平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小… 平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小二郎、1916年11月10日-1986年9月14日)は、日本の喜劇俳優。吉本新喜劇の男優。広島県府中市中須出身。吉本興業所属。岡八朗、花紀京、山田スミ子、木村進、桑原和男らとともに吉本新喜劇の黄金時代を担った看板座長。
1910年代生まれ:6,028人
平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小… 平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小二郎、1916年11月10日-1986年9月14日)は、日本の喜劇俳優。吉本新喜劇の男優。広島県府中市中須出身。吉本興業所属。岡八朗、花紀京、山田スミ子、木村進、桑原和男らとともに吉本新喜劇の黄金時代を担った看板座長。
小林 祐二(こばやし ゆうじ、1916年11月10日 - 2… 小林 祐二(こばやし ゆうじ、1916年11月10日 - 2002年2月28日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 岡山県出身。1941年に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、同年に旭化成に入社。1963年5月に取締役に就任し、1972年10月に常務、1974年11月に専務を経て、1975年5月から1978年3月までに副社長を務め、1978年6月には蝶理社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1987年6月から常任相談役を務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年2月28日肺炎のために死去。85歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
若月 正吾(わかつき しょうご、1916年11月8日 - 2… 若月 正吾(わかつき しょうご、1916年11月8日 - 2001年12月)は、日本の仏教学者・僧侶。専門は禅学。山梨県東山梨郡牧丘町出身。 1942年駒澤大学文学部仏教学科卒業。その後、世田谷学園中学校教諭や曹洞宗宗学研究所研究員、学校法人駒澤大学職員を経て、1963年駒澤大学仏教学部専任講師。1964年同仏教学部教授。1965年駒澤大学教務部長。1973年同附属図書館長。1975年苫小牧駒澤短期大学学長・駒澤大学附属苫小牧高等学校校長・駒澤大学苫小牧学園理事長。1976年駒澤大学北海道教養部3代部長・岩見沢駒澤短期大学3代学長・駒澤大学附属岩見沢高等学校3代校長・駒澤大学岩見沢学園3代理事長・駒澤大学保育専門学校初代学校長(講師兼任)。
吉武 泰水(よしたけ やすみ、1916年11月8日 - 20… 吉武 泰水(よしたけ やすみ、1916年11月8日 - 2003年5月26日)は、日本の建築学者・建築家。東京大学名誉教授、筑波大学名誉教授、九州芸術工科大学名誉教授、神戸芸術工科大学初代学長。大分県生まれ。東京育ち。父親は、国会議事堂の設計者の1人、雑誌新建築創刊号の表紙を手がけた吉武東里である。 日本における建築計画学の創始者であり、病院・学校・集合住宅などの研究に業績を残した。集合住宅のプロトタイプである「51C型」や、建築における規模計画に用いられる数理・統計手法「あふれ率法(α法)」などで知られる。設計した作品も、病院・学校などの公共建築が多い。 1951年に東京大学建築学科の吉武研究室が「公営住宅標準設計51C型」として提唱した51C型は、戦後の日本の集合住宅の原型となった。
杉本 良吉(すぎもと りょうきち、1916年11月7日 - … 杉本 良吉(すぎもと りょうきち、1916年11月7日 - 2004年11月25日)は、日本の裁判官。 愛知県美和町出身。1940年東京帝国大学法学部卒業。大阪地裁、法務省勤務を経て、1963年東京地裁判事、1973年東京高裁判事を務め、1981年に退官。1982年大東文化大学教授、1987年には同学長に就任した。 2004年11月25日、心不全のため東京都内の病院で死去、88歳没。 東京地裁判事在任時の1970年、教科書検定の合憲性が争われた家永教科書裁判で検定不合格を憲法違反とした「杉本判決」を下した。行政事件訴訟法の立法担当者でもある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
五十嵐 寿一(いがらし じゅいち、1916年(大正5年)11… 五十嵐 寿一(いがらし じゅいち、1916年(大正5年)11月6日 - 2006年(平成18年)1月2日)は、日本の学者。専門は騒音・振動。 1916年11月6日生まれ。1941年3月、東京帝国大学理学部物理学科卒業。1942年1月、陸軍技術将校。1945年10月、小林理学研究所研究員。1950年8月、東京大学理工学研究所助教授。1959年12月、理学博士(東京大学)。1960年3月、東京大学航空研究所教授。1971年9月、中央公害対策審議会委員・騒音振動部会長。1972年4月、小林理学研究所理事長。1976年4月、東京大学宇宙航空研究所所長。1990年4月、勲二等瑞宝章受章。1994年10月、小林理学研究所名誉顧問。
吉原 信之(よしはら のぶゆき、1916年11月5日 - 2… 吉原 信之(よしはら のぶゆき、1916年11月5日 - 2007年3月15日)は、日本の実業家。アパレルメーカー三陽商会の創業者。
和田 誠一(わだ せいいち、1916年11月5日 - 198… 和田 誠一(わだ せいいち、1916年11月5日 - 1986年4月23日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。大阪府出身。 大阪・船場のそろばん問屋の子として生まれる。1941年(昭和16年)3月に東京帝国大学法学部を卒業。東洋紡に入社した後で応召となるも、子供の頃に患った肋膜炎が再発し約1年で除隊となった。1945年(昭和20年)7月に高等文官試験司法科に合格。いったん司法官試補となり、1948年(昭和23年)6月に大阪地裁判事補となったが、すぐに退職して弁護士になる。専門は民事、商事。東洋紡のほか日本生命や三菱銀行の顧問弁護士をした。他に労働、公害事件なども経験した。 弁護士になって間もなく、「これからは国際感覚が必要」と1953年(昭和28年)にドルの持ち出しが制限されていた時代に東洋紡が持つ輸出代金の優先外貨の使用を認めてくれる形で、1年間アメリカへ私費留学した。
高野 雄一(たかの ゆういち、1916年11月3日 - 20… 高野 雄一(たかの ゆういち、1916年11月3日 - 2004年3月25日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)。東京大学名誉教授。著書『国際組織法』(初版1961年)はこの分野の代表的な著作として知られる。 弁護士・高野弦雄の長男。1941年東京帝国大学法学部卒業、同助手。指導教官は横田喜三郎。1944年より外務省条約局勤務。1948年、法政大学教授。1949年、東京大学法学部助教授、1956年に教授。1977年定年退官後、上智大学法学部教授、1988年より八千代国際大学政治経済学部教授を務めた。1992年勲三等旭日中綬章受章。日本のポツダム宣言受諾を無条件降伏とする説に反対し、江藤淳を支持した。
金久 正弘(かねひさ せいこう、1916年 <大正5年> 1… 金久 正弘(かねひさ せいこう、1916年 <大正5年> 11月3日‐2022年 <令和4年> 9月12日)は、日本の電気工学者、電子工学者。神戸大学名誉教授、鹿児島大学教授(元)、福岡工業大学教授(元)、工学博士(学位)。 鹿児島県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1937年に旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)理科を卒業。1941年3月に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、東京計器製作所(東京計器)入社。1944年2月より海軍技術研究所勤務、終戦により1945年9月嘱託解除。その後住友通信工業(日本電気)に入社し研究所無線研究室勤務。1949年6月住友通信工業を退社し、12月旧制神戸工業専門学校教授着任。
安 峻錡(アン・ジュンギ、朝鮮語: 안준기、1916年11月… 安 峻錡(アン・ジュンギ、朝鮮語: 안준기、1916年11月3日 - 1995年6月28日)は、大韓民国の弁護士、政治家。第3代韓国国会議員を務めた。 釜山出身。日本大学専門部法律科、中央大学法学部卒。普通文官試験合格。釜山弁護士副会長・会長、釜山地方法院調整委員、交通部法律顧問、国民会慶南本部副会長、大韓造船公社監事を経て、1955年の第3代国会議員の補欠選挙で自由党の候補として当選し、自由党慶南道党副委員長、李龍範の顧問などを務めた。 野次をよく飛ばす議員として知られる。
宇佐美三郎(うさみ さぶろう、1916年〈大正5年〉11月3… 宇佐美三郎(うさみ さぶろう、1916年〈大正5年〉11月3日 - 2010年〈平成22年〉5月1日)は、新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)の元町長である。旧吉田町出身。 吉田町立吉田尋常高等小学校卒。吉田町商工会幹事、同専務理事、町経済クラブ幹事長を経て、旧吉田町で助役を務めた後、1966年から1986年まで町長を務める。 2010年5月1日、燕市にて死去。叙従五位、旭日小綬章追贈。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小林 昇(こばやし のぼる、1916年〈大正5年〉11月1日… 小林 昇(こばやし のぼる、1916年〈大正5年〉11月1日 - 2010年〈平成22年〉6月3日)は、日本の経済学者。専門は経済学史。学位は、経済学博士(東京大学・論文博士・1955年)。福島大学名誉教授、立教大学名誉教授。日本学士院会員。 東京海上保険会社での勤務を経て、福島高等商業学校教授・福島大学経済学部教授・立教大学経済学部教授・立教大学経済学部学部長・大東文化大学教授などを歴任。 経済学史を専攻する京都市出身の経済学者である。東京帝国大学卒。1940年、福島高等商業学校講師。途中3年間の兵役を挟み、福島大学経済学部の設立などに尽力する。1955年から82年まで立教大学経済学部教授。ドイツ経済学史に新地平を開き、特にフリードリッヒ・リストの研究で名高い。
野口 昭子(のぐち あきこ、1916年(大正5年)11月1日… 野口 昭子(のぐち あきこ、1916年(大正5年)11月1日 - 2004年(平成16年)7月27日)は、全生社社長、社団法人整体協会会長。整体協会創始者である野口晴哉の妻。旧姓・近衛、島津。 公爵近衛文麿の長女。母は毛利高範の娘・千代子。東京生まれ。女子学習院を卒業後、1937年に公爵島津忠重の嫡子・忠秀に嫁して修久ら二男一女を儲けるが、戦後の混乱期に忠秀のもとを去って出入りの整体師野口晴哉と駆け落ちし、「昭和のノラ事件」と呼ばれて話題になった。1945年12月に島津忠秀と離縁した。 野口晴哉と結婚してからは、晴哉の著作を発行する全生社の社長に就任し、出版事業を通じて野口整体の普及に貢献した。
小原 二郎(こはら じろう、1916年11月1日 - 201… 小原 二郎(こはら じろう、1916年11月1日 - 2016年5月12日)は、日本の人間工学、住宅産業、木材工学者。千葉工業大学理事・教授、千葉大学名誉教授。正四位。 長野県木曽郡読書村(現南木曽町)出身。 旧制岐阜県立恵那中学校(現岐阜県立恵那高等学校)、東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)を経て、1958年京都帝国大学農学部林学科卒業。専攻は人間工学、材料工学で、電車、自動車、航空機などの車両座席の改良、家具規格の基礎理論に貢献した。
増田 猛夫(ますだ たけお、1916年11月1日 - 200… 増田 猛夫(ますだ たけお、1916年11月1日 - 2006年3月30日)は、日本の実業家。伊藤忠商事副社長、伊藤忠燃料(現:伊藤忠エネクス)社長。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
河西 健一(かさい けんいち、1916年(大正5年)10月3… 河西 健一(かさい けんいち、1916年(大正5年)10月31日 - 1992年(平成4年)2月16日)は、日本の鉄鋼技術者。
檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10… 檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10月31日 - 2006年〈平成18年〉10月15日)は、日本の農林官僚・政治家。自由民主党参議院議員(3期)。 愛媛県松山市出身。旧制松山高校を経て、1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部卒業。農林省に入省(水産局嘱託)。入省成績は下から2番目。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年に解員(復員)。 農林経済局肥料課長、大臣官房予算課長、農地局管理部長、大臣官房長、畜産局長、大臣官房長(再任)、1968年(昭和43年)食糧庁長官を経て、1969年(昭和44年)農林事務次官。
小島 一枝(こじま かずえ、1916年10月30日 - 19… 小島 一枝(こじま かずえ、1916年10月30日 - 1992年)は、日本の水泳選手。 和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身。紀の川で泳いだ。近代水泳黎明期を代表する名選手として知られた。ロサンゼルスオリンピック、ベルリンオリンピックの競泳日本代表として活躍した。ベルリンでは400メートル自由形で6位入賞。この順位は、自由形女子としては千葉すずが後に並ぶまで日本選手団の最高位だった(のちにアテネオリンピックにて柴田亜衣が800メートル自由形で優勝したことで最高位を更新)。 日本選手権では女学校時代に200メートル自由形で7-9回大会まで3連覇、100メートル自由形でも7回大会に勝っている。同郷の前畑秀子と親交が厚かった。
高木秀玄(たかぎ しゅうげん、1916年10月30日 - 1… 高木秀玄(たかぎ しゅうげん、1916年10月30日 - 1987年7月12日)は、日本の統計学者。 富山県出身。関西大学経済学部卒、1959年「統計と推計の理論」で経済学博士。関西大学経済学部助教授、教授を経て関西大学経済政治研究所長、日本学術会議会員を歴任。87年定年、名誉教授。。
中村 伝三郎(なかむら でんざぶろう、1916年(大正5年)… 中村 伝三郎(なかむら でんざぶろう、1916年(大正5年)10月30日 - 1994年(平成6年)8月23日)は、日本の美術評論家。兵庫県出身。東京帝国大学卒。1947年国立博物館付属美術研究所(現・東京国立文化財研究所)入所、美術部第二研究室長。彫塑史専門、91年『明治の彫塑』で毎日出版文化賞受賞。
金 仕龍(キム・サヨン、朝鮮語: 김사용、1916年10月2… 金 仕龍(キム・サヨン、朝鮮語: 김사용、1916年10月28日 - 1991年6月3日)は、満洲国および大韓民国の検察官、政治家、弁護士。第11代韓国国会議員。 慶北大邱出身。中央大学法学科卒。高等文官試験司法科合格。新京地方検察庁検察官、京城地方法院甕津支庁長、大邱地方検察庁部長検事・次長検事、全州地方検察庁・大邱高等検察庁次長検事、春川地方検察庁・大田地方検察庁・大邱地方検察庁検事長、統一主体国民会議運営委員、国家保衛立法会議議員・政治関係法特別委員長、民主正義党創党発起人、韓日議員連盟法的地位特別委員長、弁護士を務めた。
鈴田 照次(すずた てるじ、1916年10月27日 - 19… 鈴田 照次(すずた てるじ、1916年10月27日 - 1981年9月8日)は、日本の染織家。鍋島更紗を、「鍋島更紗秘伝書」と「見本帖」をもとに復元に着手し、「木版摺更紗」を完成させた。人間国宝であり、染織家である鈴田滋人の父。
渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月… 渡久地 政信(とくち まさのぶ、1916年(大正5年)10月26日 - 1998年(平成10年)9月13日)は、日本の歌手、作曲家。 沖縄県国頭郡恩納村に生まれ、少年期を鹿児島県の奄美大島龍郷町で過ごす。日本大学藝術学部卒業後、1943年(昭和18年)、日本ビクターレコードより貴島正一の名で歌手デビュー。歌手時代は売れず、津村謙の前座を務めていたこともあった。津村は後に渡久地が作曲した『上海帰りのリル』で大ヒットを飛ばすことになる。 1951年(昭和26年)よりキングレコード専属の作曲家に転身(後に古巣のビクターに移籍)。以後、『上海帰りのリル』、『お富さん』、『島のブルース』など数多くのヒット曲を手掛ける。
後藤 譽之助(ごとう よのすけ、1916年10月25日 - … 後藤 譽之助(ごとう よのすけ、1916年10月25日 - 1960年4月13日)は、官僚、官庁エコノミスト、経済評論家。 経済白書執筆にあたり、第二次大戦後の日本の経済復興に対する政策立案に方向を与えた。 現在の東京都墨田区出身。大相撲年寄り、二十山親方(第二代小錦八十吉、本名後藤鶴松)の長子。母、菊。東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)卒業。旧制第一高等学校卒業。 1941年12月、東京帝国大学工学部電気工学科卒。電気庁、大東亜省奉職。経済安定本部・経済審議庁・経済企画庁において、第二次大戦後の日本の経済復興政策立案及び景気循環分析にかかわる。直属の上司・先輩に大来佐武郎、部下に宍戸寿雄、金森久雄、内野達郎、丸茂明則等。
市村 修平(いちむら しゅうへい、1916年 <大正5年> … 市村 修平(いちむら しゅうへい、1916年 <大正5年> 10月25日 - 1999年 <平成11年> 10月22日)は、日本の経営者。王子製紙社長を務めた。長野県上高井郡小布施村出身。位階は従四位。 旧制須坂中学を経て、1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に王子製紙に入社した。1963年に取締役に就任し、1968年に常務、1971年に専務、1976年に副社長を経て、1981年6月に社長に就任。1982年に病気で相談役に退いた。 1982年に藍綬褒章を受章し、1989年に勲二等瑞宝章を受章した。 1999年10月22日脳梗塞のために死去。82歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
後藤 譽之助(ごとう よのすけ、1916年10月25日 - … 後藤 譽之助(ごとう よのすけ、1916年10月25日 - 1960年4月13日)は、官僚、官庁エコノミスト、経済評論家。経済白書執筆にあたり、第二次大戦後の日本の経済復興に対する政策立案に方向を与えた。
鵜戸口 英善(うどぐち てるよし、1916年(大正5年)10… 鵜戸口 英善(うどぐち てるよし、1916年(大正5年)10月25日 - 1996年(平成8年)2月16日)は、日本の物理学者、東京大学名誉教授。鳥取県出身。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大塚 正士(おおつか まさひと、1916年 <大正5年> 1… 大塚 正士(おおつか まさひと、1916年 <大正5年> 10月24日 - 2000年 <平成12年> 4月17日)は、日本の実業家、大塚グループ元総帥。位階は従四位。 徳島県鳴門市出身。中学校を出た後、父親が興した当時は個人商店形態の大塚製薬工業部に勤め、1947年に代表者となる。その後、大塚製薬工業部は大塚製薬工場として法人化し、社長、会長に就任する。医薬品の原料だけでなく医薬品そのものの製造や食品事業にも進出し、17人の零細企業をグループ従業員1万5900人、売上高6500億円(1991年当時)に育て上げた。 1970年、アース製薬を買収した。1973年にアース製薬から発売された「ごきぶりホイホイ」の名付け親である。
大原 栄(おおはら さかえ、1916年10月24日 - 20… 大原 栄(おおはら さかえ、1916年10月24日 - 2016年4月26日)は、日本の経営者。ダイハツ工業社長を務めた。愛知県出身。 1938年に名古屋高等工業学校電気学科を卒業し、同年に東京電灯に入社。 1943年9月に東海飛行機を経て、1945年9月にトヨタ自動車工業に転じる。1968年7月に取締役に就任し、1969年12月にダイハツ工業専務に就任し、1973年12月に副社長を就任。1975年9月に社長に昇格し、1982年9月から1986年9月までに会長を務めた。 1980年5月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲二等瑞宝章を受章。
上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日… 上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。 広島県出身。上田は5人兄弟姉妹の長男であった。中学を卒業後、呉海兵団に入団し、水雷学校普通科、舞鶴防備隊潜水学校、水雷学校高等科を修卒業。術科学校の高等科を卒業した下士官は、日本海軍の実務を担う人材であったが、上田の高等科卒業時の成績は抜群であった。 1941年(昭和16年)9月、上田は帰省を許された。上田は発熱した状態で帰省したが、故郷は豪雨に見舞われ川が氾濫した状態であった。
湯浅 謙(ゆあさ けん、1916年10月23日 - 2010… 湯浅 謙(ゆあさ けん、1916年10月23日 - 2010年11月2日)は、元日本陸軍軍医、医師、中国帰還者連絡会の会員。埼玉県出身。 第二次世界大戦中、日本陸軍の軍医として中国で勤務、軍務として生体解剖を行う。 戦後、戦犯容疑者として中国の戦犯管理所へ移送されるが、中国の人道的な対応に接し、自身の罪を強く認識し深く反省する。起訴免除の判決を受けた後、日本へ帰国する。 帰国後、中帰連の会員として、反戦平和、日中友好運動に参加する。自身の戦争体験、特に生体解剖を証言し、戦争の愚かしさを伝える。 1942年3月中旬。目的は、第36師団の野戦部隊の軍医教育のための演習として行われた。第36師団より11-12名の軍医、潞安陸軍病院より新任軍医5名、その他2-30名が参加した。
佐藤 武夫(さとう たけお、1916年10月21日 - 19… 佐藤 武夫(さとう たけお、1916年10月21日 - 1962年4月18日)は、愛知県岡崎市出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。 旧制岡崎中学校では、投手の高塚誠治とバッテリーを組む一方、4番打者も務める。1935年の夏の甲子園愛知大会では決勝で愛知商業に2-0で敗退。1936年に卒業し、大阪タイガースに入団。 同年12月に後楽園イーグルスが新たに設立されると移籍し、1937年春季からレギュラー捕手となり36試合にマスクを被る。しかし、6月下旬にバッキー・ハリスが入団すると出番が大きく減少。秋季は9試合の出場に終わる。 1938年には東京セネタースに移籍。1939年から北浦三男に代わって正捕手となると、長打力があり、1940年には3本塁打で6位タイ、1942年にも4本塁打を放ち4位タイであった。
藤井 勇(ふじい いさむ、1916年10月20日 - 198… 藤井 勇(ふじい いさむ、1916年10月20日 - 1986年2月7日)は、鳥取県鳥取市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
遠藤 健児(えんどう けんじ、1916年10月18日 - 1… 遠藤 健児(えんどう けんじ、1916年10月18日 - 1994年4月8日)は、日本の経営工学者。 長崎県佐世保市出身。東京帝国大学工学部機械工学科卒、1983年「運搬活性の研究」で慶應義塾大学工学博士。1939年大日本兵器勤務、のち日平産業(改称)で管理技術関係。1955年千葉工業大学教授となり、1962年武蔵工業大学教授。1987年に定年となり、名誉教授。日本工業経営学会会長を務めた。
月 澄江(つき すみえ、1916年10月18日 - 没年不詳… 月 澄江(つき すみえ、1916年10月18日 - 没年不詳)は、日本の女優である。出生名前川 澄枝(まえかわ すみえ)、結婚後の本名は小林 澄枝(こばやし すみえ)。 1916年(大正5年)10月18日、埼玉県秩父郡秩父町宮ノ側(現在の同県秩父市宮側町)に生まれる。母の妹が女優の五月信子(1894年 - 1959年、本名前川しのぶ)である。 旧制・秩父郡立秩父尋常小学校(現在の秩父市立秩父第一小学校)を卒業した後、1930年(昭和5年)前後に五月信子・高橋義信夫妻の「近代座」に参加し、川村花菱の新派悲劇『母三人』で初舞台を踏む。1933年(昭和8年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社、同年12月14日に公開された、川村花菱原作、井上金太郎監督のサイレント映画『上州土産百両首』で尾上栄五郎の相手役を務めて、満17歳で映画界にデビューした。
中村 礼吉(なかむら れいきち、1916年10月16日 - … 中村 礼吉(なかむら れいきち、1916年10月16日 - 没年不明)は日本の元スピードスケート選手である。北海道苫小牧市出身。 早稲田大学専門部1年在学時の1936年ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックで500m11位となった。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
宮崎 康二(みやざき やすじ、1916年(大正5年)10月1… 宮崎 康二(みやざき やすじ、1916年(大正5年)10月15日 - 1989年(平成元年)12月30日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形、800mリレーの金メダリスト。元・日本水泳連盟理事。 静岡県浜名郡吉津村(現在の湖西市)の出身。吉津尋常小学校を経て浜松一中(現・静岡県立浜松北高等学校)時代に15歳で1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。身長179cm、体重66kgの恵まれた体躯を生かし、100m自由形の予選で58秒7の日本新記録を樹立し、準決勝ではジョニー・ワイズミュラーの記録を破る58秒0の五輪新記録・日本新記録を打ち立てる。決勝では58秒2で金メダルを獲得、アメリカのこの種目の連勝を6でストップさせた。
西尾 信一(にしお しんいち、1916年10月14日 - 2… 西尾 信一(にしお しんいち、1916年10月14日 - 2017年11月2日)は、日本の経営者。第一生命保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1935年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社。 1968年5月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1981年4月に社長に就任。1987年4月に会長に就任した。 1984年から1年間だけ生命保険協会会長を務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1990年4月に勲一等瑞宝章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山中 清一郎(やまなか せいいちろう、1916年10月13日… 山中 清一郎(やまなか せいいちろう、1916年10月13日 - 2002年12月11日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。東京都出身。 1939年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。同年、短期現役海軍主計科士官(2期)を志願。同年5月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。第三遣支艦隊司令部付・瑞穂に配属。以後、威海衛陸戦隊付、軍令部出仕兼海軍省出仕軍需局第三課勤務を歴任し、1941年5月、主計大尉に昇進。1942年5月、新竹海軍航空隊副官兼主計長に就任し、1943年7月、予備役に編入。1944年1月、召集され第一軍需部(上海)員に任じられ、上海衣糧廠糧食課長に転じ、同年11月、海軍主計少佐に昇進した。
尾佐竹 徇(おさたけ となう、1916年(大正5年)10月1… 尾佐竹 徇(おさたけ となう、1916年(大正5年)10月12日 - 2006年(平成18年)7月17日)は、昭和から平成時代の電気工学者、通信技術者。 1941年(昭和16年)東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、逓信省に入省する。その後、逓信省東京中央電気通信局岩槻無線分局長、通信院工作所東京第一工場長などを歴任する。1945年(昭和20年)、母校の東京帝国大学工学部助教授、1959年(昭和34年)東京大学教授となった。 電気通信工学を主な研究分野とし、周波数変調方式、電子交換方式、通信網構成論の分野において先駆的な研究を行った。大学外では、郵政省有線放送審議会、科学技術庁電子技術審議会、日本電信電話公社電気通信技術委員会などに参加した。
横道 萬里雄(横道 万里雄、よこみち まりお、1916年10… 横道 萬里雄(横道 万里雄、よこみち まりお、1916年10月12日 - 2012年6月20日)は、日本の能楽研究者、能作者、能演出家。東京芸術大学名誉教授。東京文化財研究所名誉研究員、文化功労者。 東京国立文化財研究所芸能部部長、東京芸術大学音楽学部教授、沖縄県立芸術大学附属研究所教授、沖縄県立芸術大学附属研究所所長などを歴任した。 東京府生まれ。暁星小学校・同中学校時代の同級生に柴田南雄がいる。東京高等学校を経て東京帝国大学理学部動物学科卒業後、1941年東京帝国大学文学部国文科卒業。 1953年東京文化財研究所芸能部文部技官となり、音楽舞踊研究室長、芸能部長。1964年表章との共編『謡曲集』により芸術選奨文部大臣賞受賞。
好川 三郎(よしかわ さぶろう、1916年〈大正5年〉10月… 好川 三郎(よしかわ さぶろう、1916年〈大正5年〉10月11日 - 1983年〈昭和58年〉4月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。奈良県橿原市の初代市長をつとめ、紀元節復活運動に尽力し、「紀元節市長」として全国的な知名度を有した。 1916年(大正5年)10月11日生まれ。 畝傍中学校(旧制、現・奈良県立畝傍高等学校)2年修了、陸軍幼年学校、陸軍士官学校(50期)を経て陸軍大学校(60期)を卒業。陸軍少尉任官、歩兵第37連隊付となり小隊長、中隊長として満州・中支に従軍。その後、陸軍参謀となり陸軍少佐として終戦を迎える。1947年(昭和22年)11月28日、元陸軍将校として公職追放指定。戦後は服飾学校「八木ドレスメーカー女学院」を経営した。
外林 大作(そとばやし だいさく、1916年10月11日 -… 外林 大作(そとばやし だいさく、1916年10月11日 - 2012年4月2日)は、日本の臨床心理学者、横浜市立大学名誉教授。 広島県福山市生まれ。旧制広島県立福山誠之館中学校、旧制水戸高等学校を経て、1941年に東京帝国大学文学部心理学科を卒業。1949年東京学芸大学助教授、1950年横浜市立大学助教授、1951年ロール・プレイング療法を日本に導入。1956年教授。1982年定年退官、名誉教授。1989年勲三等旭日中綬章受勲。
柴田 タカ(しばた たか、1916年10月10日 - 199… 柴田 タカ(しばた たか、1916年10月10日 - 1991年)は、日本の短距離走選手。1932年ロサンゼルスオリンピックで女子100メートル競走に出場した。 山形県山形市において、菓子店の長女として生まれる。山形高等女学校(現在の山形県立山形西高等学校)在校中、1932年ロサンゼルスオリンピックで女子100メートル競走に出場した。山形県初の女子オリンピック選手である。オリンピックでは予選で落選しており、公式記録上は「記録なし」とされている。 同大会には渡辺すみ子(1916年11月28日生まれ)が満15歳で女子100m走に出場している。オリンピックに出場した日本の陸上選手としては渡辺が最年少記録(2022年現在も維持)とされ、柴田はこれに次いで年少の選手とされる。
吉田 弘重(よしだ ひろしげ、1916年(大正5年)10月1… 吉田 弘重(よしだ ひろしげ、1916年(大正5年)10月10日 - 2014年5月)は、日本のアメリカ文学者、広島大学名誉教授。広島県佐伯郡生まれ。広島文理科大学卒、1967年「シンクレア・ルイスの言語の構造と組織」で広島大学文学博士。広島大学文学部助教授、教授、1980年定年退官、名誉教授、広島修道大学教授、ノートルダム清心女子短期大学教授。1992年勲三等旭日中綬章受勲。
内薗 耕二(うちぞの こうじ、1916年10月9日 - 20… 内薗 耕二(うちぞの こうじ、1916年10月9日 - 2006年10月25日)は、日本の医学者(生理学)。階級は海軍中尉。勲等は勲二等。学位は、医学博士(東京大学・1950年)。東京大学名誉教授、静岡県立大学名誉教授、生理学研究所名誉教授。 東京帝国大学医学部副手、東京大学医学部講師、新潟大学医学部教授、東京大学医学部教授、生理学研究所所長(初代)、岡崎国立共同研究機構機構長(第2代)、静岡女子大学学長(第5代)、静岡県立大学学長(初代)、静岡県立大学短期大学部学長(初代)などを歴任した。 1916年、鹿児島県鹿屋市にて生まれた。 鹿児島県立鹿屋中学校 (旧制)を経て、1937年に第一高等学校理科乙類を卒業後、東京帝国大学医学部医学科に進学して医学を学び1941年に卒業した。
高村 勝治(たかむら かつじ、1916年10月9日 - 20… 高村 勝治(たかむら かつじ、1916年10月9日 - 2009年4月3日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。筑波大学名誉教授。専門はアーネスト・ヘミングウェイで、第二次世界大戦後のアメリカ文学研究の開拓者の一人だった。 石川県生まれ。1940年東京文理科大学卒業、1941年同大学院中退、助手。1946年東京高等師範学校助教授、1948年教授、1949年東京文理科大講師、東京教育大学助教授、1962年「「ローストジェナレーション」研究」で文学博士、1964年教授、移転に伴い筑波大学教授、1980年定年退官、名誉教授、共立女子大学教授。 1990年、勲三等旭日中綬章受勲。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
人見 楠郎(ひとみ くすお、1916年10月7日 - 200… 人見 楠郎(ひとみ くすお、1916年10月7日 - 2000年11月4日)は、日本の教育者、学校法人昭和女子大学の第2代理事長、昭和女子大学第5代学長。1974年から死去した2000年まで26年間にわたり長く学園経営のトップであり、学外での役職も数多く歴任し、「カリスマ理事長」として知られた。 岡山県出身。父は、詩人で昭和女子大学創設者の人見東明(圓吉)。 旧制第四高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部を卒業。旧制第八高等学校の漢文講師などを経て、1946年に父が経営する学園(後の学校法人昭和女子大学)に入り、1951年に関連法人である学校法人昭和高等学校に付設された昭和幼稚園の主事、次いで同法人が設けた昭和小学校の主事となり、1960年には第2代幼稚部園長となった。
笹間 良彦(ささま よしひこ、本名: 笹間 恒雄(ささま つ… 笹間 良彦(ささま よしひこ、本名: 笹間 恒雄(ささま つねお)、1916年10月6日 - 2005年11月5日)は、日本の歴史家、武具研究家。文学博士。 専門の武具関係を中心に、歴史・民俗に関する著書多数。 1916年、東京府東京市下谷区(現在の台東区)にて生まれる。1935年、埼玉県立浦和中学校卒業。 30歳前後から、武具、風俗史、民俗学研究の為、長期間日本全国を行脚し資料を収集する。以来半世紀以上にわたって歴史学研究を続ける事となる。甲冑研究の第一人者で、日本甲冑武具歴史研究会会長に就任し、武具の歴史研究で成果を上げた。その後も江戸時代の制度や司法に関する著作を著し、『江戸幕府役職集成』では海音寺潮五郎から推薦の辞を寄せられる。