大浦 猛(おおうら たけし、1919年8月9日 - 2001… 大浦 猛(おおうら たけし、1919年8月9日 - 2001年12月15日)は、日本の教育哲学者。元山梨県立女子短期大学学長。 富山県滑川市出身。東京文理科大学教育学科卒。1945年青森青年師範学校講師、46年助教授、47年教授、1949年東京高等師範学校助教授、1952年東京教育大学助教授、66年教授、1962年「ジョン・デューイにおける初期教育思想の形成 実験主義教育思想の成立過程」で東京教育大学文学博士。1974年埼玉大学教育学部教授、84年定年退官、創価大学教授ののち、山梨県立女子短期大学長を歴任。専門は、教育哲学、デューイ研究。 東京教育大学在職中、筑波移転に反対し、その意思を表明する意味で埼玉大学に移籍した。
三上 誠(みかみ まこと、1919年8月8日 - 1972年… 三上 誠(みかみ まこと、1919年8月8日 - 1972年1月16日)は、昭和戦後期に活躍した日本画家である。 1919年大阪市に生まれ、福井市で育つ。旧姓・嶋田。1940年東京美術学校 (旧制)油画科受験に失敗し、京都市立絵画専門学校(絵専、現・京都市立芸術大学)日本画科予科に入学。1944年絵専本科を卒業し、同校副手となる。 1948年の日本画家・洋画家・陶芸家から成るパンリアルを経て、翌1949年日本画家達によってパンリアル美術協会を結成。"パンリアル"という名称を発案し、パンリアル美術協会結成時には宣言文の草稿を執筆した。1951年同協会会長に就任し、中心的役割を果たす。 1952年肺結核のため京都病院に入院。
森 美秀(もり よしひで、1919年8月8日 - 1988年… 森 美秀(もり よしひで、1919年8月8日 - 1988年5月15日)は、日本の政治家、企業家。位階は従三位勲一等、勲章は瑞宝章。 自由民主党の衆議院議員。千葉県勝浦市出身。長男は自由民主党衆議院議員の森英介。 父は森コンツェルンの総帥で衆議院議員の森矗昶。森清、森曉、三木武夫の妻睦子の弟にあたる。 1940年に玉川塾(専門部)を卒業し、日本冶金工業に入社する。戦後は、東亜精機代表取締役、苫小牧ファーム社長などを歴任。1949年9月3日、東京青年商工会議所(現、東京青年会議所)の発足に参画。発足当初のチャーター・メンバー48名のひとりとなる。 兄・清の急死により、後継者として1969年の第32回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
木下 浩次(きのした ひろじ、1919年8月7日 - 200… 木下 浩次(きのした ひろじ、1919年8月7日 - 2006年4月12日)は、日本の経営者。大同特殊鋼社長、会長を務めた。熊本県出身。 1943年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本製鐵に入社。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 その後、日本製鐵に復帰、1975年5月に取締役に就任し、1979年6月に常務、1982年6月に専務を経て、1982年9月に大同特殊鋼副社長に就任し、1986年5月には社長に昇格。1988年5月に会長に就任し、1992年6月に相談役に就任。
小笠原 忠統(おがさわら ただむね、1919年(大正8年)8… 小笠原 忠統(おがさわら ただむね、1919年(大正8年)8月6日 - 1996年(平成8年)5月10日)は、小倉小笠原家第32代当主。伯爵。長野県松本市立図書館長、相模女子大学教授を務めた。 兄に小笠原忠春(第31代当主となるがのちに分家)、小笠原忠幸(小笠原長丕養子で分家の小笠原子爵家14代)、姉に明子(多久龍三郎夫人)、妹に鞠子(伊達興宗夫人)。子に小笠原長雅。 小笠原長幹の三男として生まれる。東京帝国大学文学部卒業。昭和19年(1944年)、長兄の忠春が結婚問題を機に当主を辞することとなり隠居、分家した。次兄の忠幸はすでに分家を継いでいたため、忠統が小笠原伯爵家の家督を継いだ。また、総領家が代々藩主であった小倉藩の茶道小笠原古流の家元にも就任した。
足立 慶次郎(あだち けいじろう、1919年8月5日 - 2… 足立 慶次郎(あだち けいじろう、1919年8月5日 - 2009年7月15日)は、日本の経営者。田辺製薬(現在の田辺ファーマ)社長を務めた。 大阪府出身。1942年に大阪商科大学を卒業し、同年に田辺製薬に入社。1963年6月に取締役に就任し、1978年5月に常務、1979年3月に専務を経て、1985年7月に副社長に就任し、1986年9月には社長に昇格。1989年6月に会長に就任し、1995年6月に相談役に就任。 1992年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2009年7月15日に脳内出血のために死去。89歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
城島 國弘(じょうじま くにひろ、1919年8月4日 - … 城島 國弘(じょうじま くにひろ、1919年8月4日 - 2001年3月9日)は、日本の経済学者。名古屋大学名誉教授。元四日市大学学長。 満州国大連市生まれ。大連第二中学校を経て、1942年第二高等学校文科乙類卒業。1945年に東京帝国大学経済学部経済学科卒業後、大蔵省入省。1950年名古屋大学経済学部助教授。1964年名古屋大学経済学部教授。1968年名古屋大学経済学部長。1975年名古屋大学経済学博士。退官後、中部工業大学教授、四日市大学学長。1995年勲三等旭日中綬章受章。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、本名:伊藤 嘉朗(いとう … 伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、本名:伊藤 嘉朗(いとう よしろう)、1919年8月3日 - 1980年3月11日)は、日本の俳優。「ゆうのすけ」は雄之助・雄之弼・侑之助でクレジットされている映画もある。 兄は二代目澤村宗之助、弟は伊藤寿章(澤村敞之助、澤村昌之助)、妻は新東宝の女優だった桐丘峯子。子に俳優の伊藤高と歌手の伊藤照子。付き人に大地康雄がいる。 1919年8月、東京市浅草区東仲町(現在の東京都台東区雷門)で帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代澤村宗之助(本名伊藤三次郎)の次男として生まれる。母は帝国劇場専属女優第1期生の鈴木徳子。兄、弟も役者の芸能一家に育つ。父方の祖父は尾張藩に仕えた300石取りの武士の家柄に生まれた士族だが、地元の子供芝居に投じて台頭、四代目助高屋高助に認められて上京し、その養子となって七代目澤村訥子を襲名していた。
大給 湛子(おぎゅう きよこ、1919年(大正8年)8月2日… 大給 湛子(おぎゅう きよこ、1919年(大正8年)8月2日 - 2019年(令和元年)8月1日)は、日本の元皇族。朝香宮鳩彦王第2王女子。旧名は湛子女王。兄に孚彦王・正彦王、姉に紀久子女王がいる。大給義龍伯爵夫人。明治天皇の孫世代では最後の存命者であった。
長洲 一二(ながす かずじ、1919年7月28日 - 199… 長洲 一二(ながす かずじ、1919年7月28日 - 1999年5月4日)は、日本の政治家、経済学者。専門はマルクス経済学。 神奈川県知事(民選第8・9・10・11・12代)、地方分権推進委員会委員、神奈川県国際交流協会会長、かながわ学術研究交流財団理事長、湘南国際村協会社長などを歴任した。位階勲章は従三位勲一等瑞宝章。 東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)出身。安田商業学校(現:安田学園中学校・高等学校)を卒業後、1937年に日本銀行入行、1939年に退職し、1941年に横浜高等商業学校(現:横浜国立大学)を卒業する。1944年には東京商科大学(現:一橋大学)を卒業。マルクス主義やアダム・スミスが専門の高島善哉ゼミナール出身。
柳井 等(やない ひとし、1919年(大正8年)7月28日 … 柳井 等(やない ひとし、1919年(大正8年)7月28日 - 1999年(平成11年)2月6日)は、日本の実業家。ファーストリテイリングの前身・小郡商事の創業者。小郡商事会長。通産大臣を務めた政治家田中龍夫の後援会長。ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長柳井正の父。 山口県吉敷郡陶村(現山口市陶)出身の父・柳井周吉は牛馬商を営んでいた。等は11人兄弟姉妹の8男である。生家は貧しかった。高等小学校を卒業すると進学をあきらめ、京都で飲食業をやっていた兄を頼って、洋服屋の丁稚奉公をはじめた。 徴兵されて中国で8年ほど過ごしたあと、小郡に帰った。暫くは兄(長男)の家で過ごす。4番目の兄・政雄から小郡商事の繊維・洋服部門を任された。
渥美 健夫(あつみ たけお 1919年(大正8年)7月24日… 渥美 健夫(あつみ たけお 1919年(大正8年)7月24日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本の実業家、官僚。鹿島建設(鹿島)名誉会長。 大阪商船取締役・渥美育郎の長男として東京に生まれる。 東京府立一中、旧制浦和高校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、商工省入省。鹿島守之助の長女・伊都子と結婚する。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年(昭和18年)9月、海軍経理学校に入学。1944年(昭和19年)3月に卒業し、海軍主計中尉に任官。呉経理部に配属。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1945年10月に商工省に復職。
藤田 和夫(ふじた かずお、1919年7月24日 - 200… 藤田 和夫(ふじた かずお、1919年7月24日 - 2008年12月1日)は、日本の地球科学者。専門は構造地質学。地形学。 大阪市生まれ。幼少期を兵庫県芦屋市で過ごす。京都帝国大学理学部地質・鉱物学科卒業。1961年「西南日本中央帶(瀬戸内)の中新世以降における構造発達」で京都大学理学博士。京都帝大助手をへて、1950年大阪市立大学理学部助教授、60年教授、83年定年退官、名誉教授。帝塚山大学教養部教授。 主として近畿地方の活断層と地形の成因論を研究した。近畿地方に活断層が多く見られる理由を、琵琶湖の東と西とで地質構造が大きく変わる点に求め、当該地域を特別な地質構造帯として「近畿トライアングル」と名付けた。
伊藤 喜久蔵(いとう きくぞう、1919年7月24日 - 2… 伊藤 喜久蔵(いとう きくぞう、1919年7月24日 - 2008年2月27日)は日本のジャーナリスト、中国研究者、中日新聞東京支社記者・論説委員。旧姓は中山。 京都府生まれ。戦前の上海にあった東亜同文書院大学を卒業。 その後中日新聞社に入社し、中日新聞記者として文化大革命当時の中国に駐在し、中国の内情を報道した。1967年2月、1966年度ボーン国際記者賞(現・ボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
上野 衣子(うえの きぬこ、旧姓:中村、1919年7月23日… 上野 衣子(うえの きぬこ、旧姓:中村、1919年7月23日 - 2013年12月5日)は、日本のフィギュアスケート選手、フィギュアスケートコーチ兼国際スケート連盟公式審判員、日本スケート連盟審判部長。大阪市出身。神戸女学院大学卒。長女は同じくフィギュアスケート選手でのちに審判員となった平松純子(旧姓:上野)である。 稲田悦子、山下艶子と同じく永井康三に師事した。1934-1935年シーズンに行なわれた第6回全日本ジュニア選手権で優勝。1936-1937年シーズンの第8回全日本選手権と1937-1938年シーズンの第9回全日本選手権でともに稲田悦子、月岡芳子に次ぐ3位、1938-1939年シーズンの第10回全日本選手権で2位となった。
志村 士郎(しむら しろう、1919年7月23日 - 200… 志村 士郎(しむら しろう、1919年7月23日 - 2001年5月29日)は、日本の国文学者。 東京生まれ。1947年東京文理科大学国文科卒。昭和女子大学短期大学部教授、秋草学園短期大学教授。鎌倉時代前期の文芸が専門。 2001年5月29日、心不全のため死去。
3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日… 3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日 - 1987年11月11日)は、日本の政治家、実業家。旧名は九一。北海道札幌市出身。旧制小樽中学卒業、立命館大学経済学部中退。 3代目地崎宇三郎は、かつて北海道を代表するゼネコンであった地崎工業の前身、株式会社地崎組の3代目社主(オーナー社長)。1943年に父の2代目宇三郎から地崎組社長を継承し、1973年に地崎工業と改称、1981年に長男の地崎昭宇に社長の座を譲った。 父の公職追放直後の1947年の第23回衆議院議員総選挙に立候補するも選挙戦途中で辞退。1963年、第30回衆議院議員総選挙に旧北海道1区より立候補し、初当選。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫・鯨岡兵輔・奥野誠亮など。
佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 20… 佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 2000年4月25日)は、日本の政治家。明治大学専門部卒業。別府市名誉市民。ジェラルド・カーティスの著書『代議士の誕生』のモデルとして知られた。 大分県別府市西部の温泉旅館主佐藤倉八の長男として出生。 地元の初等・旧制中学校を経て、明治大学専門部政治経済科に入学。1939年の卒業後、まもなく第二次世界大戦が勃発。陸軍大尉として従軍する。終戦後別府に戻り自動車セールスマンとして働きながら、「日本の伝統の良さを守りたい」という思いから政治に関心を持ち始めた。 佐藤家には政治家と直接のコネはなく、政界進出には大きな壁があった。そこで佐藤は実の妹を大分県議会議長の荒金啓治の子息に嫁がせた。
今井 勇(いまい いさむ、1919年7月21日 - 1998… 今井 勇(いまい いさむ、1919年7月21日 - 1998年11月6日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。厚生大臣(第66代)、衆議院議員(7期、自由民主党)。 長野県長野市出身。第一高等学校を経て、1944年東京帝国大学第一工学部土木工学科を卒業。戦後の1949年建設省に入省。秋田工事事務所長、東北地方建設局道路部長、計画局地域計画課長、計画局技術調査官などを経て、1970年四国地方建設局長。退官後に1972年の第33回衆議院議員総選挙で旧愛媛3区から無所属で立候補し初当選。その後、自由民主党に入党、宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)所属。農水・厚生政務次官、党社会部会長、衆院農水委員長などを歴任した後、1985年第2次中曽根内閣の厚生大臣として初入閣した。
津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 … 津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 - 1984年(昭和59年)12月26日)は、日本のプロ野球記者、野球解説者。広島県広島市出身。 出身校は、広島県立広島第一中学校(広島一中。のちの広島県立広島国泰寺高等学校)→神戸高等商業学校(神戸高商。のちの神戸大学)。中学時代はは堅守の内野手として鳴らしたものの、親の反対により野球を断念。戦後の復員以降は、知人と乾物店を経営しながら、母校・広島一中などで野球のコーチを務めたり、実業団野球チームの全広島に参加していた。 1948年(昭和23年)に中国新聞社へ入社し、運動部記者となりプロ野球記者としての活動を開始。1949年(昭和24年)秋の地元球団・広島カープ(のちの広島東洋カープ)創設以降はカープの番記者として活動。
津田 鉄夫(つだ てつお、1919年7月19日 - 1990… 津田 鉄夫(つだ てつお、1919年7月19日 - 1990年11月24日)は、日本の経営者。中山製鋼所社長、会長を務めた。岡山県出身。 1942年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に八幡製鉄に入社。1973年5月に新日本製鐵取締役に就任し、1975年6月に中山製鋼所副社長を経て、1976年6月には社長に就任。1983年3月には会長に就任。 1990年11月24日急性肺炎のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山下 俊彦(やました としひこ、1919年7月18日 ‐ 2… 山下 俊彦(やました としひこ、1919年7月18日 ‐ 2012年2月28日)は、日本の実業家。松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)の3代目社長。大阪府出身。大阪市立泉尾工業学校卒業。実業学校卒の叩き上げで、創業者松下幸之助による異例の大抜擢を受けて取締役26名中序列25番目から社長に就任した[4][5]。この抜擢人事は、体操選手の山下治広が披露した跳馬の技にちなんで「山下跳び」と呼ばれた[6]。
鈴木正和(すずき まさかず、1919年7月16日-1994年… 鈴木正和(すずき まさかず、1919年7月16日-1994年9月27日)は、日本の法学者。 愛知県出身で、中央大学法学部を卒業。全国銀行協会連合会事務局、法政大学講師。金融実務、特に貸金回収を専門とした。
藤森 鉄雄(ふじもり てつお、藤森 鐵雄、1919年7月16… 藤森 鉄雄(ふじもり てつお、藤森 鐵雄、1919年7月16日 - 2011年11月7日)は、日本の銀行家。第一勧業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)会長、東京商工会議所副会頭、東京メトロポリタンテレビジョン初代代表取締役社長を務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東北帝国大学(現・東北大学)法学部卒業。戦時中は学徒出陣を経験しており、1945年3月の東京大空襲の際は、当時の陸軍糧秣本廠所属の少尉として部下たちを防空壕に避難させていたが、結果防空壕が満員となり入ることができず、隅田川に飛び込んで一晩をやり過ごした。翌朝になって防空壕に戻ってみると、中の部下たちは全員窒息死しており、結果として九死に一生を得たという。
黒住 忠行(くろずみ ただゆき、1919年7月16日 - 1… 黒住 忠行(くろずみ ただゆき、1919年7月16日 - 1988年9月29日)は、日本の官僚、政治家。運輸省自動車局長、参議院議員(1期)、通商産業政務次官、日本自動車ターミナル社長等を歴任した。正四位勲二等瑞宝章。 岡山県岡山市矢坂本町出身。1942年に東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し鉄道省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。 東京陸運局長、運輸省自動車局長を経て1971年の第9回参議院議員通常選挙に全国区から当選。1期務めた。
鈴木 泰治(すずき たいじ、1919年(大正8年)7月14日… 鈴木 泰治(すずき たいじ、1919年(大正8年)7月14日 - 2015年(平成27年)4月15日)は、昭和から平成時代の政治家。埼玉県八潮市長。位階は正五位。 埼玉県出身。1937年(昭和12年)、埼玉県立粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を卒業する。1947年(昭和22年)南埼玉郡八条村収入役、1956年(昭和31年)合併により八潮村収入役となり、1964年(昭和39年)町制、1972年(昭和47年)市制施行後も連続7期務める。同年助役を経て、1973年(昭和48年)八潮市長に当選し、4期務めた。2015年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
小嶋 太門(こじま たもん、1919年7月13日 - 200… 小嶋 太門(こじま たもん、1919年7月13日 - 2008年2月7日)は、民間史家。後藤又兵衛研究のパイオニア。 出生名は東野一雄。大阪府中河内郡岩田町(現東大阪市)で生まれ育つ。1938年、天王高等商業学校(後の大阪市立天王寺商業高等学校)を経て1941年、関西大学法学部を繰り上げ卒業。学徒動員により1942年、第四師団輜重兵第4聯隊に応召。7月に中支派遣軍輜重兵34聯隊に配属し、以後中南支に転戦。いわゆる一号作戦に従軍する。 1946年に帰還し、大阪中央電気局(現、NTT)の通信事務員となる。1949年に小嶋十三子と養子縁組し、小嶋姓に改名。「太門」は敬愛する曽祖父からヒントを得た雅号ながら、終生この名前を自称した。
檪木 茂男(いちき しげお、1919年7月13日 - 201… 檪木 茂男(いちき しげお、1919年7月13日 - 2010年11月25日)は、日本の経営者。バンドー化学社長を務めた。山口県出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1942年1月に日本興業銀行に入行。 1971年1月にトリオ商事副社長、1976年6月にバンドー化学副社長を経て、1977年6月には社長を就任。1988年6月に会長、1992年6月に取締役相談役を経て、1994年6月には相談役に就任。 1993年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2010年11月25日肺炎のために死去。91歳没。
松山 納(まつやま おさむ、1919年7月13日 - 200… 松山 納(まつやま おさむ、1919年7月13日 - 2002年10月2日)は、日本のタイ語学研究者。東京外国語大学名誉教授。 1919年、広島県広島市生まれ。東京帝国大学を卒業。 太平洋戦争後の1950年、東京外国語大学インドシナ語学科助教授に就任。後に教授昇進。1983年に定年退官し、名誉教授となった。門下に岩城雄次郎がいる。 2002年10月2日、急性肺炎のため死去。
小松 雅雄(こまつ まさお、1919年7月11日 - 201… 小松 雅雄(こまつ まさお、1919年7月11日 - 2010年10月16日)は、日本の経済学者。専門は、経済政策。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1945年早稲田大学政治経済学部卒業。1949年同大学院修了。同大学助手、政治経済学部助教授を経て、1955年教授、1978年学部長。麗澤大学初代国際経済学部(現・経済学部)長、同大学名誉教授。民主社会主義研究会議第4代議長(1983~1994)、日本経済政策学会名誉会員、学校法人廣池学園顧問、サンリツ服部美術館理事、諏訪郷友会評議員・長善館館長などを務めた。晩年は、郷里近くの長野県茅野市で過ごした。1997年勲三等旭日中綬章受勲。
中川 鶴太郎(なかがわ つるたろう、1919年7月11日-1… 中川 鶴太郎(なかがわ つるたろう、1919年7月11日-1992年10月9日)は、日本の化学者。 岐阜生まれ。1942年東京帝国大学理学部化学科卒業。赤松秀雄に師事。1952年理学博士。東京大学理学部化学科助教授、北海道大学理学部助教授、教授、1983年定年退官、名誉教授、札幌学院大学教授。富士通国際社会情報科学研究所主任研究員。
改井 秀雄(かい ひでお、1919年(大正8年)7月10日 … 改井 秀雄(かい ひでお、1919年(大正8年)7月10日 - 1983年(昭和58年)3月31日)は、昭和期の地方公務員、労働運動家、政治家。1971年から1983年まで富山県富山市長(4期)を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 富山県出身。1943年(昭和18年)拓殖大学商学部卒業後、富山県庁に入庁し、同県職組委員長、全日本自治団体労働組合富山県本部委員長などを歴任。富山県議会議員(日本社会党公認、1963年から2期)をへて、1969年(昭和44年)の県知事選に挑戦するも落選(当選は自民党公認で新人の中田幸吉)。 その後、1971年(昭和46年)2月に行われた富山市長選挙にて、社共統一候補として立候補し初当選。
緒方 太郎(おがた たろう、1919年 <大正8年> 7月1… 緒方 太郎(おがた たろう、1919年 <大正8年> 7月10日 - 2003年 <平成15年> 12月8日)は、日本の銀行家。千葉銀行頭取を務めた。位階は正四位。 東京都出身。父は陸軍大将の緒方勝一。1943年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 戦後、日銀に復帰し、1974年4月から1975年4月までに理事を務めた。 1975年5月に千葉銀行副頭取に就任し、1976年4月には頭取に昇格。1987年6月に会長に就任し、1991年6月に取締役相談役を経て、1997年6月には相談役に就任。
橋本 公亘(はしもと きみのぶ、1919年〈大正8年〉7月9… 橋本 公亘(はしもと きみのぶ、1919年〈大正8年〉7月9日 - 1998年〈平成10年〉2月6日)は、日本の法学者。専門は憲法、行政法。 1990年まで中央大学法学部教授(法学部長等を歴任)。中央大出身者としての初の日本学士院会員(1992年12月14日から)。1962年から1964年まで第一次臨時行政調査会の臨時委員を務めた。正五位勲二等瑞宝章。 橋本は、高等文官試験司法科・行政科をそれぞれ4番の成績で合格した秀才である。大学卒業後内務省に入ったが、第二次大戦中、短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、1942年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。
辻 英雄(つじ ひでお、1919年7月8日 - 2005年1… 辻 英雄(つじ ひでお、1919年7月8日 - 2005年11月29日)は、日本の官僚、政治家。自由民主党衆議院議員。
安東 次男(あんどう つぐお、1919年(大正8年)7月7日… 安東 次男(あんどう つぐお、1919年(大正8年)7月7日 - 2002年(平成14年)4月9日)は、日本の俳人、詩人、評論家、翻訳家。俳号は流火艸堂。 1919年(大正8年)岡山県苫田郡東苫田村(現在の津山市)生まれ。小学5年時に一家で神戸に移住。第二神戸中学校卒業後、1937年、旧制第三高等学校文科丙類(フランス語)に入学。1941年(昭和16年)頃より「寒雷」に投句、加藤楸邨に俳句を学ぶ。1942年(昭和17年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。
五月 一朗(さつき いちろう、1919年7月7日 - 201… 五月 一朗(さつき いちろう、1919年7月7日 - 2014年9月4日)は浪曲師。日本浪曲協会元会長。本名は岩野 久米一(いわの くめいち)。最初の妻で曲師は、初代京山小圓嬢の娘・五月雅子。2007年、長年相三味線を務めた加藤(五月)歌恵(林伯猿の娘)と再婚した。 香川県大川郡志度町(現・さぬき市)出身。香川県立志度中学校(後の香川県立志度高等学校)卒業。その後に大阪で行われた浪曲大会で初代京山小円嬢に激励され1936年に初代広沢駒蔵に弟子入り。6ヵ月後、大阪松島の広沢館で初舞台。芸名を広沢 駒月とする。1940年5月1日、タイヘイレコードの吹き込みのときに、会社では広沢駒月では古いからと改名することとなり、会社の発案で5月1日に吹き込むのだからと五月一朗と改名した。
瀧井 利彌(たきい としや、1919年7月7日 - 1996… 瀧井 利彌(たきい としや、1919年7月7日 - 1996年6月11日)は、日本の経営者。タキイ種苗社長を務めた。京都府京都市出身。 1942年に立命館大学経済学部を卒業。1947年にタキイ種苗取締役に就任し、1960年に副社長を経て、1970年には社長に昇格。1991年には会長に就任。日本種苗協会会長も務めた。 1983年に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1996年6月11日肺癌のために死去。76歳没。
霜山 徳爾(しもやま とくじ、1919年7月5日 - 200… 霜山 徳爾(しもやま とくじ、1919年7月5日 - 2009年10月7日)は、日本の臨床心理学者。上智大学文学部名誉教授。 東京生まれ。成蹊小学校、旧制・成蹊高等学校(文科乙類)卒業。東京大学文学部心理学科卒。ボン大学留学 (Ph.D.を取得)。 ヴィクトール・フランクル『夜と霧』(みすず書房、1956年)の訳者として著名。自身もフランクルの友人であった。 父は元大審院長で最高裁判事も歴任した霜山精一。妻・操子は元経団連会長石坂泰三の二女。 老衰のため2009年10月7日午前9時42分、東京都内で死去。
百々 和(どど かず、1919年7月5日 - 2011年2月… 百々 和(どど かず、1919年7月5日 - 2011年2月18日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。 兵庫県武庫郡須磨町(現神戸市須磨区)出身。1943年満州建国大学卒。入営し、敗戦後残留日本軍として中国共産党軍と戦い(中国山西省日本軍残留問題)、1949年中華人民共和国に抑留され、1956年帰国、神戸大学経済学部大学院に入り、1962年博士課程満期退学。1960年龍谷大学助手、1964年神戸大学教養部講師、1964年助教授、1970年神戸大学より経済学博士の学位を取得、1972年教授となり、1983年定年退官、名誉教授となり、神戸学院大学教授、広島経済大学教授を務め、1996年退職。中国での体験をめぐり「蟻の兵隊」にも出演している。
箱根 宏(はこね ひろし、1919年(大正8年)7月5日 -… 箱根 宏(はこね ひろし、1919年(大正8年)7月5日 - 1987年(昭和62年)10月6日)は、日本の政治家、実業家。第11・14・15代土浦市長。 茨城県出身。1941年(昭和16年)旧制水戸高校を卒業。1944年(昭和19年)東京帝国大学経済学部卒業し、軍需省に入り総動員局秘書課勤務となる。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。同年9月、海軍経理学校に入学し1945年(昭和20年)に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して解員(復員)した。 戦後の1950年(昭和25年)土浦土木建築工業代表取締役となり、1966年(昭和41年)には社長となる。この間、土浦一高、三高の講師も務めた。 1971年(昭和46年)土浦市長に初当選。
林 貞子(はやし ていこ、1919年〈大正8年〉7月4日 -… 林 貞子(はやし ていこ、1919年〈大正8年〉7月4日 - 2006年〈平成18年〉8月13日)は、日本の幼児教育の専門家。松濤幼稚園の創設者で、東海大学名誉教授も務めた。人権擁護委員。勲等は勲四等瑞宝章。 父・牧野伸通は伯爵・牧野伸顕の長男で式部官、母・純子は男爵・鍋島直明の長女で上皇后美智子の元東宮女官長。伸通・純子夫妻の長女として生まれ、慶應義塾大学文学部哲学科を卒業後、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程を修了(専攻は社会学)。夫は学習院大学名誉教授の林友春(伯爵・林博太郎の三男)。 1947年、東京都の中でも屈指の高級住宅街、渋谷区松濤に松濤幼稚園を創設した。当幼稚園は政治家から財界人の重鎮、また皇族や著名人の子らが多く通うことで知られており、若葉会幼稚園、枝光会附属幼稚園などと共に「御三家幼稚園」と呼ばれるとともに日本で最も学費が高額な幼稚園として知られていた。
木野 晴夫(きの はるお、1919年(大正8年)7月4日 -… 木野 晴夫(きの はるお、1919年(大正8年)7月4日 - 1997年(平成9年)2月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。自由民主党所属の衆議院議員(当選6回)。 大阪府出身。大阪高等学校を経て、1942年(昭和17年)7月、高等試験行政科に合格。同年9月、大蔵省事務取扱嘱託となり理財局に配属。1943年(昭和18年)7月、高等試験司法科に合格し、同年8月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、大蔵属に任官し外資局に配属。同年9月、大蔵省を退職し短期現役士官として海軍に志願し、海軍法務見習尉官となる。1944年(昭和19年)3月、海軍法務中尉に進み、舞鶴鎮守府軍法会議法務官、呉鎮守府軍法会議法務官などを歴任し、1945年(昭和20年)3月、海軍法務大尉に昇進し、同年12月、予備役となる。
舟橋 和郎(ふなはし かずお、1919年7月2日 - 200… 舟橋 和郎(ふなはし かずお、1919年7月2日 - 2006年1月15日)は、日本の脚本家。兄は小説家の舟橋聖一。 東京府出身。東京帝国大学教授の四男として生まれる。母方の祖父に古河財閥幹部の近藤陸三郎がおり、裕福な家庭で育つ。1939年、東京高等学校在学中、治安維持法違反で検挙される。1943年、明治大学専門部文科(文芸科)を卒業。菊池寛の秘書を経て、1944年、大映企画部に入社、同年応召。翌年復員し、1946年、『彼と彼女は行く』を発表して脚本家に転じ、のちフリーとなる。1950年に映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の脚本でシナリオ賞受賞。その他代表作に『雁の寺』、『兵隊やくざ』シリーズ、『与太郎戦記』シリーズなど。
岩崎 松之助(いわさき まつのすけ、1919年 <大正8年>… 岩崎 松之助(いわさき まつのすけ、1919年 <大正8年> 7月1日 - 2006年 <平成18年> 6月17日)は、日本の工学者。工学博士。専門は航空力学。九州大学名誉教授、熊本工業大学(崇城大学)名誉教授。位階は正四位。プロペラの研究や、ショックチューブとショックネンタルを用いた流体力学研究が特に知られており、日本の航空力学の基礎を築いたと評価されている。 朝鮮総督府の養蚕試験場で生まれ、間もなく父・岩崎行高が鹿児島高等農林学校教授に就任したため鹿児島県鹿児島市で育つ。なお、祖父の岩崎行親は鹿児島県における中高等教育草創期の中心的人物。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)に進学し、模型飛行機づくりに熱中する。
日高 広為(日高 廣爲、ひだか ひろため、1919年(大正8… 日高 広為(日高 廣爲、ひだか ひろため、1919年(大正8年)7月1日 - 1991年(平成3年)1月1日)は、昭和期の農業指導者、実業家、政治家。参議院議員(1期)。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)出身。鹿児島高等商業学校(現鹿児島国際大学)を経て、1942年(昭和17年)早稲田大学商業部を卒業した。 1942年(昭和17年)満州電気化学に入社。召集され陸軍に入隊し、大刀洗陸軍飛行学校教官、少年飛行兵区隊長などを務めて終戦を迎えた。 戦後、1946年(昭和21年)霧島村農業会経済部長に就任。青年運動に取り組んだ。姶良郡たばこ耕作連合会長、鹿児島県議会議員(4期)、同副議長(3期)、自由民主党鹿児島県連政調会長(5期)などを務めた。
富家宏泰(とみいえ ひろやす、1919年〈大正8年〉7月1日… 富家宏泰(とみいえ ひろやす、1919年〈大正8年〉7月1日 - 2007年〈平成19年〉12月21日)は、戦後日本を代表する建築家。香川県生まれ。 1919年7月、香川県に生まれて間もなく、一家は朝鮮半島へと移住した。しかし、富家の幼少時、外地でまん延したチフスが原因で一家は子供を除いて全滅してしまった。引き揚げた富家は京都下鴨にある親族の家庭に引き取られて育った。その後、京都府立第一中学校を1937年(昭和12年)に卒業、第三高等学校(理科甲類、1942年卒業)を経て京都帝国大学建築学部(現・京都大学工学部建築学科)へ進学した。入学後ほどなく徴兵され北満州への従軍を余儀なくされたものの、終戦後は復学して建築学科を卒業。
米田 登(よねだ のぼる、1919年6月29日 - 1993… 米田 登(よねだ のぼる、1919年6月29日 - 1993年3月20日)は、昭和期・平成期の歌人。 歌人・僧侶の米田雄郎の次男として、滋賀県蒲生郡(現・東近江市)に生まれる。八日市中学校在学中の15歳で前田夕暮主宰の白日社に入社し、歌誌「詩歌」にて自由律短歌を発表する。前田夕暮・矢代東村に師事。 1941年に東京帝国大学法学部を卒業。翌年陸軍に入隊し、定型短歌へと移行。戦時中は中国を転戦する。終戦後は東大大学院を経て日瑞貿易に入社。1951年に夕暮が没した後は、義弟(妻の実弟)である香川進が主宰する歌誌「地中海」に参加。1959年、父雄郎の死により歌誌「好日」の発行人となる。同誌からは香川ヒサを輩出した。
逸見 吉之助(へんみ きちのすけ、1919年6月28日 - … 逸見 吉之助(へんみ きちのすけ、1919年6月28日 - 1997年11月11日)は、日本の地球科学者。専門は鉱物学。岡山大学名誉教授。理学博士。 岡山市生まれ。岡山一中、第六高等学校を経て、1941年東京大学理学部地質学科を卒業。満州国大陸科学院高等官試補、岡山県立岡山操山高等学校教諭を経て、1951年、岡山大学理学部講師に着任。1952年助教授。教授、理学部長を経て1984年に退官し以後、名誉教授。 戦後、岡山県倉敷市の三吉鉱山の金属鉱床から日本で初めて砒銅ウラン石を発見した。さらに、広島県庄原市東城町久代および岡山県高梁市備中町布賀の高温型スカルンを発見し、高温型スカルンの成因の解明のみならず、多数の世界新鉱物の発見した。
萬代 峰子(よろずよ みねこ、1919年〈大正8年〉6月28… 萬代 峰子(よろずよ みねこ、1919年〈大正8年〉6月28日。 - 没年不明)は、日本の女優。本名は、石川貴美。(石川貴美子とも。福岡県福岡市出身。芸名は萬代峯子、万代峰子、万代峯子とも表記される。愛称は「イシカワさん」。趣味は読書で、体重は11貫200匁。 福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)を卒業後、宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)に入団。宝塚歌劇団25期生。宝塚一番の泣き虫とされた宝塚歌劇団を退団後は東宝劇団や新春座に所属。主に映画、舞台、テレビドラマなどで脇役として活躍する。第9回芸術祭賞奨励賞受賞。芸名は古今集から父がつけた。 一般社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている。