喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月… 喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月10日 - 1955年(昭和30年)12月22日)は戦前日本の英語教育者、雑誌編集者。新潟県立高田中学校教諭、早稲田実業学校教員。長年『英語青年』編集を引き受け、引退後は「河畔通信」「鵠沼通信」を連載した。 1876年(明治9年)1月10日愛媛県伊予郡恵久美村(松前町恵久美)の豪農の長男として生まれた。早く父を喪い、教育熱心な母の下、近所の和尚に四書五経を学んだ。地元の小学校に通い、1886年(明治19年)米湊村の高等小学校に編入した。 伯母宅に預けられて松山高等小学校に転校し、『文学之栞』編集に参加した。1889年(明治22年)私立伊予尋常中学校に進学し、1892年(明治25年)卒業した。
橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1… 橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1月7日 - 1947年(昭和22年)2月21日)は、日本の政治家。薬剤師、徳島市長。徳島県徳島市出身。 1876年、徳島市東新町の薬舗「郡茂」の分家、橋本半太郎の長男として生まれる。 小学校を卒業後、大阪市内にある田辺製薬へ勤務し、その傍ら大阪薬学校(現在の大阪大学薬学部)に入学。1890年(明治23年)、14歳の若さで薬剤師試験に合格。後に東京薬学校(現在の東京薬科大学)に進学し1894年(明治27年)7月に同校を修了する。 1904年(明治37年)、徳島市会議員に当選。その後、徳島薬業組合長・徳島市商店研究会長・徳島県薬剤師会長を歴任。
吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月… 吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月6日 - 1937年(昭和12年)10月10日)は、山口県出身の文部官僚。日本語学者。
加藤 耕山(かとう こうざん、1876年(明治9年)1月6日… 加藤 耕山(かとう こうざん、1876年(明治9年)1月6日 - 1971年(昭和46年)1月31日)は、明治から昭和を代表する禅僧。最初は曹洞宗であったが、臨済宗に転向した。しかし曹洞宗の4歳年下の沢木興道とは40年来、兄弟のような交わりであった。室号は是々庵。愛知県西加茂郡三好町(現・みよし市)の出身。世寿96歳。 1876年(明治9年)1月6日、愛知県西加茂郡三好町黒笹に、父加藤長蔵の三男(十人兄弟)として出生。名前は三治郎という。父親は、のちに名古屋に出て酒造業を営む。 1884年(明治17年)、実家では尋常小学校3年まで通った。そして名古屋市守山にある曹洞宗大永寺の小僧となる。僧名は徳成。
石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 194… 石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 1946年4月19日)は、日本の地理学者。京都帝国大学名誉教授。 千葉県出身。千葉県立尋常中学校、第一高等学校卒、1901年東京帝国大学文科大学史学科卒、大学院を経て、1904年神戸高等商業学校教授、1907年京都帝国大学文学部史学地理学助教授兼任、1910-12年英国、ドイツに学ぶ。1919年京大教授。1927年から『日本地理風俗大系』などを編纂。1938年退官。 小川琢治らと京都地理学派の基礎を築いた。門下に小牧実繁などがいる。石橋雅義の岳父。
沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - … 沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - 1956年1月31日)は、日本の小説家、牧師。 和歌山県生まれ。明治学院神学部卒。宗教活動をしながら小説を書き、牧師作家と呼ばれ、児童文学、通俗小説などにも作品を残す、異風の流行作家として知られた。 1876年1月5日、和歌山県日髙郡美山村に生まれる。1895年、和歌山師範学校に学び、川原河小学校(和歌山県)教師となり、この頃から小説等の創作活動を始める。22歳で龍神小学校(和歌山県)校長に就任。この間宣教師ジョン・バックスター・ヘールによりキリスト教に導かれた。1904年、上京し明治学院神学部に入学。1907年、新宮日本基督教会(和歌山県)牧師となる。
池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 -… 池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 - 没年不明)は、日本の建築家。正七位勲六等。工学士。 松本藩士、池田義重の長男として生まれる。1902年(明治35年)、東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)建築学科卒業。同年東宮御所御造営厨設計課勤務を嘱託される。1905年(明治38年)には日露戦争に陸軍歩兵少尉として出征するが、同年再び勤務し、1906年(明治39年)農商務省に入省、技師となる。1909年(明治42年)アメリカ合衆国差遣。 1911年(明治44年)10月、一般の新聞ならびに建築雑誌などにおいて懸賞募集が広告された三菱本館のコンペティションに応募し、2等に選出される。
大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1… 大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1937年1月9日)は、現在の和歌山県御坊市出身で小野川部屋(大坂相撲)、出羽海部屋に所属した元力士。本名は芝松次朗(旧姓阪本)。170cm、90kg。最高位は西前頭3枚目。 大坂相撲に属したが常陸山谷右エ門に憧れ東上し、1905年1月幕内格付出で初土俵入幕。1907年5月場所2日目には横綱・大砲万右エ門と引き分けた。1911年6月に廃業後は、電気器具の貸し出し業を営んだ。
小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日… 小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日 - 1937年(昭和12年)1月20日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡大砂土村長。 埼玉県足立郡土呂村(のち北足立郡大砂土村大字土呂、現:さいたま市北区)で、大地主・小島宅十郎の息子として生まれる。1902年(明治35年)大日本実業会農学科を卒業。 明治法律学校で学んだが、郷里の茶業の衰退を憂いて退学し、帰郷して製茶職人の修業を行う。さらに特産地の宇治、静岡に遊歴して技術を磨き、帰郷して私立製茶伝習所を設立して茶業の振興を図った。その他、養鶏改良、米麦改良、甘藷栽培改良などにも尽力して、その普及を図り、埼玉県農会・群馬県農会・栃木県河内郡農会の嘱託講師、地方森林会議員、埼玉県茶業組合連合会議長などを務めた。
村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治… 村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治9年)1月1日 - 1957年(昭和32年)12月13日)は、日本の農業技術者、政治家。衆議院議員。旧姓・大道。 京都府何鹿郡吉美村(現綾部市)で大道嘉右衛門の二男として生まれる。1898年、大阪府立農学校を卒業。1899年、村上三郎兵衛の長女のへ の入夫となり村上に改姓した。 農事試験場技手、農事巡回教師兼農事試験場長、県立熊本農業学校教諭を経て、村上農園を設立しその経営を行った。その他、何鹿郡農会長、京都府農会副会長、帝国農会評議員、農地開発営団評議員、何鹿郡畜産同業組合長、同郡米穀同業組合長、同郡養蚕業組合長、京都府養蚕業組合連合会議員を務めた。
小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月… 小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月1日 - 1940年(昭和15年)12月28日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(2期)。旧姓は山川、旧名・真純。 三重県安濃郡津城下(現津市)で、山川真源の二男として生まれる。1902年(明治35年)8月、一志郡雲出村(現:津市)の先代・小林嘉平治の養子となり、1908年(明治41年)1月、家督を相続し嘉平治を襲名した。 1901年(明治34年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業する。真宗勧学院教授を経て、1911年(明治44年)三重県会議員に当選する。ほか、三重県農会特別議員、同評議員、津商業会議所顧問、県農会長などを歴任した。
石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 -… 石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 - 没年不明)は、日本および台湾の実業家、技術者、電気工業家。 佐賀県杵島郡住吉村(のち山内村→山内町、現・武雄市)で、石川政右衛門の長男として生まれる。家は代々鍋島氏の藩臣だった。幼時に郷校で学を修め、1889年(明治22年)に上京して欧文成功学館に入って語学を学ぶ。その後、工手学校に入り、芝中学校に転校して卒業した後、高等工業学校に入学して電気科を卒業。東京の三吉電気工場に入って、技師となる。 その後、京都電燈付属工場の主任技師に転じ、さらに横浜電話交換局技師、不二製紐会社電気部技師、横浜ヒーリング商社の主任技師などを経て、明治35年に横浜で電気商社を起こして独力で経営に従事するが不成功に終わり、大阪に出て関西電気商社を設立・経営するがこれもうまくいかなかった。
飯田 吉英(いいだ よしふさ、1876年(明治9年) - 1… 飯田 吉英(いいだ よしふさ、1876年(明治9年) - 1975年(昭和50年))は、日本の畜産学者。養豚と食肉加工の分野で、大きな業績を残した。 1876年(明治9年)12月、茨城県新治郡戸崎村(現在のかすみがうら市戸崎)に、庄屋を務めた豪農・飯田松三郎の長男として生まれた。子供の頃から成績優秀で、特に英語の成績が良かった吉英は、茨城第一中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業後の1896年(明治29年)、 一年志願兵として野戦砲兵第一連隊に入営。1年の勤務を終えると研究を志し、東京帝国大学農科大学に入学、農学を専門的に学んだ。同帝国大学農学実科を卒業後、神奈川県農会を経て、農商務省(現在の農林水産省)技師。
白仁 秋津(しらに あきつ、1876年 - 1948年)は、… 白仁 秋津(しらに あきつ、1876年 - 1948年)は、日本の歌人。本名、勝衛。 三池郡岩本村(現大牟田市岩本)に士族の長男として生まれる。 熊本県立済々黌高等学校を卒業。1902年(明治35年)、北原白秋、田中紫江、杉森秋華ら6人と同人誌 『常盤木』を刊行する。『常盤木』には短歌だけでなく、社会矛盾との戦いの重圧といった苦しみを表した文章も掲載されている。 翌1903年(明治36年)に与謝野鉄幹が主宰する東京新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻に師事し、北原白秋、吉井勇、石川啄木、高村光太郎らと共に明星派に名を連ねる。 1904年(明治37年)3月に北原白秋が白秋の父に無断で県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)を退学して上京する際に、秋津とは密かに別れの挨拶を行っているが、その際に秋津から白秋に蒲原有明の詩集『独絃哀歌』を贈っている。
雨森 俊彦(あめのもり としひこ、1876年〈明治3年〉 -… 雨森 俊彦(あめのもり としひこ、1876年〈明治3年〉 - 1927年〈昭和2年〉)は、陸軍軍医で保定軍官学校教官・医長。尾張藩士の成瀬光太郎の次男。京都の医家、雨森良意の養子。妻は淡路の藤江氏。号は良意。 成瀬光太郎の次男として生まれ、10歳の時に京都無二膏・雨森良意の養子となる。1896年(明治29年)京都医専を卒業し、1902年(明治35年)に保定軍官学校(軍官学校)の教官として大陸に渡る。この頃、藤江氏を妻とし、良意の名跡を継ぎ雨森良意となる。 俊彦が着任した頃の軍官学校校長は馮国璋であった。俊彦は段祺瑞が全省陸軍学堂に統一するまでの間、同校の教官、医長を務める。その間、清国戦時衛生に関する諸規定の制定を行った。
山内 正瞭(やまのうち まさあき、1876年 - 1949年… 山内 正瞭(やまのうち まさあき、1876年 - 1949年)は、日本の政治学者。第4代長崎高等商業学校校長。 愛媛県出身。旧制松山中学(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学院進学。1913年から長崎高等商業学校校長を務め、退任後、東京商科大学教授を務めた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年… 大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年)は、日本の洋画家。大牟礼 南塘とも表記される。本名・時艾(ときはる)。鹿児島洋画壇の祖といわれている。 種子島の現西之表市出身。中学造士館卒業後、大阪を経て上京し、東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に師事し、1900年に卒業して鹿児島県に戻る。鹿児島市の西本願寺前にアトリエを開設。アトリエで公開制作をしたり、春田屋呉服店のショーウインドウに大きなロマン主義美人画を飾ったりと衆目を集め、また確認しうる鹿児島最古の洋画団体「青蛙会」を結成した。 1911年から1930年の約20年間にわたり鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)で美術教員を務め、多くの後進を育成した。
龍田 精三(たつた せいぞう、1876年 - 没年不詳)は明… 龍田 精三(たつた せいぞう、1876年 - 没年不詳)は明治時代の浮世絵師。 小林清親及び田口米作の門人。東京生まれ。精三と号し、「龍田氏」の印を使用した。牛歩とも号す。明治20年から明治30年代に主に戦争絵を描いて活躍したが、詳細は不明。明治34年(1901年)、東京美術学校西洋画科選科修了。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
塙 泉嶺(はなわ せんれい、1876年(明治9年) - 没年… 塙 泉嶺(はなわ せんれい、1876年(明治9年) - 没年不詳)は、茨城県の民間出身の郷土史編纂主任、新聞社(宗教新聞社・政教新聞社)の主幹・社長。1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)にかけて、宗教新聞社・政教新聞社発行による塙 泉嶺の郷土史は、東茨城郡・西茨城郡・那珂郡・久慈郡・多賀郡・真壁郡・新治郡・稲敷郡・筑波郡・行方郡・鹿島郡の11郡に及んでいる。 塙 泉嶺は、茨城県東茨城郡渡里村(現在の水戸市渡里町)の旧跡、一盛長者(一守長者)の里に住んでいた。塙氏は地方の名族であった。宗教学を志し、東京に苦学すること数年、神田三崎町の大成中学校、早稲田大学文学科を卒業後、転向し仏大学に入学し、真俗二諦の教理を修め海外に雄飛すること数年を経て帰国した。
片野 実之助(かたの じつのすけ、1876年 - 1945年… 片野 実之助(かたの じつのすけ、1876年 - 1945年)は、日本の保険学者。元大阪高等商業学校(現大阪公立大学)校長。 東京出身。1893年東京府尋常中学校(現東京都立日比谷高等学校)卒業。1898年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。三重県立四日市商業学校教諭を経て、1905年から2年間休職し、文部省外国留学生としてドイツ、イギリス、アメリカ合衆国に留学した。帰国後、山口高等商業学校教授を経て、1915年から市立大阪高等商業学校校長を務め、母校東京高等商業学校との連絡を強化するなどした。太平洋海上火災保険監査役なども務めた。1945年死去。 義理の娘(息子・実雄の配偶者)は松竹楽劇部の初代トップスターだった飛鳥明子(本名:片野〈旧姓・松田〉貞子)。
園田 真次郎(そのだ しんじろう、1876年 - 1961年… 園田 真次郎(そのだ しんじろう、1876年 - 1961年)は、日本の占い師、作家。日本の気学の祖と言われた。易者名は荻野地角(おぎの ちかく)。 明治9年(1876年)、現在の群馬県桐生市に生まれる。大正13年(1924年)に、日本で流行っていた九星方鑑学(江戸時代の松浦琴鶴の系統の九星を用いる方鑑学の流派)をベースに九星術を気学(九星気学)として簡略化してまとめ、これ以降日本で気学は一般に広まっていった。昭和36年(1961年)死去。
鈴木 千代松(すずき ちよまつ、明治9年(1876年) - … 鈴木 千代松(すずき ちよまつ、明治9年(1876年) - 昭和10年(1935年))は日本の教育者。県下初等教育界の第一人者。 鳥取市に生まれる。鈴木惟孝の長男。 明治21年(1888年)、鳥取県尋常師範学校卒業(第1回生の首席)。米子角盤高等小学校訓導に破格の高給で採用されて話題となった。 明治27年(1894年)、西伯郡淀江町(現在の米子市)の善良高等小学校校長に転じ、明治33年(1900年)、再び角盤校に第2代校長として迎えられた。 角盤校では軍事訓練と質実剛健の校風で名を挙げた。 元鳥取県米子市長野坂寛治によると「先生は、久しく角盤高等小学校長として令名高かったが、後に懇請によって市立高等淑徳女学校長に転ぜられてその校風を樹立せられた。
海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 19… 海老原 半三郎(えびはら はんざぶろう、1876年 - 1953年)は、明治期の大日本帝国陸軍軍人。茨城県龍ケ崎市出身。最終階級は歩兵特務曹長。日露戦争にて金鵄勲章を受章した。 明治期・皇室警護の近衛兵として、全国将兵の中から選抜(五代前まで調査があり、県知事・連隊長・郡市役所幹部・駐在の警察官の責任で推薦された)され、「近衛連隊」に入隊。当時、歴代の皇太子が在籍した近衛歩兵第一連隊は、帝国陸軍の最高峰だった。 日露戦争に出征し、奉天進軍。明治38年(1905年)3月10日、奉天付近では既に屍が累々としており、海老原半三郎の所属する近衛歩兵第一連隊においてもロシア軍の総反撃により、将兵はことごとく第一戦に展開し、肉弾相打つ激戦となる。
加福豊次(かふくとよじ、1876年-1921年10月23日)… 加福豊次(かふくとよじ、1876年-1921年10月23日)は日本統治下の台湾における官僚。台北庁長、台中庁長、台中州知事などを務めた。 原籍は長崎県。東京府北豊島郡滝野川村に生まれ、1891年(明治24年)第一高等学校 (旧制)に入学、1896年(明治29年)陸軍士官学校に入学。1899年東京帝国大学法科大学仏法科卒業後、日露戦争勃発により招集されて主計少尉となり、第1軍付きの国際法顧問として出征。 1905年に台湾地方院検査官となり、1909年より台湾総督府警務課長、保安課長などをへて1914年に台北庁長就任。1917年、総督府事務官に転任、1918年、台北局林務課長に任命され、1919年に台中庁長、翌年地方制度改革に伴い台中州知事に就任したが、 1921年(大正10年)2月、台中疑獄事件により解任され、台湾証券公取の設立準備を進める中、脳出血に腎臓病を合併し46歳で死去した。
菅野 光民(かんの こうみん/みつたみ、1876年 - 19… 菅野 光民(かんの こうみん/みつたみ、1876年 - 1918年6月9日)は、日本の実業家、政治家。十勝日日新聞社長、北海道会議員。 岡山県吉備新本(現・総社市)出身、早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京通信社勤務の後、明治末期に北海道帯広へ移住。先輩から依頼され、小樽新聞(現・北海道新聞)帯広支局長を務めるも1912年に小樽新聞を退職し独立して十勝日日新聞を創刊。1913年の北海道会議員選挙で河西支庁(現・十勝総合振興局)選挙区に出馬し初当選、以降議会活動に注力、1916年に再選し憲政会に所属。 外出時には黒紋付羽織袴姿で手にステッキを持ち町中を闊歩していた。三井徳宝等と「義士会」を結成して毎年演芸会を開き、会の収益を用いて赤穂浪士関係の書籍を収集、没後1921年の解散時には帯広町立大典記念帯広図書館(現・帯広市図書館)に寄贈されている。
小平 総治(こだいら そうじ、1876年 - 1935年10… 小平 総治(こだいら そうじ、1876年 - 1935年10月18日)は、日本の外交官。通訳官。号は綏芳。 長野県安曇郡東穂高村(現安曇野市)生まれ。地元で漢学を修めた後、上京して二松學舎に入学し、三島中洲の教えを受け、善隣書院にも学んだ。1899年中国に留学、義和団の乱に陸軍省通訳官として従軍し、川島浪速の推挙によって北京警務学堂監督となり、1910年には武昌高等巡警学堂教習、1911年には漢国領事館勤務を務め、中国初の近代的警察官養成に従事した。 1914年、粛親王愛新覚羅善耆の邸宅に入り、王府内外の事務、子女の訓育にあたった。その間、政治外交の重要事項に関してしばしば日本政府に進言した。1915年、粛親王を擁立し、満蒙独立を画策したが、孫文らの革命勢力の抵抗、袁世凱の急死によって失敗した。
榎本 儀兵衛(えのもと ぎへえ、1876年(明治9年)- 1… 榎本 儀兵衛(えのもと ぎへえ、1876年(明治9年)- 1935年(昭和10年)10月31日) は、日本の政治家。元稲城村長である。 坂浜に生まれる。20代の若さで助役に就任した。1924年(大正13年)に森円蔵の後を継いで村長に就任する。11年の間村長を務め、元号は大正から昭和に変わった。1935年(昭和10年)10月31日、現役村長のまま死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小澤 一蛙(おざわ いちあ、1876年 - 1960年)は、… 小澤 一蛙(おざわ いちあ、1876年 - 1960年)は、日本の収集家。 本名は小澤幸太郎。一蛙と号した。愛称は蛙の大将。1876年に東京市日本橋に生まれる。東京の吉祥寺に在住した。1908年11月4日に芝高輪の三田平凡寺宅において行われた平凡寺建立落成式及び開山式に参加する。内閣印刷局証券一室に勤務し、印刻を業としていた。1915年、自ら蛙に関する資料を板に刻んで『蛙寶』という雑誌を発刊している。1919年6月6日に開催された我楽他宗第一回宗会にも参加、第三十三番 天禄山蛙宝寺と称して主に蛙に関するものを収集しており、宗における重鎮として、また、末寺筆頭として常に平凡寺の片腕的な存在として活躍していたが、1926年5月末には脱宗している。
内馬場 歳之助(うちばば としのすけ、1876年(明治9年)… 内馬場 歳之助(うちばば としのすけ、1876年(明治9年) - 1956年(昭和31年)12月8日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(1期)。第十六代内馬場家当主であり、諱は信親。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。富谷村会議員、小作調停委員となる。1941年(昭和16年)富谷村長に就任。終戦直後の1945年(昭和20年)9月まで村長を務めた。その後公職追放となった。 1956年(昭和31年)に死去した。 この項目は、宮城県に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/宮城県)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
嵐 璃徳(あらし りとく、1875年〈明治8年〉12月31日… 嵐 璃徳(あらし りとく、1875年〈明治8年〉12月31日 - 1945年〈昭和20年〉12月16日)は、日本の俳優、歌舞伎役者である。本名は井上 徳太郎(いのうえ とくたろう)。関西歌舞伎に始まり、牧野省三が監督した日本初の時代劇映画、日本初の剣戟映画に出演、サイレント映画の時代に映画俳優として活躍した。 1875年(明治8年)12月31日、大阪府大阪市北堀江町(現在の同市西区北堀江)の花柳街の料亭を生家に、「井上徳太郎」として生まれる。その環境から、幼少より芸事を覚える。 満4歳にして1880年(明治13年)、先代・嵐璃徳に入門、2年後の1882年(明治15年)に大阪・角座で初舞台を踏んだ。
森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 -… 森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 - 1928年(昭和13年)1月3日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 在清国全権公使・森有礼の長男として生まれる。父の影響で「英気溌溂」なことも時代を送るが、父の死去に伴い1889年(明治22年)4月4日、子爵を襲爵。 学習院を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学文科大学英文学科を優等で卒業し、恩賜の銀時計を授けられた。 1908年(明治41年)3月7日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 -… 江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 - 1939年12月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓は北村。 和歌山県和歌山市生まれ。1889年、日蓮宗学林を卒業した。1891年12月に日蓮宗の僧侶である叔父の江羅日明の養子となる。1891年、日蓮宗宮谷大学林を卒業した。1895年、哲学館(現・東洋大学)を卒業する。その後は、京都で僧侶になる為の修行を積んだ。1907年に京華日報が創立すると記者となり、後に副社長となった。 1910年4月に京都市会議員に当選した。以後、1913年、1917年、1929年、1937年と5選を果たした。また、1915年9月には京都府会議員となった。
小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉1… 小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉12月24日 - 1936年〈昭和11年〉5月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。衆議院議員。 青森県東津軽郡幸畑村(筒井村、筒井町を経て、現在の青森市)に生まれる。函館中学校を卒業し、警官、陸奥日報記者を経て、日月新聞を主宰後、政治家に転身する。1905年(明治38年)東平内村長となり、1909年(明治42年)まで在職。1907年(明治40年)には東津軽郡会議員、同議長を経て、1915年(大正4年)東津軽郡選挙区から青森県会に立候補し当選し、再選後議長に就任した。 県議に3選後の1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では青森県第5区から政友本党所属で出馬し当選するが、選挙後の訴訟に敗れて失格した。
松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12… 松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12月21日 - 1914年〈大正3年〉12月18日)は、明治・大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・龍若。 旧杵築藩主松平親貴の長男として生まれる。父の死去に伴い1882年(明治15年)10月12日に家督を継承し親信と改名。1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した。 学習院高等科を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、さらに同大学院を修了した。浅草区教育会長を務めた。 1906年(明治39年)2月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。会派は研究会に所属した。 1914年12月18日、東京市浅草区(現・台東区)浅草北三筋町の自宅で病のため死去した。
高原 操(たかはら みさお、1875年12月16日 - 19… 高原 操(たかはら みさお、1875年12月16日 - 1946年11月21日)は、日本のジャーナリスト。大阪朝日新聞主筆兼取締役編集局長。大正デモクラシーの第一線言論人。
黒住 成章(くろずみ せいしょう、前名・佐平治、1875年(… 黒住 成章(くろずみ せいしょう、前名・佐平治、1875年(明治8年)12月16日 - 1928年(昭和3年)7月17日)は、日本の弁護士、会社役員、政治家。衆議院議員(当選3回、立憲政友会)。族籍は岡山県平民。 1875年(明治8年)12月、岡山県津高郡一宮村(後の御津郡一宮町一宮、現在の岡山市北区一宮)で生まれる。黒住秀治の長男。生家は代々農業を営む。小学校卒業後、家業に従事する。 家が貧しく、学資を得ず、上京して牛乳配達、新聞配達等を勤めながら、1902年(明治35年)、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業。 1903年(明治36年)、判検事登用試験に及第し、この年の12月に司法官試補を命ぜられ函館地方裁判所に勤務する。
山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月… 山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月15日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 島根県楯縫郡、後の簸川郡灘分村(現出雲市)で山本才之助の長男として生まれ、1900年(明治33年)に家督を相続した。 松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業。1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業し、1898年(明治31年)6月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1903年(明治36年)8月、陸軍大学校(20期)に入学。日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退し、1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校を卒業し参謀本部に配属された。
6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)1… 6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)12月14日 - 1950年(昭和25年)7月8日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。富山県高岡市長。富山県多額納税者。幼名は清太郎。号・蒼石、杉雨。 新川県射水郡高岡上川原町(石川県、富山県射水郡高岡上川原町を経て現・高岡市川原本町)で、先代・太郎平の長男として生れ、1903年(明治36年)3月に家督を相続し、幼名を改め、6代太郎平を襲名した。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業後、志願兵として従軍し陸軍歩兵中尉に任官する。日露戦争の功により功五級金鵄勲章および日独戦争の功により勲四等を叙勲される。
飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)1… 飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)12月13日 - 1925年(大正14年)6月25日)は、日本の政治家。帝国議会衆議院議員(1期)、鹿児島市会議員、鹿児島県会議員。 鹿児島県鹿児島市金生町出身。飛岡卯右衛門の長男として生まれる。1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1904年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。鹿児島市会議員、鹿児島県会議員を歴任し、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙において鹿児島市選挙区で当選、立憲政友会所属で1期務めた。そのほか、鹿児島商業会議所議員、同副会頭、第百四十七銀行(鹿児島銀行の前身のひとつ)常務取締役なども歴任。
瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 19… 瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日)は日本の小説家、翻訳家、教師。本名は瀬沼 郁子(旧姓:山田)。アントン・チェーホフを初めて日本に紹介した。 高崎県高崎(現在の群馬県高崎市)で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる。両親はともに正教会の信者であり、自身も早くから信者となった。1882年に主教のニコライ・カサートキンが高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに前橋市まで出迎えに行き、大きくなったら駿河台の正教女子神学校に入学するよう勧められたという。1883年によかが結核のため亡くなったが、キリスト教徒である事を理由に先祖代々の墓所への埋葬を拒否されている。
大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月… 大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月11日 - 1955年(昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。日本陶器(現・ノリタケ)初代社長。東洋陶器(現・TOTO)社長、日本碍子社長、伊奈製陶(後のINAX、現・LIXIL)社長、大倉陶園主のほか、森村組取締役などを務めた。 大倉孫兵衛の長男として東京日本橋に生まれ、1921年に家督を相続する。慶應義塾幼稚舎から進んで、1894年(明治27年)慶應義塾正則本科を卒業し、森村組入社。明治28年渡米しイーストマン商業学校で学んだ後、森村組ニューヨーク店森村ブラザースに入る。欧米滞在9年を経て帰国し、明治37年日本陶器合名会社設立し、代表社員に就任。
結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10… 結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10日 - 1957年(昭和32年)3月24日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員。 東京本所荒井町に、「池田屋」という酒屋を営んでいた森田周助の次男として生まれる。本名の貞松は勝海舟の命名といい、奇しくも後に素明は、「江戸開城談判」(聖徳記念絵画館蔵)において海舟の姿を描いている。10歳の頃、親類の結城彦太郎の養嗣子となる。明治24年(1891年)7月岡倉覚三(天心)の紹介で、川端玉章の画塾天真堂(天真社)に入門する。玉章に学びながら明治25年(1892年)東京美術学校日本画科に入学。常に墨斗と手帖を携帯し、目にとまったものは何でも写生したという。
新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12… 新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1932年〈昭和7年〉11月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県出身。新井沢次郎の四男として生まれる。群馬県境野小学校、同山田第一高等小学校、錦城商業学校を経て、1896年(明治29年)11月陸軍士官学校(8期)を卒業。翌年6月、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵第16、9、35の各連隊付を経て、1903年(明治36年)陸軍大学校に入学。 日露戦争の勃発に伴い修学を中退、原隊復帰、第一回旅順攻撃(歩兵第35連隊第12中隊長)、第二回攻撃(歩兵第6旅団副官代理)、第三回攻撃及び奉天の会戦(同副官)に参加。 1907年陸軍大学校(第19期)を卒業。
野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12… 野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1947年〈昭和22年〉7月13日)は、明治・大正・昭和前期の英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の紹介に携わり、また海外に日本文化を紹介した。イサム・ノグチの父親。内田魯庵からノーベル文学賞の受賞を待望された。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)生まれ。雑貨店を営む父・傳兵衛、母・久己(くわ)の四男として生まれた。10歳で英語を学び始める。 1888年(明治21年)生家を離れ名古屋で英学を学び、ユニオン第四読本、スマイルズ著『自助論』を学ぶ。1889年(明治22年)愛知県尋常中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、ザ・セカンド・ナショナル読本を学ぶも、1890年(明治23年)2月退学し、四日市から海路で上京、伯父である鵜飼大俊和尚旧居である芝・増上寺の通元院に寄寓し、のち現在の銀座に当たる京橋にあった長兄野口秀之助の知人である磯長宅に寄寓。
朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2… 朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2日 - 1929年(昭和4年)9月6日)は、明治から大正時代の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。貴族院議員、子爵、工学博士。福知山藩13代(最後)の藩主朽木為綱の子。妻は徳川篤守の娘芳子。陸軍の火薬研究の権威であった。 1883年(明治16年)に父の為綱が没したため家督を継ぎ、1884年(明治17年)7月8日、子爵を襲爵する。慶應義塾幼稚舎を経て、1896年(明治29年)5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業。1897年(明治30年)1月、砲兵少尉任官。陸軍砲工学校高等科で学び、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用化学科を1904年(明治37年)6月に卒業。
松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、18… 松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。政治家(帝国議会衆議院議員1期)。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。
和田 義為(わだ よしため、1875年12月 - 没年不明)… 和田 義為(わだ よしため、1875年12月 - 没年不明)は、日本の実業家。共同酒造株式会社社長、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役。族籍は兵庫県士族。 京都府士族、和田重為の長男として、1875年(明治8年)12月に生まれる。尚、尊皇派志士・正五位の和田義亮は祖父である。 1895年(明治28年)に家督を相続し、1897年(明治30年)、関西法律学校(現・関西大学)法科を卒業する。卒業後は大倉恒吉商店に勤務。その後、共同酒造株式会社社長、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役を歴任した。
長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)… 長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京府深川区深川扇町(現在の東京都江東区木場)で、山本金蔵(幼名・徳治郎)・たけの次男として生まれる。山本家は江戸城築城に携わった棟梁の家系で、代々幕府から俸禄を受けていたが、金蔵の代からは材木商を営んでいた。
西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 … 西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 - 1950年(昭和25年)8月3日)は、日本の大蔵官僚、政治家、銀行家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官。大蔵省の至宝といわれた人物で、八八艦隊計画成立後に、海軍首脳に対しその実施不可能であることを踏まえワシントン会議に臨むよう訴えた。 茨城県出身。西野元聿の長男として生まれる。水戸中学校、第一高等学校を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に首席合格。同年12月、臨時秩禄処分調査局属兼大蔵属に任官。一時期、上京してきた同郷の荒川敬を寄寓させていた。
12代 三木 与吉郎(みき よきちろう、1875年(明治8年… 12代 三木 与吉郎(みき よきちろう、1875年(明治8年)11月27日 - 1938年(昭和13年)6月23日)は、日本の政治家、実業家、漢詩人。衆議院議員、貴族院議員。徳島県松茂町出身。旧名は康治。号は天遊舎愛松。 先代・三木与吉郎順治の長男として板野郡松茂町中来喜で生まれる。後に与吉郎の名を襲名し、藍商・酒造業を営む三木家の12代目となる。後に、藍商を改組して、三木商店を創業し、初代社長に就任。また、阿波製紙も創業し、初代社長を兼ねた。若年、詩を前塚芳南、中村三蕉らに学び、詩・俳句を能くした。その後、二松學舎で学んだ。さらに、衆議院議員、貴族院議員を務める傍ら京都商業学校夜間部にも通い、同校を卒業した。