村田 可朗(むらた よしあき、1900年〈明治33年〉2月1… 村田 可朗(むらた よしあき、1900年〈明治33年〉2月15日 - 1989年〈平成元年〉9月15日)は、日本の実業家。中国電力副社長、中国電気工事社長、広島商工会議所会頭を歴任した。 広島市生まれ。旧制広島高等師範学校附属中学校、旧制第三高等学校を経て、1925年(大正14年)3月東京帝国大学工学部電気工学科卒業、同年大同電力株式会社入社。 1939年(昭和14年)国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策により日本発送電が発足するに伴い入社、関東支店工務部長、山梨支社長、電力技術研究所長、理事を歴任。 1941年の配電統制令を経て、1951年(昭和26年)電気事業再編成令による日本発送電解散に伴い帰郷、発足したばかりの中国電力株式会社に入社し、理事および技術研究所長に就任。
中井 正一(なかい まさかず、1900年(明治33年)2月1… 中井 正一(なかい まさかず、1900年(明治33年)2月14日 - 1952年(昭和27年)5月18日)は、日本の美学者・評論家・社会運動家。国立国会図書館副館長をつとめた。相愛女子専門学校(現:相愛女子短期大学・相愛大学)講師。 1900年2月14日 大阪市の緒方病院で帝王切開にて誕生。日本最初期の帝王切開で、執刀医の緒方正清は緒方洪庵の孫娘の婿。正清から一字もらって正一と命名された。本籍は広島県賀茂郡竹原町(現:竹原市)で、尾道市に育った。 広島高師附属中学に入学し、1918年に卒業。第三高等学校文科甲類に進み、1922年に卒業した。 1922年、京都帝国大学文学部哲学科に入学。大学では、深田康算、九鬼周造らに師事した。
田中 隆三(たなか りゅうぞう、1900年2月14日 - 1… 田中 隆三(たなか りゅうぞう、1900年2月14日 - 1991年2月22日)は日本の編集者。『鉄道ピクトリアル』を発行する電気車研究会の初代社長であり、元鉄道省職員である。 1900年(明治33年)、三重県伊勢市にて生まれる、山田中学に進んだ。1915年(大正4年)、第一回全国中等学校優勝野球大会(今の夏の甲子園)に選手として出場。1917年(大正6年)、鉄道職員であった父の跡を継ぐ形で鉄道院西部鉄道管理局に入る。 1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)まで、鉄道省給費生として山梨高等工業学校(現在の山梨大学)で電気工学を学んだ。卒業後は東京鉄道局運転部を経て水上機関区長、池袋電車区長、尾久検車区長など運転部門の要職を歴任。
神戸 光(かんべ ひかる、1900年2月13日 - 1992… 神戸 光(かんべ ひかる、1900年2月13日 - 1992年1月または2月1日)は、日本の元俳優、映画プロデューサー、新聞記者である。本名は近藤 茂雄(こんどう しげお)。旧芸名は神戸 光男(かんべ みつお)、カンベ・ヒカル。 1900年(明治33年)2月13日、兵庫県神戸市湊町3丁目(現在の同県同市兵庫区)に生まれる。関西学院大学を卒業。 卒業後、貿易商社員や「労働運動」誌支局員、大正活映(神戸光男名義)を経て、1926年(大正15年)6月、アナキストである笹井末三郎(1901年 - 1969年)の紹介で日活大将軍撮影所に入社。神戸光という芸名で畑本秋一監督映画『舶来頓珍漢騒動』などに出演。
中村 俊定(なかむら しゅんじょう、1900年〈明治33年〉… 中村 俊定(なかむら しゅんじょう、1900年〈明治33年〉2月13日 - 1984年〈昭和59年〉8月19日)は、日本の日本文学研究者。専門は日本近世文学、特に俳諧。 愛知県宝飯郡形原町(現・蒲郡市)生まれ。旧名・市川唯治。3歳で、幡豆郡幡豆町の浄土宗西山派の僧中村俊達の養子となり僧籍に入る。京都で7年間僧侶の修行をする。1922年、早稲田高等学院に入学し、片上伸にロシア文学を学ぶ。のちに国文学に転じて早稲田大学文学部国文科に入学し、山口剛に師事する。1928年に卒業して実業之日本社に入社する。担当雑誌の廃刊を機に退職し、深川高等家政女学校、豊島高等女学校、調布高等女学校で教鞭をとる。この間、伊藤松宇の『俳書解題』編纂を手伝い、荻野清と『大芭蕉全集』の企画・刊行に尽力した。
徳安 実蔵(德安 實藏、とくやす じつぞう、1900年2月1… 徳安 実蔵(德安 實藏、とくやす じつぞう、1900年2月13日 – 1988年2月7日)は、昭和期の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(9期)、総理府総務長官・郵政大臣を歴任した。 鳥取県気高郡青谷町(現・鳥取市)に農家の三男として生まれる。幼くして両親とは死別する。青谷実業補習学校を卒業後、近所の住職と神主について2年間漢学を学んだ。『大阪新報』、『東京夕刊』記者、月刊誌『運輸』発行人を経て、芝区(現在の東京都港区)会議員を皮切りに政界入りする。芝区会議長、東京市議、港区議、同区議会議長を経て、1952年第26回衆議院議員総選挙に自由党から旧鳥取全県1区で立候補し初当選する。以後当選9回。東京市議時代から師事していた大野伴睦の派閥(大野派)に入り、大野の死去後は村上勇→水田三喜男派に所属した。
戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月1… 戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年〈明治33年〉2月11日 - 1958年〈昭和33年〉4月2日)は、日本の宗教家、教育家、実業家、数学者。 創価教育学会理事長(初代)、創価学会会長(第2代)、法華講総講頭などを歴任した。 出生名は、戸田 甚一(とだ じんいち)。数度の改名を経て「城聖(じょうせい)」と名乗る。戒名は、大宣院法護日城大居士。 教職者として戸田は現場教育に必要なものをまとめ上げ、文部大臣に建白書を提出する。20歳の時に上京。牧口常三郎に出会い、東京市立西町尋常小学校の代用教員として採用された。その後、一時期は教職を退き職を転々とする傍ら、院外団に身を投じ、犬養毅の側近であった立憲政友会所属の衆議院議員古島一雄の知遇を得る。
飯塚 くに(いいづか くに、明治33年(1900年)2月10… 飯塚 くに(いいづか くに、明治33年(1900年)2月10日 - 平成6年(1994年)10月27日)は、日本舞踊家。英文学者・坪内逍遥の養女。夫は演劇研究家の飯塚友一郎。成女女学校卒業。
城戸 久(きど ひさし、1900年2月10日 - 1981年… 城戸 久(きど ひさし、1900年2月10日 - 1981年9月24日)は、日本の実業家。 城戸久助の長男として福岡県宗像郡福間町(現・福津市)に生まれる。1919年福岡県立中学修猷館を経て、1926年東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。 1926年朝鮮鉄道に入社。その後、戸畑鋳物(日産自動車の前身)、国産工業(戸畑鋳物が社名変更)若松工場庶務課長、日立製作所本店総務部文書課長、同亀有工場勤労部長・総務部長・副工場長・工場長、同本社総務部長を歴任し、1954年11月帝国石油取締役に就任、後に常務に進む。日本中小企業政治連盟事務総長、日本農林漁業政治連盟事務総長なども務めた。 この頃、鮎川義介、犬丸徹三、八田嘉明らが、羽田空港と都内を結ぶ跨座式モノレール線の運行を計画していたが、同時期に、羽田空港-新橋間の懸垂式モノレール線を計画していた、大和観光という会社があった。
梶原 茂嘉(かじわら しげよし、1900年(明治33年)2月… 梶原 茂嘉(かじわら しげよし、1900年(明治33年)2月8日 - 1978年(昭和53年)10月9日)は、日本の農商務官僚、政治家。参議院議員。 兵庫県で裁判所勤務・梶原甚三郎の長男として生まれる。大阪府立北野中学校、第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年4月、農商務省に入省し嘱託となる。 以後、農商務属・食料局業務課配属、農務局米穀課配属、農林属、産業組合事務官、専任農林事務官、産業組合事務官兼農林事務官、水産講習所教授兼農林事務官、農林事務官、京城米穀事務所長、農林書記官、経済更生部産業組合課長、山林局監理課長、米穀局米政課長、農務局農政課長、大臣官房文書課長、兼大臣官房調査課長、商工省繊維局長、企画院第四部長、農商省物価局長、馬政局長官などを歴任し、1945年4月、農商省農政局長に就任し、同年8月に退官した。
岸 勇一(きし ゆういち、1900年(明治33年)2月7日 … 岸 勇一(きし ゆういち、1900年(明治33年)2月7日 - 1978年(昭和53年)12月4日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事。天理大学学長。 奈良県出身。1925年(大正14年)高等試験に合格し、翌年東京帝国大学法学部政治科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、官房審議室土地改良部勤務、総督府事務官・農林局農林振興課長、農政課長、1941年(昭和16年)6月、慶尚南道内務部長を経て、1942年(昭和17年)6月、農林局糧政課長に就任した。その後、咸鏡南道知事を務めた。 1953年(昭和28年)1月から1960年(昭和45年)9月まで天理大学学長、1957年(昭和32年)1月から1964年(昭和49年)10月まで同大学理事長となる。
竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1… 竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1986年11月8日)は日本の政治家、文人。青森県知事、青森放送会長などを務めた。長男の竹内黎一も政治家で、科学技術庁長官などを務めた。 1900年、青森県西津軽郡出精村(後の木造町、現在のつがる市)の農家に生まれる。尋常小学校卒業後、三田英学校を中退し、1925年に東奥日報に入社。『サンデー東奥』編集責任者、社会部長、整理部長、取締役を歴任。1940年に退社(後に顧問)。青森県議会議員を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け、初当選。 第二次世界大戦後は公職追放されたが、追放解除後に民主党公認で立候補した1955年より衆議院青森県第2区で3期連続で当選。
内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 197… 内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 1976年5月12日)は、岐阜県出身の俳人、薬学者。本名は多喜夫。別名に龍膽寺旻、別号に萱雨亭(けんうてい)がある。 岐阜県大垣市生まれ。東京帝国大学薬学科卒。のち名古屋市立大学薬学部長、名城大学薬学部教授などを歴任。岡山六高時代より志田素琴、大須賀乙字に俳句を学び、「獺祭」「草上」「東炎」などに関わる。1946年に「早蕨」を創刊・主宰。「野薊にぴしりぴしりと夕立来ぬ」「あたたかな案山子を抱いて捨てにゆく」など、格調の高い句風で知られたが、晩年はより自由な作風になった。句集に『落葉松』『雨滴声』『早蕨』『鳴海抄』『点心』『臘八』など。また詩を日夏耿之介に師事し、海外の小説や詩集の翻訳もある。
石原 昌淳 (いしはら しょうじゅん、1900年(明治33年… 石原 昌淳 (いしはら しょうじゅん、1900年(明治33年)2月5日 - 1995年(平成7年)10月16日)は、沖縄県の政治家、実業家。 戦前は旧美里村議会議員、美里村助役、沖縄県会議員を、戦後のアメリカ施政権下では沖縄民政(沖縄民政府)議会議員、群島議会議員、琉球政府立法院議員、同中央教育委員会委員長、琉球工業連合会副会長、沖縄製塩社長などを務めた。勲五等瑞宝章受章。 1900年(明治33年)、現在の沖縄県沖縄市泡瀬地区にて生まれる。 大正の末期から昭和10年頃にかけての沖縄の政治界は、本土の二大政党であった民政党と政友会との対立に巻き込まれて、激しい勢力争いが続いていた。沖縄県選出の国会議員や県会議員のほとんどもこの二大政党のいずれかに属し、選挙の際には自派の議員の選出に懸命であった。
金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月… 金 東鳴(キム・ドンミョン、朝鮮語: 김동명、1900年2月4日 - 1968年1月21日)は、朝鮮の詩人、政治評論家、随筆家。 号は超虚(チョホ、초허)。別名は金東嗚(キム・ドンオ、김동오)。教員生活を送りながら民族的悲哀の漂う抒情詩を多く残した。解放後は評論家、政治家としても活動している。 1900年6月4日、江原道溟州郡沙川面蘆洞里に生まれる。父は金済玉、母は申錫愚の一人息子である。幼いころは郷里の書堂に通い、漢文を学んだ。8歳のとき、咸鏡南道の元山に引越し、そこで小学校に入学する。母が苦労して学費を捻出してくれたおかげで、金は1915年に咸鏡南道の永生中学校に進学し、1920年に卒業した。
芙蓉 良順(ふよう りょうじゅん、1900年2月4日 - 1… 芙蓉 良順(ふよう りょうじゅん、1900年2月4日 - 1983年8月13日)は、日本の仏教学者、僧侶。大正大学教授、学長。真言宗智山派管長。智積院62世能化。専門は密教学。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治3… 田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治33年)2月3日 – 1972年(昭和47年)5月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。「田渕」と表記される場合がある。 和歌山県有田郡、のちの金屋町(現有田川町)で生まれた。法政大学専門部法律科で学んだが、関東大震災で負傷し中退した。 1937年(昭和12年)日本林産鉱業取締役社長、1938年(昭和13年)明治採炭鉱業社長にそれぞれ就任し、1942年(昭和17年)から三重県、奈良県で亜炭鉱山上野炭鉱などを経営した。その他、奈良県亜炭鉱業会長、近畿亜炭鉱業会理事、全国亜炭鉱業連合会常任理事、奈良県亜炭協同組合理事長、石炭増産協力会推進専門委員、全国亜炭産業会総務理事、全国亜炭協会長、国際化成社長、伊賀窯業取締役などを務めた。
林 浩正(はやし ひろまさ、1900年(明治33年)2月1日… 林 浩正(はやし ひろまさ、1900年(明治33年)2月1日 - 1979年(昭和54年))は、日本の実業家、政治家。長野県岡谷市長。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)で、丸千鉄工所経営・林乙次郎、たけ の長男として生まれた。平野農蚕学校(現長野県岡谷工業高等学校)を卒業。家業の鉄工場を承継し、戦時中の軍事産業の拡大に伴い社業も盛んとなった。戦後の再建整備計画に基づき、1950年(昭和25年)岡谷造機を設立して社長に就任し、船舶やガス用のバルブやコックの製作に当たった。また、岡谷市消防団長、同消防長を務め、1951年(昭和26年)4月、長野県議会議員に選出され3期在任。1960年(昭和35年)長野県人事委員会委員長に就任し1962年(昭和37年)まで務めた。
矢内 正一(やない まさいち、1900年2月1日 - 198… 矢内 正一(やない まさいち、1900年2月1日 - 1984年3月26日)は、日本の教育者である。関西学院(新制)中学部の初代部長、関西学院理事長、および箕面自由学園園長を歴任した。 矢内正一は1900年2月1日、兵庫県佐用郡佐用町で誕生した。1924年3月に関西学院高等商業学部を卒業後、同年4月に関西学院高等部教諭に就任した。1932年4月には同学院高等商業学部教授に昇任している。 第二次世界大戦後の学制改革に伴い、1947年4月に関西学院新制中学部の初代部長に就任した。その後、1960年6月に関西学院理事に就任し、1964年4月には教育分野での功績が認められ藍綬褒章を受章した。同年12月には西宮市教育委員会委員長に就任している。
黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年… 黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年12月2日)は、日本の法学者。京都大学教授、東京都立大学 教授、神奈川大学教授および学長代行を務めた。 京都府京都市出身。第三高等学校から1923年3月に京都帝国大学法学部を卒業、同年4月より大学院に進む。京都帝大では憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事[要出典]。 1925年(大正14年)京都帝大法学部助教授に就任した。ドイツ法を専攻し、純粋法学のハンス・ケルゼンと彼が所属したウィーン学派の研究を手がけた。1927年から1930年まで、文部省在外研究員として渡欧し、このときにはケルゼン本人に受講、個人的な親交を結んでいる。しかし、帰国後にケルゼンの影響からは次第に遠ざかったとされる。
金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1900年 <明治33年>… 金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1900年 <明治33年> 2月1日 - 1978年 <昭和53年> 4月7日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 東京都出身。1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年4月に王子製紙に入社。 1949年8月に十條製紙に転じ、取締役、常務、専務、副社長を経て、1957年11月には社長に就任。1969年5月には会長に就任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1970年には勲二等旭日重光章を受章。 1978年4月7日、膵臓腫瘍のために死去。78歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
堀場 一雄(ほりば かずお、1900年(明治33年)2月1日… 堀場 一雄(ほりば かずお、1900年(明治33年)2月1日 - 1953年(昭和28年)10月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。 愛知県東春日井郡篠木村(現・春日井市)出身。父は警察官の堀場司馬次郎。陸軍士官学校34期卒業で、同期の服部卓四郎および西浦進と並んで「34期の三羽烏」と称された。娘は詩人・女性史研究家の堀場清子。 (堀場の遺稿をもとに、死後刊行)
河田 喜代助(かわだ きよすけ、1900年〈明治33年〉2月… 河田 喜代助(かわだ きよすけ、1900年〈明治33年〉2月 - 1952年〈昭和27年〉9月24日)は、日本の地質学者。1952年(昭和27年)9月24日、海底火山の明神礁を調査中に噴火に巻き込まれ、他の乗組員全員と共に殉職した(第五海洋丸の遭難)。没後、理学博士号が授与された。息子の河田茂磨も地質学者。 1900年(明治33年)2月、香川県大川郡志度町(現・さぬき市)に生まれる。 1926年(大正15年)3月、東京高等師範学校理科三部を卒業、埼玉県師範学校の教員となる。 1927年(昭和2年)4月、東北帝国大学理学部地質学古生物学科に入学。1930年(昭和5年)3月に同学を卒業してのちは同学の助手となり、翌1931年(昭和6年)3月からは東京第一臨時教員養成所の講師、1932年(昭和7年)4月からは大阪府立阿倍野高等女学校の教諭を務める。
齋藤 朔郎(さいとう きたろう、1900年〈明治33年〉1月… 齋藤 朔郎(さいとう きたろう、1900年〈明治33年〉1月31日 - 1964年〈昭和39年〉8月9日)は、日本の裁判官、弁護士。最高裁判所判事。大阪府出身。 1923年(大正12年)12月東京帝国大学法学部在学中に高等文官試験行政科・司法科の双方に合格し、翌1924年(大正13年)に東京帝国大学を卒業。 戦前、大阪地方裁判所民事部に勤務した後に、司法省民事局に出向して会社更生法の基礎を作成。1941年(昭和16年)8月に司法大臣官房人事課長となり、1945年(昭和20年)5月に満州国にて最高法院次長、司法部次長を務めた。敗戦によりシベリア抑留となる。 帰国後は一旦は弁護士になるが、1949年(昭和24年)4月に再び裁判官となり、東京高裁刑事部に勤務した。
小日向 白朗(こひなた はくろう、1900年(明治33年)1… 小日向 白朗(こひなた はくろう、1900年(明治33年)1月31日 - 1982年(昭和57年)1月5日)とは、単身で中国大陸に渡り、捕虜から「中国全土の馬賊」の総頭目にまで上り詰めた日本人の馬賊である。新潟県三条市出身。本名は健松。中国名は尚旭東。民衆からは小白竜とも呼ばれた。 1900年(明治33年)年、新潟県・三条の機屋の次男に生まれた。16歳の春、東京に出て同郷出身の屑問屋に奉公。当時の第一次世界大戦の影響で好景気の中、屑鉄集めで一儲けした。シベリア単騎横断で有名な福島安正中佐にあこがれ、中国、チベットを調査しながら、ドイツを目指そうと17歳で中国に渡る。奉天(現瀋陽)駅の駅長に「中国語を学ぶには天津か北京に行くほうがいい」と勧められ、天津へ赴き、そこで駐屯軍司令部付の坂西利八郎大佐の知遇を得た。
檜垣 文市(ひがき ぶんいち、1900年1月30日 - 19… 檜垣 文市(ひがき ぶんいち、1900年1月30日 - 1968年12月2日)は、日本の経営者。安田火災海上保険社長を務めた。 広島県出身。1923年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に共済生命保険に入社。1925年に東京火災保険に転じ、1943年に取締役に就任し、1945年に日本動産火災保険専務を経て、1947年には安田火災海上保険社長に就任。1963年1月に会長を経て、1965年6月には相談役に退いた。 経済団体連合会理事と日本経営者団体連盟常任理事も務めた。 1958年に藍綬褒章を受章。 1968年12月2日、気管支肺炎のために死去。68歳没。
中川 以良(なかがわ もちなが、1900年(明治33年)1月… 中川 以良(なかがわ もちなが、1900年(明治33年)1月29日 – 1997年(平成9年)10月24日)は、日本の実業家、政治家。四国電力社長、参議院議員、香川県名誉県民。
植木 庚子郎(うえき こうしろう、1900年〈明治33年〉1… 植木 庚子郎(うえき こうしろう、1900年〈明治33年〉1月28日 – 1980年〈昭和55年〉3月11日)は、昭和期の政治家、大蔵官僚。位階は正三位、勲等は勲一等。法務大臣(第15、28代)、大蔵大臣(第76代)、衆議院議員(9期)。 福井県丹生郡天津村清水山(後の清水町清水山、現在の福井市清水山町)に、清水伊右衛門の長男として生まれる。後に植木信一の養子となる。福井県立福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)を首席で卒業後、第一高等学校を経て、1925年東京帝国大学法学部法律学科を卒業、大蔵省に入省する。税務監督局兼主税局属。 主計局調査課長、主計局予算課長、主計局長、専売局長官を歴任するが、1946年公職追放により退職する。
大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28… 大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1900年1月28日、高知県で大石寛の長男として生れる。中学海南学校(同級生に横山一郎が首席でいた)を経て、1920年7月、海軍兵学校(48期)を卒業。1921年6月、海軍少尉任官。1923年12月、海軍中尉に昇進し、砲術学校普通科学生を拝命。1925年12月、海軍大尉に昇進し、海軍大学校航海科に入学。1926年12月、「浦風」航海長に就任。1928年12月、練習艦隊参謀に就任。1929年12月、「迅鯨」航海長に就任。1930年4月、「対馬」航海長に就任。
森本 清吾(もりもと せいご、1900年〈明治33年〉1月2… 森本 清吾(もりもと せいご、1900年〈明治33年〉1月26日 - 1954年〈昭和29年〉6月19日)は、日本の数学者。妻は女性数学者の先駆け森本治枝で、子供4人とも学者となっている。 「群馬近代蚕糸業の祖」といわれる養蚕製糸業「研業社」オーナーで、前橋英和女学校(現・共愛学園前橋国際大学)創設者の深沢(旧姓・大慈谷)利重と妻・孝の五男として生まれる。母方の祖父は前橋藩士、深沢雄象。 師範学校附属小学校を経て、1917年(大正6年)勢多農林学校を卒業する。翌1918年(大正7年)、独学で中等教員検定試験の算術・代数・幾何科に合格する。1919年(大正8年)から赤坂中学校で教鞭を執り、1921年(大正10年)には埼玉県師範学校教諭となった。
春日井 薫(かすがい かおる、1900年1月26日 - 19… 春日井 薫(かすがい かおる、1900年1月26日 - 1981年2月10日)は、昭和期の日本の経済学者・教育学者。専門は金融論。学位は、商学博士(明治大学・1939年)。元明治大学マンドリン倶楽部部長。元明治大学総長。 1900年、愛知県西加茂郡小原村上仁木(豊田市小原大倉町)生まれ。1921年、明治大学専門部商科を卒業。1923から1926年までアメリカ、イギリスに留学した。 1928年、明治大学商学部教授に就任。1939年、学位論文『英國に於ける兌換銀行券發行の原則論議の研究』を明治大学に提出して商学博士号を取得。1949年 より明治大学商学部長。1951年、明治大学学長に就任。1970年からは明治大学総長。
大久保 利謙(おおくぼ としあき、1900年〈明治33年〉1… 大久保 利謙(おおくぼ としあき、1900年〈明治33年〉1月25日 - 1995年〈平成7年〉12月31日)は、日本の歴史学者、華族(侯爵)。維新の三傑の一人・大久保利通の孫で、大久保家第3代当主。父は利通の三男・大久保利武。母は近藤廉平の長女・栄。妻は子爵米田国臣の長女・八重子。長男は大久保利泰。 東京帝国大学卒業の際の論文は、近世史をテーマにしたものであった。理由は、当時の歴史学界においては、維新以後の歴史については、歴史家は触れてはいけないという空気が強かったからである。 戦時下では皇国史観に対して批判的立場を採り、東京帝国大学を中心とした官学アカデミズム歴史学や、戦後流行したマルクス主義歴史学とも異なる、実証主義を本領とした独自の近代史研究を構築した。
池谷 半二郎(いけたに はんじろう、1900年(明治33年)… 池谷 半二郎(いけたに はんじろう、1900年(明治33年)1月25日 - 1984年(昭和59年)3月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 静岡県出身。池谷幸作の二男として生まれる。静岡中学校(現静岡県立静岡高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、工兵少尉に任官し工兵第9大隊付となる。1924年(大正13年)12月、陸軍砲工学校高等科(30期)を卒業し、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を優等で卒業した。 1930年(昭和5年)8月、工兵大尉に昇進。1932年(昭和7年)2月、参謀本部員(船舶班)に就任。
横山 通夫(よこやま みちお、1900年1月25日 - 19… 横山 通夫(よこやま みちお、1900年1月25日 - 1983年5月12日)は、日本の経営者。栃木県出身。 1917年に旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。慶應義塾大学予科に入学 1922年に慶應義塾大学部理財科を卒業。九州電灯鉄道、東邦電力での勤務を経て、1942年に中部配電(のちの中部電力)理事に就任し、常務を経て、1951年に副社長に就任し、1961年4月に社長に昇格した。1969年5月には会長に就任し、1977年6月から相談役を務めた。 中部経済連合会会長、日本電気協会会長、日本ラグビーフットボール協会会長、名古屋鉄道監査役、東海銀行参与なども歴任した。 1960年11月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲一等瑞宝章を受章した。
多胡 羊歯(たご ようし、1900年1月25日 –1979年… 多胡 羊歯(たご ようし、1900年1月25日 –1979年12月23日)は、日本の詩人。富山県氷見市出身。 八代村胡桃(くるみ)生まれ。本名は義喜(よしひさ)。1919年(大正8年)に富山師範学校卒業。19歳で小学校の教員に就き、1923年11月以来、「赤い鳥」に童謡を投稿、45編の作品を発表。1928年「赤い鳥童謡会」メンバーとなり、1930年「チチノキ」同人。童謡集には白秋が序文を書いた「くらら咲く頃」があり、戦後、児童雑誌「タンタリキ」を主宰。童謡誌「ら・て・れ」にも加わった。1947年氷見市八代小学校校長を務めた後、退職し農業に従事。生涯、氷見を離れることなく、亡くなる。享年79。 代表作「くらら咲くころ」(1925年)は『赤い鳥』推奨作に選ばれ、白秋は「時代の代表作」と高く評価した。
神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日… 神 重徳(かみ しげのり、1900年(明治33年)1月23日 - 1945年(昭和20年)9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。海軍兵学校48期生。 1900年(明治33年)1月23日、鹿児島県出水郡高尾野村(現在の出水市)の神焼酎製造(現神酒造)を営む父・神惣士の長男として生まれる。旧制鹿児島県立川内中学校から1917年海軍兵学校を受けたが不合格となり、同年10月10日、第48期補欠募集で 166名中29番の成績で入校。1919年10月8日、成績優等章授与。1920年7月16日、171名中10番の成績で海兵48期を卒業。海軍少尉候補生となり装甲巡洋艦「浅間」に乗組。 1920年8月21日、練習艦隊遠洋航海( 基隆〜馬公〜香港〜シンガポール〜コロンボ〜ダーバン〜ケープタウン〜リオデジャネイロ〜サントス〜モンテビデオ〜バイアブランカ〜バルパライソ〜イキケ〜カヤオ〜タヒナ〜トラック〜サイパン〜母島〜父島方面巡航の西廻り世界一周)に出発。
高坂 正顕(こうさか まさあき、1900年(明治33年)1月… 高坂 正顕(こうさか まさあき、1900年(明治33年)1月23日 - 1969年(昭和44年)12月9日)は、日本の哲学者(カント哲学)。京都学派の一人。西谷啓治、高山岩男、鈴木成高と共に「京都学派四天王」と呼ばれている。 1900年、愛知県名古屋市で生まれた。第四高等学校を卒業し、京都帝国大学哲学科に進んだ。大学では、慕っていた西田幾多郎に師事し、カント哲学の研究の道に進んだ。同期には、三土興三などがいた。1923年に京都帝国大学を卒業。 卒業後は京都医科大学予科の教授に就任。兼任で三高、同志社大学、母校の京都帝国大学法学部ならびに文学部でも教鞭をとった。東京文理科大学助教授、東京商科大学、武蔵高等学校でも講師を務めた。
土井正徳(どい まさのり、1900年1月20日-1966年8… 土井正徳(どい まさのり、1900年1月20日-1966年8月18日)は、日本の精神医学者。 熊本県出身。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)、1925年東北帝国大学医学部卒、29年医学博士となる。満州医科大学(現・中国医科大学)助教授を務め、戦後は最高裁判所家庭局法務技官をへて、1965年東洋大学文学部教授となる。フロイトの著作の翻訳も行った。
宮川 庚子(みやかわ かのえこ、1900年1月19日 - 1… 宮川 庚子(みやかわ かのえこ、1900年1月19日 - 1993年11月21日)は、日本の女性医師。 女性として日本で最初に医学博士の学位を授与された(昭和6年1月、東京帝国大学)。 父が農林学校長として盛岡市に在住していたときに生まれる。このとき住んでいた家の隣には原敬の生家があった。 3歳の時に父が甲府の農学校長及び農事試験場長となったため一緒に移り住み7歳までそこで過ごす。その後、父が関西の肥料王である多木久米次郎に招聘され多木製肥所の技師長となったのに伴い、兵庫県別府に移住した。その後、父が多木製肥所を辞職し、深川で肥料問屋の経営者となったため上京し、初等教育を東京府青山師範学校附属小学校で終えた。
小竹 文夫(おだけ ふみお、1900年1月18日 - 196… 小竹 文夫(おだけ ふみお、1900年1月18日 - 1962年10月16日)は、日本の東洋史学者。 1900年、石川県で生まれた。上海の東亜同文書院で学び、1922年6月に卒業後(第19期生)。1928年。その後、京都帝国大学文学部東洋史学科を卒業。 修了後は、東亜同文書院大学教授となった。 戦後は金沢大学、東京教育大学で教授を務めた。1961年、学位論文『清代社会経済史の基礎研究:人口と耕地の問題』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。1962年に死去。 司馬遷『史記』の全訳を弟の小竹武夫と共に行った。
赤坂 武(あかさか たけし、1900年 <明治33年> 1月… 赤坂 武(あかさか たけし、1900年 <明治33年> 1月18日 - 1971年 <昭和46年> 6月6日)は、日本の経営者。日本鋼管社長を務めた。位階は従三位。 宮城県角田市出身。1925年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業。 日本生命保険での勤務を経て、1939年に日本鋼管に転じ、1949年2月に取締役、1959年5月に常務、1961年11月に副社長を経て、1963年11月に社長に就任。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1971年6月6日、胃癌のために死去。71歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
岡井 正男(おかい まさお、1900年1月18日 - 没年不… 岡井 正男(おかい まさお、1900年1月18日 - 没年不明 )は農林技官。技官初の水産庁長官を務めた。退官後、極洋捕鯨副社長などに就任。 愛媛県出身。1922年、北海道帝国大学附属水産専門部(現北海道大学水産学部)卒業。水産庁次長を経て、1956年技官として初めて水産庁長官に昇格。1957年退任。1958年極洋捕鯨取締役。1959年極洋捕鯨専務取締役。1964年極洋捕鯨取締役副社長。日本鮭鱒資源保護協会会長なども務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷川 海太郎(はせがわ かいたろう、1900年1月17日 … 長谷川 海太郎(はせがわ かいたろう、1900年1月17日 - 1935年6月29日)は、日本の小説家、翻訳家。 林不忘(はやし ふぼう)、牧逸馬(まき いつま)、谷譲次(たに じょうじ)の3つのペンネームを使い分けて執筆した。林不忘は時代小説「丹下左膳」シリーズ、牧逸馬は犯罪実録小説、家庭小説、翻訳、谷譲次は米国体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られる。 幕府の金座役人を祖父に持ち、新潟県立佐渡中学校で英語教師をし、後にジャーナリストとして活動する長谷川清(のちに改名した長谷川淑夫の名前で知られる。楽天、あるいは世民とも号した)の長男として新潟県佐渡郡赤泊村(現在の佐渡市赤泊)に生まれる。父・清は佐渡中学校の寄宿舎の舎監も務めており、当時佐渡中学校に在学していた北一輝にも感化を及ぼし、鈴木重嶺門下の清楽社同人として和歌を新潟新聞に寄稿していたが、海太郎が1歳のとき、北海新聞主筆に招かれ、のちに犬養木堂の依頼で函館新聞の主筆となる父に従って一家で函館に移住した。
和田 傳(わだ つとう、1900年(明治33年)1月17日 … 和田 傳(わだ つとう、1900年(明治33年)1月17日 - 1985年10月12日)は、神奈川県厚木市生まれの小説家。一般的には「わだ でん」と呼ばれている。農村を舞台とした作品を得意とした。代表作に「沃土」、「大日向村」、「日本農人傳」、「鰯雲」などがある。 小説の他、評論や随筆、伝記などを著した。ここでは、再版・改訂版などは除いて、「小説名」(発表月日)で表記している。
細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1… 細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1月17日 - 1994年〈平成6年〉12月19日)は、日本の政治評論家、衆議院議員。熊本県熊本市出身。 中学濟々黌、旧制第五高等学校大学予科(現熊本大学)を経て1923年、東京帝国大学法学部を卒業、同年朝日新聞社に入社する。記者を務め1936年政治部長、1940年ニューヨーク支局長、1944年編集局長。 1947年朝日新聞社に在籍したまま熊本県知事選に出馬するも落選した。同年、朝日新聞を退社して日本国憲法成立直後の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党から熊本2区から出馬して初当選、衆議院議員を1期務めた。 その後、政治評論家に転身し1957年から始まったTBSの『時事放談』で小汀利得(後に藤原弘達)とホストを務めた。
佐藤 孝二(さとう こうじ、1900年(明治33年)1月17… 佐藤 孝二(さとう こうじ、1900年(明治33年)1月17日 - 1972年(昭和47年)2月2日)は、日本の物理学者。専門は建築音響工学および騒音。また、実業家でもあり、補聴器メーカー・リオンを創始した。 1900年1月17日、大分県生まれ。1925年3月、東京帝国大学理学部物理学科卒業。1929年2月、同大学助教授。同年5月、理学博士。1941年8月、東京帝国大学教授。1948年12月、小林理学研究所理事長。1949年5月、学習院大学教授・理学部長。1960年4月、東京大学教授を停年退職、同大学名誉教授。1960年5月、リオン取締役会長。同年11月、東京都都市公害対策審議会委員。1970年11月、紫綬褒章を受章。
森脇 将光(もりわき まさみつ、1900年1月17日 - 1… 森脇 将光(もりわき まさみつ、1900年1月17日 - 1991年6月2日)は、日本の実業家。 島根県簸川郡平田町(現・出雲市)出身。慶應義塾大学経済学部経済学科中退。大学在学中に金融業を始め、東京・日本橋に事務所を構えた。1948年度の長者番付で所得9,000万円で1位となり、「金融王」と呼ばれ名を馳せた。戦後の混乱期に乗じて高利で莫大な利益を得た所得は、2位・4,530万円の倍であった。しかし、その翌年、巨額な国税滞納額が発覚して、話題を呼んだ。また、金融業と共に出版業も手掛け、戦後出版した尾崎秀実の獄中書簡集『愛情はふる星のごとく』(世界評論社)は大ベストセラーとなり、1959年には週刊誌『週刊スリラー』を創刊した。
高砂 松子(たかさご まつこ、本名:平松壽子、旧姓:稲垣、1… 高砂 松子(たかさご まつこ、本名:平松壽子、旧姓:稲垣、1900年(明治33年)1月17日 - 1961年(昭和36年)10月8日)は元宝塚少女歌劇団花組男役の人物である。鳥取県東伯郡倉吉町(現・倉吉市)。出身。妹は神代錦である。初代春日花子、沖津浪子と共に『宝塚の三幅對』と呼ばれた。 芸名は小倉百人一首の第34番:藤原興風の 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役) 秩父晴世 - 打吹美砂 - 楓茂美 - 玉野ひかり - 日下輝子 - 櫻野美也子 - 玉野ひか留 - 美山しぐれ - 桃山千歳 - 桂木ゆたか - 睦千賀&桂木ゆたか - 御幸沙智子&歌川波瑠美 - 歌川波瑠美 - 藤園さとみ - 銀あけみ - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 磯野千尋 - 一原けい - 梨花ますみ - 高翔みず希 - 悠真倫 - 紫峰七海 - 花野じゅりあ - 芽吹幸奈 - 冴月瑠那 - 美風舞良 - 航琉ひびき - 紫門ゆりや(現役) 紅羽真希(現役)
栗原 浩(くりはら ひろし、1900年〈明治33年〉1月16… 栗原 浩(くりはら ひろし、1900年〈明治33年〉1月16日 - 1978年〈昭和53年〉8月24日)は、日本の政治家。埼玉県知事などを歴任した。 埼玉県北埼玉郡原道村(現・加須市)出身。私立埼玉中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)を卒業。早稲田大学高等師範部(現・早稲田大学教育学部)を中途退学。 知事引退後、埼玉医科大学理事長、校外教育協会会長、社会福祉協議会会長、共同募金会会長を歴任。県知事の職に4期16年間あり、長期政権であった。県知事であった時期と高度経済成長期が重なったこともあり、任期中には住宅・工業団地や鉄道・道路の整備に努めたほか、1963年には「総合開発計画」を決定した。また、1972年に勲一等瑞宝章を授与された。
網野 菊(あみの きく、1900年1月16日 - 1978年… 網野 菊(あみの きく、1900年1月16日 - 1978年5月15日)は、大正末期から昭和にかけて活躍した小説家。志賀直哉に見出され、『光子』で文壇に登場。自らの生い立ちや度重なる不幸を材とした私小説に徹し、その重厚な文体が、戦後高く評価されて多数の賞を受けた。日本芸術院会員。別名・相原菊子。 東京市麻布区谷町(現・六本木1、2丁目)で馬具製造業の父・亀吉(1875-)とふじのの長女として生まれた。亀吉は信州の農家の出だが、赤坂田町の馬具辰こと金子辰五郎に奉公して馬具職人となり、戦争需要で成功し、馬具革具軍需品一式製造販売のほか東京電線株式会社の監査役も務めた。菊が生まれた頃は貧民街にあった元人力車夫の祖父の家で暮らしていたが、家計が豊かになるにつれ、赤坂表町、麹町区三番町(現・九段南、九段北)へと転居し、菊は小学生の途中から番町小学校で学んだ。