守屋 光春(もりや みつはる、明治37年〈1904年〉2月1… 守屋 光春(もりや みつはる、明治37年〈1904年〉2月1日 - 昭和63年〈1988年〉1月26日)は、日本の政治家、神職。歌人としては花醉(かすい)と号した。 政治家として神奈川県三浦郡葉山町の町議会議員を2期、町長を3期務めたほか、神職としては四條畷神社宮司、森戸大明神宮司、伏見稲荷大社宮司を歴任し、伏見稲荷大社名誉宮司となった。息子は、のちに同じく葉山町長を務めた守屋大光。 明治37年(1904年)2月1日、守屋喜代太郎・ヒデ夫妻の長男として、神奈川県に生まれた。守屋家は森戸大明神の累代の社家である。 地元の旧制中学校を卒業後、大正12年(1923年)國學院大學高等師範部に入学。在学中は折口信夫・武田祐吉らに古典を学び、特に短歌に秀でていた。
浅沼 享子(あさぬま きょうこ、1904年2月1日 - 19… 浅沼 享子(あさぬま きょうこ、1904年2月1日 - 1981年3月10日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員(1期)を務めた。浅沼稲次郎の妻。旧姓は武田 享子(たけだ きょうこ)。 1904年(明治37年)大分県日田市生まれ。父は歯科医の武田恒市。 17歳で結婚したが、婚家の封建的な家風になじめず離婚。東京へ上京し、洋裁学校に通うために喫茶店で働きながら生計を立てる。そこで客として頻繁に訪れていた社会主義者の浅沼稲次郎(のち日本社会党委員長)と出会い、1928年(昭和3年)秋に結婚した。 1945年(昭和20年)、日本社会党に入党し、婦人問題研究会常任理事となる。しかし1960年(昭和35年)10月12日、夫の浅沼稲次郎が日比谷公会堂での演説中に山口二矢に刺殺された。
島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31… 島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31日 - 1976年(昭和51年)5月5日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。北海道銀行初代頭取のほか、公正取引委員会委員や日本銀行政策委員会委員等の要職を歴任。また公益財団法人札幌交響楽団の前身である札幌市民交響楽団の設立に尽力するなど北海道の芸術文化の向上にも貢献した。 京都府綴喜郡青谷村に生まれる。生家は酒造や宇治茶の販売を手掛ける素封家で、父は島本の生誕年に島本銀行を開業した。 三高を経て、京都帝国大学経済学部に入学する。在学中から将来は金融界に進もうと思い、また周囲からも島本銀行の跡取りとして期待されるも、金融恐慌の煽りを受け同行は経営破綻してしまう。
岩本 清(いわもと きよし、1904年1月31日 - 197… 岩本 清(いわもと きよし、1904年1月31日 - 1976年10月5日)は、日本の実業家。共同通信社元専務理事。東京都出身。 1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、国際通信社に入社した。 共同通信社渉外部長、編成局長などを経て、1959年12月から1966年3月までに専務理事を務めた。 電通取締役なども歴任した。1976年に勲一等瑞宝章を受章した。 1976年10月6日急性心不全のために死去。72歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長沖 一(ながおき まこと、1904年1月30日 - 197… 長沖 一(ながおき まこと、1904年1月30日 - 1976年8月5日)は、日本の漫才作家、演出家、放送作家。 大阪府島之内出身。御津小学校、天王寺中学校、旧制大阪高校を経て、東京帝国大学文学部美術史学科卒。 実子は、元NHK大阪放送局所属の演出家・長沖渉。祖父は加賀藩士で、明治維新後に大阪に出てきて商売を始める。 大阪高校在学中に左翼運動を始める一方、1925年に武田麟太郎、秋田實、藤沢桓夫と共に文学同人誌『辻馬車』を創刊。大学在学中に新人会に参加。 1929年3月、東大を卒業。 1930年、徴兵検査で歩兵第一連隊に入隊。甲種幹部候補生で10ヶ月ほど過ごし除隊後、作家に復帰。『中央公論』に「肉体交響楽」を寄稿するも軍批判とみなされ発表を見送られる。
市村 三男三(いちむら みおぞう、1904年〈明治37年〉1… 市村 三男三(いちむら みおぞう、1904年〈明治37年〉1月29日 - 1990年〈平成2年〉2月16日)は、日本の洋画家、プロレタリア画家。 新潟県中蒲原郡横越村大字横越(現 新潟市江南区横越中央)の素封家・市村俊蔵の三男として出生。 1922年(大正11年)3月に新潟中学校を卒業、1925年(大正14年)3月に横浜高等工業学校応用化学科を卒業、画家を志して川端画学校で学ぶ。 兄・彦馬の友人で新潟新聞社東京支局長の坂口献吉(坂口安吾の兄)に洋画家の矢部友衛を紹介され、1928年(昭和3年)9月に造型美術家協会に入会、1929年(昭和4年)4月に日本プロレタリア美術家同盟の結成に参加。 1930年(昭和5年)3月に日本プロレタリア美術家同盟中央委員・組織部長・青年婦人部長に就任、1932年(昭和7年)2月に京都で結婚、東京に戻って日本プロレタリア美術家同盟本部組織部長に就任。
南 好雄 (みなみ よしお、1904年〈明治37年〉1月29… 南 好雄 (みなみ よしお、1904年〈明治37年〉1月29日 - 1980年〈昭和55年〉9月4日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(7期)、運輸大臣(第26代)を歴任した。 石川県羽咋郡高浜町(現在の志賀町)生まれ。第四高等学校、東京帝国大学独法科卒業後、1928年商工省に入省。商工省大臣官房会計課長、総理府東京地方物価局長を最後に、退職。戦時中は陸軍司政官に転出した。1949年、衆議院議員(当選7回)。1953年、第5次吉田茂内閣の建設政務次官、衆院公選法改正特別委員長を歴任。1960年、第1次池田内閣の運輸大臣として初入閣。1967年の総選挙に立候補せず、前年の衆議院解散をもって政界から引退。
星川 清孝(ほしかわ きよたか、1904年1月28日 - 1… 星川 清孝(ほしかわ きよたか、1904年1月28日 - 1993年7月11日)は、日本の漢文学者。学位は文学博士。 佐賀県小城郡小城町生まれ。1926年旧制大阪高等学校文科乙類卒業、1929年東京帝国大学文学部支那文学科卒業。松本高等学校教授、水戸高等学校教授を経て、茨城大学教授、1970年定年退官し名誉教授。桜美林大学教授、1979年に定年退休。 1959年「楚辞の研究」で、九州大学・文学博士の学位を取得、1962年同著で第14回読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。
中山 省三郎(なかやま しょうざぶろう、1904年〈明治37… 中山 省三郎(なかやま しょうざぶろう、1904年〈明治37年〉1月28日 - 1947年〈昭和22年〉5月30日)は、日本の詩人、ロシア文学者。 茨城県真壁郡紫尾村大字酒寄(真壁町を経て現桜川市)で、開業医・中山清、りう の三男として生まれた。生後ひと月余りで母りうが亡くなり、紫尾村を離れて父の実家の大宝村へ移って育つ。同郷の詩人・横瀬夜雨の薫陶を受けて詩作を始め、田畑修一郎の勧めで早稲田大学露文科に進み原久一郎に学ぶ。火野葦平・田畑とともに同人誌を発行し、ロシア文学を翻訳・研究。また、詩人としては、日夏耿之介を介して北原白秋の知遇を得て、作品上でも私的にも親交があった。さらに、詩を書く他にも、横瀬夜雨や長塚節の遺稿集の編集などを行った。
影山 光一(かげやま こういち、1904年1月27日 - 1… 影山 光一(かげやま こういち、1904年1月27日 - 1964年3月26日)は、日本の電機および鉄道技術者で実業家。高知県出身。近畿日本鉄道(近鉄)元専務取締役である。 高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)西浜に生まれる。旧制安芸中学校時代には平均点で95点とも98点ともいわれるほどの優秀な成績を残したという。 旧制松山高校を経て1926年に東京帝国大学工学部を卒業し、鈴木商店(現・味の素)に入社。まもなくイギリスに渡り、ウェスティングハウス(WH)の子会社であるメトロポリタン・ビッカース電機会社に工員(名目上は実習生)として勤務、技術を習得した。 1929年、同郷の先輩で近鉄の前身・参宮急行電鉄(参急)の幹部であった井内彦四郎に招聘され、中途入社として参急に入社する。
寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1… 寺阪 英孝(てらさか ひでたか、1904年1月27日 - 1996年4月3日)は日本の数学者。専攻は幾何学。大阪大学名誉教授、理学博士(1938年)。正四位勲二等瑞宝章。
更科 源蔵(さらしな げんぞう、1904年1月27日(戸籍上… 更科 源蔵(さらしな げんぞう、1904年1月27日(戸籍上は2月15日) - 1985年9月25日)は、日本の詩人、アイヌ文化研究家。 北海道川上郡弟子屈町にて、新潟県からの開拓農民の家に生まれる。役場までの道が雪で閉ざされていたため出生届の提出が遅れ、2月15日生まれとされた。東京の麻布獣医畜産学校を中退し、帰郷する。詩誌『リリー』『潮霧』などを刊行、高村光太郎、尾崎喜八らに私淑し、詩作を始める。1925年に「抒情詩」の尾崎喜八選に入選したのをきっかけに、真壁仁、伊藤整らと交流を始める。1927年、『港街』創刊。1930年開拓農民とアイヌの現実を描いた詩集『種薯』を刊行。1929年から31年にかけて地元で代用教員となるが解雇され、札幌市に移り様々な職を転々としながら詩作とアイヌ文化研究を進める。
坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 -… 坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 - 1995年2月4日)は、日本の教育・保育学者。岡山大学名誉教授。 宮崎県都城市生まれ。1940年東京帝国大学文学部社会学科卒、姫路師範学校教諭、1943年岡山師範学校女子部長、1945年11月大阪第一師範学校女子部長、文部省初等教育課長、1949-51年岡山師範学校校長、岡山大学教育学部長(-56年)・教授、1958年名誉教授、お茶の水女子大学教授、59年お茶の水女子大学附属幼稚園長、1969年青山学院大学教授、洗足学園大学教授、1974年十文字学園女子短期大学学長。1984-94年旭出学園 (特別支援学校) 校長。 1959年NHK放送文化賞受賞。
館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1… 館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1月25日 - 1976年10月22日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。 佐賀県副知事、衆議院議員(4期)、三愛石油株式会社社長(第2代)、株式会社リコー社長(第2代)などを歴任した。 内務省に入省し要職を歴任するも、太平洋戦争後は公職追放となる。第25回衆議院議員総選挙で当選を果たし、以降2回の落選を挟みながら4期務めた。第31回衆議院議員総選挙にて3度目の落選となる。以降はリコー三愛グループの事業に携わり、三愛石油の副社長を経て社長に就任し、のちにリコーの社長も務めた。 佐賀県西松浦郡有田町出身。第五高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。
斎藤 武雄(さいとう たけお、1904年1月25日 - 19… 斎藤 武雄(さいとう たけお、1904年1月25日 - 1995年1月28日)は、日本の哲学研究者。弘前大学名誉教授。 秋田県生まれ。1933年東京文理科大学哲学科卒。1949年弘前大学文理学部教授、人文学部長。1960年「ヤスパースにおける絶対的意識の構造と展開」で東京教育大学文学博士。1962年文部省在外研究員として西独、スイス、米国に滞在。1968年定年退官、名誉教授、弘前学院大学学長。
小泉 純也(こいずみ じゅんや、旧姓名:鮫島 純也〈さめじま… 小泉 純也(こいずみ じゅんや、旧姓名:鮫島 純也〈さめじま すみや〉、1904年〈明治37年〉1月24日 - 1969年〈昭和44年〉8月10日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(7期)。1960年日米安保改定への尽力や防衛庁長官を務めたことなどから、安保男(あんぽおとこ)と呼ばれた。 衆議院副議長、逓信大臣などを歴任した小泉又次郎の女婿。首相を務めた小泉純一郎の父。根津財閥の大番頭だった鮫島宗一郎は従兄弟。横須賀市議会議長をつとめた井料克己は甥。 鹿児島県川辺郡東加世田村大字小湊(後の万世町、加世田市、現:南さつま市加世田小湊)小松原地区の漁業・鮫島家に生まれた。父親の鮫島彌三左衛門は事業に失敗し、地元の鰹節工場に雇われていたが、純也が11歳の時に亡くなった。
池田 欽三郎(いけだ きんざぶろう、1904年〈明治37年〉… 池田 欽三郎(いけだ きんざぶろう、1904年〈明治37年〉1月24日 - 没年不詳)は、日本の内務・商工官僚。官選秋田県知事。旧姓・木戸。 三重県出身。木戸吉太郎の三男として生まれ、池田龍一の養子となる。第一高等学校を卒業。 1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 内務省に入省し都市計画課属となる。 以後、青森県商工課長、同庶務課長、埼玉県社会課長、同庶務課長、神奈川県建築課長、同工場監督官、福岡県学務課長、大阪府労務課長、厚生省衛生局指導課長、同資材課長、茨城県書記官・経済部長、神奈川県書記官・学務部長、物価局部長、北海鉱山局長などを歴任。
市浦 健(いちうら けん、1904年1月24日 - 1981… 市浦 健(いちうら けん、1904年1月24日 - 1981年11月3日)は、日本の建築家。 1928年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後大学院に籍をおいて、東京女子高等師範学校(のちの新制お茶の水女子大学)で住居の講義担当を経て、実地としていくつかの個人住宅を設計のかたわら日本大学に赴任し専門部の教授。1932年には川喜田煉七郎開設の新建築工芸学院でも教鞭をとる。1936年から1941年まで、厚生省体力局嘱託、同保険局技師として勤務。 1937年に「建築生産の合理化について」を発表。1941年住宅営団に入り、 研究部企画課長などを歴任。1945年からは、戦災復興院技師。住宅建築にかかわる。 1948年から51年まで鹿島建設にて取締役、企画第三部長、沖縄支店や名古屋支店長を歴任。
小堀 進(こぼり すすむ、1904年(明治37年)1月22日… 小堀 進(こぼり すすむ、1904年(明治37年)1月22日 - 1975年(昭和50年)3月16日)は、茨城県行方郡大生原村(現潮来市大賀)出身の水彩画家である。水彩連盟結成メンバーのひとり。 公募展初出品作品から没年まで一貫して水彩画のみを描き、長年水彩画の地位向上と発展をもたらし、また郷里水郷の風景、山、そして空や海、広大な空間を独自の画法により描き出した。 1904年(明治37年)1月22日、茨城県行方郡大生原村(現潮来市大賀)に生まれる。 1922年(大正11年)3月、千葉県立佐原中学校(現千葉県立佐原高等学校)を卒業。中学時代より郷里の水郷風景を水彩で描いていた。 翌1923年(大正12年)、上京し葵橋洋画研究所に入所、晩年の黒田清輝に洋画の基礎を学んだ。
島村 矩康(しまむら のりやす、1904年(明治37年)1月… 島村 矩康(しまむら のりやす、1904年(明治37年)1月22日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲四等。 高知県土佐郡初月村久万(現・高知市)出身。島村民衛・千代の長男。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校を経て、1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(36期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を優等で卒業した。 1932年(昭和7年)9月、参謀本部付勤務となる。参謀本部員、中国・ソビエト連邦駐在、関東軍参謀を務め、1938年(昭和13年)3月、歩兵少佐に昇進。
森 美徳(もり よしのり、1904年1月21日 - 1985… 森 美徳(もり よしのり、1904年1月21日 - 1985年10月5日)は、日本の経営者。井関農機社長を務めた。 香川県出身。1929年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1953年に取締役に就任し、1960年に常務を経て、1969年12月に井関農機顧問に就任し、1970年1月には社長に昇格した。1977年12月には会長に就任。 1985年10月5日、脳梗塞のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
蛭川 幸茂(ひるかわ ゆきしげ、1904年(明治37年)1月… 蛭川 幸茂(ひるかわ ゆきしげ、1904年(明治37年)1月20日 - 1999年(平成11年)1月29日)は、旧制高校、及び新制大学の教授。 ヒルさん、蛭公の愛称で慕われた。 東京市小石川区に生まれる。愛知県西尾に転居し、1920年に名古屋市の明倫中学を4年で修了後、第八高等学校理科乙類に入学。 1923年東京帝国大学理学部数学科入学。1926年卒業。同年より旧制松本高校(信州大学の前身)講師となる。同年10月教授就任。 1950年、旧制高校の廃止と共に退職。同年より長野県新村小学校の代用教員となる。後年に教諭就任。 1954年3月小学校教諭退職、愛知学院大学助教授として就任。後、教授。名古屋大学でも教鞭を執る。
大沢 衛(おおさわ まもる、旧字体:大澤衞。1904年1月1… 大沢 衛(おおさわ まもる、旧字体:大澤衞。1904年1月18日 - 1980年4月13日)は、日本の英文学者、翻訳家。金沢大学名誉教授。 石川県出身。1927年東京帝国大学文学部英文科卒。第四高等学校教授、戦後金沢大学教授、1969年定年、金沢美術工芸大学長。1975年退職。日本ハーディ協会会長。
朴 鐘煥(パク・チョンファン、朝鮮語: 박종환、1904年1… 朴 鐘煥(パク・チョンファン、朝鮮語: 박종환、1904年1月17日または1909年1月27日 - 没年不詳) は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。本貫は竹山朴氏(朝鮮語版)。 慶尚北道清道郡出身。京城中央高等学校、中央大学法学部卒。清道ファンサム精米合資会代表、朝鮮食糧営団参事兼清道工場長、京城大同建物株式会社取締役、京城大韓工業土建株式会社社長、米軍政庁人事行政処考試課長を歴任。 1950年7月20日ごろ敦岩洞の友人宅にいたところ拉致され、以後北朝鮮で在北平和統一促進協議会中央委員などを務めた。1959年3月ごろに咸鏡北道富寧郡(当時古茂山)に移住したとされる。以後消息、没年不明。
藤田 親昌(ふじた ちかまさ、1904年(明治37年)1月1… 藤田 親昌(ふじた ちかまさ、1904年(明治37年)1月17日 - 1996年(平成8年)11月13日)は、日本の出版人、編集者。元文化評論社社長・中央公論社編集部長。横浜事件に連座する。 1904年(明治37年)1月17日、神奈川県鎌倉に生まれる。法政大学予科を経て、1930年(昭和5年)に法政大学法文学部英文科を卒業する。中央公論社に入社し、出版部長、編集部長を歴任する。1944年(昭和19年)にいわゆる横浜事件により検挙、一年に渡り拘禁され、1945年(昭和20年)に起訴留保処分により釈放される。 戦後、1946年(昭和21年)に文化評論社を設立し、社長に就任する(1961年(昭和36年)に閉鎖)。
宮島 肇(みやじま はじめ、1904年1月15日 - 199… 宮島 肇(みやじま はじめ、1904年1月15日 - 1991年2月25日)は、日本の哲学・教育学者。横浜国立大学名誉教授。 鹿児島県出身。東京文理科大学卒。1951年「文化哲学の基礎研究」で東京教育大学文学博士。横浜国立大学教授。1969年定年退官、名誉教授、関東学院大学教授。1969年横浜文化賞受賞。1981年から1984年まで神奈川県教育文化研究所の初代所長をつとめる。 息子は社会学者の宮島喬、経済学者の宮島洋、政治学者の宮島泉。
十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえも… 十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえもん、1904年(明治37年)1月15日 - 1952年(昭和27年)10月4日)とは、大正から昭和時代前期にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名市村 勇(いちむら いさむ)。 京橋区築地に生まれ、のち十五代目市村羽左衛門の養子となる。二代目市村吉五郎は養父を共にする弟にあたる。1910年(明治43年)4月、東京歌舞伎座『鞍馬山祈誓掛額』の牛若丸で四代目市村竹松を襲名し初舞台。以後成駒屋五代目中村福助、片岡千代之助らとともに若手の旗手として将来を嘱望された。1925年(大正14年)1月には七代目(自称・十五代目)市村家橘を襲名。
吉田 安三郎(よしだ やすさぶろう、明治37年(1904年)… 吉田 安三郎(よしだ やすさぶろう、明治37年(1904年)1月14日 - 昭和47年(1972年)4月20日)は、日本の都市計画家。建築官僚、建築指導者。大学卒業と同時に内務省大臣官房都市計画課に入省後、都市計画東京地方委員会技師、建設省指導課長、大阪府建築部長などを経て、昭和30年に新たに発足した日本住宅公団では計画、建築担当の理事。本格的な団地造成の仕事に取り組む。公団退任後は塚本不動産、八千代エンジニヤリング、鹿島建設、東亜不動産など幅広い活動を続けると同時に、日本都市計画学会副会長、会長をつとめ、同学会当時の社団法人化を実現、また後進の指導につとめる。幅の広い活躍をする一方、いろいろな会の仕事など多方面に精力的に活動した。
米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 19… 米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 1971年6月20日)は、日本の経営者、工学博士。久保田鉄工(現在のクボタ)社長を務めた。 広島県呉市出身。1928年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に久保田鉄工(現在のクボタ)に入社。1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1960年に専務を経て、1967年に社長に就任した。 1968年11月に紫綬褒章を受章した。 1971年6月20日、胃がんのために死去。67歳没。
羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月… 羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉12月30日)は、大正、昭和期の日本の政治家、社会運動家。日本社会党参議院議員。「参議院の良心」と呼ばれた論客であった。 明治37年(1904年)1月13日長野県下伊那郡鼎村(現・飯田市)に米屋の長男として生まれる。飯田の松濤義塾に学び、家業のかたわら青年運動に参加する。山川均と出会い社会主義運動に加わるようになる。大正11年(1922年)秋、「下伊那文化会」を発展させ、自由青年連盟(Liberal Younger's League)を結成し、機関誌『第一線』を発行する。大正13年(1924年)治安警察法違反で検挙、起訴され、禁固4か月の判決を受ける。
愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 -… 愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 - 1944年11月11日)は、愛媛県宇和島市出身で押尾川部屋に所属した元大相撲力士。本名は宮川 初義。最高位は十両2枚目。 大阪相撲の押尾川部屋に入門。東西合併により、1927年5月三段目に付出され、その場所で三段目優勝を果たす。1931年5月十両に昇進したが、2場所続けて負け越し、1932年1月場所の番付では幕下に落ちた。ところが、番付発表直後に起きた春秋園事件により、大量の幕内十両の脱退者が出たため、一転して十両残留となった。以後6場所連続十両の地位にあった。1934年1月に幕下に落ち、翌5月三段目まで陥落したところで廃業した。1944年死去。
池田 敏子(いけだ としこ、1904年1月13日- 1984… 池田 敏子(いけだ としこ、1904年1月13日- 1984年7月5日)は、日本の著作家、池田書店創業者。 山形市生まれ。東京保母伝習所卒業。1929年(昭和4年)高山菊次と結婚、1935年(昭和10年)に教材社を創業、高山晴洲の筆名で執筆活動を始める。 1946年(昭和21年)離婚、1949年(昭和24年)2月23日に池田書店を創業する。1960年(昭和35年)出版の『性生活の知恵』は、英語版80万部も含めて400万部以上のベストセラーに、性に関する啓蒙書を多く出すほか、『下村湖人全集』などを刊行する。近藤信緒(こんどう・のぶお)の筆名で自らも多くの著書を著し、1949年(昭和24年)出版の『人に好かれる法』は、50万部以上のベストセラーとなった。
中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12… 中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12日 - 2001年〈平成13年〉11月12日)は、日本のフランス語学研究者。日本民俗語学者。 1904年(明治37年)1月12日、愛媛県南宇和郡一本松村広見(現・愛南町)に生まれる。父・中平幾男、母・栄。「わたしの家は三万石の〔伊予〕吉田藩〔宇和島藩の支藩〕の小船頭の役をしていて、祖父は殿様が参勤交代のときに大阪まで行ったようである」。「祖父は四万十川が氾濫したとき、政府(県かもしれない)が呉れた米を、御上のくれた物は食べないと言って頑張った、という話を聞いたこともあるが、わたしのアマノジャクも、この祖父の性質を受けているのかもしれない」。
野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月1… 野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月12日 - 1975年(昭和50年)9月28日)は、日本の実業家。三井東圧化学(現三井化学)社長や、日本化学工業協会会長を務めた。 1924年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業、三井鉱山入社。1931年三池窒素工業入社。1937年東洋高圧工業入社。1946年東洋高圧工業取締役に昇格。1947年東洋高圧工業専務取締役。1957年東洋高圧工業取締役副社長。1963年から東洋高圧工業取締役社長を務め、1968年には三井銀行本店で三井化学工業の石毛郁治取締役社長との間で、合併調印式を行い、合併後の三井東圧化学でも社長を務めた。同年日本化学工業協会会長。
聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月1… 聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月11日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は日本のジャーナリスト、労働運動家。息子は元参議院議員の聴濤弘。 香川県生まれ。関西学院大学卒業後、朝日新聞社に入社。朝日新聞記者として論説委員などを歴任。戦後の1945年に日本共産党入党。朝日新聞労働組合委員長(初代)にも就任した。1946年には全日本新聞通信労働組合委員長(初代)と全日本産業別労働組合会議(産別会議)議長(初代)に就任した。 二・一ゼネストでは伊井弥四郎とともに最高責任者の1人になったが、1947年1月20日に右翼団体・新鋭大衆党による襲撃を受け全治1ヶ月の重傷を負った。
水上 不二(みずかみ ふじ、男性、1904年(明治37年)1… 水上 不二(みずかみ ふじ、男性、1904年(明治37年)1月10日 - 1965年(昭和40年)3月31日)は、日本の詩人、童話作家、絵本作家、作詞家。 宮城県本吉郡大島村(現在の気仙沼市)字長崎にて父・佐助、母・あやの の次男として生まれる。 1918年(大正7年)、本吉郡立水産学校(現在の宮城県気仙沼向洋高等学校)に入学し、卒業後は1922年(大正11年)9月より本吉郡内の小学校3校に勤務した。その後、1928年(昭和3年)4月に上京し、東京府南葛飾郡の松江第一小学校に勤務した。 1930年(昭和5年)、処女詩集『私の内在』を発行する。この頃より鈴木三重吉、北原白秋らが発刊した「赤い鳥童謡運動」に参加。
長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10… 長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10日 - 1994年(平成6年)8月21日 )は、日本の登山家であり、随筆家でもある。まだ日本では珍しかった山小屋であるヒュッテ・霧ヶ峰を経営した人物として有名。日本山岳会員、日本児童文芸家協会・日本国立公園新社理事。岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の長尾家に生れる。大正4年度吹屋小学校を卒業。地元の旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。長尾自身、好奇心旺盛な性格であり、5年生の夏には、神戸市の貧民窟(スラム)へ見物に行く。そこは、人一人やっと通れる位の路地があり、病める者、貧しき者、悩める者、弱き者、虐られた者等、世の中の敗者とされる人々がひしめき合い、これを見て世の中の不平等さを認識した。
祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日… 祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日 - 1979年(昭和54年)2月14日)は、日本の応用化学者である。 愛知県名古屋市に生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)に入学後、工学部に所属し応用化学を専攻した。卒業後は東京工業大学に勤務し、講師を経て助教授として活動する。1936年(昭和11年)より留学のため渡英し羊毛の研究に携わり、その後ドイツに移住しアルカリセルロースの研究にも携わった。 1939年(昭和14年)に帰国後は、その応用として合成繊維(アルカリ繊維素)の研究に携わる。これによって、1941年(昭和16年)に理学博士の称号を得た。翌1942年(昭和17年)より教授に昇格し、1948年(昭和28年)に母校の東京大学に復帰し同大学で教鞭を執る。
高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 197… 高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 1978年2月28日)は、昭和期の政治家、内務・警察官僚。位階は正三位。 衆議院議員(8期)、文部大臣を歴任した。 山口県美祢郡東厚保村(現・美祢市)小杉に、農業・高見政五郎の次男として生まれる。高等小学校を卒業後、炭焼きをしながら独学で教員免許を取得、小学校代用教員となる。その後軍隊生活等を経て、1928年大阪府天王寺師範学校第二部(現・大阪教育大学)を卒業、1929年関西大学専門部法科卒業後、大阪府庁学務部に勤務するが、1929年に高等文官試験行政科に合格する。翌1930年には法律科にも合格し、1938年内務省に入省する。 秋田県社会部長、警視庁警視、和歌山県警察部長、奈良県経済部長等を経て、静岡県経済部長となるが、1951年次期県知事の有力候補者であった県総務部長の斎藤寿夫と親しいことを理由に、当時の小林武治知事によって左遷される。
長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 -… 長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 - 1988年1月28日)は、日本の画家。猫の絵で有名。また、地味井 平造(じみい へいぞう)の筆名で探偵小説を執筆した小説家でもある。 1904年、父・長谷川清(後に淑夫に改名)、母・長谷川ユキの二男として函館に生まれる。長兄に、牧逸馬・林不忘・谷譲次の三つのペンネームを用いて活躍した作家の長谷川海太郎がおり、弟には、ロシア文学者で詩人の長谷川濬(三男)、作家の長谷川四郎(四男)がいる。 旧制函館中学(現・北海道函館中部高等学校)卒業。中学の同級生に、探偵小説家・編集者の水谷準がいた。その後、画家を志して1924年に上京し、松本泰が大家をつとめる下宿で、水谷と共同生活を送る。
牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日… 牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の作家、詩人、翻訳家、イタリア文学者で、イタリア民謡「山の大尉」の歌詞も訳した。父は高級住宅街「苦楽園」を開発した実業家中村伊三郎。夫は「広辞苑」「少年少女ファーブル昆虫記」「生き物図鑑」などのイラスト画家牧野四子吉(よねきち)。 1904年(明治37年)大阪府大阪市北区上福島(現福島区)生まれ。大阪市立靱尋常小学校(現大阪市立明治小学校)、大阪府立清水谷高等女学校(現大阪府立清水谷高等学校)を経て、神戸女学院大学部英文科(現神戸女学院大学)へ進学(のちに中退)。1924年(大正13年)東京時事新報(現産経新聞)に勤務。
瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1… 瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1997年6月23日)は、日本の政治家。位階は正三位。 元衆議院議員(当選11回)。都城市長・建設大臣・法務大臣・文部大臣を歴任。 熊本県天草郡下津浦村(現・天草市)に、村の収入役を務めた河内寿松の三男として生まれる。熊本通信生養成所を卒業後、天草の郵便局での電信技術者、下津浦村書記を経て、向学心に燃え上京。苦学しながら開成中学校夜間部(のちの昌平高校)、さらに明治大学法学部に進み、1932年卒業。司法省に入り、岡山・山口等の各地裁判事を歴任する。1933年宮崎県都城市の金物商瀬戸山徳蔵の一人娘香代と結婚したが、後に瀬戸山家の血筋が絶えたため、1942年瀬戸山家の婿養子となる。
趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月… 趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月6日 - 1983年1月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産婦人科医、実業家、政治家。第2・3・4代韓国国会議員、第3代前・後期民議院副議長。 本貫は咸安趙氏。ジャーナリストの趙鏞寿(朝鮮語版)の叔父である。 慶南咸安出身。培材高普、セブランス医学専門学校(現・延世大学校)卒、京都帝大大学院修了。産婦人科医、大邱民報社長、大邱時事新報社長、慶北国民訓練院長、国民会大邱市副委員長・大邱支部組織部長・慶尚北道支部長・中央本部副会長、大韓労総最高委員を歴任した。1948年の初代総選挙に出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙で大邱市から初当選し、自由党院内議員部政策委員長・中央委員、国会懲戒資格委員長・内務治安委員長・全院委員長・内務委員長、第3代国会民議院副議長を務めた。
平澤 貞二郎(ひらさわ ていじろう、1904年1月5日 - … 平澤 貞二郎(ひらさわ ていじろう、1904年1月5日 - 1991年8月20日)は、日本の実業家・詩人である。 平澤貞二郎は福井県坂井市三国町の仏壇屋に生まれ、15歳の時に上京した。1921年に東京府立商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)を卒業したのち、大沢商会や報知新聞社などに勤務した。その傍らで詩の創作活動に励み、1925年に萩原朔太郎や室生犀星らが出していた雑誌『感情』の流れを汲んだ『帆船』に参加したり、1927年に詩誌『金蝙蝠』を創刊したり、1928年に詩集『街の小民』を出版したり、1930年にはプロレタリア詩誌合同のプロレタリア詩人会の委員長に就任して機関誌『プロレタリア詩』を13号まで刊行したりするなど、1920年から1930年代頃にはプロレタリア詩人として活動している。
本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2… 本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2008年1月29日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。長男は北國銀行第6代頭取の本陣靖司。 石川県小松市出身。1929年に京都帝国大学法学部を卒業し、1930年2月に加越合同銀行に入行した。1943年12月に北國銀行に転じ、1948年2月に常務に就任し、1950年10月に専務、1954年11月に副頭取を経て、1961年1月には頭取に就任。1966年7月には会長も兼任し、1968年11月には頭取を退任。 近現代の日本画をはじめとした美術品収集を趣味としており、小松市立本陣記念美術館にコレクションが収蔵されている。 2008年1月29日、老衰のために死去。
石田 龍次郎(いしだ りゅうじろう、1904年1月4日 - … 石田 龍次郎(いしだ りゅうじろう、1904年1月4日 - 1979年1月11日)は、日本の地理学者。一橋大学名誉教授。日本地理学会会長(1966-67)。 石川県能美郡小松町(現・小松市)で酒類販売商を営む麦谷家の六男として生まれる。14歳で尋常高等小学校の高等科を修了し、石川県立小松中学校に入学する。1921年第四高等学校理科甲類に入学し、1924年に卒業。1927年、東京帝国大学理学部地理学科卒業。在学中は山崎直方、辻村太郎、多田文男等の指導を受ける。同年4月、石田姓を継いで石田龍次郎と改姓。同年東京商科大学予科講師に就任。同専門部講師、予科教授を経て、1949年一橋大学社会学部教授。1967年、定年退官、名誉教授。
比佐 芳武(ひさ よしたけ、本名:武久 猛〈たけひさ たかし… 比佐 芳武(ひさ よしたけ、本名:武久 猛〈たけひさ たかし〉、1904年1月4日 - 1981年12月17日)は、日本の元脚本家である。マキノ正博のもっとも苦しんだ若い時期に惜しみなく協力した盟友であり、「七つの顔を持つ男」で知られる片岡千恵蔵の当たり役「多羅尾伴内」の生みの親である。 現在の北海道滝川市に生まれる。 マキノ・プロダクションに入社、同社で初めて採用されたのはオリジナルストーリーであった。中川信夫が脚本化し、マキノ正博が監督したこの『浪人太平記』は、1931年(昭和6年)3月19日に公開された。同年のマキノ解散後は、高村正次が興した「正映マキノキネマ」で1932年(昭和7年)、マキノ正博が「青山正雄」名義で監督した『喧嘩道中記』、おなじくマキノが監督した『二番手赤穂浪士』の2作にオリジナル脚本を書いた。
黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日… 黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日 - 1986年(昭和61年)6月18日)は、日本のジャーナリストで経営者。 毎日新聞社取締役、中部本社社長や毎日大阪会館社長を務めた。1921年 全国中学校大会で走高飛1m69cmの日本記録を樹立しアジア大会(当時:極東選手権大会)に出場。日本学生陸上競技連合の設立に関わる。 1904年 (明治37年)1月3日 東京市神田区小川町3番地にて父 安吉と母 くりの長男として生まれる。二人の弟と3人の妹の6人兄弟。 1911年(明治44年)4月 東京市小川尋常小学校(平成2年に閉校)に入学 1917年(大正6年)龍馬13歳 小川尋常小学校卒業。
湯藤 実則(ゆとう みのり、1904年1月3日 - 1989… 湯藤 実則(ゆとう みのり、1904年1月3日 - 1989年8月24日)は、日本の経営者、銀行家。日本不動産銀行頭取を務めた。広島県出身。 1925年に山口高等商業学校を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行した。1957年に日本不動産銀行に就任し、1963年に副頭取を経て、1965年には頭取に就任。1969年に会長に就任。 経済団体連合会、全国銀行協会連合会の各理事も務めた。 1970年に藍綬褒章を受章し、1976年に勲二等旭日重光章を受章。 1989年8月24日脳梗塞のために死去。85歳没。
稲山 嘉寛(いなやま よしひろ、1904年(明治37年)1月… 稲山 嘉寛(いなやま よしひろ、1904年(明治37年)1月2日 - 1987年(昭和62年)10月9日)は、日本の実業家、財界人。第5代経済団体連合会(経団連)会長(1980年 - 1986年)。 東京市京橋区銀座(現:東京都中央区銀座)に、「稲山銀行」頭取・稲山伝太郎の二男として生まれる。銀行を始めたのは祖父稲山久仙で千葉県の農家の二男として生まれ幕末、11歳の時江戸へ出て働くうちに見込まれ、稲山家の養子になり勤倹貯蓄のすえ、小なりとはいえ銀行をつくった。 入学試験・入社試験には苦労し続け、泰明小を経て、中学受験では東京府立一中、府立四中、開成中、麻布中に落ち、神田の錦城中に入学する。その後も府立一中の転入試験を二度受け、二度目の受験時には制服制帽も買い揃えていたが失敗。