中田 勇次郎(なかだ ゆうじろう、1905年(明治38年)1… 中田 勇次郎(なかだ ゆうじろう、1905年(明治38年)1月7日 - 1998年(平成10年)10月23日)は、日本の文学者。大谷大学教授・京都市立美術大学など歴任。専門は書道史、中国文学。号は有廬(ゆうろ)、書斎を心花室(しんげしつ)と称した。 主な研究対象は王羲之・米芾・黄庭堅・空海・貫名菘翁など。 浩瀚な著述を残しているが、その研究分野は次の6つに分類できる。 以上の中で中国文学の詩余(漢詩)の研究と書道史の研究に重きが置かれ殊に書道史の研究においては質・量ともに日本の第一人者であり、その著作は翻訳され中国や欧米諸国でも高い評価を受けている[要出典]。
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1905年〈明治38年〉1月… 長谷川 四郎(はせがわ しろう、1905年〈明治38年〉1月7日 - 1986年〈昭和61年〉8月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(自由民主党所属、14期)、建設大臣、農林大臣。魚屋から衆議院副議長にまで上り詰めた立志伝中の人物として知られる。群馬県名誉県民第1号。 群馬県山田郡大間々町大字桐原(現・みどり市大間々町桐原)に、父・辰之助、母・テルの三男として生まれる。父は養蚕指導員だったが、幼少期に死去。大正7年(1918年)大間々尋常高等小学校を卒業し、地元の「いも寅」商店に奉公。1931年(昭和6年)に魚店「魚丈」を開業し、1936年(昭和11年)に株式会社長谷川商店に改組。
浅井 真男(浅井眞男、あさい まさお、1905年1月6日 -… 浅井 真男(浅井眞男、あさい まさお、1905年1月6日 - 1987年3月9日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。東京府生まれ。早稲田大学名誉教授。 早稲田大学独文科卒、同助教授、教授を務めた。 リルケ、ニーチェ、キェルケゴールなど、19世紀から20世紀前半のドイツ文学やドイツ哲学、哲学書を多く翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5… 片岡 球子(かたおか たまこ、1905年〈明治38年〉1月5日 - 2008年〈平成20年〉1月16日)は、昭和から平成時代にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員、文化功労者・文化勲章受章者。位階は従三位。現在の北海道札幌市東区出身。 1926年(大正15年)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科卒業。 卒業後は神奈川県の横浜市大岡尋常高等小学校(現横浜市立大岡小学校)に勤めながら創作を続ける。画家志望に反対する両親から勘当されながら画業を進めるが帝展(現日展)には3度落選。しかし1930年(昭和5年)、第17回院展に「枇杷」で初入選。さらに1933年(昭和8年)の院展にも入選するが、その後は何回もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた時期もあった。
土橋 里木 (つちはし りき、明治38年(1905年)1月4… 土橋 里木 (つちはし りき、明治38年(1905年)1月4日) - 平成10年(1998年)11月25日)は、山梨県出身の郷土史家。民俗学、口承文芸研究者。本名は土橋 力。 山梨県西八代郡上九一色村古関(現在の甲府市古関町)に、父「喜一」、母「かん」の長男として生まれる。上九一色尋常小学校を経て、1922年(大正11年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業する。同年、父親が第四代局長を務める上九一色郵便局に勤務する。上九一色郵便局は1874年(明治7年)7月に開局し、里木の曽祖父である土橋助右衛門は初代局長を務めている。 昭和23年(1948年)に里木は五代目の上九一色郵便局長となり、昭和48年(1973年)に退官する。
尾上 正男(おのえ まさお、1905年1月4日 - 1999… 尾上 正男(おのえ まさお、1905年1月4日 - 1999年5月16日)は、日本の国際政治学者、法学者、ソ連研究者。神戸大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市出身。1929年京都帝国大学法学部卒業。満州のハルピン学院や建国大学で教授を務める。終戦直前に現地召集され、戦後は5年間シベリア抑留された。 1951年より神戸大学法学部教授、1968年定年退官、名誉教授。同年より神戸学院大学法学部教授を務め、1974年から1980年までは学長も務めた。1989年退職。 1961年、「ソビエト外交史」で京都大学法学博士。1975年勲三等旭日中綬章受章。
大野 実之助(おおの じつのすけ、1905年1月4日 - 1… 大野 実之助(おおの じつのすけ、1905年1月4日 - 1989年10月14日)は、日本の漢文学者。 和歌山県生まれ。早稲田大学高等師範部卒、教員検定試験合格。1960年「李太白研究」で早大文学博士。早大文学部助教授、教授、75年定年、名誉教授。
高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年… 高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。 大正天皇と貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。 当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。 高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。
三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999… 三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999年4月18日)は、日本の女性洋画家で、新制作協会会員。 愛知県中島郡小信中島村(現・一宮市小信中島)の織物工場を営む裕福な家の十人兄弟の6番目(4女)に生まれた。父は吉田永三郎、母は菊。母の菊は、安政の大獄で死罪となった水戸藩士・鵜飼吉左衛門(幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。先天性股関節脱臼(現・発育性股関節形成不全)を患っており、両親に抑圧されて育った節子も、この大きなショックから当時興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。戦前・戦後の画壇における女性画家の地位向上に努め、その生涯を通じてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。
福田 久雄(ふくだ ひさお、1905年1月3日 - 1984… 福田 久雄(ふくだ ひさお、1905年1月3日 - 1984年2月16日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長を務めた。徳島県出身。 1925年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に大阪商船に入社した。 1953年5月に取締役に就任し、1957年11月に専務、1959年5月に副社長を経て、1967年5月に社長に就任。1972年5月に会長、1975年5月に取締役相談役を経て、1976年6月には相談役に就任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1984年2月16日肺炎のために死去。79歳没。
松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治3… 松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治38年)1月2日 - 1970年(昭和45年)11月30日)は、日本の政治家。長野県長野市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 長野市生まれ。家業は鋼材商「鍋久」で、代々「松橋久左衛門」を襲名する。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制松本高等学校文科を経て、1929年東京帝国大学経済学部卒業。家業の鋼材商「鍋久」を承継し、長野市連合青年会長、長野市会議員を経て、昭和14年(1939年)長野県会議員となる。 同21年(1946年)長野市長臨時代理者となり、翌年に施行された初の公選による長野市長選挙で当選。また戦後の特例で長野県議会議員を兼務し、議長として「分県論」を収束させた。
小幡 治和(おばた はるかず、1905年(明治38年)1月2… 小幡 治和(おばた はるかず、1905年(明治38年)1月2日 - 1998年(平成10年)7月29日)は、昭和期の日本の政治家、内務官僚。福井県知事(官選第35代、公選初代)、参議院議員(2期)。福井県知事時代には福井県章、福井県民歌を制定した。 1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部卒業。内務省に入り、大阪府経済部長、内務部長、近畿地方行政事務局次長を歴任し、1946年(昭和21年)10月4日、福井県知事就任(事実上最後の官選知事)。1947年(昭和22年)4月5日、地方自治法施行に伴う初の福井県知事選挙にて当選。同年10月、福井県に昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務める。1955年(昭和30年)に知事を2期で退任し、同年3月10日の参議院議員福井県選挙区補欠選挙に無所属で出馬し当選。
林 大作(はやし だいさく、1905年〈明治38年〉1月2日… 林 大作(はやし だいさく、1905年〈明治38年〉1月2日 - 1985年〈昭和60年〉11月26日)は、昭和期の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。 愛知県八名郡賀茂村(双和村を経て現豊橋市)出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 三井物産に入社し、ボンベイ(現ムンバイ)支店、ニューヨーク支店で勤務。その後、商工省嘱託、重要物資管理営団企画課長、交易営団上海連絡部次長、同営団総務部次長などを務めた。 戦後、弁護士となり片山哲の法律事務所で勤務。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で愛知県第5区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年… 伴 素彦(ばん もとひこ、1905年1月1日 - 1998年9月3日)は、1920年代に活躍した元スキージャンプ選手、実業家。後に全日本スキー連盟の会長を務めた。京都府出身。 父親の伴房次郎は小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)第二代校長(在職期間1921年11月28日-1935年4月2日) 京都府生まれで小学3年生の時父親の転勤に伴い小樽へ移り住んだ。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校) - 北海道帝国大学農学部 - 日本製粉(現・ニップン)株式会社。 1926年の第4回全日本スキー選手権ジャンプ競技優勝。 1928年のサンモリッツオリンピックにスキージャンプ日本代表として出場するが、コーチも通訳もいない孤独な参戦を強いられたことに加え、台の規模や技術、道具など何もかもが自分たちがやってきたことと違うことに戸惑い本来のジャンプが全く出来ず、転倒もあって(元々、伴は着地は得意な選手であった)最下位に終わった。
吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 197… 吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 1972年2月10日)は、日本の抽象画家、実業家。吉原製油社長。具体美術協会の創設者。
厚田 雄春(あつた ゆうはる、1905年1月1日 - 199… 厚田 雄春(あつた ゆうはる、1905年1月1日 - 1992年12月7日)は、日本の映画カメラマン。小津安二郎組の名カメラマンとして知られる。
正木正(まさき まさし、1905年1月1日-1959年9月3… 正木正(まさき まさし、1905年1月1日-1959年9月3日)は、日本の教育心理学者。 熊本県出身。東京帝国大学卒。浪速高等学校教授、東北大学教授、京都大学教育学部教授。依田新との共著『性格心理学』(1937)で知られた。哲学者カール・ヒルティの翻訳もした。選集全3巻がある。 1959年 従三位勲三等
杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年… 杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年)1月1日 - 1970年(昭和45年)11月17日)は、日本の文筆家・陶芸研究者・歴史研究者。陶芸研究においては、古曾部焼、丹波焼を中心に調査・資料収集を行なった。 大阪市生まれ。東洋大学卒業。小説家として活動した後、陶芸研究・千利休の周辺をはじめとする歴史研究を行ない、兵庫県陶芸館副館長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
渡辺 順平(わたなべ じゅんぺい、1905年1月1日 - 1… 渡辺 順平(わたなべ じゅんぺい、1905年1月1日 - 1976年6月28日)は、日本の経営者。山之内製薬社長を務めた。岐阜県出身。 1925年に富山薬学専門学校を卒業し、1933年には東亜化学研究所を設立。1939年3月に山之内製薬取締役に就任し、1950年11月に常務、1962年2月に専務を経て、1968年8月には社長に就任。1974年8月には会長に就任。 1976年6月28日肺腫瘍のために死去。71歳没。
小嶋 源作(こじま げんさく、1905年1月1日 - 198… 小嶋 源作(こじま げんさく、1905年1月1日 - 1989年8月7日)は、日本の実業家。中部日本放送 (CBC) の事実上の創業者で、第4代代表取締役社長。中日新聞社取締役。 石川県石川郡野々市村(現:野々市市)に生まれる。 明治大学を卒業後、1929年に名古屋新聞社に入社。1942年に新愛知新聞社との合併で中部日本新聞社(1971年より中日新聞社)となった後の1946年に社会部長、1949年に出版局長となる。その傍ら、「民主国家として言論の自由を取り戻すためのフリーラジオを」という強い願いを持ち、民間放送の創設に熱意を燃やす。 1950年4月、中部日本放送の創立委員に就任。当時の杉山虎之助中部日本新聞社社長、中部財界、さらには許認可権者である逓信省やGHQを説得し、初代社長に佐々部晩穂を据え、自身は代表取締役常務に就任。
大鶴 多喜之助(おおつる たきのすけ、1905年1月1日 -… 大鶴 多喜之助(おおつる たきのすけ、1905年1月1日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。荒磯部屋→春日野部屋所属。本名は宮川→槙勇。最高位は十両7枚目。 北海道釧路市出身。荒磯部屋に入門し、1923年5月「大寉」の四股名で序ノ口に就く(のち春日野部屋に移籍)。1929年1月十両に昇進。2場所続けて負け越したため、5月に幕下に落ちた。1930年1月再十両。この場所は3勝8敗と負け越したが、翌3月は6勝5敗と勝ち越し、十両での唯一の勝ち越しとなる。当時は2場所の成績で番付を作成されたため、合計の成績が9勝13敗と負け越しとなったため再び幕下に落ちた。「大鶴」と改名した1931年1月三回目の十両昇進となったが、この場所と翌場所も負け越し、5月に幕下に落ちた。
北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年… 北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年4月16日)は、日本の俳優、脚本家。本名:山田 東吾 。東京府東京市京橋区出身。 東京市京橋区生まれ。三光尋常小學校卒業。1922年、早稲田大学文学部に入学するも2年で中退。日活封切館・新宿帝都座の次席弁士として無声映画末期の説明界で存在感を示した。弁士時代の名前は山田無声。その後、松竹大船撮影所脚本部に所属したのち、1937年に日活多摩川撮影所に俳優として入社。 1937年の映画『限りなき前進』でデビューするや、注目され始め、助演俳優として活躍 。1942年に統合で大映東京に移籍。1948年にフリーとなって、1950年に松竹大船に所属、重厚な雰囲気から、主に校長や重役、父親役で数多くの映画に出演。
天野 秀延(あまの ひでのぶ、1905年 - 1982年)は… 天野 秀延(あまの ひでのぶ、1905年 - 1982年)は、日本の音楽研究家。 福島県相馬郡小高町(現・南相馬市小高区)出身。相馬中学校卒、関西学院大学文学部英文科卒。卒業後帰郷し農業に従事。1940年から1945年にかけて福浦村の村長を務め、恩師の豊田君仙子を助役に迎えた。イタリア音楽の研究家であり、1960年『現代イタリア音楽』で芸術選奨文部大臣賞受賞。小高町の町民歌や浜通り地方の学校の校歌を作曲しており、各地方の小中学校の音楽指導も行っていた。郡山女子短期大学教授。
池上 二男(いけがみ つぐお、1905年 - 没年月日不詳)… 池上 二男(いけがみ つぐお、1905年 - 没年月日不詳)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。熊本県出身。 大正9年、熊本県立玉名中学校(現熊本県立玉名高等学校・附属中学校)卒業、海軍兵学校入学(51期)。海兵卒業後、34期生として海軍大学校を卒業した。同級生には高松宮がいた。その後、昭和12年に海軍少佐で早くも連合艦隊参謀に任ぜられる。その後、支那方面艦隊参謀、海軍航空本部部員、軍務局局員などを経て、昭和19年に海軍大佐に進級。また、海軍T事件では大森仙太郎少将、直井俊夫大佐と共に調査員を務めた。その後、海軍航空本部総務部部員、大本営海軍参謀、軍令部部員、海軍技術会議議員などを経て、昭和20年6月に海軍航空本部第一課長に就任。
清沢 清志(きよさわ きよし、1905年 - 1959年)は… 清沢 清志(きよさわ きよし、1905年 - 1959年)は、日本の詩人、劇作家。 長野県南安曇郡東穂高村(現安曇野市)生まれ。旧制青山学院専門部卒業。1921年、穂高演劇協会を創設、「安曇野モダニズム」の拠点とした。1924年、在京中に知り合った吉行エイスケとモダニズム雑誌『売恥醜文』を発刊(後に発禁処分)。同人誌『葡萄園』に「東を目指す」を発表。1930年には第二次信州詩人連盟講演会を行い、1939年には「藤村会」を創設。戦後は県下各地で積極的に公演を行った。
藤本 進治(ふじもと しんじ、1905年 - 1987年)は… 藤本 進治(ふじもと しんじ、1905年 - 1987年)は、日本のマルクス主義哲学者。 大阪市生まれ。1934年、関西大学大学院中退。経済学者の藤本昭(神戸大学教授)は甥。長女は福井扶未子。谷沢永一が師と仰いだ。
高 宗武(こう そうぶ、1905年 - 1994年)は、中華… 高 宗武(こう そうぶ、1905年 - 1994年)は、中華民国の外交官。日中戦争の和平派であり、のちハノイに脱出した汪兆銘と行動を共にしたが、汪兆銘政府樹立直前に日本側の条件があまりにも過酷である事を批判して汪兆銘と訣別した。 1928年、渡日して九州帝国大学法学部に入学、政治学を専攻。その後東京帝国大学へ学士入学。1932年、中国に帰国。『中央日報』紙に書いた「五・一五事件」についての論文が注目され、まもなく蔣介石のブレーンの一人となった。1934年、28歳の若さにして国民党政府の亜州司長(日本の「外務省アジア局長」に相当)に就任。 盧溝橋事件の際に、高宗武は和平交渉中に日高信六郎と会見をしている。
横山 英(よこやま ひで、1905年 - 1994年)は、日… 横山 英(よこやま ひで、1905年 - 1994年)は、日本の文学者(国文学)。静岡女子大学名誉教授、静岡県立大学名誉教授。 静岡女子短期大学助教授、静岡女子大学文学部教授などを歴任した。 静岡県小笠郡(のち菊川市)生まれ。1930年京都帝国大学卒業。戦後、静岡女子短期大学助教授、静岡女子大学文学部教授、1976年定年退任、名誉教授。静岡市にて死去した。 良寛の歌の分類をおこなった。良寛はその人柄やエピソードから多くの民衆に慕われ、その結果、半ば伝説化した部分もあるため、良寛の作と伝えられる歌の中には真偽が不明確なものも多い。良寛の作といわれてきた短歌、長歌、旋頭歌をまず収集し、それらを良寛の作品や、良寛の作として断言できない作品、良寛以外の人物の作と断言できる作品に分類して採録した。
水谷 正男(みずたに まさお、1905年(明治38年)- 1… 水谷 正男(みずたに まさお、1905年(明治38年)- 1975年(昭和50年))は、日本の建築技師。おもに設備担当。 1926年(大正15年)、京都高等工芸学校卒業。同年内匠寮に入り、昭和大礼の布設に携わる。 1944年(昭和19年)からは内匠寮技師となる。朝香宮邸(1933年)と済寧館(1933年)の照明器具を担当した。また1968年(昭和43年)完成の現宮殿造営に再任官し、家具調度を担当した。
坂田 秀雄(1905年(明治38年)) - 没年不明)は、日… 坂田 秀雄(1905年(明治38年)) - 没年不明)は、日本の発明家。 和歌山県和歌山市出身。和歌山中学校を経て慶應義塾大学法学部を卒業する。写真を趣味とし、モルタ合資会社に入社し、同社の支配人兼工場長を務めた。
山﨑 隆夫(やまざき たかお、1905年〈明治38年〉 - … 山﨑 隆夫(やまざき たかお、1905年〈明治38年〉 - 1991年〈平成3年〉)は、日本の洋画家、広告制作者。 同姓同名の日本画家とは別人。戦前に洋画家・小出楢重に師事し、戦後は抽象絵画を手がける一方、広告分野においても活動した。2025年には芦屋市立美術博物館で回顧展が開催された。 大阪府に生まれる。幼少期より神戸で暮らす。神戸高等商業学校(現・神戸大学)に在学中、前田藤四郎、井上覺造らと美術グループ・青猫社を結成。この時期に芦屋在住の洋画家・小出楢重に師事する。卒業後は三和銀行に勤めながら画業に励む。1931年に小出が没すると林重義に学び、独立美術協会展や文展に出品。1943年、国画会会員となる。
河野 伊三郎(こうの いさぶろう、1905年 - 1994年… 河野 伊三郎(こうの いさぶろう、1905年 - 1994年)は、日本の数学者。 神奈川県出身。1929年東京帝国大学理学部数学科卒業。新潟高等学校 (旧制)、新潟大学、東京医科歯科大学の教授を歴任、理学博士。 すぐれた数学書の著者であり、また海外の科学書のすぐれた翻訳者として知られた。河野が執筆した『位相空間論』や『微積分入門』は、小冊子ながら、本格的な数学を目標とする初学者向きの本として、多くの学生のよい伴侶となったといわれる。 河野の翻訳した本は高い評価を受け、高校や大学入試の現代国語のよい題材として、受験参考書にも例文として見られたことがある。
山本 光雄(やまもと みつお、1905年 ‐ 1981年)は… 山本 光雄(やまもと みつお、1905年 ‐ 1981年)は、古代哲学研究者、東京都立大学名誉教授。福岡県生まれ。東京帝国大学文学部哲学科卒業。1967年まで東京都立大学教授。
岩岡 次郎(いわおか じろう、1905年 - 1991年)は… 岩岡 次郎(いわおか じろう、1905年 - 1991年)は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車工業の製造部長などを経て、アイシン精機の初代社長や会長を務めた。藍綬褒章受章。自動車部品製造事業を確立した。 福岡県出身。1927年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業、豊田自動織機製作所入社。豊田喜一郎の紹介により1934年から東北帝国大学に国内留学して成瀬政男に師事し、紡織機製造の傍らで自動車試作などに従事した。その後自動車量産化のため、菅隆俊のもと、豊田英二、齋藤尚一と豊田自動織機製作所挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)の建設構想にあたった。トヨタ自動車工業設立後は同社製造部長に就任。
馬場 明男(ばば あきお、1905年 - 1996年)は、日… 馬場 明男(ばば あきお、1905年 - 1996年)は、日本の社会学者、文学博士。日本大学社会学科主任教授、日本社会学会理事、東京社会科学研究所常務理事。大教寺(東京都目黒区)第24代住職も務めた。 東京都に生まれる。1928年に日本大学法学部社会学科を卒業した。1977年に勲三等瑞宝章を受章。
美濃口 時次郎(みのぐち ときじろう、1905年 - 198… 美濃口 時次郎(みのぐち ときじろう、1905年 - 1983年)は、日本の社会政策学者・官僚。専門は、人口問題・労働問題等。協調会参事・内閣調査局専門委員・企画院調査官を経て、名古屋大学経済学部教授兼一橋大学教授(併任)等を務めた。経済学博士(一橋大学・1949年)。 東京市小石川区久堅町出身。1927年東京商科大学(現一橋大学)を卒業し協調会入所。上田貞次郎門下で人口問題を専攻し上田主宰の日本経済研究会に参加。協調会参事を経て、1935年内閣調査局入局。内閣調査局専門委員を経て、1937年から企画院で副調査官や調査官を務め、1941年に閣議決定に至った人口政策確立要領の起案を担当。同年『人口問題』を出版。
関 忠志(せき ただゆき、1905年 - 1987年)は、日… 関 忠志(せき ただゆき、1905年 - 1987年)は、日本の著述家、ボーイスカウト運動の指導者。 少年時代からボーイスカウト運動に参加し、明治大学に入学し日本最初の大学スカウト体を創設する。第二次世界大戦後ボーイスカウト運動再建のためにボーイスカウト日本連盟総主事に就任する。その後日本ユネスコ協会連盟事務局長を歴任する。この間米国へ青年教育視察に赴き、インド、東南アジアにユネスコ世界青年会議のために渡航する。その他ギリシャや欧州に渡航しボーイスカウト世界大会の開催に尽力する。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷川 耕南(はせがわ こうなん、1905年〈明治38年〉 … 長谷川 耕南(はせがわ こうなん、1905年〈明治38年〉 - 1977年〈昭和52年〉)は、日本の書道家。勲四等 瑞宝章。
朴 井圭(パク・チョンギュ、朝鮮語: 박정규、1905年 -… 朴 井圭(パク・チョンギュ、朝鮮語: 박정규、1905年 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 慶尚南道咸陽郡出身。早稲田大学専門部法律学科卒。日本統治時代には長年農業に従事したほか、水産業などでも活動した。解放後は大韓独立促成国民会咸陽郡栢田面支部長を務め、共和倶楽部を経て自由党所属の第2代国会議員在職中は農林分科委員、居昌事件調査委員を務めた。
早瀬 龍江(はやせ たつえ、1905年-1991年)は、北海… 早瀬 龍江(はやせ たつえ、1905年-1991年)は、北海道奥尻島出身の画家。福沢一郎絵画研究所に学んだ。夫は画家・白木正一。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
田口 修治(たぐち しゅうじ、1905年〈明治38年〉 - … 田口 修治(たぐち しゅうじ、1905年〈明治38年〉 - 1956年〈昭和31年〉3月)は、日本の撮影技師、映画監督、映画プロデューサーである。第二次世界大戦後はシュウ・タグチを名のり、1948年(昭和23年)10月にはシュウ・タグチ・プロダクション株式会社を設立、ドキュメンタリー映画を中心に自主製作を行なう。姪はタレント・女優の黒柳徹子。 東京市・本所の開業医・田口潔矩の三男として生まれる。実弟の黒柳守綱とともに日本橋の三越呉服店の小僧となり、将来のため仕事の合間を見つけて英語を勉強していたが、体を壊して18歳で退職。 長兄の田口桜村が1920年(大正9年)に松竹蒲田撮影所の初代所長に就任し、ヘンリー小谷を招聘、日本のニュースリール製作の草分けである小谷に師事する。
エンペラー吉田(エンペラーよしだ、本名:吉田 十三、よしだ … エンペラー吉田(エンペラーよしだ、本名:吉田 十三、よしだ とうぞう、1905年頃 - 1994年11月初旬)は、福島県田村郡常葉町(現・田村市)出身の自由業の一般人男性。福島県庁職員を経て、83歳の時に出演したテレビ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』において、生真面目な性格に由来するお茶目な天然ボケにより、いじられキャラとして人気を集め、同番組のロケ企画の準レギュラー的な存在となり、一躍時の人となった。
富永 眉峰(とみなが びほう、本名:富永 三喜男、1905年… 富永 眉峰(とみなが びほう、本名:富永 三喜男、1905年(明治38年) - 1987年(昭和62年))は、日本の書家。徳島県徳島市出身。 徳島県徳島市新南福島出身。1932年(昭和7年)に文検習字科への合格を経て炭山南木(1895-1979)に師事し、1953年(昭和28年)に日展への初入選を経て6回入選。 徳島県書道協会会長などの役職を歴任し、徳島県の書道発展に大きく貢献した書道教育の第一人者として1982年(昭和57年)に徳島県文化賞を受賞。同年4月4日には石井町に句碑が建てられた。 1987年(昭和62年)、死去。墓所は徳島県徳島市城南町の実相寺。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
石井 陶泊(いしい とうはく、1905年 - 1999年)は… 石井 陶泊(いしい とうはく、1905年 - 1999年)は、日本の鍼灸師。日本経穴委員会専門委員。享年94。 栃木県生まれ。下野中学(現:作新学院高等学校)中退。1932年灸術試験合格、1933年鍼術試験合格。1965年から1977年に至るまで栃木県鍼灸師会会長。同心会副会長である藤田六朗医博の指導を受ける。1975年からは、日本鍼灸医学会理事、地方会会長、評議員、日本経穴委員会専門委員を歴任した。1991年までは全日本鍼灸学会栃木地方会会長を務めた。 石井は分娩後のウサギや曲がった若い糸瓜への施灸実験をきっかけにして、経絡を発生学的観点から検討した。
奥平 英雄(おくだいら ひでお、1905年 -2000年 )… 奥平 英雄(おくだいら ひでお、1905年 -2000年 )は、日本ほ日本美術史家・日本美術評論家。 1905年、広島県呉市で生まれた。江田島の海軍兵学校への登竜門としても有名な呉第一中学校(現広島県立呉三津田高等学校)を経て、旧制広島高等学校に1期生として入学。卒業後、京都帝国大学哲学科に進学したが中退し、東京帝国大学文学部美学科美術史に転じた。1932年に東京帝国大学文学部を卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院修了後、東京国立博物館に技官として勤務。在任中は資料課長を務めた。東京国立博物館を退任後、名誉館員。その後は和光大学教授、共立女子大学教授を務め、同大学文芸学部の設立に携わった。2000年に死去。
宮川 量(みやかわ はかる、1905年 - 1949年9月3… 宮川 量(みやかわ はかる、1905年 - 1949年9月3日)は、日本の園芸指導者。全生病院国立療養所多磨全生園、国立療養所長島愛生園、沖縄県の国立療養所沖縄愛楽園(初代事務長)、国立療養所星塚敬愛園に勤務した。園内の緑化に努め、また、ハンセン病の歴史を研究した。 1905年1月26日岐阜県高山市の寺に生まれ、後得度した。1922年岐阜県立斐太中学卒業。第三高等学校に受かるも体格検査ではねられる。1927年本間俊平牧師の本に感激、後キリスト教徒になる。1928年千葉県立高等園芸学校卒業。1929年全生病院勤務。全生の5人男の一人として活躍する。農園指導などを行った。1931年国立療養所長島愛生園勤務。
入谷 唯一郎(いりたに ただいちろう、1905年 - 198… 入谷 唯一郎(いりたに ただいちろう、1905年 - 1989年3月14日)は、日本の水泳競技黎明期の競泳選手。日本でクロール泳法を習得した初期の泳者の一人。 現在の大阪府高槻市出身。子供のころから地元の芥川で泳いでいたという。1919年(大正8年)、旧制茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に入学。同級には高石勝男がいた。茨木中学校は体育教諭杉本伝のもとで水泳の盛んな学校であり、入谷が入学した1919年(大正8年)には中田留吉が招かれて水泳の指導に当たった。 当時、クロールは50m競泳にのみ用いられる泳法であると理解されており、長距離には片抜手や抜手が用いられていた。1919年(大正8年)の帝国水友会主催全国大会(鳴尾)の中等学校の部100mに出場した際、杉本と中田が相談の上、入谷にクロールのみで100mを泳いでしまえと指示、入谷は泳ぎ抜いた。
足達 左京(あだち さきょう、1905年 - 1988年1月… 足達 左京(あだち さきょう、1905年 - 1988年1月30日)は、日本の気象技術者。海軍技術中佐。 福岡県柳川市出身。1923年福岡県立中学修猷館、1927年第五高等学校理科甲類を経て、1930年京都帝国大学理学部地球物理学科卒業。 1931年神戸高等商船学校教授に就任するが、1939年海軍水路部に転じ、気象予報を担当する。1943年海軍の要請により、海軍気象部において、特殊兵器「風船爆弾」の気球の開発に従事した。最終階級は海軍技術中佐。 1954年日本電建に入社。1964年に退職し、戦史の研究に従事。1976年渡米し、アメリカ本土の風船爆弾の攻撃の跡を訪ねている。
伊達 宗彰(だて むねあき、1905年 - 1969年)は、… 伊達 宗彰(だて むねあき、1905年 - 1969年)は、日本の華族、政治家・実業家。
佐倉 潤吾(さくら じゅんご、1905年 - 1964年12… 佐倉 潤吾(さくら じゅんご、1905年 - 1964年12月10日)は、日本の翻訳家。東京府立第一中学校卒、1929年東京商科大学(現一橋大学)卒、東京日日新聞入社。戦後、毎日新聞ニューヨーク支局長、論説委員。定年後は推理小説を多く翻訳した。