都留 重人(つる しげと、1912年〈明治45年〉3月6日 … 都留 重人(つる しげと、1912年〈明治45年〉3月6日 - 2006年〈平成18年〉2月5日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。公害の政治経済学を提唱し、雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)創刊。 初代一橋大学経済研究所長、第6代一橋大学学長、ハーバード大学客員教授、イェール大学客員教授、国際経済学連合会長(日本人初)を歴任、日本学士院会員に選出された。日本人として2人目のハーバード大学名誉学位保持者。国民経済計算における三面等価の原則の考案・命名などをおこなった。 大分県生まれ、名古屋市育ち。小学校第5学年修了、旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)第4学年修了を経て第八高等学校(現・名古屋大学)に入学したが、日本の中国侵入に反対して欠席届を出さずにストライキを起こしたため(反帝同盟事件)、宮崎辰雄(元神戸市長)、田中文雄(元王子製紙社長)、河本敏夫(元通産大臣)らとともに除籍される。
古関 金子(こせき きんこ、1912年(明治45年)3月6日… 古関 金子(こせき きんこ、1912年(明治45年)3月6日 - 1980年(昭和55年)7月23日)は、日本の声楽家、詩人。旧姓、内山。夫は、作曲家の古関裕而。 1912年(明治45年)、内山安蔵・みつの六女として、愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)に生まれる。家族は、長兄と女性10人(うち、長女・次女・三女・八女は早世)。父・安蔵は、豊橋市に駐屯していた陸軍第十五師団に蹄鉄・馬具・蹄油などの物資を納入する「内山安蔵商店」を営んでいたが、金子が12歳の時(1924年(大正13年)10月3日)に死去。その後は母親が家業を引き継ぎ、子育てをした。 金子は、幼い頃からお転婆で、音楽と文学が好きでオペラ歌手を目指していたという。
遠見 豊子(とおみ とよこ、1912年3月6日 - 1979… 遠見 豊子(とおみ とよこ、1912年3月6日 - 1979年8月3日)は日本のピアニスト、音楽教育者。京都府出身。1929年に東京音楽学校予科に入学。1933年3月に同校本科器楽部ピアノ専攻を卒業。同年より同校の聴講科と研究科に進学し、1935年3月に聴講科ピアノ専攻を、1936年3月に研究科作曲部を修了。レオ・シロタ、クラウス・プリングスハイム、レオニード・クロイツァーに師事した。1939年10月(2日または20日)にデビュー。上野楽星会員。東京女子高等師範学校、武蔵野音楽学校、上野児童音楽学園講師。お茶の水女子大学教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4… 森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4日 - 2011年〈平成23年〉8月6日)は、歌人。夫は作家の豊田三郎と、長女は森村桂。 群馬県伊勢崎市の旧家の生まれ。東京府立第五高等女学校卒。女子高等学園で西角井正慶に和歌の教えを受ける。同人誌『海石榴』を発行。1946年『鶏苑』に参加。1953年加藤克巳を中心に『近代』を創刊。1954年に『古今』に入会。1960年北沢郁子らと同人誌『藍』を創刊する。現代歌人協会会員。
大野 昭和斎(おおの しょうわさい、1912年3月4日 - … 大野 昭和斎(おおの しょうわさい、1912年3月4日 - 1996年8月30日)は、日本の木工芸家。 本名は片岡誠喜男(かたおか せきお)。重要無形文化財「木工芸」の保持者(いわゆる人間国宝)。木工芸の人間国宝としては中臺瑞真とともに3番目の認定者(1984年)である。 岡山県総社市八代生まれで、1920年に西阿知町に移り住む。父で指物師の片岡斎三郎に14歳で師事、指物や象嵌を修行する。23歳のころ文人画家柚木玉邨(ゆのきぎょくそん)に師事、絵画を習い昭和斎と命名される。作品には桑を好む。桑のほかに欅、柿、黄楊木、肥松(こえまつ)も使う。指物・象嵌の技術に優れ、作品は箱や文机、卓、飾り棚、小箪笥、盛器、香盆、菓子鉢などを作り、箱の四方の直線に線象嵌を用いて指物独特の直線の美しさを見せる。
石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月… 石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月3日 - 2003年 <平成15年> 12月31日)は、日本の実業家である。日産自動車社長、日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事として、日本の自動車産業や財界活動に大きな影響を与えた。位階は正三位。 東京の府立四中を経て、旧制浦和高校入学。浦和高時代に学生ストライキを煽ったとして停学処分を受け、2年遅れで東北帝国大学法文学部法科入学。1937年(昭和12年)に東北帝大法科卒業後、日産自動車に入社。経理・財務関係に勤め、その後専務や副社長として長く川又克二社長を支えた。 1954年(昭和29年)、42歳の時に取締役に就任し、将来の「日産の社長候補」と目された。
福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日… 福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月17日)は、日本の政治家。勲二等従四位。衆議院議員総選挙に15回立候補し、当選は6回。ニックネームは「政界の寝業師」、「政界の怪物」。 香川県高松市出身。旧制大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)卒業、早稲田大学専門部中退。少年時代に東京憲兵隊本部で甘粕正彦の給仕を務めたことを機に、満洲に渡って満洲国の機関紙「斯民」の記者となる。満洲人脈のメンバーとなり、岸信介と深い仲を築く。軍部と外務省興亜院の肝いりによって上海に国策新聞「大陸新報」が創設され、1937年に25歳で社長就任。白根松介男爵や美濃部達吉の嘆願を受け、同社では美濃部亮吉(達吉の長男で、後の東京都知事)や向坂逸郎、高橋正雄など人民戦線事件で検挙された左派知識人たちを積極的に雇い入れた。
李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970… 李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970年)は、韓国の時調の詩人、ジャーナリスト。本貫は慶州李氏、本名はイ・ホ(이호)。慶尚北道の清道郡出身。妹は詩人の李永道。 解放後は詩人として活動しながら、大邱日報、大邱毎日新聞の編集局長・論説委員などを務めた。
小川 昂(おがわ たかし、1912年3月1日 - 2008年… 小川 昂(おがわ たかし、1912年3月1日 - 2008年4月14日)は日本のミュージック・ライブラリアン (音楽司書) の先駆者。NHK資料室でレコードや楽譜など音楽資料の整理に長年携わり、音楽関係の多様なレファレンスブックを刊行。また後進の育成にも尽力した。1972年黄綬褒章受章。 1912年東京に生まれた小川昂は、父の転勤により10歳の時京都へ転居。役人であった父親は几帳面で整理魔であり、また管楽器を吹く趣味もあった。小川は中学在学中からチェロを学び東京音楽学校に進学を志すが、父の許しが得られず断念。京都帝国大学農学部図書室へ就職し、上司や先輩から仕事の手ほどきを受ける。京大オーケストラに参加する一方、青年図書館連盟の集会で間宮不二雄に認められる。
菊地 庄次郎(きくち しょうじろう、1912年 <明治45年… 菊地 庄次郎(きくち しょうじろう、1912年 <明治45年> 3月1日 - 1984年 <昭和59年> 8月31日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。位階は従三位。 宮城県仙台市出身。1934年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本郵船に入社。1959年に取締役に就任し、1961年に常務、1965年に専務を経て、1967年に副社長に就任し、1971年には社長に昇格した。1978年6月に会長に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1982年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1984年8月31日肝不全のために死去。72歳没。死没日付をもって従三位に叙された。
庄司 保親(しょうじ やすちか、明治45年(1912年)3月… 庄司 保親(しょうじ やすちか、明治45年(1912年)3月1日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。元合資会社第弐商会代表社員社長。元鳥取県西伯郡渡村会議員。 女優・司葉子はいとこ。 明治45年(1912年)3月1日、鳥取県西伯郡渡村(現境港市渡町)に庄司廉の長男として生まれる。 昭和11年(1936年)東京帝国大学経済学部卒業。 昭和17年(1942年)鳥取県石炭統制(株)常務取締役。昭和21年(1946年)鳥取地方裁判所調停委員(~1980年)。昭和26年(1951年)合資会社第弐商会代表社員社長。昭和35年(1960年)協和地下工業(株)代表取締役社長。 昭和36年(1961年)鳥取県教育委員(~1969年)昭和37年(1962年)(株)博愛病院取締役社長。
福田 久男(ふくだ ひさお、1912年3月1日 - 1998… 福田 久男(ふくだ ひさお、1912年3月1日 - 1998年5月9日)は、日本の経営者。中央信託銀行社長を務めた。福岡県築上郡吉富町出身。 1936年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1962年5月に中央信託銀行専務に就任し、1968年11月に副社長を経て、1970年12月に社長に就任。1979年12月に会長に就任し、1983年12月に取締役相談役を経て、1987年3月には相談役に就任。 1982年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1998年5月9日に急性腎不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
寺島 隆太郎(てらしま りゅうたろう、1912年3月 - 1… 寺島 隆太郎(てらしま りゅうたろう、1912年3月 - 1964年7月31日)は、衆議院議員(8期)。正四位勲二等。
大野 耐一(おおの たいいち、1912年2月29日 - 19… 大野 耐一(おおの たいいち、1912年2月29日 - 1990年5月28日)は、日本の技術者、経営者である。トヨタ自動車工業の元副社長。 かんばん方式など生産管理のあり方として世界的に有名となった“トヨタ生産方式(Toyota Production System、略称TPS)”を体系化した人物である。その業績により、日本自動車殿堂と米国自動車殿堂の両方で殿堂入りしている。 中華民国の大日本帝国租借地関東州大連市生まれ。大野は旧制愛知県立刈谷中学校(現愛知県立刈谷高等学校)および名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)機械科を卒業後、1932年(昭和7年)豊田紡織(現:トヨタ紡織)に入社し、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)トヨタ自動車工業(現:トヨタ自動車)に転籍した。
宮内 寒弥(みやうち かんや、1912年2月29日(戸籍上は… 宮内 寒弥(みやうち かんや、1912年2月29日(戸籍上は28日) - 1983年3月5日)は、日本の小説家、翻訳家。本名は池上 子郎。 岡山県岡山市生まれ。 宮内の父は元逗子開成中学校社会科教師の石塚巳三郎(1881年生)。巳三郎は1910年に七里ヶ浜で起きた逗子開成生徒のボート遭難事件で世間から猛批判を受けて逗子開成を辞し、四国八十八箇所巡礼の旅に出た。岡山で教員となり、その地で池上家へ婿養子に入り世間から身を隠すように苗字を変え、池上巳三郎となり、生まれた子が池上子郎、すなわち宮内寒弥である。 1923年に一家で南樺太に移住。1932年早稲田大学に入学し、同人雑誌『早稲田文科』などに作品を発表する。
藤本 武(ふじもと たけし、1912年2月28日 - 200… 藤本 武(ふじもと たけし、1912年2月28日 - 2002年6月9日)は、日本の経済学者。経済学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「最低賃金制度の研究」)。元日本女子大学文学部教授。 京都府舞鶴市生まれ。1935年東京帝国大学経済学部卒、1962年「最低賃金制度の研究」で、東京大学より経済学博士の学位を取得。 全国米穀販売購買組合連合会、日本労働科学研究所、日本女子大学文学部教授、労働科学研究所客員所員。1972年社会政策学会代表幹事。
内藤 子生(ないとう やすお、1912年2月27日 - 20… 内藤 子生(ないとう やすお、1912年2月27日 - 2003年9月2日)は、日本の航空技術者。中島飛行機の設計部員、富士重工業の取締役、東海大学の教授などを務めた。戦前は艦上偵察機「彩雲」、戦後は国産初の量産型ジェット機T-1の設計などを手掛けた。 第二高等学校、大阪帝国大学数学科を経て、飛行機の研究をするため、東京帝国大学工学部航空学科に入学。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は東條輝雄、高山捷一、渋谷巌などで「花の十二年組」と呼ばれた。卒業論文は「翼性能に及ぼす乱れ及び規模効果の影響」。中島飛行機社長の中島知久平から連絡を受け、同級生の渋谷巌と共に向かい会社訪問で入社が決まった。
宮崎 信義(みやざき のぶよし 1912年2月24日 - 2… 宮崎 信義(みやざき のぶよし 1912年2月24日 - 2009年1月2日)は、日本の歌人。口語自由律短歌(いわゆる新短歌)の隆盛に努めた。短歌雑誌「未来山脈」代表。京都歌人協会委員長。新短歌人連盟会長。現代歌人協会会員。 滋賀県坂田郡息長村箕浦(現在の米原市)、米原駅近くの母の生家で生まれる。2歳の時に、警察官だった父を殉職で失う。その後、教職についた母に育てられる。 昭和6年、県立彦根中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)時代、歌人の平井乙磨の薦めで前田夕暮の「詩歌」の会員となり、矢代東村の選で「詩歌」に初めて短歌5首が掲載された。横浜の旧制横浜専門学校(現在の神奈川大学)に進学するため関東に移り、中野嘉一や香川進らと出会う。
大瀬 久市(おおせ きゅういち、1912年(明治45年)2月… 大瀬 久市(おおせ きゅういち、1912年(明治45年)2月24日 - 1949年(昭和24年)4月10日)は、昭和前期の教育者、公吏(地方公務員)、政治家。衆議院議員。 長崎県北松浦郡出身。長崎県師範学校を卒業し、長崎県公立小学校訓導、東京市王子小学校訓導、赤羽小学校訓導を務めた。 その後苦学して1939年(昭和14年)東京文理科大学(のち東京教育大学)教育学科を卒業した。東京市役所に入り、同書記、東京都属、同主事を歴任した。 1947(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に長崎県第2区から民主党公認で出馬して次点で落選。1949(昭和24年)1月の第24回総選挙では無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 19… 勝田 龍夫(しょうだ たつお、1912年2月22日 - 1991年5月28日)は、元日本債券信用銀行会長。朝鮮銀行入行後、日本不動産銀行(のちの日本債券信用銀行)に入り、常務、副頭取、頭取を歴任。父は朝鮮銀行総裁、大蔵大臣等を務めた勝田主計。妻は西園寺公望の秘書・原田熊雄の娘。『重臣たちの昭和史』『中国借款と勝田主計』を著す。 東京府下豊多摩郡渋谷町中渋谷に、愛媛県松山市出身の大蔵官僚勝田主計・伊与子の4男として生まれる。 東京府青山師範学校附属小学校、東京府立一中に入学。その頃、一中においてサッカー部が創部され、キャプテンになる。1930年、一中卒業と同時に、同校地にあった旧制府立高等学校に入学。
水谷 啓二(みずたに けいじ、1912年2月22日 - 19… 水谷 啓二(みずたに けいじ、1912年2月22日 - 1970年3月19日)は熊本県八代市出身の人物。共同通信社勤務を経て、森田正馬の創始した精神療法「森田療法」の普及に尽力した。 (以下、生涯、略歴等の記述はおもに水谷啓二追想録編集委員会 (2010)による) 水谷啓二は明治45年(1912年)、熊本県八代に生まれる。両親は教師、四人兄弟の長男だった。旧制第五高等学校に在学時代、神経症に悩み五高を一年留年している。 五高時代に上京した際、本屋で森田正馬の著書『神経衰弱と強迫観念の根治法』に出会い、感銘を受けて本郷の森田正馬を訪ねるも、森田からまずは五高を卒業するよう言われた。 一年後(1932年)に父親の反対を押し切って上京。
伊沢 一郎(いざわ いちろう、1912年〈明治45年〉2月2… 伊沢 一郎(いざわ いちろう、1912年〈明治45年〉2月22日 - 1995年〈平成7年〉5月14日)は、日本の俳優。熊本県菊池郡河原村(現・菊池市)出身。本名:萱野 季男(かやの すえお)。女優の美川かつみは妻。俳優の川谷拓三は甥。 高輪商業学校卒業。1930年に日活太秦に入社。1931年にサイレント映画『かんかん虫は唄ふ』でデビュー。朴訥だが誠実なキャラクターで注目され、『ためらふ勿れ若人よ』、『魂を投げろ』などの作品で、デビュー間もない原節子とのコンビで主演。戦後も脇役として活躍。熊本なまりの喋りと親しみのあるキャラクターが特徴だった。温厚な性格でも知られており、時代劇や特撮、更にはロマンポルノとジャンルを問わず幅広い作品に出演した。
時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 19… 時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 1994年11月2日)は、日本の教育者。学校経営者。元学校法人北星学園理事長。 北海道札幌市生まれ。1935年北海道帝国大学農学部卒業。同年、札幌光星商業学校教諭。1946年北星高等女学校教諭。1948年北星学園高等部部長(学校長)。1951年北星学園理事。北星学園女子短期大学副学長。1956年北星学園幼稚園園長。北星学園女子短期大学学長。1969年北星学園第2代理事長に就く。1987年学校法人稚内北星学園初代理事長。1991年高齢のため同理事長退任。北星学園名誉理事長に就く。
龍崎 一郎(りゅうざき いちろう、1912年2月20日 - … 龍崎 一郎(りゅうざき いちろう、1912年2月20日 - 1988年6月28日)は、日本の俳優。神奈川県横浜市出身。本名は龍崎 光一郎。旧芸名は竜崎 一郎。特技は剣道(5段)。師は映画監督の牛原虚彦。 旧制横浜第一中学校(現:神奈川県立希望ヶ丘高校)卒。 新興キネマ、高田プロダクション、東宝、ぷろだくしょん森に所属していた。 1988年6月28日、肺癌のため死去。76歳没。
生田 勉(いくた つとむ、1912年2月20日 - 1980… 生田 勉(いくた つとむ、1912年2月20日 - 1980年8月4日)は、日本の建築家・建築学者。東京大学名誉教授。木造の温かみを生かした住宅・山荘作品に独自の境地を開いた。また、アメリカの文明批評家であるルイス・マンフォードの著作の紹介者としても知られる。 北海道小樽市生まれ。旧制第一高等学校から、1939年東京帝国大学工学部建築学科卒。一高同期に立原道造、大学の一期上に丹下健三・浜口隆一がいる。特に立原とは深く交わった。また、ル・コルビュジエの作品・思想に強い影響を受けた。 その後逓信省営繕課勤務を経て、1944年旧制一高教授。その後東大教養学部助教授となり、1961年教授、1972年定年退官。
高橋 貞一(たかはし さだいち、1912年〈明治45年〉2月… 高橋 貞一(たかはし さだいち、1912年〈明治45年〉2月20日 - 2003年〈平成15年〉3月14日)は、日本の国文学者。 香川県出身。東京文理科大学卒、1961年論文「軍記物語の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。京都府立の高等学校教諭、立命館大学教授を経て、佛教大学文学部教授。1982年定年退任、名誉教授となる。中古・中世文芸、軍記物語が専門。『保元物語』の著者を葉室時長とする説がある。
谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月… 谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月19日 - 2007年〈平成19年〉10月29日)は、日本の映画監督。妻は女優の八千草薫。東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区)出身。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部英文科在学中は、千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い[要出典]左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて[要出典]1930年に中退。1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社する。山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務める。同期には、亀井文夫、本多猪四郎がいた。ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友である。 1947年、山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。
阿部 功(あべ いさお、1912年2月18日 - 1980年… 阿部 功(あべ いさお、1912年2月18日 - 1980年2月15日)は、日本の投擲競技選手。 1936年ベルリンオリンピックにハンマー投で出場。 北海道札幌郡円山町(現在の札幌市中央区)生まれ。札幌師範学校附属小学校、北海中学校(現在の北海高等学校)に進む。北海中学校在学中には、砲丸投で北海道選手権を獲得。 中央大学に進学、在学中に1933年・1934年と日本陸上競技選手権大会ハンマー投種目で優勝。1934年9月9日には日本記録となる48.98mを投擲し、同年10月10日には49.10mに日本記録を更新した。 中央大学を卒業し、1936年ベルリンオリンピック出場時には鉄道省所属。 第二次世界大戦後、1947年の日本陸上競技選手権大会で3度目の優勝を果たす。
長瀬 喜伴(ながせ よしとも / きはん、1912年2月18… 長瀬 喜伴(ながせ よしとも / きはん、1912年2月18日 - 1966年6月16日)は、日本の脚本家。 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)生まれ。東京府立第一商業学校を経て横浜専門学校商科を卒業。 1935年に松竹の蒲田脚本研究所に第4期生として入所し、1937年に松竹大船脚本部に入って斎藤良輔のもとで助手を務めた後、1938年に清水宏監督「新家庭暦」で一本立ちの脚本家となる。以後、家庭劇的なドラマの展開を基調とした“大船調”メロドラマに健筆をふるい、娯楽作家として活躍した。 太平洋戦争末期の1944年に近衛連隊に入隊し、1945年に小笠原諸島の父島で終戦を迎えた。 1954年にフリーとなり、東宝、大映、東京映画などで娯楽ものを中心に多数の映画で脚本を担当したほか、親友の新藤兼人が主宰する近代映画協会にも参加し、会計事務を担当するなど、協力者として会の活動を支えた。
森本 一正(もりもと かつまさ、1912年2月18日 - 1… 森本 一正(もりもと かつまさ、1912年2月18日 - 1986年8月28日)は、日本の実業家。三菱倉庫の会長、米国三菱倉庫の社長などを歴任した。 東京都出身。1934年に彦根高等商業学校(現:滋賀大学経済学部)を卒業し、同年4月に共同運輸(現:日本郵船)へ入社した。1941年12月、三菱倉庫に転じた。 三菱倉庫では本店を中心に営業・業務部門を歩み、1955年11月に本店業務課長、1961年11月に業務部長となった。1965年5月に取締役、1968年5月に常務取締役に選任された。 常務在任中には、三菱倉庫の国際物流事業にも関与した。1970年には、米国西海岸のロサンゼルスを拠点とする International Warehouse Corporation(インターナショナル・ウエアハウス) の社長に就任・兼任した。
東富士夫(あずまふじお、1912年2月18日 - 1991年… 東富士夫(あずまふじお、1912年2月18日 - 1991年1月1日)は昭和時代の寄席芸人、曲芸師。 静岡県下田市出身。18歳で針金渡り名人の東冨士子に弟子入りし、富士坊を名乗る。1935年、東冨士夫に改名。出征を経て、1946年に復員。その後は駐留軍のキャンプ回りも経験。寄席出演時には撥の曲、皿回し、帽子回しなどの他、足で樽を回す曲芸などを披露した。 この項目は、お笑いタレント・コメディアン(これらの関連記事を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:お笑い/PJ:お笑い)。
権 仲敦(クォン・ジュンドン、朝鮮語: 권중돈/權仲敦、19… 権 仲敦(クォン・ジュンドン、朝鮮語: 권중돈/權仲敦、1912年2月17日または11月17日 - 1983年または1985年6月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家。第10代国防部長官、第2・3・4・5・8代韓国国会議員、国家保衛立法会議議員を歴任した。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)。日本名は権田仲敦。 日本統治時代の慶尚北道永川郡(現・永川市)出身。普成高等普通学校(現・普成高等学校(朝鮮語版))を経て、1940年早稲田大学政治経済学部卒。慶尚北道労働局長、永川穀物株式会社理事、初代総選挙慶尚北道選挙委員、民主党慶尚北道党委員長・副議長、憲政同志会宣伝部長、民主党政権の国防部長官(通算第10代、1960年9月12日~1961年1月30日)、新民党中央常任委員会議長(1961年)、民政党中央委員会議長(1964年)・全党大会議長、民衆党指導委員(1967年)、新民党指導委員(1969年)・鍾路区党委員長(1972年)・全党大会議長・政務委員(1973年)、国家保衛立法会議議員(1980年)を務めた。
市川 男女之助(いちかわ おめのすけ、本名:河島 武雄(かわ… 市川 男女之助(いちかわ おめのすけ、本名:河島 武雄(かわしま たけお)1912年2月17日 - 1992年5月6日)は、日本の俳優である。テレビ「暴れん坊将軍」などに出演。社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている。
渋谷 邦蔵(澁谷 邦蔵、しぶや くにぞう、1912年(明治4… 渋谷 邦蔵(澁谷 邦蔵、しぶや くにぞう、1912年(明治45年)2月16日 - 2002年(平成14年)2月14日)は、日本の地方政治家。旧清瀬町長から清瀬市への市制施行に伴って初代市長となり、36年間首長を務めた。位階は正五位。 東京府出身。埼玉県所沢市の所沢実業学校(現・埼玉県立所沢高等学校)を卒業。 1950年清瀬村議会議員(のち町制施行により同町議会議員)となり、同議長、町教育委員を務めた。 1959年5月、46歳で清瀬町長に就任。1970年に市制執行に伴い、初代市長となる。市制施行直前の『町報きよせ』5月15日号には以下の所信を記している。 1995年4月、82歳で政治家を引退し、星野繁に市長を譲った。
石丸 静雄(いしまる しずお、1912年2月16日 - 19… 石丸 静雄(いしまる しずお、1912年2月16日 - 1988年5月14日)は、日本のドイツ文学者、宇都宮大学名誉教授。 佐賀県神埼郡神埼町生まれ。1937年東京帝国大学独文科卒。1952年宇都宮大学教授、1975年定年退官、名誉教授。1988年、胃癌のため死去。 ドイツ・ロマン派を専門とした。
伊藤 眞次(いとう しんじ、1912年2月16日 - 200… 伊藤 眞次(いとう しんじ、1912年2月16日 - 2003年12月10日)は、三重県宇治山田市(現伊勢市)出身の北海道大学名誉教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐藤 碧子(さとう みどりこ、1912年2月15日 - 20… 佐藤 碧子(さとう みどりこ、1912年2月15日 - 2008年7月5日)は、日本の作家。小磯なつ子の筆名を持つ。また佐藤みどりと表記し、「碧子」で「みどり」と読ませたりする。菊池寛の愛人でもあり秘書、代作を行った。 本名・石井光枝。東京市下谷区龍泉寺生まれ。精華高等女学校卒。文藝春秋社に入社、菊池寛の秘書を務める。小説も書き、またその代作を行い『新道』などは佐藤の作である。川端康成にもかわいがられた。六興出版社長となる石井英之助と結婚。戦後1950年小磯なつ子の筆名で「雪化粧」により直木賞候補。1961年『人間・菊池寛』を刊行。 猪瀬直樹が菊池伝『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』を『文學界』2002年4月号から2003年12月号まで連載中、佐藤の甥(姉の息子)である矢崎泰久に『人間・菊池寛』からの「剽窃であり、盗作とも言える」と言われたこともあって、連載途中で猪瀬は佐藤との対談を行って協力を得ていたことを明らかにした。
森川 信(もりかわ しん、1912年(明治45年)2月14日… 森川 信(もりかわ しん、1912年(明治45年)2月14日 - 1972年(昭和47年)3月26日)は、日本の俳優およびコメディアン。本名は森川 義信。神奈川県横浜市南区出身。横浜市立商業学校卒業。元妻は水戸光子。 商業学校卒業後、銀行に勤める傍ら、役者になるために演劇学校へ通う。 1931年、遠戚にあたる俳優・静香八郎と共に俳優の道へ進み、1932年に静香主演の『肉弾三勇士』での死体役でデビュー。 その後、一座を組んで浅草で芝居を試みるが、浅草演劇界ではエノケンとロッパが君臨していたため、競合を余儀なくされた。 その後、大阪、名古屋、京都、博多など各地を転々とし、この頃に清水金一、田崎潤、淀橋太郎などを知った。
原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 19… 原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 1999年6月25日)は、日本の外科医、平和運動家。広島県広島市出身。広島市名誉市民。 旧制・広島県立広島第一中学校、旧制・広島高等学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業。第二次世界大戦中、軍医として中国大陸を転戦する。1946年(昭和21年)に広島へ戻り、原子爆弾投下直後の同市で爆心地にバラックの外科病院を作り、治療を開始する。被爆によるケロイド治療や原爆医療法の制定で中心的な役割を担うなど被爆者医療に尽力した。外科医としての活動の傍ら、平和運動に参加。1955年(昭和30年)体にケロイドの残る「原爆乙女」に付き添う形で訪米。渡米治療に道を開くとともに、原爆の惨禍を世界に伝えた。
田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 199… 田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 1997年1月16日)は、日本の歌人、国文学者。 東京深川区生まれ。京都帝国大学国文科に入学し、「短歌草原」「香蘭」(村野次郎主宰)を経て、1933年(昭和8年)より吉澤義則が立ち上げた歌誌『ハハキギ』同人の編集に参画。なお吉澤没後、1962年より『ハハキギ』を引き継いで主宰した。 1936年(昭和11年)京都帝国大学国文科卒。卒業後、不況のため就職難先の確保に苦労したが、滋賀県立膳所中学校で教員を4年間務めた後、京都府立第一中学校で教員を務めた。この際、『ハハキギ』で交流があった日本文学研究者、里井陸郎に借家を用意してもらっている。その後、同志社女子大学教授、1982年(昭和57年)定年、奈良大学教授。
穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1… 穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1979年9月29日)は、日本の経営者。相模鉄道社長を務めた。父親は京王電気軌道の社長を務めた穴水熊雄。 山梨県出身。1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 北海道配電監事を経て、1944年6月に東京急行電鉄取締役と相模鉄道常務に就任し、1947年6月に相模鉄道専務、1962年9月に相模鉄道副社長を経て、1965年11月に相模鉄道社長に就任。1976年6月には会長に就任した。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1968年に紺綬褒章を受章し、1974年に藍綬褒章を受章。 1979年9月29日、腎不全のために死去。67歳没。墓所は多磨霊園(10-1-7-2)。
福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日… 福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日 - 2013年〈平成25年〉9月16日)は、日本の第67代内閣総理大臣である福田赳夫の妻。第91代内閣総理大臣である福田康夫の母。孫は衆議院議員の福田達夫。 群馬県吾妻郡原町(現:東吾妻町)出身。元大審院判事の新井善教の孫娘で、裁判官であった新井文雄の三女として生まれる。1933年(昭和8年)に大蔵省で勤務していた福田赳夫と結婚。ふたりの馴初めのエピソードは公にはされていないが、一説には赳夫が東京帝国大学時代に出会ったとされる。 1976年(昭和51年)12月24日から1978年(昭和53年)12月7日までのおよそ2年間、赳夫が内閣総理大臣に就任したため、ファーストレディとして活動を行った。
武田 泰淳(たけだ たいじゅん、1912年〈明治45年〉2月… 武田 泰淳(たけだ たいじゅん、1912年〈明治45年〉2月12日 - 1976年〈昭和51年〉10月5日)は、日本の小説家。浄土宗僧侶。大正大学教授。幼名覚。 第一次戦後派を代表する作家で、戦前期は左翼運動から離脱後、泰淳と改名。得度した。その後大陸(中華民国)に出征。除隊後、評伝『司馬遷』を経て小説に転じ、『蝮のすゑ』で認められた。その後も思想的重量感を持った作品を発表し、幾屈折もする人間生存の諸相を描き出した。 妻は随筆家の武田百合子、娘は写真家の武田花。兄は水産生物学者・東大農学部教授の大島泰雄。伯父に僧侶・仏教学者・社会事業家の渡辺海旭がいる。 東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。
永山 時雄(ながやま ときお、1912年〈明治45年〉2月1… 永山 時雄(ながやま ときお、1912年〈明治45年〉2月11日 - 1999年〈平成11年〉7月11日)は、神奈川県出身の官僚。旧通商産業省初代大臣官房長。位階は従三位。 神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、第一高等学校 (旧制) を経て、1935年に東京帝国大学法学部卒業。同年、商工省入省。入省同期に、斎藤正年(特許庁長官)、小出栄一(共石社長、経済企画事務次官)、鹿子木昇(アジア経済研究所所長、大阪通産局長)、小山雄二(中小企業庁長官)、油谷精夫(東京通産局長)など。 戦後、商工省外局の貿易庁に、時の貿易庁長官に就任した白洲次郎が貿易庁と共に商工省も解体し新制・通商産業省へと改組する構想を松田太郎商工次官が掴み、当初その動向を監視するため、当時商工省物資調整課長であった永山が筆頭課長である貿易課長として送り込まれた。
丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年… 丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年1月13日)は洋画家である。
塚本 倉人(つかもと くらと、1912年〈明治45年〉2月1… 塚本 倉人(つかもと くらと、1912年〈明治45年〉2月10日 - 2001年〈平成13年〉5月11日)は、日本の実業家。政治家。元福岡県甘木市(現・朝倉市)長(5期)。位階は正五位。 福岡県出身。1930年(昭和5年)、甘木町立実業専修学校(現・福岡県立朝倉高等学校)卒。精米業を営み、後に合名会社化し、塚本食糧工業所を興す。1955年(昭和30年)に甘木市議会議員に初当選した。1963年(昭和38年)5月7日から1964年(昭和39年)10月8日まで、第6代市議会議長を務めた。同年、甘木市長に当選する。同年11月から1972年(昭和47年)11月まで2期務めた。 1976年(昭和51年)の甘木市長選挙に立候補して、保守系無所属の新人を破って返り咲きを果たした。
小堀 清一(こぼり せいいち、1912年2月10日 - 19… 小堀 清一(こぼり せいいち、1912年2月10日 - 1996年2月2日)は、将棋棋士。九段。神奈川県横浜市出身。金子金五郎九段門下。
双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1… 双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。 現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ。 1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった。
愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004… 愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004年6月17日)は、東洋史学者、東北大学名誉教授。 1912年、京都府生まれ。1935年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。1951年より東北大学文学部教授。1959年に『キタイ部族制社会の研究』を京都大学に提出して文学博士。1974年に定年退官し名誉教授。 退官後は京都女子大学教授となった。2004年6月17日、肺炎のため死去。子息の愛宕元も東洋史学者(京都大学名誉教授)だった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藪内 芳彦(やぶうち よしひこ、1912年2月8日 - 19… 藪内 芳彦(やぶうち よしひこ、1912年2月8日 - 1980年3月13日)は、人文地理学者。 和歌山県生まれ。1935年京都帝国大学文学部地理学科卒。和歌山師範学校教授、和歌山大学教育学部助教授、金沢大学法文学部助教授、教授、大阪市立大学教授。1976年定年退官、名誉教授、関西大学教授。ポリネシアの島嶼などを研究した。 1962年京都大学で文学博士。論文の題は「漁村の生態 : 人物地理学的研究」。