長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月2… 長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月25日 - 2004年(平成16年)5月3日)は日本の実業家。元野村證券投資信託委託会長・野村證券専務。 大阪府に生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学経済学部を卒業し、野村證券に入社する。1948年(昭和23年)に同社営業第一部長、1949年(昭和24年)に同社引受部長、1952年(昭和27年)に同社取締役、1959年(昭和34年)に同社常務、1962年(昭和37年)に同社専務を経て、1968年(昭和43年)に野村證券投資信託委託社長に就任する。1973年(昭和48年)に同社会長に就任し、1975年(昭和50年)に証券投資信託協会会長を務める。
川村 清一(かわむら せいいち、1911年3月23日 - 2… 川村 清一(かわむら せいいち、1911年3月23日 - 2004年7月16日)は、日本の政治家。参議院議員(3期・日本社会党)、北海道議会議員。 北海道小樽市生まれ。函館師範学校(現在の北海道教育大学函館校)卒。1946年北海道教職員組合情報宣伝部長、1948年浦河町立浦河第一中学校校長を経て、1955年日本社会党から北海道議会議員に初当選。1963年日本社会党北海道本部委員長。1965年の同党公認で第7回参議院議員通常選挙にて初当選。以後連続3期。参議院農林水産委員会理事を長く務め、1979年に再び同党北海道本部委員長に就任。横路孝弘の知事選の裏方役に徹し、横路道政誕生に尽力した。1983年横路知事の誕生と共に引退。
瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1… 瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1995年6月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1911年(明治44年)3月22日、長野県長野市に善光寺塔頭蓮華院の長男として生まれる。 旧制・長野県長野中学校(現在の長野県長野高等学校)、旧制・姫路高等学校(現在の神戸大学)をそれぞれ卒業後、東京帝国大学に入学、同文学部で美術史学を専攻し、同学を1934年(昭和9年)に卒業した。卒業後、同郷の映画監督・池田義信の在籍する松竹キネマの松竹蒲田撮影所に入社した。池田のほか、深田修三、渋谷実に師事した。 1940年(昭和15年)、三浦光子主演の映画『女の気持』で監督に昇進した。第二次世界大戦開戦後の1943年(昭和18年)、河村黎吉・吉川満子主演の『家に三男二女あり』を監督した。
田畑 茂二郎(たばた しげじろう、1911年3月22日 - … 田畑 茂二郎(たばた しげじろう、1911年3月22日 - 2001年3月8日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1961年)。日本学士院会員。京都府舞鶴市出身。
安井 謙(やすい けん、1911年3月22日 - 1986年… 安井 謙(やすい けん、1911年3月22日 - 1986年3月10日)は、日本の政治家。位階は従二位勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。 参議院議長(第13代)、参議院副議長(第11代)、自治大臣(第4代)、国家公安委員会委員長(第13代)、総理府総務長官(第14代)、参議院議院運営委員長(第16代)、自由民主党参院議員会長(第10代)同参議院幹事長、参議院議員(6期)。 兄は公選初代東京都知事を務めた安井誠一郎。弟は雪印食品副社長の安井三郎。 岡山県岡山市出身。旧制岡山第二中学校、旧制第六高等学校文科乙類、1935年、京都帝国大学経済学部卒業。京都帝国大学在学中は学生運動に参加し、左翼思想に傾倒していたため周囲から「マルクス坊や」と呼ばれていた。
加藤 僘(かとう ひろし、1911年〈明治44年〉3月21日… 加藤 僘(かとう ひろし、1911年〈明治44年〉3月21日 - 没年不明)は日本の実業家。 兄は元加藤商事社長加藤章。 鳥取県米子市出身。愛知県・豊吉の次男。父豊吉は米子にやって来て煉瓦や土管やセメント屋になり、鉄道工事建設の資材を納める仕事を始めた。 昭和10年(1935年)東大政治学科卒業、安田保善社に入り安田火災海上より昭和15年(1940年)住友金属工業に転じ燃料資材各課長、製鋼所業務部長、航空機器事業部営業部長、参与、調査役を経て昭和34年(1959年)9月住友鋼材工業監査役、11月大阪チタニウム製造取締役営業部長。 其間小倉汽船・尼崎製氷冷蔵各取締役、柏原機械製作所・日東産業・大塚鉄工所・三和金属各監査役を歴任。
宮本 忍(みやもと しのぶ、1911年3月21日 - 198… 宮本 忍(みやもと しのぶ、1911年3月21日 - 1987年8月18日)は、日本の外科医学者、日本大学名誉教授。 静岡県出身。東京帝国大学卒。国立東京療養所勤務、外科医長、1956年日本大学医学部教授。1981年定年退任、名誉教授。 肺結核の外科的治療を専門としたが、ほか社会評論など著作を多く書いた。
原田 観峰(はらだ かんぽう、1911年〈明治44年〉3月2… 原田 観峰(はらだ かんぽう、1911年〈明治44年〉3月21日 - 1995年〈平成7年〉7月)は、日本の書家、教育者。福岡県にて生まれ、戦前は東京都で教鞭を取り、戦後は福岡に戻って複数の幼稚園を開設した。後の日本習字教育財団を創立して日本全国で書道教育を推進したほか、海外の文化資料の蒐集を行った。開設した博物館である観峰館には蒐集した資料が所蔵されている。 本名は原田孝太郎。1911年3月21日、福岡県山門郡瀬高町(現・みやま市)に生を受ける。実家は酒樽の製造を営んでいた。教育熱心な父親の下に育ち、幼少期から書道を嗜み、また学問にも秀でていたとされる。当時は小野鵞堂の作品を手本として筆の練習をしていた。
加藤 六美(かとう むつみ、1911年3月20日 - 200… 加藤 六美(かとう むつみ、1911年3月20日 - 2000年7月8日)は日本の工学者、工学博士。愛知県出身。東京工業大学学長、国立大学協会会長、人事官を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 略歴は以下のとおり。
伊藤 不二男(いとう ふじお、1911年3月20日-1987… 伊藤 不二男(いとう ふじお、1911年3月20日-1987年3月25日)は、日本の国際法学者。 福岡県出身。1936年東京帝国大学法学部法律学科、37年同政治学科卒。1940年九州帝国大学大学院修了、同副手、助手、南山大学助教授、熊本大学助教授、1953年九州大学法学部助教授、54年教授、62年九州大学法学博士。63-65年法学部長。74年定年退官、名誉教授、西南学院大学教授。1966年「ビトリアの国際法理論」で日本学士院賞受賞。
斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月2… 斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月20日 - 1981年〈昭和56年〉7月24日)は、日本の教育者。群馬県佐波郡芝根村(現・玉村町)生まれ。群馬師範学校(現・群馬大学共同教育学部)本科第一部卒業。小中学校の教師や群馬県教職員組合常任委員(文化部長)を経て、1952年、佐波郡島小学校長となり、11年間、「島小教育」の名で教育史に残る子どもたちの表現力を育てる実践を展開した。計8回開かれた公開研究会には、全国から延べ1万人近い教師、研究者らが参観に来た。 併行して民間教育研究運動にも積極的に携わり、自ら設立に関与した教育科学研究会(教科研)教授学部会や教授学研究の会で現職教員を指導した。
江口 朴郎(えぐち ぼくろう、1911年3月19日 - 19… 江口 朴郎(えぐち ぼくろう、1911年3月19日 - 1989年3月15日)は、日本の西洋史研究者。東京大学名誉教授。元日本学術会議会員、元歴史学研究会委員長。 1911年、佐賀県生まれ。少年時代から神奈川県藤沢町(鵠沼(現・藤沢市鵠沼桜が岡1丁目)に在住。湘南中学校、第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。同大学院に進んだ。 卒業後は、1934年から外務省に嘱託として勤務。1941年、姫路高等学校教授に就いた。 戦後は鵠沼(現鵠沼橘2丁目)に帰り、1947年に第一高等学校教授となった。この頃、母校の湘南高校の生徒であった江藤淳、石原慎太郎、葉山峻らが出入りしていた。1953年に東京大学教授となった。
志岐 義郎(しき よしろう、1911年3月19日 - 197… 志岐 義郎(しき よしろう、1911年3月19日 - 1973年6月7日)は、日本の経営者。三菱瓦斯化学社長を務めた。 福岡県出身。1931年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 三菱製紙での勤務を経て、1945年に江戸川化学工業に転じ、1951年に取締役、1956年6月に常務、1966年に専務を経て、1964年には社長に就任し、1971年10月に三菱瓦斯化学社長に就任。 1969年4月に藍綬褒章を受章。 1973年6月7日、心筋梗塞のために死去。62歳没。墓所は鎌倉市の鎌倉霊園。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田中 昌司(たなか まさじ、1911年3月18日 - 200… 田中 昌司(たなか まさじ、1911年3月18日 - 2002年6月11日)は、日本の経営者。澁澤倉庫社長、会長を務めた。 埼玉県北葛飾郡鷲宮町出身。1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に澁澤倉庫に入社。1958年に取締役に就任し、1961年に常務、1964年に専務、1967年11月に副社長を経て、1973年5月には社長に就任。1985年6月に会長を経て、1991年6月には相談役に就任。 2002年6月11日くも膜下出血のために死去。91歳没。
佐々木 凛一(ささき りんいち、1911年3月18日 - 没… 佐々木 凛一(ささき りんいち、1911年3月18日 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者。 名古屋市熱田区に生まれる。1928年福岡県中学修猷館、1930年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1933年3月東京帝国大学文学部英文学科を卒業。 電通に勤務後、1935年同盟通信社外信部に入り、上海、香港の各特派員、外信部次長を経て、1940年ローマ支局長となり、その後ベルリン、ストックホルム特派員を務める。 1946年世界日報(産経新聞の前身)外信部長となり、1948年世界日報が改題した世界経済新聞の編集局次長兼外信部長に就任、1950年3月産経新聞と改称。その間、1949年6月より日本放送協会(NHK)嘱託となり、ニュース解説などを担当している。
柴田 達夫(しばた たつお、1911年3月18日 - 199… 柴田 達夫(しばた たつお、1911年3月18日 - 1991年7月6日)は、昭和期の内務官僚。建設事務次官、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁等を歴任。建設行政の基礎を築き、特に水資源開発に大きな功績を残した。 貴族院議員や内閣書記官長などを務めた柴田善三郎の次男として愛媛県松山市に生まれる。第三高等学校から東京帝国大学に進み、1935年の卒業とともに内務省に入る。 1939年内務事務官となり、太平洋戦争後の1950年に大阪府警察長に就任。1954年に初代警察庁長官官房長、警視監となる。 建設省大臣官房長(1955年)を経て、1958年12月16日に建設事務次官に就任した(1961年11月1日退任)。
坂根 哲夫(さかね てつお、1911年 <明治44年> 3月… 坂根 哲夫(さかね てつお、1911年 <明治44年> 3月18日 - 2005年 <平成17年> 2月15日)は、日本の公取官僚。元公正取引委員会事務局長。退官後、日鐵海洋工事代表取締役社長、新日本製鐵参与等。 山口県小野田市出身。1931年山口高等商業学校(現山口大学)卒業。1934年に東京商科大学(現一橋大学)学部卒業後、猪谷善一研究室に勤務。1937年に外務省入省(調査部)。1943年大使館調査官、叙高等官六等。大東亜省調査官を経て、1945年に外務省に復帰(総務局総務課)。 1947年の公正取引委員会創立時から同事務局に入り、外務事務官を免ぜられ、総理府事務官、叙二級。1949年公正取引委員会事務局調査部長心得。
黒田 了一(くろだ りょういち、1911年〈明治44年〉3月… 黒田 了一(くろだ りょういち、1911年〈明治44年〉3月16日 - 2003年〈平成15年〉7月24日)は、日本の法学者(憲法)・政治家・弁護士。大阪府知事(2期)。憲法改悪阻止各界連絡会議代表委員。 大阪市北区大淀町生まれ。旧制北野中・旧制三高から東北帝国大学法学部法律学科を卒業後、東北帝国大学法学部助手を経て満洲国高等鉄路警護学校教官などを歴任。終戦後5年間シベリア抑留を経験し、1950年(昭和25年)に帰国。大阪市立大学法学部助教授に就任し、憲法学を担当した。1956年に教授に昇任し学生部長・法学部長を歴任、日本学術会議「学問・思想の自由」委員会委員長・日本科学者会議全国参与・大阪護憲連合代表委員なども務めた。
尹 亨南(ユン・ヒョンナム、朝鮮語: 윤형남、1911年3月… 尹 亨南(ユン・ヒョンナム、朝鮮語: 윤형남、1911年3月16日または1912年 - 2002年10月9日)は、大韓民国の官僚、政治家、弁護士、ジャーナリスト。漆谷郡・尚州郡郡守、第3・4・5代韓国国会議員を歴任した。本貫は坡平尹氏。 日本統治時代の全羅南道順天郡(現・順天市)出身。全羅南道公立師範学校(現・光州教育大学校)を経て日本大学法学科卒。高等文官試験司法科・行政科合格。漆谷郡・尚州郡(現・尚州市)郡守、外務部法務課長、法制処法制官、光州朝鮮衆報主筆、弁護士、民主党中央委員・全南道党副委員長、内閣責任制改憲起草委員、第5代国会民議院法制司法委員長(1960年10月2日~1961年5月16日)を務めた。
斎藤 一郎(さいとう いちろう、1911年(明治44年)3月… 斎藤 一郎(さいとう いちろう、1911年(明治44年)3月15日 - 1968年(昭和43年)8月30日)は、昭和時代の労働運動家、労働評論家。 北海道長万部町生まれ。1930年山形県立新庄中学校(現山形県立新庄北高等学校)卒業。 1931年秋田で農民運動に参加。1932年全農全国会議秋田地方委員会を組織、日本共産党に入党。同年11月に治安維持法違反で検挙されて懲役5年の判決を受け、1939年に出獄。 敗戦後の1945年、共産党に再入党。1946年の結成時から産別会議の書記となり、党フラクションの責任者として労働運動を指導。1947年の二・一スト挫折の渦中に立つ。 1949年に労働組合政策をめぐって党中央と対立し、産別会議を離れ、共産党東京都委員に就任。
坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1… 坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1987年10月14日)は、日本の洋画家。 「グレーの画家」と呼ばれる。グレーと黒を主体にした独自の抽象画は、東洋の寡黙、沈黙の錬金術などとも評じられる。1986年のFIEST展(フランス、パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞するなど、国際的にも評価が高い。 作品の収蔵は文化庁、栃木県立美術館、熊本県立美術館、福岡市美術館、北九州市立美術館、坂本善三美術館ほか。熊日社会賞、西日本文化賞、第1回長谷川仁記念賞、熊本県文化懇話会賞受賞。熊本県近代文化功労者。 熊本県阿蘇郡小国町には、坂本善三の作品など約500点を収蔵、展示する坂本善三美術館がある。
榊原 政春(さかきばら まさはる、1911年(明治44年)3… 榊原 政春(さかきばら まさはる、1911年(明治44年)3月15日 - 2002年(平成14年)12月11日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 後に子爵・榊原政敬の養子となる榊原政和の二男として生まれる。父の死去に伴い、1927年(昭和2年)3月1日、子爵を襲爵した。 1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部を卒業。その後、同学部研究室で国際政治学を研究。1936年、台湾拓殖に入社。1938年(昭和13年)に召集され野砲兵第1連隊に入隊。1940年(昭和15年)陸軍少尉に任官し、1941年(昭和16年)南方軍司令部付となり、1942年(昭和17年)陸軍中尉に昇進。南方軍では、報道部、軍政部員として勤務し、日本陸軍占領地をくまなく視察した。
山﨑 一雄(やまさき かずお、1911年3月15日 - 20… 山﨑 一雄(やまさき かずお、1911年3月15日 - 2010年4月10日)は、日本の化学者。専攻は無機化学。日本学士院会員。 名古屋市出身。東京帝国大学理学部卒業。大学卒業後は東京帝国大学の恩師である柴田雄次の研究室助手として無機化学の研究を行う。 柴田研究室在籍時代に法隆寺(奈良県)の昭和の大改修に伴う壁画保存調査会の調査員に入ったことをきっかけとして、古文化財の科学的調査研究の分野に進むようになる。 1941年に名古屋帝国大学教官となる。それとほぼ同時に柴田雄次が名古屋帝国大学理学部長として赴任して来たため、柴田と共に名古屋帝国大学(のち名古屋大学)理学部の礎を築く。 化学者としての山崎は、無機化学、錯体化学の分野から古文化財についての調査研究を進め、紫外線や赤外線、或いはX線を用いた解析法、ベータ線後方散乱法など化学的手法で正倉院宝物、醍醐寺の五重塔壁画、高松塚古墳壁画といった古来の遺跡、文化財についての研究に参画している。
北裏 喜一郎(きたうら きいちろう、1911年〈明治44年〉… 北裏 喜一郎(きたうら きいちろう、1911年〈明治44年〉3月14日 - 1985年〈昭和60年〉10月30日)は、日本の実業家。野村證券社長。 野村證券の国際化戦略の立役者。 和歌山県日高郡美浜町生まれ。神戸高等商業学校(現神戸大学)予科修了後、1933年(昭和8年)兵庫県立神戸高等商業学校(現兵庫県立大学)を卒業。同年野村證券へ入社。 戦後は、野村證券の首脳陣がGHQの公職追放で辞任したために二階級特進、1949年取締役大阪支店支配人となり、本店支配人を経て、1952年常務に昇進。続いて専務から1959年6月には副社長に進み、1968年11月に社長に就任するまで瀬川美能留とのコンビで野村證券の発展に大きく寄与。
中島 亥太郎(なかじま いたろう、1911年3月13日 - … 中島 亥太郎(なかじま いたろう、1911年3月13日 - 1993年5月20日)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。400mの元日本記録保持者。早稲田大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに200m走およびリレー2種目(4×100m、4×400m)で出場。 静岡県御殿場市出身。沼津商業学校(現在の静岡県立沼津商業高等学校)卒業後、早稲田大学に進む。 早稲田大学在学中の1930年から1933年にかけて、400mの日本記録(ならびに日本男子学生記録)を6回更新している。 1932年ロサンゼルスオリンピックの代表となり、男子200メートル、男子400メートルリレー走(吉岡隆徳、南部忠平、阿武巌夫、中島亥太郎)、男子1600メートルリレー走(中島亥太郎、増田礒、大木正幹、西貞一)に出場。
最上 武雄(もがみ たけお、1911年(明治44年)3月13… 最上 武雄(もがみ たけお、1911年(明治44年)3月13日 - 1987年(昭和62年)12月15日)は、昭和時代の土木工学者。 1934年(昭和9年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同大講師、助教授を経て、1947年(昭和22年)教授となり、1968年(昭和43年)工学部長に就任した。1971年(昭和46年)定年退官とともに名誉教授となり、同年日本大学理工学部教授に転じ、1981年(昭和56年)同大顧問となった。この間、攻玉社短期大学客員教授を務めた。日本学術会議会員。 ほか、土質工学会会長(名誉会員)、国際土質基礎工学会議副会長、日本建設機械化協会会長(名誉会員)、土木学会会長などの要職を歴任した。
小糸 忠吾(こいと ちゅうご、1911年3月11日 - 20… 小糸 忠吾(こいと ちゅうご、1911年3月11日 - 2001年3月6日)は、日本のジャーナリスト。上智大学文学部新聞学科長で、同大学大学院ジャーナリスト学科設立に大きく尽力した。専門は新聞学。 東京都出身。米国ワシントン州立大学卒業、ミネソタ大学院修了後、共同通信社ニューヨーク支局長などを経て国際局次長となる。1966年上智大学文学部教授、1971年同大大学院新聞学科教授、1973年新聞学科長を歴任。
栖原 亮(すはら あきら、1911年 <明治44年> 3月1… 栖原 亮(すはら あきら、1911年 <明治44年> 3月11日 - 2000年 <平成12年> 7月30日)は、日本の経営者。本州製紙社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1934年に東京商科大学を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年8月に本州製紙に転じ、1960年11月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1969年5月に専務、1970年11月に副社長を経て、1974年11月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1990年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2000年7月30日肺炎のために死去。89歳没。
水原 玲子(みずはら れいこ、1911年3月10日 - 19… 水原 玲子(みずはら れいこ、1911年3月10日 - 1935年10月12日)は、日本の女優である。本名、吉野 美智子(よしの みちこ)。 1911年(明治44年)3月10日、広島県広島市下柳町(現在の同市中区銀山町)に生まれる。 旧制・広島県立広島第一高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)に進学するが、同校を中途退学して大阪に移り、道頓堀の「カフェー赤玉」の女給に入り、人気を得る。梅田新道の「パリジャン」に移籍するが、1930年(昭和5年)9月、帝国キネマ演芸が広津和郎の小説『女給』を映画化すべくヒロインを探していたところ、白羽の矢が当たり、同社太秦撮影所現代劇部に入社する。主役の『女給』と脇役の『春遠からず』(いずれも監督曾根純三)が同時進行で撮影され、前者が翌1931年(昭和6年)1月10日、後者が同年1月5日に公開されて前者が大ヒットとなり、満19歳のデビュー作にして「女給出身のスター」と話題になった。
小高根 二郎(おだかね じろう、1911年3月10日 - 1… 小高根 二郎(おだかね じろう、1911年3月10日 - 1990年4月14日)は、日本の詩人、作家。 東京出身。東北帝国大学卒。会社勤務のかたわら、保田與重郎らの『コギト』同人となり、伊東静雄と親しかった。1938年1月、上京し、病臥中の立原道造に古いマリア観音を贈った。詩集を刊行。戦後は1956年、同人誌『果樹園』を創刊し主宰、伝記、企業小説などを書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
佐和 隆研(さわ りゅうけん/さわ たかあき、1911年3月… 佐和 隆研(さわ りゅうけん/さわ たかあき、1911年3月9日 - 1983年1月5日)は、日本の美術史家・仏教学者・真言宗の僧侶。京都市立芸術大学名誉教授。嵯峨美術短期大学元学長。密教美術や仏像研究の第一人者。密教図像学会会長も務めた。 広島県生まれ。インドネシア、インド、アフガニスタンなど仏教美術の伝流経路、源流地を訪ね歩いた。 経済学者の佐和隆光(京都大学名誉教授、滋賀大学学長)は息子。
加納 秀夫(かのう ひでお、1911年3月9日 - 2003… 加納 秀夫(かのう ひでお、1911年3月9日 - 2003年9月2日)は、日本の英文学者、翻訳家。 1911年、広島県で生まれた。東京帝国大学文学部英文科で学び、1934年に卒業。 戦後、東京大学教養学部助教授に就いた。1953年、東京都立大学教授に転じ、のち青山学院大学教授。 専門は英文学で、ワーズワースなどのロマン派詩人からエリオット、イエーツなどの現代詩人を研究テーマとした。
宮崎 健三(みやざき けんぞう、1911年3月8日 - 19… 宮崎 健三(みやざき けんぞう、1911年3月8日 - 1987年12月)は、日本の詩人。東京教育大学教授、和光大学教授を歴任。 富山県生まれ。東京文理科大学卒業。東京教育大学助教授、教授、1966年和光大学教授。国語科教育を担当するほか詩人として活動し、1983年『類語』で日本詩人クラブ賞を受賞した。 富山県師範学校在学中、詩作活動に励んだが、進学のため中断された。富山県師範学校の寄宿舎では、後に理科教育学者となる丸本喜一や動物学者となる大塚外次らと同じ部屋で暮らした。
原 純夫(はら すみお、1911年(明治44年)3月7日 -… 原 純夫(はら すみお、1911年(明治44年)3月7日 - 1997年(平成9年)10月30日)は、日本の大蔵官僚。国税庁長官、東京銀行頭取を務めた。 神奈川県出身。旧制一高を経て、東京帝国大に進学、在学中の1933年に高文行政科と司法科に合格。翌34年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し大蔵省に入省。 理財局属。国税庁次長、主計局次長などを経て、1956年7月6日に主税局長。1960年4月12日に国税庁長官。 1962年5月をもって、退官し、同月東京銀行に入行。副頭取に就任。1965年5月には頭取に就いた。1973年5月に会長に退き、その後相談役を務めた。 1997年10月30日、心不全のために死去。
月岡 朝太郎(つきおか あさたろう、1911年3月7日 - … 月岡 朝太郎(つきおか あさたろう、1911年3月7日 - 1984年)は、日本の自転車競技選手、指導者。 長野県下水内郡岡山村(現飯山市)に生まれ、1928年に上京し、法政大学専門部第二部政治経済学科卒業後、様々な職業を転々とする。1937年月刊雑誌『鉱業冶金』の編集長となり、1941年三井鉱業北越鉱山事業部長となる。また1937年には、日本自転車競技連盟関東支部が主催した第1回関東自転車断郊競走の実用車部門に出場したのをきっかけに、自転車競技に取り組み、1940年に予定されていた東京オリンピックの候補選手になった。 戦後、1947年に雑誌『自転車』を創刊、1949年には大宮競輪場の開設と同時に競輪予想紙「競輪新聞」(現在の赤競)を創刊。
小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日… 小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年〈明治44年〉3月6日 - 1986年〈昭和61年〉1月4日)は、日本の記者、新聞編集者、実業家。新潟日報社第4代社長、會津八一記念館初代館長。 新潟県新潟市に生まれ、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、同盟通信社(現 共同通信社)などを経て、新潟日報社編集局長の時に太平洋戦争に応召し、硫黄島でアメリカ軍の捕虜となると、ハワイの捕虜収容所に送られた。 そこで情報将校ドナルド・キーン海軍中尉と親しくなり、未来の日本について語り合った。 包容力があり、太っ腹で、日本人捕虜の仲間たちから、「おやじ」や「とっつぁん」などと呼ばれていたため、捕虜収容所所長の情報将校オーテス・ケーリ海軍中尉から、幡随院長兵衛の一字を採って「幡さん」と名付けられた。
小林 春男(こばやし はるお、1911年3月4日 - 200… 小林 春男(こばやし はるお、1911年3月4日 - 2005年9月21日)は、日本の経営者。八十二銀行頭取を務めた。長野県出身。 1937年に九州帝国大学法文学部経済学科を卒業。東洋拓殖、大蔵省での勤務を経て、1951年に八十二銀行に入社し、常任監査役に就任。 1967年に取締役に就任し、1969年に常務を経て、1973年5月に副頭取に就任し、1975年12月に頭取に昇格。1989年6月から会長を務めた。 1981年11月に勲三等瑞宝章を受章し、1990年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2005年9月21日心不全のために死去。94歳没。
長谷川 松治(はせがわ まつじ、1911年3月4日 - 19… 長谷川 松治(はせがわ まつじ、1911年3月4日 - 1998年1月28日)は、日本の言語学者、英語学者、翻訳家。 翻訳に多くの業績があり、1948年(昭和23年)ルース・ベネディクトの『菊と刀』の翻訳に携わった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
籠瀬 良明(かごせ よしあき、1911年3月4日 - 200… 籠瀬 良明(かごせ よしあき、1911年3月4日 - 2000年12月21日)は、日本の地理学者。 富山県入善町の黒部川扇状地で生まれる。日本大学卒。 日大第三中学校教諭を経て、日本大学文学部助教授、横浜市立大学文理学部教授、日本大学文理学部教授を歴任。1981年に定年退任。 1960年に『わが国に於ける低位生産水田地域の地理学的研究』で日本大学より文学博士の学位を取得。 1990年に『自然堤防の諸類型に関する研究 - 河岸平野と災害』で日本大学より理学博士の学位を取得。 黒部川扇状地研究所名誉所長、日本城郭史学会名誉会長。 地図と現地調査を重視し、平野の水害や土地利用、集落や歴史的変遷の研究を専門とした。
斎藤 信夫(さいとう のぶお、1911年3月3日 - 198… 斎藤 信夫(さいとう のぶお、1911年3月3日 - 1987年9月20日)は、日本の童謡作詞家。「里の秋」などの作詞で知られる。 小学校の教諭をしながら童謡の創作を続けた童謡作詞家である。終戦を境に神州不滅の皇国史観教育をしてきた自分を反省し、教職を辞めてしまうという気骨を持った人物であったが、童謡を通じて子供や動物を見る目は暖かかった。終戦直後に発表した童謡「里の秋」を作詞したことで知られ、生涯の詩作は1万余篇に及ぶ。勲五等双光旭日章を受勲。 1911年3月3日、千葉県山武郡南郷村(現:山武市五木田)に生まれる。南郷尋常小学校(現:山武市立南郷小学校)卒業。1930年、千葉師範学校(現:千葉大学教育学部)第二部に入学し、1931年に卒業し小学校に奉職する。
池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)… 池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)は日本の教育者。 熊本県荒尾市に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1928年卒業)を経て、京城帝国大学法文学部を卒業した。 卒業後は朝鮮・全州師範学校教諭となる。戦後は母校である玉名高等学校の教諭を務めた後、熊本県教育委員会指導委員となる。その後教職に復帰し、熊本県立荒尾高等学校(1956年着任)・熊本県立宇土高等学校(1960年着任)・熊本県立第一高等学校・熊本県立鹿本高等学校で校長を歴任した。荒尾高等学校長就任は、生徒のストーム事件の事後処理がその理由だった。熊本県教育委員会では指導室長も務めている。
西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 199… 西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 1994年4月2日)は日本の建築学者、建築家。都市計画家。住宅問題を科学的に研究する基礎を築いた。
西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 199… 西山 夘三(にしやま うぞう、1911年3月1日 - 1994年4月2日)は、日本の建築学者で、都市計画家、建築家。住生活を科学的に研究する基礎を築き、戦後の住宅計画に大きな影響を与え、住宅問題や都市計画への視点を深めた。 大阪市此花区の安治川沿いの鉄工所の三男として生まれた。 西山一家の暮らした西九条は、重工業中心の工場地帯として発展した工場と長屋の密集地。1930年に第三高等学校理科乙類を卒業。京都帝国大学建築学科に進学し、クラスをDEZAMとし、同級生らとともにマルクス主義に共感を寄せた。またクラス会が東京の建築科学研究会京都支部となる。1931年、東京の4つの学校と共同で五大学建築展覧開会を東京にて開催。
神林 淳雄(かんばやし あつお、1911年(明治44年)3月… 神林 淳雄(かんばやし あつお、1911年(明治44年)3月1日 - 1945年(昭和20年)4月または7月)は、日本の考古学者。山形県出身。東京国立博物館の前身である東京帝室博物館の職員(鑑査官補)として古墳時代の武器に関する先駆的な研究成果を遺したが、太平洋戦争末期に召集され沖縄本島にて戦死した。 1911年(明治44年)、現在の山形県鶴岡市にあたる旧東田川郡羽黒町に生まれる。 上京して國學院大學に入学し、在学中は人類学者の鳥居龍蔵に師事。國學院大學内の学会「上代文化研究会」に参加する。 1934年(昭和9年)に國學院大學を卒業し、東京帝室博物館に就職する。同博物館では鑑査官補となり、鑑査官の後藤守一の下に所属。
中橋 一夫(なかはし かずお、1911年3月1日 - 195… 中橋 一夫(なかはし かずお、1911年3月1日 - 1957年8月20日)は、昭和中期の日本の英文学者。 本名・太郎。東京帝国大学文学部英文科卒業。『道化の宿命』を刊行し、ジョン・ミドルトン・マリ、T・S・エリオット、チャールズ・モーガンなどの著作を翻訳。戦後まもなくに英文学会の新星として将来を嘱望され、文芸雑誌などにも健筆を揮った。 東京大学教養学部助教授在任時にイギリス留学するも、半ばに病に倒れ、慌しく帰国。まもなくに没した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
竹中 錬一(たけなか れんいち、1911年(明治44年)3月… 竹中 錬一(たけなか れんいち、1911年(明治44年)3月1日 - 1996年(平成8年)12月31日)は、日本の実業家。竹中家第15代当主。竹中工務店社長、会長、関西経済同友会代表幹事等を歴任した。 兵庫県神戸市出身。旧制甲南高等学校を経て、1933年(昭和8年)早稲田大学理工学部建築学科卒業、早稲田大学大学院修了。 1975年(昭和50年)には無公害、省エネルギー空調システムの開発で毎日工業技術奨励賞受賞。
長谷川 実雄(はせがわ じつお、1911年3月1日 - 20… 長谷川 実雄(はせがわ じつお、1911年3月1日 - 2001年5月9日)は、日本の経営者。読売新聞社常務、読売ジャイアンツ球団代表を務めた。愛知県江南市出身。 1937年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に読売新聞社に入社した。社会部、編集局婦人部長、社会部長、編集局総務を経て、1969年に報知新聞社副社長兼編集局長に就任し、1971年に読売新聞社編集局長兼取締役に就任し、1973年に常務に就任した。1975年6月から1987年までに読売ジャイアンツ球団代表を務めた。1978年から1979年にかけての江川事件では球団代表として対応にあたった。 1987年にセントラル・リーグから連盟特別功労賞として表彰され、同リーグの顧問も務めた。
山本 太郎(やまもと たろう、1911年2月28日 - 没年… 山本 太郎(やまもと たろう、1911年2月28日 - 没年不詳)は、日本のラグビー選手。主なポジションはプロップ(PR)およびフッカー(HO)。旧姓は佐々倉(ささくら)。 1930年福岡県中学修猷館を卒業。慶應義塾大学へ進学し、ラグビー部に入部。 慶應義塾大学在学中にラグビー日本代表に選出され、1934年2月11日明治神宮外苑競技場で開催された、豪州学生選抜第1回来日第5戦、および1934年2月18日花園ラグビー場で開催された、豪州学生選抜第1回来日第7戦に出場した。キャップ2。 1945年9月中旬、山本は九州大学工学部のグラウンドで行われた修猷館中学対福岡中学のOB戦に出場した。この試合が九州ラグビー界戦後の幕開けとなっており、試合後に川津尚彦、松隈保、安武一道、速見伝吉らと共に、九州ラグビーフットボール協会設立を決議した。
高橋 良(たかはし りょう、1911年2月28日 - 201… 高橋 良(たかはし りょう、1911年2月28日 - 2013年10月)は、日本の耳鼻科医。 神奈川県横浜市出身。1934年東京慈恵会医科大学卒、1940年「聴器結核の研究」で医学博士。慈恵医科大学耳鼻咽喉科勤務、助手、1938年講師、1945年助教授、1959年教授となる。1976年退職し名誉教授。1977年港区赤坂に鼻の相談室クリニック開設。1981年勲三等旭日中綬章受勲。
税所 篤満(さいしょ あつみつ、1911年2月28日 - 1… 税所 篤満(さいしょ あつみつ、1911年2月28日 - 1966年6月22日)は、日本の華族、実業家。子爵、トヨタ自動車(元・トヨタ自動車販売)役員、監査役、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)総務部長、東京トヨペット株式会社常務取締役。薩南三傑の一人である税所篤の曾孫であり、税所家第4代当主。 1911年(明治44年)、税所篤秀(貴族院議員)の長男として生まれる。曾祖父は西郷隆盛、大久保利通と共に薩南三傑と呼ばれた薩摩藩士の税所篤。 1936年(昭和11年)、立教大学経済学部経済学科を卒業。大学卒業後、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に勤務し、総務部長を務める。 1958年(昭和33年)、トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)役員に就任し、監査役を務めた。