高島 三次(たかしま さんじ、1912年2月7日 - )は、… 高島 三次(たかしま さんじ、1912年2月7日 - )は、日本の実業家。ワーナー・ブラザース映画会社大阪支社長、極東支配人などを務めた。戦前から戦後にかけて、日本における映画文化・外国映画配給の発展に大きく貢献した。位階は従七位、勲六等授与。 大阪市東淀川区出身。1932年、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部)を卒業した。 1933年、メトロ・ゴールドウイン・メーヤー(現:Amazon MGMスタジオ)の大阪支社に入社し、映画業界での経歴を開始した。その後、1941年に東宝映画(現:東宝)関西支社へ転じた。1943年には映画配給社に勤務し、関西支社および南方支社で活動した。戦時中はシンガポールを中心とする南方地域で、現地向け映画配給に関わったとされる。
三浦 靱郎(みうら ゆきお、1912年2月5日 - 1997… 三浦 靱郎(みうら ゆきお、1912年2月5日 - 1997年5月20日)は、日本のドイツ文学者。 東京出身。1934年東京帝国大学文学部独文科卒。1937年第七高等学校教授、陸軍教授、第五高等学校教授、法政大学教授、東京学芸大学教授。1975年日本工業大学教授、1978年学長。1987年勲二等瑞宝章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5… 古沢 岩美(ふるさわ いわみ、1912年(明治45年)2月5日 - 2000年(平成12年)4月15日)は、日本の洋画家、前衛美術家。 1920年代から1940年代にかけて、池袋周辺に集う芸術家たちのアトリエ村「池袋モンパルナス」に参加した一人として知られている。 佐賀県三養基郡旭村(現・鳥栖市)出身。1927年に久留米商業学校中退。当時は日本統治下だった朝鮮半島の大邱に渡った後、翌1928年に画家を志して上京。岡田三郎助に師事した。豊島区で画家が集まっていた長崎アトリエ村に移って交流を広げるとともに、前衛美術を志向するようになった。1938年に「創紀美術協会」、1939年には「美術文化協会」創立に参加。
中村 哲(なかむら あきら、1912年2月4日 - 2003… 中村 哲(なかむら あきら、1912年2月4日 - 2003年8月10日)は、日本の政治学者、憲法学者。法政大学総長、参議院議員。父方の叔母に竹越光代(婦人運動家、歴史家・政治家竹越与三郎の妻)がいる。 東京府出身。府立三中、旧制成城高等学校(現成城大学)を経て、1934年に東京帝国大学法学部卒業(美濃部達吉門下生)。台北帝国大学文政学部の助教授・教授を経て、戦後我妻栄の引きで法政大学法学部教授に。法学部長・常務理事を歴任し、1968年に法政大学総長となった。 総長就任時は学生運動が激しく、学内で内ゲバ殺人事件(海老原事件)が発生するなど危機的な状況にあったが、警官隊の学内導入をほのめかした秦野章警視総監と対立しながらも大衆団交を繰り返し、終に警官隊を導入することなく事態を乗り切った。
横山 正克(よこやま まさかつ、1912年〈明治45年〉2月… 横山 正克(よこやま まさかつ、1912年〈明治45年〉2月4日 - 没年不詳)は日本の実業家。島根県安来市出身。 政治家の亀井久興の父親亀井茲建とは中学の同窓、高等学校で同級生だった。また亀井久興の後援会「明るい日本をつくる会」の会長を務めた。また、娘・陽子は亀井久興の妻となった。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月3日 -… 檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月3日 - 1976年〈昭和51年〉1月2日)は、日本の小説家、作詞家、料理家。 私小説や歴史小説、料理の本などで知られる。「最後の無頼派」作家・文士ともいわれた。また、西遊記の日本語抄訳もある(東京創元社ほか)。 代表作は、律子夫人の没後に描いた『リツ子 その愛』『リツ子 その死』、時代娯楽作品も人気があり『真説石川五右衛門』(1950年、第24回直木賞受賞)、『夕日と拳銃』など、また20年以上に亘り、書き継がれライフワークとなった遺作『火宅の人』(1986年、東映で異父弟のプロデューサーの高岩淡の企画、深作欣二監督、緒形拳主演により映画化)など。
小形 研三(おがた けんぞう、1912年2月3日 - 198… 小形 研三(おがた けんぞう、1912年2月3日 - 1988年2月13日)は、日本の造園家、作庭家。 作庭、公共造園の設計、海外への日本庭園文化の紹介、後進の教育、育成などなど、その生涯を造園分野の向上に捧ぐ。社団法人日本造園コンサルタント協会会長としては広く造園学の目的とする住環境の向上に貢献する。 自然観察から養われた作庭の発想から「自然写景式庭園」に多大の関心を持ち、飯田十基の門下となる。作庭にあたり創意工夫による岩、水、樹木などによる造景美には、伝統庭園技術の研さんを積みながら、新に現代の庭園のあり方を示され今後の指標となっていく。これらの新しい傾向の作庭活動は、後継者の養成にも貢献する。
安西 正道(あんざい まさみち、1912年 <大正15年> … 安西 正道(あんざい まさみち、1912年 <大正15年> 2月3日 - 1990年 <平成2年> 9月10日)は、日本の官僚、実業家。元全日本空輸社長。千葉県出身。位階は従三位。
西沢 一俊(にしざわ かずとし、1912年2月3日 - 20… 西沢 一俊(にしざわ かずとし、1912年2月3日 - 2012年10月10日)は、日本の化学者、東京教育大学名誉教授。 長野県更級郡布施村(現・長野市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1933年東京高等師範学校三年修了、1936年東京文理科大学生物学科植物学専攻卒、1948年「Studien uber die enzymatische Spaltung von Galaktosiden (ガラクトシドの酵素分解に関する研究) 」」で理学博士。 1936年東京文理科大学副手、1945年上田繊維専門学校講師、1949年信州大学繊維学部助教授、1957年から1959年まで州立アラバマ大学に留学し糖質化学を学ぶ。
金 源(キム・ウォン、朝鮮語: 김원、1912年2月2日 -… 金 源(キム・ウォン、朝鮮語: 김원、1912年2月2日 - 1994年8月5日)は、大韓民国の洋画家。日本統治時代の朝鮮平安南道平壌出身。 1937年、日本の帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科を卒業し、帰国後は咸興のヨンセン中学校で教員を務めた。1946年から梨花女子大学校教授、1954年以後からは弘益大学校教授を務めた。1960年からは第3次国際美術教育協会に韓国代表として参加し、約4ヶ月間欧米美術界を視察した。 モク会会員、国展審査委員を歴任し、印象主義的な写実化風の風景画を多く描いた。1994年8月5日、持病により82歳で死去した。
安田 優(やすだ ゆたか、1912年(明治45年)2月1日 … 安田 優(やすだ ゆたか、1912年(明治45年)2月1日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍砲兵少尉。陸軍砲工学校学生。二・二六事件に参加して他の将校らと内大臣斎藤實、教育総監渡辺錠太郎を相次いで襲撃、殺害し、事件後処刑された。 安田のほか、中尉坂井直、少尉高橋太郎、少尉麦屋清済が率いる150人の襲撃部隊が、東京府東京市四谷区仲町三丁目(現東京都新宿区若葉一丁目)の内大臣斎藤実の私邸を急襲。斎藤を機関銃で殺害した。 このあと、 安田は高橋少尉とともに30人を連れ、上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へ向かい、 渡辺を射殺。後の安田の供述によれば、本来、渡辺に関しては殺害する意図は無く、陸軍大臣官邸まで連行するのが目的であったという。
井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日… 井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日 - 1993年〈平成5年〉2月1日)は、日本の洋画家。熊本県上益城郡御船町出身。 帝展、新文展、日展、光風会などを中心に活躍。その後、自ら「日洋会」を組織し、戦後の洋画壇の刷新と、日本人の感性による新たな具象絵画の可能性を追求した。 熊本市現代美術館に、井手宣通記念ギャラリーがある。
比田井 南谷(ひだい なんこく、英語: Nankoku Hi… 比田井 南谷(ひだい なんこく、英語: Nankoku Hidai)、1912年〈明治45年〉2月1日 - 1999年〈平成11年〉10月15日)は書家。本名は漸(すすむ)。神奈川県出身。 父・比田井天来、母・小琴の次男として生まれ、天来没後は書道研究機関「書学院」を継承し、碑帖の管理や出版部の再開に努める。書学院長・毎日書道展名誉会員・書宗院顧問・独立書入団客員などを歴任し、プリンストン大学・オックスフォード大学など、約20の大学で書道史を講演する。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
桝本 セツ(ますもと せつ、1912年2月 - 没年不明)は… 桝本 セツ(ますもと せつ、1912年2月 - 没年不明)は、日本のロシア語翻訳家、政治運動家。岡邦雄の愛人として知られる。名前は節子とも。 長崎県生まれ。父は造船技師の桝本卯平、母は長崎の料亭で働いており、3歳のときに死別。日本女子大学附属女学校卒、東京女子高等師範学校中退。朝鮮京城で2年間ロシア語を学び帰国。唯物論研究会に入り、1936年に妻のある岡邦雄と恋におち、アパートに同棲。 1938年、岡とともに治安維持法違反で検挙される。1942年に男児、1944年に女児を生む。1946年、岡と日本共産党に入党。1957年に離党。1971年岡が死去する。
川上 景司(かわかみ けいじ、1912年〈明治45年〉2月 … 川上 景司(かわかみ けいじ、1912年〈明治45年〉2月 - 1973年〈昭和48年〉6月2日)は、日本の撮影技師、特撮監督。東京府東京市小石川区(現東京都文京区小石川)出身。 1931年(昭和6年)、東京府立工芸学校(現:東京都立工芸高等学校)を卒業し、文部省文書課に入省する。その後、社会教育映画課に異動し、映画キャメラマンとなる。 1939年(昭和14年)10月27日を以て、東宝に見習い入社し、円谷英二を課長とする特殊技術課に配属される。特殊技術課には同期として、川上に先駆けて6月に鷺巣富雄(うしおそうじ)が入社している。 1940年(昭和15年)、『燃ゆる大空』(阿部豊監督)に参加。 1941年(昭和16年)、特殊技術課内の、三谷栄三を主任とする合成作画係に異動。
津島 美知子(つしま みちこ、1912年(明治45年)1月3… 津島 美知子(つしま みちこ、1912年(明治45年)1月31日 - 1997年(平成9年)2月1日)は、小説家・太宰治の妻。旧姓:石原。 太宰の作品に登場することも多い。「春の盗賊」「薄明」「親友交歓」「女神」「父」「美男子と煙草」「家庭の幸福」ほか、「十二月八日」では一人称で登場する。 石原初太郎・くらの四女として島根県那賀郡浜田町(現:浜田市)に生まれる。父の初太郎は山梨県中巨摩郡松島村大下条(現:甲斐市大下条)出身の地質学者で、当時島根県の中学校で校長を務めていた。 山形県の山形県立米沢中学校校長や広島県の広島高等師範学校地質学教室講師を務めた父の転勤に伴い、各地を転々と移り住んだが、1922年(大正11年)、父祖の地である山梨県甲府市水門町29番地(現・山梨県甲府市朝日一丁目)に戻る。
南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日… 南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日 - 没年不明)は、香川県綾歌郡出身の実業家、政治運動家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2… 川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2002年5月25日)は、日本の実業家。日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長で、ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。 本業の楽器製造に加えてオートバイ、スポーツ用品、レクリエーションなど各種事業を創業し、社業の業績向上と多角化に大きな成果を挙げてヤマハ中興の祖ともいわれる。 音楽や楽器演奏を身近にするためにヤマハ音楽教室を全国で展開して音楽教育の裾野を広げるほかに、『ヤマハポピュラーソングコンテスト』や『世界歌謡祭』などを開催して、1970年代から80年代のフォークソングとロックミュージックに功績している。特に、アマチュア時代の中島みゆきを見いだし、浜松市にあった川上の自宅に中島を呼び出し「あなたはすごい詞を書く。
小此木 真三郎(おこのぎ しんざぶろう、1912年1月30日… 小此木 真三郎(おこのぎ しんざぶろう、1912年1月30日 - 1994年8月9日)は、西洋史学者。美術界のパトロンとして知られる久保貞次郎の弟。 栃木県足利市の金物店の三男として生まれる。1934年東京帝国大学文学部西洋史学科卒。羽仁五郎に師事。卒業後会社員となり、1938年に兄の欧米視察に同行。1941年応召、即日帰郷。文化学院講師、世界経済調査会嘱託、1952年静岡大学文理学部助教授、1959年法経学部教授、1975年定年退官、名誉教授、日本福祉大学教授。1982年退職。
柳原 敏雄(やなぎはら としお、1912年〈明治45年〉1月… 柳原 敏雄(やなぎはら としお、1912年〈明治45年〉1月29日 - 1991年〈平成3年〉2月2日)は、日本の料理研究家。江戸懐石近茶流家元。旧姓:高橋。 群馬県前橋市出身。父・高橋喜代次は香山と号した俳人だった。旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)卒業。1931年に東京農業大学を卒業。 割烹緑風閣を経営後、江戸懐石の近茶料理を体系づけ、1946年近茶流を興して宗家となる。東京赤坂で柳原料理教室を主宰。息子は第2代宗家の柳原一成、娘は作家の柳原一日。
飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 201… 飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 2012年1月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期、公明党)、参議院議員(1期)、神戸学院大学教授。俳人。 愛知県名古屋市出身。1939年京都帝国大学法学部卒。同年満洲に渡り、総務庁協和会に勤める。1946年帰国し、翌年運輸省に入る。内閣調査室に出向、海上保安庁に戻ってからは、海上保安大学校の首席教授を最後に1969年に退職し神戸学院大学教授に就任した。 1974年の兵庫県知事選に公明党推薦で立候補するが落選、1976年の総選挙において兵庫3区から公明党公認で立候補して当選し2期務める。この間1977年4月18日の衆院法務委でロッキード事件の灰色高官を擁護する質問をした。
鈴木 幸夫(すずき ゆきお、1912年1月28日 - 198… 鈴木 幸夫(すずき ゆきお、1912年1月28日 - 1986年12月24日)は、英文学者、推理作家、早稲田大学名誉教授。 大阪府出身。早稲田大学文学部英文科卒業、旧制大学院修了。1939年、早稲田大学理工学部講師。1954年、早稲田大学文学部教授。1982年定年退職、名誉教授。その後は跡見学園短期大学教授、同大学学長を務めた。 1951年、探偵作家クラブ新年会の犯人当てゲームで2年連続して正解した実績を買われ、同ゲームのために「痴人の宴」を書き下ろし、同作が千代 有三の筆名で『宝石』に掲載されて探偵作家としてデビューする。 1954年、日本初のSF商業誌『星雲』を創刊された際、同年に組織された日本科学小説協会の参与となった。
小島 太作(こじま たいさく、1912年1月27日 - 20… 小島 太作(こじま たいさく、1912年1月27日 - 2002年11月4日)は、日本の外交官。位階は正三位。 初代駐フィンランド特命全権大使や、外務省研修所長、駐インド特命全権大使等を歴任した。 神奈川県出身。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業、外務省入省、中華民国留学。1943年総力戦研究所入所。外務省アジア局一課長、外務省アジア局参事官等を経て、1961年駐フィンランド特命全権公使。1962年駐フィンランド特命全権大使。1964年駐エチオピア特命全権大使。1967年駐マレーシア特命全権大使。同年トゥンク・アブドゥル・ラーマンマレーシア首相との間で戦争賠償協定たる血債協定を締結。1970年外務省研修所長。
相馬 雪香(そうま ゆきか、1912年〈明治45年〉1月26… 相馬 雪香(そうま ゆきか、1912年〈明治45年〉1月26日 - 2008年〈平成20年〉11月8日)は、日本の平和活動家。位階は正五位。 「憲政の神様」と言われた尾崎行雄の三女であり、欧州を回る父に随行し、通訳を務めた。戦後は道徳再武装(MRA)運動などの社会活動に取り組むと共に、民主主義と議会政治の普及に尽力した尾崎行雄の理想の普及を目的とした「尾崎行雄記念財団」の副会長を務めた。また、インドシナ難民救済のために「難民を助ける会」を設立し、対人地雷廃絶に向けた活動、子供や障害者への援助に取り組んだ。他にも多くの団体の要職を務め、世界各地で活躍した。「日本のNGOのパイオニア」とも呼ばれる。
津村 枕石(つむら ちんせき、1912年(明治45年)1月2… 津村 枕石(つむら ちんせき、1912年(明治45年)1月26日 - 1997年(平成9年)1月7日)は、和歌山県御坊市出身の書家。本名、津村 俊次郎(つむら しゅんじろう)。小林増石に書の手ほどきを受け、炭山南木に師事する。 1953年(昭和28年)、日展に初入選を果たし、以後連続入選する。1962年、自身の一門として『石門会(せきもんかい)』を創設。1963年に、日展で特選を得た後は、1966年に日展委嘱、1974年に日展審査員となる。1970年に和歌山県立日高高等学校を退職し、続いて大阪教育大学講師となる。御坊市文化賞、国際アカデミー賞、和歌山県文化功労賞、田辺市特別表彰などを得る。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
高橋 岩太郎(たかはし いわたろう、1912年1月25日 -… 高橋 岩太郎(たかはし いわたろう、1912年1月25日 - 2002年)は、日本のヤクザ、右翼活動家。日本国粋会落合一家六代目総長。東京都中野区本町出身。 明治45年(1912年)1月25日、東京府東多摩郡中野町(現:東京都中野区本町)で生まれた。実家は農業と酒造業を営む旧家だった。 大正12年(1923年)、中野の桃園尋常小学校を卒業。東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高校)に進学した。 同年9月1日昼、自宅の裏の鶏小屋で卵を取っていたところ、関東大震災に遭遇。中学校は半年間休校となった。その間、酒や煙草、博打を覚え、喧嘩に明け暮れるようになった。 大正14年(1925年)には喧嘩で相手を刺す事件を起こし、から放校処分を受けた。
加藤美代三(かとう みよぞう、1912年1月25日 - 20… 加藤美代三(かとう みよぞう、1912年1月25日 - 2012年5月10日)は、日本画家。兵庫県豊岡市生まれ。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)卒業。中村大三郎に師事。日展に出品を続ける現役最高齢の日本画家として有名。朴土グループメンバー。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小出 栄一(こいで えいいち、1912年1月23日 - 19… 小出 栄一(こいで えいいち、1912年1月23日 - 1979年5月3日)は、日本の官僚、経営者。共同石油社長を務めた。 福岡県出身。1935年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に商工省に入省。 1958年5月に通商産業省重工業局長を経て、1960年5月から1962年7月までに経済企画事務次官を務めた。1962年9月に九州電力顧問に就任し、1963年5月に常務、1972年5月に副社長を経て、1974年6月には共同石油社長に就任。 1979年5月3日、腹膜炎のために在任中に死去。67歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1… 小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1月23日 - 2000年〈平成12年〉11月26日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党の衆議院議員(16期)。外務大臣(第83・84・99代)、経済企画庁長官(第23代)、国家公安委員会委員長(初代)、労働大臣(第8代)を歴任した。 長野県長野市出身。学習院を経て、1935年(昭和10年)に東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業する(上田貞次郎ゼミナール)。三菱銀行勤務や信越化学工業直江津工場長、同社取締役を経て、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に長野1区(当時)から立候補し、初当選する。以後、当選16回(当選同期に二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - … 鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - 1994年3月9日)は、日本の経営者。鴻池組元会長。全国建設業協会元会長。 大阪府大阪市出身。1937年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大林組での勤務を経て、1939年に鴻池組に入社した。1943年に副社長に就任し、1944年には社長に昇格。1962年には会長も兼任し、1985年から会長に専任した。 1994年3月9日腎不全のために京都大学医学部附属病院で死去。82歳没。
大橋 隆憲(おおはし りゅうけん、1912年1月22日 - … 大橋 隆憲(おおはし りゅうけん、1912年1月22日 - 1983年3月11日)は、日本の統計学者・僧侶。京都大学名誉教授。 新潟県加茂市生まれ。旧名・栄俊。1935年東京帝国大学文学部宗教学科卒、1940年京都帝国大学経済学部卒、同助手、1942年日本鋼管入社、1949年京都大学経済学部助教授、1965年教授。1963年 経済学博士の学位を取得。1966-1967年経済学部長、1975年定年退官、名誉教授となり、日本福祉大学教授、1982年花園大学教授を務めた。
中尾 喜久(なかお きく、男性、1912年1月22日 - 2… 中尾 喜久(なかお きく、男性、1912年1月22日 - 2001年6月21日)は、日本の内科学者。 茨城県真壁郡竹島村(現筑西市)出身。1936年東京帝国大学医学部卒、1943年医学博士。東京大学医学部助手、講師、助教授、1958年群馬大学教授、1963年東京大学教授。1972年定年退官、自治医科大学初代学長。1982年同大附属病院に地域診療所を設置。1996年学長退任、のち名誉学長。 この間、1959年中国医科大学名誉教授、1987年東大名誉教授。臨床血液学の世界的権威者として知られた。1964年ベルツ賞佳作賞受賞。1984年勲一等瑞宝章受勲。日本学士院会員。
河西 力雄(明治45年(1912年)1月22日 - 没年不明… 河西 力雄(明治45年(1912年)1月22日 - 没年不明)は日本の政治家。元鳥取県警部補。元境町会議員、境港市会議員。 鳥取県東伯郡三朝町大瀬出身。 昭和36年(1961年)9月、境港市議会副議長。 昭和41年(1966年)9月、境港市議会議長。 趣味は読書、釣。宗教は本門佛立宗。住所は境港市相生町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
安藤 はつ(あんどう はつ、1912年〈明治45年〉1月20… 安藤 はつ(あんどう はつ、1912年〈明治45年〉1月20日 – 1985年〈昭和60年〉12月4日)は、政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は千。日本初の女性代議士の一人である。 静岡県田方郡韮山村(現伊豆の国市)出身。静岡県の教員養成所を卒業後、大見村の国民学校で教鞭を執り、安藤秀雄との結婚により退職した。その後、疎開で長野県に移った。 1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本平和党公認で長野県から立候補し当選し、日本初の女性代議士の一人となった。その後、国民協同党に移り、1947年の第23回衆議院議員総選挙で落選した。 1951年7月23日に有価証券詐欺などの容疑で夫婦ともに起訴され、懲役一年に処された。
笠原 良三(かさはら りょうぞう、1912年1月19日 - … 笠原 良三(かさはら りょうぞう、1912年1月19日 - 2002年6月22日)は、日本の脚本家、小説家。本名:笠原 良三郎。社長シリーズなどの喜劇映画の脚本を多く手がけた。 栃木県足利郡足利町(現:足利市)出身。1932年に日本大学芸術学部を中退し、1936年に日活多摩川撮影所脚本部に入社。1941年に新興シネマ脚本部に転属後、大映東京撮影所脚本部に移籍。1955年に東宝撮影所の契約者となる。弟子に東映ヤクザ映画の隆盛を支えた笠原和夫などがいる。オリジナル作品は自らノベライゼーションを行っている。 2002年6月22日、死去。90歳没。 銀座の若大将 - 日本一の若大将 海の若大将 - エレキの若大将 アルプスの若大将 - 歌う若大将 レッツゴー!若大将 - 南太平洋の若大将 - ゴー!ゴー!若大将 フレッシュマン若大将 - ニュージーランドの若大将 ブラボー!若大将 - 俺の空だぜ!若大将 社長になった若大将(テレビドラマ) 加山雄三 - 大矢茂 - 草刈正雄 田中邦衛 - 高松しげお - 湯原昌幸 星由里子 - 酒井和歌子 - 吉沢京子 - いけだももこ - 坂口良子 有島一郎 - 飯田蝶子 - 中真千子 - 三條美紀 - フランキー堺 - 高橋恵子 藤本真澄 - 神谷一夫 - 大森幹彦 - 安武龍 - 田波靖男 田波靖男 - 笠原良三 杉江敏男 - 福田純 - 古澤憲吾 - 岩内克己 - 小谷承靖
市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1… 市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1月18日 - 1998年〈平成10年〉4月29日)は、日本の作曲家、音楽教育者。教育芸術社の創業者。静岡県浜松市出身。 音楽教育に力を入れ、多くの音楽教科書の著述、編集を務めたことで知られる。また、各地の学校で校歌の作曲を多く手がけている。 浜松市で生まれ、中学からは東京に移り住んだ。旧制市立ニ中(現・東京都立上野高等学校)では、福田恆存(英文学)、高橋義孝(独文学)と同期。作曲を志し、1935年に東京音楽学校の器楽部ヴァイオリン科に入り、安藤幸子、ウィリー・フライに師事した。また課外でクラウス・プリングスハイムに作曲を学び、1937年本科卒業後は研究科に進んで、信時潔に半年間作曲を学ぶ。
谷垣 専一(谷垣 專一、たにがき せんいち、1912年(明治… 谷垣 専一(谷垣 專一、たにがき せんいち、1912年(明治45年)1月18日 - 1983年(昭和58年)6月27日)は、日本の政治家。従三位勲一等。文部大臣。妻は陸軍中将影佐禎昭の長女安紀。第24代自由民主党総裁の谷垣禎一は長男。 京都府福知山市の造り酒屋・谷垣松次郎の五男として生まれた。旧制京都府立福知山中学校、旧制第三高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、1936年、農林省入省(農務局嘱託)。要員局運用課長、開拓局管理課長、長野県農地部長、総務局物資調整課長、農地局総務課長、農地局管理部長、農林経済局農業協同組合部長などを経て、1955年10月に大臣官房長、1956年6月に畜産局長となる。
鐘ケ江 信光(かねがえ のぶみつ、1912年(大正元年)1月… 鐘ケ江 信光(かねがえ のぶみつ、1912年(大正元年)1月18日 - 2012年(平成24年)12月5日)は、日本の中国語学者。東京外国語大学名誉教授、元同大学学長。 大阪市出身。東京外国語学校支那語科卒。東京外国語大学助教授、教授、1971年4月から1975年3月まで学長、1976年(昭和51年)定年退官、名誉教授。1965年(昭和40年)から1967年(昭和42年)まで、NHKの中国語入門を担当した。2012年(平成24年)12月5日、老衰のため100歳で死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大木 恒四郎(おおぎ つねしろう、1912年 <明治45年>… 大木 恒四郎(おおぎ つねしろう、1912年 <明治45年> 1月18日 - 1993年 <平成5年> 4月9日)は、日本の経営者。埼玉銀行頭取を務めた。位階は正四位。 埼玉県出身。1934年に福島高等商業学校を卒業し、同年に武州銀行に入行。1943年7月に埼玉銀行に転じ、1965年に取締役に就任し、1968年に常務、1971年に専務を経て、1975年に副頭取に就任し、1978年6月には頭取に昇格。1982年6月に会長、1987年6月から取締役相談役を務めた。 1982年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1993年4月9日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
湯山 勇(ゆやま いさむ、1912年1月18日 - 1984… 湯山 勇(ゆやま いさむ、1912年1月18日 - 1984年6月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。 愛媛県宇摩郡別子山村出身。愛媛師範学校を首席で卒業後、愛媛県内の北予中学校、愛媛師範学校、松山高等女学校などで教師を務めた。戦後、愛媛県教職員組合が結成されるとこれに参加し1951年に委員長に就任、翌1952年には愛媛地方労働組合評議会議長にもなる。 1953年の参議院選挙に愛媛県選挙区から出馬(日本教職員政治連盟)し初当選する。勤評闘争では強硬姿勢を取った愛媛県知事久松定武を相手に激しく抵抗し、1958年には参議院文教委員長となったが1959年の参院選で落選する。
上村 千一郎(うえむら せんいちろう、1912年1月17日 … 上村 千一郎(うえむら せんいちろう、1912年1月17日 - 1991年3月20日)は、日本の政治家、弁護士。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(10期)、環境庁長官(第10代)。 1912年(明治45年)1月17日、愛知県渥美郡福江町(現田原市福江町)に生まれた。祖父は実業家の上村杢左衛門であり、父は上村武太郎。12歳のときに父親を亡くした。 愛知県成章中学校(現愛知県立成章高等学校)、早稲田大学法学部卒業。大学卒業後にはドイツ留学の話があったが、千一郎を跡取りと考えていた祖父の杢左衛門が難色を示したことで御破算となった。大学院で憲法を学んだあと、豊橋市で弁護士を開業した。そのかたわら青年塾を開設し人材の育成に情熱を傾けた。
播上 英次郎(はたがみ えいじろう、1912年(明治45年)… 播上 英次郎(はたがみ えいじろう、1912年(明治45年)1月17日 - 2000年(平成12年)3月13日)は日本の実業家。岡山放送社長、サンケイ新聞専務、日本民間放送連盟副会長。 1912年(明治45年)1月17日に東京に生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学経済学部を卒業する。1954年(昭和29年)にニッポン放送に入社し、1958年(昭和33年)にフジテレビに移り、1961年(昭和36年)にサンケイ新聞大阪本社販売局長に就任する。1963年(昭和38年)に広島テレビ取締役、1965年(昭和40年)にフジテレビ電波企画室長、1969年(昭和44年)にサンケイ新聞専務大阪本社代表、大阪新聞社長、日本工業新聞専務、1970年(昭和45年)に関西テレビ取締役、1973年(昭和48年)に同社副社長を経て、1980年(昭和55年)に岡山放送社長に就任し、1988年(昭和63年)に退任する。
鶴ヶ嶺 道芳(つるがみね みちよし、1912年1月17日 -… 鶴ヶ嶺 道芳(つるがみね みちよし、1912年1月17日 - 1972年3月18日)は、鹿児島県熊毛郡中種子町出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は下家 道義。最高位は東前頭2枚目(1942年5月場所)。得意手は左四つ、吊り、櫓投げ。現役時代の体格は188cm、101kg。引退後は井筒部屋を経営し、多くの力士を育てた。 1931年5月場所、井筒部屋から「種子ヶ島」の四股名で初土俵をふむ。相星(4勝4敗)は一度あるが負け越し無しで順調に昇進を重ね、1934年1月場所に新十両。この時「星甲」を名乗る。種子ヶ島、星甲の四股名はともに先代井筒の横綱・2代西ノ海(西ノ海も鶴ヶ嶺同様種子島出身)が若き日に名乗った名で、星甲は師匠から受け継いだものでもあった。
一叩人(いっこうじん、本名命尾小太郎(めいお こたろう)、1… 一叩人(いっこうじん、本名命尾小太郎(めいお こたろう)、1912年1月16日 - 1999年4月9日)は、昭和時代から平成時代の川柳作家。 1912年、宝生流の地謡の能楽師である命尾家の子として東京府に生まれる。元は丹波猿楽の出といい、一族に命尾幾右衛門、命尾長左衛門、命尾与作、命尾(日吉)寿八、命尾寿六(その養子に工学者の命尾寿次)などがいる。 法政大学を卒業。プロレタリア川柳作家の鶴彬の作品や関係資料などを収集し、1977年(昭和52年)には「鶴彬全集」を刊行した。その後絶版となっていた同書は、1998年(平成10年)沢地久枝により増補改訂のうえ再版された。1999年(平成11年)4月9日死去。
大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15… 大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15日 - 2001年(平成13年)2月14日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 陸軍大佐大室勝の息子として生まれる。鹿児島一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、陸軍士官学校本科に入校。日本陸軍時代は司令部偵察機操縦者として活躍し、特に日中戦争時には九七式司令部偵察機をもって多大な功績を挙げ、偵察隊としては異例の功四級金鵄勲章および個人感状拝受の栄誉を受ける。太平洋戦争時代は主に一〇〇式司令部偵察機「新司偵」を愛機として、各司偵隊の隊長を務めた。 戦後は公職追放を経て、航空自衛隊に入隊し、創設時は教官としてパイロットの養成に尽力した。
阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 -… 阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 - 1940年代)は、日本の俳優である。本名阿部 正太郎(あべ しょうたろう)、旧芸名片岡 市女男(かたおか しめお)。1930年代の松竹蒲田撮影所において、磯野秋雄、三井秀男(のちの三井弘次)との「与太者トリオ」で知られる。 1912年(明治45年)1月15日、東京府東京市浅草区阿部川町(現在の東京都台東区元浅草3-4丁目)に生まれる。生年月日については、『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』には同年「2月15日」とされている。父・阿部三之助は、芝居関係の仕事をしていた人物であるとされる。 数え年9歳になった1920年(大正9年)、父の仕事をきっかけに、新派の河合武雄一座に入門し、九州巡業で初舞台に立つ。
池田 満枝(いけだ みつえ、1912年〈明治45年〉1月15… 池田 満枝(いけだ みつえ、1912年〈明治45年〉1月15日 - 2001年〈平成13年〉1月9日)は、日本の58・59・60代内閣総理大臣である池田勇人の妻。広島県、現在の竹原市出身。 医師である大貫四郎吉の二女として生まれた。後に夫となる池田勇人とは、母親同士が従姉妹で再従兄妹に当たる。実兄の大貫修郎は陸軍少尉・軍医で、旧制崇徳中学校、旧制千葉医科大学を卒業し、戦後地元の竹原で開業医となった。 広島の名門である山中高等女学校在学中に父を亡くし、卒業式の前日に母・池田秀を亡くしている。その後、名古屋市の母方の親戚に引き取られ金城女子専門学校に進学し卒業。金城女子専門学校在学中に脚気にかかって地元の広島へ戻り、同じく母方の親戚である池田家に身を寄せたことがきっかけで、池田勇人と出会う。
島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年… 島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年〉1月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月17日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 青森県弘前市で生まれる。小学校卒業後、市内のタンス店に職工として勤め、その後、無産運動に加わる。1932年、全農青年部青森県連合会執行委員に就任。1934年、日本共産党に入党したが、同年に検挙され懲役3年となり服役した。 戦後、日農の再建に尽力し、また日本社会党の結成に加わり、同青森県連選挙対策部長、同書記長、同委員長、弘前市議会議員、青森県議会議員などを務めた。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に青森県第二区から出馬して当選。
畔柳 二美(くろやなぎ ふみ、1912年(明治45年)1月1… 畔柳 二美(くろやなぎ ふみ、1912年(明治45年)1月14日 - 1965年(昭和40年)1月13日)は、日本の小説家。北海道千歳市生まれ、1928年に北海高等女学校卒業。 旧姓遠藤。北海道千歳郡千歳村(現・千歳市字水明郷)の王子製紙株式会社千歳第一発電所の社宅に、発電所技師であった父遠藤彌次郎、母サキの次女として生まれている。姉八重、弟彌弘、満、實の五人姉弟であった。 1918年(大正7年)発電所内の私立小学校に入学したが、1年程で発電所の勤務が北海道虻田郡狩太村(現在のニセコ町)に移って、狩太尋常小学校に転校し1924年(大正13年)3月卒業、同年4月に札幌市の北海高等女学校に入学している。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1912年1月14日 - 20… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1912年1月14日 - 2006年1月30日)は、日本の歴史学者。山形大学名誉教授。国士舘大学教授。山形県出身。 1912年(明治45年)1月14日、山形県川西町小松に生れる。旧米沢興譲館中学、1931年(昭和6年)福岡高等学校文科乙類卒業、を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学文学部国史学科卒業、同大学院に進学。日本史学の重鎮であった黒板勝美博士の下で研鑽。1936年4月人文科学資料研究科助手、1938年(昭和13年)から1942年まで、北京近代科学図書館勤務。これをきっかけとして、近代日中関係史に関心を持つ。 1942年山形高等学校教授、1949年山形大学文理学部助教授、1952年山形大学補導課長、1967年山形大学人文学部教授・山形大学評議員、1969年山形大学人文学部長、1973年山形大学学生部長、1977年退官に際して名誉教授。