孫 永寿(ソン・ヨンス、朝鮮語: 손영수/孫永壽、1902年… 孫 永寿(ソン・ヨンス、朝鮮語: 손영수/孫永壽、1902年8月12日または1905年 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家、実業家。初代河東郡郡守、第4代馬山市長、第4・5代釜山市長、第4代韓国国会議員を歴任した。 慶尚南道釜山出身、本籍地は密陽。東莱高等普通学校、京城法学専門学校、九州帝国大学(現・九州大学)法学部卒。1945年10月24日から1946年2月1日までは初代河東郡守、1947年11月5日から1949年6月20日までは第4代馬山市長、1952年5月8日から1954年7月9日までは第4・5代釜山市長を歴任した。特に4代目市長の在任中の1953年11月27日に発生した釜山大火災により同年12月11日に辞任したものの、その後はまた市長に選ばれ、12月17日より5代目市長となった。
岡田 宗司(おかだ そうじ、1902年〈明治35年〉8月12… 岡田 宗司(おかだ そうじ、1902年〈明治35年〉8月12日 - 1975年〈昭和50年〉7月8日)は日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。東京市神田区出身。 旧制開成中学、旧制松本高校文科乙類、東京帝国大学経済学部卒業。東京帝大在学中は「東大新人会」の主要メンバーとして活躍。戦前、労農の同人として参加し人民戦線事件で検挙。釈放後に南洋経済研究所に入り経済関係の著述を『科学主義工業』などに寄稿していた。 戦後、日本社会党結成に参加、1947年の第1回参院選に全国区から出馬し初当選する。1948年に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。一貫して左派に属し、社会党再統一後に党参議院議員会長・党国際局長を歴任。
和爾 俊二郎(わに しゅんじろう、1902年(明治35年)8… 和爾 俊二郎(わに しゅんじろう、1902年(明治35年)8月12日 - 1968年(昭和43年)7月12日)は、昭和期の地方公務員、政治家。衆議院議員、大阪市助役。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 愛媛県周桑郡小松町(現西条市小松町)で生まれる。1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部を卒業した。 大阪市役所に入り、大阪市書記、同理事、教育部長、民生局長などを歴任。この間に入隊して陸軍工兵曹長となった。1951年(昭和26年)大阪市助役に就任し3期在任した。第2室戸台風被害の救助活動に尽力し、大阪市会から感謝決議を受けた。 1963年(昭和38年)4月の大阪市長選挙に自由民主党推薦で出馬したが落選。
町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 19… 町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 1992年1月16日)は、三菱銀行常務取締役、三菱経済研究所長などを務めた、日本の銀行家。 長野県更級郡青木島村(後の長野市更北)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)から、第八高等学校 (旧制)へ進み、東京大学経済学部を卒業した。大学では研究者になることを目指して大内兵衛のゼミに参加していたが、実家が経営に関わっていた更埴銀行(1911年 - 1937年)の経営が困難に陥る状況などがあって研究者への道を断念し、1928年に三菱銀行に入行して、以降はもっぱら調査や貸付関係の業務に従事した。1936年ころには業務として欧米留学を経験し、その後、審査部長を経て常務取締役となり、後には、三菱経済研究所長に転じた。
千頭 暎臣(ちかみ てるおみ、1902年(明治35年)8月1… 千頭 暎臣(ちかみ てるおみ、1902年(明治35年)8月11日 - 1983年(昭和58年)2月27日)は、元三菱信託銀行社長、会長。
加藤 進(かとう すすむ、1902年8月10日 - 1993… 加藤 進(かとう すすむ、1902年8月10日 - 1993年11月10日)は、日本の昭和期の官僚。正三位勲一等瑞宝章。北海道札幌市出身。 札幌二中、一高を経て、1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、会計検査院に入る。1933年宮内省に移り、内匠寮主計課長・人事課長・総務局長などを歴任した後、1946年宮内次官、翌年宮内府次長。 1946年神奈川県を皮切りに始まった全国巡幸では、宮内大臣の松平慶民・侍従長の大金益次郎とともに企画・立案・実施の中心人物として活躍した。また、1945年12月に梨本宮守正王がA級戦犯に指名されたことから、GHQの対皇室政策に対して危機感を抱き、皇室・直宮家保全の立場から1947年の皇籍離脱を積極的に推し進めた。
木村 庄三郎(きむら しょうざぶろう、1902年8月10日 … 木村 庄三郎(きむら しょうざぶろう、1902年8月10日 - 1982年1月10日)は、日本の翻訳家。 東京生まれ。慶應義塾大学文学部国文科卒業。同人誌『山繭』などに小説を書き、文学者として活動したのち、戦後はフランス文学の翻訳をおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
三和 精一(みわ せいいち、1902年(明治35年)8月10… 三和 精一(みわ せいいち、1902年(明治35年)8月10日 - 1964年(昭和39年)6月14日)は、昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員。 青森県北津軽郡相内村(市浦村を経て現五所川原市)で、三和松三郎、ユキの三男(5人兄弟の末子)として生まれる。生家は「相清」と呼ばれた旧家で、幼少時は西津軽郡十三村で水戸口役人を務めていた祖父のもとで成長し薫陶を受けた。1914年(大正3年)3月、金木明治高等小学校を卒業し、朝鮮在住のリンゴ業者の伯父のもとに寄寓した。開成夜学校を経て、中央大学専門部法科で学んだが1923年(大正12年)9月に中退した。 1927年(昭和2年)4月、東京民友新聞社に入社。
森 武臣(もり たけとみ、1902年8月9日 - 1971年… 森 武臣(もり たけとみ、1902年8月9日 - 1971年3月23日)は、日本の経営者。富国生命保険社長を務めた。 山梨県出身。1927年に東北帝国大学法文学部を卒業し、1936年8月に富国生命保険に入社。1947年10月に取締役に就任し、1951年4月に常務、1953年5月に専務を経て、同年9月には社長に就任した。 日本航空、富士急行各取締役、東武鉄道、後楽園スタジアム、昭和電工各監査役も歴任した。 1971年3月23日、腎臓炎のために死去。68歳没。
青木 理(あおき まさる、1902年〈明治35年〉8月9日 … 青木 理(あおき まさる、1902年〈明治35年〉8月9日 - 1967年〈昭和42年〉1月25日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。初代三重県公選知事(2期)。 三重県一志郡久居町西鷹跡町(久居市を経て現津市)で生まれた。1923年(大正12年)東京帝国大学法学部を卒業。理研特殊鋼総務部長、日本兵器車両取締役などを経て、1942年(昭和17年)拓務大臣・井野碩哉秘書官となる。翌年実業界に戻り、日本蚕糸近畿中国支社長などを歴任した。 戦後の1947年(昭和22年)の第1回三重県知事選挙に立候補して、官選知事の佐伯敏男や共産党の候補ら4人を破って当選し、初代公選知事となった。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 同年4月16日に就任した。
牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 … 牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 - 1996年(平成8年)8月30日)は、日本の海軍軍人、造船技師。東京帝国大学卒業。最終階級は海軍技術大佐。愛知県名古屋市出身。 1902年(明治35年)8月9日生まれ。愛知県名古屋市出身。東京府立第一中学校、第八高等学校を経て、1922年(大正11年)、東京帝国大学工学部船舶工学科に入学。大正11年7月、海軍造船学生。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学を卒業(工学士)。 大正14年5月、海軍造船中尉に任官、横須賀鎮守府付。1927年(昭和2年)12月に海軍造船大尉に進級し、1931年(昭和6年)12月から1934年(昭和9年)12月までフランスに駐在し(フランス国立造船大学〈シェルブール〉)、その間の1932年(昭和7年)12月に海軍造船少佐に進級。
岩井 文男(いわい ふみお、1902年〈明治35年〉8月9日… 岩井 文男(いわい ふみお、1902年〈明治35年〉8月9日 - 1983年〈昭和58年〉8月12日)は、日本基督教団牧師、教育者。 群馬県北甘楽郡高瀬村(現・富岡市高瀬)に生まれる。1918年(大正7年)16歳で、日本組合甘楽(基督)教会にて岡部太郎牧師より受洗。旧制富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)を経て、同志社大学法学部を卒業。三井銀行に入行したが2年で退職。大学の恩師で法学部教授・中島重に共鳴、日本労働者ミッション派遣員として京都府綴喜郡下草内村で伝道、のち、賀川豊彦の支援により岐阜県加茂郡富田村で農民福音運動やセツルメント活動に従事、兼松沢一らを指導した。 1934年(昭和9年)-1937年(昭和12年)、同志社大学文学部神学科に学んだ後、日本組合渋谷基督教会、日本組合永福町基督教会牧師を歴任。
佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 200… 佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 2000年3月31日)は、日本の植物学者。佐竹氏一門の佐竹南家第19代当主、男爵。湯沢市名誉市民。日本高山植物保護協会会長。 1902年、秋田県で佐竹南家の佐竹義雄の次男として生まれた。旧名は佐竹義宏。次男であったため、はじめ早川家の養子となったが、兄の義質の急死に伴い佐竹南家の当主となり、男爵位を継承した。 秋田県立橫手中学校(現、秋田県立横手高等学校)を経て、東京帝国大学(現、東京大学)理学部に進む。東京大学に学位論文「Boehmeria japonica (日本産やぶまを屬)」を提出して理学博士号を取得。大学卒業後は東京科学博物館 (現:国立科学博物館) の植物研究部長に就任した。
河野 正夫(こうの まさお、1902年(明治35年)8月8日… 河野 正夫(こうの まさお、1902年(明治35年)8月8日 - 1973年(昭和48年)6月7日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 千葉県君津郡上総町(現・君津市)出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。 1929年、姫路市の私立亀山高等女学校教諭に就任。その後、帝国女子専門学校、同附属日本高等女学校教諭に転じた。1940年(昭和15年)東京府立第八中学校教諭に就任し終戦を迎えた。 戦後、労働運動に加わり、東京都教職員組合協議会委員長、教員組合全国連盟委員長、教職員適格審査委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選(補欠、任期3年)し、1950年(昭和25年)6月の第2回通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬したが落選し、参議院議員に1期在任した。
島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月… 島村 信政(しまむら のぶまさ、1902年(明治35年)8月7日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。殉職後は海軍大佐。 長野県東筑摩郡島内村(現松本市)出身。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、海軍兵学校卒(51期)。兵学校では高松宮宣仁親王の「学友」を命じられる。少尉候補生から海軍砲術学校、「古鷹」、「榛名」、横須賀鎮守府、「厳島」、「響」、「大鯨」、第二艦隊司令部などに配属された。 太平洋戦争開戦(1941年)時、連合艦隊旗艦「長門」司令部の真珠湾攻撃作戦指揮に気象担当として従事した。のちに(1943年7月、8月15日付以降との説もある)古賀峯一連合艦隊司令長官のもと、トラック泊地でも旗艦「武蔵」の連合艦隊司令部幕僚(参謀・気象長)として所属した。
胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)… 胡桃沢 源人(くるみさわ げんじん、1902年(明治35年)8月6日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、日本の洋画家である。本名は源市。 長野県松本市の生まれ。矢野橋村が設立した大阪美術学校に入学し、在学中の1928年(昭和3年)に自身の作品が帝展に初入選される。1929年(昭和4年)に卒業後は、斎藤与里の門人となった。1935年(昭和10年)には東光会の会員となり、1941年(昭和16年)及び翌1942年(昭和17年)には2年連続で新文展に出品され特選となる。 その後は大阪美術学校の後輩だった日本画家の融紅鸞と結婚し、1964年(昭和39年)には浪速芸術大学(現在の大阪芸術大学)の教授となり、会員だった東光会の理事長や大阪市立美術研究所の講師も務めた。
金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日… 金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日 - 1973年(昭和48年)10月20日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 茨城県新治郡真鍋町(土浦市大字真鍋を経て、現在は土浦市真鍋)で生まれる。1919年(大正8年)、茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 日神酒造社長、ニッシン興業社長、湖南通運専務取締役、アサヒ産業社長、土浦商工会議所会頭などを務めた。 1947年(昭和22年)、茨城県議会議員に当選。民主党に所属して同党茨城県支部総務に就任。1948年(昭和23年)に県議を辞職し、1949年(昭和24年)1月に実施された第24回衆議院議員総選挙で茨城県第3区に民主党公認で出馬して当選し、その後改進党に所属して衆議院議員に1期在任した。
迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月… 迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 いわゆる「玉音放送」を起草した人物の一人として知られる。 内閣書記官長(第51代)、総合計画局長官、貴族院議員、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)、経済企画庁長官(第9・10代)、郵政大臣(第17代)、鹿児島工業短期大学学長(初代)などを歴任した。
原一郎(はら いちろう、1902年8月5日-1984年1月3… 原一郎(はら いちろう、1902年8月5日-1984年1月31日)は、日本の英文学者、神秘思想研究家。 東京出身。少年時代にキリスト教に関心をもち、ユニテリアン運動に関わる。1927年東京帝国大学文学部英文科卒。東亜同文書院、早稲田大学理工学部教授。1973年定年、名誉教授。ワーズワスが専門。ジョン・クーパー・ポウイスと親しく交わった。義兄(姉の夫)に遠山元一がいる。
閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治… 閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年〈明治35年〉8月3日 - 1988年〈昭和63年〉6月18日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人、居合道家、剣道家。閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子。閑院宮第7代当主にして最後の当主。軍人としての階級は陸軍少将。全日本居合道連盟第2代会長。栄典は大勲位・功四級。戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし、「閑院 春仁(かんいん はるひと)」と名乗った。のちに「純仁(すみひと)」と改名した。 1902年(明治35年)8月3日 、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2男子(第5子)として誕生。 学習院初等科を健康上の理由で長期休学し、その後神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、1924年(大正13年)7月陸軍士官学校(36期、兵科・騎兵)を卒業。
浅井 孝二(あさい こうじ、1902年8月3日 - 1992… 浅井 孝二(あさい こうじ、1902年8月3日 - 1992年2月20日)は、日本の実業家。住友銀行元頭取。石川県金沢市出身。 1921年に大阪明星高校、1925年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に住友銀行に入行。1947年に取締役、1952年に常務、1958年に専務、1963年に副頭取を経て、堀田庄三の後を継ぐ形で、1971年6月から1973年5月までに頭取を務めた。 その一方で、1974年から1981年までに大阪商工会議所副会頭を務め、1981年に大阪商工会議所会頭の座を巡り、関西財界を二分した「大商戦争」の際に、佐伯勇会頭の続投を支持しつつ、事態の収拾にも努めた。1972年に勲二等瑞宝章を受章した。
中村 寅太(なかむら とらた、1902年8月3日 – 197… 中村 寅太(なかむら とらた、1902年8月3日 – 1978年2月14日)は、日本の政治家。位階は正三位。 運輸大臣、国家公安委員会委員長、行政管理庁長官を歴任。 現在の福岡県糸島市志摩の農家に生まれる。農業の傍ら、中野正剛の門下生となり、同志を集めて「糸島又新会」を結成、普選運動に挺身する。1933年糸島農学校を卒業後、福岡県産業組合(現在の農協の前身)に入り、1938年主事となる。1942年県農業会主事。終戦後農業会を辞職し、「農民青年連盟」を結成、書記長となる。 1947年第23回衆議院議員総選挙に同連盟から旧福岡1区から立候補し、45,889票を集めて2位で当選する(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘など)。
富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日… 富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日 - ? )は、日本の哲学者。松商学園短期大学第5代学長。「リベラルな思想家」と評された。 佐賀県佐賀市生まれ。第七高等学校から、東京帝国大学文学部に進み、哲学科を卒業した。東亜研究所に勤務したが、戦後にシベリア抑留を経験し、1950年に鹿児島商科短期大学(後の鹿児島経済大学〜鹿児島国際大学の前身)教授となり、1959年に松商学園短期大学教授に転じた。 1971年6月に、当時の学長であった長守善が死去した後、学長事務取扱となり、翌1972年3月1日から正式に第5代学長となった。4期8年の学長在任中に、松商学園高等学校と共有されていたキャンパスの分離移転に取り組み、新村地区(現在の松本大学の校地の一部)への短大の新築移転を実現した。
西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990… 西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990年4月3日)は、日本の政治家。鳥取県知事。 鳥取市出身。九州帝国大学法文学部卒。鳥取県経済部開拓第一課長を経て、1947年の第1回鳥取知事選に立候補して初当選。当時は課長から知事への「三段跳び知事」と話題になった。同年11月、鳥取県に昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。 1952年の鳥取大火の復興に力を尽くした。2期目の1953年に南米への大量移住を唱え、議会を反対を押し切って5ヶ月にわたる南米視察の外遊をめぐってリコール運動に発展し、任期途中で辞職。出直し知事選で3期目を目指したものの落選し、1963年の鳥取市長選にも出馬したがこちらも落選に終わっている。
栗原 美能留(くりはら みのる、1902年(明治35年)7月… 栗原 美能留(くりはら みのる、1902年(明治35年)7月31日 - 1997年(平成9年)4月24日)は、日本の内務官僚。官選高知県知事。
塩見 恒明(しおみ つねあき、1902年7月29日 - 19… 塩見 恒明(しおみ つねあき、1902年7月29日 - 1981年10月26日)は、日本新聞連合社の記者。妻の美代子は、小野寺百合子の妹。 1920年、兵庫県立伊丹中学校卒業。1924年、関西学院専門部文学科卒業。同年4月、日本新聞連合社大阪支社に入社。1931年12月、ベルリン支局長として赴任。1933年5月に帰国し外国経済部次席兼翻訳部主任。著書に「新興ロシアの横顔」がある。
生住 正信(いけずみ まさのぶ、明治35年(1902年)7月… 生住 正信(いけずみ まさのぶ、明治35年(1902年)7月28日 - 昭和41年(1966年))は日本の教育者。
川南 豊作(かわなみ とよさく、かわみなみ とよさく、190… 川南 豊作(かわなみ とよさく、かわみなみ とよさく、1902年〈明治35年〉7月28日 - 1968年〈昭和43年〉12月11日)は、日本の実業家、右翼活動家。 1902年(明治35年)富山県に生まれ、1919年(大正8年)県立富山水産講習所を卒業後、東洋製罐株式会社に入社。 1931年(昭和6年)結婚後、退職して、朝鮮に渡り、トマト・サージン工場を建設してイワシのトマト煮缶詰の製造を始める。 1934年(昭和9年)、佐賀県にて合名会社川南工業所を設立し、缶詰製造業から曹達・硝子事業に転換する。曹達原料である塩を安く輸入するためには船が必要であるという考えから、1936年(昭和11年)、長崎県西彼杵郡香焼村(現:長崎市香焼町)にある閉鎖中の松尾造船鉄工所を買収し、川南工業所とともに吸収合併し、川南工業株式会社を設立し、造船業に進出する。
笹村 越郎(ささむら えつろう、1902年7月27日 – 1… 笹村 越郎(ささむら えつろう、1902年7月27日 – 1981年8月23日)は、日本の鉄道官僚、実業家。 1902年生れ。山口県出身。 明治中学(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)卒業後、1927年京都帝国大学工学部卒業。同年鉄道省に入り、四国鉄道局長、運輸総局車輛局長などを経て、1951年日本国有鉄道理事、1952年工務局長、総裁室勤務などを歴任。1955年に汽車製造(現・川崎重工業)に移り、専務を経て、東海道新幹線の開通と東京オリンピックが開催された1964年に社長に就任。資本金を26億5200万円に増資した。
田谷 充実(たや じゅうじつ、1902年7月27日 - 19… 田谷 充実(たや じゅうじつ、1902年7月27日 - 1963年2月27日)は、石川県能美郡山上村(旧山口村、旧辰口町を経て現在の能美市)火釜出身の政治家。石川県知事(2期 第46-47代)公選では2人目。 1928年、京都帝国大学法学部卒。全国指導農業協同組合副会長、農林中央金庫評議員、石川県農業協同組合中央会会長などを経て、1955年2月20日第3回石川県知事選挙で現職の柴野和喜夫を破り、初当選する。1959年2月8日の第4回石川県知事選挙で再選。石川県知事を2期務め、1963年2月19日知事を退任した(後任は中西陽一)。知事退任直後の2月27日に死去した。
鷲見 三郎(すみ さぶろう、1902年(明治35年)7月27… 鷲見 三郎(すみ さぶろう、1902年(明治35年)7月27日 - 1984年(昭和59年)11月26日)は、日本のヴァイオリン指導者、指揮者。 千住真理子、佐藤陽子、澤和樹らを育て「日本の著名ヴァイオリニストのほとんどが鷲見の門下生」といわれるほど、傑出したヴァイオリン指導者として日本の音楽界をリードしてきた。 鳥取県米子市尾高町の茶商の家に生まれた。父房太郎は1872年(明治5年)に生まれ、母いわと1896年(明治29年)に結婚して茶商を開業した。「武士の商法」で金もうけは得意でなく、暮らしは豊かでなかったが、信仰の厚い母は子供たちを聖公会の幼稚園に行かせ、日曜の聖日礼拝を欠かさなかった。 1924年に上京し、ヴァイオリンを多久寅に師事した。
臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治3… 臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治35年〉7月26日 - 1987年〈昭和62年〉10月18日)は、大正から昭和期の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。千葉興行2代目社長。総理府総務長官。衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。千葉市名誉市民。学位は商学士(早稲田大学)。剣道六段。 東京市深川区越中島(現在の東京都江東区越中島)で建築材料商の家に生まれた。1920年(大正9年)3月、旧制・東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を卒業し、1925年(大正14年)3月、早稲田大学商学部商学科を卒業。大日本麦酒に入社した。 父の病のため1925年11月、大日本麦酒を退職して千葉市に転居。
小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26… 小笠原 章二郎(おがさわら しょうじろう、1902年7月26日 - 1974年11月10日)は日本の俳優。本名は小笠原 長英(おがさわら ながふさ)。 旧唐津藩主子爵小笠原家第14代当主小笠原長生(元海軍中将・元宮中顧問官・元学習院御用掛)・秀子(元前橋藩主伯爵松平直方の長女)の次男として東京府東京市に生まれる。学習院初等科・学習院中等科から陸軍幼年学校に入学したが病気で中退、学習院高等科卒業。 日本映画黎明期の大正時代、兄の小笠原明峰(小笠原長隆)が設立した小笠原プロダクションの専属となり、1921年に芸能界入りする。兄の明峰は長生の長男であり、第15代当主となる立場であったが、映画監督となったため廃嫡となる。
吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1… 吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1986年11月20日)は、日本の農学者。 岡山県井原市に生まれる。1930年京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業する。倉敷労働科学研究所員、労働科学研究所を経て、岡山理科大学教授、同朋大学教授、金沢経済大学(現・金沢星稜大学)学長、龍谷大学教授などを歴任した。1961年、萩野昇とともに富山県神通川流域のイタイイタイ病の原因がカドミウムであることを突き止めた。ほかに1950年の第2回参議院議員通常選挙で全国区から立候補したが辞退した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 -… 大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 - 1990年7月12日)は、日本の美術史家、美術評論家、実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。 元共産党員。別名・小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。 理化学研究所第3代所長・理研産業団創始者で貴族院議員を務めた子爵大河内正敏の長男。高等師範付属中学時代から左翼思想に興味を抱き、旧制浦和高校に進学すると学内に思想研究会を組織。2年在学時には読売新聞(大正12年5月30日長官)に埼玉県警察の黒表(ブラックリスト)に上がっているとする記事が掲載された。東京帝国大学では学生運動組織「新人会」に参加。小川信一のペンネームで、左翼文化団体の指導者となり、『日本資本主義発達史講座 第2部 資本主義発達史』の「労働者の状態及び労働者運動史」などの著作を発表。
今井 久(いまい ひさし、1902年(明治35年)7月24日… 今井 久(いまい ひさし、1902年(明治35年)7月24日 - 1980年(昭和55年)7月25日)は、日本の内務・警察・防衛官僚。官選茨城県知事、防衛事務次官。 東京府出身。専売局官吏・今井譲の二男として生まれる。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)、第八高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年4月、内務省に入省し岡山県属となり内務部社会課兼地方課勤務となる。同年12月、休職して入営し、1926年11月、陸軍二等計手となり復職。 1927年3月、地方警視・宮崎県警察部警務課長兼保安課長に就任。以後、神奈川県警察部警務課長、石川県工場監督官、大阪府警察部警務課長、警視庁警視・警務部警務課長、佐賀県書記官・警察部長を歴任。
鏑木 政岐(かぶらぎ まさき、1902年(明治35年)7月2… 鏑木 政岐(かぶらぎ まさき、1902年(明治35年)7月24日 - 1987年(昭和62年)12月27日)は、日本の天文学者。専門は恒星天文学。東京大学名誉教授。 石川県金沢市に神官の子として生まれる。旧制第四高等学校を経て、1926年(大正15年)に東京帝国大学理学部天文学科を卒業し、同学部の助手ならびに東京天文台の技手となる。 1934年(昭和9年)理学博士の学位を授与され、1934年(昭和9年)東京帝国大学理学部助教授に就任。1946年(昭和21年)東京大学理学部教授となり1963年(昭和38年)に定年退官した。1963年(昭和36年)東京理科大学理学部教授となり1973年(昭和48年)に退職。
小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20… 小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20日 - 1998年(平成10年)8月9日)は、日本の油彩画家。愛知県名古屋市中区南呉服町生まれ。小堀遠州の子孫。
原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月2… 原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月20日 - 1983年7月24日)は、日本の伝記作家。本名:貢。
原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月… 原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1983年〈昭和58年〉7月24日)は、日本のジャーナリスト、著作家。本名は貢(みつぎ)。原敬の養嗣子。娘はスタイリストの原由美子。 大阪府出身。首相の原敬の姪の子で、幼児期に養嗣子となる。1915年(大正4年)東京府立一中入学。同期に小林秀雄、迫水久常、千頭暎臣、石丸重治(半途退学)、西竹一(半途退学)らがいる。以降、慶應義塾大学予科在学中に英国留学のため1921年(大正10年)中退。 1940年(昭和15年)、同盟通信記者。1946年(昭和21年)に退社して、ファッション評論なども手掛けた。1950年(昭和25年)に「原敬日記」を乾元社で公刊(原敬の遺言で、公開は没後30年程度を経てからと定めていた)。
種子島 時休(たねがしま ときやす、1902年(明治35年)… 種子島 時休(たねがしま ときやす、1902年(明治35年)7月20日 – 1987年(昭和62年)8月7日)は、元大日本帝国海軍技術大佐。大学教授。日本初のジェット機橘花の開発者として著名である。 薩摩国種子島領主であった種子島氏の末裔で、宗家の種子島男爵家の分家筋にあたる。父は海軍造兵大技士で無線通信の専門家だった種子島時盈。その長男として横須賀市の海軍官舎で生まれた。 1921年(大正11年)に海軍機関学校を卒業し、1929年(昭和4年)に海軍大学校選科合格、翌年には東京帝国大学航空学科に入学。1931年(昭和6年)に大野千代子と結婚。1933年(昭和8年)、東京帝大航空学科を卒業。1935年(昭和10年)の4月から2年に渡ってフランスへと留学。
黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 199… 黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 1992年12月22日)は、日本のロシア文学者、早稲田大学名誉教授。 1902年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部を卒業。駐日ソ連大使館に勤務。 戦後の1946年、母校である早稲田大学教授に着任。1960年「ロシヤ・シンボリズム詩文学の成立過程」を早稲田大学に提出して文学博士号を取得。1962年に雑誌『ソヴェート文学』を創刊。1973年に早稲田大学を定年退任し、名誉教授となった。
織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月2… 織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1993年〈平成5年〉4月30日)は、日本のアイヌ文化伝承者。アイヌ口頭文芸、アイヌ口承文学の第一人者とされ、特にユカㇻの伝承者として知られる。晩年のアイヌ語、アイヌの神事、口承文芸、生活文化などでの後進の指導、研究者への協力などでも知られている。ユカㇻを始めとするアイヌの生活文化全体について伝承者の少なくなった近世においては、最も信頼のおける人物の1人とされており、北海道静内地方のアイヌ文化は研究成果も資料も少ない中、アイヌ文化全般の知識を有する貴重な存在ともされている。「ステノ」の名は晩年に自称したアイヌとしての名であり、戸籍名は織田 ステ。
森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18… 森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 和歌山県那賀郡に生まれる。1928年(昭和3年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業し、同年高等試験行政科に合格。1930年(昭和5年)4月、台湾総督府内務局に出仕する。1933年(昭和8年)10月、地方理事官となり新竹州中壢郡守に任じ、花蓮港庁庶務課長、府事務官、興亜院事務官、官房情報課長などを歴任し、1942年(昭和17年)1月に官を辞し、皇民奉公会中央本部参事となった。
植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 196… 植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 1963年10月30日)は、日本の哲学研究者。兵庫県出身。早稲田大学卒。早大助教授、1946年、教授。1963年、「プラグマティズムの基礎的研究」で文学博士。授与は死去の日付。英米哲学。
川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 192… 川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 1923年9月4日)は、大正時代の労働運動活動家で、初期の共産主義運動活動家。本名は川江善虎。関東大震災の混乱時に、亀戸警察署に検束され、労働運動の活動家であったために虐殺される。 長野県上田市出身。小学校を終えた後、日立鉱山の旋盤工となる。 1920年同志とともに上京して暁民会に参加。同年、日本社会主義同盟創立大会で検挙され入獄。1922年、日本共産党(第一次)の創立とともに入党し、渡辺政之輔らと南葛労働協会を結成、野田醤油労働争議など各地の労働争議に当たる。1923年4月5日、日本共産青年同盟(共青)の創立とともに委員長となる。 同年9月1日関東大震災発生時、川合は東京市麻布区(現・東京都港区)におり、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)の自宅に帰る途中母子が家の下敷きになっているのに遭い、母親は助け出せなかったが3人の幼児を救い出し、食べ物を与えたりして一晩下谷区(現・台東区)上野公園で抱いて過ごした。
梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1… 梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1996年4月14日は、日本の哲学者(経済哲学)。立命館大学名誉教授。 ヘーゲル、マルクスを専門とし、京都学派左派の戦時下抵抗思想と三木哲学批判で知られる。 徳島県出身。1928年京都帝国大学文学部哲学科(社会学)卒。西田幾多郎・田辺元にも師事。唯物論研究会に所属するが、1938年に検挙され転向。戦後は第六高等学校教授を経て、1950年に立命館大学教授。1959年「資本論の学的体系性 マルクス主義経済哲学の基礎づけのために」で立命館大学経済学博士。立命館大学経済学部教授、1963年定年退任、名誉教授。橘女子大学教授。1964年に廃止された立命館大学吉田寮の寮監を務めていた。
大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1… 大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1990年5月18日)は、日本の民俗学者。 1902年、山口県生まれ。新潟県古志郡長岡町(現・長岡市)育ち。 早稲田大学文学部を中退。柳田國男に師事し、日本民俗学会を設立し、代表も務めた。大橋図書館に司書として勤務したほか、成城大学教授として教鞭をとり、1973年定年退職し、名誉教授となった。
富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月… 富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月14日 - 1962年(昭和37年)3月7日)は愛媛県出身の俳人。本名富澤正三(とみざわ しょうぞう)。新興俳句の担い手として、現代詩の一分野としてのモダニズム俳句を追求した。代表句に「蝶墜ちて大音響の結氷期」がある。 1902年、愛媛県西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町琴平)に開業医の長男として生まれる。 1920年宇和島中学校卒、1926年早稲田大学政経学部を卒業。在学中、松根東洋城の門人に勧められ松根の主宰誌「渋柿」に投句するも、熱心に打ち込むことはなかった。同4月、国際通運(現在の日本通運)東京本社に入社、1928年国際通運大阪支社に転勤。
西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945… 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐。愛称・通称はバロン西(バロン・ニシ、Baron Nishi)。