石原 円吉(石原 圓吉、いしはら えんきち、1877年(明治… 石原 円吉(石原 圓吉、いしはら えんきち、1877年(明治10年)12月7日 - 1973年(昭和48年)2月2日)は、大正から昭和期の漁業関係者、政治家、実業家。衆議院議員(3期)、三重県志摩郡和具町長。初名は彦四郎。 三重県英虞郡和具村(現志摩市志摩町和具)で、先代・石原円吉の長男として生まれる。1919年(大正8年)家督を相続し円吉を襲名。 三重県会議員、同議長、和具町長を務め、水産振興、漁港整備などに尽力。また、三重県水産会長、三重沃土取締役社長、石原満俺取締役社長、三重県鮮魚運搬統制組合理事長、ラジオ三重監査役、三重交通取締役、志摩観光ホテル取締役、全国漁業協同組合連合会監事、三重県漁業協同組合連合会長、伊勢志摩国立公園協会長などを務めた。
辻本 満丸(つじもと みつまる、1877年(明治10年)12… 辻本 満丸(つじもと みつまる、1877年(明治10年)12月4日 - 1940年(昭和15年)4月24日)は、日本の応用化学者。スクアレンを発見した事で知られている。 翻訳者の辻本一貫の子として東京に生まれる。第一高等学校卒業後、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し応用化学を学んだ。卒業後の1901年に農商務省附属の東京工業試験所に入り、主に生物に含まれる油脂成分専門の研究助手となる。1915年(大正4年)工学博士。後に技師に就任し1915年(大正4年)から1930年(昭和5年)の退官まで、同試験所の第二部長となり、多くの生物における油脂化学研究や調査を行った。 特にフジクジラ、カラスザメ、カスミザメ等サメを中心に油脂成分の研究に没頭し、クロコザメの肝油から初めて不飽和度の高い炭化水素スクアレンC30H50 を発見、命名したが、これは動物界における炭化水素の最初の発見である。
八並 武治(やつなみ たけじ、1877年(明治10年)12月… 八並 武治(やつなみ たけじ、1877年(明治10年)12月4日 - 1947年(昭和22年)7月10日)は、明治末から昭和前期の政治家、弁護士。憲政会、立憲民政党、日本進歩党に所属。衆議院議員を通算7期務めた。 大分県下毛郡、のちの鶴居村(現中津市)で、八並甚六の四男として生まれた。第二高等学校から東京帝国大学法科大学(独法)に進み、1909年(明治42年)に卒業。卒業後は八王子に弁護士事務所を開業し、1915年(大正4年)から翌年まで箕浦勝人逓信大臣の秘書官を務め、憲政会に入党した。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙で当選。以後、7回の当選回数を数えた。その間、加藤高明内閣・第1次若槻内閣で司法参与官、第2次若槻内閣・齋藤内閣で司法政務次官を歴任した。
瀬間 福一郎(せま ふくいちろう、1877年〈明治10年〉1… 瀬間 福一郎(せま ふくいちろう、1877年〈明治10年〉12月4日 - 1962年〈昭和37年〉10月)は、日本の盲目の盲学校教師で、鍼灸按摩の仕事もしながら群馬県における初期盲教育の実行に力を注いだ。 1877年(明治10年)、群馬県北甘楽郡馬山村(現・甘楽郡下仁田町)で生まれた。幼少期に角膜乾燥炎により失明する。下仁田の木暮城定について鍼を習った。1893年(明治26年)に、東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)へ入学する。当時の東京盲唖学校は、1890年に小石川区(現・文京区)指ヶ谷町に寄宿舎が新築され、翌年には新校舎もできて築地から移転した直後であり、また同校の石川倉次が1890年(明治23年)11月に校長の小西信八と相談して新しく日本点字を創案して日本でも点字が使われるようになったばかりであった。
葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)1… 葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)12月3日 - 1960年(昭和35年)10月7日)は、日本の教育者。 長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)出身。私立尋常中学猶興館中退、私立日本中学校、旧制一高を経て1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学独逸文学科を卒業。1909年(明治42年)、第一高等学校教授に就任した。1922年(大正11年)、文部省督学官に転じ、翌年から学校制度研究のためドイツ・イギリス・アメリカ合衆国に出張した。帰国後、山形高等学校校長となり、1930年(昭和5年)に第七高等学校造士館館長に転じた。1933年(昭和8年)に大阪外国語学校校長に就任し、1940年(昭和15年)に退官した。
鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日… 鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日 - 1949年〈昭和24年〉5月21日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県佐賀市出身。 佐賀県佐賀中学校、福岡県立尋常中学修猷館を経て、海軍兵学校第25期入校。入校時成績順位は36名中第4位、卒業時成績順位は32名中第3位。 鳥巣の経歴の特徴は教育部門勤務とイギリス派遣が目立ち、駐在武官2回、艦船回航委員2回の計4回の在英経験は当時としても多い方である。1924年(大正13年)から1925年(大正14年)には、東宮御用掛として海軍軍事学を進講した。 艦隊司令官在勤2年未満を理由に大将昇格は見送られ予備役に編入された。
岡田 伊太郎(おかだ いたろう、1877年(明治10年)12… 岡田 伊太郎(おかだ いたろう、1877年(明治10年)12月1日 - 1961年(昭和36年)1月26日)は、日本の商人(農産物貿易商)、政治家・衆議院議員(立憲政友会)、実業家。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 福井県坂井郡金津町(現・あわら市)に生まれる。生家は米穀商を営む。岡田猪平の二男、あるいは長男。1890年、従兄の初代福山甚三郎を頼って北海道に渡り、福山醸造で働く。 その後独立し、1895年、札幌郡江別村(現江別市)で雑穀商を開業。江別村会議員、同町会議員、北海道会議員、江別倉庫社長、北海道農林社長などを務めた。また江別の電気事業に関わり、函館水電取締役、北海道電力顧問を歴任し、江別発電所(1991年廃止)の建設に尽力した。
坂部 十寸穂(さかべ としお / とすお / ますお、187… 坂部 十寸穂(さかべ としお / とすお / ますお、1877年(明治10年)12月1日 - 1930年(昭和5年)11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・寺沢。 高知県板野郡、後の北灘村(現徳島県鳴門市北灘町)で、徳島藩士・寺沢男也の三男として生まれた。6歳で父を失い、母方の実家、元徳島市長・坂部広織の養子となる。徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)を経て、1895年(明治28年)12月、士官候補生となり、翌年9月、陸軍士官学校に入学。1897年(明治30年)11月、陸士(9期)を卒業。翌1898年(明治31年)6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第15連隊付となる。 1901年(明治34年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。
鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月3… 鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月30日 - 1962年〈昭和37年〉3月8日)は、農商務官僚、衆議院議員、小田原市長。 神奈川県足柄下郡小田原町(現在の小田原市)出身。鈴木善左衛門の長男。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務属、同書記官・参事官、水産局漁政課長、大臣官房課長、特許局長を歴任した。 官を辞し、漁業を営み傍ら会社の重役である。日本漁網船具社長、小田原魚市場社長などを務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲政友会に所属。合計で4回の当選を重ねた。1944年(昭和19年)には小田原市長に選出された。
佐藤 勧(さとう すすむ、1877年(明治10年)11月29… 佐藤 勧(さとう すすむ、1877年(明治10年)11月29日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、台湾総督府官僚。 東京府出身。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格し、奈良県事務官、和歌山県警察部長、千葉県警察部長、福岡県警察部長、佐賀県内務部長、千葉県内務部長、熊本県内務部長を歴任。その後、台湾総督府事務官に転じ、新竹州知事に就任した。 1950年の時点で故人であったとされる。
来馬 琢道(くるま たくどう、1877年11月28日 - 1… 来馬 琢道(くるま たくどう、1877年11月28日 - 1964年7月10日)は、日本の僧侶、政治家。参議院議員(1期)。仏前結婚式の創始者ともされる。 東京出身。来馬立道、西有穆山に師事。1900年、浅草の曹洞宗万隆寺に晋山し、翌年曹洞宗大学を卒業。仏教青年伝道会に携わり、自坊で「仏前結婚式」の導師を務めるなど多彩な活動を行なう。1911年にはシャムの皇帝戴冠式に出席。曹洞宗宗議会議長、教学部長、庶務部長、顧問など宗内の重要ポストに就き、『曹洞宗全書』の編纂に尽力。1932年には大陸に渡り満洲、内蒙古の宗教事情を調査した。日朝親善協会会長なども務めた。晩年には大本山永平寺の西堂となった。1945年、紺綬褒章受章。
前田 卯之助(まえだ うのすけ、1877年(明治10年)11… 前田 卯之助(まえだ うのすけ、1877年(明治10年)11月18日 - 1937年(昭和12年)7月13日)は、日本の実業家、政治家。立憲民政党所属の衆議院議員。 兵庫県二方郡居組村(現:美方郡新温泉町居組)で前田利助の二男として生まれる。1903年、明治法律学校を卒業。 1905年12月、函館に移り、尼崎汽船会社を経て、函館商船 (株) を設立して社長となるが、1917年に倒産。その後、函館時事新聞社社長となる。 政界では、北海道会議員、同参事会員、函館市会議員、同参事会員を歴任。1918年7月、第13回衆議院議員総選挙補欠選挙で北海道庁函館外三支庁管内から出馬して初当選し、さらに1930年2月の第17回総選挙で北海道第3区から出馬して当選し、衆議院議員を二期務めた。
菅野 経三郎(かんの つねさぶろう、1877年11月17日 … 菅野 経三郎(かんの つねさぶろう、1877年11月17日 - 1956年12月18日)は、日本の政治家。第7-9代岡崎市長(3期)、愛知県会議員、岡崎市会議員を歴任した。 名は經三郎とも表記される。 愛知県額田郡岡崎連尺町(現・岡崎市)で岡崎藩士の子として生まれる。額田郡高等小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)卒業後の1893年(明治26年)、東京市本郷の伊勢屋呉服店へ入店。1898年(明治31年)12月、連尺町で姫路屋呉服店を開業した。その後長く岡崎商業界の重鎮をなした。 42歳の時に政界へ進出。1920年(大正9年)9月3日、岡崎市会議員に就任する。1923年(大正12年)、国道1号の整備をめぐって市会内で、今ある路線を改修するという派と、新たに南側に路線を作るという派との対立が生まれる。
武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月… 武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月15日 - 1939年(昭和14年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、教育者。最終階級は陸軍少将、兵庫県立赤穂中学校(現:兵庫県立赤穂高等学校)の初代校長。 福島県安積郡福良村出身。父は旧会津藩藩士で県会議員の武川定八。安積中学から陸軍士官学校に進み、1897年(明治30年)卒業(9期)。1898年(明治31年)歩兵少尉に任官。陸軍大学校在学中に歩兵第27連隊の中隊長として日露戦争に出征。旅順攻囲戦に加わり203高地の攻防戦で負傷している。 戦後陸大(18期)を卒業し、教育総監部課員、歩兵第57連隊大隊長、第13師団、東京衛戍総督部の各参謀を経て歩兵第3連隊の連隊長に就任する。
横山 勝太郎(よこやま かつたろう、1877年〈明治10年〉… 横山 勝太郎(よこやま かつたろう、1877年〈明治10年〉11月15日 - 1931年〈昭和6年〉5月12日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(東京府第一区選出、当選5回)。族籍は広島県平民。 広島県比婆郡東城村(のち東城町、現在の庄原市)出身。横山市松の長男。1900年に日本法律学校(のち日本大学法律科)を卒業。 1902年に判検事登用試験・弁護士試験に合格、司法官試補に任じ山口地方裁判所及び同区裁判所詰を命ぜられた。翌年に官を辞し、広島に弁護士事務所を開設したが東京に転じ、訴訟事務に従事する。1926年には東京弁護士会会長に就任している。 1914年、東京市会議員に当選。さらに1917年の第13回衆議院議員総選挙に当選し、国政に進出した。
宇都野 研(うつの けん/きわむ、1877年(明治10年)1… 宇都野 研(うつの けん/きわむ、1877年(明治10年)11月14日 - 1938年(昭和13年)4月3日)は、日本の小児科医、歌人である。 愛知県額田郡本宿村に医家の子として生まれる。後に上京し東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、1912年(明治45年)には文京本郷にて小児科病院を開設して、乳幼児の診療にあたった。後に竹柏会に参加し、佐佐木信綱や窪田空穂、若山牧水に師事し和歌を学び、鋭い現実との結んだ作風を取り入れた。没後は多磨霊園に葬られた。門人に杉田つるらがいる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
松井清足(まつい きよたり、1877年11月13日 - 19… 松井清足(まつい きよたり、1877年11月13日 - 1948年2月29日)は、日本の建築家である。大林組取締役。日本建築学会名誉員。 明治10年(1877年)11月13日、名古屋市中区中の町で誕生。明治36年(1903年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業する。同年、職を辞した辰野金吾のもと、辰野葛西建築事務所の事務員として勤務。東京駅の設計などに関与。海軍省技師を経て、大正13年(1924年)に大林組に入社。翌12月に取締役に就任。昭和10年(1935年)辞任。昭和17年(1942年)に日本建築学会名誉員となる。昭和23年(1948年)2月29日逝去。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。
梅田 寛一(うめだ かんいち、1877年〈明治10年〉11月… 梅田 寛一(うめだ かんいち、1877年〈明治10年〉11月10日 - 1955年〈昭和30年〉11月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県深津郡中津原村(深安郡中津原村、御幸村字中津原を経て現福山市御幸町中津原)出身。1905年(明治38年)日本大学法律科卒。鞆町議、沼隈郡議、広島県議、同参事会員、広島県水産組合副組合長、讃岐電気軌道(株)取締役となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において広島13区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1955年死去。
今村 惟善(いまむら いぜん、1877年(明治10年)11月… 今村 惟善(いまむら いぜん、1877年(明治10年)11月9日 - 1925年(大正14年)4月25日)は、日本の内務官僚。 山形県米沢市福田町にて今村知義の三男として生まれる。今村家は米沢藩の御扶持方(中士階級)の家柄である。同姓の今村信次郎は縁戚にあたる。1903年(明治36年)、日本大学本科卒業。1904年(明治37年)、大蔵属となり、1907年(明治40年)に高等文官試験に合格した。1908年(明治41年)、北海道庁警視となり、札幌警察署長、大分県事務官、同警察部長、山梨県警察部長、長崎県警察部長、栃木県内務部長を歴任した。 1921年(大正10年)に退官した後は、京都市助役を務めた。
渡辺 幾治郎(わたなべ いくじろう、1877年〈明治10年〉… 渡辺 幾治郎(わたなべ いくじろう、1877年〈明治10年〉11月8日 - 1960年〈昭和35年〉1月30日)は、日本近代史を専門とする歴史家である。 1877年(明治10年)に新潟県魚沼郡小千谷町(現・小千谷市)に生まれ、早稲田大学文学部史学及英文科卒業、京都帝国大学文化大学史学科専科卒業、和歌山県誌編纂主任を経て、1915年(大正4年)、 明治天皇紀を編修する宮内省の臨時編修局(のち臨時帝室編修局)に入り、編修(のち編修官)に就任する。 1933年(昭和8年)、明治天皇紀の完成に伴い退官する。その後、春畝公追頌会において伊藤博文伝の編集に参加し、1937年(昭和12年)、憲政五十年史を編纂する衆議院憲政史編纂会の編纂主任となる。
久須美 東馬(くすみ とうま、1877年(明治10年)11月… 久須美 東馬(くすみ とうま、1877年(明治10年)11月6日 - 1947年(昭和22年)10月22日)は、明治末から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。収賄事件を起こし、逮捕後破産した。 新潟県三島郡小島谷村(島田村、和島村を経て現:長岡市)で、政治家・実業家、久須美秀三郎の長男として生まれる。開成中学校(現:開成中学校・高等学校)を経て、1901年(明治34年)東京専門学校英語政治科を卒業した。 1906年(明治39年)、父や渡邊嘉一などが進めていた越後鉄道の敷設計画に参画し、1911年(明治44年)越後鉄道が創設されると常務取締役に就任した。その後、同社長、寺泊銀行監査役、同頭取、新潟日報社監督、日英醸造社長などを務めた。
深見 寅之助(ふかみ とらのすけ、1877年〈明治10年〉1… 深見 寅之助(ふかみ とらのすけ、1877年〈明治10年〉11月2日 - 1928年〈昭和3年〉3月6日)は、日本の政治家。東伯方村長、愛媛県会議員、同議長。衆議院議員。 総理府局長を務めた深見吉之助は長男。 愛媛県越智郡木浦村(伯方町を経て現今治市)、伯方島で江戸自体以前より製塩業を営む家に生まれる。幼くして今治の漢学者・菅周庵に師事し、9歳にして宇和島藩藩主伊達宗紀の前で複数回にわたって書を披露した記録が残る。今治市伯方町の三島神社には9歳の書「敬神愛国」の四字額が今も神前に掲げられている。 愛媛で初めてガスが灯された1912年(明治45年)から遅れること2年、1913年(大正2年)東予を営業区域とする今治瓦斯(後の四国ガス)を設立し、愛媛の近代化に貢献した。
柴田 善三郎(しばた ぜんざぶろう、1877年11月 - 1… 柴田 善三郎(しばた ぜんざぶろう、1877年11月 - 1943年8月25日)は、日本の官僚。静岡県出身。
井上 孝平(いのうえ こうへい、1877年(明治10年)11… 井上 孝平(いのうえ こうへい、1877年(明治10年)11月 - 1941年(昭和16年)2月11日)は、明治から昭和時代の囲碁棋士。埼玉県入間郡高麗村生まれ、方円社、本因坊秀哉門下に所属。六段。 幼少から囲碁をたしなみ、少年時代には入間の郡代小僧と称されて知られていた。17歳頃に方円社の巌崎健造に、見習い初段として岩佐銈とともに入門、それとともに本因坊秀栄にも教えを受けた。1900年に方円社より初段を認められる。同年に國學院大學を卒業し、文筆業を志し、脚本家や新聞記者を目指したが、その後は囲碁の道に進む。1905年から06年に関西地方を行脚して力を付け、帰京後に岩佐銈五段と三段格の手合で対局したところ、東京日日新聞への棋譜掲載にあたり三段免許を薦められ、本因坊秀元門下として三段を受けた。
島 欽一(しま きんいち、1877年(明治10年)10月28… 島 欽一(しま きんいち、1877年(明治10年)10月28日 - 1941年(昭和16年)10月28日)は、日本の実業家、グラフィックデザイナー。日本初の図案社とされる島丹誠堂図案社の創業者。 三代続く画人の家系に生まれたが、本格的な美術を捨て広告図案という商業美術の分野に専念し、当時珍しかった「石埭流」の文字を扱い、戦前における多くの新聞広告や図案を考案した。 石埭流は書家・永坂石埭(1845年 - 1924年)の書体だが、欽一が使用した書体はそれに創意工夫を加えたものだった。 欽一は、1934年にいすゞ自動車の初代社章(通称、さざなみマーク)を考案したことでも知られる。社章を考案した当初は自動車工業(いすゞ自動車の前身)の車の商標を制作したに過ぎなかったが、1949年にいすゞ自動車が設立された際に初代社章として採用された。
末広 恭二(すえひろ きょうじ、1877年10月24日 - … 末広 恭二(すえひろ きょうじ、1877年10月24日 - 1932年4月9日)は日本の造船工学者。東京帝国大学教授、地震研究所所長。日本の造船工業の発展に寄与。末広鉄腸の次男。末広恭雄の父。 1900年東京帝国大学工科大学を卒業、長崎三菱造船所に入社。1911年東大教授となる。 主に船体の応力・振動・動揺について研究した。1919年三菱造船所に研究所の設置を提案、自ら所長になる。また、関東大震災後、寺田寅彦とともに東京帝大地震研究所の創設につくし、初代所長となる。 1922年「伝動軸の捩れ計の研究」で帝国学士院賞を受賞する 1931年には米国土木学会に招かれ渡米し、日本の地震学、地震工学を紹介した。
河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月2… 河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月24日 - 1960年(昭和35年)7月21日)は、日本の官僚・政治家。侍従次長や参議院議長(第4代)を歴任する。静岡県出身。 静岡県佐野郡上張村にて生まれた。1897年(明治30年)静岡県尋常中学校卒業。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年(大正7年)に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となった。1927年(昭和2年)から侍従次長兼皇后宮大夫、1930年(昭和5年)から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。
水上 泰生(みずかみ たいせい、1877年10月24日 - … 水上 泰生(みずかみ たいせい、1877年10月24日 - 1951年2月21日)は、日本の日本画家。
植松 雅道(うえまつ まさみち、1877年10月23日 - … 植松 雅道(うえまつ まさみち、1877年10月23日 - 1941年6月3日)は子爵植松家の第3代当主であり、松月堂古流家元。宮内庁式部官を務めた。 植松家は権大納言・千種有能の末子、植松雅永を祖とする旧公卿家。植松雅平の二男として1877年(明治10年)10月に東京で生まれた雅道は、大正天皇の六人の御学友の一人として学習院初等科で学び、1891年(明治24年)7月に卒業。1899年(明治32年)5月に慶應義塾へ入社するも、翌1900年11月に退学し、本籍地である京都へ移った。また一時、岩手県にあって日本で最初にコークス銑を産出した製鉄所として知られた釜石鉱山田中製鉄所に勤めている。 宮内省では主殿寮出張所の殿掌を務め、1915年(大正4年)4月に父・雅平が没すると翌月家督と爵位を継ぐ。
永瀬 狂三(ながせ きょうぞう、1877年10月23日 - … 永瀬 狂三(ながせ きょうぞう、1877年10月23日 - 1955年1月21日)は、大正・昭和戦前期の建築家。東京帝国大学建築学科卒業。京都帝国大学営繕組織に在籍して京都市を中心に活動したことから、京都大学に多くの作品を残している。 1877年(明治10年)、愛知県渥美郡田原(現・田原市)に生まれる。祖父は田原藩国元家老の鈴木弥太夫で、父・永瀬誉の代から永瀬姓を名乗った。「狂三」の名前は、『論語』子路篇の「不得中行而与之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不為也(中行を得てこれに与せずんば、必ずや狂狷か、狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり)」に由来している。 1906年(明治39年)10月、東京帝国大学建築学科を卒業。
角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月… 角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月18日 - 没年不詳)は、大正から昭和戦前期にかけての日本の実業家である。主として電気事業に関与し、名古屋電灯やその後身東邦電力で常務を務めた。群馬県出身。 角田正喬は、1877年(明治10年)10月18日、角田徳太郎の長男として生まれた。出生地は群馬県利根郡沼須村(のちの利南村、現・沼田市)。上京して慶應義塾大学部に学び、1903年(明治36年)5月理財科を卒業した。卒業後はまず横浜の石川商会に入るが、翌1904年(明治37年)8月、大阪の商社日本綿花へと転じる。1905年(明治38年)8月からは同社上海支店勤務となった。 1910年(明治43年)に日本綿花を退職し帰国。
丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17… 丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17日 - 1953年10月14日)は、愛知県出身の日本の曹洞宗の僧侶。 明治10年(1877年)10月17日、愛知県碧海郡筒針村(現・岡崎市)山田栄助の三男として生まれる。1891年、静岡県磐田郡井通村(現・磐田市)の正医寺住職榑松賢童に就いて出家得度。可睡斎で修行し西有穆山・丘宗潭に師事して後を継ぐ。 1902年(明治35年)に曹洞宗大学林(現・駒澤大学)を卒業、1915年(大正4年)に修禅寺38世住職・安泰寺住職を継ぐ。 曹洞宗大学林副学監、永平寺後堂、總持寺西堂、ソウル博文寺住職を歴任し、1947年(昭和22年)に帰国後、永平寺西堂、永平寺東京別院監院、永平寺副貫首となる。
立花 俊道(たちばな しゅんどう、1877年10月17日 -… 立花 俊道(たちばな しゅんどう、1877年10月17日 - 1955年4月2日)は、日本の仏教学者、哲学博士。曹洞宗の僧侶。第14代駒澤大学学長、学監。号は天眞。 佐賀県杵島郡南有明村(現・白石町)生まれ。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学。1905年(明治36年)曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。宗門海外留学生としてセイロン(現スリランカ)に渡り、コロンボ市ピデョーダヤ・カレッジ(ピヂョノダヤ・カレッジ)でパーリ語や梵語(サンスクリット)、原始仏教を学ぶ。1919年(大正8年)インドシナ、タイ、ビルマなどを経て英国オックスフォード大学に留学。1922年、同大学にて哲学博士号を取得(研究成果は1926年「The Ethics of Buddhism」として出版)し帰国。
福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1… 福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1963年12月12日)は、日本の作曲家、教育者。富山県中新川郡上市町出身。帝国音楽学校校長、武蔵野音楽大学創設者であり初代学長。 富山県中新川郡宮川村(現上市町)浄誓寺住職・福井智拓の五男として誕生。1899年に東京音楽学校へ進学し授業補助をしていた瀧廉太郎と出会う。声楽指導法や歌曲集編纂に尽力する。歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やして約1000曲の音楽作品を遺した。1904年長野師範学校教諭、1928年に第一次帝国音楽学校校長に就任。同年辞任し同校生徒らと共に、翌1929年に武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創設し移籍する。1949年に新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長に就任した。
中島 守利(なかしま もりとし、1877年(明治10年)10… 中島 守利(なかしま もりとし、1877年(明治10年)10月15日 - 1952年(昭和27年)1月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡新宿町長。 東京府南葛飾郡新宿町(現東京都葛飾区新宿)で、農業・中島藤左衛門の長男として生まれる。5歳で勝鹿小学校(現在の葛飾区立新宿小学校)に入学し、13歳で同高等小学校を卒業。独学で学問を修め、17歳で新宿郵便局長に就任。その後、新宿町長、東京府会議員、同参事会員、同郡部会副議長、同農会議員、同教育会議員などを歴任。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で東京府第十五区から立憲政友会所属で出馬して当選。その後、第18回総選挙まで連続5回の当選を果たしたが、1928年、京成電車疑獄事件に連座。
松本 烝治(まつもと じょうじ、明治10年(1877年)10… 松本 烝治(まつもと じょうじ、明治10年(1877年)10月14日 - 昭和29年(1954年)10月8日)は、日本の商法学者(憲法学者ではない)。東京府士族。法学博士。戦後、憲法草案(松本試案)を作成したことで知られる。
樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月1… 樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月14日 - 1932年(昭和7年)10月27日)は、日本の海軍軍人(最終階級は海軍少将)、政治家(鹿児島市長)。族籍は鹿児島県士族。元フィギュアスケート選手・八木沼純子の曾祖父。 鹿児島県薩摩郡藺牟田村(現・薩摩川内市祁答院町藺牟田)出身。医者の次男である。1877年、父が西南戦争に西郷軍の軍医として出征、戦死した。可也は貧しい少年時代を送った。教科書を買う金がなかったため友達から借りて書き写し勉強した。 1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。「大和」航海長などを経て、日露戦争に「和泉」分隊長として出征し、同砲術長となった。
3代 阿由葉 勝作(あゆば かつさく、1877年(明治10年… 3代 阿由葉 勝作(あゆば かつさく、1877年(明治10年)10月13日 - 1952年(昭和27年)8月19日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。幼名は長之助。 2代阿由葉勝作の長男として栃木県足利郡利保村(北郷村を経て現足利市利保町)で生まれる。1894年(明治27年)7月、家督を相続する。慶應義塾に学び、農業を営む傍ら、北郷村長、同村会議員、栃木県会議員、同参事会員、同議長を歴任する。実業家としては東海銀行、足利瓦斯各取締役、野洲新聞社長、東野鉄道取締役、宇都宮常設家畜市場取締役、宇都宮米券倉庫監査役、第二特許織物取締役を歴任する。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では栃木県第6区から憲政会所属で出馬し当選。
貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)… 貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)10月12日 - 1937年(昭和12年)11月2日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・野田。 郡長、税務署長、細川家顧問などを務めた熊本県人・野田慶幸の三男として生まれる。1900年(明治33年)貝谷弥三の養子となり、その長女・多美と結婚し貝谷に改姓。 小学校を卒業後に上京し、1899年(明治32年)7月、東京鉄道学校鉄道建設科を卒業し、鉄道作業局建設部、東京市土木技手、熊本県飽託郡道路組合嘱託、同県水力電気調査助手、天草郡吏員を歴任。 1905年(明治38年)4月、三池炭鉱に入社し、工手長心得、工手長、鉱務技士心得、鉱務技士、建築技師、庶務事務員などを務め、1926年(大正15年)10月に退職した。
飯沼 剛一(いいぬま ごういち、1877年10月9日 - 1… 飯沼 剛一(いいぬま ごういち、1877年10月9日 - 1960年1月11日)は、日本の実業家。大正海上火災保険会長や、東亜火災海上保険社長を務めた。 兵庫県出身。1902年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井物産入社。三井物産台北支店長兼南洋協会台湾支部幹事を経て、1918年新設された大正海上火災保険の支配人に就任。1921年大正海上火災取締役支配人。1928年大正海上火災保険専務。1935年から大正海上火災保険会長として、戦時体制下での統合などを進めた。1940年東亜火災海上保険社長。1941年新設された日本損害保険協会の理事に就任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊良子 清白(いらこ せいはく、1877年〈明治10年〉10… 伊良子 清白(いらこ せいはく、1877年〈明治10年〉10月4日 - 1946年〈昭和21年〉1月10日)は、日本の詩人。本名、暉造(てるぞう)。もともと筆名を「すずしろのや」と称し、後に清白と改めた。 医業のかたわら詩を書き、詩集『孔雀船』を出版し河井醉茗、横瀬夜雨と並ぶ文庫派の代表的詩人。 鳥取県八上郡曳田村大字曳田(八頭郡を経て、現在は鳥取市河原町曳田)に、伊良子政治とツネの長男として出生。父政治は医師で、郡家町大門の医師だった岡田道叔の次男だが、1875年(明治8年)7月に曳田村にいた伊良子春郊の長女つねと結婚し、伊良子の姓を名乗った。母つねは、清白が生まれて満1歳にもならない、1878年(明治11年)9月5日に死去した。
福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3… 福田 五郎(ふくだ ごろう、1877年(明治10年)10月3日 - 1931年(昭和6年)6月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事。 佐賀市出身。兄は佐賀商業会議所会頭となった福田慶太郎。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学卒業。司法官試補から福岡地方裁判所判事、小倉区裁判所判事、熊本区裁判所検事、熊本地方裁判所検事、福岡地方裁判所検事、仙台区裁判所検事、神戸区裁判所検事兼神戸地方裁判所検事を歴任した。1919年(大正8年)、官を辞し、海運業を営んだ。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、3回の当選を重ねた。その間、濱口内閣で逓信参与官を務めた。
小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10… 小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月4日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。 広島県広島市出身。福山誠之館中学、修道学校(現:修道中学校・高等学校)、旧制私立海軍予備校を経て海軍兵学校第26期入校。入校時成績順位62名中第4位、卒業時成績順位59名中第3位。海軍次官、連合艦隊司令長官、台湾総督、翼賛政治会総裁、小磯内閣の国務大臣などを歴任した。 一部の書籍で同郷の加藤友三郎元帥・内閣総理大臣の甥と記載されているが、加藤の兄弟姉妹に小林の縁故者はおらず、加藤との姻戚関係はないことが強く推定される。弟は早川幹夫中将、義弟(妹の夫)は新見政一中将。
沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 19… 沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 1927年7月19日)は、明治・大正期の国文学者・俳人・右翼。本名は武夫(たけお)。名古屋市出身。
鈴木 辰三郎(すずき たつさぶろう、1877年(明治10年)… 鈴木 辰三郎(すずき たつさぶろう、1877年(明治10年)10月1日 - 1952年(昭和27年)1月6日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。福島県平市長。 のちの福島県磐前郡夏井村(石城郡夏井村、平市を経て現いわき市)に生まれる。夏井村会議員、石城郡会議員、同参事会員を経て福島県会議員に当選。ついで同参事会員となったほか、磐城実業銀行、磐城建物各専務取締役、磐城国産工業、磐城片倉製糸各取締役、磐城海岸軌道、磐城林業各重役を歴任した。 1932年(昭和7年)2月の第18回衆議院議員総選挙では福島県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選。つづく第19回衆議院議員総選挙でも当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)1… 鳴海 文四郎(なるみ ぶんしろう、1877年(明治10年)10月1日 - 1933年(昭和8年)2月28日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、醸造家。鳴海醸造店第4代当主。衆議院議員(2期)。幼名は明治郎。 青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)出身。同郡浅瀬石村(現黒石市)の鳴海久兵衛家の分家で屋号は久〇(きゅうまる)といい、中町で1808年(文化5年)から代々酒造業を営んだ。江戸時代は稲村屋を名乗っていた。別家・鳴海理兵衛の長男として生まれ、のち3代鳴海文四郎の養嗣子となった。 黒石町会議員などを経て、1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙では青森県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。
石 鎮衡(ソク・ジンヒョン、1877年10月-1946年)は… 石 鎮衡(ソク・ジンヒョン、1877年10月-1946年)は、大韓帝国・日本統治時代の朝鮮の法学者、政治家、官僚。全羅南道・忠清南道知事。正四位勲三等。本貫は忠州石氏。 朝鮮王国京畿道に生まれる。日本に留学し、1902年に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。卒業後、朝鮮に帰国し、法官養成所・京城専修学校などで法律学の教官に就任する。 1906年、梅謙次郎の韓国政府法律顧問への就任にともない、その通訳及び不動産法調査会の調査委員に就任する。 韓国併合後は全羅南道参与官などを経て、1924年に忠清南道知事(-1926年)、1926年に全羅南道知事(-1929年)に就任し、1929年に退官する。 その後、東洋拓殖監事、北鮮酒造社長などを歴任した。
浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年… 浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年)は、日本の撮影技師。日本人で初めて活動写真(映画)を撮影した人物である。 小西写真店は1897年(明治30年)10月に、イギリスのバクスター・アンド・レイ社より撮影機を輸入した。本機械は輸入販売する為に仕入れたものだったが、使用方法を知らなかったため、うっかり発表することも出来なかった。そこで小西に命じられて機械の試験撮影を頼まれたのが、小西の店員で当時20歳の浅野だった。試行錯誤の末、撮影・現像に成功し、12月31日に日本橋の光景を写した『日本橋の鉄道馬車』を完成させ、日本人が撮った最初の映画となった。 その後、浅草観音境内で老婆が鳩に豆を撒く姿を写した『浅草観音』、『上野の汽車』『品川の海岸』など風景を写したものを撮り、1898年(明治31年)には劇的シチュエーションを持つ『化け地蔵』『死人の蘇生』といった小編を撮影している。
大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月… 大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月 - 1954年(昭和29年)10月)は、日本の実業家、政治家。 初代大泊町町長、樺太銀行専務取締役。 石川県江沼郡瀬越村(現在の加賀市大聖寺瀬越町)出身。1877年(明治10年)10月本谷惣次郞の四男として生まれる。 1897年(明治30年)大阪高等商業学校を卒業した後北海道に渡り、小樽の板谷商船に入社する。数年後適齢と共に陸軍に入隊し、満期後も再役して陸軍二等主計となる。 1906年(明治39年)に樺太へ渡島して商界に従事する。米穀雑貨酒造業を営み豊原に支店を構える。1911年(明治44年)に小樽に本店を設ける。 樺太銀行専務取締役に就任。
五味 均平(ごみ きんぺい、1877年10月 - 1924年… 五味 均平(ごみ きんぺい、1877年10月 - 1924年4月14日)は、日本の官僚。 長野県諏訪郡境村小六(現富士見町)に生まれ、第三高等学校から東京帝国大学法科大学を1906年卒業。高等官行政科1908年(明治41年)合格。1907年宮内省入省、御料局配属・帝室会計審査官補から、宗秩寮・図書寮・諸陵寮・帝室林野局事務官兼宮内事務官・法制局参事官を歴任。従四位勲四等。 東京市本郷区(現東京都文京区)駒込曙町の自邸で病気療養中の1924年4月14日午前0時10分死去。享年48。墓所は護国寺共葬墓地。自著等の蔵書の一部は、没後の1929年に早稲田大学が購入、現在同図書館が保有している。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。