播上 英次郎(はたがみ えいじろう、1912年(明治45年)… 播上 英次郎(はたがみ えいじろう、1912年(明治45年)1月17日 - 2000年(平成12年)3月13日)は日本の実業家。岡山放送社長、サンケイ新聞専務、日本民間放送連盟副会長。 1912年(明治45年)1月17日に東京に生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学経済学部を卒業する。1954年(昭和29年)にニッポン放送に入社し、1958年(昭和33年)にフジテレビに移り、1961年(昭和36年)にサンケイ新聞大阪本社販売局長に就任する。1963年(昭和38年)に広島テレビ取締役、1965年(昭和40年)にフジテレビ電波企画室長、1969年(昭和44年)にサンケイ新聞専務大阪本社代表、大阪新聞社長、日本工業新聞専務、1970年(昭和45年)に関西テレビ取締役、1973年(昭和48年)に同社副社長を経て、1980年(昭和55年)に岡山放送社長に就任し、1988年(昭和63年)に退任する。
鶴ヶ嶺 道芳(つるがみね みちよし、1912年1月17日 -… 鶴ヶ嶺 道芳(つるがみね みちよし、1912年1月17日 - 1972年3月18日)は、鹿児島県熊毛郡中種子町出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は下家 道義。最高位は東前頭2枚目(1942年5月場所)。得意手は左四つ、吊り、櫓投げ。現役時代の体格は188cm、101kg。引退後は井筒部屋を経営し、多くの力士を育てた。 1931年5月場所、井筒部屋から「種子ヶ島」の四股名で初土俵をふむ。相星(4勝4敗)は一度あるが負け越し無しで順調に昇進を重ね、1934年1月場所に新十両。この時「星甲」を名乗る。種子ヶ島、星甲の四股名はともに先代井筒の横綱・2代西ノ海(西ノ海も鶴ヶ嶺同様種子島出身)が若き日に名乗った名で、星甲は師匠から受け継いだものでもあった。
一叩人(いっこうじん、本名命尾小太郎(めいお こたろう)、1… 一叩人(いっこうじん、本名命尾小太郎(めいお こたろう)、1912年1月16日 - 1999年4月9日)は、昭和時代から平成時代の川柳作家。 1912年、宝生流の地謡の能楽師である命尾家の子として東京府に生まれる。元は丹波猿楽の出といい、一族に命尾幾右衛門、命尾長左衛門、命尾与作、命尾(日吉)寿八、命尾寿六(その養子に工学者の命尾寿次)などがいる。 法政大学を卒業。プロレタリア川柳作家の鶴彬の作品や関係資料などを収集し、1977年(昭和52年)には「鶴彬全集」を刊行した。その後絶版となっていた同書は、1998年(平成10年)沢地久枝により増補改訂のうえ再版された。1999年(平成11年)4月9日死去。
大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15… 大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15日 - 2001年(平成13年)2月14日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 陸軍大佐大室勝の息子として生まれる。鹿児島一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、陸軍士官学校本科に入校。日本陸軍時代は司令部偵察機操縦者として活躍し、特に日中戦争時には九七式司令部偵察機をもって多大な功績を挙げ、偵察隊としては異例の功四級金鵄勲章および個人感状拝受の栄誉を受ける。太平洋戦争時代は主に一〇〇式司令部偵察機「新司偵」を愛機として、各司偵隊の隊長を務めた。 戦後は公職追放を経て、航空自衛隊に入隊し、創設時は教官としてパイロットの養成に尽力した。
阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 -… 阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 - 1940年代)は、日本の俳優である。本名阿部 正太郎(あべ しょうたろう)、旧芸名片岡 市女男(かたおか しめお)。1930年代の松竹蒲田撮影所において、磯野秋雄、三井秀男(のちの三井弘次)との「与太者トリオ」で知られる。 1912年(明治45年)1月15日、東京府東京市浅草区阿部川町(現在の東京都台東区元浅草3-4丁目)に生まれる。生年月日については、『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』には同年「2月15日」とされている。父・阿部三之助は、芝居関係の仕事をしていた人物であるとされる。 数え年9歳になった1920年(大正9年)、父の仕事をきっかけに、新派の河合武雄一座に入門し、九州巡業で初舞台に立つ。
池田 満枝(いけだ みつえ、1912年〈明治45年〉1月15… 池田 満枝(いけだ みつえ、1912年〈明治45年〉1月15日 - 2001年〈平成13年〉1月9日)は、日本の58・59・60代内閣総理大臣である池田勇人の妻。広島県、現在の竹原市出身。 医師である大貫四郎吉の二女として生まれた。後に夫となる池田勇人とは、母親同士が従姉妹で再従兄妹に当たる。実兄の大貫修郎は陸軍少尉・軍医で、旧制崇徳中学校、旧制千葉医科大学を卒業し、戦後地元の竹原で開業医となった。 広島の名門である山中高等女学校在学中に父を亡くし、卒業式の前日に母・池田秀を亡くしている。その後、名古屋市の母方の親戚に引き取られ金城女子専門学校に進学し卒業。金城女子専門学校在学中に脚気にかかって地元の広島へ戻り、同じく母方の親戚である池田家に身を寄せたことがきっかけで、池田勇人と出会う。
島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年… 島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年〉1月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月17日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 青森県弘前市で生まれる。小学校卒業後、市内のタンス店に職工として勤め、その後、無産運動に加わる。1932年、全農青年部青森県連合会執行委員に就任。1934年、日本共産党に入党したが、同年に検挙され懲役3年となり服役した。 戦後、日農の再建に尽力し、また日本社会党の結成に加わり、同青森県連選挙対策部長、同書記長、同委員長、弘前市議会議員、青森県議会議員などを務めた。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に青森県第二区から出馬して当選。
畔柳 二美(くろやなぎ ふみ、1912年(明治45年)1月1… 畔柳 二美(くろやなぎ ふみ、1912年(明治45年)1月14日 - 1965年(昭和40年)1月13日)は、日本の小説家。北海道千歳市生まれ、1928年に北海高等女学校卒業。 旧姓遠藤。北海道千歳郡千歳村(現・千歳市字水明郷)の王子製紙株式会社千歳第一発電所の社宅に、発電所技師であった父遠藤彌次郎、母サキの次女として生まれている。姉八重、弟彌弘、満、實の五人姉弟であった。 1918年(大正7年)発電所内の私立小学校に入学したが、1年程で発電所の勤務が北海道虻田郡狩太村(現在のニセコ町)に移って、狩太尋常小学校に転校し1924年(大正13年)3月卒業、同年4月に札幌市の北海高等女学校に入学している。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1912年1月14日 - 20… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1912年1月14日 - 2006年1月30日)は、日本の歴史学者。山形大学名誉教授。国士舘大学教授。山形県出身。 1912年(明治45年)1月14日、山形県川西町小松に生れる。旧米沢興譲館中学、1931年(昭和6年)福岡高等学校文科乙類卒業、を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学文学部国史学科卒業、同大学院に進学。日本史学の重鎮であった黒板勝美博士の下で研鑽。1936年4月人文科学資料研究科助手、1938年(昭和13年)から1942年まで、北京近代科学図書館勤務。これをきっかけとして、近代日中関係史に関心を持つ。 1942年山形高等学校教授、1949年山形大学文理学部助教授、1952年山形大学補導課長、1967年山形大学人文学部教授・山形大学評議員、1969年山形大学人文学部長、1973年山形大学学生部長、1977年退官に際して名誉教授。
酒井 得元(さかい とくげん、1912年1月14日 - 19… 酒井 得元(さかい とくげん、1912年1月14日 - 1996年11月22日)は、日本の仏教学者。駒澤大学名誉教授。学位は、文学博士。 愛知県名古屋市生まれ。1935年、駒澤大学仏教学科卒業。1936年、京都紫竹林学堂に入り京都大学文学部哲学科専科に3年間在学。1939年春、大本山總持寺に安居。後堂であった沢木興道老師に遭う。同年秋、大本山永平寺に安居。1941年、沢木老師の天暁禅苑(栃木県・大中寺。1944年10月解散)に入り、以後沢木老師に師事。1949年より駒澤大学に奉職。1957年、金沢市・大乗寺に宗立僧堂が開かれ、沢木老師と共に雲水を指導(1962年閉単)。 1969年『禅の実相』で文学博士(昭和44年2月26日)。
白石 大二(しらいし だいじ、1912年〈明治45年〉1月1… 白石 大二(しらいし だいじ、1912年〈明治45年〉1月13日 - 1989年〈平成元年〉8月30日)は、日本の国語学者。文部官僚。 愛媛県今治市生まれ。1935年東京帝国大学文学部国文科卒。文部省に入り、文部省調査局国語課長。早稲田大学教育学部教授。1982年定年退任。現代仮名遣いの策定に関わり、国語行政を先導した。
山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 20… 山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 2007年10月10日)は、日本の美術史学者。専攻は美学、芸術史。第4代東京芸術大学学長、初代沖縄県立芸術大学学長。長野県長野市出身。 日本学術会議第13・14期会員、文部省学術審議会委員、日本美学会委員などを歴任した。
北野 ミヤ(きたの ミヤ、1912年1月12日 - 2004… 北野 ミヤ(きたの ミヤ、1912年1月12日 - 2004年4月23日)は、メジロ商事株式会社、有限会社メジロ牧場の元会長。長野県上田市生まれ。 「メジロティターンの子で天皇賞を勝て」という夫・北野豊吉の遺言を受け、メジロ牧場を引き継ぐ。1991年には遺言どおりメジロティターンの仔・メジロマックイーンで天皇賞(春)を勝った。そのほか1986年の牝馬三冠馬・メジロラモーヌ、メジロライアン、メジロパーマー、メジロドーベル、メジロブライトなどGIホースを次々と生産。メジロ牧場の最盛期を築き、ファンや関係者からは「メジロのおばあちゃん」と呼ばれ親しまれたが、一方でメジロマックイーンが勝った1990年の菊花賞について「もう一頭のメジロに勝って欲しかった(同じく1990年の菊花賞で1番人気だったが3着に敗れたメジロライアンを指す)」と発言するなど、歯に衣着せぬ言動をすることもあった。
木田 三千雄(きだ みちお、1912年〈明治45年〉1月11… 木田 三千雄(きだ みちお、1912年〈明治45年〉1月11日 - 1994年〈平成6年〉7月29日)は、日本の俳優。本名は同じ。 青森県黒石市出生、北海道出身。エヌ・エー・シーに所属していた。 札幌レビュー団を皮切りに早川雪洲一座、水谷八重子芸術座、森川信一座など数々の劇団を渡り歩いた。 テレビ進出後は温かみのあるキャラクターでお茶の間の人気を得た。 1992年に芸団協から芸能功労者表彰を受ける。 1994年に、東京都杉並区、荻窪病院で、肝臓ガンのため死去。82歳没。 特技は乗馬、東北弁。
佐藤 重夫(さとう しげお、1912年1月11日 - 200… 佐藤 重夫(さとう しげお、1912年1月11日 - 2003年11月23日)は、日本の建築家。建築史家。広島大学名誉教授。専門は建築意匠設計と建築史。広島県と岡山県の文化財保護審議会委員を歴任。日本民俗建築学会には佐藤重夫賞が設けられている。 1912年、岡山県都窪郡早島町で生まれた。旧制第六高等学校を卒業し、1931年に東京帝国大学工学部建築科に進学。1934年に卒業。 卒業後は渡辺仁建築事務所に勤務。1940年、逓信省航空局に勤務。以降、厚生省保健院、逓信省営繕課、防衛通信施設局、西部逓信総局、広島逓信局に勤務した。1947年から1950年、独立して建築設計事務所を運営し岡山市の復興に携わった。
大呂 甚衛(おおろ じんえ、明治45年(1912年)1月11… 大呂 甚衛(おおろ じんえ、明治45年(1912年)1月11日 - 没年不明)は日本の素封家、政治家。元智頭町会議員。林業。岡田商店の元社長岡田端の義父。 鳥取県八頭郡山形村大呂(現智頭町)出身。日大法科卒業。 広大なる山林を領有しその保全に専念、傍ら多くの公職を兼任。農協役員、神社庁八頭郡氏子総代、智頭町会議員、八頭郡小学校PTA連合会長、地方教育委員八頭連絡協議会長等を歴任。 趣味は読書。宗教は黒住教。住所は鳥取県八頭郡智頭町字大呂。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
村野 守治(むらの もりじ、村野 守次、1912年(明治45… 村野 守治(むらの もりじ、村野 守次、1912年(明治45年)1月9日-1989年(平成元年)3月23日)は、日本の歴史学者。専門は日本近代史、明治維新史、鹿児島県の郷土史。鹿児島女子短期大学教授。西郷隆盛研究の第一人者だった。また、教育者として鹿児島県立甲南高等学校の教員や県立高等学校の校長等を歴任。 鹿児島県鹿児島市生まれ。1930年(昭和5年)旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)卒業。1934年(昭和9年)旧制第七高等学校造士館卒業。1938年(昭和13年)東京帝国大学文学部国史学科卒業。同年5月より文部省維新史料編纂事務局嘱託。大日本青少年団本部文化部を経て、帰郷し1944年(昭和19年)5月に母校・第二鹿児島中学校の教諭となる。
佐伯 秀男(さえき ひでお、1912年1月9日 - 2003… 佐伯 秀男(さえき ひでお、1912年1月9日 - 2003年11月1日)は、日本の俳優、ファッションモデル、ボディビルダーである[4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。本名は鬼武 秀治(おにたけ ひではる)[4][5]、1956年 - 1959年の一時期、三原 秀夫(みはら ひでお)と名のった時期があり[7][8][9][10][12][14][17]、佐伯 泰輔(さえき たいすけ)の別名も持つ[9][10][12][18]。
阪上 安太郎(さかがみ やすたろう 1912年(明治45年)… 阪上 安太郎(さかがみ やすたろう 1912年(明治45年)1月9日 - 1984年(昭和59年)2月27日)は、日本の政治家、水球選手。衆議院議員を6期務め、衆議院功労議員として表彰された。 1932年ロサンゼルスオリンピック、1936年ベルリンオリンピックに出場した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 この項目は、水泳選手(飛込競技選手・アーティスティックスイミング選手・水球選手を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJスポーツ人物伝)。
藤田 進(、1912年〈明治45年〉1月8日 - 1990年… 藤田 進(、1912年〈明治45年〉1月8日 - 1990年〈平成2年〉3月23日)は、日本の俳優である。 昭和期において、黒澤明監督作品の主演を多数務めるなど、日本映画界の大スターの一人であった。戦時中は戦意高揚映画に、戦後も戦争映画に多く出演した。 1912年(明治45年)1月8日、福岡県久留米市京町に生れる。 1929年(昭和4年)に南筑中学校(現・久留米市立南筑高等学校)を卒業後上京し大学を受験するも失敗、帰途京都に立ち寄り、市川右太衛門プロダクション(右太プロ)で古海卓二の助監督を務めていた郷里の先輩を訪ねた際、俳優になるよう勧められる。 1930年(昭和5年)これが縁となって、右太プロに入り、エキストラとして出演する。
内藤 誉三郎(内藤 譽三郎、ないとう たかさぶろう、1912… 内藤 誉三郎(内藤 譽三郎、ないとう たかさぶろう、1912年1月8日 - 1986年3月16日)は、昭和期の政治家、文部官僚。文部大臣(第100代)、参議院議員(3期)。大妻女子大学学長。 神奈川県中郡西秦野村渋沢(現秦野市)に、葉タバコ農家を営む諸星喜之助の四男として生まれる。神奈川県立小田原中学校(現神奈川県立小田原高等学校)、東京高等師範学校を経て、1936年東京文理科大学英語英文科を卒業、文部省社会教育局に嘱託として入省する。また同年に内藤春子と結婚し、内藤家の養子となった。文部省入省後の1942年に高等文官試験に合格し、大臣官房文書課総務掛長となる。 戦後は省内随一の英語力を武器に、GHQとの折衝で活躍し頭角を顕した。
今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年… 今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年11月22日)は、日本の映画監督。
美濃 政市(みの まさいち、1912年1月7日 - 1988… 美濃 政市(みの まさいち、1912年1月7日 - 1988年9月28日)は、日本の政治家。 北海道中川郡池田町出身。池田高等小学校(現・池田町立池田中学校)卒業。 1963年に北海道議会議員選挙に当選して政界入り。1967年の第31回衆議院議員総選挙に旧北海道5区から立候補し初当選した。道議時代及び代議士時代を通じて日本社会党に所属し、総選挙には4期連続当選した。衆議院物価問題等に関する特別委員長等を務め、政界引退後の1982年4月の春の叙勲で勲二等瑞宝章を受章した。 農民運動出身の政治家であり、1948年から32年間幕別町農協組合長を務めた。 1988年9月28日、死去。76歳没。同年10月4日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従四位に叙された。
水戸部 正男(みとべ まさお、1912年〈明治45年〉1月6… 水戸部 正男(みとべ まさお、1912年〈明治45年〉1月6日 - 1996年〈平成8年〉10月27日)は、日本史学者。専門は日本の法制史。第6代横浜国立大学学長。 長野県上高井郡小布施村(現・小布施町)生まれ。旧制須坂中学(長野県須坂高等学校)、東京高等師範学校を経て、1935年(昭和10年)東京文理科大学国史学科卒業。同年奈良師範学校、1942年(昭和17年)神奈川師範学校教授を経て応召、1947年(昭和22年)復員。1949年(昭和24年)横浜国立大学助教授。1962年(昭和37年)教授、1967年(昭和42年)教育学部長、1973年(昭和48年)学長を歴任。 法学博士(1960年、慶應義塾大学)。
日高 一輝(ひだか いっき、本名:鈴木 芳郎 すずきよしろう… 日高 一輝(ひだか いっき、本名:鈴木 芳郎 すずきよしろう、1912年(明治45年)1月6日 - 没年不明)は、日本の平和運動家、元世界連邦建設同盟理事長。元日本ラッセル協会常任理事。山形県鶴岡市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金子 幸彦(かねこ ゆきひこ、1912年1月5日 - 199… 金子 幸彦(かねこ ゆきひこ、1912年1月5日 - 1994年7月25日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。一橋大学名誉教授。 1912年、東京市・新宿津久戸町で生まれた。私立早稲田中学校を経て、東京外国語学校ロシア語科に進学。在学中に治安維持法違反で逮捕され勾留された。 卒業後は、逓信省勤務を経て、1948年に旧制東京商科大学予科非常勤講師となった。1951年、一橋大学社会学部専任講師に採用され、ロシア語を担当。1954年に助教授、1957年に教授昇格。この間、1953年から1972年まで北海道大学スラブ研究センター(現・北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)客員研究員も兼ねた。1977年一橋大学を定年退官。
福田廣宣(ふくだ ひろのぶ、1912年1月5日 - 没年不詳… 福田廣宣(ふくだ ひろのぶ、1912年1月5日 - 没年不詳)は、日本の歌人、センテナリアン。 福岡県浮羽郡田主丸町(現:久留米市)生まれ。1932年、長崎高商(現:長崎大学経済学部)在学中に「西陵短歌」を主宰創刊すると共に、土田杏村、清水信らの「短歌建設」に参加する。卒業後、三菱鉱業株式会社(現三菱マテリアル)及び同系列会社に勤務しながら、1928年より新短歌(口語自由律短歌)を創り続ける。「新短歌」「芸術と自由」同人。 短歌新聞社から「新短歌作品賞」、「新短歌功績賞」を受賞。新短歌社から「新短歌功績賞」を受賞。 2012年に100歳を迎えたことが報告されていた。兵庫県芦屋市在住していた。
阿部 富美子(あべ ふみこ、1912年〈明治45年〉1月4日… 阿部 富美子(あべ ふみこ、1912年〈明治45年〉1月4日 - 2005年〈平成17年〉)は、日本の詩人。群馬県文学賞(詩部門)選考委員を務めた。本名・瓦井。 群馬県渋川市生まれ。渋川高等女学校(現・群馬県立渋川女子高等学校)を経て日本女子大学を卒業。 1941年(昭和16年)詩作を始め、笹沢美明・岡田刀水士に師事。1954年(昭和29年)『詩学』推薦詩人となった。1950年(昭和25年)日本女詩人会員。1951年(昭和26年)『青猫』同人になる。1957年(昭和32年)日本現代詩人会員。 1963年(昭和38年)第1回群馬県文学賞受賞。1976年(昭和51年)『風雷』に代表作「赤城のこころ」を発表。
井出 一太郎(いで いちたろう、1912年1月4日 - 19… 井出 一太郎(いで いちたろう、1912年1月4日 - 1996年6月2日)は、日本の政治家。内閣官房長官(第39代)、農林大臣(第23-24代)、郵政大臣(第29代)。衆議院議員(16期)。 長野県(旧南佐久郡臼田町、現佐久市)出身。家は元禄時代(1688年~1704年)から続いた古い造り酒屋の橘倉酒造。県会議員を務めた今朝平の長男。 旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)を経て、1931年旧制松本高校文科甲類卒業。10年間家業に専念した後、1941年京都帝国大学農学部入学。すでに3人の子持ちで、家業をみながらの大学生活だった。 1946年、第22回衆議院議員総選挙に旧長野2区から初当選。連続当選16回。
塚本 洋太郎(つかもと ようたろう、1912年1月3日 - … 塚本 洋太郎(つかもと ようたろう、1912年1月3日 - 2005年3月12日)は、日本の園芸学者。京都大学名誉教授。専門は花卉園芸学。草花・花木・その他の観賞植物の研究を通じて花卉園芸学を学問的に体系化した。 朝鮮の大邱生まれ。本籍は福岡県北九州市八幡西区。 大阪府立豊中中学校(現:大阪府立豊中高等学校)から第五高等学校(現:熊本大学)を経て、京都帝国大学農学部農学科に入学。 大学では園芸学を専攻。1937年(昭和12年)京都帝国大学農学部農学科卒業後、助手として4年間園芸学第一研究室に勤務。大阪府立園芸学校に転出。この時期、第2次大戦中の園芸の荒廃を見て将来の花卉園芸学への道を決意する。戦後いち早く輸出用球根類の研究を開始。
刈田 元司(かりた もとし、1912年1月3日 - 1997… 刈田 元司(かりた もとし、1912年1月3日 - 1997年3月8日)は、日本の英米文学者・翻訳家。上智大学名誉教授。 1912年、新潟県生まれ。1935年上智大学文学部英文科を卒業。1937年ジョージタウン大学大学院修士課程を修了。上智大学講師、1940年助教授、1945年教授。1955 - 1956年ハーバード大学に留学、1969 - 1972年上智大学文学部長、1983年に定年退職した。その後は中京大学教授として教鞭をとった。 1920年代のアメリカ文学を中心に広く研究、翻訳をおこなった。日本英文学会編集委員、評議員、理事、日本アメリカ文学会会長等を歴任した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大津 晴弘(おおつ はるひろ、1912年1月3日 - 199… 大津 晴弘(おおつ はるひろ、1912年1月3日 - 1999年3月2日)は、日本の歯科医師、歯学博士(東京歯科大学)である。歯内療法の研究に熱心に取り組み、晩年に独自に発明したオピアン キャリア法は死腔のない根管充填を可能にした画期的な術式で、その後の日本における歯内療法の礎石を築いたことでよく知られている。 宮崎県出身、幼少時代を東京で過ごし東京歯科医学専門学校卒業後中国に渡る。終戦後日本に戻り築地に診療所を開設。趣味は歯医者と言われるほど歯学の研究と治療に没頭した人生だった。良い意味で純粋、悪く言えば世間知らずの内弁慶で、50代くらいまでは、厳格で怖い人であった(三男、隆弘談)。患者さんには「治療代を請求しない先生」(私の街の歯医者さん1999年5月号追悼記事引用)として慕われていた。
名和 弓雄(なわ ゆみお、1912年(明治45年)1月3日 … 名和 弓雄(なわ ゆみお、1912年(明治45年)1月3日 - 2006年(平成18年)9月1日、94歳没)は、日本の時代考証家、武術家(正木流万力鎖術第10代宗家、江戸町方十手捕縄扱様宗家)、舞踊家。 福岡県北九州市生まれ。武蔵野音楽大学卒。先祖は美濃大垣藩の与力を務めたという。時代劇の時代考証、武術指導を行った。捕り物道具を収集し、その捕り物道具コレクションは現在、明治大学博物館に収蔵されている。 杉良太郎など、史実に近い小道具を好む時代劇俳優に信頼されており、新五捕物帳、同心暁蘭之介などの時代考証では、従来の時代劇に使われていた小道具とは違う史実に基づいた小道具を提供した。そのため、従来の時代劇視聴者から、御用提灯のデザインがおかしいと苦情を受けたが、名和はその苦情に対し、史実を交えてきちんと説明し、視聴者を納得させた。
折茂 豊(おりも ゆたか、1912年〈明治45年〉1月2日 … 折茂 豊(おりも ゆたか、1912年〈明治45年〉1月2日 - 1994年〈平成6年〉1月8日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1957年)(学位論文「国際私法の統一性」)。東北大学名誉教授。 群馬県富岡市一ノ宮出身。旧制富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。同助手、助教授[要出典]。1951年(昭和26年)東北大学法学部教授となり、1966年(昭和41年)法学部長。1975年(昭和50年)に定年退官、名誉教授。 国際私法を専攻し、1957年(昭和32年)「国際私法の統一性」で法学博士(東京大学)の学位を取得。
豊田 久吉(とよだ ひさきち、1912年(明治45年)1月2… 豊田 久吉(とよだ ひさきち、1912年(明治45年)1月2日 - 1976年(昭和51年)10月7日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの800メートルリレー金メダリスト。1930年代後半には豊田 満の芸名で短期間映画俳優としても活動。姓はその後峰島となっている。 山口県屋代島(周防大島)出身。安下庄中学(のちの山口県立安下庄高等学校、現在は山口県立周防大島高等学校)卒業、日本大学出身。 1932年ロサンゼルスオリンピックの800メートルリレーで、宮崎康二、遊佐正憲、横山隆志と共に金メダルを獲得した。日本大学出身者初(遊佐正憲とともに)・山口県出身者初の金メダリストとなる。
白䂖 春樹(しらいし はるき、1912年(明治45年)1月2… 白䂖 春樹(しらいし はるき、1912年(明治45年)1月2日 - 1997年(平成9年)3月30日)は、愛媛県伊予郡松前町出身の政治家。愛媛県議会議員時代に自由民主党愛媛県連を率いてリーダーシップを発揮し、保守王国愛媛の基盤を作り、愛媛県知事を4期務めた。同郷で、「四国の大将」と呼ばれた実業家・坪内寿夫とは、特に晩年、犬猿の仲であった。 旧制愛媛県立松山商業学校(現在の愛媛県立松山商業高等学校)を経て、官立高松高等商業学校(現在の香川大学経済学部)に進み、1933年(昭和8年)3月に卒業する。 1947年(昭和22年)4月、愛媛県議会議員に当選。戦後の混乱期に、農業団体での活動をバックボーンに、地方政治の世界に足を踏み入れた。
石垣 純二(いしがき じゅんじ、1912年1月2日 - 19… 石垣 純二(いしがき じゅんじ、1912年1月2日 - 1976年1月30日)は、日本の医事評論家。 兵庫県生まれ。1937年東京帝国大学医学部卒。衛生教育家。公衆衛生学会、生活教育の会会員。ラジオドクターの草分け。1950年の第2回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で立候補したが落選した。1953年の第3回参議院議員通常選挙では全国区から無所属で立候補したが落選した。 晩年、将棋に熱中して、その著書『石垣流二枚落大血戦』では、雑誌の企画として行ったプロ棋士相手の「二枚落ち」での下手側対局が紹介されているが、当時は主流戦法ではなかった「銀多伝」戦法を用いたことで注目された。 1976年1月30日、死去。
名取 礼二(なとり れいじ、名取 禮二、1912年(明治45… 名取 礼二(なとり れいじ、名取 禮二、1912年(明治45年)1月2日 - 2006年(平成18年)11月20日)は、日本の生理学者。名取筋線維の創出と研究で知られる。文化勲章受章者。贈従三位(没時陞位)、贈勲一等瑞宝章(没後叙勲)。 東京府生まれ。1929年旧制獨逸学協会中学校卒業、東京慈恵会医科大学予科入学。1936年東京慈恵会医科大学卒業。東京慈恵会医科大学教授などを経て、東京慈恵会医科大学学長・理事長、日本体力医学会理事長、全国医学部長病院長会議会長などを歴任。1976年(昭和51年)に朝日賞、1981年(昭和56年)文化功労者、1986年(昭和61年)には文化勲章を受章。森亘、岡本道雄、高久史麿らとともに日本国際医学協会名誉顧問、石川忠雄、江橋節郎とともに上原財団名誉理事などを務めた。
野村 尚吾(のむら しょうご、1912年1月2日 - 197… 野村 尚吾(のむら しょうご、1912年1月2日 - 1975年5月15日)は、日本の編集者、作家、評論家。本名・利尚。 富山県富山市生まれ。早稲田大学英文科卒業。在学中から『早稲田文学』の編集に携わる。早稲田大学卒業後、毎日新聞社出版部に勤務。1940年、『嫩葉の木立』を刊行して作家デビュー。以後、『早稲田文学』を中心に作品を発表。戦後、谷崎潤一郎の担当となり、1949年、毎日新聞への「少将滋幹の母」連載、1962年、「サンデー毎日」連載の「台所太平記」を担当する。1950年、「遠き岬」で、1960年、「花やあらむ」で芥川賞候補、1962年、『乱世詩人伝』で直木賞候補、1963年、『戦雲の座』で直木賞候補、小説新潮賞受賞。
川上 正光(かわかみ まさみつ、1912年1月1日 - 19… 川上 正光(かわかみ まさみつ、1912年1月1日 - 1996年5月15日)は、日本の工学者。専門は電子回路学。第10代東京工業大学学長・初代長岡技術科学大学学長・第46代電子通信学会会長などを務めた。文化功労者。 栃木県大田原市生まれ。栃木県立大田原中学校(現在の栃木県立大田原高等学校)を経て、1935年に東京工業大学電気工学科を卒業して東京電気株式会社(現在の東芝)に入社し、無線機器の開発などを行なった。1948年、東京工業大学助教授に就任した。1949年に工学博士の学位(学位論文「振幅変調波の伝送に関する研究」)を取得した。1953年に教授、1969年に電子通信学会会長、1971年に工学部長。
来栖 三郎(くるす さぶろう、1912年1月1日 ‐ 199… 来栖 三郎(くるす さぶろう、1912年1月1日 ‐ 1998年10月1日)は、日本の民法学者。東京大学名誉教授。1983年から日本学士院会員。穂積重遠門下。弟子に安達三季生、山田卓生、石田穣、中山信弘など。 台湾新竹州新竹市生まれ。研究に専念するため学会の理事職等は引き受けなかった。生涯独身であったため、研究を義姉が支えた。大変謙虚な性格で、日本学士院会員に推薦された際も躊躇するほどだったという。 同僚であった川島武宜を尊敬するといって憚らず、川島をして天才と言わしめた。そのため、両教授の門下が重複することしばしばであった。 川島、加藤一郎とともにセツルメント法相部の指導教授として活動し、稲本洋之助が社会学へ進む道筋をつけた。
太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 … 太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 - 1998年〈平成10年〉9月14日)は、昭和期の労働運動家。元日本労働組合総評議会(総評)議長、元宇部窒素(現・宇部興産→UBE)企画課長。春闘方式を定着させた人物。 岡山県林田村(現・津山市)生まれ。旧制津山中学、旧制第六高校を経て大阪帝国大学工学部応用化学科卒業。1935年に大日本特許肥料(現・三菱レイヨン)に入社するも入社4年目に重役と喧嘩をし、宇部窒素(現・宇部興産)に移る。宇部窒素入社後は窒素工場硫酸課長を経て、同工場企画課長と順調に昇進を果たすが、経営陣より八幡製鐵所の親和会をモデルに従業員組合を組成するよう命じられ、1946年に同社の初代労働組合長に推されると、それまでのポストを捨て、企業エリートから労働エリートへと転身を果たした。
川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日… 川上 始(かわかみ はじめ、1912年(明治45年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月14日 )は日本の実業家である。三井生命保険、華興商業銀行勤務を経て神戸銀行取締役となり、その後、阪神相互銀行・第2代代表取締役社長を務めた。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)岡山県川上郡川上町領家(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、画家になる皆見鵬三がいた。1929年(昭和4年)に同校を卒業後、旧制第六高等学校へ入学する。1932年(昭和7年)に同校を卒業後、同年、東京帝国大学法学部へ入学する。1935年(昭和10年)3月に東大法学部政治学科を卒業し、三井生命保険へ就職する。
松尾 金蔵(まつお きんぞう、1912年1月1日 - 200… 松尾 金蔵(まつお きんぞう、1912年1月1日 - 2002年3月19日)は、日本の官僚。通商産業事務次官。日本鋼管会長。
住友 元夫(すみとも もとお、1912年1月1日 - 200… 住友 元夫(すみとも もとお、1912年1月1日 - 2005年7月28日)は、日本の実業家。学位は、工学博士(東京大学)。第16代当主住友吉左衛門友成男爵の弟。父は住友友純。長男芳夫は住友家第17代当主。住友金属工業専務、住友精密工業会長などを歴任した。 1912年1月1日生まれ。1936年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、1946年に住友金属工業に入社する。1962年11月取締役中央技術研究所所長となり、常務を経て、1970年11月専務に就任、1972年11月に相談役、住友精密工業会長となる。後に両社の監査役を務めた。この間、1953年(昭和28年)3月27日には「復元現象の研究」により東京大学から工学博士の学位を受け、さらに「ガスタービン並びにジェットエンジン用翼材の生産技術の確立」によって大河内記念賞を受賞している。
上林 与市郎(かんばやし よいちろう、1912年1月1日 -… 上林 与市郎(かんばやし よいちろう、1912年1月1日 - 1993年6月8日)は、日本の政治家。 日本社会党衆議院議員(6期)。社会民主連合顧問。 1982年勲二等瑞宝章、1983年羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)、1993年正五位。 山形県東田川郡泉村(現・鶴岡市羽黒町泉)に生まれる。 中央大学法学部卒業後、郷里に戻り、社会の民主化と新しい労農漁民運動の構築に専心。1947年、新憲法下における初の衆院総選挙旧山形2区から日本社会党公認で出馬。連続6期務め、阿部昭吾が秘書として仕える。 議員在任中は、衆院決算常任委員長などを務めたほか、社会党中央執行委員を歴任。加えて全日本農民組合連合会書記長に就き、農民組合組織の統一運動に尽力。
岸田 實(きしだ みのる、1912年〈明治44年〉1月1日 … 岸田 實(きしだ みのる、1912年〈明治44年〉1月1日 - 2012年〈平成24年〉12月12日)は、日本の台湾総督府官僚、国会職員。参議院事務総長、国立国会図書館長を歴任した。位階は正三位。 台湾出身。出生時より岸田氏に養子に出される。岸田氏は、京都府舞鶴市野村出身。岸田氏方の親戚には岸田久吉、岸田正吉などがいる。実父方の森氏は奄美大島で銃火薬を扱っていた家系である。実母方は大森氏で宮崎県出身。 台北第一師範学校附属小学校、台北高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学法学部卒業。台湾総督府に勤務。同総督府では、法制事務を所管する官房審議室、書記官、台南州北門郡郡守などを歴任。 終戦後は台湾総督府残務整理事務所で勤務後に日本に引揚げ、国会職員として勤務。
小関 藤一郎(こせき とういちろう、1912年1月1日 - … 小関 藤一郎(こせき とういちろう、1912年1月1日 - 2002年11月10日)は、日本の社会学者。 1912年、東京で生まれた。第一高等学校文科に入学し、1931年に卒業。東京帝国大学文学部社会学科で学び、1934年に卒業。同大学大学院に進学したが、1935年に退学。戦中は外地で過ごした。 1947年、三重県社会教育課長。1950年、三重県立大学専任講師となり、社会学を担当。1952年、南山大学経済学部助教授となった。1954年に同教授昇格。1960年、関西学院大学社会学部教授に転じた。1970年から1972年には、同社会学部長を務めた。1977年、学位論文『デュルケームと近代社会』を関西学院大学に提出して社会学博士号を取得。
木村 元一(きむら もとかず、1912年1月1日 - 198… 木村 元一(きむら もとかず、1912年1月1日 - 1987年4月7日 )は、日本の経済学者。専門は財政学。一橋大学名誉教授。井藤半彌門下。ドイツ流の財政社会学を日本の財政学に導入。 宮城県志田郡志田村(現・大崎市古川、旧・古川市)生まれ。 1928年和歌山高等商業学校(現・和歌山大学経済学部)に無試験入学。1934年東京商科大学(現・一橋大学)卒業(井藤半彌ゼミナール)、同大学大学院研究科に進学するとともに、高輪商業学校(現・高輪中学校・高等学校)等で教鞭をとる。 1945年に召集により第2師団入隊。同年終戦により復員。 1973年に胃癌が発見され東京女子医科大学消化器病センターで胃3分の1の切除手術を受ける。
法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)… 法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)1月1日 - 1995年(平成7年)3月12日)は望遠鏡製作者。静岡県焼津市生まれ。 鉄工所を経営するかたわら、日本初のパラボラ式電波望遠鏡の製作をはじめとし、約400台の望遠鏡を作った。その多くが天文台、研究所、大学で使用され、日本の天文学を支えた。「日本には、秘密の精密工場があるに違いない」と、世界中の技術者に言わしめた、天体望遠鏡製作の世界的権威であったが、本人は生涯を職人気質で通した。大胆かつ緻密な手法に、世界中の天文学者、技術者からの信頼を得ていた。 製作した主な望遠鏡には、美星天文台101cm赤道儀式天体望遠鏡、早稲田大学2.4m電波望遠鏡、栃木県子ども総合科学館75cm赤道儀式天体望遠鏡などがある。