の翻訳(ハーバート・リードの研究者としての実績)からモダニズムへと変貌。1997年「湾」で和田自身が《「湾」を形而上詩の研究とと実作の場にしよう》という沢村光博の提案を受け、私は《長編形而上詩の実験作品を連載することにした。》と述べている。また1970年頃《沢村光博はカソリシズムとコミュニズムの結合を企てていたし、私は親鸞思想へ激しく傾斜していった。
相沢 博(あいざわ ひろし、1909年(明治42年)8月4日… 相沢 博(あいざわ ひろし、1909年(明治42年)8月4日 - 1992年(平成4年)12月7日)は、ドイツ文学・比較文学者。 宮城県生まれ。1933年東京帝国大学独文科卒。同大学院を経て、戦後東京大学教養学部教授、1970年定年退官、青山学院大学教授。1980年退職。専門はドイツ伝承文学。
折井 英治(おりい えいじ、1909年8月2日 - 2005… 折井 英治(おりい えいじ、1909年8月2日 - 2005年1月)は、日本の科学教育家。 子供向けの科学読み物や絵本などの著作を多く行った。共著者・折井雅子は娘。 長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、1928年、台北第一師範学校卒業後、台北第一師範附属小学校教師となる。1934年から1939年にかけて、早稲田大学や東京工業大学、台北帝国大学特別研究生として、金属材料学・化学工学・農芸学を学ぶ。台北帝国大学離農学部卒業とする記述もある。 1939年、台湾鉄工所研究所長、1942年、南方資源研究所長、1943年東京帝国大学農学博士。 1948年、学生科学協会理事、1951年、長野県上高地に私財を投じて自然科学研究所を創設し、自ら所長となる。
渡辺 武夫(わたなべ たけお、1909年8月2日 - 198… 渡辺 武夫(わたなべ たけお、1909年8月2日 - 1984年8月9日)は、日本の経営者。 静岡県出身。1934年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に三菱商事に入社。1944年に三菱石油に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1967年5月に常務を経て、1973年5月には社長に就任した。1978年6月には会長に就任。 1984年8月9日、急性肺炎のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
古市 二郎(ふるいち じろう、1909年8月2日 - 196… 古市 二郎(ふるいち じろう、1909年8月2日 - 1967年2月22日)は、日本の物理学者。元北海道大学学長。 北海道出身。1934年北海道帝国大学理学部物理学科卒業。助手、助教授を経て、1945年理学博士。1948年、北海道大学教授となり、評議員、理学部長などを務めた。 1966年10月に学長に就任。しかし、1967年2月22日に急死した。享年57。このため北大では阿部與(工学部長)が急遽学長事務取扱となり、1967年5月に堀内寿郎が後任の学長になった。 1958年に湯川秀樹が来道した際、札幌市、旭川市、釧路市での講演に中谷宇吉郎、田中一とともに同行した。弟子に三井利夫(大阪大学名誉教授)、川路紳治(学習院大学名誉教授、日本学士院賞受賞)がいる。
前田 憲一(まえだ けんいち、1909年8月1日 - 199… 前田 憲一(まえだ けんいち、1909年8月1日 - 1995年10月14日)は、日本の電波工学者。学位は工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授、元京都産業大学教授。 大阪府大阪市出身。 主に、電離層における電波の反射についての基礎研究を行った。なお、この研究成果は携帯電話に利用されている。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。