田代 三良(たしろ さぶろう、1918年9月27日 - 19… 田代 三良(たしろ さぶろう、1918年9月27日 - 1999年4月21日)は、日本の教員・教育評論家。 福島県平市(現:いわき市)または栃木県・喜連川町生まれ。旧制水戸中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学文学部国文科(松尾芭蕉を研究)を卒業。学徒出陣し、インパール作戦に従軍した。 1941年(23歳)12月8日の開戦により12月31日付で繰り上げ卒業となり、1942年2月1日仙台第33師団輜重連隊(補充隊)自動車中隊に配属。軍隊内の非合理性に反抗的な態度であったためか幹部候補試験に不合格となり、本部指揮班・功績係助手となる。 上官に南方派遣を直訴し、11月補充交代要員として12月13日ジャワ派遣第4816部隊として出発。
友井 唯起子(ともい ゆきこ、1918年(大正7年)9月27… 友井 唯起子(ともい ゆきこ、1918年(大正7年)9月27日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本のバレリーナ、振付師で法村友井バレエ団の創立者。日本初の大阪万博(日本万国博覧会)で振付を担当。日本バレエ協会副会長も長く務めた。 1918年(大正7年)大阪府大阪市船場生まれ。本名角矢幸子(かくや ゆきこ)。大阪府立清水谷高等女学校(現大阪府立清水谷高等学校)卒業後、本格的にバレエの道に進み、「創作舞踊の天才」「現代舞踊の父」と呼ばれた石井漠に師事。1935年(昭和10年)大阪に支部開設の石井漠舞踏研究所1期生となり、同研究所で教えていた法村康之(ほうむら こうじ)と結婚。1937年(昭和12年)4月、法村友井バレエ団を創立した。
片山 光生(かたやま てるお、1918年(大正7年)9月27… 片山 光生(かたやま てるお、1918年(大正7年)9月27日 - 1985年(昭和60年)8月16日)は、日本の建築家。官庁営繕と民間の建築家として活躍。建設省近畿地方建築局時代の奈良県庁舎が代表作。 名古屋市生まれ。愛知県立第五中学校、奈良中学校、旧制第六高等学校(岡山)を経て、1943年京都帝国大学工学部卒業。海軍に入り、高知で終戦を迎える。 1946年以降、運輸技官、建設技官として高松、大阪に赴任。1956年以降、建設省近畿地方建設局(課長職)、関東地方建設局(同)、中国地方建設局(部長職)を経て、1969年、建設大臣官房庁舎営繕部建築課長。 1973年に退官し、京都の内藤建築事務所の代表取締役社長に就任。
加藤 誠一(かとう せいいち、1918年9月27日 - 19… 加藤 誠一(かとう せいいち、1918年9月27日 - 1987年7月5日)は、日本の経済学者。学位は、経済学博士(立教大学・1980年)(学位論文「中小企業の国際比較にかんする実証的研究」)。立教大学名誉教授。 東京出身。1943年立教大学経済学部卒、同助手となる。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。大阪経理部に配属。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。同年11月に予備役に編入され解員(復員)。 その後、立教大学助手に復職し、1950年講師、1952年助教授、1960年教授、1984年定年となり名誉教授、中京大学教授を務めた。
杉村 敏正(すぎむら としまさ、1918年9月26日 - 2… 杉村 敏正(すぎむら としまさ、1918年9月26日 - 2011年9月13日)は、日本の法学者。専門は行政法。学位は、法学博士(京都大学・1982年1月23日)(学位論文「法の支配と行政法」)。京都大学名誉教授。 1918年(大正7年)大阪府出身。1939年(昭和14年)大阪高等学校 (旧制)文科を卒業後、京都大学政治学科へ入学。卒業後は、同大助手を経て1947年(昭和22年)助教授、1954年(昭和29年)京都大学法学部教授に就任。 その後は京都大学法学部長・大学院法学研究科長(在任:1972年10月22日~1974年10月21日)、龍谷大学法学部教授、宮崎産業経営大学法学部教授を務めた。国民主権・平和・人権尊重を基調とする法理論体系の構築に取り組んだ。
堀田 進(ほった すすむ、1918年9月26日 - 2011… 堀田 進(ほった すすむ、1918年9月26日 - 2011年11月17日)は、長く神戸大学医学部教授を務め、特にデング熱や日本脳炎のウイルスについて研究した、日本の微生物学者。 大阪府三島郡茨木町(後の茨木市)生まれ。 1942年、京都帝国大学医学部を卒業して医師免許を取得、木村廉が主宰していた微生物学講座に副手を経て助手として入局し、1943年には世界で初めてデングウイルスの分離に成功した。 第二次世界大戦後は、1948年9月に京都帝国大学医学部講師となり、1949年6月に京都大学医学部講師に移行した。また、同年8月には「デング熱の研究」により京都大学から医学博士号を取得した。同年、日本ウイルス学会の前身となった「ヴィールス談話会」発足に参加し、機関誌の発行に貢献した。
郷田 實(ごうだ みのる、1918年 <大正7年> 9月26… 郷田 實(ごうだ みのる、1918年 <大正7年> 9月26日 - 2000年 <平成12年> 3月21日)は、日本の政治家。元宮崎県東諸県郡綾町長。在任期間は6期24年(1966年~1990年)。位階は従五位。 宮崎県綾町出身。拓殖大学南方専門科卒業。兵役から復員後、綾町農協に就職。1954年に綾町助役、1966年から1990年まで綾町長を務めた。 自然を生かした町おこしの成果で全国的に知られる。長女の郷田美紀子は薬剤師、環境保護団体代表。 1996年、勲四等旭日小綬章を受章。2000年3月21日、心不全のため死去。死没日付をもって従五位に叙された。 死後、ドキュメンタリー映画『未来からの町づくり先駆者 郷田實』が製作された。
松本 筑峯(まつもと ちくほう、1918年(大正7年)9月2… 松本 筑峯(まつもと ちくほう、1918年(大正7年)9月25日 - 2009年(平成21年)12月22日)は日本の書家。現代破体書道の第一人者。石川県羽咋市に生まれ、茨城県下妻市で育つ。本名は磐祐。東洋書道芸術学会会長。松本書道会名誉会長。月刊書道誌『方円』・季刊書道誌『破体』発行。『破体書道史(中国編・日本編)』他著書多数。 世界各地で個展や破体展を開催。海外でも究極の書芸術「破体」に対しての評価は非常に高く、精力的に破体書道の普及に取り組んだ。大韓民国社会教育文化大賞・中国南京市文化功労者、中国鎮江市文化交流貢献賞等を受賞し、破体書法国際展審査長を歴任した。 茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)卒業 1941年(昭和16年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学)師範科卒業 1918年(大正7年)、9月25日に松本源祐の五男として石川県羽咋市(現在の白山市)に生まれる 1923年(大正12年)、父親の松本源祐が石川県羽咋市(現在の石川県白山市一里野)で生祠され、開成社と命名 1941年(昭和16年)、東京美術学校師範科卒業在学中、書道漢字は石橋犀水、仮名は比田井小琴、油絵は小林万吾、井原宇三郎、日本画は矢沢弦月に師事 1941年(昭和16年)、愛知県豊橋中学校(現在の時習館高校)の図画の教師として赴任。
別川 悠紀夫(べつかわ ゆきお、1918年(大正7年)9月2… 別川 悠紀夫(べつかわ ゆきお、1918年(大正7年)9月25日 - 1977年(昭和52年)5月28日)は、昭和期の農業協同組合指導者、実業家、政治家。衆議院議員。 石川県石川郡上金石町(金石町を経て現金沢市金石)で生まれる。金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)を経て、1942年(昭和17年)中央大学経済学部を卒業した。全国農業会産業組合中央会職員となり太平洋戦争に出征した。 1946年(昭和21年)石川県農業会に入り、以後、石川県農業協同組合中央会参事、同常務理事、同県信用農業協同組合連合会理事、同経済農業協同組合連合会理事、同共済農業協同組合連合会理事などを務めた。 1969年(昭和44年)12月の第32回衆議院議員総選挙で石川県第1区から自由民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
小林 郁(こばやし おかる、1918年9月25日 - 199… 小林 郁(こばやし おかる、1918年9月25日 - 1993年2月11日)は松下電工代表取締役副会長。鳥取県倉吉市出身。 1940年に金沢高等工業学校(現金沢大学)機械工学科を卒業。1982年に松下電工代表取締役社長に就任。1985年3月に同社の副会長に退く。 1993年2月11日午前9時47分に心不全の為、大阪府守口市の病院で死亡(享年74歳)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
上村 重信(かみむら しげのぶ、1918年〈大正7年〉9月2… 上村 重信(かみむら しげのぶ、1918年〈大正7年〉9月24日 - 没年不明)は、日本の官吏。北海道土地開発公社副理事長兼専務理事。 山形県米沢市元中馬口労町出身。米沢市南部尋常小学校を卒業する。1936年に山形県立米沢興譲館中学校を卒業する。1945年に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業する。北海道の拓殖調査研究を嘱託される。 北海道庁に入る。開拓部に勤務する。1951年に漁政課企画係長、1955年に同課企画調査係長。1958年に資源課次長、1961年に同課長、同年に人事課長。 1963年に網走支庁長。1964年に道立総合経済研究所副所長。1965年に北海道企画部次長。1967年に道立総合経済研究所長。
平山 菊二 (ひらやま きくじ、1918年9月23日 - 1… 平山 菊二 (ひらやま きくじ、1918年9月23日 - 1998年5月28日)は、日本のプロ野球選手(左翼手)。
國分 保男(こくぶん やすお、1918年(大正7年)9月22… 國分 保男(こくぶん やすお、1918年(大正7年)9月22日 - 2010年(平成22年)4月8日)は、日本の政治家。岩手県二戸市長(5期)。 岩手県二戸郡福岡町(現・二戸市)出身。1941年、東京農業大学農学部卒。農林省に入り、その後、岩手県庁に転じ、1953年、岩手県厚生部二戸福祉事務所所長となる。1960年、岩手県福岡町長に当選。3期務め、1972年、福岡町は金田一村と合併、二戸市となり、これに伴う市長選挙に立候補し、当選した。二戸市長を5期務め、1992年の市長選挙にも立候補したが、元環境庁職員の小原豊明に敗れた。2010年4月8日午後5時、肺炎のため二戸市内の病院で死去、91歳。死没日をもって従七位から従四位に叙される。
石塚 尊俊(いしづか たかとし、1918年9月21日 - 2… 石塚 尊俊(いしづか たかとし、1918年9月21日 - 2014年4月16日)は、日本の民俗学者、神官。島根県を本拠地に、当地域を中心とした地方の民俗学を牽引した。 1918年(大正7年)、島根県大津村(2006年現在の出雲市大津町石塚村)の社家の長男として生まれる。少年時代は簸川郡大津村小学校(現・出雲市立大津小学校)、島根県立大社中学校(現・島根県立大社高等学校)に通った。中学時代は理数科が苦手であった反面、歴史に興味をもち、郷土史の作成、出雲市長廻谷横穴墓群の調査などをおこなった。 1936年(昭和11年)、 國學院大學神道部に進学するにあたって上京する。小学校教員になるために師範学校へ行かせようとする親に上京を反対されたものの、伯母の助言で「伯母の監督つき」の条件のもと許されている。
田中 菊次(たなか きくじ、1918年9月19日 - (2… 田中 菊次(たなか きくじ、1918年9月19日 - (2020-02-17) 2020年2月17日(101歳没))は、日本の経済学者、東北大学名誉教授。 東京府下出身。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年(昭和19年)9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1947年東北帝国大学法文学部法律科卒、1962年「地代論の理論的内容について」で東北大学経済学博士。東北大学経済学部教授。82年定年退官、名誉教授、東洋大学教授。89年退職。
尚 裕(しょう ひろし、1918年〈大正7年〉9月18日 -… 尚 裕(しょう ひろし、1918年〈大正7年〉9月18日 - 1997年〈平成9年〉8月30日)は、日本の侯爵。第二尚氏の第22代当主。ショウエンタープライズ代表取締役。 東京都出身。1918年(大正7年)、尚昌の長男として生まれる。母は小笠原忠忱の次女・百子。父が1923年(大正12年)に死去したため侯爵位を襲爵した。東京帝国大学文学部を卒業、海軍大尉となり、終戦を迎えた。 戦後は、大戦での被害を免れた伝承文化財の保存に努めた。1975年(昭和50年)より私財を投じて識名園の復元に当たる。翌年には国の名勝に再指定され、国・沖縄県・那覇市からも補助を受けて復元を進めた。 そのほか、玉陵や崇元寺第一門・石牆の復元にも当たった。
西川 一三(にしかわ かずみ、1918年9月17日 - 20… 西川 一三(にしかわ かずみ、1918年9月17日 - 2008年2月7日)は、日本の情報部員。
谷口 五男(たにぐち かずお、1918年9月17日 - 19… 谷口 五男(たにぐち かずお、1918年9月17日 - 1986年6月30日)は、社会科中学・高校教諭。 横浜市生まれ。1940年東京高等師範学校卒、43年東京文理科大学国史学科卒、44年東京高等師範学校助手兼教諭、応召をへて46年東京高師附属中学校教諭、49年東京教育大学附属中学校教諭、59-64年教頭、64年同附属高等学校教諭、78年筑波大学附属高等学校に校名変更、82年定年退職。没後勲五等受勲。 数多くの副読本を書き、文部省の教育課程改訂調査研究協力者委員も務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山本 政弘(やまもと まさひろ、1918年9月16日 - 2… 山本 政弘(やまもと まさひろ、1918年9月16日 - 2005年8月11日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(7期)。衆議院功労議員表彰。 富山県生まれ。九州帝国大学法文学部法科卒業後、南満州鉄道社員。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。横須賀鎮守府付長官承命服務・山城乗組となる。第一海軍火薬廠廠長付、千歳丸主計長を経て、1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進む。同年10月、第36警備隊付に発令されフィリピン戦線に従軍。ネグロス島で終戦を迎え捕虜となるが、島内の投降拒否者の発見と説得に従事し、1946年(昭和21年)12月、名古屋に上陸し解員(復員)した。
松村 喜雄(まつむら よしお、1918年9月16日 - 19… 松村 喜雄(まつむら よしお、1918年9月16日 - 1992年1月10日)は、日本の外交官、推理小説評論家、推理作家、翻訳家。三谷 幸夫、花屋 治の筆名もあり。東京府出身。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町生まれ。実母は江戸川乱歩・平井蒼太兄弟の従妹。親戚として幼時から乱歩と交際して育つ。 小学校卒業後、花崎清太郎および石川一郎の両人と知り合い、彼らの影響で読書の世界に熱中。早稲田実業学校を経て東京株式取引所に勤務。このときの同僚に劇作家の小野田勇がいた。勤務の傍ら、フランス語を独習。のち編入試験を受けて東京外国語学校(現在の東京外国語大学)仏語科に入学。卒業後は外務省に勤務。
向井正也(むかい まさや、1918年9月15日 - 2014… 向井正也(むかい まさや、1918年9月15日 - 2014年5月13日)は、大阪府交野市生まれの西洋建築史家、神戸大学名誉教授。位階は従四位。
愛新覚羅 顕琦(あいしんかくら けんき、1918年9月14日… 愛新覚羅 顕琦(あいしんかくら けんき、1918年9月14日 - 2014年5月26日)は、清朝八大親王の一人、第10代粛親王善耆の末娘(第十七女)として旅順に生まれた人物である。天津郊外在住。最後の生存王女であった。旧字体では愛新覺羅顯琦。簡体字:爱新觉罗显琦、拼音: Àixīnjuéluó Xiǎnqí(アイシンジュエルオ・シエンチー)。中国名は金 黙玉。 1918年(大正7年)9月14日、第四側室の末子(第17女)として旅順(現在の遼寧省大連市)で生まれる。同側室が生んだ子は男王6人、女王3人で、母を同じくする2人の姉の1人が、第十四王女「男装の麗人」こと川島芳子であった。父は、1922年(大正11年)3月15日に旅順で死去している。
北 二郎(きた じろう、1918年9月13日 - 1950年… 北 二郎(きた じろう、1918年9月13日 - 1950年1月29日)は、日本の政治家、農業経営者。父は衆議院議員を4期、参議院議員を1期務めた北勝太郎。弟に北海道開発庁長官・開発庁長官を務めた北修二、奈井江町長の北良治がいる。 北海道空知郡奈井江村生まれ。1937年旧制北海道庁立岩見沢中学校(現・北海道岩見沢東高等学校)卒業。酪農義塾(現・酪農学園大学)、町村農場で農業・畜産を修得し、その後農業を営む。奈井江村酪農振興会会長。 父・勝太郎が第二次世界大戦後公職追放されると、その身代わりとして1947年の第23回衆議院議員総選挙において北海道4区から立候補し初当選。政界に入り、日本農民党・農民新党・農民協同党に所属した。
佐山 俊二(さやま しゅんじ、1918年9月13日 - 19… 佐山 俊二(さやま しゅんじ、1918年9月13日 - 1984年1月30日)は、日本のコメディアンであり俳優である。本名は中江 勇(なかえ いさむ)。 1918年(大正7年)9月13日、北海道登別市に中江勇として生まれる。兄は劇作家の中江良夫である。室蘭市の旧制・室蘭尋常高等小学校(現在の室蘭市立本室蘭小学校)を卒業する。 その後上京して、20歳になる1938年(昭和13年)に初舞台、1943年(昭和18年)、25歳になる頃「佐山俊二一座」を旗揚げ、1944年(昭和19年)に「劇団新生座」を旗揚げした。 第二次世界大戦の終結後、八波むと志とあらいやだコンビを結成した。浅草・フランス座で人気を博す。
小谷 勉(こたに つとむ、1918年(大正7年)9月12日 … 小谷 勉(こたに つとむ、1918年(大正7年)9月12日 - 1976年(昭和51年)8月1日)は、日本の医師、医学博士、教育者、大日本帝国陸軍軍医。
高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 20… 高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 2002年4月11日)は、日本のアナウンサー、政治家、参議院議員(1期)。位階は正五位。 呉服店の三男として生まれる。作家の宮沢賢治とは遠縁にあたる。幼い頃は病弱な子供であったという。花城尋常小学校(1931年3月)、組合立花巻中学校(1938年3月)、高千穂高等商業学校を卒業後、富士電機へ就職。 1942年10月、アナウンサー募集の新聞広告に目が止まったのがきっかけでNHKに入局。入社試験面接官・養成所校長は和田信賢(後に『話の泉』の和田の後任を引き受けた)。1944年5月27日、結婚。1948年1月19日、長女・光が誕生。1950年1月から1954年9月まで慶應義塾大学病院で療養。
深田 英朗(ふかだ ひであき、1918年9月9日 - 200… 深田 英朗(ふかだ ひであき、1918年9月9日 - 2003年)は、日本の歯学者。 東京慈恵会医科大学専門部卒、1953年「乳歯並びに乳歯列の統計的研究」で慶応義塾大学・医学博士。日本大学歯学部小児歯科学教室教授。89年定年退職。小児歯科学。
小沼 丹(おぬま たん、1918年〈大正7年〉9月9日 - … 小沼 丹(おぬま たん、1918年〈大正7年〉9月9日 - 1996年〈平成8年〉11月8日)は、日本の小説家、英文学者。位階は従四位。本名は小沼 救(おぬま はじめ)。日本芸術院会員。 「大寺さんもの」など、日常を題材とした小説のほか、随筆の名手としても知られる。また、英文学者としても知られており、早稲田大学では文学部教授として教鞭を執った。 東京府東京市下谷区下谷町に父邁(すぐれ)、母涙子(るいこ)の長男として生まれる。明治学院中学部、高等学部英文科を経て、1942年(昭和17年)に、早稲田大学文学部英文科を卒業した。後年、1958年(昭和33年)から、母校早稲田大学文学部で教授を務めている。
中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 199… 中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 1994年12月3日)は、本田技研工業(ホンダ)のエンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督。山口県下関市入江町出身。 山口中学校、山口高等学校を経て、1940年4月に東京帝国大学工学部航空学科(原動機專修)入学、1942年9月繰り上げ卒業。同年中島飛行機(富士重工業「スバル」の前身の一つ)に入社、航空エンジン開発部門のエンジニアを務め、同時に帝国陸軍の航技中尉(技術中尉)として陸軍航空技術研究所や陸軍航空審査部に属し、超大型重爆撃機「富嶽」や ジェット戦闘襲撃機キ201「火龍」などの開発に携わる。 敗戦後、1950年オート三輪メーカーの日本内燃機製造(後の東急くろがね工業、現・日産工機)に転職。
中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 199… 中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 1994年12月3日)は、本田技研工業(ホンダ)のエンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督。山口県下関市入江町出身。
井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 -… 井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 - 没年不明)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・高校野球監督、高校野球解説者。 米子中では捕手として清水秀雄とバッテリーを組み、5年次の1935年には甲子園に春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退に終わる。中学卒業後は慶應義塾大学に進学し、中学の後輩である成田啓二の球を受け、東京六大学リーグで何度か首位打者争いを展開した。リーグ通算61試合出場、190打数45安打、打率.237、1本塁打を記録。大学卒業後は帝国鉱業開発、大阪鉄道管理局でプレー。終戦後は1947年のみ母校・米子中で監督を務め、地元の米子鉄道管理局へ入社。1950年に国鉄スワローズ結成に伴って入団し、初代主将として開幕から正捕手を務めた。
河合 英一(かわい えいいち、1918年 <大正7年> 9月… 河合 英一(かわい えいいち、1918年 <大正7年> 9月6日 - 2004年 <平成16年> 2月3日)は、日本の銀行家。阿波銀行頭取、会長を務めた。位階は従五位。 愛知県豊橋市出身。1942年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年9月に日本銀行に入行。1970年5月に阿波銀行専務に就任し、1971年12月に副頭取を経て、1973年4月には頭取に就任。1986年6月に会長を経て、1994年6月には相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2004年2月3日肺炎のために死去。85歳没。死没日付をもって正七位から従五位に進階した。
久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944… 久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944年7月18日)は、日本の画家。東京美術学校工芸科図案部(現・東京芸術大学デザイン科)を首席で卒業した後、太平洋戦争の中国戦線に出征し、戦死した戦没画学生。東京美術学校卒業生の戦没者はわかっているだけで167名おり、久保はそのうちの1人である。卒業後直ちに応召した後、ほどなく戦死しているので目立った作品が多いわけではないが、1971年 (昭和46年) に東京芸術大学芸術資料館に展示された「図案対象」は、戦没画学生の作品発掘のきっかけの1つになった。 久保克彦は、1918年(大正7年)に山口県熊毛郡佐賀村佐合島(現平生町)の醤油醸造業を営む家で女4人男2人の6人兄弟の末っ子として生まれた。
小野 周(おの しゅう、1918年(大正7年)9月5日 - … 小野 周(おの しゅう、1918年(大正7年)9月5日 - 1995年(平成7年)4月24日)は、日本の物理学者。学位は、理学博士(九州大学、1951年)(学位論文「臨界現象及び表面現象の統計熱力学」)。東京大学名誉教授。元群馬大学学長。日本物理学会会長を3期3年間務めた。勲二等旭日重光章受章。福岡県福岡市生まれ。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
内田 芳郎(うちだ よしろう、1918年(大正7年)9月5日… 内田 芳郎(うちだ よしろう、1918年(大正7年)9月5日 - 2008年(平成20年)2月11日)は、日本の参議院議員。旧名・俊朗。 熊本県出身。1940年明治大学政治経済学部を卒業後、竹中工務店に勤務し、営業部長などを歴任。1965年に自由民主党から第7回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し当選。第3次佐藤内閣で通商産業政務次官に就任。日中協会役員などを務めた他、小金井カントリー倶楽部の理事を務め、愛好家として知られる内閣総理大臣・田中角栄にゴルフの手ほどきをした。
清水 一郎(しみず いちろう、1918年〈大正7年〉9月4日… 清水 一郎(しみず いちろう、1918年〈大正7年〉9月4日 - 1991年〈平成3年〉6月12日)は、日本の政治家。 群馬県知事(公選第9・10・11・12代)、群馬県議会議員(4期)、第47代群馬県議会議長、群馬県議会副議長、前橋市議会議員(1期)を歴任した。 群馬県前橋市出身。1936年、群馬県立前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)卒業。1939年、福島高等商業学校(現福島大学経済経営学類)卒業。同年、日立製作所東京本社勤務となる。1943年、青森県立商業学校(現青森県立青森商業高等学校)教諭となる。1944年、群馬県立前橋工業学校(現群馬県立前橋工業高等学校)教諭となる。1948年、群馬県立前橋商業高等学校講師となる。
南口 繁一(みなみぐち しげかず、1918年〈大正7年〉9月… 南口 繁一(みなみぐち しげかず、1918年〈大正7年〉9月4日 - 1995年〈平成7年〉9月20日)は、将棋棋士。棋士番号は37。京都府相楽郡木津町(現・木津川市)出身。村上真一八段門下。 1933年、初段で村上真一八段に入門。1935年の関西奨励会創設にあたって二段で参加。創設時の奨励会には他に大山康晴(1935年当時6級)などがいた。 大山は南口に飛車落ちで指してもらい、勝ったとはいえ大苦戦したため、「初段は強いなと子供心に思った」という[要出典]。 軍隊に行ったためブランクがあったが、1944年四段、1950年八段。1951年度の第2期九段戦で大山に挑戦するが3連敗で敗退。1984年九段、1985年4月引退。
伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 -… 伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において特殊潜航艇「甲標的」艇長としてシドニー湾攻撃に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍少佐。 伴は愛知県で材木店を営む家の三男として生まれた。父は日露戦争で個人感状、功六級を授けられた陸軍軍曹である。海辺に近く、家業のため馬が身近にいる環境で成長した伴は、活発な幼少期を過ごし、水泳、乗馬を得意としていた。進学した刈谷中学では、サッカー選手であった。中学5年での海兵受験には失敗したが、1年の浪人生活のすえ、海兵と陸士に合格し、海兵進学を選択した。伴は16年ぶりの300人クラスであった海兵68期生であったが、最上級生の海兵65期は鉄拳で68期を鍛え上げ、豊田穣によれば68期は「土方クラス」と呼ばれるようになった。
児島 泰彦(こじま やすひこ、1918年(大正7年)9月1日… 児島 泰彦(こじま やすひこ、1918年(大正7年)9月1日 - 1945年(昭和20年)6月12日)は、日本の水泳選手。ベルリンオリンピック100メートル背泳ぎに出場。
清水 基吉(しみず もとよし、1918年(大正7年)8月31… 清水 基吉(しみず もとよし、1918年(大正7年)8月31日 - 2008年3月30日)は、俳人、小説家。本名、清水基嘉(読み同じ)。 現在の東京都渋谷区の宇田川町・道玄坂、港区の青山かいわいに、生まれ育った。1925年(大正14年)、東京府青山師範学校附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)へ入った。1931年(昭和6年)東京市立第一中学校(現:九段高校)に進むが胸を病んで中退し、1934年16歳、正則英語学校(現:正則学園高等学校)へ転じた。 1938年(昭和13年)から4年近く、各地に転地療養し、その間の1940年横光利一を知り、翌年、句誌『鶴』の主宰者、石田波郷の門に入った。同人誌に参加し、北條誠、巖谷大四、村松定孝らを知った。
倉成 正(くらなり ただし、1918年〈大正7年〉8月31日… 倉成 正(くらなり ただし、1918年〈大正7年〉8月31日 - 1996年〈平成8年〉7月3日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。外務大臣(第109代)、経済企画庁長官(第25・28代)を歴任。位階は正三位。長男は元衆議院議員の倉成正和。 長崎県長崎市出身。父は衆議院議員を務めた倉成庄八郎。旧制五高を経て1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東洋高圧、長崎県農地農林部長などを経て、1958年の第28回衆議院議員総選挙に自民党公認で長崎1区より立候補し当選する。以後、当選回数12回。自民党では、河野派から中曽根派に所属する。 経済企画政務次官、大蔵政務次官、衆議院社会労働委員長などを経験し、1974年11月に第2次田中第2次改造内閣の経済企画庁長官として初入閣を果たす。
松下 三十郎(まつした さんじゅうろう、1918年8月31日… 松下 三十郎(まつした さんじゅうろう、1918年8月31日 - 2004年1月24日)は奈良県出身の北海道大学名誉教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
馬橋 隆二(まばし りゅうじ、1918年(大正7年)8月31… 馬橋 隆二(まばし りゅうじ、1918年(大正7年)8月31日 - 2000年(平成12年)5月16日)は、大宮市長(第13代 - 第15代)。弁護士。 埼玉県大宮町出身。1942年(昭和17年)明治大学法学部卒。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年(昭和18年)9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。横須賀鎮守府付工廠勤務となる。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進。同年9月、予備役に編入され解員(復員)となる。 戦後の1948年(昭和23年)二級事務官吏銓衡に合格し、運輸省に入る。一方で高等試験司法科試験にも合格した。
松尾 英男(まつお ひでお、1918年8月30日 - 199… 松尾 英男(まつお ひでお、1918年8月30日 - 1998年4月3日)は、日本の実業家。 元東急不動産社長、東急ハンズ社長、東京急行電鉄専務。 北海道札幌市出身。小学校卒業後、母親の再婚で東京に移る。1942年慶應義塾大学経済学部を卒業し、戦後の1946年に東京急行電鉄に入社。1953年に東急不動産に出向し、田園都市部長・常務・専務などを経て、1978年社長に就任し、のち会長となる。同社を総合ディベロッパーに育てあげ、「中興の祖」と呼ばれた。さらに1976年に東急ハンズの設立に関わり、初代社長を務める。また、この間東京急行電鉄取締役・専務なども歴任し、東急グループの重鎮として活躍した。
鈴木 正雄(すずき まさお、1918年(大正7年)8月29日… 鈴木 正雄(すずき まさお、1918年(大正7年)8月29日 - 2007年(平成19年)12月10日)は、日本の実業家。松坂屋社長・会長。愛知県岡崎市出身。 1936年、岡崎市立商業学校(現・愛知県立岡崎商業高等学校)卒業後、松坂屋に入社。 1972年、取締役名古屋店長に就任し、伊藤鈴三郎社長の片腕として頭角を現し、常務、専務を経て、1978年副社長となる。 1980年、会長の16代目・伊藤次郎左衛門(伊藤祐茲)は、任期半ばの弟・鈴三郎に辞任を迫り、長男・伊藤洋太郎を社長の座に据える。鈴三郎は一族の序列をわきまえて沈黙を守ったが、彼の腹心たちはこの不条理な行為を許さなかった。 1984年12月、16代目が死去し、会長が空席になると、1985年1月に鈴木は会長に就任した。
関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)… 関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)8月25日 - 2000年9月9日)は、日本の実業家。元よみうりランド代表取締役社長。祖父は政治家、実業家の小坂善之助。妻は正力松太郎の次女。 埼玉出身。大正7年(1918年)に関根善作(日本銀行行員、後に第百銀行頭取、合併により三菱銀行副頭取を歴任)と国(小坂善之助三女)の間に三男として生まれる。祖父の小坂善之助は衆議院議員を歴任した政治家であったが、信濃銀行を創業し、信濃毎日新聞社の経営基盤を確立するなど、実業家としても影響力を持っていた。長三郎の叔父で小坂善之助の長男の小坂順造は、父の関根善作と明治37年(1904年)に日本銀行に入社した同期であり、明治40年(1908年)に信濃銀行へ取締役として移籍し、安田銀行への合併処理の後に、信濃毎日新聞社長、衆議院議員を歴任していた。
川西 清(かわにし きよし、1918年(大正7年)8月25日… 川西 清(かわにし きよし、1918年(大正7年)8月25日 - 没年不明)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 兵庫県神戸市で生まれる。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。弁護士となる。また東京朝日新聞政治部記者も務めた。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から日本自由党公認で出馬して初当選。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙に兵庫県第3区から出馬して次点で落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党から出馬して再選され、その後自由党に所属して衆議院議員に通算2期在任した。この間、商工大臣秘書官、日本自由党幹事などを務めた。
大木 幸介(おおき こうすけ、1918年8月23日 - )は… 大木 幸介(おおき こうすけ、1918年8月23日 - )は、日本の化学・生理学者。 東京府(現東京都世田谷区[要出典])生まれ。1941年東京薬学専門学校卒、1944年九州帝国大学農学部農芸化学科卒業。1955年九州大学医学博士。九州大学木材研究所、生産科学研究所助手、九州大学医学部講師、信州大学繊維学部教授、江南女子短期大学教授を務めた。専門の分子生理学、生化学の立場から、幅広く研究、執筆活動を行った。
荘 英介(しょう えいすけ、1918年〈大正7年〉8月20日… 荘 英介(しょう えいすけ、1918年〈大正7年〉8月20日 - 2019年〈平成31年〉4月6日)は、日本の実業家。元スピードスケート選手。元日本スケート連盟名誉会長。元王子製紙専務。元王子製袋社長。 慶應義塾大学経済学部卒業。王子製紙所属のスピードスケート選手として活躍。現役を引退後は北海道苫小牧市にある王子製紙の苫小牧工場長に就任。監査役を経て1981年に王子製袋社長に就任。 また1992年には日本スケート連盟会長に就任。1998年に同連盟の会長を退任後は名誉会長となる。1999年、勲四等瑞宝章を受章。 2019年4月6日、東京都豊島区の自宅にて老衰のため死去。享年100歳。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
斎藤 純忠(さいとう じゅんちゅう、1918年(大正7年)8… 斎藤 純忠(さいとう じゅんちゅう、1918年(大正7年)8月18日 - 2010年(平成22年)10月21日)は、昭和から平成時代前期の政治家。埼玉県戸田市長。日蓮宗の僧。妙顕寺住職。 埼玉県北足立郡戸田村(戸田町を経て現戸田市)出身。1941年(昭和16年)立正大学文学部卒業。戸田市助役を経て、1974年(昭和49年)以来、戸田市長に6選した。市長在任中は、道路・下水道整備、公共施設建設、埼京線の駅の誘致などに取り組んだ。