山縣 有信(やまがた ありのぶ、1918年〈大正7年〉8月1… 山縣 有信(やまがた ありのぶ、1918年〈大正7年〉8月15日 - 1974年〈昭和49年〉7月22日)は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 明治の元勲山縣有朋の曾孫(山縣有道の長男)として東京府で生まれる。学習院高等科を経て、九州帝国大学法文科を卒業。卒業後の1942年(昭和17年)、日本興業銀行に入るが、同年、第1期海軍兵科予備学生として海軍に入った。終戦直後の1945年(昭和20年)11月1日、父の死去に伴い、公爵を襲爵する。1946年(昭和21年)復員し、日本興業銀行に復職する。翌1947年(昭和22年)、同行を退職し、栃木県矢板町の山縣農場の経営に取り組む。 1963年(昭和38年)、矢板市長選挙に立候補し、初当選、以来連続3期務める。
油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 19… 油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 1998年6月8日)は、日本のジャズ評論家。1950年代から晩年まで、日本のジャズ評論の第一人者と評される活躍をした。 横浜市生まれ。1924年、神戸市へ移り、同地で育つ。兵庫県立第三神戸中学校を経て、慶應義塾大学法学部に学び1941年に卒業した。ジャズへの関心は学生時代からのもので、当時から既にレコードの収集、ジャズ評論の執筆を始めていた。戦時中は兵役に就き、前橋陸軍予備士官学校から東部22部隊へ配属され、将校として高射砲部隊にいた。戦後は評論活動を再開し、神戸で朝比奈次郎と名乗り、1952年に開局したラジオ神戸(現・ラジオ関西)で「ジャズ・アメリカーナ」という番組を担当し、選曲にもあたった1955年に神戸から上京し、評論家としての本格的な活動に入った。
西脇 教二郎(にしわき きょうじろう、1918年8月15日 … 西脇 教二郎(にしわき きょうじろう、1918年8月15日 - 没年不明)は、日本の経営者。太陽生命保険社長を務めた。東京都出身。 1941年に東京帝国大学経済学部を卒業。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年(昭和17年)1月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業。1943年(昭和18年)11月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1962年5月に太陽生命保険に入社。1967年5月に取締役に就任し、1970年5月に常務、1971年5月に専務、1972年5月に副社長を経て、1978年4月に社長に就任。1990年7月に取締役相談役に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章。
金 東祚(김동조、キム・ドンジョ、1918年8月14日 - … 金 東祚(김동조、キム・ドンジョ、1918年8月14日 - 2004年12月9日)は、韓国の政治家。1965年から1967年にかけて初代駐日大使を務め、1973年から1975年にかけては大韓民国外務部の長官(外相)を務めた。 日本名は宗山 秀隆(むねやま ひでたか)。実業家で元国会議員の鄭夢準は末娘の夫。また、次女は元国防部長官の孫元一の息子、三女は実業家の許鼎九の息子とそれぞれ結婚した。元ヘラルドメディア会長の洪政旭(朝鮮語版)は孫娘婿。 1918年に釜山府で生まれる。釜山中学校を経て、1940年京城高等商業学校を卒業。1943年九州帝国大学法文学部法科を卒業。李東煥元内務次官は高等商業学校の同期。
渡辺 茂(わたなべ しげる、1918年〈大正7年〉8月12日… 渡辺 茂(わたなべ しげる、1918年〈大正7年〉8月12日 - 1992年〈平成4年〉3月10日)は、日本のシステム工学者。 兵庫県姫路市出身。1941年(昭和16年)、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業する。海軍に入り、技術大尉で終戦を迎える。東京大学工学部に復帰し、1947年(昭和22年)に助教授となる。1950年(昭和25年)、「歯車に関する研究」で東京大学工学博士。1953年(昭和28年)、東京大学工学部教授となる。1979年(昭和54年)、定年退官し名誉教授となり、同年、東京都立工科短期大学学長となる。 コンピューターの工学と社会への適用で新分野をひらいた。1983年(昭和58年)、世界コミュニケーション年で功労者として内閣総理大臣個人表彰を受ける。
渡辺 泰助(わたなべ たいすけ、1918年8月10日 - 1… 渡辺 泰助(わたなべ たいすけ、1918年8月10日 - 1985年5月3日)は、日本の経営者。 青森県出身。1939年に小樽高等商業学校を卒業。第五十九銀行での勤務を経て、1945年10月に家業の味噌醸造業に従事し、1951年1月に丸谷醸造を設立し、1955年3月には社長に就任。1971年11月に青森銀行監査役に就任し、1974年5月には頭取に就任した。1982年10月から1983年6月までに非常勤取締役を務めた。 1985年5月3日、心不全のために死去。66歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐々木 喜美子(ささき きみこ、1918年(大正7年)8月9… 佐々木 喜美子(ささき きみこ、1918年(大正7年)8月9日 - 2009年(平成21年)11月8日、旧姓:前田喜美子)は、日本の植物生理学、植物分子生物学者、教育者。北海道大学教授を務めた。 北海道庁立旭川高等女学校(現・北海道旭川西高等学校)を卒業後、北海道帝国大学農学部水産学科の白浜潔教授の副手となる[要出典]。1943年(昭和18年)に北海道帝国大学農学部水産学科(化学専攻)に入学した山西貞(てい)(お茶の水女子大学名誉教授)の研究への情熱に触発され研究生活への夢がふくらみ、1944年(昭和19年)10月に北海道帝国大学理学部植物学科に入学した。同学科植物第1講座(植物生理学)の坂村徹教授の指導で卒業研究「ハンゼヌラ・アノマーラの硝酸代謝とモリブデンの役割」に取り組む。
斉藤 滋与史(齊藤 滋与史、さいとう しげよし、1918年〈… 斉藤 滋与史(齊藤 滋与史、さいとう しげよし、1918年〈大正7年〉8月9日 - 2018年〈平成30年〉8月9日)は、日本の実業家・政治家。富士市名誉市民。静岡県知事(第47・48代)、建設大臣(第44代)、衆議院議員(6期)、富士市長、吉原市長、大昭和製紙社長などを歴任した。 大昭和製紙の創業者、斉藤知一郎の次男。防衛庁長官を務めた元衆議院議員の斉藤斗志二は甥で養子。 静岡県出身。五年制男子校・静岡県立沼津中学校(現:静岡県立沼津東高等学校 共学)を経て、早稲田大学商学部卒業。大学卒業後の1940年、父・斉藤知一郎が創業した大昭和製紙に入社した。1961年より大昭和製紙副社長。 1964年、吉原市長に初当選し1966年の市町村合併により初代富士市長。
沖 克已(おき かつみ、1918年8月9日 - 1993年6… 沖 克已(おき かつみ、1918年8月9日 - 1993年6月15日)は、香川県坂出市出身のプロ野球選手(捕手)・プロ野球審判員。 香川県立坂出商業学校を卒業後、社会人の朝鮮竜山鉄道局でプレー。1937年に阪急軍に入団するが、その年限りで退団した。 太平洋戦争ではレイテ島の戦いに参加。捕虜収容所で、アメリカ軍の通訳にバッキー・ハリスがいるのに気づいて声をかけると、捕虜の雰囲気が一挙に好転、ハリスも再会を大変喜んだという逸話がある。 阪急軍退団後はプロ野球界との関わりを絶っていたが、1955年にパシフィック・リーグの東京審判部に入部し、プロ野球審判として再出発。以降、1988年に引退するまで一筋の道を往く。
河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 … 河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 - 2005年〈平成17年〉9月6日)は、日本の実業家、教育者。河合塾理事長、山一證券副社長。 河合逸治の長男。東京商大を経て日本勧業銀行に入行し、経済安定本部や名古屋造船、山一證券にも出向した。後に実家の河合塾を継ぎ、弟の河合邦人と共に愛知県のローカル予備校から三大予備校の一角にまで育て上げた。1992年、フランス教育功労章オフィシエ受章。 静岡県生まれ。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校、59回卒業)、名古屋高商(現・名古屋大学経済学部)を経て、1941年12月、東京商科大学(現・一橋大学)繰り上げ卒業(井藤半彌ゼミ)。卒業論文は「国際租税論の基本問題」。
吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 201… 吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 2015年3月29日)は、日本の外交官。
大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 … 大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 - 2006年1月20日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 京都府京都市出身。1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に蝶理に入社。1948年に取締役に就任し、1958年に常務、1964年に専務を経て、1969年3月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1975年5月から相談役を務めた。1983年6月には家政学園理事長に就任。 2006年1月20日心不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
熊谷 清(くまがい きよし、1918年 <大正7年> 8月5… 熊谷 清(くまがい きよし、1918年 <大正7年> 8月5日 - 2010年 <平成22年> 2月20日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。位階は正四位。 兵庫県出身。1941年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1942年に川崎汽船に入社。1967年5月に取締役に就任し、1970年11月に常務、1979年6月に専務を経て、1979年12月に副社長に就任し、1980年6月には社長に昇格。1985年6月に会長に就任し、1988年6月に相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2010年2月20日に死去。91歳没。叙正四位。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
御木本 美隆(みきもと よしたか、1918年(大正7年)8月… 御木本 美隆(みきもと よしたか、1918年(大正7年)8月5日 - 1996年(平成8年)1月15日)は、日本の実業家。御木本真珠店(現ミキモト)会長。日本真珠振興会会長、全国真珠養殖漁業協同組合連合会会長。ミキモトの創業者御木本幸吉の孫。 三重県出身。御木本隆三の長男。1941年、慶應義塾大学経済学部卒業。家業を継承する。住所は東京都港区。著書には『御木本幸吉の思い出』がある。 政治家の森清、洋画家の脇田和、月光荘画材店創業者の橋本兵蔵、作曲家の服部良一、広告代理店の宣弘社社長・小林利雄、建築家の谷口吉郎らと猪熊弦一郎を囲む日曜画家の会を作り、猪熊が飼っていた猫の名から「シャグリ会」と称して家族ぐるみの交流を楽しみ、1955年には、その仲間とともに、軽井沢に長屋形式の別荘「画架の森」を谷口の設計で建設した。
原田 義人(はらだ よしと、1918年〈大正7年〉8月5日 … 原田 義人(はらだ よしと、1918年〈大正7年〉8月5日 - 1960年〈昭和35年〉8月1日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。元東京大学教養学部教授。 東京生れ。1942年、東京帝国大学独文科卒業。在学中から新演劇研究会に参加、『亭主学校』では自らも舞台に立った。卒業後、応召。 戦後、俳優としてNHKに出演したこともある。復員して東大独文科助手ののち、1950年、東大教養学部助教授。1954年、ハンブルク大学日本語講師として渡独、ヨーロッパ各地を回り1956年帰国。同人雑誌「方舟」の編集長を務め、評論家・ドイツ文学者として翻訳にも健筆を振るい、将来を嘱望されたが1960年7月、教授昇任の後の8月、42歳の誕生日直前に死去。
松岡 久人(まつおか ひさと、1918年8月5日 - 200… 松岡 久人(まつおか ひさと、1918年8月5日 - 2009年2月12日)は日本の歴史家。広島大学名誉教授。専攻は日本中世史。 大分県出身。広島高等師範学校を経て1942年10月に廣島文理科大学史学科国史学専攻を卒業。1949年の広島大学発足時から国史学教室助手となり、1954年に講師、1958年に助教授、1972年に教授となった。広島史学研究会理事長、日本学術会議会員も歴任した。 中世史研究者として厳島神社や大内氏の研究をすすめ、史料編集を行った。1972年に「大内氏領国制の展開」により広島大学から文学博士の学位を授与される[要出典]。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
宇治谷 孟(うじたに つとむ、1918年8月5日 - 199… 宇治谷 孟(うじたに つとむ、1918年8月5日 - 1992年11月5日)は、日本の歴史学者・国文学者。はじめて『日本書紀』の現代語訳を行ったほか、『続日本紀』の現代語訳も担当した。 1918年京都府生まれ。1941年に法政大学国漢科を、1943年に早稲田大学文学部を、1952年に立命館大学経済学部をそれぞれ卒業。清風高校等、幾つかの高校で教師を務めた後、最終的に滋賀文教短期大学教授および奈良芸術短期大学講師に就任。 早稲田大学在学中、歌人・国文学者の窪田空穂の授業を受けていた際、師の「日本の歴史を普通の人にも正しく理解してもらうために、『日本書紀』や『続日本記』を易しい現代語訳に訳したいが、自分にはその時間がない。
杉山 博(すぎやま ひろし、1918年8月4日 - 1988… 杉山 博(すぎやま ひろし、1918年8月4日 - 1988年10月20日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門は日本中世史。 神奈川県小田原市出身。國學院大學文学部で高柳光寿、渡辺世祐の指導を受け日本中世史を学び、1941年に卒業。卒業論文は「中世末期に於ける夫役に就て」。その後、兵役につき、戦後、1946年國學院大學図書館司書、翌1947年から東京大学史料編纂所に勤務し、1966年に助教授、1972年4月から1976年4月まで教授。1976年から駒澤大学文学部教授。 地方史研究協議会の創立にも加わっており、史料・文書や自治体史の編修に尽力した。
花山院 親忠(かさんのいん ちかただ、1918年〈大正7年〉… 花山院 親忠(かさんのいん ちかただ、1918年〈大正7年〉8月3日 - 1994年〈平成6年〉2月28日)は、日本の華族、神職。花山院家36代目当主。佐賀県立三養基高等学校校長、春日大社宮司を歴任した。 1986年当時、奈良県神社庁常任理事、神社本庁評議員、奈良県教育委員会委員であった。 大正7年(1918年)8月3日、花山院親家の長男として、東京府に生まれる。 大正13年(1924年)3月11日に父の親家が薨去すると、7月15日、6歳で家督を継承し襲爵した。第二開成中学校を経て、昭和12年(1937年)、國學院大學国文学科に入学。武田祐吉や折口信夫に学び、『御湯殿上日記』を研究した。 昭和16年(1941年)、國學院大學国文学科を卒業。
今井 則義(いまい のりよし、1918年8月2日 - 199… 今井 則義(いまい のりよし、1918年8月2日 - 1997年4月15日)は、マルクス経済学者。法政大学経営学部名誉教授。元東京交通短期大学学長。専攻は産業論、景気変動論。筆名・西原文夫。 広島県生まれ。1935年広島高等師範付属中学校卒業。1938年広島高等学校文科乙類卒業。1941年東京帝国大学経済学部経済学科卒業。石油統制会社調査課勤務(1946年石油公団に改組)。1951年運輸調査局経済調査部勤務。1957年法政大学経営学部助教授。1960年「戦後循環の分析」で経済学博士(法政大学)。1961年法政大学経営学部教授。1967-68年法政大学経営学部長。1968-72年法政大学常務理事。
河毛 一郎(かわけ いちろう、1918年8月2日 - 198… 河毛 一郎(かわけ いちろう、1918年8月2日 - 1988年6月20日)は、日本の官僚。海上保安庁長官を務めた。石川県出身。双子の弟に王子製紙社長を務めた河毛二郎がいる。 1953年に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に運輸省に入省した。大臣官房審議官、船員局長などを経て、1968年に海上保安庁長官に就任。1978年には日本海員掖済会会長に就任。 1988年6月20日肝臓癌のために死去。69歳没。
河毛 二郎(かわけ じろう、1918年8月2日 - 2004… 河毛 二郎(かわけ じろう、1918年8月2日 - 2004年5月24日)は、日本の経営者。王子製紙社長、会長を務めた。 石川県出身。幼くして父を亡くし、母とともに祖父のもとで育つ。旧制四高を経て1941年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1968年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1976年6月に専務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1982年12月には社長に昇格。1989年6月に会長に就任し、1993年10月に名誉会長を経て、1995年6月から相談役を務めた。 1990年から1995年までに日本経営者団体連盟副会長を務めた 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲一等瑞宝章を受章。
金 正斗(キム・ジョンドゥ、朝鮮語: 김정두、1918年8月… 金 正斗(キム・ジョンドゥ、朝鮮語: 김정두、1918年8月2日 - 1985年4月5日)は、大韓民国の裁判官、弁護士、政治家。大邱弁護士会(現・大邱地方弁護士会)会長、第8代韓国国会議員、民権党総裁権限代行を歴任した。 本貫は慶州金氏。元ソウル高等法院院長の金東建(朝鮮語版)は娘婿、裁判官の潘侹佑は孫娘婿。 日本統治時代の慶尚北道高霊郡出身。京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)、1941年明治大学法科卒。1945年司法要員考試合格。1948年大邱地方法院(朝鮮語版)判事、1951年大邱高等法院(朝鮮語版)判事、大邱地方法院・ソウル高等法院(朝鮮語版)部長判事、1968年第21代大邱弁護士会(現・大邱地方弁護士会)会長、第8代国会議員、慶州金氏宗親会中央会副会長、崇恵殿陵保存会専務理事、新民党統一分科委員長・大邱東地区党委員長、民権党中央党事務総長・慶北第2地区党委員長・総裁代行を務めた。
石澤 夏郎(いしざわ なつろう、1918年8月1日 - 20… 石澤 夏郎(いしざわ なつろう、1918年8月1日 - 2003年3月21日)は、日本の経営者。日本酸素社長、会長を務めた。東京都出身。 1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に南洋拓殖に入社。 1942年に兵役主計中尉を経て、1946年に日本酸素に転じ、1968年に取締役に就任し、1972年に常務、1977年に専務を経て、1978年2月には社長に就任。1986年7月から1991年6月までに会長を務めた。 1983年4月に藍綬褒章を受章。。 2003年3月21日急性心筋梗塞のために死去。84歳没。
蜂谷 彌三郎(はちや やさぶろう、1918年(大正7年)8月… 蜂谷 彌三郎(はちや やさぶろう、1918年(大正7年)8月 - 2015年(平成27年)6月10日)は、日本のシベリア抑留経験者。釈放後にソビエト連邦の女性と結婚して約40年間居住の後、日本に帰国した。名前は蜂谷弥三郞とも表記される。 滋賀県草津市出身。1941年に結婚して妻および両親と朝鮮半島に移住し、陸軍の軍属として勤務する。この間に1女をもうけた。 朝鮮半島で太平洋戦争の終戦を迎える。翌1946年7月に、家宅捜索を受けてソ連の軍隊に強制連行され、裁判を受けてシベリアで強制労働に従事する。ソ連側からの容疑は身に覚えのないスパイ容疑であった。収容所内では理容とマッサージを修得することで、生き延びることができた。
金 振晩(キム・ジンマン、朝鮮語: 김진만、1918年7月3… 金 振晩(キム・ジンマン、朝鮮語: 김진만、1918年7月31日または1918年11月11日 - 2006年5月10日)は、大韓民国の政治家、実業家。第3・4・6・7・8・9・10代韓国国会議員、第9代国会副議長。本貫は江陵金氏(朝鮮語版)。号は東谷(トンゴク、동곡)。 日本統治時代の江原道三陟郡(現・東海市)出身。1936年に日本浪華商業学校を卒業し、1937年に同志社高等商業学校で修学した。その後は金融組合及び会社で勤務し、解放後は三陟開発北三化学工業所自治委員長・常務理事・理事長を務めた。 1954年の第3代総選挙で自由党所属で初当選し、国会議員を7期務めたほか、自由党三陟郡党副委員長、民主共和党党務委員、院内総務、財政委員長、国会商工委員長、国会副議長、アジア国会議員連合(APU)第9次総会議長、韓英議員協会会長を歴任した。
九鬼 喜久男(くき きくお、1918年(大正7年)7月31日… 九鬼 喜久男(くき きくお、1918年(大正7年)7月31日 - 2005年(平成17年)10月31日)は、日本の実業家、政治家。第12代四日市市長(1966年(昭和41年)1月22日 - 1972年(昭和47年)11月18日)。九鬼産業グループの経営者。三重県松阪市飯高町(当時の飯南郡波瀬村)の出身、四日市九鬼家の婿養子で、旧姓は田中。四日市公害(四日市ぜんそく)裁判の引き金を引いた政治家である。 飯南郡波瀬村の旧家(大山林地主)田中家で田中彦左衛門の二男として誕生する。婿養子として結婚する前の姓名は田中喜久男であった。三重県知事(1955年 - 1972年)を務めた田中覚とは同族で、遠戚関係にあった。
鈴木 光枝(すずき みつえ、本名:佐々木 光枝、1918年7… 鈴木 光枝(すずき みつえ、本名:佐々木 光枝、1918年7月29日 - 2007年5月22日)は、日本の女優。元劇団文化座代表。文化座創設メンバーの一人。昭和・平成期を代表する新劇女優として知られ、晩年は、新劇界の重鎮として重きをなした。
天城 月江(あまぎ つきえ、1918年〈大正7年〉7月29日… 天城 月江(あまぎ つきえ、1918年〈大正7年〉7月29日 - 2005年〈平成17年〉)は、元宝塚歌劇団(元雪組・星組組長)の人物である。本名は古家 三保子。静岡県浜松市出身。宝塚歌劇団時代の公称身長は166cm。宝塚歌劇団時代の愛称はスロちゃん。宝塚歌劇団24期生。 1934年、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学し、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。当時は学校と劇団は一体で、入学イコール入団であった。宝塚入団時の成績は90人中7位。初舞台は1935年である。 1950年 - 1951年、雪組組長。 1953年 - 1969年、星組組長。 1978年、宝塚歌劇団退団。 2014年、設立された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂入り。
天野 太郎(あまの たろう、1918年7月27日 - 199… 天野 太郎(あまの たろう、1918年7月27日 - 1990年11月15日)は、日本の建築家。フランク・ロイド・ライトに学び、工学院大学助教授、東京芸術大学教授で教鞭を歴任する中、吉原正、武藤章らと設計活動を行った。1990年従四位勲三等瑞宝章。 1918年広島県呉市生れ。第一早稲田高等学院を経て、1942年早稲田大学理工学部建築学科入学。在学中会津八一に師事し、大竹十一、小堀鐸二、円堂政嘉らと親交を持つ。卒業後に鹿島建設設計部に入社し、目白ヶ丘教会の設計のため遠藤新建築創作所に樋口清、吉原正らと出向する。遠藤新の薫陶を受け、1952年に遠藤の師であるライトの下に遊学する。その他に、鹿島建設に顧問でいた吉田鉄郎の影響も受ける。
山村 雄一(やまむら ゆういち、1918年7月27日 - 1… 山村 雄一(やまむら ゆういち、1918年7月27日 - 1990年6月10日)は、臨床免疫学者。 結核を中心とした免疫学・医学研究に貢献した。長男は東海大学医学部教授の山村雅一。孫は吉本新喜劇の信濃岳夫。 大阪府大阪市天王寺区生まれ。 1941年大阪大学医学部卒。海軍軍医学校軍医科69期14班班長を務めた後太平洋戦争中は日本海軍の軍医として転戦。1949年大阪大学医学博士。「結核菌の安息香酸代謝に就て」。1956年に国立刀根山病院内科医長、1957年に九州大学医学部生化学教授、1962年に大阪大学医学部教授、1967年に同大学医学部長、1979年から1985年まで大阪大学総長を務めた。 癌の免疫療法であるBCG-CWSを作る。
江口 英一(えぐち えいいち、1918年7月27日 - 20… 江口 英一(えぐち えいいち、1918年7月27日 - 2008年11月22日)は、日本の社会学者。中央大学名誉教授。社会福祉、社会保障、貧困や日雇い労働者の問題を研究した。 愛知県出身。1938年第八高等学校 (旧制)卒業。1941年東京帝国大学経済学部卒。1948年専修大学経済学部助教授、1956年北海道大学教育学部助教授、1959年日本女子大学文学部教授、1968年中央大学経済学部教授。1989年定年、名誉教授。1981年野呂栄太郎賞受賞。1982年「現代の「低所得層」―「貧困」研究の方法」で日本学士院賞受賞。1983年「現代の「低所得層」」で中央大学経済学博士。 なお、日本女子大学や中央大学の通信教育課程の社会政策担当も兼任した。
福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 20… 福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 2001年12月20日)は、日本の中国学者・中国思想史研究者。京都大学名誉教授。老荘思想・道教研究の第一人者として知られる。 1918年、大分県下毛郡鶴居村大字高瀬(現:中津市)の農家に生まれた。大分県立中津中学校(現:大分県立中津南高等学校)を卒業し、広島高等師範学校(現:広島大学)文科第一部で学んだ。1940年、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、支那哲学史を専攻した。1942年9月に卒業し、同大学大学院に入学。しかし、同年10月には大学院を休学し、現役兵として野砲兵第6連隊補充隊(熊本)に入隊。1944年に陸軍砲兵少尉、1945年に陸軍砲兵中尉。
水野 祐(みずの ゆう、1918年7月25日 - 2000年… 水野 祐(みずの ゆう、1918年7月25日 - 2000年8月28日)は、日本の古代史学者。早稲田大学名誉教授。 1918年、東京生まれ。本名・水野正圀。石坂家の長男として生まれるが、母方の水野家の養子に入る。 東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)、第一早稲田高等学院を卒業。早稲田大学文学部史学科国史専攻で日本古代史と文化人類学を学び、1941年に卒業。1946年4月、復員。 1972年、文学博士。早稲田大学文学部教授を経て、1989年、定年、名誉教授となる。日本古代史について一般向け著書を多くなした。著作集全10巻がある。 門下生に金鉉球など。 『日本古代王朝史論序説』(1952年初版、1954年増訂版)において万世一系を否定し、日本の古代王朝は単一王朝ではなく、古王朝(先王朝と崇神王朝(崇神 - 仲哀))・中王朝(仁徳王朝(応神 - 雄略)と後仁徳王朝(飯豊))・新王朝(継体王朝)の三王朝が交替した、とする、いわゆる「三王朝交替論」を提唱した。
蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日… 蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日 - 2020年(令和2年)8月3日)は、日本の教育者、歴史家である。長年教諭を務め、小学校校長を務めた後、有漢町教育委員会指導員となり、有漢町の歴史を編纂した人物。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県上房郡高梁町川端(現:高梁市)で出生する。1930年(昭和10年)に上房郡有漢村(後の有漢町)の蛭田傳助の養子となる。岡山県師範学校(現:岡山大学教育学部)を卒業する。 有漢中学校や有漢東小などで教師を40年務める。小学校の校長を務めた後、地元の有漢の歴史や伝承の編纂を行う。1991年(平成3年)には、「有漢点描」として全9巻出版し、明治、大正の動乱を中心に有漢の歴史をまとめている。
中川 幸夫(なかがわ ゆきお、1918年7月25日 - 20… 中川 幸夫(なかがわ ゆきお、1918年7月25日 - 2012年3月30日)は、日本の前衛いけばな作家。華道家、芸術家。代表作に「花坊主」「魔の山」などがある。香川県出身。 敗戦直後の日本で勃興し、数年間の隆盛ののちに収束した「前衛いけ花」の活動家として知られる。この頃には中川のほかに勅使河原蒼風、小原豊雲、中山文甫らが同様の活動をしていた。この極めてアーティスティックな花の表現運動は「流派」という大きな流れを頂点とするいけ花界ヒエラルキーをどのように維持してゆくかに執着する動きにはあわず、「古典のみなおし」という建前によって後退、収束を余儀なくされた。中川は「流派」に属さず「流派」を持たないことで、唯一「前衛いけ花」作家でありつづける事を貫いた。
島 比呂志(しま ひろし、1918年7月23日 - 2003… 島 比呂志(しま ひろし、1918年7月23日 - 2003年3月22日)は、日本の小説家。本名 岸上薫(きしうえ かおる)。 香川県観音寺市出身。旧制香川県立三豊中学校、東京高等農林学校獣医学科卒業。 1940年(昭和15年)東京高等農林学校卒業後、満洲国立大陸科学院獣疫研究所に勤務。1943年(昭和18年) 東京高等農林専門学校(現 東京農工大学)助教授に就任。 1947年(昭和22年)6月、ハンセン病を発病し、国立療養所大島青松園に入所。1948年(昭和23年)6月、国立療養所星塚敬愛園へ転園。1958年(昭和33年)より、同人雑誌『火山地帯』を主宰。1990年(平成2年)6月、エイズ裁判原告赤瀬範保から「癩患者はなぜ怒らないのか?」という手紙を受け取る。
丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月2… 丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月22日 - 詳細不明)は、実業家である。三菱スペース・ソフトウエア(現:三菱電機ソフトウエア)取締役となり、郵政省電波技術審議会専門委員、鉄道通信協会副会長を務めた。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県川上郡成羽町(現・高梁市)に生れる。その後、1931年(昭和6年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1936年(昭和11年)に同校を卒業し、同年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1939年(昭和14年)3月に同校を卒業し、京都帝国大学理学部へ入学する。1942年(昭和17年)に同校物理学科を卒業した。
日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳… 日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳)は、日本の元俳優。東京市日本橋区出身。中央学院大学中央高等学校卒。本名は松永 亥太郎()。 東宝の専属俳優として、ジャンルを問わず多くの作品に出演。目元と口元が特徴である。 1971年、専属俳優一斉解雇の際に俳優を引退。 同じ専属俳優の加藤茂雄によると、東宝専属廃止の際に組合リーダーとして会社側と談判したが、継続希望の加藤たちとは違い、退職金目当ての立場だったという。
曾山克巳(そやま かつみ、1918年7月21日 - 2006… 曾山克巳(そやま かつみ、1918年7月21日 - 2006年4月15日)は、日本の郵政官僚。郵政事務次官などを務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1938年第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)文科卒業。東京帝国大学法学部政治学科在学中に高等試験に合格。東京帝大法学部政治学科を卒業し、1941年逓信省入省。 郵政省郵務局国際業務課長、郵務局次長、名古屋郵政局長。 1963年7月10日東京郵政局長。1964年5月27日 人事局長。1966年7月11日郵務局長。1969年11月21日郵政事務次官。1971年7月2日退官。 1974年日本電気(NEC)に入社し、常務、専務、副社長を歴任。1982年日本電気システム建設取締役会長。
宮崎 孝一(みやざき こういち、1918年〈大正7年〉7月2… 宮崎 孝一(みやざき こういち、1918年〈大正7年〉7月21日 - 2008年〈平成20年〉8月31日)は、日本の英文学者。 群馬県吾妻郡沢田村(現・中之条町)出身。1938年群馬師範学校卒業。東京高等師範学校を経て、1943年東京文理科大学英文科卒業。1950年コロラド大学へ留学し、文学修士取得。1970年ロンドン大学に留学。1973年「ディケンズ後期の小説の内面構造」で東京教育大学文学博士。 1946年桐生工業専門学校嘱託を経て、1949年から群馬大学助教授。1952年日本女子大学助教授となる。1956年成城大学助教授を経て、1961年同教授。1985-91年学長、名誉教授。専門は18-19世紀の英国小説。
吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7… 吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7年〉7月19日 - )は、日本の経営者。清水建設9代目社長。 群馬県佐波郡境町(現・伊勢崎市)出身。旧制群馬県立太田中学校、旧制水戸高等学校、東京帝国大学工学部建築学科卒業。 1942年(昭和17年)、株式会社清水組(現・清水建設)に入社。 戦時中はセレベス島(現・スラウェシ島)のケンダリで第753海軍航空隊として勤務し、後に海上保安庁長官となる栃内一彦は上官であった。 1970年(昭和45年)、清水建設取締役に就任。 1981年(昭和56年)6月に清水建設社長に就任。 在任中は前社長野地紀一の積極経営路線を継承し、TQCを基盤とするEC(エンジニアリング・コンストラクター)化と国際化を推進し、請負体質からの脱却を図った。
近藤 久(こんどう ひさし、1918年7月19日 - 197… 近藤 久(こんどう ひさし、1918年7月19日 - 1975年5月25日)は、愛知県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
井川 正雄(いがわ まさお、1918年 <大正7年> 7月1… 井川 正雄(いがわ まさお、1918年 <大正7年> 7月19日 - 1992年 <平成4年> 10月27日)は、日本の経営者。岐阜県不破郡垂井町出身。位階は正五位。 1942年に名古屋工業大学工学部機械工学科を卒業し、海軍技術士官を経て、1948年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。 1964年12月に生産管理部長に就任し、名古屋工場長、取締役、常務、副社長を経て、1980年6月に社長に就任した。翌年6月から取締役相談役を務めた。 1982年に藍綬褒章を受章。 1992年10月27日急性肺炎のために死去。74歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18… 石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18日 - 1990年(平成2年)7月19日)は、日本の実業家。ニッポン放送・フジテレビジョン社長を務めた。北海道札幌市出身。 札幌一中(現:北海道札幌南高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。 鐘淵紡績、映画プロデューサーを経て、1954年(昭和29年)ニッポン放送に入社。74年社長、85年相談役。この間、フジテレビ社長、産経新聞代表取締役を兼任したほか、パシフィック音楽出版(PMP、現:フジパシフィックミュージック)、ポニー、キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)、ディノス(現:DINOS CORPORATION)といった、フジサンケイグループで非放送・新聞事業の中核となる企業を設立した。
島津 亮(しまづ りょう、1918年7月18日 - 2000… 島津 亮(しまづ りょう、1918年7月18日 - 2000年3月1日)は、俳人。 香川県出身。旧制大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)蒙古語学科卒。1946年、応召先の天津から引揚げ、句作開始。鈴木六林男らの「青天」を通じて西東三鬼に会い師事する。1948年「雷光」創刊同人(1950年廃刊)。1951年「梟」創刊同人。1957年「夜盗派」同人(1960年終刊)。1960年「縄」同人。1962年「海程」創刊同人。1968年「ユニコーン」創刊同人。代表句に「怒らぬから青野でしめる友の首」など。この句は金子兜太が『今日の俳句』(1965年)で取り上げて広く知られるようになった作品で、同性愛的な趣があるとも評されている。
角戸 正夫(かくど まさお、1918年7月17日 - 200… 角戸 正夫(かくど まさお、1918年7月17日 - 2005年1月14日)は、日本の化学者。大阪大学蛋白質研究所所長、姫路工業大学学長を歴任。 兵庫県出身。甲陽中学校(15回卒)を経て、大阪帝国大学卒。大阪大学工学部教官などを任官したのち、1971年8月15日から1982年4月1日まで大阪大学蛋白質研究所所長を務めた。1982年10月に姫路工業大学学長に就任。 解析化学を専門とする。関西6GeV-SR計画世話人会代表などを務め、関西への科学研究施設誘致に活動していた。
柴田 武(しばた たけし、1918年7月14日 - 2007… 柴田 武(しばた たけし、1918年7月14日 - 2007年7月12日)は、日本の言語学者、国語学者。東京大学名誉教授、埼玉大学名誉教授。 1918年、愛知県名古屋市で生まれた。東京帝国大学文学部言語学科で学び、1942年に卒業。 同1942年10月、東京帝国大学文学部副手に採用された。1943年7月、中華民国ならびに蒙疆地域に出張。2か月にわたって同地で蒙古語を教えると同時に、民俗学研究所から奨学金を受給して蒙古語、ウイグル語、キルギス語、サラール語、タングート語などを調査。1944年3月、陸軍臨時嘱託として参謀本部にも勤務することとなり、終戦までトルコ語の暗号解読に従事した。1945年4月、東京帝国大学講師助手に昇格。
太田 善麿(おおた よしまろ、1918年7月13日 - 19… 太田 善麿(おおた よしまろ、1918年7月13日 - 1997年1月31日)は、日本の国文学者。東京学芸大学名誉教授。上代文学・近世国学が専門。 東京府出身。東京帝国大学文学部国文科卒。東京学芸大学助教授、1966年同教授、1973年同学長。1982年定年退官、同名誉教授、上智大学教授。 「古代日本文学思潮論」により1967年日本学士院賞受賞。妻の父は辻善之助。
栗原 益男(くりはら ますお、1918年7月13日 - 20… 栗原 益男(くりはら ますお、1918年7月13日 - 2000年9月8日)は、日本の東洋史学者。上智大学名誉教授。 1918年、埼玉県川越市で生まれた。1940年に東京帝国大学文学部東洋史に入学し、1942年に卒業。唐五代の藩鎮に関心を持ち、同大学大学院に進んだが、間もなく陸軍に応召。 終戦直前に玄界灘で機上艦が魚雷に接触し、脊椎骨折の重傷を負った。療養中に敗戦を迎えた。 1946年に東京大学大学院に復学。しかし、腹膜炎や結核を患い、療養生活と研究生活を送った。上智大学文学部助教授となり、後に教授昇格。在職中の1987年4月に自宅で倒れたが、10月に復帰。1988年3月に上智大学を定年退任し、名誉教授となった。